2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全30件 (30件中 1-30件目)
1
毎月、月末に訪れる恐怖の大魔王を、だいたい撃退できました。神様のおかげをいただけました。特に今月は、3日間、教師子弟の集いに取られましたので、時間的に苦しかったです。しかも、子弟の集いから帰ってきては、疲れていて、眠くて、スローペースでしか月刊誌の原稿書きが進みませんでした。そういうことで、昨晩(今朝)は、午前1時半までかかりました。今朝の4時おきは、少ししんどいなあ、と思っていましたが、4時11分に起こしていただけました。しかし、5時までのご祈念は、ご祈念になりませんでした。でも、形だけでも、神様に平伏していますから、こらえていただきます。あと、9時半のご祈念までに印刷をしてしまえば、ご祈念後に信者さんが製本してくださいます。ありがたいです。今月も、無事、月刊誌「洗心」を出させていただけそうです。生神金光大神様、天地金乃神様、ありがとうございます。
2007.03.31
コメント(8)
月刊誌に、病気にならない生き方を書きました。これは、新谷弘実先生が出してベストセラーになった本の内容を書きました。新谷説は、健康は、エンザイム(酵素)がどれほど沢山あるかで決まる、ということです。そして、エンザイムは、解毒をするのに沢山使われるそうです。ですので、酒、タバコは、エンザイムを多量に消費するので、やめた方がいいということです。そして、少食が、解毒を少なくするので、体にもいいのです。私は、子弟の集いで、みなと一緒に食べ過ぎた感じがします。これから、また、少食に戻そうと思っています。
2007.03.30
コメント(6)
2泊3日の教区の教師子弟の集いから帰ってきました。ちょっと疲れましたが、これからの怒濤の時間を思うと、少しおじけづいています。メールを開くのも、いくつ来ているだろうかと、恐る恐る開くと、70も来ていました。迷惑メールも多いのですが、お届けのメールもあります。その返事も急ぎます。それから、このブログを書かせてもらわなければいけません。それは、今、書いていますが、コメントに返事を書くのと、どちらを先にしようかと、ためらいながら、ブログを書いています。また、出発する前に済ませたかった月刊誌の原稿も、できていませんので、しなければいけません。あれもこれもと思うと、気ばかり焦り、はかどりません。落ち着いて、一つ一つ、取り組ませていただきたいです。教師子弟の集いで教会を離れると、祈る時間が短くなります。祈りもさせていただかなければなりません。何故なら、大切な氏子の命を預かっているからです。いくら祈っても、十分ではありません。しかし、お結界に座っていれば、それも祈りとして、神様は受けてくださいます。その意味でも、教会に、一日いる、ということは、大変なことだなあ、と改めて思わされています。
2007.03.29
コメント(6)
今日から、3日間、教区の教師子弟の集いで、大三島の方に行きます。中・高生を対象にしています。今回は、11人の中・高生が参加してくれます。ありがたいことです。それぞれの子どもの中に、信心の種がまかれますように祈っています。これからの金光教を担っていくのは、教師子弟です。信心のしっかりした教師子弟が育つことに努めたいと思います。
2007.03.27
コメント(8)
私は、明日から3日間、教区の教師子弟の集いで、教会をあけます。月末のこの3日間がないのは、ちょっと厳しいです。教会の月刊誌を作っていますが、それに書く文章を作らなければなりません。そして、製本、印刷をしなければいけません。4月1日には、勧学祭がありますので、その祭詞を書いたり、参拝者の学年と名前を書いて貼り出したり、記念品を買ったりの準備をしなければなりません。そして、勧学祭の後にちびっ子祭りがあり、餅つきなどをします。その後、大祭(4月15日)の打ち合わせをする、その資料も作らなければいけません。大祭のご案内の葉書も印刷しなければなりません。いろいろしなければならないのですが、時間がありません。今日、集中力のおかげを頂いて、できるだけさせていただきたいと思います。人間には、バイオリズムがある、と言われます。集中して出来るときと出来ないときと、波があるのです。しかし、そんなことは言っておれません。神様のおかげをいただいて、集中力を出させていただきたいと思います。神様にお願いしておくと、不思議と事柄ができていきます。神様がしてくださるのです。それを、不思議と言ってはいけません。信心して、お陰のあるを、不思議と言うまじきものぞ、です。
2007.03.26
コメント(8)
昨日、高橋行地郎先生から、次のようなお話をお聞きしました。「私には、財産がある。できの悪い私、信心の分からない私、助かっていない私、という財産がある。出来が悪いから、少しでもよくしようとして、努力する。信心が分からないから、少しでも分かろうとして、お話を聞こうとする。助かっていないから、少しでも助かろうとして、信心に工夫をする。だから、どうしようもない私は、貴重な財産である」そうだなあ、と思いました。助かっていたら、信心を求めないかもしれません。できていると思ったら、努力しないでしょう。向上心を持って、努力するのは、未熟だからこそです。その自覚があるからです。そのことは、とても大切なことだと思います。未完成であること、未熟であることは、完成に向かって進歩できるという、すばらしい状態でもあるのです。
2007.03.25
コメント(8)
今日は、五軒家教会の中桐愛子先生の50日祭にお参りしてきました。そのお祭に、教区の教会長教師研修会の講師にお願いしようと思っていた先生もお参りしておられました。そこで、早速にお願いしましたら、受けていただけました。バスで移動中にも、いろいろお話させていただけました。こうした時に、教師のあり方について、お話できるのは、ありがたいです。この先生は、つぶれかけていた教会に後継に入り、立派に立て直されました。今では、ほぼ一日参拝者が続くということです。生きたお取次がされているのでしょう。こちらが願っていることを、神様が聞いてくださり、この先生に会わせてくださるお繰り合わせをくださいました。私たちが信心させていただいている神様は、本当に生き生きと働いてくださいます。生きた神を信心せよ、と言われますが、こちらが生きた信心をしなければなりません。昨日も、ある先生を差し向けられたのですが、その先生に話そうと思いながら、話しませんでした。これも、神様とされては、お繰り合わせをくださったのですが、私が敏感にキャッチできなかったのです。あれこれ思うは人心、と言われますが、まあ、後で話す場を持とうと考えてしまいました。これは、人心だったなあ、と思わされます。そこの見極めが大切です。生き生きした信心をしていないと、見誤ります。常に神様に心を向けていないといけません。
2007.03.24
コメント(6)
昨日、御本部からの帰りに、岡山駅からバスに乗りましたが、その時、白い杖をついた人も乗られました。また、バスの中から、白い杖をついて歩いておられる人を見ました。歩けると言うことは、目が見えるから、安心して歩けるのだと思いました。目が見えない人も、杖があり、点字ブロックなどがあるから、歩けるのです。ですから、歩けるためには、いろいろお世話になって歩くことが出来るのです。そして、教会の前まで帰ってきましたら、歩けなくなった方が立っておられました。たまたま居合わせた信者さんが、そばで支えておられましたが、一歩も動けないようでした。私も側に行き、反対側を支えましたが、それでも動けません。急に動けなくなったとのことでした。神様のおかげをいただきませんと、一歩も動くことが出来ないのだ、ということを見せてくださったように思いました。歩けるということは、目が見え、見えない場合は、杖などのお世話になり、足も神様のお働きで動かせていただき、初めて出来ることなんだと思いました。そうしたことに、お礼を言わせていただかなければなりません。一歩一歩に「ありがとうございます」とお礼を言いながら、歩ませていただきたいですね。歩けなくなった方は、携帯電話でご家族に連絡が出来、迎えに来ていただけました。これも、教会の前で、神様のおかげをいただかれたのだと思いました。
2007.03.23
コメント(8)
昨日は、霊祭を仕えさせていただきました。教会で仕えさせて頂いた後、4軒の信者さんのお宅での宅霊祭も仕えさせていただきました。信奉者の先祖の御霊様が助かられるように、祈りを込めさせていただきました。一方、いろいろお願いしないといけないことがお届けされました。今日は、教務センターへ出務ですので、その前に御本部広前で、それらの事柄のご祈念をさせていただこうと思っています。30分ぐらいしか時間がないのですが、一心に、熱心に、真を持って祈りたいと思います。神様が、どうぞ祈ってくれよ、といろいろな事柄を差し向けられます。難儀な問題が多いです。どのようにしたら、道がつくだろうか、と途方にくれるようなものもあります。人間考えでは、難しいなあ、と思われる問題ばかりです。しかし、神様なら、おかげをくださるはず、と信じて祈らせていただきます。一心不乱に、神様に届く一心が出ますように。祈れる祈りをしないといけません。
2007.03.22
コメント(6)
今日は霊祭です。教会には、歴代教会長の御霊様を始め、信奉者のご先祖の御霊様をお祀りしています。その御霊様にお礼をさせていただきます。御霊様方は、そのことをとても喜ばれます。そして、神様から御霊様にお徳を授けていただきます。御霊のみ位を進めていただきます。このことも、御霊様がとても喜ばれることです。御霊様にお徳を授けていただくのは、私たちの信心が大切なことになります。私たち子孫が、しっかり信心をすればするほど、先祖の御霊様がお徳を沢山頂かれます。私たちの信心は、先祖供養にもなるのです。今日は、私たちも、御霊様方も、共に助かる霊祭です。生神金光大神様、天地金乃神様、よろしくお願い申し上げます。
2007.03.21
コメント(8)
「人が私の言うことを聞いてくれません」と言ったら、越智常太郎先生が「心配せんでも、徳がないから聞いてくれない。徳ができたら、聞けと言わんでも聞いてくれる」と言われたそうです。つまり、徳がものを言うということです。私たちは、徳を頂くことに力を入れなければいけません。めぐりを積まないようにしなければいけません。神様にお願いしてさせていただくと、お徳がいただけます。わが力でやっていると、めぐりを積んでしまいます。めぐりが多くなってくると、知恵があってもいい働きが出来なくなります。越智先生が、「どんなに賢うても知恵があっても、めぐりというものに支配されれば、賢いのが賢くならず、この社会に入れられないことになる」とも言っておられます。学問をつけるより、徳を積む方に力を入れなければいけません。お徳を頂くには、信心辛抱が必要です。何事も神様にお願いしつつ、起こってくることをありがたく受けていくことをしていると、お徳がいただけます。ですから、難儀が起こってきても、がっかりすることはありません。それで信心の稽古をさせていただき、お徳をいただいていけばいいのです。お徳がいただけてくると、だんだんとおかげになっていきます。信心は先が楽しみなものです。
2007.03.20
コメント(8)
越智常太郎先生の教え「信心する者は、自分というものを知る、ということが大切である。本当に知れば、偉いものである。人は天地の親神様の氏子として非常に尊いものである。その反面に、人というものは明日の日も分からないという頼りない、つまらないものである、ということを悟らねばならぬ。どんなに財産があっても知恵があっても、咽喉に出物でもできれば、どうすることも出来ない。利口な人やら凡夫やら分からない人間となる。それを考えれば少しの油断も出来ない我々である。改まりに改まらせていただき、一生懸命お神様におすがりして、人がどのように笑おうとも、自分より上の人から注意を受けようと構わず、神様にもたれ、おすがりし、辛抱させていただくことが大切である。そのうちに徳を頂き、十の力は十に、二十の力は二十に、三十の力は三十に、また、向こう倍力の徳を積ませていただくことができる。財産の有るものは有るなりに、無いものは無いなりに、学問のある人はあるなりに、それが生きていくようにしてくださるのである」人が笑おうと、上の人が注意しようと、というのが面白いですね。それこそ、馬鹿と阿呆になって、信心していけば、お徳がいただけるのです。お徳がいただけて、初めて財産も、学問も、いい使い方が出来るのです。お徳がなければ、財産があることで困り、学問が身を食う、ということになるのです。そのお徳を頂くには、神様におすがりしていくしかありません。
2007.03.19
コメント(7)
ある先生は、自分は信者の命を預かっている、という自覚で、ご祈念帳を持ち歩いておられる、と聞きました。ご祈念帳といっても、信者の名前とお願い事を書いた紙だと思うのですが。私も、それぐらいの自覚を持ちたいと思います。私がご祈念を緩めると、信者にどういうことがあるか分からない、という気持ちで、油断のないご祈念をさせていただきたいと思います。私は、信者さんならびに、ご縁のある人を書き上げると、400人を超えました。その名前を読み上げるご祈念をしていましたが、今は出来ていません。また、はじめたいと思います。でも、時間がない時が多いので、せめて持ち歩いて、その信者の命を預かっているぐらいの自覚を持ちたいと思います。
2007.03.18
コメント(6)
越智常太郎先生は、「神様に向こうた時は、武士が白刃と白刃とを合わした時のような真剣な心にならねばならぬ」と言っておられました。実際そのような向かい方であられたようです。そのご祈念の仕方は、しっかりと指を組み合わせ、畳をこするようにして、「どうぞ、どうぞ」と渾身の力をこめて、繰り返し繰り返し祈られました。「一心に、熱心に、本気の信心に、真の信心に」と声に出して祈られていました。わが子の大病のお願いのため参っておられた方が、「親先生の、あのご祈念で助からぬことはないと思った」と話しています。そのような祈りをしたいものです。「一心に、熱心に、本気の信心に、真の信心に」と祈りこみをしてから本気で祈る、死にものぐるいで祈る、一心不乱に祈る。そんな祈りが出来ますように。生神金光大神様、天地金乃神様。
2007.03.17
コメント(5)
今日から明日にかけて、御本部で会議があり、私も出席させていただきます。遠い方は、泊まりですが、私は、近いので、教会に帰らせていただきます。そして、明日の朝6時のご祈念を終えて、また行かせて頂きます。この会議は、非常に大切な会議だと思っています。どのような組織でも、一番大切なのは人です。人がよければ、伸びていきます。金光教で言えば、教師が大切です。自ら向上しようという気持ちの強いことが、大切だと思います。また、日ごろの御用の中で、人を助けさせていただきたい、という気持ちを維持していくことが大切なことです。いよいよのところは、個人にかかってくるのですが、その手伝いになるようなものが出来るかどうか。そのようなものが出来るかどうかが、この会議にかかっているように感じています。気合を入れて、臨みたいと思います。その割には、事前の準備が出来ていません。もっとモチベーションをあげなければ・・・。
2007.03.16
コメント(8)
家内が風邪で、2,3日、ダウンしました。そこで、私が、お昼ご飯を作りました。そうめんを湯がこうと思ったのですが、そうめんはすぐ茹で上がります。それこそ1,2分です。そうめんを湯がきながら、おかずを作っていたら、そうめんが早く出来てしまいますので、のびてしまいます。そこで、おかずから作って、最後にそうめんを湯がきながら、めんつゆを作ります。そうめんが茹で上がるのは、めんつゆを作るぐらいの時間しかありません。めんつゆを作るといっても、液体だしをお湯で割るだけですけどね。まず、山芋をすりました。これは、しばらく置いていても、さめる心配をしなくてもいいですから。次に、野菜炒めをするために、野菜を切ります。私は、タケ類が好きですから、シイタケとかエリンギとか、エノキとかを、しっかり入れます。それをフライパンでいためて、最後に醤油をかけます。ちょっとかけすぎました。辛かったです。そして、最後に、そうめん湯がきです。湯がいて、ざるに上げて、どんぶりに入れ、おかずをフライパンから、お皿に移そうとしたら、お皿を置く場所がなく、苦労しました。3人分でも、山芋の器、そうめんの器、だし汁の器、野菜炒めの器、というと、結構量があります。料理は段取りが大切ですね。普段使わない頭を使うから、疲れました。家内は、毎日、こういう苦労をしているのですから、もっと感謝しなければいけません。やはり、たまには、料理もしてみないといけませんね。夕食は、娘が幼稚園の勤めから帰ってきて作ってくれました。感謝です。私が作るのであれば、又、野菜炒めです。それは、悲惨ですから、娘が成長してくれていることに感謝です。料理も黒衣で作りました。いつお参りがあるか分かりませんから。実際、二日目は、料理を切ったところで、お参りがありました。やはり、食べようとするとお参りがあります。でも、炒めている途中でなくて、よかったです。これも、お繰り合わせです。昨日から、家内が復活しました。やれやれです。
2007.03.15
コメント(10)
「信心は、倒れぬ前の杖」というみ教えがあります。何かことがある前に、信心をしていれば、そこを凌がせてくださるおかげを頂くことができます。信者さんでも、何か事が起こる前に、その方にかかわるお届けがあったり、急にその人のことが気にかかったりして、ご祈念させていただくことがあります。それは、神様が、前もって、お取次をさせられ、祈りをさせられて、お徳をくださり、助けてくださろうとする働きなのです。ですから、信心も、自分がしているのではなく、させてくださるのです。そして、おかげをくださろうとしているのです。そのような、神心に感謝しながら、日々を過ごしたいと思います。
2007.03.14
コメント(4)
大正九年に、金光教甘木教会初代婦人が夢を見られました。それは、広い荒野で、神々しい御老人が草を刈りそろえておられる夢でした。どちら様であろうかと近づいてみますと、その御老人が、「帰ったなら、教会長へ、わしがかようにして働いていることを伝えてくれ」と言われました。そこで、目が覚められて、そのことを甘木の初代にお伝えになりますと、「その御老人こそ、教祖生神金光大神様におわすに相違ない。我々の目にこそ見えぬが、一時のお休みもなく、後から進んでくる者のために、荒野を開拓され、地ならしをして下されているのであろう。我々教師は、その地ならしの出来た土地の上に、種をまくだけの御用をしておるに過ぎない。決して、自分が道を開くなど、思い上がってはならない」と言われたということです。とかく私たちは、自分がやった、頑張った、と思いがちです。でも、背後が見えている人は、そうでないことが分かるのです。私たちは、神様のお働き、教祖様のお働きの上で、ちょこっとさせていただけているだけなのです。そういう思いがあれば、謙虚になれます。謙虚な姿は、美しいです。本当のことが分かった人の姿は美しいです。
2007.03.13
コメント(4)
金光教の教会は、財的保証はありません。食べていけるかどうかは分かりません。しかし、教会の初代の先生方は、食うや食わずの中を通られ、その中で、しっかりした神様をつかんでいかれました。昨日、松山成三先生の遺稿を見せていただきました。「阿呆になれ」というものでした。阿呆は、食べていけるだろうかといった心配はしない。ただ、ひたすら人助けに邁進していくのみ。いらないことは考えない、ということです。そして、どのようになっても、心配がない(阿呆だから心配しない)安心の境地は、何物にも変えがたいおかげであり、その心境を伝えていくのが、本当の御用である、と言われていました。私も、参ってこられる人が、助かるよう、ひたすら祈って行きたいと思います。他のことは、考えない、阿呆になっていこうと思います。しかし、教務センターの職員は困るだろうなあ、「所長、少しは考えてください!!!」又、本部の会議に呼ばれていっても、「せっかく呼んだのだから、ちゃんと考えて、発言してください」と言われるだろうなあ。こういうことが、いらないことを考える、ということでしょう。阿呆だから、考えなくてもいいのです。
2007.03.12
コメント(4)
病気になった時、どうしてこんな病気になったのか、ひどい目にあった、と考えるのと、この病気を神様に治していただけて、ありがたいと考えるのとでは、その後が大きな違いになってきます。ひどい目にあったと考えるのは、後にめぐりしか残りません。病気になったけれども、治していただけた、と考えると、後にお徳が残ります。そのお徳が、後々いい働きをしてくれます。どういう中にも、感謝が出るような受け方をすると、その人の人生は、幸せなものになっていきます。まさに、おかげはわが心にあり、です。合楽教会初代は、心一つで全てをつくる、と言われました。心の働かせ方、受け方で、大きな違いになっていくのです。今日も、感謝の心で生きていきましょう。今日も、すばらしい一日を与えていただき、ありがとうございます、と感謝していきましょう。
2007.03.11
コメント(4)
金光教では、お結界でお参りがあるのを、ひたすら待っています。お願い事がある人が、参ってきて、お願いされることを、祈らせていただきます。すぐおかげになることもあれば、しばらく続く問題もあります。そうした問題がたまってくると、結構沢山祈ることがあります。その問題は、こちらが祈ることで、少しいい方向へ行きます。そして、本人が祈ることで、又、少しいい方向に行きます。又、本人が改まると、ぐっとおかげに近づきます。おかげは、神様と取次者と願い主の共同作業です。取次者が力を入れて祈ると、願い主が、より改まる気になったりします。ですから、取次者の祈りは大切です。だから、取次者には、十分な祈りの時間が欲しいものです。でも、いろいろな用事があり、時間が少なくなっています。これが問題なのかもしれません。取次者は、お取次と祈りだけをしていく、というのが理想です。そのようになって行くと金光教も変わってくると思います。そのためには、金光教はシンプルになっていかなければいけません。しかし、シンプル イズ ベストです。後2年後に、立教150年です。立教150年に向かって、金光教はシンプルになっていく方向で進んでいくのではないかと思っています。
2007.03.10
コメント(4)
昨日、芸備教会に、月のお礼参拝をさせていただいた。お結界に、芸備教会長が出てきてくださった。芸備教会長は、今年のお正月、元旦祭の準備をしておられたとき、脳内出血で病院に入院された。その後遺症が、ほとんどないのが、奇跡だとお医者さんにも言われた、とのことだった。芸備教会長は、数年前に、居眠り運転をして、壁にぶつかる事故をされた。その時、胸を強く打っただけで、大事に至らなかった。その少し後、神様からのお知らせで、「このたびは、危ないとこであったが、まだ、神が使う用があるので、助けてやった」とのことであった。このたびの脳内出血も、そういうことだろうか、と思う。私たちは、健康のおかげを頂きたいと思う。そして、何のために健康のおかげを頂くのかというと、神様の御用をさせていただくために、健康のおかげを頂くのである。今日も、どうぞ、神様のお役に立てる仕事をさせてください、と祈りながら、御用をさせていただきたいと思う。
2007.03.09
コメント(4)
昨日のブログに書いた、幼稚園児に見せた本は、「どうして私、片づけられないの?」という本です。それは、ADHDタイプと言われる、心の傾向性による、と説明されています。以前、ADHDタイプは、「片づけられない女たち」という本で取り上げられたので、知っておられる方もいらっしゃるでしょう。私も、広告で、その本のことを知っていましたが、買って読むまでにはいたりませんでした。でも、興味はありました。私も片づけは苦手ですし、周りにもそういう人は、結構いるように思いますから。「どうしても部屋が散らかってしまう」「なぜか時間が読めなくて、悪気がないのに遅刻してしまう」「いったん一つのことに集中すると、他が見えなくなる」こうしたことがよくある人はADHDタイプという場合がよくあるそうです。ADHDタイプは、目の前にあることをしているとき他の用件が入ってくると、元々やっていることが、すっぽり抜け落ちたりするそうです。たとえば、洗濯物を干そうとしている場合。手に洗濯物がある。↓玄関チャイムがなる。(洗濯物はその辺に置かれる)↓宅急便を受け取る。↓荷物を開けて、中身を確認する。↓待っていた資料だったので、仕事を始めてしまう。(洗濯物の記憶は、完全に消去されている)こうしたことが、日常茶飯事に起きているのが、ADHDタイプということです。このように、回りの刺激に反応して、走り回って、疲れて、遅刻して、怒られて、落ち込んで・・・。一つ一つの行動をうまくこなすことが、それをできる人からは、想像がつかないほど困難。ADHDタイプは、人口の5%前後いると言われています。でも、そういう傾向も含めると、もっといるかも。そうした人をも理解し、又そこから抜け出す方法を学ぶことは、大切なことだなあ、と思います。
2007.03.08
コメント(2)
昨日、列車に乗っていると、幼稚園児の団体が乗ってきました。そして、私の横の席にも幼稚園児が座りました。その子は、非常にフレンドリーで、持っている切符を見せてくれ、「チボリ公園に行くの」と言いました。私は、「そうか、チボリ公園に行くのか。楽しみだね」と言いました。そうしたら、財布も見せてくれ、「百円玉がいくつと、五十円玉がいくつと・・・・」と中身まで教えてくれました。私も、ちょうど精神科のお医者さんが書いた本を読んでいて、その中には、気持ちをリラックスさせるために、猫の絵がたくさん書いてあったので、その絵を見せてあげました。その子は、ますます近づいてきて、体をピッタリつけて、下からこちらの顔を見ています。そして、「鼻の中の黒いものがあるのを、引っ張っていい」と聞きます。鼻毛のことです。私は、「ダメダメ」と言いました。その子は、それ以上おねだりしません。いい子です。この子は、なぜこんなにフレンドリーなのだろう、親に可愛がってもらっていないから、人恋しいのだろうか、と思ったり、可愛がってもらっているから、人なつっこいのだろうか、などと考えました。やがて、倉敷に着き、列車を降りて行きました。手を振って降りて行きました。こちらも、手を振って送りました。「楽しく過ごせますように」とお願いしました。又、お父さんになった感覚になりました。神様は、私たちの親様です。神様にピッタリ近づき、なんでもお願いすれば、出来る限りかなえてくださいます。そうした、仲のいい関係になりたいもの、と思わされました。昨日は朝から、ほのぼのモードでいけて、ありがたかったです。
2007.03.07
コメント(4)
ある人の助かりを祈っているとします。その人のためを思って、意見を言ったとき、それをいいように受け取ってもらえればいいのですが、悪く受け取られることがあります。厳しい意見ほどそうです。こちらに相当の徳がないと、いいように受け取ってもらえません。よくよく願って、言わせて頂かなければなりません。それから、相手が、自分をどのように思っているかも、大きく影響します。こちらを尊敬してくれていれば、いいように受け取ってくださいます。しかし、こちらをよく思えなくなっておられれば、いいようには受け取ってもらえません。取次は、人の人生にかかわる御用です。その人の助かりに繋がらなければいけません。そのためには、祈りに祈って言わせて頂き、自分のあり方にも、よくよく注意していかなければいけません。三代金光様が、日々が新(さら)です、と言われ、日々油断が出来ません、と言われましたが、本当にそうであると思います。そこの油断から、相手を助からなくしてしまうことがあるように思います。そこを反省し、神様にお詫びしなければいけないことが、よくあります。これを不徳と言うのでしょう。
2007.03.06
コメント(4)
朝起きたら、今日も命を頂いたことのお礼を申し上げます。そして、時間に起きさせていただいたことの御礼を申し上げます。特に前日寝るのが遅かったりしたら、4時に起きさせていただけるのが、とてもありがたく感じます。(実は、もうすでに遅刻しているのですが)芸備春秋会で、高橋信道先生(父と従兄弟で、同い年)が、お話された内容を、はらはんさんが、コメントに書いてくださっていますが、信道先生は、3時40分に起きられ、親教会まで参られて、ご祈念されたそうです。しかも26年間。朝の金光様のお出ましをお迎えする、と言っても、遅刻ばかりしている私とえらい違いです。でも、それはそれで有り難いです。4時に近い時間に目が覚め、お出ましを迎えさせていただき、元気に御用が出来る。これ以上のことがあるでしょうか。今日も、素敵な一日にさせていただきたいですね。
2007.03.05
コメント(4)
ブログの管理画面を出そうとしましたら、その画面が出ず、変な画面が出ました。何度しても、その画面が出るので、次に進むところをクリックしましたら、登録ありがとうございました、ということで、私のブログの中に、お勧めリンクが出来てしまいました。「ついて行く」というタイトルのブログを書こうとしましたら、お勧めリンクがついて来ました。なんか、だまされたような、嫌な感じです。またまた、他のことを書いていたら、本題に入れなくなりますので、早速入らせていただきます。前に書いた亡くなられた方が、火葬場からの帰りのバスの中で、娘さんにかかってきて、娘さんの口を通して、気持ちを述べられたそうです。「教会に、お参りしたいなあ」「ああ、お父さんについてお参りさせていただこう」「お母さんの介護をしたかったなあ」「ああ、お姉ちゃんについて、一緒に介護しよう」つまり、生きている人についていくことが出来る、ということだと思います。「千の風になって」で「朝は鳥になって、あなたを目覚めさせる」と言うのは、「朝は鳥について行き、あなたを目覚めさせる」ということでしょう。表現は、鳥になって、の方がいいように思いますが、御霊は縦横無尽にいろいろなものについて行くことが出来るのでしょう。だからこそ、御霊と共に信心生活をすることで、御霊も助かることができるのです。
2007.03.04
コメント(2)
今日は、境教会長の告別式が、境港のホールであり、その弔問のため、朝から出ておりました。午後5時ごろ帰ってきて、今日はまだ食べていないので、少し早めの食事をしようと、二口、三口、口をつけると、お参りの人がありました。それから続けてお参りがあり、結局7時までお参りが続きましたので、7時のご祈念後もお取次をして、神前拝詞を10巻あげ終わったのが、8時半でした。又、1日1食の修行をせよ、ということなのかと、考えてしまいます。今のところは、食事が出されてすぐお参りがあったら、食事に未練を残さず、さっと切り上げられる修行だと思っています。まだ、二口、三口、食べられただけ、感謝しなくてはいけません。でも、いつもこのように、食べる暇もないほどお参りがあるわけではありません。そこで、考えました。お参りを増やそうと思えば、食事をすればいい・・・?神様が、修行をさせるために、お参りの人を差し向けられる・・・。そんな訳ないか・・・。ブログを書くのが遅くなった言い訳を書いていたら、本題に入る前に疲れてしまいました。今日のタイトルの「ついて行く」は、御霊様がついて行かれることについて、書こうと思っています。明日、書こうと思います。又、本題に入る前に、いろいろ書いてしまわないように、気をつけねばいけません。明日は、御本部参拝です。しっかりお徳を仕入れてきたいと思います。
2007.03.03
コメント(7)
今、インフルエンザが流行っているようです。あるお医者さんのブログを見ていましたら、インフルエンザの特効薬とされているタミフルについて書いてありました。インフルエンザ発症後48時間以内に服用したら、よく効くと言われるタミフルは、実は発熱期間を1日短くするだけの効果しか期待できないものであり、それにより14歳の男児が自殺したという例があるぐらい、危険なものである、と言うことです。ですから、5日熱が出るところを4日に縮められるだけですので、それほど、服用する価値はないのではないか、いな、危険性を考えると、服用しないほうがいいのではないか、と言うことです。他のお医者さんの考えは違うかもしれませんが、そういう考えがあることに驚きました。私は、マスコミにのって、48時間以内にタミフルを服用すれば、すぐよくなるぐらいに思っていましたから。そういうことを聞かされますと、神様が治してくださる力は、たいしたことだと思います。インフルエンザにかかっても、何日かはかかりますが、治してくださいますから。薬は、そのお働きを少し手伝えるだけで、薬でよくすることは出来ないのです。治してくださるのは、あくまで神様です。神様しかないのです。ですから「祈れ薬れにすれば、おかげは早いが、薬れ祈れにするから、おかげにならぬ」と言われるのです。治してくださる大元の神様に、まずお願いすることが大切なのです。
2007.03.02
コメント(2)
「千の風になって」が大ブレイクしている。なぜだろうか?私は、新しい御霊観が提示されているからだろうと思っている。今まで、多くの人は、死んだら、眠りにつくように考えていたのではないだろうか。弔辞などでも、「ゆっくりお休みください」などと言われることが多い。死んだら全て無くなるように考える人も多いのであろう。この作者不明の西洋の詩に日本語の詩をつけ、作曲もして歌にした新井満氏が、この詩について、次のように書いている。「その詩を一読して、私は驚いた。心底から驚いた。なぜかというと、その詩は“生者”ではなく、“死者”が書いた詩だったからだ。<だが・・・>と、私は自問した。<この詩のように、死者が、実は死んでなんかいないのだ、などと考えたりしても本当に良いのだろうか><きっと良いのだろう>私はそう自答することにした」肉体の死は、その人の死ではない。その人は、生き続けているのである。そう考えると、心が楽になる、と言うだけではなく、それが真実なのだろうと思う。人は死んでも生き続けているのである。だから、思い出してあげることも大切なことなのである。そして、楽しかったことを語りかけてあげるのである。金光教祖様は、「葬儀は質素にせよ。御霊を大切にせよ」と言われた。「御霊を大切にする」とは、御霊様を思い出し、よく拝んであげることである。今月は、霊祭月である。亡くなられた方を思い出し、楽しかった思い出に浸り、お礼を言わせていただきたい。
2007.03.01
コメント(11)
全30件 (30件中 1-30件目)
1