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今回は、卑弥呼について少しお話ししたいと思います。私が特にフォーカスしたのは、大和政権(邪馬台国も含む)と特に関わりのあるシャーマンであった卑弥呼です。どうやら、これ以外にも卑弥呼と思われる人物(シャーマンとして祭祀を行い政治に影響力を与えた人物)は、九州や山口、その他の地域にもいたようでして、それが情報の交錯をますます生む要因の一つになっているようです。まずは、今回卑弥呼についてお話しするきっかけとなったのは、ジョーマクモニーグル氏が、卑弥呼の墓を特定しており(YouTubeで見れます)、そこに私も行って見て来たことにあります。ジョーマクモニ―グル氏によると、卑弥呼の墓は、現在、安徳天皇陵墓参考地として伝えられている場所にあります。その場所というのは、私が住んでいるところから車で約2時間程度で行ける場所にあり、前々から行ってみたいものだと思っていました。で、今回、初めてその場所に行ってみたわけです。あいにくの雨だったのですが。。。結論から言うと、「(そこが卑弥呼の墓かどうかは)私にはわからかなかった。」です。確かに、墓の中央部分に行きますと、ハートに強く反応するエネルギーを感じました。 そして、現地で少しだけリーディングもしてみたんですが、私にはどうしても卑弥呼の意識にはたどり着けないのです。様々な人の意識が交錯して出てきます。その中で伝わってきたものとしては、「ここは古代合戦場だ。よそ者は来るな。」といったメッセージです。もっと穏やかな女性も出てきましたが(卑弥呼ではありませんよ)、その女性も、上の武士のような人物と同様、もっともっと後世の人物のように感じられ、私が卑弥呼について聞いてみると、「・・・(昔そうであったということは)聞いております。」みたいな、穏やかですがあいまいな表現が返ってくるのみでした。場所の雰囲気は悪いものではなかったですが、知人によれば、近くにあった池にいたと思われる龍の雰囲気がよくなかったみたいです。知人が龍を開放したらしいんですが、その開放前の龍の影響が、私には来ずに知人のほうに来たのです。いわゆる聖地では(たとえば伊勢神宮)では、そういった身体への影響というものは皆無ですから、その地は平氏にゆかりのあるところと伝えられていることもあり、何かいろんな存在の意識が交錯している場所なのではないかなとも思いました。結論から言えば、私には、「そこが卑弥呼の墓であるとは感じられなかった。」です。では私はどう考えるのかを次にお話ししたいと思います。歴史に登場する卑弥呼は、邪馬台国の女王だったとされているようですが、まずは邪馬台国の所在地からお話ししたいと思います。邪馬台国は現在の斑鳩(いかるが)すなわち奈良付近にあったと感じられます。この邪馬台国と深いかかわりをもつシャーマンであった卑弥呼は、見た感じ、今でいうとショートヘアー風の20代くらいの女性で、物静かな感じです。容姿は私には厳密に細かいところまではわからないのですが、一瞬その雰囲気だけが伝わってきます。初代の卑弥呼は、斑鳩(いかるが)の地で亡くなっているようです。高次によれば、その墓は、「現存しない」と言います。ですが、その意味をよくよく探ってみると、卑弥呼は「王としてまつられている」からだと言います。卑弥呼(ヒミコ)という名前ではなくて。ですから、初代卑弥呼の墓を探しても、出てこない、こういったことみたいです。初代卑弥呼から見て2~3代くらいまでは、割とはっきりその所在がつかめそうなものです。(ちなみに、卑弥呼は役職名であり、人物名ではありません。したがって、一人ではないわけです)ですが、すでに2代目からは、「諸国の豪族によって葬られた」と出てきます。したがって、割と広範囲にわたって、複数の卑弥呼はシャーマンとして活躍していたのですが、各地で活躍していた卑弥呼は、その地の豪族によって独自のやり方で葬られている可能性があります。ですから、その正確な場所を特定するのは、困難かもしれません。もしかしたら、女性が宗教的指導者としてトップの地位に立つのは、当時はごくありふれたことだったのかもしれませんね。この辺ははっきりとはしないところもあります。ただ、大和政権(邪馬台国)とかかわりのある卑弥呼については、当時の政治的影響というのを強く受けているように感じます。とにかく、私に感じられたのは、卑弥呼が活動していた拠点というのは、西日本のかなりの広範囲に及んでいるということで、奈良だけではないですし、もっと瀬戸内や九州のほうにもその影響というのが感じられます。どの地域、時代の卑弥呼にフォーカスするかによってもずいぶんと状況は異なってきます。マクモニーグル氏は、卑弥呼は夏は奈良に、冬は山口にその拠点があったとされていますが、私には、複数の卑弥呼が同時期に別々の地に感じられます。ですが、歴史上有名な卑弥呼は、奈良の地でずっと活動していた(各地を転々としていたのではない)、そのように感じられるのです。
2012.04.30

今日は、近所の神社に寄った後で、映画『バトルシップ』を観てきました(笑)。いわゆる典型的なアメリカの正義は勝つ的なストーリーで、宇宙人と戦います(笑)。私が興味をひかれたのは、宇宙人と戦うに際し、アメリカ人と日本人が手を組んで共に助け合って戦うところです。今は、アメリカと日本は友人のような関係ですが、古くは、つまり第二次世界大戦中には、日本とアメリカは敵国同士でした。今でも、パールハーバーの件は、アメリカ人の心に深く残っていることと思います。ですが、お互いの友情関係において過去にそういったふるい傷があるものの、今は一致団結して、今度は宇宙人を倒すために戦っている。そこに、お互い主義主張は異なるものの、ともに共通の目的を持って一致団結して何かを成し遂げようとするあたりに、私はいわゆるワンネスに向かう一種の暗示が感じられてきます。そんな大げさな、と思われるかもしれません(笑)。しかし、ワンネスへの一歩は、そういったごくごくささいでありふれたことから始まる気がしています。映画ですが、戦闘物が好きな方にとっては、楽しめるかもしれません(笑)。さて、冒頭でもお話ししましたように、今日は早朝に近所の神社に寄ってきました。まあ、たまたまその近くに行く用事があったので、神社の駐車場を利用させてもらうついでに参拝させていただきました(笑)。この神社は、変わった神社でして、一言でいうと「地球意識と直結している」とでも言いますか、第3、第4チャクラにエネルギー的に強く感応するエネルギースポットです。非常に小さい神社なんですが、川辺にひっそりと建っています。もとは別の場所にあったみたいなんですが、江戸時代くらいに今の場所に移されたらしいです。神社はどこでもエネルギー的に感応するわけではなくて、いわば相性のようなものがあると感じます。エネルギー的に強く感応するところは、神社の大きさに関係なく感応します。しかも、神社の主催神の系譜によっても、大きく左右されてきます。私の場合、伊勢神宮、稲荷系神社との相性がいいみたいです。今日行ったのは八幡宮なのですが、ここは神社との相性うんぬんというより、「この地が青龍すなわち地球意識と直結している」と言ったばかりの強烈なエネルギーが、「神社の各ポイントごとに異なって感じられてくる」のです。今日、気づいたのは、青龍が感じられる境内の小さな社で光の柱を建てていた時のことです。地球の源(ひいては宇宙の源)につながるもっとも手っ取り早い方法は、「感謝の気持ちから入っていく」方法です。何に対する感謝か?なんでもいいんです。命があることに対する感謝ですとか、ありとあらゆる物事に対する感謝の気持ちです。そこから「入って」行きますと、ダイレクトに源につながることができます。変性意識に入る必要もありません。フォーカス35に行かなければ愛を感じられない?もうそれは古い考えです。我々は、「C1において感謝想起によって愛の源にダイレクトにつながることができます。」本当にそんなことが可能なのか?可能か否かというより、「できる」のだと言うほかはありません。あとは、私自身で確かな効果を感じられるのは、霊線の浄化です。いわゆる霊線というのは、肉体と魂のご先祖様のことだと、簡単にここでは述べておきます。この霊線の浄化の効果はものすごいもので、たとえば肉体のご先祖様の意識の流れとつながると、ものすごいエネルギーが流れてきます。念のため述べておきますが、「セロトニン」ではなく「(非物質的)エネルギー」です(笑)。」これは、ご先祖様の意識の流れを浄化すると意図してそこに意識を「向けるだけで」、その反射効果としてエネルギーが自分自身に返ってきます。意識を先祖に向けるというのは、自分自身が愛のエネルギーを送る行為です。その結果は、全宇宙の創造の源を経由して、自分自身に「還ってきます。」その結果が、ご先祖様から感じるエネルギーなわけです。もっとわかりやすく言いましょう。あなたが今ここにいるのは、ご先祖様があるから。だから、自分を誕生させてくれているそういった意識の系譜に感謝する、こんな感じです。言葉にすると、必ず誤解を招きます。ですが、言葉で伝えるよりほかに方法を知りませんから、誤解を受けることを承知で今お話ししています。話を戻しますと、エネルギーの流れを感じ取る絶好の場所が、あなたのお近くの神社にもあるのだということです。ちょっと足を伸ばせば、一つくらいはそういった相性のいい神社があるはずです。自分自身を見つめなおす意味でも、ぜひ休日などに行かれてみてくださいね。最後に、私の身内のリトリーバルの話をしたいと思います。正確には、リトリーバルしようとしたんですが、例によって高次に止められました。身内ですから、一瞬私も心が動きます。ですが、絶妙のタイミングで、祖父と祖母の姿をした高次の印象が感じられ、首を横に振ります。「何もするな。」と。ですから、私は身内を放っておくと、やがて身内はその幻想から覚めたのか、より意識が拡大した状態で、上の領域へと「自分で」上がっていくのが感じられてきました。こういった印象というのは、私の場合、変性意識に入らなくても感じられてきます。非物質的な事情の独特の見え方というのがあるんですが、そういった印象を直感的に感じ取り、文章にすると上のように長いですが、ほぼ一瞬で上のような光景を「感じ取ります。」その身内というのは死者ではなく生存しているので、いわば生霊ということになるんだろうと思います。ですが、私に言わせれば、生きているか死んでいるかは大して問題ではなく、事情はあまり変わりません。苦しみの中にいるビジョンが、その本人が作り出している幻想であり、それに対して介入するなと高次からインスピレーションを与えられ、様子を見ているうちにその身内が自分自身で解決して囚われ状態を昇華していく様子を、ほぼ一瞬の間に感じ取った、こんな感じです。人間というのはこうして自分で自分を助けていくんだなと思いなおした次第です。
2012.04.29

>他人に頼らず他人を責めずただ自分を見つめてきたつもりなのですが、迷宮から出られないので、ヒントをください。原発事故を受け幼い子供の健康を心配して母子で西に避難した者です。いま瓦礫受け入れに危機感を抱いています。(人それぞれ安全性や被災地への想いがあると思いますが、この点は勝手ながらおいといてください)以前は友人知人達の健康も心配なので危険性を呼びかけてみましたが、福島から遠い地では気にする人も少なく、逆に責められることも多く口に出すことをあきらめました。自分の考えを押し付けるのも嫌だし、人を責めるのも違う。まず今の自分にできるのは子供を守ることだと。しかし国は汚染を拡大させようとしています。自分の心や生活を見つめ大切にしても、このままでは安全が脅かされてゆきます。震災と原発事故で命や健康の大切さ、なんでもない空気や水や大地の有り難みを深く痛感したつもりです。もうただ受け入れるしかないのでしょうか。関東に残る友人の子供などが現にジワジワと健康を害されているのを見ながら、安心できる空気や食べ物が消えていくのを見ながら、毎日残された幸せを大切にしていく。。。陳腐な表現ですが、心が壊れそうです。がれきが来ることや子供さんのこともあるのでしょうけれども、おそらく一番の不安の原因は、「あなたの命が脅かされるから」なんだろうと思います。きびしいことをいうかもしれませんが、日本全国もう安全なところはないですよ。いつどこに自然災害が来てもおかしくない時節です。腹をくくってください。 迷宮から出る方法としては、1.死そのものと向き合って、腹をくくること。もしくは、2.死は存在しないのだと心底理解したうえで、腹をくくること。が考えられます。あなたはどちらを選択するのか、ご自分で決めてください。子供を守りたいということですが、ご自分で出来る範囲で構わないと思います。 放射能は、逃げても逃げても追いかけてきますよ。じゃあ、どうするのかは、ご自分で考えてください。私があなたの立場ならば、今置かれた状況下で自分や子供たちのために最善を尽くします。だれかのせいにする時代は、もう終わりです。 Some rights reserved by uniquegarden
2012.04.27

先日、このブログでも取り上げましたが、京都で痛ましい自動車事故があり、さらにその後無免許運転による少年の暴走事故が、そして今日も千葉で自動車事故があり、亡くなった方がおられたようです。このように事故が連鎖するというのも、あってはならないことですが、連鎖させる何かがあったのでしょうか。亡くなった方のご家族の気持ちを察しますと、運命というだけではかたずけられない、やりきれない思いがおありのことと思います。人の命とははかないものですが、はかない命であっても、それがあるだけでありがたいものです。死は存在しないと言いましても、この世での命は有限なものです。貴重な命を、有意義に使いたいものですね。祖父に先日会いに行った時にも、自然災害などによって、我々は命の大切さを学ぶことができるのだと言われました。人為的な事故は自然災害とは発生原因は異なりますが、失われる命の重みに変わりはありませんから、そういった意味においても、残された者は、与えられた、限られた命を大切にして、それを自分や「自分」のために生かしていきたいものだと思いました。話は変わりますが、ちょっと前に、アセンションが起きる仕組みについてお話ししたことがありました。周波数が変化して、地球を取り囲む次元にゆがみが生じ、さらに高次元へと周波数帯域が上昇していくという話です。あの時に、なぜディセンションのプロセスについて触れなかったのか、お気づきになられましたでしょうか?あれは、意味があって触れなかったんです。あくまでこういった非物質界がからんだ話というのは、自分中心に考える必要があります。私から見て、世界がどのように映っているのかという視点です。私はどういうわけか、我々にとって必要なのは、アセンションのプロセスであって、ディセンションのプロセスについて述べる必要はないと感じました。それはおそらく、私と多くの部分で意識を共有されておられる方々が、アセンションの道を選ばれるからなんだろうなと思います。バシャールなどの情報、あるいは私自身が調べたところによれば、これからは人類が二極化されるということが分かっているからです。あの時私は、ディセンションのプロセスについては悪影響が及ぶからいけないとか、そういった理由で公開しなかったのではなくて、「すでに我々は、今ここにおいて、アセンドする道を選んでいることが手にとるように感じられた」からです。社会では、冒頭で取り上げました事故にあるように、いろんな意味で不安要素はあると感じられる方もおられるかもしれません。人によってその対象が何であるかは異なりますが。ですが、何があっても大丈夫なんだという、意味のない確信も、時には必要なことがあります(笑)。私は基本的には能天気ですから(笑)、今世間で生じていることの中で不安材料というのはありません。まあそれどころではなく、生きるのに精一杯だからかもしれませんが(笑)。あらゆる困難があったとしても、それを無事に乗り越える(クリアする)のに最も有効なのは、今まだ命があることに感謝する気持ちなんだと思います。あるいは、呼吸できることの喜びです。どんな瞬間かはわかりませんが、生きていると実感できる時があるはずです。ぜひそういった命の瞬間を感じてみてください。素晴らしい恵みに感謝します。ありがとうございます。 (写真:ナショナルジオグラフィックhttp://www.nationalgeographic.co.jp/)
2012.04.27

その昔、弥勒菩薩なる存在に会った時のことです。弥勒菩薩に究極の愛とは何かを聞きました。すると、弥勒菩薩は、「それは自分自身をとことん愛することだ。」と答えました。私はすかさず、「でも、それって一歩間違うと危険ではないですか?」と聞きました。すると、弥勒菩薩は、それはそうなんだが、今自分はその道に励んでいるところだと答えました。自分自身をまずは愛する、これが基本みたいです。それをせずに、なんらかの正義を振りかざして原発反対などと叫んだところで、無駄です。ここで言う無駄というのは、「そんなことをしても世の中は変わらないよ。」という意味ではありません。でも、それよりも、基本的なベクトルが正反対です。ベクトルが、自分ではなく、他(者)批判に向き、それが反転して、自分自身の否定につながっている。こういうことって、皆さんありませんか?世の中を変えようなんて、大それたことは、私にはできません。私ができるのは、自分自身の内面と向き合って、自分自身を変えることだけです。そういう方は、気づいていないんです。他(者)批判が、自己批判になっていることを。これも最近高次から言われたんですが、言霊(ことだま)というのは、単なる言葉ではなく、「エネルギーをもった実在」なんです。必ず、それを発した自分自身に跳ね返ってきます。他を批判すると、翻って自己批判として、ブーメランのように「自分自身に返ってきます。」だから、もしあなたがそういう人ならば、「不安を感じるかもしれません。」自分は今正しい方向に進んでいるんだろうか。。。ちゃんとアセンションできるだろうか。。。でもね、それを「外部に確かめようとしたって」、無駄ですよ。外に見える現象はすべて、あなたバージョンの世界だからです。他にも無数にバージョンは存在しており、あなたの直面しているバージョンは絶対的な基準になるものではないからです。じゃあ、どうすればよいのか?外を変えようとせずに、まずは自分を変えることです。自分を変えれば、常に外に情報発信するようになるのか?ならないと思います。むしろ逆です。金輪際、人を変えようなんて、これっぽっちも思わなくなるでしょう。外に向けて情報発信すらしなくなるかもしれません。このC1世界は、いろんな人と交流できますよね?今はチャンスだとも言えます。そのチャンスを生かせるかどうかは、あなた次第だと思います。もちろん、私も含まれていますよ、ご心配なく。バシャールは、「グレイ」ですが、一応ポジティブ存在として知られています。ですが、バシャールが我々を援助するのは、「自分のため」という側面があります。いわば、自分で自分を助けようとしているわけです。でも、今ここにいる人間は皆、大なり小なり、自分で自分を助けようとしているからこそ、今この時期をあえて生まれてきています。世の中を変えている暇なんて、ないですよ。変えるのは自分です。ベクトルが正反対だと、また堂々巡りですよ。バシャールは「グレイ」ですが、自分で自分を助けようとしています。我々もそうすべきです。Some rights reserved by alana sise
2012.04.26

今回は少し、宇宙の話でもしようと思います。あくまでも私の世界観であることを始めにお断りしておきます。スピ系の人ならば、たいてい、いわゆる究極の存在について考えたことがあるのではないかなと思います。「ひとつなるもの」、「創造主」などと言われたりするかもしれません。究極的にはワンネスにいたり、「ひとつなるもの」にまで至るとしても、それを越えた部分はいったいどうなっているのでしょうか。「ひとつなるもの」を「有」だとすると、「無」というのは存在するのでしょうか。つまり、「ひとつなるもの」が誕生する前(時間的)、あるいは、それが存在していない領域(場所的)というのはあるのでしょうか。これについて高次に聞いてみると、「有」の奥にも「有」があると言います。「有」の奥には「無」があるわけではないみたいです。つまり、我々の時間の感覚からすれば、「はじめから」「有」しか存在していない、こういうことになります。また、我々の場所的な感覚からしても、何もない「無」の領域は存在していないらしいです。「ひとつなるもの」はあらゆるところに偏在していると思われますから、どこを探しても「ひとつなるもの」が存在しており、「無」である部分というのは考えられないわけです。 そもそもなんでこんな話を高次としていたのかというと、私が高次と共に、複数の宇宙が交錯するエネルギーポイント(時空の境目。エネルギーの通り道。噴出口。このエネルギーの交差ポイントがあるから、別宇宙にも行き来できるみたいです。)を越えた時に、「ロバートモンローは、仲間を最後まで集めないと越えられない領域があると考えていたみたいだが、そういったことは本当にあるのか?」ということを私が高次に聞いた時、「そういったことはない。」と言われたのがきっかけでした。私は、もし究極の源(「有」の極限)というべき場所が存在していて、そこを超えられないとすれば、仮にそこを越えた場合には、「無」の領域が存在するのではないかと思ったのです。ですが、高次によれば、越えられない領域というのは存在しないのだと。しかも、「有」の極限を越えれば「無」があるのではなく、その先も「有」だと言ったのです。 ちょっと前に、宇宙というのは、我々人間との間で相似象の関係にあるとお話ししました。つまり、我々が宇宙ととらえているものは実は、我々の内面を見ているに等しいということです。その意味では、外宇宙=内宇宙の関係が成り立っています。そうすると、もし宇宙が「有」の先に「無」ではなく「有」しか存在しないとすると、我々の内宇宙も「無」は存在せず「有」しか存在しない、こういうことになってきます。つまり、宇宙というのは、外に向かっても、内に向かっても、「無限に」「有」が続くという逆説的とも思える関係が成立しているということになります。「無限に」何かが「あり続ける」なんて、ちょっとした矛盾のような気がしませんか?我々の通常の感覚からすれば、物事には終わりがあるのが当然とも思えるからです。最近、宇宙探索はしなくなりましたが、盛んに宇宙探索をしていた頃の私なりの結論に、我々の物質宇宙は太陽系までで、太陽系の外は非物質界であるというのがありました。ちょっとというか、かなり信じ難い話ではありますが、驚いたことに、他のチャネラーの方で同じことを言っている人が何人かいるということも、探索後だいぶ経ってからわかりました。まあ、検証しようがないので、最終的には何を信じるかということになってきますが、我々が何の疑問も抱かずに生活している中でも、不思議なことはたくさんあるものだなと、最近思います。我々は「宇宙」と「自分」とを切り離して考えますが、本当は「宇宙」=「自分」なのではないか。そうすると、別宇宙といっても、それは今の自分の宇宙とは異なったバージョンの宇宙、すなわちパラレルワールド的世界観が妥当するのではないか?などとも、最近少し考えたりしています。つまり、へミシンクを使えば無数にあると思われる別宇宙にも自由に行き来できますが、それは単に異なるパラレルワールドに移動しているだけなのではないか?実際、先ほど述べた宇宙と別宇宙との交点(これを高次は「スターゲート」と表現していました)ですが、そこは光のトンネルを抜けるような印象があり、そこを抜けるとなぜか一面の花畑でした。つまり、別宇宙に行ったはずなのに、なぜか地上のような世界が現れて来たという矛盾。これこそつまり、外宇宙での旅は、内宇宙でのパラレルワールドを行き来しているだけなのではないかという風に私には思われるわけです。 もっとも、誰もこんなこと言っていませんからね。まあ、少数説ということで(笑)。誰も探索していない領域を探索するのが、私のやり方ですから。今日も皆様にとって素晴らしい一日でありますように。(写真:ナショナル・ジオグラフィックよりhttp://www.nationalgeographic.co.jp/)
2012.04.26

前回の続きですが、自分自身と向き合うというのは、何も世間で反原発を唱えることではありません。自分自身と向き合うというのは文字通り、字義通り、自らの内面を見つめなおすということです。他人を批判するということではなくて。まあ、私も含めてですけれども、他人を批判したところで、何も変わらんでしょう?現実世界を見つめるというのは、「自分の」現実世界を見つめるということですよ。自分が今置かれている状況を見つめ、それと向き合い、自分で自分をよりよい方向に導いていくことです。ですから、他人を変えようとする必要は、全くないわけです。そんなことをしても、無駄です。人間には、いろんなタイプがいます。よくしゃべる人、寡黙な人、派手な人、そうでない人。世間でリーダーシップをとるようなすごいお父さんもいれば、農村で家族をかげで支えるお母さんもいます。皆、それぞれの役割を演じつつ、自分自身の人生を生きています。でも、はたから見れば、すべて他人の宿題です。だからこそ、見つめるべきなのは、自分自身ということになります。だからこそ、大切なのは、他人ではなく自分自身を見つめるということです。some rights reserved by gdbwb05
2012.04.25

人間の死とは、単に肉体という衣(ころも)を脱ぎ捨てて別の世界へと旅立つ現象にすぎないということを私が知るきっかけとなったのは、前回お話したような、いわゆる死者との対話をするようになったからでした。その最初のきっかけというのは、このブログの初めに書いてありますように、へミシンクを通じたリトリーバル(救出活動)でした。私は誰よりも疑り深い性格ですから、本当に死者と交信しているのかを判断するにあたり、多数の人との共有体験(共同探索)というものを重視していました。その最も大きな転機となったのは、ケヴィン・ターナー氏の救出活動のセミナーに出たことでした。実際にあった事件を使い、その事件当時に参加者皆で行き、救出活動を行い、事後報告を皆でして検証作業をするわけです。その中で、記事にも書いたような、通常の確率を超えたところで事実の整合性がとれてきました。ケヴィン氏のセミナーに参加した後も、私はセミナーを通じて知り合った友人と共同探索を重ねていき、他方でブログを通じて呼び掛けて集まった仲間と共に共同探索をすることで、非物質界が実際に存在することの確信を深めていきました。我々の感覚からすれば、人間は死んでしまえば、もう連絡はお互いにとれなくなると普通は考えますよね?ですが、死後もなお、特に親しい者との間では、心と心が通じ合っていることはよくあることなのです。夢の中でお互いに意思疎通をしたり、あるいはふいにその人物の印象が浮かんできたり。そういった時には、実際にその人と心が通じ合っていることがあります。むしろ、死という壁で区切ることは不自然ですらあり、生きている、死んでいる(実際には死んでいない)に関わらず、我々は人間同士であり、シルバーバーチではありませんが、愛によってお互いがひきつけられているのです。死者が目に見えなくても、声が聞こえなくても、ちゃんと気持ちは通じている。そういったことが実際にあるわけですね。我々の現実世界というのは今ここの世界なわけですが、前回お話ししたように、今ここで生きているのは、地球にいる我々だけではなく、およそ「地球圏」と前回呼んだ領域にいる人間すべてそうです。本当は、隔たりというものはなく、すべてが一緒に今ここで生活しているわけです。原発をなくそう、それ自体は結構なことです。ですが、たとえどんな環境においても、我々は人とのつながりをもって心のつながりを保った状態で生き続けていること。あるいは、人と人とのつながりや、他人へのやさしさ、配慮、思いやり、そういったあたりまえのことを、もう一度思いなおす時期に差し掛かっているように思います。我々には、日々の生活の中で出来ることと出来ないことがあります。環境を変えることも大切ですが、環境の「中で」生きる視点も大切だということです。ネガティブな感情から目をそらさないで向き合うことが大切ですよ。でも、それは字面(じづら)だけの問題ではありません。日々の生活の中で、それぞれが出来る限りのことをしていく中で、職場や学校その他人間同士の中で生まれてくるいろんな葛藤や、自分自身がいやだなと相手に見る部分、その他人間関係の中で生まれてくる様々な感情を、しっかりと見つめてみて、その感情に囚われている自分自身を開放してあげます。そこに囚われなくてもいいんだよということに気付いていきます。そうやって、「自分自身を」許して、認めていき、さらに自分自身を自由にしていきます。「自分自身の人生としっかり向き合うこと。」それが出来ていれば、その人がどんな環境に置かれていようとも、社会を変えようという積極的な活動に参加していようとも、いまいとも、その人にとっての人生は実りあるものになるはずです。さらにできれば、自分自身が今まで持っていた価値観や社会生活の中であたりまえだと思ってきた因習や常識をいったんわきにおいてみることも、さらなる自己成長のためには有益なことだと感じます。その一つのきっかけが、「人間は死んでも死なない。」という真実に目を向けることだと、私は自分自身の経験からそういう風に考えています。広い意味での「自分」とは何か、そのことを知ろうとすることは、自分自身の人生を通して(他人のではなく)自分自身の経験から生まれてくる、進化(自己成長)のための原動力となるものです。 「自分自身の人生としっかり向き合うこと」というのを、次のように言い換えてもいいと思います。「生きることの意味を考えること。」それは、自分自身の生活や人生を見つめなおし、人生をより有意義で実りあるものにしてくれるということです。その一つのきっかけが、何が自分にとっての真実なのかを追究していく姿勢です。その意味では、常識にとらわれない、生活にどっぷりつかりながらもどこかで達観して生きる姿勢は大切かなと思います。それにより、「なんとなく生きている。」から、「自分が選んだ人生を、今ここでポジティブに生きていく。」ことができるようになると、私自身は考えています。Some rights reserved by BONGURI
2012.04.25

叔母に別れを告げたあと、私は途方にくれました。今いるこの現実世界においては、リアルさはあるんですが、その分、この世界と別の世界とどうやってコンタクトというか、行き来をしたらいいのかわからない、そんな感覚です。どうやって気付いたのか、私は内なる感覚を使うことで他の領域とアクセスできることに気付きました。モンロー研クリスタルならその印象を頭に浮かべます。すると、そこまで一瞬で行けることが「感覚的にわかります。」あるいは、生まれ変わりのための再生センターであればそれを思い浮かべますと、また瞬時に印象がわいてきてそこまで一瞬で行けることや道筋なんかも「感覚的に浮かんでくる」感じです。つまり、以前ちょっとお話ししましたが、フォーカス27には、場所的な距離感覚というものはなく、すべての場所が放射状にネットワーク構造として「意識の上で」つながっているような状態です。ふと、私は、そういえば祖母は今どうしているのかなと頭をよぎりました。祖母はまだフォーカス27にいるかなと思ったんです。すると、祖母の印象が次第に強くなってきました。祖母は今、フォーカス35にいると感じられてきました。そこで、私は祖母に会うべく、フォーカス35の祖母がいるところへと意識を向けました。祖母がいるフォーカス35にも、瞬時に移動することができます。モンロー研で言われているように、地球コアからジャンプする必要はありません(笑)。あくまでも私の体験ですからね。誤解なきように。人それぞれ何だと思います。祖母は、私への配慮なのか、生前、病院で寝ていた時の様子を私に見せてきましたが、私はそんなことをしなくていいよという思念を無意識に送っていたのか、祖母がフォーカス35でとっている姿で現れてきました。びっくりするほど若返っていて、とてもほっそりしている印象です。祖母は生前、太っていましたから。見た目、そうですね、20代くらいでしょうか。祖母の印象とともに、祖父の印象もやってきました。祖父と祖母が一緒にくらしているのかどうかはわかりませんが、いつも二人は一緒に私のところに現れてきます。祖母に、今いる世界(フォーカス35)について聞いてみたんですが、よくわからないみたいです。ここ地球なの?という印象を投げかけてみたんですが、そうじゃない?みたいな印象が返ってくるだけですから(笑)。でも、祖父は違いました。祖父は、明らかに祖母より、いろんなことを知っていました。自分が今いる状況についてや、これからの進化の道筋なんかについてです。祖父によれば、フォーカス35とモンロー研で言っているレベルというのは、地球圏らしいです。地球圏なのですが、地球圏の一番端(はし)に位置するのだとか。物理的位置関係は成り立たないはずなのですが、祖父は感覚としてそういった位置関係で把握しています。我々の感覚に近いのは、地球圏を若干離れて、宇宙ステーションで生活しているような感じです。祖父に、フォーカス27について聞いてみました。すると、フォーカス27というのは、もっともっと地球よりなのだと言います。あの場所はだれが作ったの?と祖父に聞くと、わからないと言います。わからないけれども、自分がそこに行ったときには、すでにそこにあったといいます。祖父によれば、死後に、どの場所で生活するのかは、驚いたことに、自分で決められると言います。でも、叔母の場合は違いましたから、進化の程度によると言うことになるんだろうと思います。とにかく、祖父の場合には、フォーカス27(地球により近いところ)で生活するのも自由でしたし、今のように、フォーカス35(地球から離れたところ)で生活するのも自由だったみたいです。私が「でもフォーカス27とフォーカス35は振動数が違うんじゃないの?」と聞くと、驚いたことに、振動数は自分で変えられるといいます。祖父にとっては、どこが一番心地よいと感じられるかを基準として、今いる場所すなわちフォーカス35を選んだみたいです。ただそれだけみたいです。私はふと、モンロー研で言われているような施設の存在についても気になったので祖父に聞いてみたんですが、祖父は知らないという様子でした。私から見て、かなりの進化レベルにある祖父です。その祖父が知らないというのは、あのモンロー研で言われている施設というのは、いったい何なのかということをもう一度考えるきっかけを私に与えてくれた気がします。もちろん、モンロー研の施設もリアルに存在しているんですよ。それは間違いないんですが、向こうの世界の興味深い特徴とでもいいますか、場所と場所との連続性がなく、あるのは特定の場所というエネルギースポットと、別の場所というエネルギースポットが、意識といいますか、意思といいますか、何かネットワークのようなものでつながり合っているのだと言った、言葉にならない印象です。ですから、進化したものでも知らないことはたくさんあるわけです。ですが、特に叔母とは明確に異なった、「今現在自分が置かれている状況の把握」というものが、祖父にはできていました。ちなみに、祖父にトータルセルフは知っているかと聞いてみたところ、なんと言ったかな・・・確か「大いなる自己」といった表現をしたと思います。それが、なんと自分の内面に感じられると言うではありませんか。これは明らかに我々や叔母とは違った感覚です。祖父は、野球場やディスクのような形としてトータルセルフを把握しているの「ではなく」、自分の内側に、自分以外の自分がいて、その総体が「自分」なのだということに気がついていました。その感覚というのが、私にもなぜか伝わってきます。祖父が自分以外の自分を感じている時の様子をです。祖父の感覚からすれば、これから再生するのかどうかといったことは、内なる自分の感覚や、祖父が招いてきた友人達(おそらくガイド的存在なのだと思います)との議論によって深められていくといった印象を受けました。ですから、モンロ研のように、生まれ変わりのためのセンターがあるわけではないのではないか?そんな印象を受けました。祖父に輪廻は抜けたのかと聞くと、最初、抜けていないと言いました。ですが、祖父によれば、それはいまだに輪廻している自分を感じているという意味だったみたいです。ですが、祖父は、今のところ、地球に生まれ変わる(再生する)予定はないのだとか。祖父は明らかに、輪廻している自分とそうでない自分を感じ取っていました。つまり、我々が知っている知識に照らすと、自分の感覚が「自分」すなわちトータルセルフの感覚に近いわけです。祖父は今のところ、次の進化の階梯を歩んでいるという印象がやってきましたが、それはどうやらフォーカス42みたいです。ですが、フォーカス42についての印象が祖父からあまりやってきませんでしたから、祖父もそこまで進化してみないとよくわからないのだと思います。とにかく、向こうの世界では、こういったことはよくあります。自分がいる世界までについてはわかるが、そこから上の世界がどうなっているのかよくわからないということです。祖父に、我々の世界は今、自然災害などで大変なんだよという印象を投げかけてみると、祖父はそれは「命の大切さを学ぶためだ」といった印象を返してきました。同時に祖父は、以前私に見せてくれた果樹園の様子を投げかけてきました。植物を育てることは命をはぐくむことなんだ、今お前たちは、命の大切さを学んでいるんだ、そういったことが言いたいみたいでした。別れ際、祖父から強烈なPUL(日本語では『純粋な無条件の愛』と訳されます)が送られてきました。ハートにしみわたるような、力強いエネルギーです。私には別れ際、何をするのか直感的にわかりました。我々は別れ際、あいさつをしますよね?それが、フォーカス35では、相手に愛の気持ちを送ります。だから私は、祖父母に、自分の愛の気持ちを送りました。すると、そのお返しに、祖父から、強烈な愛のエネルギーが送られてきたのです。我々の本質というのは、愛であり、愛を放つ存在なんです。これは、理屈で何と言おうが、どのように考えようが、変わらないと思います。体験こそが真実であり、体験してはじめて自分が愛そのものであることに気付きます。この前、本来の自分から、愛とはネガティブな感情も含まれると言われましたが、それとは別に、あー、これが愛なんだなと思わせられるような、エネルギーの感覚というものが確かにあります。それを知ると、確かに我々は、愛でできているんだなと実感できます。人に対しての見方も変わっています。そこから、すこしずつ、世界観も変わっていきます。それが、今ここの世界なんだと思います。 Some rights reserved by Naomi Ibuki
2012.04.24
最近の気づきと言えば、フォーカス27についてです。フォーカスというのは、へミシンクの世界(と仮にいつも呼んでいます)で言われる、人間の意識状態についてのラベルのようなものです。フォーカス27は、死者のための様々な施設がある場所と考えられていて、亡くなった人はそこで癒されたり、次の転生について考えたり、前回の人生を振り返ったりすると考えられています。モンロー研の考えでは、物事をシステマティックに考える傾向があるように思います。信頼出来るへミシンク関係者の本を読めば、およそフォーカス27についての概要が私の説明よりもわかると思いますので、興味のある方は一度読まれてみるといいと思います。ですが、最近私は、モンロー研で言っているようなフォーカス27の世界とは異なる世界を「同じフォーカス27というラベリングで」感じ始めています。簡単に言うと、フォーカス27というのは、もっと我々の現実世界に似た世界なのではないか?と感じることがあるのです。自然な街並み。道路があり、車が走り、住宅街があり、人が歩いている。そんな感じの、我々の世界にどこにでもありそうな感じの風景が見えてくる。つまり、死によって振動数が我々よりも高くなりますが、基本的な生活は何も変わらない。そんな領域がフォーカス27にはあるのです。その世界というのは、あくまでも死者のための世界であって、我々が夢で遊びに行く世界とも異なるように感じられます。では、モンロー研で言われているような、様々な施設というのは、あれはいったい何なのか?私は、よく非物質のモンロー研にある巨大クリスタルをフォーカス27の探索拠点として使わせてもらっています。非物質的にクリスタルを見ますと、現実世界にあるよりももっと巨大に見えます。そこからクリスタルの中に入りまして、エネルギーチャージをしつつ、そのままフォーカス27地球コアに向かいます。地球の中心部ですね。そこからフォーカスレベルを上げていきまして、標識を使って一気にフォーカス42地球コアまで行きます。このルートは一般に知られているのかどうかわかりませんけれども、私が長年にわたって使用しているルートです。そこでさらにエネルギーチャージをします。ちなみに、フォーカス42地球コアは、7色にさんぜんと輝く巨大クリスタル群に見えます。クラスター状になっていて、光が四方八方に放射されている感じがします。そこから、まずは、フォーカス27の探索として、ある場所を呼び水に選びました。そこは偶然発見した場所なんですが、地球上のごくありふれた住宅街に見えるところです。ですが、そこはフォーカス27なんです。私は、他界した叔母がフォーカス27に住んでいることを知っていましたから(以前ブログでもご紹介しました)、叔母をまずは尋ねてみることにしました。叔母がフォーカス27について何か知っているのではないかと思ったからです。叔母は今、家族で暮らしているのですが、私が少し戸惑っていると、気兼ねなく中でくつろいでいったらいいと家の中に入れてくれました。フォーカス27では、情報は瞬時にやってきます。普通、我々は、自分がいる周りの様子を見て、ああ、あそこに椅子があるとか、写真が飾ってあるとか見てわかりますよね?ですが、フォーカス27の場合は、まずは印象が先にやってきます。写真でしたら、写真が目の前に浮かんでいきます。私が見たのは、叔母が生前暮らしていた家族の写真でした。ですが、叔母は今は再婚して別の家庭を持っているんです。ですが、叔母はちゃんと生前の家庭も写真として残してありました。叔母の感覚は不思議なんです。叔母にとっては、自分がガンで亡くなったというのではなく、家族が亡くなったという感覚がどこかにあるみたいです。だって、自分は今こうして普通に生活しているんだから、という感じです。ですが、叔母はそれとは別に、生前よりもいろんなことを見通すことができるようになっているような印象を受けました。ですが、叔母にとっては、フォーカス27ではありますが、そこはまぎれもなく日本であり、世界中のいたるところもそこにあるという認識を持っているように感じました。試しに、叔母にモンロー研で言われているような、再生について計画するための場所ですとか、いろんな情報を知るための図書館(アカシックレコード)ですとか、そういったものがあるか知っているかと聞いてみました。すると、叔母は知らない様子でした。初めて聞くと言った印象を受けました。とにかく、その時に感じられたのは、「そこに住んでいる人にとっては、その住んでいる領域については現実世界と何一つ変わりなくリアルであり、もちろん詳しくわかるが、そことは別の世界については何一つわからない。」といったことでした。感覚的には、情報が遮断されている感じです。ですが、そこもまちがいなくフォーカス27なわけです。ちなみに、叔母と話しているときに、新しい家族の印象が脳裏によぎりました。というか、感覚的には、家の中にその家族をちらっと見るような感じです。小さな男の子と女の子の印象を一瞬感じ取るわけです。ですが、今はそこにはいない。これは、先ほどの写真を目の前に感じ取った時とよく似ています。情報をリアルに、かつ瞬時に感じ取る能力が、フォーカス27では発達しているというような印象を受けました。
2012.04.24

今日はまずは、過去世体験からお話します。時代は、17,8世紀のイギリスのようです。自分は女の赤ちゃんになって貴婦人のような女性に抱かれているようです。最初、あれ?なんで自分は猿になっているのだろう?と思ったりもしたんですが(笑)、よく探ってみると、猿ではなく人間でした(笑)。私はこの時、高次の存在と旅に出ていました。高次が私にこのような情景を見せてきたのです。何が言いたいのだろうと思っていました。高次とのやりとりでわかってきたのは、一言で言えば、「現実とは、その人にとっての真実であって、その人意外にとっては真実かどうはわからないものだ。」といったことでした。それは、過去生もそうですし、パラレルワールドもそうです。過去生・未来生も、パラレルワールドも、似たようなところがあるのだとか。つまり、その体験者にとってはまぎれもなく真実ではあるが、体験者でないものにとっては、本当にあるのかどうかはわからない、こんな点においてです。ですから、見方によっては過去生・未来生も、パラレルワールドも、ないと思えばないですし、あると思えばあります。つまり、その世界で生きている人にとってはまぎれもなく真実であっても、その世界で生きていない人にとっては、真実とは限らない、こういうことになってきます。しかし、高次の目から見て、過去生・未来生も、パラレルワールドも、存在することはしている、どうやらそう考えているらしいことが雰囲気として伝わってきました。それが特に伝わっていたのは、パラレルワールドが存在しないと主張する人がいることを思念として送った時でした。それに対する印象として、高次からは、「それはその人がすべての事情を見通すことができないために起こるのだ。」といった思念が返ってきました。つまり、我々の視点から見れば、どのように考えようとも自由なのですが、限られた視野ゆえに、意見の相違が生まれてくる、どうやらこういったことみたいです。ですから、まあ、どのように考えてもいいのだと思います。様々な印象がときおり交錯する中で、話の焦点はヒーリングへと移りました。私がごく身近な人にはヒーリングをしないわけではないといった印象を投げかけると、高次は私に、ヒーリングは本来科学的なものなのだといった印象を返してきました。本来科学的なものなのが、我々の世界では現象が逆転し、ヒーリングは非科学的なものとして認識されているのだとか。しかし、高次によれば、ヒーリングはまず、全体としてそのヒーリング効果によって引き起こされる因子(ここでは仮にカルマと呼びます。)を精査することが大切だといいます。まず、高次も含めてヒーリングの是非を議論します。その上で、ヒーリングするとしても、行うヒーリングによって生じうるカルマ、その人の持つカルマによって行いうるヒーリングの程度を見て、ヒーリングした後も、その後に過去生・未来生に生じうるその時にヒーリングしたことによって生じるうるカルマを見ます。それで、つまり、目の前にいるその人だけではなく、過去生・未来生をも含めたすべてのその人を見た上で、ヒーリングするかどうかを決めていく、こんな感じです。私はそれを聞いて、「それは、ものすごい能力が必要ではありませんか?我々の世界にいる人でそんなことができる人はいませんよ。」みたいな印象を返しました。高次曰く、だから、ヒーリングしてもあまり効果がないことがあるのだとか。ヒーリング自体が自己暗示になっている場合も多々あります。高次曰く、ヒーリングは本来、無償の行為だと言います。無償の愛を投げかける行為であり、無償の愛の表われなわけです。ですから、金銭的な物を要求しないといいます。「でも、それって、我々の世界ではやっている人、たぶんいないですよ(笑)。」と言ったんですが、終始、そういった印象が返ってくるわけです(笑)。あたりまえのことをしているだけ。それでお金なんてとれません。こんな感じです。私の考えではありませんからね(笑)。最近、私、まるくなってきたんですから~(笑)。なぜ、過去生・未来生の話や、パラレルワールドの話、そしてヒーリングの話になってきたのか、ちょっとよくわかりませんが。今回は、内容が内容ですから、ボツにしようかとも思ったんですが、記事にしてしまった以上、載せます(笑)。私個人としては、好きにしたらいいんだとは思います。ぶっちゃけた話、私もごく身近な人にマッサージや霊的ヒーリングをすることがあります。ヒーリング中に、疲れの原因が何か、また回復時期がどのくらいかまでわかることがあります。よく思うのは、自分は過去生でヒーラーだったことがあるのだということです。ですが、今は私は普通の人です(笑)。前半の話に当てはめると、現世の自分にとって過去生の自分は真実でない自分ということになるかもしれません。Some rights reserved by WilsonB
2012.04.23

前回、マルデックと惑星X(ここでは二ビルとします)について触れましたが、ちょっと補足しておきたいと思います。私は、へミシンクを始めてからというもの、ずっとどちらかというと光の世界を追い求める傾向がありました。天使界、神界とでも言ったらいいのでしょうか。それは、初期の頃の記事を見れば一目瞭然です。ですが、へミシンクで探索を進めていくにつれて、存在しているのはどうやらそれだけではないということもわかってきました。いわゆる、ダークサイド、ネガティブサイドといった存在達です。この点、バシャールが興味深いことを言っています。真にネガティブな存在もいるのですが、それは孤立しているのだと。自分がネガティブにコントロールされているという人は、実際のところ、自分のネガティブな部分を他者に投影しているだけなのだと。http://www.youtube.com/watch?v=8-Yrj7z7hkM 確かに、そういう場合もあるのだとは思いますが、そうではない場合というのも「起こりえます。」それは、自分から(あるいは知ってか知らずか)ネガティブな存在のもとへと近づいて行った時です。マルデックについては、過去記事をご覧いただきたいのですが、簡単に言うと、過去において(もしくは我々の時間軸とは異なる別次元において)、火星の近くにマルデックという星がありました。その星に住んでいた存在は、かなりの水準の科学力を持っていたみたいなんですが、誤った使用方法により、その星自体を破壊の方向に持っていってしまいました。逆に言えば、星の運命を左右するほどの科学水準にまで到達していたということです。マルデックが滅んだ時に、今我々がグレイとして把握している存在達の一部がDNA操作によって誕生しました。確か、当時私が得た情報はこんな内容だったように記憶しています。バシャールはグレイとして知られていますが、これとは異なるのでしょうか。バシャールは基本的にはポジティブな存在として知られていますし、私自身もポジティブ存在だという風に把握しています。ただ、二度だけ、バシャールに対する見方が変わったことがありました。一つは、過去記事にも書いたのですが、バシャールが地球意識に出入りしていると書いた時のことです。その時のバシャールの集合意識の状態が、ブラックホールのほうに見えたからです。うずをまいたような感じで、なんともいえない色合いだったように思います。もう一つはまだ公開していないんですが、バシャールの素性(すじょう)を探っていた時のことです。バシャールに接触したことがある方ならわかると思いますが、バシャールから放たれている波動というかエネルギーは、とても陽気と言いますか、はつらつとした感じですよね?終始そういった感じなのですが、それが、バシャールの素性を探っていた時、気がついてみると、バシャールからそういった雰囲気が消えていたことがありました。もっとも、ポジティブな波動が消えただけで、ネガティブなエネルギーが放出されていたわけではありません。それはないのですが、普段陽気な感じですから、「相対的に」その時の無反応な波動が際立って感じられただけなのかもしれません。話が若干それてきました(笑)。そうでした、マルデックの話をしていたんでした。マルデックとバシャールとの関係性はよく調べてみないとわかりません。ですが、過去に二度ほど、バシャールに違和感を感じたことがあったというのをお話しした次第です。でも、基本的には私もバシャールはポジティブな存在だと考えていることは変わっていません。最後に、二ビルについてお話したいと思います。二ビルについては、当時は私自身の考えを保留にしていました。そういう非物質的な惑星が確かにあったんですが、ここで言いたいのは、ポジティブなのか、ネガティブなのか、どっちなのだということです。二ビルは、ネガティブなのだと思います。ですが、一部の方が言われているように、地球に対する二ビルのネガティブコントロールは成功していないように思います。それは、今の地球圏には、ポジティブ側の防御網が強力に張られているからです。ポジティブ、ネガティブという分類が嫌いな方もおられることはわかっていますが、我々の二元性の世界においては、実際そういった分類が妥当する場合があるという事実は確かにあると思われますから、仕方がありません。今回は、マルデックと二ビルについて補足しました。でも、過去に存在した(あるいは別次元に存在している)マルデックはともかく、二ビルには行かないことをおすすめします(笑)。私のように、どこでもかまわず探索する物好きもいますけどね~(笑)Some rights reserved by Bob.Rosenberg
2012.04.22

半分夢物語として読んでくださいね。 人間の意識を非物質的に見ますと、銀河のように見えます。銀河が左回転しているように、私には見えます。同様のことは、チャクラを見ても感じられることがあります。チャクラは、多次元的なエネルギーの通り道であり、多次元世界に通じる入り口でもあります。人体には主要なチャクラが7つ(見方によっては12)あるとされています。かつて、チャクラについて調べていた時、チャクラごとに別の次元につながっていて、そこにその次元にいる「自分」を垣間見たことがありました。チャクラごとに異なるエネルギーにつながっていることは、人間が多次元的な存在である証(あかし)でもあります。私の場合、源のエネルギーは、ハートチャクラもしくはハイハートセンター(第8のチャクラ:ハートとのどの間にあるチャクラ)で感じることが多いです。 他方で、人間の体は、少宇宙であるとも言われます。私独自の見方をすれば、人体に主要なチャクラが12あることと、太陽系の惑星が太陽、マルデック、惑星Xを含めると12になることは、ミクロとマクロの対応関係を連想させるなと思います。(マルデック、惑星Xについては、過去記事をお読みいただければと思います。ここでは、惑星Xは惑星二ビルを想定しています。)つまり、人体という小宇宙は、宇宙(太陽系)との間で相似象(そうじしょう)の関係となっているのではないかということです。人間の意識が銀河のように見えていることも、人間(小宇宙)と銀河(大宇宙)とが相似象となっていることも興味深いです。 このように見てくると、宇宙で起きていることはやがて人間にも起きてくるし、その逆もまた然りかなと思います。つまり、生活、人生、進化とか、どこかで、たとえそれがどんなに淡くしか感じられなくても、つながり合っているのではないかということです。よく言われるアセンションも、宇宙全体の新陳代謝と思えば、ごく自然なことのようにも思えます。 かつて、冥王星オコツトは、人間は太陽系そのものだみたいなことを言っていた気がしますが、上で見てきたチャクラの話や、ミクロ宇宙とマクロ宇宙の相似象関係を見てきますと、それもわからなくないなーと思ったりします。それにしても、宇宙が太陽系までしかない(それ以降は非物質)だなんて、いまだに信じられませんが・・・(笑) Some rights reserved by Caza_No_7
2012.04.21

いつもはへミシンクの是非に対して肯定的に述べているのですが、今回はちょっと辛口になるかもしれません。すべては自己責任ですから、放っておけばいいのでしょうけれども、へミシンクをされたばかりの方や最初からモンロー研に行かれている方でまだ初心者の方に少しだけアドバイスと言ったら変ですけど、情報取得の際に注意する点なんかについて少しだけ述べさせていただきたいなと思います。今まで私は、へミシンクを使ってあらゆる探索をしてきました。およそへミシンクの世界で誰かがやっていることはほとんどすべて自分でも挑戦してきました。今だからこそ言えますが、正直言って、へミシンクを使って接触していた存在の中には、いわゆるダークサイドもいました。接触している時には、ダークサイドとは思っていませんでしたが、今になって思えば・・・というやつです。気付かなかったです。何かの要求をさりげなくしてきているということはありましたが。宇宙種族という言い方をテロップで示されましたのでそのまま前回の記事で使いましたが、平たく言うと宇宙人です。いわゆる宇宙人というのは、波動、エネルギーを隠す能力を持っています。全部を正直にさらけ出すということがあたりまえの7次元以上の高次の存在とは違うんです。ですから、へミシンクで下手に向こうの世界とアクセスするというのは、人によって、場合によっては、危険を伴うと感じる場合もあります。まあ、私から見れば危険だという出来事はないに等しいんですが、普通の多くの方にとってはかなり怖い思いをされる場合もあるのだということです。あとは、そういったことがなくても、なんらかの情報を取得されたような場合です。特にそれが、フォーカス34/35と呼ばれる、いわゆる宇宙人がたくさんたむろっているようなところで宇宙人と接触して得られたような場合です。人によっては、今地球圏に来れている宇宙人は皆ポジティブ存在だという人も中にはいるかもしれません。私も過去ブログでもしかしたら安易にそういった発言をしてしまったことがあるかもしれません。ですが、宇宙人に対してはニュートラル(中立的)になっていただければと思います。どんなに科学技術が進んでいようとも、霊性進化まで先をいっているとは限らないわけです。はっきり言いましょう。フォーカス34/35のギャザリングの領域には、ネガティブ存在もいます。そういったネガティブ存在は、リーボールしていれば大丈夫とかそういう問題ではなく、類は友を呼ぶの法則によって、探索者の内面にあるネガティブな部分が無意識のうちに引き寄せられていきます。しかも、そういった存在からもたらされる情報の真偽の判断は、初心者には困難です。ですから、へミシンクをされる場合には、初心者の方は中途半端に高次元の領域に行かないほうがよいのではないかなと思います。モンロー研だから安全とか、どこかの日本の著名なセミナーだから安全とか、そういったことはありません。あくまで、最終的に判断すべきなのは自分ですから。自分のレベルに応じて、徐々に徐々に階段を上がっていかれるのが無難です。これは、瞑想についても同じことが言えます。瞑想だから安全、ということはないですからね。じゃあ、全部自己責任か?いや、そうですよ(笑)。そうなんですけど、放置プレーもどうかなとは思います(笑)。石橋をたたいて渡りたいのであれば、へミシンクも瞑想もしないことです。それでも問題なくアセンションできますから。私のように情報を言語化して受け取るばかりがすべてではありませんから、オリジナルな情報というのは、潜在意識下でも皆さんちゃんと受け取っておられます。ですから、それを特段意識せずとも、ハートに従って日常生活を送られていれば、別に問題なく進化できます。努力しなければ!なんていう人は、放っておけばいいんです(笑)。若干、話がそれましたが(笑)。要は、情報の取得というのも、慎重になる必要があるんですよというお話です。まずは、セミナーで何と言われようが、宇宙人との接触よりも、ハイアーセルフとの接触です。ここで言うハイアーセルフというのは、進化したあなた自身のことです。通常の意識状態では、良心として感じられるはずです。したがって、良心の導きに従って生きればいい、こういうことになります。今回の内容をまとめますと、こうなります。へミシンク初心者の方は、アクセスする存在には細心の注意を払うこと。自分の力量に応じて、または力量が上がっても、ハイアーセルフとの接触を重視すること。また、無理にへミシンクや瞑想をせずとも、ちゃんと進化していけること、です(笑)。 Some rights reserved by timoshea95
2012.04.20

最初に気になるニュースからご紹介します。今までにないやり方で記事を書いてみます。 太陽活動、長期低下の兆候か=北極のみ磁場反転―衛星「ひので」で観測・国立天文台(時事通信社 - 04月19日 19:05) 太陽は南極と北極が逆向きの磁場を持つ巨大な棒磁石のような構造で、約11年の活動周期に合わせてN極とS極がほぼ同時に反転することが分かっているが、国立天文台と理化学研究所などの国際研究チームは19日、衛星「ひので」による観測で、北極だけがS極からN極に反転し、南北両極が同じN極になりつつあることを確認したと発表した。 同様の現象は、17世紀後半から18世紀初めに長期間太陽活動が低下し、寒冷化をもたらしたとされる「マウンダー極小期」でも起きたと考えられている。近年、黒点数の減少や11年の周期が延びるなどの異変が続いており、国立天文台の常田佐久教授は「この状態が次の周期も続くと、マウンダー極小期のような時期に入ったと考えられる」と述べた。 理研の塩田大幸研究員らは、ひのでの高性能望遠鏡で太陽両極の磁場を詳細に継続観測。昨年10月、北極だけが従来のS極からN極に変わりつつあるのを確認した。一方、南極は今年3月時点でN極のままで、5月中にも両方がN極になる見込みとなった。 極域の磁場は、太陽活動の指標となる黒点の生成に密接に関連しており、こうした変化が近年の異変に影響している可能性もあるという。 この磁極の一致というのは、どうやらアセンションに関係しているみたいです。アセンションには、段階があって、まずは個々人の意識の変化が生じてきます。そして次にそれが現象面で現れてきます。地球=自分ですから、自分が今いる確率的偶然の世界においても、世界規模で変化・変容が起きてきます。我々が今、情報として目にしている太陽の磁極の一致というのは、地球自体の周波数がこれから変容していくことの前触れです。 最初に周波数の変容がきます。次に、それにともなって、時空にゆがみが生じます。時空がゆがむことによって、地球全体がより高次元の領域にシフト・上昇していく、こういうことみたいです。 周波数の変化によって、生命系に影響が生じないのかについては、結論からいえば影響はありません。地球規模での変化変容のもとは、自分自身にあり、自分の変化が先行しているからだと思われます。言い方を変えれば、自分が変わると同時に自分が存在する世界も変わる。つまり、全体としてみれば「自分の目線では」変化が生じない、言葉にするとこんな感じです。なお、今回の私の情報源というのは、「本来の自分」にあります。「本来の自分」には、外宇宙から行った場合、M87付近から入ることもできますが、アンドロメダから入ることもできます。今回は、アンドロメダにある宇宙図書館(アカシックレコード)から情報を得ています。なお、アカシックレコードというのは、一つではなく、進化の過程に応じて様々なところに用意されています。我々が住む太陽系だけでも、7つのアカシックレコードがあるとかつて言われたことがありました。そのうち、私が今アクセスしているのは、おおもとの部分とのつながりがあるところ、すなわち「ひとつなるもの」「すべてなるもの」からつながる系譜です。ちなみに、今世間で流布している情報がいったいどこからもたらされているのか、皆さんはご存じでしょうか。いわゆる「ひとつなるもの」からくる神界の情報というのは、ほんの一握りであり(0.01%程度)、大部分は「宇宙種族」からもたらされています。地球人に接触を試みようとしたり、なんらかの変化変容を促したり、要は「干渉してくる」存在達というのは、どちらかというと低次元の存在であり、かつ、宇宙種族である、ということなんです。ですから、そういうこともあって、一番大切なのは、自分のハイアーセルフやその上から情報を降ろしてくるということです。人の情報をあてにしてはいけないということです。もちろん、参考にするのはかまわないとは思うのですが。自分のオリジナルの情報をよりどころとするということです。あと、いわゆる天使というのがいますが、私に言わせるとあれは人間なんです(笑)。人間と進化の過程で非常に近い系譜をもち、かつ進化の過程も様々な非物質的な存在達です。堕天使というのもそうです。人間です。人間にいろんな人間がいて当然ですから、「あの人は堕天使だろうか?」と気になさる必要はありません(笑)。むしろ、あなたが堕天使ではないかを気になさるべきです。意識の系譜に何らかの特徴があるのか、ないのか、ということです。もちろん、堕天使でもいいんですよ(笑)。あなたが大いなる存在につながっていることは、間違いありませんからね。最後に、DNAの変化・変容について触れておきたいと思います。我々人類というのは、進化の途上にあるわけですが、これから地球規模での変化変容が起きてくる中で、DNAにもその変化の兆しが表れてくる可能性があります。その変化・変容のカギを握っているのは、「大いなる意識」と「自分自身の意思」の融合です。太陽の磁極が両方ともN極になりつつあるというのは、いわゆる間接的なメッセージであって、これからいよいよ多次元的宇宙時代に入っていくことのしるしでもあります。すべてが融合に向かっていくわけです。もちろん、情報の降ろし方には個性があり、分離して把握するか、直観的に印象的に把握するのかの違いはありますが、それとは別の話で、もっと別の、自分という意識や地球という意識、さらには宇宙という意識の「融合」が起きてきます。そのための変化が、我々の本質とも言えるDNAに、時間的スパンはあるにせよ、意思の力で起きてくる。その鍵が、大いなる意思と自らの意思の融合にあるのだということのようです。あと、アセンションの時期についても触れておきたいと思います。なぜかはわかりませんが、アセンションは、最終的には2036年と大きく関係してきます。つまり、それまでは、様々な見方があるにせよ、漸次的に、次第に進んでいくということです。周波数帯の移行というのは、急激に起きるものではなく、次第に、ゆっくりと起きていきます。まずは、ひな形ができます。アセンションのひな型です。そこに今の地球を重ね合わせるかのごとく、ゆっくりと周波数の移行が生じていく、こんな感じです。その期限の目安が、2036年だということです。まあ、そうはいっても、変化変容が自分の「中から」起きてくるというのは、これまでの情報と大きく変わりません。我々は何気なく普段の生活を送っていますが、その変化というのはあらゆるところにサインとして現れていて、今日ご紹介したのはそのごくごく一部なわけです。ですが、大切なことは、外からではなく、内からくる情報に重きを置くということです。あなた自身のハートからくる直感的情報です。理屈ではなくて。直感を大切に、内からくるハートからもたらされるあなたにとっての最善の情報によって、この現実世界で生きることは、とても重要となってきます。そのためにもっとも大切なことは、「自分自身を『感謝』の波動で満たして日々生活すること」です。あるいは、「内からくる喜びの衝動に素直に従う。」こんな表現もあります。ですが、やはり一番なのは、「感謝」です。言葉だけではない、「感謝」の波動で自分自身を表現してみてください。some rights reserved by mythlady, Elise Wormuth
2012.04.20

人間は自然とは切っても切れない関係に物質的にも非物質的(精神的)にもあると思われますが、日本ではそんな自然に対して、古代においては畏敬の念(=畏(おそ)れて敬う心情のこと。「畏れる」はつつしみをもって相対する心情。)を人々は持っていたと感じます。近代においては、人間のほうが自然をコントロールできるのだと錯覚し、環境破壊などを繰り返していた時期もありましたが、最近では再び、人類は「共存」の方向性を見出しつつあるようです。日本では特に、自然とのかかわりというものを神仏への崇拝という形でとらえなおしてきたところがあるように思いますなかでも私がいまだに惹かれるのは、日本各地にある神社仏閣です。私はどちらかというと、お寺よりも神社のほうを好みますが、日本古来の雰囲気というか、神気というか、確かに目に見えない部分で人間は大いなる存在の一部なんだと感じさせてくれる場所、それが私にとっての神社なわけです。いまだに覚えているのは、初めて伊勢神宮外宮を早朝参拝した時の新鮮さと驚きです。なんとも言えない空気感が辺り一帯に漂い、朝の凛とした空気の中で、静寂さにつつまれいている。何もないはずの空気中に、神気が満ち満ちている。本当はそこに何もないのではなく、確かに何かが存在している。古代の神の国を一瞬思わせるような、清々しい雰囲気がそこにはありました。もちろん、以前記事の中でもご紹介したように、非物質的にも確かにその存在感を感じられる場所でもあります。ですが、同時にそこは、清らかさを失ってほしくないと言いますか、逆に言えば、いつまでも皆の力で清らかさを保ち続けていきたい場所とでも言いますか、そんな空気観もあります。そうかといって、なんらかの宗教に走るのでもなく、ごく自然に、自分自身の清らかな部分を見つめるためのきっかけとなる心の鏡のようなところでもあります。おそらくは、日本全国には、そういったところは他にもたくさんあるのだとは思います。要は、自分にとっての聖地であれば、それは家の近所にある神社でもいいわけです。近所とまで言わなくても、ちょっと車で足をのばせばいける、地元では割と大きな神社でもいいかもしれません。あるいは、海外にお住まいの方であれば、大自然がそのまま残されているような場所に行かれるのもいいかもしれません。スピリチュアル的に見れば、自然=自分であり、神性さがよくあらわれているところでもあるからです。あるいは、クリスチャンの方であれば、よく行かれる教会なんかがその人にとっての聖地になったりするのかもしれません。あらゆる宗教、それ自体に害というものはなく、すべてはその人次第です。若干話がそれますが、私は、誰がどの宗教に属していようとも、いなくても、あるいはその人の名前や社会的地位がなんであろうとも、その人がお金持ちであろうと、そうではなくても、その人の思考や信念、行動こそが重要なんだという考えを持っています。そういった意味においては、あらゆる枠組みを超え、人種、信条、宗教、性別、その他様々な違いを超えて、人としての原点に帰ることができるための心の鏡、それが聖地なんだという風に思っています。Some rights reserved by hildgrim
2012.04.19

今日も独り言をつぶやいてみます(笑)。もう言うまでもないことではありますが、誰かに頼る時代は終わりました。誰かにすがろうするのも、そろそろ終わりです。では、誰にすがれというのでしょうか。自分自身です。もちろん、人と協力して生きていくということはまた別の問題です。今ここで問題としているのは、生き方です。まあ、そうは言っても、人間には弱い部分が誰しもあります。心の中にです。私もかつてそうでしたが、悩んでいるとき、心が病んでいる時に、甘いささやきをしてくる人間がいるものです。何かにすがろうという気持ちが強いときには、ついそういったささやきに乗ってしまうことが時としてあります。そういった人間は、人の持つ心の弱みに付け込んで、それを利用してきます。そういった、ネガティブな持ちつ持たれつの関係からも、学ぶべきことはあるのだとは思います。ですが、それも一回経験すれば十分です。人間というのは、もっともっと自由な存在です。誰かに依存したり、誰かに従って生きる必要なんてありません。自分の意思で、自分がやるべきことを決めて、そして自由に生きていけばいい、そんな風に思います。ある人が瞑想すればよいと言いました。だったら試しにやってみればいいんです。それが「瞑想」になるか「迷走」になるかは別としても。実際に体験してみる。実際に体験してみると、「瞑想からは瞑想から得られる『真実』を越えることができない」ことに気付く場合があります。何をしても、どこまでいっても、我々は自分が描く理想を超えることはできず、逆に言えば、自分が描く理想に近いところまでは体験的に得られる可能性があります。ですが、「選択」とは、ある意味「しばりの連続」であって、何かの「選択」(自由)を得るのと引き換えに、何かの「選択」(自由)を失います。あらゆるものの「縛り」から解放されて、自分自身と真に向き合った時、人は本当の意味で自分らしく生きられる気がします。「・・・ねばならない。」なんてことはないんです。好きなように生きたらいい、そんな風に思います。前回、ネガティブな感情すら愛の表れだと言いました。三次元的な私の頭では到底考えられないことです(笑)。でも、私の魂の深奥ではそのように伝えてきました。でもそれは、信じるかどうかの問題ではなくて、瞑想するかどうかと同レベルの、自分自身の「選択」の問題にすぎません。瞑想したければしたらいいのと同様に、そう考えたければ考えたらいい、ただそれだけです。我々は、あらゆるところで常識という名の価値観に洗脳されて生きています。ですが、今までの常識はすでに常識でなくなりつつある時代に突入していると感じます。そういった場合、何が自分にとっての真実なのか、わからなくなる場合も考えられます。だからこそ、ブッダが言うように、「自分自身をよりどころとする」わけです。ブッダが言っているからそう言っているわけではありませんよ(笑)。あくまでも、私自身の独り言ですから(笑)。誰かに従う必要なんて、ないんです。指導者なんて、いりません。自分のハートに従って自分らしく生きたらいい、そう思っています。 Some rights reserved by Johanna_L
2012.04.17

よく精神世界系のセミナーでは、「愛のエネルギーを体感しましょう。」といったことがされていたりします。以前、私はへミシンクの世界において学んでいた頃、おそらくはブルースモーエンさんの本の影響だったのではないかなと思うのですが、愛のエネルギーを体感してみようというのを熱心にやっていたことがありました。正確には、「ブルースモーエンさんだけではなく、およそへミシンクの世界で著名とされている方の本や実際にお会いしてうかがった話、そして日本で著名なバシャールの話なんかを参考にして、愛とは何なのだろうか、それを体感できるものならしてみたいものだ。」おそらくは、こんな感じで考えていたのではないかなと思います。ですが、最近、ちょっと思うところありまして、愛とは何なのかについて、高次(本来の自分)と共鳴して「自分」の考えというものを引き出してみました。愛とは(あなたの)「存在そのもの」です。あなたがなす思考、言動のすべてが、愛の表現形態なのです。あなたとはエネルギーそのものであり、つまり愛とはエネルギーであるともいえます。愛とは、光でもあり、闇でもあります。およそどのような表現形態であろうとも、それは愛の表現に他なりません。だから、愛とは何かを知りたければ、あなた自身を見つめていきなさいということになります。だいたいこんな内容でした。スピリチュアルの世界では、愛とは人間の思いやりや、やさしさ、慈愛、あるいは人を感動させるもの、人の心を温かくさせるもの、・・・等々、そういったいわば「プラス」の側面だけにフォーカスしようとします。ですが、愛はそれだけではなく、「あなたの存在そのものが愛なのだ。」と。あなたそのものが愛ですから、あなたから発信されるありとあらゆるもの(思念、行動、エネルギー)は、すべて愛に他ならないということになります。ポジティブな側面(慈しみ、喜び、希望、等)だけではなく、ネガティブな感情(怒り、悲しみ、ねたみ等)も、すべて愛の表現形態だということです。では、いったいスピリチュアルの世界では、何を教えているというのでしょうか。正直、よくわかりません。よくわかりませんが、非常に一面的なものであることだけは確かです。ただ一つ言えることは、もし仮に、「愛のやさしい清らかなエネルギーを体感できます。ぜひうちのセミナーへ。」ではなく、「あなたの存在そのものが愛なのですよ。愛とは何かを知りたければ、あなた自身をよく見つめてみることです。日々の現実世界をしっかり生きてください。」これでは、おそらくスピリチュアルの商売は成り立たないでしょう。ですが、何が自分にとっての真実なのかをとことん追求していくと、「見た目だけのまやかし」だけでは満足できなくなります。存在そのものを肯定し、存在そのものを受け入れ、日々それを実践していく。そういったトータルな視点から自分自身を見つめていく手法。そういったものに、気づき始めている人もかなり出始めてきた。それが、今ここの現実世界なんだと思います。 Some rights reserved by fortherock
2012.04.16

非物質的な情報というのは、時として断片的にやってくることがあります。受け取った情報をどのように理解するか、この辺に一つの難しさがあります。今回は、古代日本にあったいくつかの王朝の流れについて少し見てみたいと思います。まずは、今私が住んでいるところからです。私は今、田舎に住んでいるのですが、目の前に山があります。小さな山です。そうですね、標高100mはないくらいです。初めてここを訪れた時、あの山は古墳ではないかとなぜか思いました。まあ、なんとなくそう感じたわけですが、最近、偶然にも、その山が実際に古墳であることがわかりました。全くの偶然に、古墳の入り口であると書かれた標識を見つけたのです。古墳は山の稜線(りょうせん:山の高いところを結んだ線)沿いにあるらしく、全部で9基あるとのことでした。つまり、目の前に見える小高い山全体が古墳だったわけです。早速私は、その古墳の入り口から山に登っていきました。階段はあるのですが、結構な急斜面を10分くらいかけて登ると、頂上に着きます。そこに、3基の古墳がありました。のちにリーディングしたところ、「593」の文字が見えてきました。古文献にある年代とかなり符号していました。この古墳は、6世紀後半から7世紀前半にかけて作られたもので、もともとこの山の頂上には祭場が作られていたようです。祭場主は女性で、名前は私には「伊与(イヨ)」と読めるような文字が見えました。女性の服装は、日本風ではなく、どちらかというと古代中国を思わせるような色合いでした。赤、緑、青、黄、など、色とりどりの装飾が施された服装をしています。当時のこの一帯は、200~300ほどの集落を形成していたみたいです。人々は農耕が主体の質素でつつましやかな生活をしていたみたいです。その地域一帯を治めていたのは、先ほどの女性だったみたいですが、それほど中央集権的な権力は持っていなかったと感じます。占いというものを非常に重視し、農民の生活に不可欠な天候などあらゆる出来事を占いによって占い、それを生かしつつ、この地域の人々は暮らしていたと感じます。どちらかというと、この地域を治めていたというより、みんなから頼りにされていた存在、そんな印象があります。女性の一族は、約7代にわたって(約150~200年くらい)この地を治めていたようです。さらに視点を広げていきますと、当時(今から約1400年前)このあたりには小規模な似たような集落があって、各地に点在していたみたいです。さらに視野を拡大していきますと、出雲の印象が感じられてきました。出雲は古代の日本において別格であり、「神代から続いていた」という印象がやってきました。神代っていつだろう?と探っていくと、紀元前4~5世紀辺りを指しているみたいです。年代を探る方法にはいくつかあるんですが、今回は以前ご紹介した、ものさしを使う方法です。紀元前0年を第三の目に固定します。そこから左のほうが紀元前、右が紀元後です。探りたい年代を思います。すると、特定された後の年代が紀元前0年だった位置に現れてきます。話を戻すと、出雲王朝は古く、日本の王朝の歴史では別格的な存在だったみたいです。そうかといって、それほど大規模な地域にわたる支配というのは感じられず、いわゆる出雲のあの辺り限定だったように私には感じられます。なんとなくですが、この当時の出雲の王朝には神々しさが漂っています。さらに視点を広げていき、私は大和王朝や伊勢、さらにはムー大陸とのかかわりについても探っていきました。すると、まず大和ですが、紀元後2、3世紀あたりに栄えた感じがあります。特に印象に登ってきたのは、「二ギハヤヒ」、そして「物部氏」です。二ギハヤヒについては、以前過去の記事でお話ししたことがありました。いわゆる大和王朝は、この二ギハヤヒとなんらかのかかわりがあったみたいです。ちなみに、二ギハヤヒは人格神すなわち、実際に過去に人間として生きていた人物が神格化された存在です。あと興味深いのは、大和王朝と物部氏とのかかわりです。物部氏についても、以前ニギハヤヒの記事あたりでお話ししたことがありましたが、今の天皇家とも深いかかわりがあるとされている一族です。最後に伊勢すなわちアマテラスについてみてみると、紀元後4,5世紀あたりの印象が強く感じられます。あくまでも私見ですが、この時代にアマテラスが生み出されるなんらかの歴史的要因があったのかもしれませんね。余談ですが、この辺の情報をリーディングしていますと、白色と銀色とが混在した神々しい光の柱が見えてきました。それはもう、出雲王朝の神々しさの比ではありません。この地はどこなのだろうかと深く見ていきますと、今の伊勢神宮の外宮のあたりのようです。これはもう、人間だけの関与ではなく、より大きな地球意識レベルの関与を感じました。神々しさが並みではなかったです。さらに日本全体に視点を広げていき、他の注目すべき王朝を探していきました。すると、幣立神宮や、伊勢の伊雑宮(いざわのみや)、東北地方にあった縄文文化、四国にあった王朝が見えてきました。これらの起源は古く、古代ムー大陸にまでさかのぼります。時空の連続性があるのかどうか(かつて私はないと言いました)はともかく、意識の起源は古代ムー大陸にあり、複数の地域に同時期に文化が伝播して、その地域に継承されていったみたいです。なお、四国にも、一般には知られていない、ムーから引き継がれた王朝があったみたいです。何らかの理由でそれらは多次元的にも封印されていると感じますが、これから時代がすすむにつれ明らかにされていくでしょう。多くの人々がいて、我々が今ここにいます。どの時代の人々も、我々と同じように現実世界に直面し、その時代を生き抜きました。我々はどんな時代を生き抜くのでしょうか。 some rights reserved by aafes49
2012.04.15

私はどちらかというと霊感はもともとはなかったのですが、ひょんなことからへミシンクと出会い、みるみるうちにその魅力にとりつかれていきました。最初は以前にもお話ししたことがありましたが、純粋な好奇心からでした。それは本当に些細なものだったに違いなく、人間は死んだらどうなるんだろうとか、そんなレベルだったのだと思います。ですが、私は割と若いころから、死後の世界というものを漠然とですが信じていました。別に根拠とかはないんですけど、ただなんとなくそういうものがあるに違いないみたいな考えをするところが20代の遊び盛りの頃からありました(笑)。大学生だった時、私は別の大学の友人とひょんなことから「神はいると思うか?」という話になったことがありました。その友人は、非常に優秀な人で、家族は確か皆クリスチャンでした。で、何かの時に私の住んでいたアパートに遊びに来た時に、キリスト教的な見方での「神」の話になりました。詳細は覚えていませんが、友人は、唯一の神はイエス・キリストだみたいな話をしていた気がします。別に普通の若者がですよ、イケメンで、バイトもするし、しかもめっちゃ優秀。そんな人が、「なあ、神っていると思う?」みたいな話を私にしてきたわけです。私は内心では、神はいると当時から思っていましたが、それでもキリスト教的な神を想像していたわけではなく、しかも、霊的な話とか宗教じみた話は人前では避けるような風に私自身していたので、私は友人に次のような感じで答えました。「神は人間が概念として作ったものだよ。どの宗教でも、およそ人間が神という概念を作らない限り、神とは認識しないんじゃないかな。でも、神という言葉は使わなくても、いわゆる万物を作り出したもとみたいな究極的存在はいるかもしれない。でも、それは人間の宗教上で作られた『神』ではないと思う。」それを聞いて友人は、かなり驚いた様子でした。その友人は、大学では工学部に所属しており、大学での実験とアルバイトに明け暮れているような人でしたから、私はむしろ、そういった理系の人間が真面目に宗教について、それも神について語り出したことに、私のほうが驚いたのを今でも覚えています。当時の私は、いわゆるスピリチュアルなこととは無縁の生活をしていましたが、無意識のうちにそういったものに惹かれる傾向があったのは事実です。ですが、どこかでそれを理性によって封じ込めると言いますか、人前では打ち消してしまうような、そういった傾向が強くありました。現在の私は、神はいると思っています。ですが、その神というのは、人の形をしたような個性を持った存在とは考えていません。宇宙の深奥までたどり着いても、さらに奥が続いていて、そのいわば見えない先にいると「思われる」存在。あらゆるものを生みだすきっかけを作り、あらゆるものを統括する支配力というか法則的力を生みだす元となった存在。そういったかなたに存在する「何か」が神なのかなとおもったりしています。大学時代の私は、もちろんへミシンクなんかしてもいませんし、なんら霊的能力開発されていませんでしたが、でも、「神」についての考えは、今とそれほど大差なかったのではないか、そんな気がしています。以前、さかんにへミシンクで宇宙探索をしていた時、宇宙について探れば探るほど、自分は何も知らないということを痛切に感じていたものでした。つまり、知ろうとすればするほど、自分が無知だということに気付くわけです。人間の限られた能力では、どこまでいっても無知に毛が生えた程度なのかもしれません。つまり、何かを「知っても知らなくても」、ほとんど変化がない。でも、直観的に、潜在的に、究極的存在とは何かをすでに「知っている」。それが、人間なのではないか。そんなことをふと今日考えました。Some rights reserved by priscillajp
2012.04.14

(ミクシィから)(2・23「存在感について」)>いつも思うのですが写真がとっても綺麗です。 いみみさんのアップされる写真が魅力的で、すべてを忘れるほど夢中になってしまいます★ 引き込まれると言う感覚でしょうか、、。 懐かしい感じがします。 ありがとうございます。記事はおもしろくないことがあっても(笑)、写真だけでも癒されて帰ってくださいね。(3・3「本当の思いやりとは」)>以前、いみみさんにそんな問題で相談したことがあるのですが。自分も友人に全てを霊障のせいにするなと言ったことがあります。友人は結局理解してくれませんでしたけど 霊障のせいにする方が楽だと言うことみたいですね。そういうことでしょうね。人間は常に何かのせいにしたがるわけです。(3・7「エネルギーを取り入れるという視点」)>私は、北陸に住んでいるので、曇天の日が多いです。冬に、ほんの僅か日が差しただけで、世界が一返して明るく幸せな気分になります。太陽の光は偉大ですね。本当にありがたいものです。 そうですね、太陽が無い日は考えられませんね。最近、太陽風なんかが問題になっていますが、何があっても太陽の力は偉大ですよ(笑)。(3・24「現実とは本当はスピリチュアルなもの」)「永遠の今を私たちは生き続けている」とても素晴らしいフレーズですね 今度僕もトークライブなどで、このフレーズをパクらせていただきます(笑) ムンクさんにパクっていただけるなんて、光栄です(笑)。(3・31「認識の違いからくる神々の違い、自然の中に見る神々(自分自身)の姿」)>今九州に旅で来ています。高千穂神社、天の岩戸、霧島神宮、鵜戸神宮、青島神宮…たくさん回りました。みなとても素敵なところです。九州は神話の国。そんなふうに感じました。関西の神社の作り込まれた感じとは全然スケールが違い…大自然を利用した中に神社がある。素敵な場所です。 私も何度か行きましたが、九州は魅力的なところですね。 幣立神宮などもいつか行けたらいいなとひそかに思っています(笑)。(4・5「菩薩は自ら変わり世界を変えていく」)>本質が魂…感化、分かるような気がします。ここに着眼点を置いた道徳だからこそ、生徒の心が揺さぶらる。子ども達も親さんも そこを求めてらっしゃるんですよね どんな場合でも、人間同士の触れ合い、これは大切ですよね。釈迦に説法かもしれませんが(笑)、現場にいるといろんなことがあります。なかにはきれい事だけでは済まされないことも。でも、たとえどんな状況であっても、やはり人間として自分も相手も認めていく視点、そういった部分は大切な気がしますね。Some rights reserved by Thomas Depenbusch
2012.04.13
(4・3「魂は永遠」)>現世での波動が死後にいく魂の世界?でも影響し受け継がれているのかなぁと感じ、やっぱり、今この瞬間を精一杯生きよう☆と思いました。我々はどうしても現実世界だけを見がちですが、我々が見ているのは「仮の」姿や世界であって、本当はもっともっと広大な範囲に「自分」の別側面が実際に現れ、我々とは異なる現実世界を実際に生きています。>自分を大切にする中で人を大切にしたい。矩を越えずに人を思う。(今の自分の限界、出来る範囲をする。相手に○○べきと自分の知識で蓋をしない。助言に徹し、時には見守る。)自分にできる範囲でするとういうのは、何事も大切なことですね。特に現世的な利益を度外視した体験や行為などはそうなのかなと思っています。自己満足でも全然OK。私は自分の気持ちに素直に生きたい、そんな人はこれからの世の中に増えてくるのかもしれませんよ。でも、破壊ではなく統合、ワンネスに向かう、みたいな。すごい時代です。(4・4「へミシンクの用語について」)>(ええ、殆どの人は恐れを抱き私を型に嵌めようとしたり攻撃します。私が先入観をなくしても、いつも対人では、なんで?と言われて意地悪されちゃいます、、。気にすることはないです。これからは自分らしく生きる時代ですから、どんどん二極化が進んでいきます。自分にとって心地よい感覚を大切になさってみてください。ただ、自然との接点を持ち続けることです。それを失うと、我良し(われよし)の生き方になってしまいがちですから。(4・4「菩薩は自ら変わり世界を変えていく」)>今の私がしてること、全部ですが。自分の自己成長と自分の課題(救済)の為です。(矩を越えない範囲で、ですがね。)私は、自分の為に生きています。自分が望んで、したくて、嬉しくてしています。わがままなんです(^^)私もです(笑)。>私には、8枚の羽がありました。けれど、地上に降りる時、羽を置いておりました。それは、地に足をつけ学びたかったんです。自分本来の力に奢らず、直向きに努力したかったんです。体験は。自分本来の人生を思い出すのに、必要でした。それを思い出した時、今までもずっと私の人生を歩んだと気付き、感情が変容する過程で、愛と感謝を通り越し祝福されてると感じました。体験とは、自分が求めているものを体験する、そういう傾向はある気がします。もっというと、直面する現実から生まれる感情その他の「経験」はすべて自分自身が作り出しているんですね。そう考えますと、あらゆる出来事に感謝せずにはおれません。>経験でしか何も言えませんが、他人を変えることは出来ません。ただ、出来るのは自分自身を変える事だけですね。おっしゃる通りだと思います。>自分を変えるのは 本来の自分の制限のない意識空間に帰るといった感じでしょうね。 そんな感じかもしれませんね。人は自分で自分をしばる傾向がありますからね。(4・7「セスとロバートモンロー、第三のキリスト」)>やっぱり、苦しみから立ち上がる時には希望は。温かな思い出は。心通うじた日々は。間違いながら努力し学んで教訓にした体験からの過程は。人に希望を与えるのに、とても大切に感じているのです。人は体験があるからこそ考えや価値観を共有できる点はあります。だからこそいろんな体験を積む意味があるんでしょうね。>スピチュアル的にいうと、元はひとつなるもの(I/Thereクラスター)に帰属する。けれど、そこから枝分れし、トータルセルフには、個性や価値観がある。真実は無数にある。一人一人の内在神(トータルセルフ)に目を向けることで、外在神を否定することへの示唆。心理学的にいうと、外部の刺激から自己を振り返ることを体得することの示唆。つまり、外側に、答えを求めずに内側に、答えを求める。それは大切ですね。(4・11「シルバーバーチという存在(その2)」)>わたしの見解ですが。日本という国は、共生の価値観、大我の愛を学ぶのに最適に感じます。自己を振り返ることを体得する。自分の分をわきまえる。(今の自分の限界、出来る範囲、無理のない範囲をしる)その中で人と自分の折り合いをつけ、歩み寄る。それは、愛を知り、学び、愛を放つ存在になれます。そうなりたいものですね(笑)。> imimiさん、こんにちは。 フォーカス世界は、時間という観念がないので、江戸時代の日本に生まれるのですね。 たしかに、人情や義理があった良い時代だと思います。 なにしろ、江戸時代は平和な時代でした。 それを考えると、今の日本に生まれている私たちは、何を学ぶために生まれたのでしょうね。 ヘミシンクに出会ったことと、今年の十二月にあると言われる、次元上昇ですかね。お、りんパパさん初登場ですね。うれしいな~(笑)まるの日さんのところでコメントされている方ですよね?今の日本を選んで生まれてきた意味は、大きいでしょうね。時代の変わり目を体感できる、またとない機会ですからね。。(4・12「京都での救出活動」)>天命は、宿命。予め決まってる、ある程度は定まってると感じます。しかし、人間のもつ可能性。思い(想念)の力。意思の力。意思が意志となりて思いは叶うと認識してます。ですから、宿命や天命さえも運命に。変えられることに戻し、自己選択可能なようにさえ感じます。確かに変えられない部分もありますが、変えられる部分もあります。たとえば日々どういった心持で過ごしていくのかといった根底の部分と言うか、気持ちです。そういった部分を、3・11以降ずっと我々は経験し始めている気がしています。>三番目の子、喘息発作による救急搬送、挿管、バイタル異常、、、、。この前触れに、門が見え三番目の子の天命、命が尽きるのを感じました。わたしは、願いました。どんな咎を受けても彼女が生きることを、それが、私が嬉しいと。そうしたら、彼女は、一命を取り留め、喘息も今は症状が落ち着いています。しかし、私が突然重たい喘息になってしまってますが。お子さん、お元気になられてよかったですね。
2012.04.13
(3・31「認識の違いからくる神々の違い、自然の中に見る神々(自分自身)の姿」)>自分が輝き、森羅万象が祝福してくれてるような感じが体感しました。まさに、自分も。あらゆるすべても。すべてのスピリットは一つと言うのが、言葉の上辺じゃなく体感として解りました。また、承認の欲求の手放し、エゴの固定観念の小さな世界の手放しが、三次元の現象界にいる目的なのではないか、とさえ思いました。そうですね、そのために我々は今ここにいるわけです。(4・1「お返事」(その3))>いみみさんが、他の方にお返事として書いていました内容をみて思ったのですが、「エネルギーを取り入れるという視点」の記事は、私への。いや、無意識の最下層の私(魂の私)を気にかけて下さったのかなぁと感じました。いろんなとらえ方がありますから、それはそれで結構です。 私は今まで、終始一貫して、このブログ記事を書いてきたつもりです。それは、私利私欲に走らないこと。 自分だけでなく、「自分」にも奉仕すること。ですから、読まれる場合にもいろんな解釈がありうるのだと思います。(4・4「ありがたみ」)>私は今 福島県に住んでいるから、当たり前に生活出来ることがいかに素晴らしいことか身に染みて分かります。 これは決して不幸なことでなく、ひとつの過程なんだと思います。恐れを超えたその先に 新しいステージがあるからです。福島に住まわれている方は、多次元的にみればより大きな「ご自分」で選択されて、今ここで貴重な体験をされているんだと思います。それは生ぬるい環境ではできない体験です。「死」は存在しないという観点からすれば、我々が現実世界と感じている幻想世界に「おいてさえも」、我々は一体これからどこに向かっていくのか、どんな社会を作り上げていくのか、そういったプラス面をあらゆる分野に投げかけていける生き証人が、福島の人なんだと思います。「フクシマ」という言葉が、多次元的な象徴としての意味を持っていると以前記事に書いたことがありました。どんな状況であっても現実世界で体験を積むことができる、これは素晴らしいことです。>私の身内。末期癌で苦しんで苦しんで生きたくて生きれなかった沢山の命をみてきました。ただ生きることは、当たり前に生きれる奇跡をかなり小さい時に知りました。生きている奇跡。ただそこにいるのが凄いこと。そう思います。・・・・・・・今、生きることが当たり前になっています。だからこそ、すぐ心の在り方が問われているように感じています。そうですね、原点に帰れば今まで見えなかった者が見えてきます。それが、3・11移行に象徴される我々の生き方、心のあり方、なんだと思いますね。>人が人を思いやる。当たり前に生きているけれど、沢山の命の犠牲の上に生かされていることを。一人で生きてると思っても、先人の智恵に支えられてることを。そんな心の在り方をもう一度気付く為のサインに感じます。そうですね、人間は一人では生きていけない、これがわかるだけでも生きた価値があります。多くの先人がいるからこその私達なんですね。>生きることは何故辛いことが多いのか。きっと思い出すためなんでしょうね。そんなことを思いました。そうかもしれませんね。原点(神の視点)に帰るためのきっかけはいたるところにあるんでしょうね。神の視点とは、自分さえよければ、という思い、分離意識からの脱却であり、「自分」への気づきです。>ありがたいなにげに使ってる言葉が身に染みました生きてることの有り難み感謝を忘れてるときに誰かが教えてくれるのかな生きてることに喜べなくなるときに今日の言葉は身に染みました生かされてることはありがたいことなんだから素敵なコメントありがとうございます。多くの人とは深い意識でつながり合っているというのは、こういった何気ない言葉に共感を生むところなんかにも現れてくるのかもしれませんね。>私事ですが。親から受けた7歳以下の理にかなった私にも落ち度のある暴言体罰を許せたのは。全ての人は、本来愛溢れる存在で、そうなれない理由があるから、カテゴライズして決めつけ、人のせいにし、自己責任を取らず人を貶めると気付いていたからでした。また、母も一人の人間という話を目の前に現れた高次の存在と対面し話をしたなかで納得出来たからでした。・・・親への承認の欲求を手放すと、内側に目を向け自己(セルフ)と繋がりました。体験は、魂の記憶を遡る為に自ら選んだ最適な課題であり境遇だったと、エゴの小さな固定観念の世界を手放すと本質に触れました。つまり、手放したとたん、手にしていた。失くしたから、手に持っていました。うまく伝えられないのですが、こんな感じなことも、ありました。手放した瞬間に手に入れたというのは、逆説的ですが、本質を突いているなと思います。
2012.04.13
>二枚舌を使わない人達と一緒に生きたい。二枚舌とはウソを言わないということではありません。裏のない良心があり正当に間違いを指摘されたら理解して治そうと努力する人達です。これからはそういう世の中になっていくと思います。すべてが包み隠さず露呈していく世界になれば、誰もが良心に従って生きるようになるはずです。(3・23「現実とは本当はスピリチュアルなもの」)>思いのまま行動してくのもいいのかなぁと思います。(周囲の迷惑にならない範囲とはなりますが、人の迷惑顧みないと、周囲から大目玉ですねっ。行動は、感情との信頼を作るには良いように思います。)そうして、心(気持ちや感情)との揺ぎ無い信頼を作る事が「本当の自分」になれるのかなぁとも思いました。他人は自分の感情を作り出してくれるという点「にも」存在意義がありますね。日々素晴らしい学びを提供してくれているわけです。(3・25「魂は体験を求めて転生してくる」)>すべては、体験から学び、自分の魂の記憶。自分に還ること。永遠に循環しながら、螺旋を描くような意味合いを仰てるのかなぁと思いました。進化とは永遠に続くものであって、それは循環し、螺旋形を描くような形で、収縮ではなく、拡大していきます。我々自身もそうですし、この宇宙全体も、そして「ひとつなるもの」もです閉じられた世界ではなく、すべてが開かれた世界のようです。>もっと悟りを深めたいという思いで、記事を読ませていただきました。確かにすでに到達している自分自身を感じているのかもしれません。そして、今、苦しみに感じていることに耐え切れず逃れたいという思いがあり、悟りを求めているようです。悟らなくていい、苦しくていいんだ なんてすぐに受け入れられることではありませんが、おそらくそれでいいんでしょうね。あきらめて受け入れて、苦しんでいるうちに、シフトし始めるのでしょうね。宇宙はよく分かりません・・・。悟りを追求されておられる方は、それはそれで素晴らしいものだと思います。普段の私の記事は、自分ならどうするかという視点から書きますので、いろんな見方があって当然なのだという風に、一度私の記事から離れて俯瞰してとらえなおしていただければ幸いです。私の記事は所詮、自分がただ言いたいことを言っているだけですから(笑)。>今のわたしには、「いみみさん」が「意味みさん」に。全ての意味を。いみみさんなりの言葉で伝えてくれてる。そんなイメージを持ちました。うまいこと言いますね(笑)。でも、全ての意味は自分で考えてくださいね(笑)。(3・25「体験を求めるのは何のためか」)>受け止められ体験の承認の欲求。自我の小さな世界は、人生を失うような喪失。これらは、私自身、ほとほと懲りて、自分で納得しなくちゃ手放せませんでした。そんな所から体験からしか学べないこともあるんだろうなぁと思いました。何事も体験してみないと分かりませんからね。>逃げずに変わる かがりがいうには瀬織津姫は生まれていないそうだ。なるほど、生まれる訳がない。全知全能の美女が願いを叶えてくれる。そんな世界はこの大国主が操る今の地獄の世界のようにあってはならない世界だ。人は人と切磋琢磨しながら学んで自分を高めていける存在なのだろう。そんな私達に希望、癒しとして神、高次元が存在してもそんな存在が私達をコントロールしてはならない。大国主は自分を人に兼ねる悪質な行為をやめて変えられない自分を連れて私達の世界、地球、宇宙から出て行け!「かがり」というのはKagari∞Kazukiさんのことですよね?私もブログ拝見していましたから、誰のことをおっしゃっているのかは、だいたいわかります。私自身は、セオリツヒメという呼び名や捉え方も、一つの人間的な見方にすぎないと思っています。真実は他にも無数にあるはずです。ですから、誰が何を言おうが(もちろん私の言っていることも)気になさることはありませんよ。また、高次も私達を別の視点から捉えなおしただけです。高次の存在とは私達のことなんです。そして、高次の存在ほど、我々の世界には干渉しなくなりますし、できなくなります。それができるという存在は、偽者です。(3・29「意図(方向性)の変化は現実世界の変化となる」)>こうあるべきと考える固定観念であり、自我のフィルターを無くし、心を開いてありのままを聴くと、自分の視野も拡げ豊かになりますし、相手にも、思いや感じ方を伝えると気付きになりますし。還元されるのかなぁと思いました。そうですね、相手(他人)は自分のとてもよい先生です。嫌な点を全部教えてくれますから。嫌だと感じるところは、潜在的に自分にも内在しています。だからこそひっかかるわけです。(3・30「生存という名のゲーム」>自分の好きな人。あたたかな大地のようで。炎のような激しい情熱があって。清らかな水のようで。光り輝き、いつでもそこに在る、風の様な人。決して支配されない、逞しく、強かな、誇り高い人。思慮深く思いやりがある人。いい言葉ですね。そういう人になりたいものですね。
2012.04.13
皆様、いつもコメントをいただきありがとうございます。ブログという限られたものではありますが、こういったインターネットでのやりとりを通して、様々な方との交流ができ、うれしく思います。ただ、私もかなり忙しい生活をしておりまして、正直コメントにお答えすることが難しい状況です。なので、コメントをしてくださることはすごくうれしいのですが、できればコメントを返すほうの気持ちも察していてだけるとうれしいです。なので、コメントはできれば、一つの記事についてお一人様お一つ、それもできれば長文は避けていただけると助かります。今回から、コメントが長い場合は抜粋という形をとらせていただきます。多数の方が読まれる公共ブログですから、できるだけ多くの読者への配慮のため、ご了承ください。(3・8「マクロ的視点とミクロ的視点」>小さな変化が積み重なって大きな変化に繋がる。モノや人、カタチに拘らずに視野を広げ、様々な角度から何を伝えてるんだろうと見ていく。つまりは、点と点が繋がり線になるイメージに感じます。アセンションに限らずとも、色々な様々な面で当てはまるのかなぁと思いました。そうですね、これからは我々の常識を超えたところでマクロとミクロの統合が起こってくると感じます。我々には知らなかった事実が明らかになっていくみたいな感じでしょうか。(3・9「内の如く外もあり」)>人は、内的現実を生きてるのかなぁと思いました。また、あらゆる現象は、意味に気付くまでサインとして表れるのかなぁとも思いました。富士山が何か霊的な意味を持つのかなぁと。ちょっと、何だか何となく、、。記事をみて、何となく思いました。富士山は霊的象徴ですね。あらゆるものは象徴としての意味をもっていますから、広い意味での「自分」の表れとして自然界にあるものを見ていきますと、より自分自身の価値観や物の見方が広がっていくのではないかなと思います。(3・13「日本列島という大きなゆりかご」)神剣の話を読ませて頂いているあたりから、いみみさんとは対照的と言うのでしょうか、、上手く表現する言葉が見つからないのですが「受け入れる」「包み込む」「産まれる」そんなイメージをただただ感じました。現象は、産みの苦しみに際してる、そんな風に思いました。いろんなとらえ方がありますからね。ご自分の感覚を大切になさってください。>はじめまして、いつもimimi様の記事を読ませていただき、いろいろな気付きを与えられ、感謝しております。昨日14日の夕方に東北・北海道のほうで地震があり、私の住む関東もだいぶ揺れました。この地震は、今回imimiさんが書かれた「スサノオが剣を使って日本列島のエネルギーを活性化させる」ということや、「千島列島、アリューシャン列島がポイント」という内容と関係があったものなのでしょうか?あれは記事でも取り上げましたように、どちらかというと私のほうが地球(意識)の動きと同調したためにリンクしてきたんだと思っております。当時私は二つの視点を感じ取りました。一つは日本列島への影響。もう一つは日本列島から世界への影響の伝播。後者については、精神的なものではないかと書きました。ただ、現実世界を見てみますと、あの大きな揺れ以来、世界でも似たようなことが起きてきています。精神的な伝播ではないかと思ったのは、どちらかというとアセンションに関係した見方であった気がします。それとは別に、現象面は現象面として動向を探る必要もありそうですね。(3・15「本当の神は自分自身の内側にいる」)>先日の地震の時も全く危険なシグナルもなく、「なにがあってもだいじょうぶ」な感覚が強く、家が揺れてもいなかったんです(私は札幌在住)真実は無数にあり、全ての人がセルフ(気持ちや感情=心と信頼関係を取り戻す)と繋がると全ての人に内在神がいるように思います。そうですね、これからは大きな流れとして人類全体がそうした方向に向かっていくはずです。(3・19「現実とは過去・現在・未来の総体」)>身近な所では、コミュニケーションも、自分の問題を押し付けずに、思いや感じ方、そして気持ちを伝えるのがいいようにも感じています(人と自分を区別する。つまり、同じ体験であっても思いや感じ方は千差万別であるように真実も無数にあります。ワンネスの教えも自分と人は同じと考えがちですが、本来は補い合って支え合う循環することを示唆してるように感じてなりません。我々は一人一人違って当然なのですが、社会生活をしていくうえで一定程度全体の枠組みの中に従って生活していく必要があります。ですが、時代が変わり、価値観が変わる中で、今までとは異なった新たな生き方をする人々が出てくるようになりました。でも、そういった多様性があるからこそ、すべては全体といったワンネスの意味がより深まっていく気がしています。>あるがままの自分を受け入れること。そうして、心と繋がりセルフと一体になること。そう思います。また、生きる意味は、納得して自分で選んで決める。その時々の最善を尽くし、精一杯目の前のことをする。そんな後悔しない、これで良かったと思う人生を送ることかなぁと思っています。おっしゃる通りだと思いますね。
2012.04.13

ひさしぶりに救出活動をしてきました。京都で起きた死者8人を出した交通事故です。事故をネットで見た時、その凄惨さに衝撃を受けました。あまりにもむごい事故だったからです。いたたまれない気持ちとともに、自分を何かに役立てられないかという思いから、救出活動へと向かいました。私は、自分(「自分」)のために救出活動に向かったのです。最近救出活動をしていませんでしたので、手順を忘れかけましたが(笑)、フォーカス35付近の地球コアでエネルギーチャージをしてから救出現場へと向かいました。なお、以下は非物質的に感じ取ったものです。事実と食い違いがある可能性があることをあらかじめ申し上げておきます。救出活動前にはネットでの速報を見ただけで、私は普段テレビを見ませんから、詳しい状況は何も分からない状態で救出活動へと向かいました。着いたのは、事故が起きた後のようでした。すでに救急隊員が到着しており、懸命の蘇生が施されている最中のようでした。すぐに私は異変に気付きました。通常自然な死のプロセスをたどった場合には見られない、辺りをさまよっている状態の死者が現場にいました。自分が死んでいることに気がついていないみたいです。今回私は、一度だけ自ら救出活動に携わりましたが、おそらくはその時だったと思います。さまよっていた死者に近づき、こちらに注意をひきつけました。私は、ヘルパーが来るのを待ちました。ヘルパーとは、救出活動の際にターゲット(死者)を救出しにくる非物質的な存在です。しばらくしてヘルパーが現れ、私のほうに意識を向けてきました。私は、自分が死者とヘルパーとの間のかけ橋としてその場にいることを自覚していたので、特に何もせずに、ヘルパーに死者をあずけて状況を見守りました。死者は肉体をもった私の波動に近いため私を認識しやすく、ヘルパーは高次として働いてもいる私の霊体を認識しやすいので、その二人の間の「かけ橋」となったわけです。しばらくして、ある高次が私のもとに近づいてきました。君は何もしなくていい、と。無言でそういった思念のみ送ってきたので、すぐさま私は自分の置かれた立場を理解し、その高次に、ならば状況をただ見守らせていただけないかと聞きました。すると、それはかまわないというので、私は他の死者達がどうやって救出されるのかを見守ることにしました。印象的だったのは、道端でうずくまっている若い女性の姿でした。女性は明らかに混乱した様子でした。パニックに陥っているのが見てとれました。しばらくして、白衣を着た女性の看護師が現れました。ヘルパーもしくはリトリーバーのようでした。その看護師は「意識が開いており」、自分の役割を自覚していました。すぐさまパニックに陥っている女性のもとに近寄り、なだめすかしていました。パニックになった女性はその若い女性看護師には心を許したのか、しばらく二人は肩を寄せ合ってじっとしていたかと思うと、女性看護師の先導で別の次元へと消えていきました。あと印象にのぼってきたのは、犯人と思われる人物でした。男性で、中年ぐらいの人に見えました。男性は、「なんてことをしてしまったんだ。」という感じで、自分がやってしまったことを悔いているように見えました。救出活動後、ネットでの報道を見たところ、確信犯だったのではないかといった見方もあるようですが、私が見たところ、この男性はなんらかの病気によって死亡または意識を失い、その後、車が勝手に人通りの多い場所に突っ込んでいったのだと救出活動中に感じ取りました。救出活動後に見た報道記事では、加害者の男性がてんかんを患っていたという記事があり、私が感じとった病気とはこれのことかと思いました。話を戻すと、男性は明らかに動転していましたが、すぐにヘルパーと思われる老婆が現れてきました。なんとなくですが、この男性のガイド的存在のように感じられました。老婆は男性を連れて、さっきの看護師同様、別の次元へと消えていきました。上にあがっていくというよりは、徐々に二人の姿が小さくなって文字通り「消えていく」感じでした。私は、今回のようないたたまれない事故が起き、なぜこんなことが起きねばならなかったのか、理解に苦しみました。そこで、可能な限り、事故の背景をさぐってみると、事故そのものには特に意味はないのだと知りました。意味がないと言ったら語弊があるかもしれませんが、単なる事故だった、そこに加害者と被害者がいた、そういった感じです。では、事故で亡くなった人は、今回の事故で亡くなることがすでに決まっていたのでしょうか?何度か確かめましたが、決まっていなかったみたいです。決まっていなかったのですが、被害者の方には、起きてしまった結果に対して、自分がそれを引き受けるかどうかの選択権がある、どうやらこういうことみたいです。我々の想像を超えることなのですが、結果に対して、それが起きてから、それを選択するかどうかの自由が被害者にはあるのです。私には、その選択は、いわゆる「再生」とかかわりがあるように感じられました。「再生」、つまり、同じパーソナリティが生まれ変わることを指します。いわゆる、死に関しては、生まれる前に霊界でなんらかの取り決めがなされているのかもしれません。死期のおおよその時期ですとか。ですが、詳細については決まっておらず、今回のような突然の事故に遭遇した場合に、生じた結果を引き受けるかどうかについての選択権が被害者には与えられる。引き受けないという選択をした場合に、再び「再生」することが許される、おそらくはこんなことではないかという直観的印象を持ちました。その証拠に、今回の被害者については、その70%の人が「再生」を選択するようです。これは、シルバーバーチなどの信頼出来る情報からすれば、あり得ないほどの高いパーセンテージです。私にはなぜそれほど高確率で再生するのかその理由まではわかりませんでしたが、亡くなられた方で再生を選択する人が極めて多かったのです。その意味からすれば、私には、物事が100%決まっているということは少なくとも私達の目線からすればないのだ、こういうことを今回の救出活動を通して感じました。非物質的な現場は、多くの人がごった返している信念体系領域のようにも見えましたが、今回はそうではないのだということもはっきりと感じ取りました。亡くなられた方は、どちらかというとフォーカス23のような個別的な領域にいて、各々が別々にヘルパーに連れられて別の次元へと個別的に旅立っていったのです。亡くなられた方は、すべての方が無事救出され、しかるべき所へと旅立って行かれたことは、何よりも幸いなことだと感じました。私は今回の救出活動を通して、運命の不確定さというものを感じました。我々の目線からすれば物事は100%決まっているわけではなく、様々な状況に対して、人知を超えた視点から各人に配慮が行き届いている、そういった印象をもちました。亡くなられた方のご冥福を心よりお祈り申し上げます。some rights reserved by Jim Mead
2012.04.12

シルバーバーチのチャネラーであったモーリス・バーバネルは今、フォーカス27にいて、次の転生の準備をしている最中のようです。そして、モーリス・バーバネルの次の転生先は、日本で、江戸時代に農民の子として生まれるみたいです。親子の愛、絆を学びたいのだとか。でも、それならば西洋でも学べるはずです。ですが、バーバネル曰く、日本の義理人情や徒弟関係とでも言うべき上下関係を学びたいのだとか。モーリス・バーバネルは、しばらくは輪廻転生を続けるみたいです。もっとも、シルバーバーチとして高次からの中継係をしていたインディアンとの関係を探っていくと、あのインディアンはモーリス・バーバネルの過去世にあたり、なんらかの理由から進化の先をいっているようです。つまり、見方を変えれば、モーリス・バーバネルはあのインディアンのように進化していくわけです。モーリス・バーバネルは今、フォーカス27にいますが、奥さんのシルビア・バーバネルは、フォーカス27から35へと移行しつつあるみたいです。奥さんのほうは、キリスト意識とより深いかかわりがあると感じます。モーリス・バーバネルに、シルバーバーチの交信の秘密を聞いてみました。すると、実際に交霊会に出られた方ならわかると思うのですが(なかなかいないとは思いますが(笑))、シルバーバーチとのチャネリングはすべてフルトランス状態(完全に意識がなくなる状態)で行われていたみたいです。モーリスバーバネルとのコンタクト中、終始となりにいた奥さんが彼に「もう教えてあげたら?」みたいな意味深なことを言っていました。私が???と思っていると、モーリス・バーバネルはだいたいこんな思念を送ってきました。モーリス・バーバネルは最後まで、自分の背後にいるのは本当は誰なのか全くわからなかったみたいです。ですが、何者かがいたのは確かで、それがあのインディアンだった、こういうことのようです。モーリス・バーバネルというのは、私が思っていたよりもずっと気さくな人で、すごくフレンドリーな方でした。高次とのチャネル(通り道、パイプ役となる人物)というのは、ひょんなことから、しかもありふれたところに発生してきたりします。それはとりもなおさず、我々自身が高次の存在としても生き続けているからであり、我々は決して一人では生きていない証(あかし)でもあります。これからは、誰もが高次のチャネルになる時代であり、もっというと、我々自身が高次として生きていく時代であると感じています。 Some rights reserved by naitokz
2012.04.11

シルバーバーチという存在がいます。シルバーバーチは、いわゆるスピリチュアリズムにおいては非常に有名な存在で、そのメッセージは最も信頼性の高いものの一つであるとされています。ですが、最近になって私は、我々が自分や他人に対して感じ取る人格という観点からすれば、シルバーバーチという存在に空虚感を感じることが多くなってきました。それは、言っている内容うんぬんではないんです。シルバーバーチという存在は、いわば高級霊が降りてくる「窓口」のようなものであって、シルバーバーチという人格は存在しない、言葉にするとそんな感じです。ですが、最近、シルバーバーチと思わせるインディアン風の人格存在に出会い、意外な点を見出しました。シルバーバーチ霊の似顔絵は、インディアンとして知られていますが、あれは仲介者であって、もっと高次の存在が奥に控えているという風に一般には考えられています。それで、今回私は、確かにその通りだと思わせられる体験をしました。メモをとる暇もなくてうろ覚えなのですが、シルバーバーチと思われるインディアン風の霊が存在する領域は、驚くことに、フォーカス35(5次元)の少し上あたりでした。5次元以上、6次元未満の間に、我々の知らないフォーカスレベルが存在していて、そこにシルバーバーチであるインディアンはいます。意外だとは思いませんか?シルバーバーチといえば、誰もが認める高級霊のはず。その高級霊が、5次元の少し上にいるなんて。私的にはびっくりだったんですが、まあ、このインディアンが仲介者にすぎないということを考えれば、それもあり得なくないんでしょうね。このインディアン霊に、いろいろ聞いたはずなんですが、ほとんど覚えていません(笑)。一つだけ覚えているのは、このインディアンがどれくらいの数の高級霊を中継していたのかについてです。インディアンによると、その高級霊の数は、1500にものぼると言います。いわば一大霊団を形成して、このインディアンを媒介にして高級霊が地上にメッセージを送り続けていたみたいです。今回は主にこのインディアンにフォーカスしていたので、上のほうはよく見えませんでしたが、ここで高級霊と言っている存在の多くは、以前シルバーバーチの記事でご紹介したように、キリスト意識に由来する霊が多数います。このように、シルバーバーチというのは、フォーカスポイントによって感じられ方が異なってくるわけです。以下はメモとして残しておきます。インディアン曰く、私の高次も、シルバーバーチ霊団の一員としてメッセージをかつて地上に降ろしたことがあるのだそうです。本当かどうかは今のところ確かめることができませんが、死んでかなり進化していけばわかるかもしれません(笑)。しかし、いずれにしても、人に悲しみや不快感等ネガティブな感情ではなく、喜びや勇気、希望を与えてくれる、シルバーバーチのメッセージ。人間的な部分を多く残したインディアンが伝えてくれたからこそ、人間的な部分で多く共感できるメッセージ。そんなシルバーバーチのメッセージ、私は好きですね。
2012.04.10

今回は、相当マニアックです(笑)以前、ブログでも取り上げたんですが、セスという存在がいます。セスはいわゆるニューエイジブームの先駆的存在で、世界的に見ればバシャールとは比べものにならないくらい著名な存在です。セス本人が述べたところによれば、セスは過去(と申し上げてよいのでしょうか)において地球人として転生を重ね、現時点では輪廻を抜けてさらに進化を遂げた存在のようです。セスのチャネラーであったジェーンロバーツと、その夫、そしてセスは、魂的な結びつきが強く、特にセスとジェーンロバーツは同じトータルセルフの一員みたいです。セスには、セスIIと呼ばれる神のように進化した存在がいるとされ、ジェーンロバーツは進化の末セスのように、セスはやがて進化の末セスIIのように、セスIIはその時には別の何かになるとされているらしいです。まあ、興味のない方にはどうでもいい話かもしれませんね(笑)。ついでと言ってはなんですが、もう少しお付き合いください(笑)。モンロー研究所は、意識について深く科学的に研究する団体として世界的に知られていますが、その設立者であるロバート・モンローは、セスのチャネラーであったジェーンロバーツと交流があったようです。ある読者の方が教えてくださったのですが、邦訳されていないセスの本の中で、ロバートモンローがジェーンロバーツを訪ねた場面が描かれた部分があるらしいです。確かに、ロバートモンローがジェーンロバーツ、もっというとセスから深い影響を受けていると思われる部分が、「セスは語る」の中にも出てきます。私の読者であればすでに読まれた方も多いと思いますが、セスが人間の意識状態について記述した部分があります。本の中では、A1、A2、A3、A4として出てくるんですが、それがモンロー研で言うフォーカスレベルの記述と非常によく似ているのです。出来ればここで引用したいところですが、非常に長いんで、勘弁してください(笑)。興味のある方はぜひ読んでみてください。なるほどと思わせられるところがあります。ところで、セスという存在が信頼できるのかどうかについて触れておく必要があります。これはもう、証明できない事実を扱っていますので、夢物語として聞いていただければ幸いですが、かつて私は、セスとも集中的にコンタクトをとったことがありました。セスという存在は、たとえばサナンダのような神々しさはありません。どちらかというと、人間的な部分を多く残しています。なお、あらかじめ言っておきますと、セスはいわゆるネガティブな存在ではありません。一部でそのような主張がされる可能性を感じますが、あらかじめ申し上げておきたいと思います。セスは、人間的な経験豊富さゆえに、我々の目線で、我々に現実とは何かを語りかけてきます。セスも、フォーカスポイントは、今ここの現実にあるわけです。今、世間では、あらゆるチャネリング情報が飛び交っていますが、その真偽を見極める一つのメルクマールに、「究極的な存在とのかかわりについて触れているか、もしくはそれを感じさせるか」ということと、「今ここにフォーカスさせるものか否か」というのがあるように思います。もちろん、セスからの情報はこの2点を問題なくクリアします。最近はもう、私は誰のチャネリングであっても、それを読もうという気にはならなくなってしまいました。けっこう前からその傾向はあったことはあったんですが、最近は特にそんな感じです。チャネリングというより、人間的な話を多くされる方の記事は今でも拝見させていただいていますけどね。セスの話の中で興味をひかれることの一つに、キリストの再臨があります。セスによれば、キリストは3人いるらしいんですが、そのうちの2人はもうすでにこの地球上に出現しており、あとの一人は、確かあと数十年以内に地球上に出現するのだとか。その3人目のキリストは、自分が歴史上存在したキリストであることを自覚するばかりではなく、過去に転生したすべての多次元的な自分をも自覚した上で、自分がなすべきこと、すなわち、地球上にすでに存在するキリスト教の教義を根底から否定することになるみたいです。セスのチャネリング情報では、確率的偶然性の見地が織り込まれていることが多いですが、この第三のキリストについては、我々の確率的偶然の世界にすでに存在しているのだとか。いずれにしても、これから出現することになる第3のキリストは、人類にかなりのインパクトを与えるきっかけになるとセスは予言しています。ただ、私的には、この第三のキリストを待つまでもなく、「すでに今ここにおいて」、人類の意識には変化が起き始めているのを感じます。それは、外の神様に依存するのではなく、内なる神に目覚め始める人類が出現し始めているということです。セスの情報が、今の人類の多くの誤解を生む点があるとすれば、この第三のキリスト問題でしょう。セスによれば、第三のキリストは、最初のキリストがきっかけを与えてしまった「キリスト教」をどちらかというと破壊の方向に持っていくらしいんですが、私はそのきっかけというのも、我々一人一人がそういった方向性を選択しつつあり、一人一人が内在神に気付き始めていることと無関係ではないような気がしています。Some rights reserved by eskedal
2012.04.07

>いつも、気づかされる記事の更新ありがとうございますお尋ねします以前、”菩薩のように進化した存在があえて地球圏に舞い戻ってくる理由というのも、おそらくは自己の進化、そして全体の進化のため、こういうことになってくるのでしょうね。”とありました。もし、その魂がこの大変な時代に人々の意識進化を促すために舞い戻って来ているとしたら、自分は前世○○だったと、神の名前や歴史上有名な名を名乗り、人々の目を開かせようとしますか?実際、今の時代に舞い戻っていられるのですか?理屈ではなく直感的に受け取ってください。菩薩のように進化した存在は、他人を変えるために現実世界に舞い戻ってくるのではなく、自分を変えるためにです。変わるのはあくまで自分です。自分が変わることで、その影響が宇宙全体に及んでいきます。自分が得た体験は、広い意味での「自分」全体に宝物として共有されていきます。その宝物こそが、全体の進化を生む、そういう風に私は考えています。ですから、菩薩のように進化した存在ならば、他人を変えようとは思わないでしょう。むしろ、ひっそりと暮らしているはずです。ですが、その人がそこに存在していること自体が、周り(人、動植物)に影響を及ぼしていきます。その人の波動は、人から人へ、時空の縛りを超えて浸透していきます。我々の本質とは魂ですから、魂と魂が触れ合った時の感化能力というのがあります。その影響力というのは、現実世界という幻想世界にとどまらず、全方向に、多次元的に、影響を及ぼしていきます。そのようにして、時空を超えたところで進化のプロセスは徐々に、ですが確実に進んでいきます。Some rights reserved by Moyan_Brenn
2012.04.04

私のブログはタイトルが「imimiのリトリーバル日記」となっているように、もともとはへミシンクの技術を使った救出活動(リトリーバル)の体験記として出発しました。なんとなく流れ的なものがあり、へミシンクで延々と体験を重ねていく中で、ある時期から非物質的な体験とは真逆の強いグラウンディング効果が生じて、最近のような記事の流れに至っております。(グラウンディングとは、現実世界に強くフォーカスするという意味で使われている言葉です。)そのせいか、読者の皆様も、へミシンクとは無縁の方にご覧頂いているようで、うれしいかぎりです。ただいつもの記事では、そういった方々のための配慮に欠けるところがあり、申し訳なく思っております。大雑把な用語については、ブログ左にある「imimiのへミシンク用語解説」に出ておりますが(笑)、今一度、大雑把にご説明したいと思います。まず、へミシンクとは、ロバート・モンローという人が開発した音響技術でして、一言でいえば人間の潜在能力を開発するツールとでもいうべきものです。使い方は十人十色でして、私のような使い方ではなく(最初から非物質界のみにフォーカスするやり方)、もっと現実世界との接点を多く持ちつつ生活に生かしていくといったやり方もあります。もっとも、私の場合、純粋に非物質的な体験をのみを求めた結果、なぜかそれとは真逆の、私がへミシンクに求めていた非物質的な体験とは真逆の、日常生活への重視が深まっていきました。つまり、「陰極まれば陽となる」といったように、非物質的な体験を追求すればするほど、この現実世界での体験にまさるものはないという認識がより深まっていくようになりました。ですから、まず私からお話ししたいことは、へミシンクとは単なる音響技術であって、それ以上でもそれ以下でもない、要は使い方次第なんだということです。あとは、フォーカスレベルについて少しお話ししたいと思います。へミシンクの開発者であるロバート・モンローの著作を読むと、モンローは意識を段階的に移行することで体外離脱状態となり、非物質的な世界を旅することができると考えていたみたいです。その場合の、意識が徐々に移行していく過程において、特定の意識状態に名前をつけたものがフォーカスレベルと言われるものです。たとえば、フォーカス10は「肉体は眠っていて、頭は起きている状態」などと言われたりします。つまり、深くリラックスした状態です。フォーカス12は、意識がさらに拡大した状態、フォーカス15は、無時間の世界、フォーカス21は、いわゆる三途の川がある場所、フォーカス22~26は、意識の囚われ領域、フォーカス27は、意識の囚われから解放され、次の輪廻転生に向かうための中継地点、フォーカス35は、トータルセルフと呼ばれる、集合意識がある場所、などです。前回の話で出て来たのは、フォーカス27とフォーカス35ですね。私の過去記事を見てもらえばわかるのですが、フォーカス27には様々な施設があります(ただ今の私はそれが絶対であるとは思わないのですが)。へミシンクの世界で言われていることとはちょっと別の見方でご説明しますと、フォーカス27までは個別意識で生きる世界です。この個別意識と、もう一つ、集合意識についての違いについては、今まで何度も過去記事で取り上げてきましたので、そちらをご覧いただければと思います。簡単に言うと、個別意識で生きる生き方とは、今の我々に近い生き方です。自分は自分、他人は他人と考えて生きる生き方とでも言いますか、自分と他人と区別して生きる生き方です。ですが、様々な信頼出来る情報筋(過去ブログでご紹介してきたチャネリングや霊界からの情報)そして私自身の体験に基づいて考察した結果、個別意識での生き方とは別の生き方がどうやらあるということもわかってきました。それが、集合意識として生きる生き方(フォーカス35以上の世界)です。もっとも、集合意識として生きると言っても、個別意識時代の個性がなくなるわけではどうやらないみたいです。この辺は我々の常識を超えるところですが、個を大切にしつつも部分が全体として生きる生き方と言いますか、部分が多数集まったものの総和として生きる生き方と言いますか、あるいは全体としての共鳴状態を大切にしていく生き方とでも言いますか。要は、我々の言語を超越した世界観をもつ生き方、それが集合意識としての生き方なわけです。私の認識では、それがへミシンクで言うところのフォーカス35以上の世界なんだということです。もちろん、これが唯一絶対の考え方ではないことは言うまでもありません。ましてや、私の考え=モンロー研の考え、ではありませんからね。その点はご注意いただければと思います。今回は、いつもしないような、へミシンクの用語的な話となりました。すでにご存じの方は、ご理解いただければと思います。そのうちまたぶっ飛んだ話をするかもしれませんし、しないかもしれません(笑)。面白ければまた読みに来てみてくださいね。Some rights reserved by dreamcat115
2012.04.04

前回掲載した、花の写真ですが、あの白い輝きが私に連想させるのは、向こうの世界にいる方達にお会いした時の光景です。へミシンク中でもそうですが、単なる夢とは異なる、景色全体が輝いて見える中に、故人が現れてきます。身内の人の場合もそうですし、いわゆるガイドの場合もあります。フルカラーの映像なんですが、人物を含め景色全体の光度が増して輝きを放っている、そんな感じです。古くは、私が小学校5~6年の頃に亡くなった祖父が、死後49日の間に夢に出て来た時がそうでした。祖父は今、フォーカス35にいるらしいです。以前祖父のもとを訪れた時に、祖父は私に、植物を育てることを通じて部分意識と集合意識の違いが分かることを教えてくれました。また、大学時代に、以前実家で飼っていたシャム猫が、土手に座ってこちらを見つめている感じで出てきたりもしました。この猫は今、フォーカス27にいます。フォーカス27には、猫ばかりが集まっている領域があり、そこでヘルパーさんの世話を受けながら他の猫と共に生活しています(笑)。あとは、比較的最近亡くなった祖母の場合は、大勢の親族達と話しこんでいる様子を近くで私が見つめているというのもありました。祖母は、どこにいるのはよくわからないことがあるのですが、ちょっと前に意識をフォーカスさせた際には、以前とは見違えるほど進化しているのを感じました。祖父と一緒に出て来たんですが、二人とも見違えるほど若返っており、服装が西洋風で、昔の貴婦人を思わせるような格好でした。祖父も正装をして現れて来たので、一体いつの時代なんだろうと一瞬不思議に思ったほどでした。どの場合にも共通しているのは、映像がフルカラーで、色鮮やかで、人や物から光が放たれていて、振動数が高いと思われた点です。多次元的に見ると、我々の体というのは、光でできているらしいのですが、いわゆるアセンションによって肉体や霊体の振動数が高まると、光の粒子が以前より細かくなり、より精妙になっていくのだと以前高次から言われたことがありました。非物質界にいる人々が光輝いて見えるのも、我々よりも振動数が高いからなんでしょうけれども、我々の生活も、別の次元から見れば、光り輝いているのかもしれませんね。すべては相対的ですから。物事は流転し、移り変わり、生命から生命へと受け継がれ、今ここでの現実が展開されていきます。我々は自分だけで生きているつもりでも、実はそうではありません。我々は「全体として」生きており、その経験は、時を超え、場所を超え、あらゆる垣根を越えて、全体の中で生き続けていきます。魂は永遠に続くものです。次元は異なっても、またそこでの新たな生活が始まります。 Some rights reserved by Hyougushi
2012.04.03

人間は、失って(失いそうになって)初めてそのありがたみに気付くことがあります。普段は、あたりまえの生活をしてそれがありがたいということに気付きません。ですが、一度失って(失いかけて)、再び手に入れた時の気持ちは、はかりしれないものです。そんな経験、皆さんにはありませんか? Some rights reserved by CocteauBoy
2012.04.02
>imimiさま いつも興味深く拝見しております。何回か行ったリトリーバルで、印象深かったのが個人対象というより 多人数の方々がざっと上にあがっていかれるような場合です。震災の津波の場所では 人間だけでなく、一緒に死んでいった動物達も?リビアではカダフィ側について死んでいった人達が「上に」行くときに私の方が感謝に満ちたのが非常に印象に残っています。亡くなった方々が感謝してくれたのではなく、私の方が、無条件の感謝というのか、「ありがとう」というキモチに満ち満ちてしまったのです。ですので、リトリーバルはする側の学びの機会なのかなあ・・・と思っていたところのimimiさまの記事ですので、コメントしてみました☆救出活動(リトリーバル)にはいろんな段階があって、ちっぽけな自分側と、より広い「自分」側との間の直線の中で、どこかの自分(「自分」)を救出しているように思います。我々の感覚的には救出活動をしている時には自分でなくて他人を助けている感覚です。それはそれで普通ですし、それでいいんだと思います。ですが同時にそれは巡り巡って自分(「自分」)のためにもなる。そういった相互関係とでもいうべきものがある気がしますね。他人を助けることがひいては自分を助けることになる、そういった学びの機会を提供してくれるのが、救出活動(リトリーバル)なわけです。>前回コメントをさせて頂き、そのお返事に心が救われた者です。ありがとうございました。 私は昨年、父を亡くしました。鬱気味で自ら命を絶ってしまいました。あまりに急で、残された私達家族が動揺してしまい、信頼できる、俗に言う見える方に相談しました。 その方は「鬱の人は人の話を聞き入れなかったり、プライドが高い傾向あるの。先祖にもそういう血筋の方がいるから、お父さん一人だけをあげることは難しい。普通の供養がいいんじゃないですか」とズバッと仰いました。当時の私にはすごく殺生に聞こえましたが、今日のimimiさんの日記を見て、他人がすぐになんとかするというよりも、本人が学んでなんとかした方がその人の為になるのかな。と良い意味に捉えることが出来ました。私も誠実に生きることで、父にパワーを送れると良いです!そうですね。最近私は、以前よりも「自分」というものをより深く考察するようになりましたし、どのレベルの自分からみるかによってどういう対応をするのかにかなりの違いがあることも感じてきました。大雑把に見ますと、高次の存在ほど、現実世界への干渉はなくなります。それは波動の関係から実際できなくなるということ以上に、他人を変えるという発想がなくなる気がします。よい意味でも悪い意味でも。現実世界にいる我々においては、たとえどんな結果になっても、それはその人の選択したことであって、他の誰も評価したり、こうすればよかったとか言えないんですね。残された者の気持ちはどうなるのとか、いろいろあるかもしれない。でも、それは自分の視点(「自分」ではなく)なんですね。皆それぞれ、与えられた環境の中で、すべてのものに感謝して生きる、そういった視点が、すべての方向性(現在も、過去も、未来も)により良い影響を、「今この瞬間から」全方向に付与していくと感じています。(3・6エネルギーを取り入れるという視点)>太陽は、昔から何故か好きでした。全てにあらゆるものに、平等に与えられる陽の光。心が折れそうな時も、見上げると、いつもそこに在る。生かされてる。温かい。今でも、昔から変わらずに。陽の光をみると、まだ頑張れると勇気を貰えます(^-^)/太陽は与えるだけの存在ですね。何かを搾取したりしませんそういった意味では、太陽も霊的に見て我々がこれから遠い将来に進む方向性を示している、そういった風にとらえることもできます。>今回のお話は光明です~薬が毒であり食べ物が非物質的なエネルギー源だというのには喉のつっかえがとれた思いがしました。ストレス時の異常な食欲に対し創造的な気力が満ちているときは食欲が落ちる理由に合点を見出しました。また病院の薬が体に合わなくなってしまったわけも気づきました。どうもありがとうございます。今回の話は、ある方のために特に書く必要があると多次元的に感じたので書きました。私は普段、誰かのために記事を書くことはしませんが、今回だけは特別でした。神名を告げたのも、私なりの認識でということになりますが、私が何者なのかを霊的な出所から明らかにするのが礼儀だと感じたからです。(3・6神名について>imimiさんの記事を読んでいると、フワフワと気持ちのいい感覚になります。(記事はちょっと難しくてあまり理解できてないのですが・・)エネルギーがでているのでしょうね。エネルギーを受け取っているというより、「物質的に読む」ことで、自分の中の「それ」に波長が合っているような感じです。私の記事は、私が書いているようであってそうではないところがあります。最近では、情報の共有を通して、共鳴関係に至る、そういったこれからの弥勒の世にふさわしい意識の流れが起きているケースもあります。遠い未来、現実世界を生きながらワンネスに至るという相反する現象が実現するとかつて高次に言われたことがありますが、そういった方向性をブログを書きつつ感じています。ひとまずここで切ります。あとのお返事は、また時間のある時に書きます。
2012.04.01
>私は、三次元の現象界は、すべてが心の現れだなって思います。色々な角度から俯瞰すると、辛くて悲しい体験からも、感情が通り過ぎるとギフトとして教訓になり心に残せ、人にも思いやりを持てます。私は、レイキヒーリングのカタチとしてお金は無くなって心を痛みましたが、マントラの意味を理解し気の動きから(波動は、心の在り方に左右されるので無心に出来るときにオーラを読み解きました。いつもは、出来ません。私は、心が不安定でムラがあります。)今では私のハートを癒したりエネルギーを取り戻すツールとして活かせています。私にとって、いみみさんのブログが、自分と同じように人を愛する。人が人を思う、心の在り方を沢山の人が知るきっかけになるように感じられ、私は、それが嬉しいのです。理由は、解りませんがどうしても伝えたくて書きにきました。レイキヒーリングについては私自身は経験がありません。レイキについてはいろんな憶測がありますし、一部で言われていることは、「自分」とは何か、エネルギーの源泉がどこからくるのか、エネルギーと他人から分け与えてもらう必要性はあるのか等を深く考察していきますと、レイキについての憶測は的外れとはいえない気がします。これ以上の言及はしません。ですが、どんなものでも使い方次第、これは言えるようになります。自分のために使う、これほど素晴らしい使い方はありませんよ(笑)。自分を癒し、周りを癒し、土地を癒していけばいいわけですから。>私は、茨道のような人生でしたし、傷つきましたが痛みを沢山知り、失敗からも学べました。けれど、そういう体験だったから人にも思いやりを持てますし、心の在り方も知識からでは無く生きた自分の体験を通し、今では沢山の選択肢を知りあらゆる状況にも対応出来る自信もあるんだと思えました。前に進む勇気と、また、人の痛みをいやってほど体験しましたので、人が傷つくなら私が傷つくほうがいいと、ついつい自虐してしまいますが、私を攻撃する人までも自分を真髄まで信じセンターをしっかり持ち自分と同じように愛をもって見守る覚悟を決めれそうです。痛みを知ることができるというのは、幸せなことです。それによって相手(広い意味での「自分」)を思いやることがより深まりますから。そうすると、傷つけば傷つくほど愛が深まるのか?どうやらそうとも言えなさそうです。セスもこれについては言及していますが、要は、その人次第ということになってくるんだろうとは思いますけれども。いずれにしても、我々は大きな飛躍のチャンスを日々与えられ続けている、これは確かに言えるのではないかなと思います。(2・28生きているからこそ)いみみさん、前に試練っていうと本当に試練になるって教えてくれましたのに、わたし、またやってしまいました、、茨道なんて自分で決め付けありのままを見ないから、本当に茨道のような現実を、思っているから引き寄せてしまうんですね、、インナーチャイルドの痛みの現実まみれでした。もっと冷静にならなきゃです。沢山の気付きと学びを有難うございました。さみしいのは、人が人であるならではなのかなぁと今は思います。気持ちや感情が自分。肉体があり触れ合える。同じ人はいないから、補いあって支え合える。相手の中の自分と繋がれる。一人だけど独りじゃない。共に在ると思えました。最後の部分は、素晴らしいことだなと思います。とてもスピリチュアルなところをついていますし、本当の意味でのスピリチュアルとは、我々自身のことなんだといった、最近私が主張する点をうまく表現されていて、共感できます。摩訶不思議なことをやるだけがスピリチュアルではないんですね。我々の存在そのものがスピリチュアルなわけです。(2・29宇宙の話)>スケールが大きくて、関心していますo(^▽^)o今、過去記事も楽しく時間の許す限り読ませて頂いています。全部はまだ読めてません。私は、バシャールという存在が言う循環する考えた方が、因果応報論かなぁなんて、なんとなく思いました。良い行いも悪い行いも巡り巡ってかえってくるということかなぁと。宇宙さえも、ひょっとして心の表れ?なんて思っていました。つまりは、万物のスピリットは一つ。あらゆるものが相互作用しながら影響し合ってるような印象を受けます。おっしゃる通りだと思います。宇宙も我々の心の現れであるということは、現代科学の常識を超えますが、多次元的に見ればそういうことになっていきます。おっしゃっている、特に最後の2行は、私は非常に深い内容だと思います。(3・3本当の思いやりとは)>私は、リトリーバルしないので推測となりますが。私は、リトリーバル救済活動も人への思いやりも同じような印象を受けます。聞く準備のない人へは、見守り、この間センターをしっかり持つ。聞く準備のある人へは、気付く為のサポートに徹し押し付けない。いつでも、選択決断の自由は、相手にあるというのが大切かなぁと思います。また、いつでも自分の心に問いかけ、自分の分を出来る範囲をわきまえるのが自分を大切にすることかと考えています。また、常に誰の問題かと念頭にいれながら、相手に何かする。矩を越えない範囲で人を自分と同じように愛を持って接するのがいいように思います。ちょっと、怖い話をすると、憑依で霊能者が除霊する場合も、一方的に霊能者がするのは、霊能者がカルマを背負い、クライアントさんも別のカタチでいずれ現象に表れるのかなぁと思います。つまりは、霊能者も働きかけつつ、クライアントさんもセルフケアをする、共同作業が必要なのかなぁと。そういう点でみていくと、スピチュアルヒーラーのシルバーバーチの霊訓を参考にするといいのかなぁと思います。例によってヒーラーな私は(辛い体験でしたが、、泣)ヒーラーの師範から色々習ったんですが、ヒーリングの時に手から気が出てるイメージとティチャーに言われても、それは、自分の内気功では?クライアントさんにガイドと繋がるよう祈ると言われるも、それは、相手が望んでなければ押し付けでは?また自分の霊体からのエネルギーより、霊性レベルまで高め、高級霊のあくまでパイプにならんといけない気がする。知識で、こうだからから、私がしたいからするになると表現すると言いますか、、と、私はこんな感じで納得いかなくて、、ネットでスピチュアルヒーラーの公式サイトを何となくみつけ、今勉強してます。時代が進んで、遠い遠い未来、やがては人類皆ヒーラーになる気がします(笑)私は職業的にはヒーラーはしませんし、ただブログを書いているだけで誰かをヒーリングすることもないです(笑)。ですが、今の私からすれば、ヒーラー道を歩んでいる方は、人類がこれから進むであろう霊性進化の先を言っておられる気はします。もちろん、いろんな落とし穴にはまる可能性もあります(笑)。あくまで一般的な話ですからね(笑)。でも、そうではない人も出てくるように思います。要は、最終的にはバランス感覚なんでしょうね。>自分を救うのはやっぱり自分だと思います。「あの人のおかげで助かった」と「思う」のは自分なので。本日、ちょうどクライアントに前世療法を行いました。クライアントは現役の医師でした。自分の潜在意識と対話されて、帰って行かれました。僕は何もしていません。何も分析せずアドバイスもなし。何もしていませんが、もし改善したらクライアントは僕に助けられたと思うかもしれません。助けたのは僕ではなくご自分であり、自分の中の潜在意識、自然の力、内在神です。人生とは大いなる独り芝居かもしれません。すばらしいですね。自分で気づいて自分で帰っていかれるなんて(笑)。私も、へミシンクを始める前に、人生について思い悩んでいる時期があり、いわゆる過去世なんかも見てもらったことがありました。今なら自分でみます(笑)。というか、過去世には興味が全くありません(笑)。しかし、人によっては、そういう段階を踏む場合もあるのだということを、私自身、身をもって経験しています。ですから、普段私は他人へのヒーリングは不要という記事を書きつつも、現段階では必要な職業かもしれないとも思います。そういった意味においては、日々、より広い意味での「自分」へのすばらしい奉仕をされているなと感じます。
2012.04.01
(2・15お返事その2)>私はヘミシンクなるものの詳細は知らない人間です(笑)。長いこと真理探究みたいな、ある意味無意味なことをしておりましたが、私には家内と息子が私の悟りと気が付き色々なそういう憑き物がおちていきました。苦労が多かったのですが、その苦労も自分だけではない、どの家庭にも人に言えない苦しみがあるとわかった時に、変な自我も消えて行った気がします。imimiさんの回答、とてもまっすぐに理解できたと思っています。現実世界で気づきを得るのが格段に重要という言葉、素晴らしいですね。広く他人も自分との認識あるimimiさんであればこそ、自分へのメッセージということは、遠回しの独り言(確認?)みたいな感じですか?私は個人的には目的的な意味で進化向上という意識(意図)はなくなってしまったのですが、それは私にはしっくりくるのでそれはそれで良いのでしょうね。全然違う話なのですが、今、転勤でベトナムで生活しています。こちらでは蓮が国の花で、日本以上にPopularでちょっとした池とかに咲いているんです。ゴルフ場の池でも咲き乱れていて、思わず美しさに思考も足も立ち止まるほどです。色がまたちょっとこちらのは日本で見られない濃さで、異国の花だなあとも感じます、脳みそにピリッと衝撃が走る感じがします。じっと見ていると本当に悟りが開けそうです(笑)、冗談ですが。私は海外に行ったことがありませんので、海外での生活、あこがれます(笑)。そうですね、私の日記はどんなタイプの記事でも、独り言のようなものです(笑)。(2・15お返事その3)>私は、過去の心の痛みと向き合えなくて、学校をドロップアウトしたり、入退院したり、、話せない凄まじい半生を生き抜きました。そんな中で高次の方が目の前に表れ真実を教えてもらった体験をしています。さらに、苦難が続き心理を勉強したり、チャレンジばかり、、そんな折、いみみさんリトリーバルブログに辿りつき度々コメントさせて頂いた次第です。いっぱい泣いて苦しんだ私は、囚われたのは、自己責任であり、乗り越えられるから与えられた試練と全てを捉えていました。ですが、いみみさんのお返事にありました、「そうあるべくして存在してる」という考え方、心から救われました。私には、まだ命があり生かされていると思えました。大きく捉えてしまう私の幼い心を拾えました。心から感謝してます。有難うございます。我々は命があるのはあたりまえと思っていますが、命こそ生命力の源泉であり、生命力の躍動感をもたらす神からのギフトなんだと私は考えています。どんな体験でも命があるからこそであり、そういった意味では何が起ころうとも、人生そのものがダイヤモンドのような輝きを放っている。多次元的な見方ではそういうことになるように私は思います。(2・20菩薩と如来は一体)>言葉に表すのは難しいですが すべての人は、いまこの瞬間に、既に救われているという言葉(教え?)を、分かりやすく説明して頂いた気がします。だれも救う必要がないという意味が分かった気がします。問題は我々がすでに救われていることを実感できないことにありますが、一般的にされがちな、救い=エゴの要求解消ではないという点に悩みの解決方法がある気がします。うまく言えませんが。私は、たとえどんな体験であろうとも、その体験自体を求めて今ここにいるという認識をもっています。それは、広い意味での「自分」との交流を何度も重ねた結果、そういう考えに至りました。闇だけにフォーカスするのも自由ですし、反対に花の美しさ、生命力、躍動感にフォーカスするも自由です。その時々の我々なりの最善の選択によって我々は生きていけばいい、そんな風に私は考えています。(2・20ガイドとのつながりを深めるには)>わたしの感覚では、全ての人が内的現実を生きている。自分の心が三次元の現象界に様々なカタチとなって現れてるという意味に感じました。人との関わりを例に出すと、気持ちが感情が自分なのかなぁと思いました。相手がどうおもうかな?よりわたしはこう思う、、主体性を大事にするというか、、それが自分も相手も大事に出来るのかなと思いました。そうですね。自分の気持ちは大切だと思います。社会生活をしていますと、周りと合わせて生きる機会も多くなりますが、相手を他人ではなく広い意味での「自分」と見ますと、他人に相手の反応は自分自身の心の鏡となって現れているだけなのだということになってきます。広い意味での「自分」との協調関係(共鳴関係)を大切にしつつ、ちっぽけな自分の個性も大切にする、そのような、今までになかった時代にこれから入っていくように感じています。>わたし自身、こういうことだからと知識で蓋をして人の学びを摘み取り手を出してカルマを背負う怖さや罪深さを体験したことがあります。子供達や夫にです、、今は、それぞれに、気付く為の学びは用意されていてそれをどうこうしたいと摘み取り押し付けるのが罪深さだと思ってます。また、わたしには、三次元の肉体を持つ現象界にいる私達は、心(世代間連鎖での刷り込み、こうあるべきと考える固定観念、インナーチャイルドの問題、大いなる自分で内在神)が現実に何かしらのカタチで姿を現しているように感じます。神もほんとは、いないと思うんですが、、なんていうか、上手く表現できないんですが、何を意味してるんだろうと見ていくのも自由。見たくない、受け入れないとするのも自由。学びは自分と宇宙の間にそれぞれが用意されてるので、部外者は見守り助言しか出来ないんじゃないかなぁと思うんです。みんな違ってみんないい。それぞれが精一杯生きてる、そんな感じ。そんな生きてるだけで素晴らしい世界になれたら素敵ですね。わたしは、いみみさんのブログの意図が性善説のように感じるので安心して和むんです、、ガイドと繋がりを持ってみたいなと興味が出ました★そうですね、結局は他人の宿題ということになっていくんだろうと思います。その人に対してよかれと思ってやっているようでも、実はそれは自分自身のエゴだったりしますから。ですから、結局は他人のためではなく自分のためなんですね。でも、それとは違う生き方を、これから多くの人が選択していく可能性があると私は多次元的観点から感じています。それが、より広い意味での「自分」のためなんです。これは、エゴにとらわれているうちはわからないんですが、エゴから解放した瞬間を垣間見ると、今までとは全く異なった認識でもって世の中を見始める「自分」がいることに気付きます。そうなると、ちっぽけな自分だけのために行動するのではなく、より広い意味での「自分」のために行動するようになります。(2・23存在感について)>つい最近、私も存在について考えたてところです。友人に私が神社の好きな理由を聞かれて、「ただ、そこに神社がある(存在する)から…」と変な回答をしてしまったのがきっかけなんですが、自分で言っておいてハッ!としてしまったんです。"存在"の意味としては"そこにある"ということですが、これって実は大切なことなのかなと。この地球に存在すること…そのものに意義があるように感じました。そして、人も木も動物も地球も、いやいや宇宙のもの全てがただそこにある…そんな風に思えてきて、自分が存在できることに感謝の気持ちが込み上げてきました(笑)いつもこんな風にいろいろ考えてみるんですが、最終的には"感謝"に辿り着くようです(笑)ハトホル意識が伝えていますが、相手の存在を認めてあげることが、進化向上にとってとても大切なんだということみたいです。おそらくは、自分と自分の宇宙との関係で起きる森羅万象すべてに当てはまっていくのではないかなと思います。それはちっぽけな自分や相手にとどまらず、より大きな「自分」の進化、向上、循環、流転、流れ、等とでもいうべき「展開」につながっていく気がします。(2・27ブッダの師とは)>はい(^ ^)今をしっかり生きたいと思いました。ブログ応援してます。記事に関係ない内容となり恐縮ですが、マイミクになって頂いたのに、やめちゃいました。私は、自分の直感やフインキで考える所があり、枠組みで考える方の気分を害させてしまい批判メッセージ頂きましたので、身を引こう!と決め退場しました。自分のハートに従って生きるのが一番ですよ。
2012.04.01
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