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9月29日、成城学園前駅に駅ビルSeijo Corty(成城コルティ)が開業した。 http://www.seijo-corty.jp/ 小田急OX、トロアグロ、箱根そばなどグループ企業は定番。 注目されるのは、沿線初登場のDean & DeLuca、三省堂書店、グランファミーユ・シェ松尾。 開業2ヶ月。相当の人出で、営業は順調に推移しているように見える。 成城学園前の乗降客は一日平均78,000人(2005年度)。主要ターミナルからの距離がほぼ同等である、東急田園都市線/大井町線の二子玉川(95,000人)、京王線側の仙川(2005年度68,000人)の商業集積が、まずまずの成功に見える中、乗降客数でもそれほど遜色の無い成城学園前に駅ビルという発想は当然のこと。 但し、他2駅にあって、成城に無いもの。それは、車による集客である。 二子玉川は、田園都市線と大井町線のターミナルで、かつ、玉川通り(国道246号)、多摩堤通りの交差点、さらに、環八瀬田交差点まで1km弱。世田谷西南部から神奈川までの広域集客。世田谷区内No.1の商業集積だ。 仙川駅は、ようやくしばらく前から、日中京王線の快速電車が止まるようになったが、世田谷、調布、三鷹の接点で、地理的にもともとは交通の要衝。 国道20号線(甲州街道)からの引き込み道路も完成し、車アクセスにも優れる。 成城コルティは、駅前とはいえ、南北を、この都内でも有数の近郊商業集積地に抑えられ、鉄道では新宿まで急行20分。下北沢とも競合する。 だから、成城コルティは地元を向いて作られている。 このあたりの駅ビルとしては、経堂のJoyfulが、ある程度の成功。 こちらも地元対応だ。 成城だからといって、高級路線を狙うわけではない。 しかし、これからの高齢化社会、いつまでも銀座、表参道でもあるまい。 地元でも、それなりの生活を。 成城にも、経堂にもそういう時代がやってきている。
November 30, 2006
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すずらん通りを、経堂駅から5分ばかり昭和6年(1931年)の開業だから、今年は75周年!経堂の街が出来て以来のお風呂やさん「塩原湯」今年の元旦、午後、連れ合いと歩いていたら、塩原湯前で茂美君とばったり会った。ホームページもあるhttp://happy.ap.teacup.com/shiobarayu/それによれば、塩原湯は地域の方たちと情報交換のできる「ふれあいコミュニケーション銭湯」 を目指していて、いろいろなイベントも開催されているらしい。祖師谷温泉21、とか下高井戸の月見湯も人気があるが、ふるくからの正しい日本の銭湯「塩原湯」にも、たまには行ってみようか。 来月は6日(水曜、定休日)に「クリスマス仮装パーティー&プレゼント交換」を開催。詳細は、塩原湯HPへ
November 29, 2006
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外資によるTOBが不成立で、明星は日清と資本提携することになるらしい。まだ、外資の動向が最終的に定まらぬが、もしこの資本提携が成立し、さらに業務提携に進むようになる場合には、日清食品(40.4%)ー明星食品(9.9%)連合は、シェア50%を超え、2位東洋水産(19.2%)、3位5位連合のサンヨー(11.5%)/エースコック(8.3%)と上位3グループ5社でシェア90%の寡占状態となる。二社のラインナップを見てみると、チキンラーメン、カップヌードル、マグ・シリーズ、スープヌードル、日清のどん兵衛、日清麺職人、日清焼きそば、出前一丁、江戸そば・京うどん、日清中華、日清焼きそばUFO、麺の達人、スープの達人、野菜スープヌードル、らうめん、日清のラーメン屋さん、行列のできる店のラーメン、日清のとんがらし麺、日清ラ王、日清ごんぶと、日清Spa王、日清デカ王、サイリウム・シリーズ、日清健多郎、日清具多チャルメラ・シリーズ、チャルメラカップ、中華三昧、一平ちゃんシリーズ、「でっせ」シリーズカップ麺、明星鉄板焼きそば、明星もちっとワンタンメンシリーズ、明星飲茶三昧カップ麺シリーズ、明星中華ダイニングシリーズ...年間54億食、5200億円の国内即席めん市場。1食96円は、「その値段出しては買ってないぞ!」ちょっと高いのでは?というのが実感。日本人一人年間40食。多いようでもあり、少ないようでもある。ヘンな思い出がある。1974年の正月、年明け、スーパーに買い物に出かけ、インスタントラーメンを買おうとした。前年暮れまで、一個35円程度で売られていたインスタントラーメン(確か、1960年頃、ちょうど売り出しの日清チキンラーメンが定価1個35円だった記憶がある)。それが、コーナーに一つも出ていない!次の日も、そして次の日も出ていない。ようやく1週間から10日たって、出てきたとき、お値段は一気に60円ぐらいにつけられていた!競争は激しいが、寡占化が進んだ業界。インスタントラーメンの値上がりは、トイレットペーパー不足、売り惜しみ、そして、狂乱物価への前奏曲だった。資本提携が、インフレをもたらすわけではないが、ふといやな思い出が頭をよぎる。インフレは近い!?
November 29, 2006
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Love means never having to say sorry. はEric Segal 35年前だ。All you need is Love. はJohn Lennon 40年前。2-3年前に読んだ本には、 Love is never enoughとあった。***知人の女性。若い頃、関係があった相手と、子供が出来たところで別れた。以前に、「なぜ?」と尋ねたところ毅然として「彼は役者なんです!」との答え。子供と母親を養う経済基盤確保のため、稼げぬ役者をやめようとしたお相手と、敢えて別れた人だった。彼の自立と成功に、彼女は、別れたことに誇りはあれど悔いはない。彼女にとって、そこでお二人の関係は、完結しているのだ。それ故、悔いは無いと言い切れる。終わった愛は別として(完結した愛と、終わった愛は、言わずもがな、別のもの)、途上の愛愛は、心の安らぎを与えてくれるけれども、不断の努力により形作られるものでもある常に謙虚に、確かめ続けていかねば愛に自信がもてないのが現代素朴で、確実な愛愛だけでは、足りないどちらも、本質は同じそのことが分かるまで、私たちは、どれだけの回り道をしてきたのかそして、これからも歩み続けねばならぬのかその営みこそが、愛であり、楽しみなのでしょうか
November 28, 2006
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茂美君の呼びかけで11月25日は、小学校時代隣のクラスのせっちゃんの店「さくら」で小会合。 http://www.sakura-saku.info/index.html 「さくら」は、ビルがクリニック資本に買われ、移転を要請され、どうなるかと思ったけど、表参道に行き先が見つかり(ビルの5階とか)、自分らも落ち着き先が確保できた。 しばらく両方の店を並行して営業するため、スタッフも充実。 参加者は、茂美君のほか、英ちゃん、留さんに自分、そして、6-3ではないけれど、経堂小、緑中通して一緒の徳永君。 中学校で転入してきた、N山君にも呼びかけをしたのだが、「毎日新宿まで仕事に出かけてるから、ウィークデイなら良かったけれど、休日わざわざ出かけるのは面倒」と言ってたそうで、先に帰った自分が居る間には登場しなかった。 「ヤツのとこは、カミさん主導なんじゃねぇの?」 「カミさんがMarikoで、自分がMarioで、結婚するときからかったら、本気で怒って、石ぶつけられた」 「H石来たんだって?」 「ああ、19日な」 「いい加減だなぁ。さっき、一月ぐらい前だって言ってたじゃないか」 「だって、毎日カレンダー眺めて過ごすような生活してないもん」 「だけど、一週間前とひと月前は違うだろう?」 「お前のとこの親父の命日と、うちの親父の命日が5日と6日で一日違いなんだけど、どっちがどっちだったか分からなくなっちまった」 「それは俺に聞いてくれ。俺のとこが先で、お前のとこがあと」 「おふくろ同士が、今もまだ連絡とってて、あっちもどっちがどっちだかわかんねぇみたいなんだ」 「まったく、茂美が余計なこと言うもんだから、調子悪くなっちゃったじゃねえか」 「?」 「こいつと俺と誕生日が全く同じ9月27日なんだ。一年前ぐらいに会ったときに、これからひどい目にあうって運勢の話をしたんだ。最近はどうだ?」 「まあ、徐々にだけど、回復基調かなぁ」 「上海来ねえか?」 「いつ?」 「いつでも」 「せっちゃんなんか徹夜してから上海へ来て、3日間殆ど寝ないで、見て回った」 「体力があって、好奇心があって」 「O君、体重移さないでね。最近太っちゃって、泳げなくなっちゃう」 「アブラは水に浮きますよ..」 「K野みどりさん会いたいなぁ」 「電話したんだけど、つながらない」 「E本さんとか、弘美から連絡つかないかな?」 「電話番号分かる?」 「はい、これ」 「何?」 「6年3組の住所録」 「弘美さん車買ってくれたんだ」 「留さん車買おうよ」 「車庫ないもん」 「せっかく免許とったのに、どうして乗らないの?」 「運動神経が悪い」 「そんなこと無いじゃん」 「でも体育は2」 「なんで免許とったの?」 「資格とるために免許とった」 「弘美さんゴルフやんないかな?」 「いつ」 「年内」 「もう寒いぜ」 「雨降ってもキャンセルできねえぜ」 「ウィークデイならどうだ?今はもう前日予約でやれるから、日取りだけきめて、天気がよければ前日予約」 「俺もウィークデイなら大丈夫」 「俺とお前と、弘美さんと。あと一人どうする?」 「誰か若い女の子を誘うよ」 「今週金曜日どうだ?」 「そいつはいくらなんでも空いてない」 おいしい鍋をつつきながら、他愛もない話に花が咲く。 結構年寄りじみた話しもあるが、変わらぬのは、女の子の話題。 でも、 徳永君が言ってたけど、 「こういう会に出れるってのは、いいことだ」 「互いの間に利害関係がない」これは茂美君 「曲がっちまうと出てこれないからな」これも茂美君 お互いに健康で、仲間と一緒に食べれる時間と経済力がある 話すことが無く、聞いているだけでも楽しい。 皆で、ゴルフはともかく、1月の2日か3日に会おうと話をした。 果たして、皆さん集まれるだろうか?
November 25, 2006
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蕎麦屋の田村庵が突如としてセブンイレブンに変わって驚いたのは、もう2年以上前だったろうか?昔、経堂には田村庵のほかに若竹という蕎麦屋があって、確か田村庵より少し北側だったと記憶する。 先日、たまたま淡島通りを通ったら、若林二丁目あたりだろう。若竹という蕎麦屋がある。 老舗蕎麦屋の屋号といえば、砂場、更級、藪が三横綱。 増田屋、丸賀などもいくつか見たことがあるが、若竹が蕎麦屋の定番屋号かどうか... 淡島通り、実は、道路としては、 東京都道423号渋谷経堂線と言い、経堂付近では「本町通り」と呼ばれている、大丸ピーコック前の通りにつながっている。小田急で長らく分断されていたが、本来はその北「すずらん通り」=東京都道118号調布経堂停車場線に続き、旧くから青山と仙川を結ぶ滝坂道と呼ばれる道。 もしかすると、若林の若竹、経堂の若竹さんとご関係があったかも などと考えているうちにバスが若林車庫に着いてしまった。
November 24, 2006
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遠藤書店農大通店、本日をもって閉店 すずらん通りのお店はこれまでどおりだけれども、寂しい 今、キリン堂なく、依藤さんの古書店なく もちろん、経堂小前にあった松原堂はとうの昔になく 下高井戸も近藤書店なく 世田谷線松原駅前の松原書房もない 漱石の猫から約100年 「本」というものが、大衆文化たり得たのは、わずか21世紀の100年間だけなのか? 本を読むことにより、私たちのイマジネーションは鍛えられ、それは、考える力、洞察する術を養ってくれた 21世紀を、社会の衰退と精神の荒廃から守るために、私たちは、「例え経済的には貧しくあろうとも、国土と精神が豊かである社会」を取り戻す努力をせねばなるまい 教育基本法改正はその一歩だが、大切なのは、文章を変えることではない 一人一人が自立した個人として、心の豊かさをはぐくむ それは、国が決めることではなく、一人一人個人の心の問題
November 24, 2006
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土曜日24日は、茂美君の発案で、渋谷は「さくら」で、小クラス会S弘美さんは、最近ゴルフを始められ、そろそろみんなでコースへ出たいご様子そんなお話しも出るのかな?頑張って出かけたいけど、先約の調整がつくだろうか?
November 21, 2006
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司馬遼太郎さんが、子供たちのためにお書きになった一文をここに掲げます未来を担う、経堂の若いお父さん、お母さんそして子供たちに、ご一読いただければ幸いです私は、歴史小説を書いてきた。もともと歴史が好きなのである。両親を愛するようにして、歴史を愛している。歴史とはなんでしょう、と聞かれるとき、「それは、大きな世界です。かつて存在した何億という人生がそこにつめこまれている世界なのです。」と、答えることにしている。私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。歴史の中にもいる。そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。だから、私は少なくとも二千年以上の時間の中を、生きているようなものだと思っている。この楽しさは-もし君たちさえそう望むなら-おすそ分けしてあげたいほどである。ただ、さびしく思うことがある。私が持っていなくて、君たちだけが持っている大きなものがある。未来というものである。私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、二十一世紀というものを見ることができないにちがいない。君たちは、ちがう。二十一世紀をたっぷり見ることができるばかりか、そのかがやかしいにない手でもある。もし「未来」という町角で、私が君たちを呼びとめることができたら、どんなにいいだろう。「田中君、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている二十一世紀とは、どんな世の中でしょう。」そのように質問して、君たちに教えてもらいたいのだが、ただ残念にも、その「未来」という町角には、私はもういない。だから、君たちと話ができるのは、今のうちだということである。もっとも、私には二十一世紀のことなど、とても予測できない。ただ、私に言えることがある。それは、歴史から学んだ人間の生き方の基本的なことどもである。昔も今も、また未来においても変わらないことがある。そこに空気と水、それに土などという自然があって、人間や他の動植物、さらには微生物にいたるまでが、それに依存しつつ生きているということである。自然こそ不変の価値なのである。なぜならば、人間は空気を吸うことなく生きることができないし、水分をとることがなければ、かわいて死んでしまう。さて、自然という「不変のもの」を基準に置いて、人間のことを考えてみたい。人間は、-くり返すようだが-自然によって生かされてきた。古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。このことは、少しも誤っていないのである。歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。この態度は、近代や現代に入って少しゆらいだ。-人間こそ、いちばんえらい存在だ。という、思いあがった考えが頭をもたげた。二十世紀という現代は、ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代といっていい。同時に、人間は決しておろかではない。思いあがるということとはおよそ逆のことも、あわせ考えた。つまり私ども人間とは自然の一部にすぎない、というすなおな考えである。このことは、古代の賢者も考えたし、また十九世紀の医学もそのように考えた。ある意味では平凡な事実にすぎないこのことを、二十世紀の科学は、科学の事実として、人々の前にくりひろげてみせた。二十世紀末の人間たちは、このことを知ることによって、古代や中世に神をおそれたように、再び自然をおそれるようになった。おそらく、自然に対しいばりかえっていた時代は、二十一世紀に近づくにつれて、終わっていくにちがいない。「人間は、自分で生きているのではなく、大きな存在によって生かされている。」と、中世の人々は、ヨーロッパにおいても東洋においても、そのようにへりくだって考えていた。この考えは、近代に入ってゆらいだとはいえ、右(*注。原文は縦書き)に述べたように、近ごろ再び、人間たちはこのよき思想を取りもどしつつあるように思われる。この自然へのすなおな態度こそ、二十一世紀への希望であり、君たちへの期待でもある。そういうすなおさを君たちが持ち、その気分をひろめてほしいのである。そうなれば、二十一世紀の人間は、よりいっそう自然を尊敬することになるだろう。そして、自然の一部である人間どうしについても、前世紀にもまして尊敬し合うようになるのにちがいない。そのようになることが、君たちへの私の期待でもある。さて、君たち自身のことである。君たちは、いつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。-自分に厳しく、相手にはやさしく。という自己を。そして、すなおでかしこい自己を。二十一世紀においては、特にそのことが重要である。二十一世紀にあっては、科学と技術がもっと発達するだろう。科学・技術が、洪水のように人間をのみこんでしまってはならない。川の水を正しく流すように、君たちのしっかりした自己が、科学と技術を支配し、よい方向に持っていってほしいのである。右において、私は「自己」ということをしきりに言った。自己といっても、自己中心におちいってはならない。人間は、助け合って生きているのである。私は、人という文字を見るとき、しばしば感動する。ななめの画がたがいに支え合って、構成されているのである。そのことでも分かるように、人間は、社会をつくって生きている。社会とは、支え合う仕組みということである。原始時代の社会は小さかった。家族を中心とした社会だった。それがしだいに大きな社会になり、今は、国家と世界という社会をつくり、たがいに助け合いながら生きているのである。自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようにはつくられていない。このため、助け合う、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。助け合うという気持ちや行動のもとのもとは、いたわりという感情である。他人の痛みを感じることと言ってもいい。やさしさと言いかえてもいい。「いたわり」「他人の痛みを感じること」「やさしさ」みな似たような言葉である。この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである。その訓練とは、簡単なことである。例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、そのつど自分の中でつくりあげていきさえすればよい。この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。君たちさえ、そういう自己をつくっていけば、二十一世紀は人類が仲よしで暮らせる時代になるのにちがいない。鎌倉時代の武士たちは、「たのもしさ」ということを、たいせつにしてきた。人間は、いつの時代でもたのもしい人格を持たねばならない。人間というのは、男女とも、たのもしくない人格にみりよくを感じないのである。もう一度くり返そう。さきに私は自己を確立せよ、と言った。自分に厳しく、相手にはやさしく、とも言った。いたわりという言葉も使った。それらを訓練せよ、とも言った。それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。そして、たのもしい君たちになっていくのである。以上のことは、いつの時代になっても、人間が生きていくうえで、欠かすことができない心がまえというものである。君たち。君たちはつねに晴れあがった空のように、たかだかとした心を持たねばならない。同時に、ずっしりとたくましい足どりで、大地をふみしめつつ歩かねばならない。私は、君たちの心の中の最も美しいものを見続けながら、以上のことを書いた。書き終わって、君たちの未来が、真夏の太陽のようにかがやいているように感じた。
November 20, 2006
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函館から半年ぶりにやってきたH石君を迎え、6年3組部分的クラス会。ぎりぎりまで日程がつかず、ようやく日曜日のお昼にセットJoyful地下のイタ飯でお昼のあと、南口の中国茶のお店「月和茶(ユエフゥチャ)」で一服。世田谷区経堂1-4-10相原ビル2F03-3706-103911:30-22:00無休日曜も仕事が多忙で遅れてきたS藤君もこちらで合流して、合計6名。連絡がつかぬ人たちもあり、お声をかけても欠席の方々もあったが、隣のクラスからM原君のバレー部つながりで、H山君が出席。H山君とは、中学校以来の人も居て、懐かしく、静かな語らいにも華が咲く。先日、Tさんと自分が福島の先生宅までお伺いしたことに、先生から達筆でお手紙を頂戴し、そちらが披露される。「母親たちの、結束が強かったからねぇ」「うちの親もそうだったね」「僕は全然知らなかった」「S藤君のお母さんはお元気?」「最近、腰が曲がったりしているけど元気」「おいくつになられたの」「今年で81」「H石君とこのお母さんは?」「うちは今年で80。元気だけど、そろそろ一人暮らしは辛くなってきたね」「この間H石君が来たのはいつだっけ」「半年前ぐらいだね。そろそろ母親も年とってきたし、年に一二度はと思ってね。ところが、あちらは、年四回来るって約束したけどどうなったの?とか言われる」「お兄さんと一緒じゃないの?」「お袋は、しゃきっとした人だから、一人暮らしが性にあっていたんだけど、いつまでも一人ってわけにはいかないみたい」「バスケに居たI井君って覚えてる?」「彼は、朝、桜上水のキッチンコート前のベンチで煙草吸ってるのを何回か見てる」「連絡先分かったら教えてよ」「分かった。今度見かけたら聞いとく」「S藤君の家、高校時代の朝、通学路で家の前を通ってたんだけど、表に面してなかったっけ?」「おじさんと2人で、土地を分けたとき、おじさんが表を選んだんだ。もうそのおじさんも土地を売ってしまった」「だから分かんなかったんだ」「隣にあったアパートに都築君が住んでたでしょ?」「そうだね」「お父さんと住んでて火事になってしまったんだよね」「たいへんだった。うちは親父が町内会やってたから、後処理がたいへんだったみたい」「あ、そう?それは大変だ。隣だったらS藤君も大変だったでしょう」「火事のあと隣に越してきたんで、僕は知らないんだ」「この間了ちゃん(H本君)が来たのいつだっけ?」「2-3ヶ月前。今日も来たいって言ってたんだけど」「残念だね」「この間はTさんと僕で、一緒に飲んだんだ」「TMちゃんは、今日は来ないの?」「孫が生まれて、そちらの七五三かな?」「この間生まれて、いきなり七五三は無いだろう。いい加減だなぁ」「そうだよ。百か日とか言うんじゃないか?」「そいつは、お葬式?」「人のことは言えない。いい加減だな。何か生まれた年の11月にやるやつだよ」「へー...?」「T橋さんは?」「今日は、どなたかにお願いごとがあって、スケジュール調整したら、ちょうどこちらとあたっちゃったって連絡があった」「Kさんから連絡があって、こういう会合の案内状なんか作るの得意で好きだから、この次は是非って言ってた」「M原君のとこの息子さんはどうしてます?」「今年就職。自動車関係で、新入社員なんで、自転車乗って自動車売ってる。」「バスケットだっけ」「そう。H石君の名前の樹の字をもらって、大樹と書いてひろきと読む。緑中のバスケット部でも後輩になってしまった。この間は、実業団のドラフトまで行ったんだけど、そこまで」「プロにはならないほうがいいよ」「T橋さんとこの娘さんと同級生だっけ?」「高校の同級生で結構仲は良かったみたい」「そうすると、ウチの娘の先輩でもあるわけだ」「この間お孫さんが出来た娘さん?」「そう。そしたら、同じ仲間の女の子にも子供が出来て」「お宅はまだなの?」「今度、息子の彼女をウチのアパートに住まわせたんだ。そろそろかな?まあ、前から家に泊まったりはしてたんだけどね」「M原君と、K河さんと、僕の3人で、そのことで議論したんだよな?」「K河さんて?」「バレー部に居たK河さん。僕と同じクラスの俊樹の家のそばにクラシックバレーを習いに来てた。あとバイオリンも習ってた」「俊樹ってN島俊樹?」「そう」「覚えてないなー」「K河さんは、絶対泊まるのは良くないって力説してたよな」「特にあれは、自分のとこで子供が出来ちゃった後だったからなぁ」「いや、あれは前だよ」「3人で会うことなんてあるの?」「3人で(緑中)バレー部OBの幹事やってるからね」「バレー部は、いろいろ会合があるんだろ?」「日食先生の教え子がだいたい200人ぐらいいて、そのうち160人ぐらいの消息が分かっているんだ」「でも、会合が始まったのは、日食先生の定年のときからだよ」「それまでH山君とは会ったこと、全然なかったんだ」「バレー部が日食先生定年の会合やったって聞いたから、バスケも佐々木先生のをやらなきゃってことで、I井君の連絡先調べといてよ」「H田君もバスケだよね?」「そう。あと、背の高いT橋君とか、小柄なT田君とか、小島君とか」「小島君って知らない」「H石君はバスケのキャプテンだったの?」「いや。キャプテンはM田君」「佐々木先生の定年の会は、バスケでやったんじゃないの?」「いやぁ。毎年年賀状のやりとりしてるけど、そんな話は出てこなかったから、やってないよ」「佐々木先生は、高校へ行ってバレーの面倒見てたんだ」「バスケじゃないの?」「バレー」「中学から高校へ移って、校長先生までやったんだが、面倒みてたのはバレー」「もともとバレーやりたかったんだけど、日食先生が居たんで、遠慮したのかな?」「そうかもしれない。でももともとは野球」「緑中の体育は、K山先生?」「そう。いったん廃部になっていた男子バレー部を復活させたのが彼」「母校の先生やるってのも大変だよな」「バレー部OBと現役の試合があって、試合は現役が勝つんだけど、そのあと、最近の緑中チームはなっとらんとか言われる。OBからK山君呼ばわりだもんな。本人も、なにせ先輩の子供を教えるわけで何言われてもしょうがないんだけど、K山君だけは、勘弁して欲しい、って嘆いてる」「熱心なんだよな。あそこは3人兄弟だよね。僕は保育園からあの兄弟とは一緒」「一番上が高校の先生で、弟が、どっちが上でどっちが下だったか?緑中の先生と、あと一人が小学校の先生」......H山君は所用で、先に出たが、その後しばらく4時前まで話は続く。ご長男とのお約束のH君の時間が迫り、最後にこの日のためにU先生が特にTさん宛郵送で託された、ご自宅そばの名産「霊山漬け」と、ご自宅でとれたゆずが皆に行き渡り、H石君からもお土産(六花亭)が披露されて、皆ですずらん通りを歩きながら、三々五々お開き。次は、正月の2日か3日に集まれればと思う。H石君は、「交代勤務だから無理だなぁ」と言ってる。彼か了ちゃんがやってくるときは随時開催だ。
November 19, 2006
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3年ほど前、神楽坂にマンションを買いたいという一人暮らしの女性から相談を受け、パンフレットを拝見したところ、分譲も建築もまずまずの業者だったので、「これから暫く、マンション価格も金利も上げ基調だと思う。ご自分がこう住みたいライフスタイルに合っているならば、お求めになるのもひとつの考え」とお話しした。 1LDK40平米前後で3千万円台。今なら、同じレベルの物件は、5千万円からするだろう。その意味ではお買い得。買いたいという人を止めることは出来ない。山の手、市ヶ谷台の最東端。戦前からの東京が残る街。神楽坂通りに若い人が溢れる時期でも、黒板塀に石畳。そこそこの料理屋ならば、箒の掃き目、打ち水に始まり、玄関あたりの緊張感に気を使い、バブルのあとまで、一見客はとらぬ気概があった。表の喧騒と、中の静寂 彩りとモノトーン 新しさと歴史 明と暗 動と静 街は、微妙なバランスの上に漂う世の中の移ろいに、屋台骨が軋み、千円たらずのランチが出る石畳にも、ところどころの道路工事跡が生々しい。相続とバブル期の過剰投資の苦しみに、身売りに出される料亭も。分譲マンションは、それらの店の生まれ変わりどこまで果たして神楽坂は、その質を保ち続けらるのか? 街は時代とともに変わっていくもので、いつまでも同じであれというわけにもいかない。あらたに住む人々にお願いする。好きでお住みになるならば、自ら風情を楽しみ、保つ。たとえば、黒板塀の上に満艦飾の洗濯物。どこでもみかけるそんな光景も、そこでは見たくないものなのだ。 これからも、再開発は避けられぬ。作る人も、住む人も、街の風情への尊敬を忘れずに。
November 16, 2006
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19日(日曜日)はH石君の上京に合わせてささやかに5-6人で、6年3組小同級会。 お昼に集まって、2-3時間ご飯を食べながら。 会場、集合場所などは、留さんからご案内。 了ちゃんは、残念ながら、散財が過ぎて今回は欠席です。 あと、七五三とかご家族の都合で来れない方からもよろしく。 お楽しみに
November 15, 2006
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11月14日朝の日経「交友抄」に、東京穀物商品取引所専務理事の窪田武さんという方が、「松沢小の仲間」というタイトルで、同級生の交流についてお書きになっている。松沢を名前に冠した小学校はほかにもあろうか(実は検索してみて、他に該当はない模様)、と思ったが、果たしてお隣、下高井戸の松沢小。卒業後50年を経た小学校同級のご交流のお話しで、未だ毎年正月2日、窪田さんのお宅に松沢小、中学校の旧友諸兄がお集まりになるとやら。その日の、メインイベントは、当時担任の先生にお電話なさること。地域コミュニティーへの回帰は、目に見えずとも実在する経堂小OBの方々の間にもおそらくは、近い集まりはおありになるに違いない。私たちも、少人数だが、11月19日、昔の仲間の集まりを計画中。当日は、先生にも、お電話申し上げることにしよう。自分の考える将来の地域社会、一つの形とかんがえ、ご紹介する次第
November 15, 2006
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強い低気圧が西から東へ抜けて、風が強い一日と天気予報では言っていました。この冬はじめての、木枯らし(木枯らし1号)が記録されたものの、桜上水あたりは思いのほか穏やか。湿度が低く洗濯物が良く乾きます。昨日からの雨と風、そして乾燥で、空気中のほこりとか水蒸気が一掃され、きれいな夕焼けが見えました。解像度のよくない映像ですが、17時過ぎ、南側の雲に映る夕日をご覧ください。
November 12, 2006
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雨の土曜、遅い午後 連れ合いを誘って、経堂の茶房「李白」へ行く したくの遅い相手に焦れて、ワイシャツにアイロンをかけて時間をつぶしていたら、かえって、あちらのほうの用意が整ってしまい、あわててクツをつっかけて出かける。 晴れていれば、手ごろな散歩だが、空模様は、朝から気まぐれで、途中で降られるのがいやだ。 長めの傘をカチンカチン杖にして歩く相手に「傘がダメになるからやめなさい」 経堂駅からすずらん通りを歩いて5-6分。 経堂赤堤通り団地へ曲がる次の角を右へ 通りの表情は表とは一変して、緑の濃い、静かな住宅地 右側3-4軒目に「茶房李白」と入った行灯が掲げられている古屋(といっても徹底的に、古い、使い込まれた風合いのある材料だけを選び、新たに作ったものなのだろうが)が目的地。 何回か来たことはあるのだが、暖かい時期ばかりだったのだろう。 入り口が閉まっていて、なんとなく折り戸のように見えるので、いったん躊躇した後、「これは引き戸」と、左に引くと正解。 木製の床なので、クツを脱いでスリッパに履き替えて中に入る。 「よろしければ傘をお預かりします」と若い女性が連れ合いの傘を、外の大きな陶製の傘立てに入れてくれて、「どちらでもお好きな席へ」と案内する。 抹茶と、ウィンナー珈琲をオーダー。連れ合いが、おもむろに文庫本を取り出して読み始める。「せっかく久しぶりの外出なのに、本を読むなんて」と非難するが、取り合ってもらえない。 「どういう読み方してるの?」 「え、なんで?」 「だって、さっき、最後の方を読んでたから、あ、そろそろ終わりなんだと思ったら、今度は最初の方を読んでいるんだもの」 「本はあとがきを読んでから買うの。これは図書館から借りたからいいんだけど、そういう癖なんだ」 結婚して何年も経つのに相手の本の読み方、買い方も知らない。 そうこうしているうちに、 ウィンナー珈琲と、付け合せのゼリー(マスカット1粒を付けて、季節の木の葉=黄色く色づいた葉=の上に乗せて登場)と、トリュフのチョコレートのような形の和菓子(こちらも木の葉の上に乗せた餡子)が、やってきた。 「和菓子はお抹茶の前に、召し上がってもいいのよ」 ゼリーも、和菓子も、抑えた上品な甘さ。 絶品。 久しぶりのウィンナー珈琲もおいしい。 しばらくして、お抹茶が出る。 餡子の甘味に、これまた良く合う。 お抹茶が終わると、松の実を浮かせたほうじ茶と、つけ合わせのゼリー(先ほどと同様、マスカット1粒つき)が出て、それで、おしまい。 店も、お茶もおいしくいただけるこちらの李白。 もともとの神保町から数年前こちらに移り、 今年も夏ごろは改装中だったと記憶する。 若い人たちには、意外に不評。 「店主がぶっきらぼう」 「高い」 「ぼろい」! いやいや、君たちが、それを分かるには、時間という試練を経なければならない。 今の神保町では、もはや、この空間とメニューの味わいを楽しむ風情はまったく期待できない。 この、経堂の住宅街の中の一軒家。 環境と、分かってもらえるお客を求め、李白は経堂に漂着したのだった。「どちらかからのご紹介ですか?」1800円也のお勘定を払っている連れ合いが、ご店主から質問される。「いえいえご近所でして、前にも2度ばかりは、寄らせていただいるんですよ」雨に降られることもなく、李白から経堂駅まで歩き、そこからさらに暫く散歩してから帰宅。約2時間の忙中閑有り。
November 11, 2006
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ある程度の年齢(トシ)になって、「地元経堂でじっくり飲める店」を求めてみると、思いのほか見つからない。昔は、経堂駅の南口、線路沿い、経堂西通りの線路沿いあたりに、”いかにも酒場”という風情の店が並んでいたし、スタンドとこあがりの、小振りの料理屋も多くあったように記憶するのだが...そんなことを言い交わしながら、小学校同級のTさんと二人、経堂駅からすずらん通りを歩いたのだが、目当てのお店はお休み。はたと困るが、そのまま歩き続け、経堂小学校の前後でも飲み屋らしきところは、軒並みのお休み。こりゃいかん!ようやくすずらん通りの終わり、赤堤通りとの合流の直前に、スナック「天花」の看板を見つけ、入ることにした。(本当は「夭花」と間違えた。そもそも、これも「夭桃」或いは「妖花」の間違い)良く見ると、「バリアフリーの店」とある。これは夭桃?入り口が引き戸!案に相違して明るい。しかも入ったところがスロープになっている。白黒赤のコントラスト、テーブルとカウンターはコーりアンだろう。地元の奥さま然としたママさんにお伺いした「結婚して4年目から経堂に来て40年。4人の子供たちも片付いたし、ちょうどこの場所が空いたので、飲み歩いた経験を活かして、昼は実家の仕事をやっている甥と二人で、前からやりたいと思っていたバリアフリーの店を半年前から始めました。」確かに、真新しい内装。近くに住むTさんも、知らなかったようだ。「お客さまは、ゴルフのお友達とか、仲間うちから始めて、じっくりと」三々五々カウンターにお越しのお客さまは、みなさま60台半ばから70歳ほどだろうか?皆さん気持ちよさそうにカラオケをそれぞれ2-3曲お歌いになる。「福祉関係のことをやっていたこともあり、また、家族に車椅子の者もおりますので、そういう方ばかりがお客さまというわけではありませんけれども、車椅子で入れる店というのがコンセプトです」で、ご案内にも、「愛の手帳、身障手帳取得の方の優待あり」お客さまには、ご年配の方が多いのだろう。「お店を始める前に、経堂の駅の周辺とか、ここいらへんのお店は、それこそ毎日のようにお伺いし、お客さまを拝見しておりました」自ら「経堂の場末」と自嘲なさるが、いえいえ、近い距離をタクシーで移動するには、絶好の場所だし、これからの経堂には、こういうお店が大事なのです。夕方18:00から23:30までの営業で、日、月、祭日はお休み。「素人なので、2日はお休みをいただかないと」とおっしゃるが、5名さま以上ならば予約営業も可能のようだ。世田谷区船橋5-20-14お電話は03-5317-3360
November 10, 2006
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米国中間選挙に関する、米国の旧い友人、サンフランシスコ在住のJackからのE-mail。彼は、米国史上初の女性下院議長就任が確定したナンシー・ぺロシの地元支持者でもある。民主党色の強いカリフォルニア州、その中でももっとも知的でリベラルと言われるサンフランシスコ民主党支持層。その考えの一端をご披露。6nen-3kumi-san,We are really delighted with the election results. We, and almost everyone we know, are so dismayed by the Bush presidency. He came into office saying that he was a "unifier" but instead he has been a divider. And the Republicans in Congress, rather than trying to act with the opposition party, the Democrats, have frozen them out of all decisions.A good example involved lobbyists. Carl Rove told them that if they didn't support the Republicans, they would get no access to anyone. That had never happened before.<強烈!>選挙の結果はたいへんに喜ばしい。民主党支持層だけでなく、ほぼ全員がBushに対して嫌気がさしている。物事をまとめるといって登場したはずが、かえってばらばらにした。議会の中でも、共和党は野党民主党と同調するというか、意思決定への参画を凍結してしまった。ロビイストも同様で、カールローブ<大統領顧問、Bush再選に多大な貢献があったと言われる>は、恫喝まがいに、「諸兄が共和党を支持しないならば、将来誰も君らの言うことを聞くまい」とまで言ったが、そんなことは、いまだかつて無かったことだ。Nancy Pelosi should make a marvelous Speaker. (She is the representative from our district in San Francisco, and until this year she cast her vote in the polling booth which was located in our garage).She has already said that she is the Speaker for the Nation, not the Speaker for the Democrats. She may seem petite and easy-going, but she is a difficult person to say no to when she asks for something.Hopefully the Virginia senate seat will eventually go to the Democrat, giving the Democrats a 51-49 majority in the Senate. Most important, that will make it VERY difficult for Bush to nominate very conservative Supreme Court Justices.ナンシーぺロシは、しっかり意思表明をせねばならないし、既に、彼女は「民主党のためではなく、国家のために発言する」と表明している。彼女は、一見、小柄で御し易そうに見える。しかし、彼女がいったん何かを要求すれば、それを断ることは難しい。望むべくは、ヴァージニア州上院の議席を民主党が獲得し、51-49で上院での多数を確保すること。もっとも重要なのは、上院での民主党多数が、Bushによる超保守人材の最高裁判事候補指名阻止につながることだ。On Hillary- she is formidable, but I am afraid that she is what we call a "lightning rod". While some people may love her, others hate her, including Democrats. It is essential for the Democrats to win the presidency in 2008, and she might be just the Democrat who could lose. Who else? Barack Obama looks terrific - he doesn't have much experience, but then neither did JFK or the present Mr. Bush.ヒラリークリントンは、2008年大統領選への確かに有力な候補ではある一方、所謂「避雷針」(批判の矢面に立たされる人)でもある。民主党にとり、2008年大統領選の勝利は必須なのだが、彼女は、唯一「落選の可能性のある民主党候補」。では、ほかに誰が?バラック・オバマ(イリノイ州選出上院議員)はすばらしく思える、経験は少ないが、ケネディも、Bushも同じだった。All's well here. Kate, in Philadelphia, had a baby boy two weeks ago. So that makes eight grandsons, the oldest just six years old. Best-Jack***<ナンシーぺロシ>アメリカ議会下院院内総務。現在66歳。メリーランド州出身。カリフォルニア州サンフランシスコなどを選挙区とし下院議員として11回当選を果したベテラン議員。父親もメリーランド州の下院議員、同州ボルティモア市長を務めた。夫は投資家で大富豪。5人の子供を育て、1987年下院に立候補し初当選。2006年11月7日に投票された中間選挙で民主党が上・下院でともに過半数を獲得、その結果女性として初めて下院議長(第60代目)就任が確定した。下院議長は多数党の院内総務が就任することになっている。なお上院の議長は副大統領が兼務する。現在はチェイニー副大統領が上院議長。下院議長は、副大統領に次ぐ大統領継承権を持つ米政界の要職。政策的には中絶や同性婚を擁護する“超リベラル派”とみられている。又2002年の「対イラク戦争容認決議案」には、反対票を投じている。経済政策では石油関連企業向け優遇税制の見直し、中産階級向け減税、又1997年以来時給5.15ドルに据え置かれている最低賃金の引き上げなど、格差是正を主張している。http://en.wikipedia.org/wiki/Nancy_Pelosi<ヴァージニア州上院の議席>同州では8日夜の時点(開票率99%)で、民主党新人のウェッブ氏の得票率が50%、共和党のアレン氏が49%。票差は7200票余りで、、州法によればアレン氏は再集計を求めることができる。同州選管は10日までの予定で票の確認作業を続けている。<バラク・オバマ>イリノイ州選出の上院議員アフリカ系市民として史上5番目の上院議員ヒラリークリントンの大統領選副大統領候補と言われてきたが、最近は、将来の大統領候補としての呼び声が高い。http://en.wikipedia.org/wiki/Barack_Obamahttp://www.wjwn.org/activities/naganuma/mypage/archive06_13.html
November 9, 2006
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歌舞伎は、玩辞桜十二番の内「土屋主税」ご存知忠臣蔵。江戸・松坂町の吉良邸の北隣に住む旗本3000石「土屋主税」は、浪士たちの討ち入りを知り、彼らの本懐をとげさせる為、邸内にあかあかと灯を点じ、家来を塀ぎわに配備、吉良の家来が塀を乗り越えてきたら討ち止めよと命じ、自ら槍を携えて床机にに腰を下ろして物音に聞き入っていたという。この「塀を乗り越えて」というところに疑問をもった先輩がいる。何事も実証的な、この先輩、「江戸時代の大名(旗本)屋敷。隣同士の屋敷の間が塀一枚で区切られていたなどということがあるのだろうか?当時、江戸市中で武家(大名、旗本)に与えられる土地は、整地されてから渡されるものではなかったはず。貰った側も、与えられた土地の中で、使える部分だけを屋敷の用途に供した。税制も、当時の地子銀(固定資産税)には四壁引きといって、与えられた土地の面積そのものではなくて、屋敷として実際に使用している範囲に限定して課税する制度が、全国にその事例がある。江戸市中でも適用があったことは、隣接する屋敷の間は塀一枚ではなく、空間があったのではないか」とばかり、早速調査に入った。吉良邸は、今の両国三丁目。南北に逆丁字状に区画されたブロックの南側に位置し、北隣は、西側が土屋主税邸、東側が本多孫太郎邸。果たして、それぞれの屋敷間は塀一枚か、空間があったか...直接の記録は無い。関係しそうな研究をやっている出身大学の教授に問い合わせてみたが、「塀一枚でもいいのではないか?」とつれない返事。江戸時代の屋敷、・それぞれの区画がどのように配置されていたか・個別に中の建物どのような配置であったかこれらは、かなりの記録がそれぞれあるものの、今の住宅地図のように、区画と家の配置が総合的に見れるようなものは無い。まして、具体的な吉良邸周辺の資料は無い。しかし、傍証があった!まず吉良邸の図面。表口と裏口のほか、北側にはくぐり戸が2箇所ある。果たして、当時の武家の屋敷間に、くぐり戸で行き来できるような世界があったのか?次に、江戸は市ヶ谷のあたり、区画の形状、配置と、中の建物、庭の配置を、丁寧に突合せ、住宅地図のようなものを作った研究があった。図面上のそれぞれの屋敷の塀は、隣同士でも、形が合わない。その間には、先輩がにらんだとおり、空間がある....「塀を乗り越えて」に抱いた疑問は、市ヶ谷の研究において、屋敷の塀の間に空間があったことから、塀一枚で仕切られているものではないことが推論できる。赤穂浪士方が事前に知らせたか、討ち入りに際し、近隣が火災に備え家臣を待機させるなどのことは、記録からもありえたことだろう。それが、吉良邸から塀を乗り越えてという話につながるところが面白い。***地子銀は、街道筋、商業地などでは、間口割で徴収された。このため、間口に対し奥行きの長い独特の棟割が発達し、京都の町屋などはその例。海外でもハンガリーあたりか、通りに面する窓1つ毎に課税されたので、ひとつの窓をニ部屋で共用することもあったという方もいらっしゃる。先輩は土地税制と土地利用の面で、別の興味をもった。「仙台では、また独特の発達をしまして、通り沿いは全部、外から来て商売する人たちに貸してしまったのです。表を全部貸してしまったから、自分達は裏から出入りする。そういうことから、今でも公図にその痕跡が残り、表の道路に対し、裏側に誰の所有でもない土地が、道状に続いているというのが起こった。」***先輩によれば、吉良邸の話にはさらにオチがあって、問い合わせを出して、塀一枚でもよいではないかと回答した教授は、同世代の教授。市ヶ谷の屋敷をひとつひとつ付け合せて住宅地図を作っていたのはその弟子の人。権威主義とは、そういうものか
November 8, 2006
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朝から健康診断で、丸の内まで出向いた。 新丸の内センタービル。 最近は、いろんなビルが出来て、どれがどれだか良く分からない。 ネットで調べると、昔の勧銀か丸の内ホテルあたりらしい。(この感覚が分かるのは、1955年より前の生まれだろう) 九段下で東西線に乗り換え、大手町まで。 外に出ることなく、そのままエスカレーター、エレベーターと乗り継いで、新丸の内センタービル4階、丸の内クリニックなるところへたどりついた。 まだ新しいビルなので、なかなか快適な環境だ。 入り口で、健康診断のコーナーとクリニックのコーナー二手に分かれる。 受付を済ませると、ロッカーが狭いので鞄を預かるという。 ロッカーの鍵と、鞄の預かりを貰い、ロッカー室で着替えにかかる。やけに幅の狭いロッカーで、良く見ると、1つの仕切りを縦に2つに分割し、上と下にそれぞれ靴の収納場所が設けられている。 いやはや一坪一月あたり5万円はする家賃。このあたりのロッカーはこういうものなのか、と鞄を預かられた事情が判明した。 着替えて、検査が始まると、白衣の女性たちが数多く立ち働き、手際よく次々と各コーナーへ案内される。 待ち時間は、今まで経験した、どのクリニックより短くて、待合コーナーに置かれている雑誌など、手にとる暇も無いほど。 この家賃では、人件費をかけてでも、回転を上げ、しかも、無駄な待合コーナーを最小にするべく計画されているのだろう。 レントゲン、或いは、プライバシーを要するコーナーは、それぞれしっかり間仕切られているが、それ以外の採血、血圧測定、体重測定、視力検査などは、事務机の上に器具を置き、移動式のついたてで仕切られているだけ。徹底している。 最後の胃カメラだけは、どうやら想定する人数より受診者が多く来てしまったようで、少々待たされる。 「のどを楽にして」と再三言われるが、胃カメラをおやりになった方はお分かりだが、楽に出来るぐらいなら苦労はしない。 それもすぐに終わり、2時間ほどで、全行程が終了した。 しまいに、出口で鞄を受け取り、1500円也のお食事券を渡される。同時にクリニックコーナーと共用の受診者カードを貰えば、これで一人顧客の出来上がり。 実によく出来ている。 全ては効率追求の丸の内なのだ。 4階のクリニックから、エスカレーターで降りる。 傾斜部高速エスカレーターというヤツなのか? 乗るときと降りるときはゆっくりで、途中の傾斜しているところだけ速度が速い。 しばらくで実用化されると、2-3年前に聞いていたが、これがそうなのか? 勘違いかもしれないが、そんなことを考えながらクリニックをあとにした。 前日夜から何も食べていない。 胃カメラのせいで、昼飯まで、あと一時間だ。
November 8, 2006
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今日は、朝のうち強い風が吹いてました。北海道のサロマ町(サロマ湖とかある、北海道の東北側海岸沿い、知床岬の西北)では、強風で家などが吹き飛ばされ(竜巻ではないか)9名が死亡、行方不明になっています。東京では、前線が通過して、南西方面から山を越えて暖かい空気が入ってきました。山越えの乾いた南風で、湿度は11月としては、過去最低だったとか。こういう日の夜は、放射冷却で、冷え込みます。明日11月8日の朝はとても寒くなりそうなので、お休みになるときは、暖かくても足元にもう一枚上掛けを用意しておきましょう。
November 7, 2006
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竜巻の強さを示す尺度として、米国にフジタスケールというのがありますが、このフジタスケール、竜巻の強さを、風の強さと被害の程度を関連づけて示すもの(differentiates tornado intensity and links tornado damage with wind speed)で、北九州出身の日本人気象学者でシカゴ大学名誉教授だった藤田哲也により考案されたものです。日本では、あまり、大きな竜巻は発生しないようで、今日のサロマ町の竜巻でも、おそらくはF2(風速毎秒50-69m)くらいなのでしょうが、米国ではF4(93-114m/秒)のものまで観測されています(理論上はF12まであるようです)。藤田は、小倉中学(現小倉高校)から九州工大に進み、広島、長崎での原爆の被害調査に加わったあと、1953年東京大学で博士号を取得、シカゴ大学の教授には1965年に就任しています。Fujita Scaleの考案ののちも、ケネディ空港での航空機墜落事故の再調査(当初はパイロットの操縦ミスとされていた)を行い、ダウンバーストの存在を提起。さらに、後年ダウンバーストの存在をドップラー気象レーダーにより自ら証明しました。Ted FujitaFrom Wikipedia, the free encyclopediaTetsuya Theodore "Ted" Fujita (藤田哲也 Fujita Tetsuya, October 23, 1920 - November 19, 1998) was one of the great severe storms researchers of the twentieth century. Born in Fukuoka Prefecture, Japan, his research at the University of Chicago on severe thunderstorms, tornadoes, hurricanes, and typhoons revolutionized humankind's knowledge of each.He is recognized as the discoverer of downbursts and microbursts and also developed the Fujita scale which differentiates tornado intensity and links tornado damage with wind speed.Fujita's most well known contributions were in tornado research; he was often called "Mr. Tornado" by his associates and by the media. Much of what we now know about tornadoes was either discovered or advanced by his efforts. In addition to the Fujita scale, he was a pioneer in the development of tornado overflight and damage survey techniques. He established the value of photometric analysis of tornado pictures and films, to establish wind speeds at various heights at the surface of tornado vortices.In another major addition to tornado knowledge, he was instrumental in developing the concept of multiple vortex tornadoes, which feature multiple small funnels (suction vortices) rotating within a larger parent cloud. His work established that, far from being rare events as was previously believed, most powerful tornadoes were composed of multiple vortices. He also advanced the concept of mini-swirls in intensifying tropical cyclones.A master of mesoscale analysis throughout his career, it was his independent development of advanced techniques as a young scientist in Japan which prompted Horace Byers to invite him to University of Chicago upon overviewing his work. He continued to advance mesoscale meteorology with a keen ability to glean details and synthesize vast information in developing revolutionary theories.ドップラー気象レーダー雨や雪などの降水粒子は電波を反射する性質を持っています。ドップラーレーダーはこの性質を利用した装置です。 パラボラアンテナからビーム状の電波を発射し、降水粒子にあたって返ってきた反射波を信号処理することで降水強度や風の3次元的な挙動を知ることができます。 降水強度は反射波の強さから求めます。風の挙動は反射波の周波数変化(ドップラー効果)から求めます。
November 7, 2006
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10月27日金曜日の夜から、小学校同級生のTさんと、今度は会津、猪苗代、裏磐梯、福島と回ってくることにした。たまたま、Tさんのお父さん、自分の母親がそれぞれ会津の出身。小学校担任の先生が福島市郊外にお住まいといったことで、土曜の朝と日曜の混雑を敬遠して、金曜夜から出かけて、土曜の深夜には帰ってくる日程。土曜の朝4時出発でも良いのだが、それではあまりに強行軍。金曜夜21時前、ようやく地元を出発し、首都高速4号新宿線に入った。トンネルの中、三宅坂から竹橋にかけて多少の渋滞はあったが、難なく走りぬけ、6号線より川口経由東北道へ。24時が門限というホテルに、1時間ほど遅れる旨電話を入れたところ、「507と508を用意しておくので、4階までエレベーターに乗り、そこから1階上がって、使うように」との回答。部屋を使ってそのまま逃げたらどうするのだろう?那須を過ぎるあたりから、運転のTさんには悪いとは思いつつ、外の霧が濃さを増していく中、うつらうつらが始まる。郡山JCTから磐越自動車道へ入り、新中山トンネルを抜けてようやく霧が晴れた。こちらは、会津若松のICで高速を降り、ようやく目が覚めた。49号線をJR陸橋の手前で右折し、突き当たりを左折、そのまま小さい踏み切りを渡ると、サティの脇へ。ホテルはそこからすぐだったのだが迷ってしまい、実際のチェックインまで20分ほど余計にかかる。ワシントンホテルとか、駐車場など閑散だったに対し、当会津グリーンホテル駐車場は満杯。指定された通りに、5階まで上がり、そのまま就寝。7時の約束に6時45分に目覚め、電話するもTさんは出ない。シャワーを使って身支度を整えると、もう10分遅刻。フロントまで降りると、Tさんがチェックアウトして待っていてくれた。118号沿いの吉野家で490円也の定食で朝食を済ませ、朝一番は、会津の名刹鶴ヶ城。市役所あたりの旧市街から、城内を通り西ノ丸の駐車場へ。会津藩28万石(会津23万石と南山・大沼郡・下野国塩谷郡の合計)は表高で、内高は40万石を越すこともあり、経済力は御三家の一角水戸徳川家を凌ぐ。天守閣は戊辰戦争で、城の南東約2kmの高台「小田山」からの砲撃に遭い、その後取り壊されたものが、昭和40年頃再興された。その前は、天守閣の石垣だけが残っていた。夏休み毎、列車を乗り継いで母の帰郷に伴われた、その時代を懐かしく思い出す。小田山の中腹にある畑の斜面は、冬、雪が降るとちょうどいい塩梅のスロープとなり、遠出をしなくても、そこで手軽にスキーが覚えられた。今でも冬のスキー場は残っているのだろうか?早いもので、8時をまわると、城址の諸施設の従業員だろう。女の人たちが、「おはようございます」と出勤してくるのを横目に城跡の見学。千利休が秀吉の怒りに触れて死を命じられ、千家が茶の湯の世界から追放された折り、当時の会津藩主蒲生氏郷は利休の茶道が途絶えるのを惜しんで、利休の後妻となった宗恩の子で利休の養子である少庵を会津にかくまい、徳川家康とともに千家復興を秀吉に働きかけた。その結果、小庵は京都に帰って千家を再興し、千家茶道は一子、宗旦(そうたん)に引き継がれる。そののち宗左、宗室、宗守の3人の孫によって表、裏、武者小路の3千家が興され、今日の茶道隆盛の基が築かれた。その小庵が会津隠遁時代に建てたと言われるのが、城内の一角にある茶室「麟閣」。戊辰戦争後、長らく城下に移築、保存されていたが、平成の時代になり城内に戻された。会津という地の独自性は、もともとの風土に、戊辰の戦役とその後の、藩主以下領民一人一人に至るまでの身の処し方があって、ひとつの形となった。Tさんに付き合ってもらい、鶴ヶ城から、近の母方の実家があったあたりを尋ねたが、集合住宅が立ち並び、当時の面影は道の形にしか残っていない。Tさんのお父上のご実家は、市内の川沿いと伺った。東山から城南を西に、その後西北へ流れを転ずる湯川か、或いは、湯川を合流する大川か?あまり気がすすまない風情のTさんをうながして、白虎隊自刃の地として知られる飯盛山へ向かう。前回の訪問は、1960年代半ば頃、猪苗代から国道49号線をバスで滝沢峠を越え、会津若松へ入る直前、飯盛山に寄ったと記憶する。便利になったもので、ふもとから、せいぜいが標高30mかそこらを登るところに、250円の登攀用コンベヤーが設置されている。確か長崎のグラバー亭にも、同じようなのがあったな、と思いながら、250円惜しさに、あえぎながら歩いて登る。いっしょに上り始めた体力に勝るTさんは軽々と先に上りきり、笑って上から眺めている。登り終えると、今度は順路に従い、5-6m下の、会津若松市内から会津盆地全域を見渡すことのできる「自刃の場」まで石段を降りた。あいにく、前夜の霧の名残だろうか、視界は10kmほどか。距離6kmほどの鶴ヶ城は、きちんと見える。もう一度、石段を登り、お墓にお参りしたあと、反対側に下り、さざえ堂なる二重螺旋の内部構造で、入り口から入って登っていくと、折り返さないでそのまま下りに転じ、裏側の出口に至る「世界に一つ」の建物。入場料250円也の受付窓口のおばさんが、口上でそう語るだけで、別に見るまでもない。感心したのは、さざえ堂を過ぎた先。がけの下に池があり、そこへ奥の洞窟から水が流れ込んでいる。その水は、池からさらに、山肌を縫って走る幅1-2mほどの狭い水路を音をたてて流れ下る。どうということの無い景色に見えるが、実は、この洞窟と水路は、戸ノ口堰なる猪苗代湖と会津若松市内を結ぶ水路の一部で、会津水利技術の歴史と成果を示すもの。江戸時代初期に開削に取りかかり、徐々に距離を延長し灌漑範囲を拡大。1832年に飯盛山山腹に約150mのトンネル水路を抜いて、ほぼ今の形が完成するまで約200年。http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=37%2F31%2F36.586&lon=139%2F59%2F38.766&layer=0&sc=4&mode=map&size=l&pointer=on&p=&CE.x=478&CE.y=370白虎隊は戸ノ口原から帰投の途中、このトンネルを通って飯盛山に登り、城下に放たれた火を落城と誤解し自害したという。「飯盛山、思ってたよりは面白かった」とこちらに比べ冷静な反応のTさん。
November 5, 2006
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車に戻り、飯盛山の北麓から滝沢峠を越えて、強清水というところで、茨城街道を左折し、すぐに国道49号へ右折。さらに会津リクリエーション公園の信号を右折して、猪苗代湖畔を南回りに半周にかかる。しばらく走り中田浜あたりまでくれば、もはやすれ違う車もなくなり、誰もいない湖畔の向こうには、名倉山の後ろに、猫魔岳と磐梯山がはっきりと見える。流れも波もなく、湖は静寂の中にある。目を東に転ずれば、湖面がもやいで、さらに幻想的な景観が広がった。標高514m、面積103.3平方キロ。猪苗代湖は、大きさで全国第四位(上位には琵琶湖、霞ヶ浦、サロマ湖)、透明度第三位(摩周湖、田沢湖)。近くの旧硫黄鉱山からの強酸性の地下水や沼尻鉱山と中ノ沢温泉の強酸性の源泉が長瀬川を通じて流入するために、湖水は広い範囲でpH5程度の酸性を示す、鉄イオンやアルミニウムイオンの濃度が高いことから流入する水が猪苗代湖で中和される過程でこれらイオンと有機性汚濁成分やりんが吸着、結合して湖底に沈殿するという自然の浄化機構を持っている。水中の有機物の量を示すCODは0.5mg/L(2004年現在)と日本でもっとも少ない湖である。猪苗代湖は、湖盆が断層によって生じた凹地にできた断層湖で、湖岸は急傾斜のところがあるが、湖底は緩傾斜で広い。 成因が同じ断層湖である諏訪湖もやはり内陸部にある湖で、標高759m。冬は凍結するが、こちらは、早い時期から富栄養化に悩む。再び茨城街道をしばらく走ってから北へ転じ、湖の南端「舟津」から一気に湖畔を上戸(じょうこ)まで北上する。この上戸から、その隣の川桁あたりにかけては、瀟洒なつくりのリゾートマンションがいくつか見える。磐梯山と猪苗代湖のコントラスト。春の新緑にはじまり、夏の湖水浴、秋の紅葉、冬のスキーと、それぞれに絶品。メシも美味いし、温泉も出る。いいこと尽くめで、東北自動車道、東北新幹線、磐越自動車道と、交通インフラが新設されるたび、景気が過熱するたび、リゾートマンションが建設される。が、残念なるかな、東京からちょっとだけ遠い。Tさん曰く「手前に、軽井沢、日光、那須と、ショートカットが並び、なかなかここまでは。近くなった、と皆さん言う。でも、ほかのところも近くなっていることに気がつかないのだろうか?」上戸(じょうこ)のトンネルでは、その昔、まだ蒸気機関車の時代に、デッキに立って本を読んでいたら、突然、汽車がトンネルに入り、それと同時に、猛烈な煤煙が襲ってきた。郡山ー会津若松間65km。磐越西線で12駅。単線で、当時、2時間はかかった記憶がある。今では電車で1時間少々。沼上信号所でのすれ違いはまだあるか?中山宿のスイッチバックは、だいぶん前になくなったらしい。郡山方面、東側から来た各駅停車は、現在の駅の下手にあった中山宿の駅にいったん停車。そこから東北方向へ後退して25/1000勾配のスイッチバック区間をのぼっていく。先頭の機関車が所定の位置まで到着すると、ポイントが切り替わる。そこで列車は機関車の出力をいっぱいに上げ、重力の力を借りて猛然と斜面を駆け下り、その勢いでいっきに沼上トンネルまで峠に乗り上げ難所を越えたのだった。中山宿に停車しない下り優等列車、中山峠を降りてくる郡山方面への列車は、坂の力を借りて加速する必要がないので、スイッチバック区間には入らなかった。1887年、東北線に郡山駅が開業。翌1888年に磐梯山が噴火している。磐越西線は、1898年7月に郡山~中山宿間、1899年3月に中山宿~山潟(現・上戸駅)間、同年7月15日、山潟~若松(現在の会津若松)間が開通し郡山~会津若松間が全通した。喜多方を経て、新津までの全通は1914年。奥羽山脈に列する中山峠は、郡山市熱海町と耶麻郡猪苗代町の境にある国道49号の峠で標高は525m。現在の国道49号は1885年(明治18年)会津街道として開削された。それ以前の越後街道は、3km北の楊枝峠越えの旧道で今は廃道となり、車両の通行は禁止。中山宿は、その通り、奥州街道から会津を経て、新潟に抜ける越後街道の宿場だったが、磐越西線の開削によりその機能を失い、今は、のんびりとした山間の風景に埋もれている。磐越西線の建設は、戦略上の要請として、新潟の石油を関東圏に運搬する目的があった。東京ー新潟を結ぶ鉄道は、磐越西線に先行して1893年に開業していた信越本線が、そもそも遠回り。難所の碓氷峠越えがあれば、冬の雪も深く輸送力に問題をかかえていた。本来のショートカットである上越線は、清水トンネルの完成を待って開通したのが1931年。こちらも雪深い山間部を走る。この間行った八ヶ岳山麓を抜ける小海線にも、信越線の迂回路としての性格があったと考えられるが、こちらの全通は1935年。福島行ー1で書いたの戸ノ口堰は、猪苗代湖から会津若松側へ水を引いているが、上戸トンネル南側にも、郡山側への用水「安積疎水あさかそすい」の取り入れ口がある。明治初期に行われた安積疎水開削にあたっては、江戸期から猪苗代湖からの取水を先行していた会津側へ影響を与えないように、猪苗代湖から只見川への排水経路である日橋川の流出口に十六橋なる水位調整機能を設けるなどの対応が行われている。疎水開削により、郡山には明治維新の変動で職を失った旧士族らが入植。1世紀の間に人口34万を要する福島県最大の都市にまで成長することができた。上戸から川桁(かわげた)へ抜け、そこから、猪苗代湖に流れ込む酸性度の強い長瀬川に沿って、しばらく北上する。長瀬川の上流は、酸川とか硫黄川とか呼ばれる支流があって、水質を如実に示す。かつて、川桁駅と上流の沼尻の硫黄鉱山を結ぶ「沼尻軽便鉄道」という、マッチ箱のような列車が走っていて、川桁駅を通るときに、空色の褪せたペンキの客車が数台放置されているのを見た記憶がある。そのとき、母に「あれは何?」と尋ねても、ちゃんとした答えは返ってこなかった。母方の祖父は会津出身だが、母は、その任地の水戸生まれ、その後しばらく東京は文京区あたりで育ち、女学校(府立第二)の途中、再び祖父の転勤で鶴岡へ。そこから「福島医専と女高師のいづれかならば」と祖父に迫られ(さもなくば「女は勉強する必要なし、さっさと嫁に行け」だったであろう)、女高師へ。卒業後も東京で勤め、東京で結婚した彼女に、川桁からの軽便鉄道を尋ねても、今思えば、答えられぬのが道理。いつか絶対乗ってやろうと思っていたのに、1968年に廃止になってしまった。磐梯急行は、証券取引所に上場していて、しばらく整理ポストで2円とか、1円とかがついていたことも思い出す。猪苗代の町で、「何かの役に立つだろう」と、名物柏屋薄皮まんじゅうを4箱ばかり買う。父が好きで良く求めてきた。長らく会津のものだろうと思っていたら、柏屋は郡山が本店。11時を回って、小腹が空いたか?試供品の四つ割りにしたまんじゅうをつまんだら、Tさんが笑って見ていた。猪苗代から、車は裏磐梯へと回りこむ。
November 5, 2006
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磐梯山は、標高1819M。南側からは穏やかな表情に見える一方で、北側からは、1888年の噴火(私たちは水蒸気爆発と習った。最近の研究では、噴火は小規模のものだったが、被害を大きくしたのが、今見える磐梯山の山頂(大磐梯)とほぼ同じ標高のあった小磐梯の山塊崩落。古長瀬川をせきとめ、桧原湖、小野川湖、秋元湖、曽原沼、五色沼など、多数の湖沼を形成し、461名の犠牲者を出した)今見る景色はわずか120年ほど前の噴火の産物とは....国道459号を磐梯山の東北麓を走りながら、改めて驚く。五色沼にかかるあたりで、突然に渋滞が始まる。車が多いのではない。駐車場が少ないせいで、駐車場待ちの車列が一般道にもあふれ出しているのだ。まだまだ、裏磐梯の観光インフラは弱い。駐車場を増やせば良いというものでもない。地域観光の総合的なあり方が組み立てられていないから、景気の良いときに一部のインフラだけが突出して建設され、弱い、それ以外の機能にしわ寄せが来る。駐車場待ち30分。行列して入っても汚く、おとし紙も無いトイレ...そのしわ寄せだけが、潜在的リピーターたりうる人々の何割かの印象に残り、彼らを顧客として獲得するチャンスは永遠に失われる。磐梯吾妻レークラインへと右折。いよいよ紅葉の本番だ。猪苗代湖畔では、ようやく若干色づき始めたか、という程度だったのが、こちらは、全山紅葉。標高1200Mぐらいから上は、既に葉を落とし、白い幹を見せていた。小野川湖、秋元湖を眼下に見下ろしながら、ところどころの展望台に止まっては景色を眺めながら走る。思わぬところで車が滞り、なんだろうと思ってのろのろと前進すると、先の渓谷を渡るアーチ橋に人が出ている。中津川渓谷。私たちも、小ハイキングへと、レストハウスの駐車場に空きを見つけてもぐりこむ。案内板によれば、渓谷まで徒歩10分とある。だいぶん下のほうなので、Tさんの顔をうかがうと、出かける気十分。降りたものは、のぼらにゃならん。ままよと、Tさんのお供で、歩きはじめる。最初ちょっとのぼり、そのあとは、ずっと下り。前日は雨だったのだろう。道は相当にぬかるんでいて、すれ違う戻りの人が、「下はもっとひどい」と言っているのが聞こえるが「しゃあない」自分は、Nikeのウォーキングシューズだが、TさんはBrownのローファー。申し訳ない。ようやく、川原が見えたが、はるかに下。帰りの登りはさぞきつかろう。左下にさきほどのアーチ橋が見える。そちらに向かう道もあるが、そのまま降り続ける。50mも下っただろうか?ようやく最後に3mぐらいの梯子状の階段を下り、川原へ着いた。「岩の表面が不思議だ」とTさんみれば、流れと同じ方向に4-5センチ角の柱状に模様が見える。急な流れに、流されてくる石などがあたり、同じ方向に模様がついたのだろう。と思ったら、「柱状節理」と解説。そういえば、中学の理科か、高校の地学で習った覚えがある。国語辞典によれば、「岩体に入った柱状の割れ目。マグマが冷却固結する際、収縮して生じる。玄武岩では六角柱ができることが多い」安山岩や、玄武岩に多く見られる。溶岩が、複雑な地形を埋めたときに、現れるものらしい。谷地形を埋めた直後の溶岩原は水平だが、冷却に伴う収縮率は一定。深い谷を厚く埋めたところがもっともたくさん収縮して上面がへこむ。地表の流水による浸食で,そこが再び谷となって柱状節理の断面があらわれる。その露頭が中津川の川筋。上流に小さな橋が見え、その上を歩く人がいる。見ると、対岸を歩いている人もあり、橋を渡っていくことが出来るようだ。ならばと、歩きにくい岩沢を、流れに沿って遡上していく。途中で、足場がなく、手足で体を支えながら、岩伝いに歩かねばならない場所が2箇所。どうにか、橋までたどり着く。いつの頃のものか?コンクリート製の橋は、今にも朽ち果てんとする風情。増水のたびに、流れ下る岩、樹木のせいだろう、欄干は無残に折れ曲がり、引きちぎられている。向こう岸のたもとに、「立入り禁止 北塩原村」の表示が見える。対岸は北塩原村、こちら側は猪苗代町。皆さん歩いてらっしゃるので、かまわず、橋を渡って、今度は、向こう岸を川沿いに下ることにする。向かい岸も足元はぬかるむ。転ぶとか、それほどではないのだが、歩きにくいに変わりはない。岩をくりぬいたトンネルを抜け、しばらく行くと、アーチ橋の下をくぐるが、数十m上。そろそろ登りのルートがあるはず、と、期待しながらさらに進むが、気配が無い。向こう岸は断崖絶壁。そうこうするうちに、道の真ん中に、再び落石危険、立入禁止、北塩原村の標識がある。Tさんと顔を見合わせ、戻ることに。実は、この道。昔、レークラインが出来る前は、秋元湖から中津川渓谷への観光ルートだった。レークラインが出来て、さびれるままに放置されているが、秋元湖まで歩いて歩けないことはないらしい。逆に、猪苗代町側を登っていくと、中津川沿い、山へ分け入るルートなど、いくつかに分かれ、中吾妻、東大嶺、烏帽子山、一切経山など、本格的な山岳コース。ほうほうの体で、来たルートをそのまま引き返し、ようやく駐車場まで戻る。「渓谷まで10分」は、1時間以上の行程となっていた。その実、渓谷まで降りても、紅葉は大したことはない。単なる枯葉の集まりと言ったら言い過ぎだが、実は紅葉、距離をおいて見るものだった。再びレークラインに戻り、秋元湖畔の閉鎖中のレストハウスで休憩。秋の紅葉と高原を満喫して、高森から国道115号で土湯トンネルを抜け、「道の駅」で遅めの昼食に「岩魚」の塩焼きをTさんと一本ずつほうばる。これで400円は決して高くない。安達太良から吾妻の連山を眺めるうち、ハンドルを握るTさんには申し訳ないが、うつらうつらと眠りに落ちる。どれくらいの時間がたったのか?車は医王寺というところを走っている。次の瞬間、また眠りに落ち、今度は気がつくと、花水沢。坂を上り右に曲がると、飯坂の温泉街だった。どこか、温泉だけ入れるところはないか?と探すことになる。飯坂温泉は、日本武尊が東征の際に発見したとされ、それほど歴史は古い。阿武隈川の支流で蔵王連峰にその源を発する「摺上川」と、そのまた支流の赤川の合流点の下手。橋を渡り、摺上川沿いを遡り、再び上流の橋を戻り、街なかを2-3周。さびれる、とはこういうことか。川沿いに、8-9階建てのかつては豪華なホテルであったろう建物が、軒並みシャッターを閉じ、黄色く変色した「休業」の張り紙がむなしい。巨大な廃墟のような建物ばかりで、2周回って、適当なところが見つからない。「まいったな、こりゃ」と頭を掻くTさん。対向車を避けるため、細い路地に入り、そのまま坂を下ったところで、道端に足湯を見つけた。「これがいい」と、車を降り、駐車場の案内を探す。神社の水舎と良く似た屋根と柱だけの構造。足湯の並びには、お湯かけ地蔵...お地蔵さんて鳥居があるものだろうか?さらにその先に、白木造りの浴場があるではないか!駐車場の案内は、良く分からない。50mほどか?先ほど下ってきた道を今度は登り、さらに左に曲がると駐車場らしき空間が広がっている。板塀で囲われた旧家の、庭だけを駐車場にしたような...と思っていると、家から上品なおばさんが顔を出し、「前金になっていますので、そこの料金箱に入れて下さい」とおっしゃる。40分100円と、中途半端な料金。車を止めたTさんと、足湯の場所を探そうか、と思いきや、なんと、駐車場の裏口の坂を下りたところが、先ほどの共同浴場。「鯖湖湯」とある。まず、靴を脱いで、中央の石造の湯槽のふちに腰掛け、中に足をつける。熱い!そうだ。飯坂温泉は、湯が熱いと聞いた記憶があった。湯槽には、熱い湯がふんだんに注ぎこまれている。源泉だ。これなら、厳冬の屋外でも、冷めることなく十分足湯を堪能できる。しばらくTさんと2人で足湯をつかい、次のひとたちが4-5名やってきたのを潮に、お湯かけ地蔵にお参りしてから、共同浴場へ。向かって右が男湯、左が女湯。一人200円の料金がうれしい。温泉旅館を使っちゃあこうはいかない。「鯖湖湯」は、飯坂温泉に9つある共同浴場の一。松尾芭蕉もつかったとある。10年ほど前に建て替えられる前までは、日本で一番古い木造共同浴場だったとか。御影石の湯船は、せいぜいが7-8人しか入れない。熱い湯にちょっとつかり、あとは、周りで体を洗ったり、休んだり。そんな様子だから、あまり、大きい必要はないのだろう。ゆったり温泉を堪能して、午後4時。Tさんと自分は、最後の目的地、小学校の先生宅へと向かった。それは、また、別のお話し。
November 5, 2006
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