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日立がイギリスの原子力発電会社ホライズン・ニュークリア・パワーを買収するのだという。まだ発電実績のない会社で、最近、株主の2社が撤退を表明するような会社なのに、日本の原子力ムラ社会で甘やかされたせいか判断力に狂いがあるのではないか。滅びゆく恐竜ということか。 小熊英二の言によれば、少なくとも日本では、原発産業はまもなく終わるのである。 原発というのは、権威主義体制•計画経済の産物であり、工業化時代の産物なんです。アメリカは79年のスリーマイル事故以降新規に原発が建つていないと言われますけれども、じつはそれ以前から立っていない。オイルショックでアメリカの製造業が衰退に向かい、工業化社会から転換したころからです。そのとどめとして、スリーマイルが来てしまっただけなんです。 そのあともつくっていたのは、国策で計画的に推進していたフランス、権威主義体制のロシアや中国などだけです。工業化社会ではなくなったところや、自由市場で民主主義の政治体制のところでは、みんな,止まっている。これから原発は、発展途上国の象徴になるでしようね。 日本でも90年代から製造業が衰退し始めて、もう増設のぺースが落ちていたあと、とどめで事故が来てしまったわけです。経済の自由化も、政治の民主化も進んでいるし、政官財界の「鉄の三角形」も弱っている。たしかに、森喜朗を自民党の総裁に選んだときのような、旧体制の揺れ戻しはありうるでしょうが、長期トレンドとしては無理だと思います。[1] だから、私たちがやらなければならないのは1日でも1秒でも早く廃炉にして、放射能を封じ込めることである。新党を立ち上げるという石原慎太郎が、原発を「21世紀に残すべき素晴らしい科学技術だ」などと語っているが、かれは数が数えられないといってフランス人を侮蔑したように、数学や科学などについてはまったくの無知らしいので、敢えて問題にする必要はないだろう。 理系の人なら誰でも知っているように、近代数学に寄与した日本人はほとんどいない(現代数学では別だが)のに、教科書にはフランスの数学者の名前がやたらに出てくるのである。その近代数学を使って日本の科学技術、産業は栄えたのである。侮辱などとはとんでもない礼儀知らずで、フランス人に感謝しなければならないほどなのだ。 さて「さすらいの脱原発金曜デモ」の今日の集合場所は、錦町公園である。大きい広場なので、少なく見えるがけっこう人は集まっている。車のライトなど自前の照明もあってけっこう明るい。 楽器も多くなって賑やかさもひときわ増大したようだ。 錦町公園の1角に、まもなく200人。 (2012/10/26 18:23) 九州に家族で非難した人のスピーチ、家族4人で始めた参加した人の挨拶、東京から反原発連合のスタッフの11・11の百万人集会のアピールを兼ねたスピーチなどがあった。 ほんとに元気だなぁ。 (2012/10/26 18:56) 錦町公園から定禅寺通り1番町まで西進、一番町を青葉通りまで南下、青葉通りを二番町(国道48号)を越えて東進して流れ解散である。 とにかく、今日は賑やかだった。声はよく揃っているし、鳴り物はたくさんあるし、しかも一人一人が元気なのである。気のせいかもしれないが、いつもよりずっと若い人が多かったように思う。 流れ解散場所に到着して、コーラーも含めてふっとみんなの気がゆるんだとき、その若い一人がマイクなしで音頭を取ったのでまたみんなが元気にシュプレッヒコールをするという場面があった。若い人は本当に「力」だなぁ、ということである。 解散です。 (2012/10/26 19:16) [1] 赤坂憲雄、小熊英二(編著)『辺境から始まる 東京/東北論』(明石書店、2012年) p. 321。
2012.10.26
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仙台市大沢市民センター主催の「地域の自然再発見! ~大沢を取り巻く山の風景~」市民講座の3回目で最終回は、「黒森山国有林」である。 前の二カ所の里山と同様に「みやぎ里山整備クラブ」という麓の仙台市泉区館地区の住民が中心となっている市民団体が、名前の通りに主として放置林の整備をボランティアで行っている。 今日の講師は、「みやぎ里山整備クラブ」の笠原昭彦さんと五戸良明さんのお二人。参加者は受講生が12人、主催の市民センターから4人、「みやぎ里山整備クラブ」から講師以外に2人、二回目の蒲沢山の「里山ねっと赤坂」から2人というメンバーである。 集合場所の保育所建設予定地で、三回とも上天気に恵まれたことを歓びながら挨拶、受付を終え、軽い準備体操をして10:41に出発である。 Photo A 館一丁目と館二丁目の間の道を行く。 (2012/10/26 10:52) 途中、「八百ふじ泉ビレジ店」というスーパーで出発前のトイレを済ませる。館一丁目と館二丁目の境の道を山に向かう。ハナミズキの並木が紅葉していて、中にはほとんど葉が落ちて真っ赤な実がたくさん見える木もあって美しい。 Photo B 山に入ってすぐの短い急坂。 (2012/10/26 10:57) Photo C 珍しいソヨゴ(青冬)の葉。 (2012/10/26 10:59) 急坂を上り終えてすぐ、道を逸れて案内されて教えてもらったのがソヨゴ(青冬)の木であった。群生なのか株立ちなのか分からないが7,8本がまとまって生えている。初めて見る木である。常緑の木で、従来は福島県が北限とされていたらしい。そうであれば、この黒森山が新しい北限の地となるかも知れないという珍しい木なのだそうだ。 Photo D,E 手入れした檜林(左)と放置されたままの檜林。 (2012/10/26 11:07) 次のハイライトは、「みやぎ里山整備クラブ」が力を注いでいる森の整備の場所である。黒森山国有林は「保存林」ではなく「生産林」である。そのため、地図でも明らかなように林道が整備されている。主として檜が植林されているが、ある頃からほとんど放置されたままである。それを整備して身近で親しめる里山として再生しようというのが「みやぎ里山整備クラブ」の趣旨だろうと推察した。 手入れは、下草(とくにスズタケの藪)刈り、下枝払いに加えて間伐も行っているとのことだった。ちょうど道を挟んで手入れをした林と放置されたままの林が眺められる場所があって、その比較は一目瞭然として林の善し悪しがわかるのである。まもなく間伐材の引き上げ、運搬の講習会まで開くということだ。 Photo F 快適な秋の陽ざしの中を。 (2012/10/26 11:19) 最初の狭い山道はすぐに林道跡となり、歩きは快適である。開けた場所にでると、秋の陽ざしが快い。 ふたたび道を逸れて案内されたところは、下生えを手入れした雑木林である。「みやぎ里山整備クラブ」の自慢の場所で、「魅了の地」だという。かつて里山と里人とが深く関わり合って生きていた頃、こうであっただろうと思わせる美しい雑木林である。 Photo G 手入れが生みだした美しい林間、「魅了の地」。 (2012/10/26 11:30) この「魅了の地」の近くの林間には用具入れなどがしつらえてある広場があって、「みやぎ里山整備クラブ」の活動の拠点としているという。そこから、道のない林間を歩いて林道に戻る。林の中を自在に歩けるというのは本当に楽しいことだということが分かる。 今年は紅葉が遅いね、などと話ながら林道を15分ほど歩くと、右手がぱっと開けてゴルフ場である。林との境界にはイノシシ除けの電線が張られている「西仙台カントリークラブ」のゴルフ場だ。ゴルフという遊びを一切やらずに山歩きが好きな私にしてみれば、広い山林を潰すゴルフ場が恨めしいのである。 週日(金曜日)のせいか、プレーする人は一人も見えなかった。今も昔もやはり私には不似合いなぜいたくな遊びらしいのだ(帰り足で、遠くに一組見えた)。 Photo H 木漏れ日の中での昼食。 (2012/10/26 12:16) ゴルフ場を過ぎて10分ほどで昼食休憩、林道や林道脇の林で三々五々昼食である。透明な秋の空気の木漏れ日が美しい。これがブナ林だと木漏れ日に輝く樹肌がはっとするほど白く輝くことがあるが、ここはクヌギ、コナラときどきミズナラの雑木林で、落ち着いた色合いで光っている。 遅い紅葉も、さまざまに。 昼食後、少しだけ前に進み、開けた場所で終点である。この場所は以前は伐採木の集積場所でここから材木を運び出していたということだ。 開けた場所なので昼食休憩の候補地だったが、このような開けた場所の林辺にはスズメバチが営巣することが多いので林の中を昼食場所に決めたという。そういえば、子どもの頃に眺めていたのだが、大人が採る地バチの巣は畑と林の境界辺が多かったことを思い出した。 帰り道では、少し斜面を下って二,三週間前だという熊の糞の場所を教えてもらった。その後、新しいものはないのでこの付近にはいないだろうとのことだった。そのままの糞をそれとして見るの初めてだが、8年ほど前に大東岳の中腹くらいまで遊びに行ったとき、連れの犬が体中に熊の糞をまとってきて閉口しことがあった。犬というものは山中の獣として同化しようとするのかときどきそんなことをやるのだ。大東岳の北東面を流れる穴戸沢に、水の大嫌いな犬を引きずり込んで徹底的に洗う破目になったのだった。 Photo I(左) 刈り払いしたスズタケで落葉用箒を作って。 (2012/10/26 13:33) Photo J(右) 最後の歩き、まもなく出口。 (2012/10/26 13:50) 講師の笠原さんが、刈り取ったスズタケで箒を作って見せてくれた。濡れ落ち葉に最適だという。せっかく教えてもらったのだが、我が家にはその箒を使って掃くべき十分な庭がないのだった。 これで市民講座の里山歩きはおしまいだが、権現森以外の二つの里山、蒲沢山と黒森山は初めてで、遊べる山がまた増えた。この冬の散策の候補地である。森を出た所で。今度来るときの駐車場所を探していたら、講師の五戸さんに良い場所を教えてもらった。先日の蒲沢山の時は、やはり講師の松崎さんに駐車場所を教えてもらっていたので、ほぼ準備は完璧である。 楽しかった。 Map 黒森山。A~Jは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV4」、歩行軌跡(往路のみ)は、「GARMIN GPSMAP60CSx」によるGPSトラックデータによる。
2012.10.26
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昨夕は雨が降っていて、傘を差して長い散歩をしたというのに、イオは定期的な夕方ウンチをさぼった。案の定、4時頃にイオの猛攻撃をくらうことになった。いくら何でもまだ真っ暗なので、散歩に出かける準備に見せかけながら時間を潰して、5時頃に家を出た。 思い立ったのは、「割烹魚長」の柳を見に行こう、ということだった。散歩の途中で見かけるたった一本のお気に入りの柳の木なのだが、その場所をはっきり記憶していない。地番を確かめたかったのだ。ぶらぶらとのんびり散歩しながら探しているうちに十分に明るくなるだろうから、ついでに芦立畳店のススキの写真を撮っておこうと考えた。 割烹、料亭だから飲食店街に近い国分町だろうと見当をつけたが、見つからない。西は晩翠通り、東は一番町通り、北は定禅寺通り、南は青葉通り、その広い長方形の区画を歩いたが見つからなかった。割烹だから国分町という思い込みが間違いのもとだった(帰宅してから地図を調べたら、芦立畳店にとても近いのだった)。 そんなこんなで、今が盛りのススキ見物である。広瀬通りの歩道と畳店の建物の隙間に植えられた一株のススキが、私のお気に入りの街中スポットのひとつである。 芦立畳店のススキ。(2012/10/24 6:30) 左:9月中旬のススキ。(2012/9/17 6:44) 右:10月下旬のススキ。(2012/10/24 6:30) 左:9月にはホオズキも。(2012/9/17 6:45) 右:10月はススキだけ。 (2012/10/24 6:31) 毎年、同じように育っている。時として育ちすぎて大暴れする年もあるが、たいていは乱れず咲いている。その端正さがよい。株元が制限されているだけではなく、何か上手な手当があるのかもしれない。他人様のススキなのに、ずっとこうであってほしいと勝手に願っているのである。 さて、「魚長」の柳はどうしたかというと、あきらめたのである。場所を確かめに歩きまわったが、その目的は帰宅後の地図調べで達成できた。 場所を確認しておきたかったのは、その柳の冬の姿を見に行く準備としてだった。葉が落ちた姿には歴年の手入れの様子が残されているだろう。料亭の玄関近く、建物に張りつくように伸びている柳はどんなふうに手入れされているのかを見たいのである。 広瀬通・立町界隈(地図のベースは、「プロアトラスSV4」)。
2012.10.24
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午前中は村田町の陶器市へ、昼過ぎからは小、中学校時代の同級生たちと昼食会、少し昼酒(ビール)も飲んだ。そんなにいろいろとこなせる年齢でないのに、うっかり予定を重ねてしまった。どれも私が率先して日取りを決めたものだから、誰にも文句を言う筋合いでないことが少しばかり悔しい。 今や午後6時は夜である。デジカメをカメラ任せでしか使わない私としては、集会やデモの写真を写すのはなかなか難しい。それで、一番古いデジカメを持ち出して写してみた。 感度をISO1600にしてAFで写すと、シャッター速度が早くて写真が暗い。Photo shopで明るくしたのが下の写真。これまで使っていたデジカメでは、シャッター速度が遅く、人は動くし、手ぶれも起きるし、街灯やビルの灯りがハレーションを起こすのに較べれば、出来はいいようだ。右端には、暗くているかどうか分からなかった人たちが写っている。 目をこらすと闇に中にも人が。 (2012/10/19 18:09) 集会スピーチでは、東北6県で同時に開催されているすべての脱原発デモに送った連帯のメッセージが紹介された。メッセージは、こう結ばれている。 今止めずにいつ止めるのか!今こそ、一人一人が立ち上がり、原子力の時代にピリオドを打つ時です。 私たちは、バラバラでいたのでは、無力な砂の一粒にすぎません。しかし、つながればパワー、一つの大きな力になります。つながりあって粘り強く闘いましょう! そう、私としても「持続すること」が当面の努力目標。7月から12回の金曜デモ、昼デモ1回、夜の集会1回と、一応、週1回の参加ペースは崩れていない。だから、脱原発ブログも14回目の投稿になる。 ハロウィーンです、早いけど。(2012/10/19 18:51) 呼びかけに応じて、参加者の中にはハロウィーン風に仮装した人が五,六人いて周りを楽しませている。鳴り物も増えていって、どんどん元気で楽しいデモになっていくが、参加者数は落ち着いている。急に冷え込んできたこの夜のデモなのに、150人が集まった。 私の前方。 (2012/10/19 18:51) 今日、持ってきた旧いデジカメは大成功だった。露出時間が短いので手ぶれなしで写っているし、街の灯りで十分に明るく写っている。これでまた、何の工夫もしないで、カメラを取り替えただけで夜デモを写すのである。カメラの使い方、カメラの知識は前のまんま、何の進歩もない。 私の後方。 (2012/10/19 18:51) 疲れた。これからは慎重に予定を立てなくては。だけど、来週の金曜日の昼は、すでに里山歩きの予定が入っている。なんということ。 それでも、まずは良かった。さしあたって、夜デモ用のカメラの問題は片付いた。
2012.10.19
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「蔵の陶器市」は10時からだというのに、15分も早く着いてしまった。自宅も村田町の中心部も東北道に近いので、30分足らずなのだった。 今日は、仙台に戻って、小、中学校時代の同級生との昼食会、夕方の脱原発金曜デモと時間に追われているため、急いで家を出たせいでもある。 昨年は時間に余裕があったので、犬(イオ)連れでのんびり見て回った。妻と交替で店に入り、片方は犬と道で遊んでいた。 今年は時間がないので、「イオは留守番!」、妻のひと言があって、イオの恨めしそうな顔に見送られて家を出て来た。車で出かける町歩きは、イオ連れという私のひそかな原則はあっさりと破れたのだった。 10時前の「蔵の町並み」 、陶器市の「本部」があるあたり。(2012/10/19 9:46) 時間前とは分かっていたが、消耗した食器類を補充しなければならないので、さっそく物色を始めた。「本部」と掲げた小さなテント前から南に向かって歩き始めた。 10時前には売ることはできないらしいうえに、まだ、店開きが終わっていないところもあったのだが、いくつか狙いを定めながら進んで、南の端に達した頃に10時になったので、戻り足でいくつか購入した。 微妙に趣きが違う藏造りの家々。 座敷での展示販売「studio bwanji」 (2012/10/19 10:05) 蔵の町と言うだけあって、確かに藏造りの家が多いが、陶器探しが目的なのと、時間がないのとで、あまりじっくりと見て歩いたわけではない。店(藏造りの家)に入ってみると、内部に建築年月を記した紙が貼ってあって、「文政」、「安政」、「明治」などの年号が記されている。もしかすると、普段の時でも見学できる屋敷があるのかもしれない。 左:君も陶芸が趣味ですか? (2012/10/19 10:15) 右:塀の中のザクロ。 (2012/10/19 10:19) 用事だけ済まそうという気分でいたのだが、昨年の私たちのようなペット連れのご夫婦がいて、写真を撮らせてもらった。カメラを向けると、近寄ってきてポーズを取るのだが、飼い主さんは「いつもは写真なんか撮らせないんですよ」と驚いていた。たぶん、「変な奴がしゃがみ込んでいる」と私を調べに来る途中を写してさっさと私が立ち上がったので、結果的に写真を撮ってもらうために近寄って来たように見えただけなのだろう。 ザクロは妻が見つけた。柘榴の木はみんな知っていて珍しくないように思っているが、じつはそんなに多くはない。庭木なのだが、植えている家は多くないのだ。 11時半にはほぼ回り終え、帰ることにした。妻が必要だというものと私が欲しいものをそれなりに入手できた。 私としては、「辰砂」の器でいいものがないかと探しながら歩いていたのだが、辰砂の器そのものがほとんどなかった。辰砂のいいものは値が張ることが多いので、見つからなかったことで少しほっとした気分もある。妻といらざる緊張関係を結ぶことがなかったということだ。 すぐにでも使う普段使いの器たち。 (2012/10/19 12:15) 左上、口縁にだけ細く透明釉のかかっている小ぶりの磁器の飯椀で、つや消しの白色の風合いに惹かれて、昨年、小皿と一緒に購入した。お気に入りだったが割ってしまったので買い直ししたもの(「studio bwanji」東京都小平市)。 左下、口径は広いがとても浅い飯椀で細かな貫入が美しい。卵かけご飯や納豆飯をたべるイメージで私用(「松永窯」福島県浪江町)(卵かけご飯や納豆飯ばかり食べているわけではないが)。 中下、高台を小さくしたとても軽い灰釉の飯椀で108才の義母用(「無盡窯」宮城県石巻市)。軽くするのは限度があるが、見た目の重さと実際の重さのギャップでとても軽く感じるのだという若い作家の解説付きである(震災の被害の話題もあって、わずかな時間差で家族全員無事だったというのは、なによりでした)。確かに、器は手にとる前に必ず目で見るのだ。 中上、野草(イチヤクソウ、カタクリ、イヌタデ(あかまんま)、ホタルブクロ、ナデシコの5種)の染め付けが可愛い小椀、おひたし用にと妻の選択(「熊野山窯」仙台市熊野山)。 ここまでは妻の領分であっさり決定した。 左下部の2枚の薄出来の皿はパスタ用(「STUDIO 654」茨城県笠間市)に。下の2枚の小皿は大皿とまったく同じ焼き方で、おまけとして頂いた。パスタにピクルスでも添えようか、という風情。 上部の細長の2枚の小鉢は抽象画のような釉流れが気に入って即買いしたもの(「草風舎」岩手県滝沢村)。何を盛りつけるかと聞かれれば、さしあたっては(昨夜作ったような)鯵のお造りを5切れほどおろし生姜と一緒に大葉の上にのせて、というところか。 右側の器は私が気に入って購入したものだが、手にとって眺めていると脇から妻が「何を盛りつけるの?」とか「どんな料理に使うの?」とか、とにかくうるさい。 「あなたが盛りつけるのよ」、「あなたが料理して使うのよ」という強い意味を込めて、私の耳元で呪詛のようにくり返しくり返し宣告するのだ。まるで、呪いの魔女である。 「呪いの魔女」を助手席に乗せて、家に帰り着いたのは12時8分。これから仙台駅の待ち合わせ場所に出かけ、旧い同級生と昼食会だ。最近、近場の同級生と昼食会を始めたのだが、今日の参加者の一人とは40年ぶりに会う。 変わらない面影を見つけるのも楽しいが、変わってしまった顔を見るのも年月の味わいがあってそれなりに楽しいのだ。 イオにふたたび「留守番だよ」と言い聞かせて家を出る。
2012.10.19
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うぐいすの鳴き声でめざめる京都の七軒小路幼い息子とのふたり暮らしの旧い木造の二階めざめた私の顔を覗き込む息子のはにかんだ顔何事も起きなかったかのような 平和な朝君の笑顔を守りたくて 君を連れて逃げた何もかも棄てて 君を連れて逃げた原発事故から 放射能から 逃げた......(中略)......この路地で君を守りきれるか私の静かな覚悟を君は知らぬままやがて健やかな青年になっていくことをひたすら願う 中村純「路地」部分 [1] 放射能汚染地域から逃げられることは一つの過程にすぎず、しかも、いかなる犠牲もなしに逃げられる人はいない。そして、子どもを守ろうとする覚悟と決意、うち続く苦闘がそれで終わるわけでもない。 中村純さんの詩集を読み終えて、辛い気持ちでデモに出かける。少なくても、デモくらいは元気にやらなくては......。 「さすらいの金曜デモですいません......。」 開口1番の主催者挨拶である。今日は元鍛治丁公園集合、1週間前は東北大学北門前集合、2週間前は勾当台公園集合と、集合場所が変わっていることを指している。秋は公園でのイヴェントが立て込んでいて、集合場所の選定に苦労しているらしい。 デモはデモ参加者以外の誰かへのアピール行動なのだから、いろんな場所でやることはたくさんの人にアピールできるというメリットもある。いっそのこと、デモの集合、出発場所を市内のいろんな所にすることで、広範な市民へのアピールを図ることを戦術として採用してはどうか、などと主催者の苦労を考えもせずに思ったりする。 いつもは、公園の奥のステージ前に集まっているのだが、今日は公園の入口付近を中心に人が集まっている。そのままの体型でデモに出発できるということらしい。 参加者の短い挨拶が続く。カンパ箱が回ってきたので、ポケットに手をやると財布がない。急いで家を出たので財布を忘れてきたのだ。申し訳ない、というか、気まずい感じでパスさせてもらった。 飲食店街に近い雰囲気が。 (2012/10/12 18:20) 時間通りに会場に着いたばかりの時には人が少ないと思うけれども、デモが出発する頃にはだいぶ集まっているというのがいつものことだ。今日も、最終的にはは250人ほどの参加者になったそうである。何人もの人が、デモの途中で加わってくることも効いているだろう。 集まり初めはこんなものだが......。 (2012/10/12 18:03) 今日のデモは一段と賑やかで派手である。主催者がハロウィーンに合わせての仮装と楽器持参を呼びかけたためだ。仮装している人を見かけたが、夜のデモで暗かったのが、少し残念。 19:00ちょうどくらいにデモは終了。今日はバス時刻を気にする必要はない。時間がたっぷりあるからではない。財布がないので自宅まで歩くからである。これから帰る旨の電話をすると、「健康のために歩いていらっしゃい」と。同情はまったくないのだった。 仙都会館前(解散場所)に着いた最後尾。 (2012/10/12 18:59) 家に帰ったら、机の真ん中にどんと置いてある『国会事故調 報告書』を読み始めなければと思うのだが、いくぶん(どころか、すごく)憂鬱である。『国会事故調』ばかりではない。『福島原発事故独立委員会 調査・検証報告書』、いわゆる「民間事故調」の報告書の電子書籍版がずっとタブレットPCに入ったままになっている。これすらもまだパラパラッと拾い読みしただけである(電子書籍にパラパラという擬音は変だが)。 「絶対安全」という欺瞞の末の最悪の原発事故、技術的に処理能力がない東電、政策的に処理能力のない政治家と役人、成功したのは隠蔽処理だけという果てしない劣悪な右往左往、その詳細な経過報告を読むというのは、考えられるかぎりでのもっとも憂鬱な行いではないか。でも、読まなきゃいけないのか。まぁ、拾い読みくらいはしておこうか、などと長い帰宅散歩をしながら考えたのだった。 [1] 中村純『詩集 3・11後の新しい君たちへ』(内部被爆から子どもを守る会 関西疎開移住(希望)者ネットワーク、2012年) p. 18-20。 連絡先: http://kodomo-mamoru.net/ info$kodomo-net ($を@で置き換える)
2012.10.12
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蛇ヶ岳分岐から3分、10:05、蛇ヶ岳山頂である。この山頂は狭く、展望もさほどではない(三峰山方向は見える)ので、水を補給しただけで通過である。 Photo J 蛇が岳山頂。 (2012/10/8 10:05) 蛇ヶ岳を少し過ぎた付近から見ると船形山に東から雲がかかり始めている。厚い雲ではないので、心配はないだろう。 Photo K 蛇が岳からの船形山。山頂は雲の中。 (2012/10/8 10:09) 蛇ヶ岳山頂から升沢コース分岐までは笹で道が隠れてしまっている道が続く。今日は晴れているからよいが、雨が降っていたり、露が落ちている時には辛い道だ。 若いころ、泉ヶ岳-北泉ヶ岳-三峰山-升沢小屋泊-船形山-蛇ヶ岳-後白髪山-(後白髪コース)-定義と歩いたことがあったが、升沢小屋から定義まではずっと小雨だった。帰りを急ぐため、飯盒の飯を食べながらこの笹藪道を歩いたことがある。そのうえ、後白髪山に着いたら山頂一帯がぶすぶす煙っていた。雷か何かで火が出たのだろうが、雨が幸いしてくすぶっているだけだった。煙の多いあたりを足で踏みつぶしたものの、這い松が深い所はどうにもならないのでそのまま下りてきて、家に帰り着いてから県庁に連絡した記憶がある。 Photo L 笹の海に潜行するガイド犬。 (2012/10/8 10:11) 上の写真、リードの先、4mほど前の笹藪の下をイオが先導して歩いているのだ。まるで笹の海に潜行して進んで行く潜水艦なのである。リードに繋がった私はひたすらその後を付いていけば、間違いなく早足でも道を辿ることができて、大いに助かったのだ。 突然イオが魚のように空中に飛びだし、ふたたびさっと潜っていった。直径40cmほどの倒木が道に直角に倒れていたのである。リードの動きにさえ注意していれば、段差があることもよく分かって、歩きやすいことこのうえない。 ただし、向こうから来る登山者にはイオはまったく見えないので、驚かせないように早めに待避する必要があることだけは気を遣わざるをえない。 登山者に遇うと、「たいへんな道ですね」というのが挨拶代わりになるような道なのだった。 蛇ヶ岳頂上からほぼ1時間、必死に薮道を歩いて1428m峰近くの升沢コース分岐に着く。ここからも少しは薮道もあるが、歩きやすい道になる。ここから少しの上りを頑張れば、頂上台地の南端、いわば船の舳先に上がる。 ここの登り道で二人連れの青年に出会った。二人は口々に「おっ、ここまで登ってきたんだ」などとイオに話しかけながらすれ違ったのだが、5,6m下ったあたりで一人が滑って転んでしまった。イオはすかさず走って行って上から覗きこんでいる。二人は「いやぁ、覗かれてるよ」と笑いながら下っていった。どういう風の吹き回しか、今日のイオは少し人慣れしている感じである。 Photo M 船の舳先から艫(山頂)を望む。 (2012/10/8 11:34) 頂上台地に上がると急に植生は低くなる。尾根の真ん中を通る道と西の崖の際を通り道があって、少し危険だが際道を通っていく。中道を通っていた登山者がイオを見つけてわざわざ戻ってきて写真を撮っていった。 頂上近くでは上から下りてくる人に話しかけられ、なかなか前に進めない。イオがいるといつもこうなる。イヌ好きの人だったりすると、しばらくはイヌ談義になる。 Photo N 船形山頂での記念写真。 (2012/10/8 11:46) 頂上標の前での記念写真、お得意のポーズである。どういう心の変化かは分からないが、最近は以前のようにカメラを正面から見ないようになった。もしかすると、「めんどうくさい」とか思っているのかもしれない。11才になる経験豊かな「おばちゃん犬」らしいということか。 急いで記念写真を撮って、次のグループと交代である。 Photo O 船形山頂から北の眺望。 (2012/10/8 11:48) 朝食が遅かったので、ここではおやつタイムとして、私はキャラメル、イオはクッキーを食べる。 頂上には森林管理局の人が4人ほど待機していて、登山マナー向上のチラシを配っていた。その内の一人が、イオのダニ対策を聞きに来た。先日、犬を連れて山に入ったら、ダニがたくさん付いたというのである。 月1回の滴下薬に加えて、歩き出し直前に必ず噴霧式の防虫剤を使っていることを話した。メモを取りながら熱心に聞いていたが、残念ながら私は薬の名前を覚えていなくて、ペットショップにあるだろうということで納得してもらった。 頂上を出発して下山しようという段になったら、イオが抵抗する。頂上南斜面にある山小屋の方に行きたいということらしい。小屋の南側に行って少しぶらぶらしたら満足したらしい。 この小屋の南側の陽だまりで、イオと食事したことがある。北から強い風の吹く日だったので、歩きまわることなく一匹と一人はけっこう寄り添って親密な時間を過ごしたのである。その場所を確認したかったのかもしれない。 帰りは崖の端道ではなく尾根の中道を通る。升沢コース分岐まで来ると、イオはそちらに行きたいという。蛇ヶ岳方向の薮道をまた歩くというのは嫌だということらしい。 升沢コースの道をイオは二回ほど歩いている。イヌは一度歩いた道をよく覚えているのだ。そうは言うものの、イオの希望には添えない。イオは少しの間、私の目をじっと見つめて、そしてあきらめた。 しばらく薮道の「潜水歩行」をしていたら、夫婦連れの登山者が前方に見えてきた。頂上直下で少し長い立ち話の挨拶をした人たちである。 Photo P ごちそうさま! (2012/10/8 13:12) 13:03、蛇ヶ岳頂上。13:09、蛇ヶ岳草原コース分岐。この分岐で先ほどのご夫婦が昼食休憩をしていた。また、しばらくイヌ談義である。「甘いもの、大丈夫ですか」とご主人が気にしながらケーキを差し出したが、イオは食べようとしない。私がその一部を小さくして差し出して食べさせると、その後はご主人の手から食べ始めた。 いつものことで、初めての食べ物はなかなか食べないし、大きいものも苦手だ。小さくした食べ物をちびちび食べるのである。飼い主がケチで大きなエサをやったことがない、というわけではけっしてない。 そんな話をして別れた。二人は、蛇ヶ岳草原コースを下って大滝キャンプ場まで戻るということだ。 13:25、三峰山・後白髪山分岐。14:11、後白髪山頂到着。ここで遅い昼食とする。私はおにぎり1個とキャラメル。イオはクッキー2枚。おにぎりがボロボロ崩れて食べにくい。今日は朝食を弁当、昼食をおにぎりとしたのだが、いつもおにぎりを固く握ってしまうので、少し加減しようと思ったのが徒になった。 Photo E(左) 朝の仙台市街と輝く太平洋。 (2012/10/8 8:36) Photo Q(右) 午後の仙台市街。左端は泉ヶ岳。 (2012/10/8 14:40) 後白髪山頂から仙台市街が望める。午後の日を浴びてビル群が光っている。頂上に着いたとき、この景色の写真を撮ろうと思っていたのだが、すっかり忘れて出発してしまった。 14:32、後白髪コース・横川コース分岐。14:38、1334mサブピーク到着。ここで仙台市街の眺望を写す。朝は、仙台平野の前に広がる太平洋が朝日を反射して輝いていた。そのため、仙台市街は暗く見えてはっきりしなかったが、午後は私の背後からの太陽がビル群をはっきりと浮き上がらせている。 後白髪山から仙台市街が一望できるように、仙台市街から船形連山を眺めると、泉ヶ岳、三峰山も見えるが、あたかも後白髪山が主峰のように見えるのである。主峰の船形山は隠れてしまってほとんど見えないのである。 サブピークを出発してあとは一気に下るだけ、といいたいところだが、実際は膝の負担を軽減するためにだいぶ慎重に、つまりそろそろと歩くのだ。 15:19、登山口到着。休憩込みながら8時間半の山歩きである。今は平気だが、この影響は明日、それとも明後日に出てくるのか。Map 船形山。A~Qは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV4」、 歩行軌跡は、「GARMIN GPSMAP60CSxによるGPSトラックデータによる。
2012.10.08
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横川林道登山口から後白髪山、蛇ヶ岳を経て船形山へ往復の山歩きである。じつは後白髪山から三峰山まで往復するというのが当初の予定で、体力の消耗の具合に相談してあわよくば船形まで行こうと考えていたのだが。 すばらしい快晴だ。週間天気予報で、今日しかないと判断して計画したので当然なのだが。 イオも私も人出が苦手なので、退職してからの山行・水行は週日と決めていたが、車中で今日は祝日の月曜日だということに気がついた。祝日なんてまったく念頭になかった。明日の火曜日は、妻と美術館に行く約束をしていたが、これも振替休日でたぶん休館だ。 国道48号線を熊ヶ根で右折、大倉ダム、定義を過ぎて横川林道に入る。林道入口に「通行禁止」の看板があるが、要するに一般車両の通行のために林道保全をしているわけではないので、許可なく通行する場合には安全に責任は持てない(自己責任で通行しなさい)、ということらしい。心のなかで「はい、そうします」と返事をして林道に入る。 この林道は長い。大滝キャンプ場からの船形山登山コースは一番楽なコースだが、キャンプ場までの林道も嫌になるくらい長い。悪路で曲がりくねった林道は神経を使うので、長いのは疲れる。 初めてこの林道を走ったときは、後白髪山の西面へ向かう林道から別れた後の道は藪のせり出しでやや不安な走行だったが、今回は完全に刈り払いされていて問題がない。 Photo A 行ってもいい? (2012/10/8 6:43) 4,5台くらい駐車できる登山口には1台も先客はいない。ゆっくりと身支度をして出発である。身支度の間、イオの朝1番のウンチを監視していたのだが、まったくその気配がない。 登山口標の前で記念写真を撮って、出発である。イオは大張り切りで、少し興奮気味である。誰もいないので、少しの間はリードなしで歩かせる。 リードを外すと、すぐにウンチである。背負ったばかりのザックを下ろし、回収セットを出して、ウンチを始末する。ザックを背負う前に済ませばいいものをと思うのだが、こればっかりは。 Photo B(左) ブナの原生林の急坂。 (2012/10/8 6:54) Photo C(右) 急坂だが歩きやすい。 (2012/10/8 7:13) 道は比較的急なブナ林のなかの斜面で、今日のコースは最初の1時間くらいが勝負である。そこを過ぎれば、距離は長いもののきついところはほとんどない(はずだ、体力低下が問題にならなければ)。 歩き出しから1時間ちょっとでブナ林が急に低くなって、斜面が緩やかになったと思ったら、後白髪山の頂上台地の南端、1334mのサブピークに到着する。ザックを下ろして休憩。イオは家を出てからここまで1滴の水を飲んでいないことに気づいて、あわてて水をやる。たいていの場合、山麓の歩き出し近くには沢があって、イオは自給しているのだが、今回はまったく水場がなかった。 Photo D サブピークから後白髪山山頂(左)と三峰山(右) (2012/10/8 8:03) サブピークからの道の周りにはオヤマリンドウが途切れることなく咲いている。他に花がほとんどないので、リンドウばかりが目につくのである。サブピークから後白髪コース分岐までの間は、「リンドウ道」と名付けたいほどである。 後白髪山尾根道のオヤマリンドウ。 後白髪コース分岐付近は、いつものことだが、水はけの悪い泥濘道が続く。イオは、道脇の渇いた部分をさっさと歩いて行くので、下に注意しながら後を付いていくと張り出した木の枝に頭をぶち当ててしまう。 ところで、(プロアトラスでも国土地理院のでも)地図では後白髪コースと横川コースの出会いは1334mのサブピークの南になっているが、実際の分岐と分岐標はサブピークから北へ(後白髪山方向へ)10分ほど行ったところにある。少なくとも私は、1334mピークに近くで出会う道を見つけられなかった。 Photo F(左) 後白髪山山頂 (2012/10/8 8:41) Photo G(右) それ肉でしょ? (2012/10/8 8:50) 8:40、後白髪山頂到着。ここで朝食とする。イオの弁当を先に用意して、次に私の朝食にかかる。イオはさっさと自分の朝食を済ませ、私の膝に頭をのっけそうな近さで、私の弁当を覗き込みにかかる。無言でじっと見つめ続ける。これには勝てない。どうせこうなると分かっているので、いつも私好みよりはずっと薄い味付けをすることになる。Photo H 左から船形山、蛇ヶ岳、三峰山(後白髪山から)。 (2012/10/8 9:04) 9:03、後白髪山出発。歩いて行く道の向こう、左に船形山、右に三峰山、その真ん中に蛇ヶ岳という山塊が広がっている。これから二つのサブピークを越えて三峰山分岐へ向かう。サブピークを越えると行っても緩やかなアップダウンである。二つめの1350m峰は「宝森」という名だということを、この春に教えてもらった。「宝」は「たんがら」に由来するのだという。 次第に道は3,4mの灌木の中となって見通しはなくなるが、しっかりした岩と木の根の道で、細かな変化があって楽しい。後白髪山から40分ほどで船形山・三峰山分岐に着く。T字路を左、船形山に向かうことにする。たぶん体力は持つだろう、という判断である。 分岐からの道は、次第に笹が道にはみだすようになる。そういえば、横川コース登山口から後白髪山を経て三峰山分岐まではしっかりと刈り払いされた道だった。 Photo I 蛇が岳への登り道か振り返る後白髪山の紅葉。 (2012/10/8 9:58) 蛇ヶ岳への登り道から振り返ると、紅葉する後白髪山の山容が見える。三峰山分岐から17,8分で蛇ヶ岳草原コース分岐である。升沢コースや大滝キャンプ場からのコースでは蛇ヶ岳草原コースを周回することが多い。草原コースは、花の季節には楽しい道である。
2012.10.08
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彼岸花あるいは曼珠沙華捨子花われら革命花と呼びいし 道浦母都子 [1] 彼岸花の前で。 (2012/10/7 6:48) 庭に4,5本の彼岸花が咲いた。昨年の今頃のある朝、散歩でふらっと立ち寄った来迎寺の彼岸花を思い出して、今日の朝散歩コースに来迎寺を入れた。予報は晴れのはずだったが、厚い雲に覆われた早朝である。 散歩コースは、宮城県美術館前→東北大学川内北キャンパス前→法楽院→牛越橋→大崎神社境内→四ッ谷用水跡の道→石切橋(覚性院丁通り)→土橋通→尚絅学院前→澱橋→仙台二高と周回する道である(散歩だから元に戻るのは当たり前だが)。 牛越橋から国道48号へ向かう来迎寺前(旧:滝前丁)の道。 (2012/10/7 6:44) 私の生まれ育った田舎では、彼岸花といえば削り花のことを指すのが普通だった。この花についての幼い頃の記憶はない。ほとんど成人してからの記憶で、どうしても花名の持つイメージが、花をじっくりと見ることに先立ってしまう。 私は彼岸花と呼び、妻は曼珠沙華と呼ぶ。その曼珠沙華について天彦五男は次のように書いている。梵語で"赤い花"という意味だそうです燃える赤が美しい花ですが彼岸花・死人花・幽霊花・捨子花・天蓋花とか墓地によく咲いているのであまりありがたくない名が付いています 天彦五男「おじいさんと花 14 曼珠沙華」部分 [2] 写真やテレビなどで曼珠沙華の大群生が紹介されるが、花としては強烈すぎて引き気味の気分になる。 だから、次のような句の曼珠沙華もまた大群生をイメージさせて、山頭火が歩く道ではないのではないかと無茶ないちゃもんをつけたくなる。歩きつづける彼岸花咲きつづける 種田山頭火 [3] 来迎寺境内の彼岸花。 (2012/10/7 6:44) 来迎寺は小さな寺だが、新しい墓石もたくさんある。しかし、新しい墓石の周りはきれいに整備されていてほとんど植生というものがない。だから、来迎寺境内の彼岸花は古い墓石を守るように咲いているか、境内の端を占めて咲いているのである。 「彼岸花・死人花・幽霊花・捨子花・天蓋花」と名指されてきた曼珠沙華の「近代」の生き残り方を暗示するようだ。もっとも、「家の庭に彼岸花を植えるなんて......」という周囲の非難などまったく意に介さないで庭隅に球根を植え込んだ私のような人間もいるのだが。 彼岸花の一輪の美しさ、繊細な造作に目が行くようになったのは、庭の数輪だけの彼岸花を子細に眺めるようになってから、つまりごく最近のことである。 庭から切ってきた彼岸花とミズヒキ。 (2012/10/7 10:15) モクリコクリの碑。 (2012/10/7 6:46) 来迎寺には「モクリコクリの碑」と呼ばれる延元2(1337年)の石碑がある。「モクリコクリ」は「蒙古・高麗」の意と解釈され、市内にいくつかある蒙古の碑の一つらしい。ただし、碑文を見る限り、とくに蒙古と関係があるとは読めなくて、普通の供養碑のようだ。それとも、元寇の時の敵味方相方の死者の供養のためでもあったのだろうか。 広瀬川河畔、西(桜ヶ丘)公園の彼岸花。 (2012/10/3 6:58) 彼岸花は群生すれば、その派手さが毒々しさにも見えたりする。来迎寺の彼岸花は、「彼岸花・死人花・幽霊花・捨子花・天蓋花」と呼び慣わされてきた属性のイメージを実現しつつ、寺域の片隅を占めて咲いている。 私にとって好もしい咲き方は、上の写真のように、1個所だけに孤立して咲く形である。広瀬川河畔の西公園には私の知る限り、モミジの古木の根元に咲くここの花だけである。 ここに彼岸花が咲いていることに気がついたのは4,5年前のことであるが、咲き始めるとすぐに誰かが切りとってしまう。毎年、咲き出すのを待ちかねて切りとっていく律儀な花泥棒がいるらしい。 この秋、写真を撮ることができたのは奇跡的だったのである。 道浦母都子の短歌で文章を始めてしまったが、道浦と同期した青春を生きた福島泰樹、福島が敬愛する寺山修司にも激しく厳しい曼珠沙華の歌がある。曼珠沙華は燈明ならぬをあわれあわれ無頼の墓をあかく灯せり 福島泰樹 [4]川に逆らひ咲く曼珠沙華赤ければせつに地獄へ行きたし今日も 寺山修司 [5] 彼岸花は、「葉見ず花見ず」という別称ももつ。たしか、伊勢正三の「22才の別れ」に題材を取った映画の副題が「リコリス、葉見ず花見ず」だったと思う。リコリスは、花と葉が異なった時期に地上に出るヒガンバナ科の総称である。 物語は、自分を産んですぐになくなった母親を持つ娘と母親の昔の恋人との話だったと思うが、寓意としては母親が葉であり、娘が花だとすれば。、父親が二人を繋ぐ球根だということだろう。母の不幸は父親のせいだと思い込んでいる娘は、最後に父親と和解する。筧利夫演じる主人公(母親の昔の恋人)の意味が分からなかった記憶がある。 これは、その「葉見ず花見ず」としての曼珠沙華の歌である。めくるめく過去あればなほ愕然と緑濃し大寒の曼珠沙華 塚本邦雄 [6] 散歩コースMap 地図のベースは、「プロアトラスSV4」、 歩行軌跡は、 「GARMIN GPSMAP60CSx」によるGPSトラックデータによる。 [1] 『道浦母都子全歌集』(河出書房新社 2005年) p. 108。[2] 『天彦五男詩全集』(土曜美術社出版販売 2010年) p.374。[3] 『定本 種田山頭火句集』(彌生書房 昭和46年) p.10。[4] 『福島泰樹全歌集 第2巻』(河出書房新社 1999年) p. 277。[5] 『寺山修司全歌集』(講談社 2011年) p. 24。[6] 『現代歌人文庫31 続塚本邦雄歌集』(国文社 1998年) p. 44。
2012.10.07
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今日のデモの集合場所は東北大片平キャンパスの北門付近である。ここからの出発は2度目なのだが、前回は遅刻をしてしまって、一番町を進むデモに途中で合流した。今回は遅刻しないように時間通りに家を出たのだが、どうにも足が重い。気持ちがどうのというのではなく、本当に足が重いのである。 午前中、仙台市大沢市民センター主催の里山観察講座で、蒲沢山国有林を4時間半ほど歩きまわったのが効いている。その後、歯科医院で抜糸を終えてのデモ参加である。 4日前の10月1日の夕方、奥歯の半分を割って抜歯して、その跡を縫っていたのだ。ちょうどその日は、「ふくしま集団疎開裁判」の仙台高裁審理に合わせて集会やデモがあったのだが日中の行事のどれにも参加できなかった。それで、痛み止めを飲んで夕方の講演会にはなんとか参加できた。 仙台においでになった矢ヶ崎克馬先生に挨拶もしておきたかったし、6月始めに天童温泉での集まりでお会いしたときに聞きそびれていた内部被爆の話も聞きたかったのである。矢ヶ崎先生の話も、深川市立病院の松崎道幸先生の話も、何から何まで教えられることばかりで、歯の痛みなんか感じている暇はないほどの内容だった。 東北大学北門付近に大勢が。 (2012/10/5 18:09) 東北大学の片平キャンパスは10年ほど前まで毎日通っていたので、所要時間がどれくらいかはよく知っているつもりだったが、8分ほどの遅刻だった。山歩きの疲れか、10年の歳月が我が身にもたらした効果かは定かではないが、誤差が予想以上に大きい。 その北門脇は小さな三角公園のようになっていて、そこに参加者が集まっている(10年前にはこの三角公園はなかったはずだ)。その三角公園には入れきれず、歩道までずっと並んでいる。 公道の一部に集まっているのでスピーチタイムは設けられなくて、デモをする上での注意点の説明だけがあってすぐにデモとなった。東北大北門は一番町の南の突き当たりに位置しているので、デモはまず一番町を広瀬通まで北進する。 昔は古書店が並んでいた道、南町通りの手前。 (2012/10/5 18:31) 疲れているせいかシュプレッヒコールを元気にこなせない。私にすぐ前でだっこされた2歳半くらいの男の子がお母さんの肩越しにこちらを向いていて、小さな口を少し開いてきちんとシュプレッヒコールに合わせている。 小さな子がきちんと声をあげているのに、などと反省などをしていたら、私のタブレットPCの脱原発プラカードの画像に気づいて熱心に見始めた。 スクリーンプレイにしてあるのでプラカード画像は次々に自動的に替わるし、なかには子供向けの動物やお母さんと子供たちなどの絵があって注意を引いたのだろう。 いつもは遠くに見えるようにタブレットPCを頭上に掲げるのだが、その後はその子の目線の高さ(私の胸のあたり)にあわせて歩くことになった。こんなに熱心に見てくれる初めての人なのだ。観客は大事にしなきゃ、ということである。 一番町のアーケード街、まもなく青葉通り。 (2012/10/5 18:34) いつの間にかお母さん2人、お父さん一人、子供4人のグループが私の横を歩いていて、狭いところで先を譲って私が後になったら、新しい観客ができた。2才くらいの女の子が隣のおばさんが持っているぴかぴか光る団扇が欲しいとぐずり始めた。お母さんがあやそうとしてだっこしたら、その子の目線はタブレットPCに。 女の子の期待に応えるために高さと距離を維持しながら歩く(ときどき、シュプレッヒコール)。信号待ち、急な歩き出しで女の子と少し離れたら、次はもう一人のお母さんがだっこする男の子である。 この男の子は目の前にあるタブレットPC画面にしばらく気づかないでいたが、私が見えそうな位置を維持し続けていると何とか気づいてくれた(この辺では、何とか見てもらいたいという私の気持ちが先立っている)。 やはり、画面が変わるというのは幼い子の興味を引くのだな、いっそのこと何かアニメを録画してきたら、ずっと飽きないで見てもらえるのではないか、などと考えながら歩いていると、その子はいつの間にかお母さんの肩に凭れて眠っているのだった。私の仕事は終わったのだな、と思ったときには、デモはもう青葉通り二番町まで来ていて、デモもまたまもなく終わるのである。 タブレットPCに見入る子供たちの顔を見ながら歩いていたら、山歩きで重くなっていた足もなんとかなった。シュプレッヒコールは少なめだったが。
2012.10.05
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仙台市大沢市民センター主催の「地域の自然再発見! ~大沢を取り巻く山の風景~」市民講座の2回目は、「蒲沢山」である。 権現森の場合と同様に、この里山は「里山ねっと赤坂」という赤坂地区住民の有志の市民団体が「林道を整備したり標識を作るなどの活動」をしているところで、本日の講師を担当していただくのである。 「赤坂集会所」に集合、受付、班編成などの後に、そこに車を置いて、まず「1号公園」まで赤坂の住宅地を歩く。この団地の北面の道沿いは桜並木になっていて、そこから泉ヶ岳、北泉ヶ岳が望める。 まもなく1号公園というところで、車のリーフにGARMIN・GPSmapを載せたままで忘れてきたことに気づいた。最初のGPS信号検出に多少の時間がかかるために、いつもの山歩きでの習慣なのである。それが、「はい、出発しますよ!」という合図で皆に合わせて歩くことに気を取られて、すっかり忘れてしまったのだ。一人歩きばっかりやっているので、こういう失敗をする。 急いで戻って、公園までの道は車を使って追いついた。公園で出発前のトイレタイムを取る予定だったことで助けられたのである。 赤坂団地の西端から蒲沢山国有林に入る。林に入ってすぐ「あそ歩」と書かれた大きな板看板が木にかけられていて、子供たちを対象にした遊歩道や森林の整備が図られていることが分かる。また、その周辺の林は団地内の川前小学校の学校林になっているとのことだった。 Photo A 「里山ねっと赤坂」が建てたツリーハウス。 (2012/10/5 10:15) 林の中を5,6分歩くとツリーハースが見えてくる。建設ほやほやで、つい最近、完成記念の集まりを持ったということだ。 参加者は2班に分かれ、私たちの班の講師は、蒲沢山に植生する草木に関する部厚い図鑑を一人で作ったという森啓祐さんである。歩き始めてすぐ、まず最初に、「オクモミジハグマ」と「キッコウハグマ」と「オヤリハグマ」の区別を教えていただいた。つぎに、タムラソウの花とその見分け方を。私には、ずっとアザミとの違いがよく分からなかった花である。現場で現物を教えてもらうというのは、じつに効率的である(忘れなければ、という条件付きだが)。 また、「ギンリョウソウ」によく似た「シャクジョウソウ」の枯れ残った姿を教えてもらった。季節は違うので、ギンリョウソウもシャクジョウソウも花を見ることはできないので、森さんが作った図鑑の写真を見せていただいた。 シャクジョウソウはギンリョウソウとそっくりであるが、ギンリョウソウほど透明感はなくやや黄色みを帯びているということだった。シャクジョウソウはまったく知らなかった。たぶん、ギンリョウソウと区別しないで眺めていたのだろう。来年の山歩きの一つのテーマとして楽しめそうだ。 Photo B 遊歩道の切れ目から見える笹倉山を含む北方の山なみ。 (2012/10/5 10:53) 道は低い稜線の尾根を辿っていく。突然、部分的に林が切れて北の眺望が開ける。ここのあたりからは七ツ森は見えないだろうと思い込んでいたのだが、写真中央右手の山は笹倉山だった。右手の中腹が切れ落ちてコブが出ているところが「眺子ノ石展望台」があるところだと気づく。 Photo C 見晴台からの南の眺望。 (2012/10/5 10:58) そこから1分足らずで「見晴台」に着く。尾根に建てられた送電線鉄塔の周囲が刈り払われていて格好の展望台になっている。送電線に沿って北と南に眺望が開けている。写真は南側の眺望で、雲がなければ蔵王連峰(左端に不忘山、右端に雁戸山)がすっぽりと嵌って見えるのだそうである。今日は雲のせいで不忘山の山裾のゆったりした斜面がかすかに見えるだけである。 北の眺望は、Photo Bのさらに東の部分で、天気のいい日には北上山地から牡鹿半島まで見えるとのことだった。 全体に緩やかでよく整備された林道が続くが、樺沢三角点を過ぎたあたりからやや傾斜がきつくなる。右手の麓の方に小さな民間飛行場が見えてくる。頂上台地らしいところまで上がると、右は林。左はススキの草原となる。日当たりのよい道脇の草地にはワレモコウや野菊がたくさん咲いている。この野菊も大問題である。野菊として括ってしまっているが、明らかに何種類もあるのだ。「ノコンギク」と「ユウガギク」を教えてもらったが、これはまったく自信がない。 Photo D 目的地の三叉路。 (2012/10/5 12:26) 左のススキの草原の向こうの丘に牧草地が見え、さらにそのはるか遠くに奥州山地(中心は蔵王連峰)の眺望が広がる道を少し行くと、今日の目的地の三叉路に出る。蒲沢山の頂上はここから少し北東の所に位置していて、三角点はないとのことだった。三叉路はちょっとした広場になっていて、ここで三々五々散らばって昼食である。 講師の森さんの傍で昼食弁当を開いたが、そこでも図鑑を開いていろいろ教えていただいた。なかでも、モリアオガエルが産卵する沼がこの山中にあること、水苔が群生する湿地があることなど、とても興味深かった。低い里山も丁寧に探索すれば、豊かな生態が観察されるということだろう。ただ、前の権現森もこの蒲沢山も国有林で開発の手が入っていないということが重要な条件にはなっていると思うが。 左:タムラソウ。右:ワレモコウ。 12時30分までの昼食休憩が終わり、同じ道を引き返すことになる。帰り道では講師の先生が交代して、今度はキノコのプロの松崎良太さんという方である。始めにキノコの各パーツの呼び方から始まり、見分け方の基本などの話で、学術的というか体系的なのである。 今年はこの時期でも秋キノコが出ていなくて、まだまだ夏キノコが生えているという。これは近年の傾向で、秋キノコの出る時期が少しずつ遅れていて、地球温暖化の影響ではないか、という。たしかにキノコは環境にきわめて敏感で、ちょっとした天候の変化で豊作だったり不作だったりするほど変化が激しい。もしかしたら、他の草木よりも地球温暖化の影響を敏感に反応している可能性もあるだろう。 そして、「キノコを食べるときは自己責任」でと話され、つまり毒性についての判断は慎重にかつ自分の責任で、ということである。また、最近の東電福島第1原発事故によるキノコの放射性物質による汚染についても触れられた。放射能汚染したキノコまで「自己責任」でよいのかは、放射線被曝の影響をどれほど知識として持っているかによるので、簡単な話ではない。 私は山歩きの一つとして茸狩りが大好きだが、一方で、大学院修士課程まで原子力工学を専攻した人間として、昨年から茸狩りはやっていない。自分の責任で放射能汚染キノコを食べる人を止める権限はないが、けっして人には勧めない。これは、政府が決めた規制値以上であるとか規制値以下であるとかは関係ない。もともと、政府が定めた数値に科学的根拠があるわけではない(だからこそ、規制値がころころ変わるのである)。 Photo E 気分のよいススキ原の道。 (2012/10/5 12:56) ずっとキノコを探して山を歩いていたので、講師の先生の話はとても参考になって面白い。しかし、茸狩りを禁じている身には若干複雑である。それでもいつかは普通に茸狩りができるようになることを信じて、一所懸命、話を聞き、質問もした。いつか役に立つだろう、ということである。 ツリーハウスに全員集合、ここでひと休みして記念写真を撮る。ここからはひたすら赤坂集会場まで歩くだけである。 Photo F まもなく林の出口の最終地点。 (2012/10/5 14:10) 出がけに忘れ物をした私だけが森を出てすぐ車に乗って集会所1番乗りと思ったら、帰り道の講師だった松崎さんがもう着いていた。そういえば、松崎さんは先に山に入って見本にするキノコを取っているということだった。そのため、林の入口付近に駐車していたらしい。 予定通り、ほぼ14:30の解散となった。私は急いで帰って歯科医院に行かねばならないのだった。 Map 蒲沢山。A~Eは写真撮影ポイント。地図のベースは、 「プロアトラスSV4」、 歩行軌跡は、 「GARMIN GPSMAP60CSx」 によるGPSトラックデータによる。
2012.10.05
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