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昨日は、おかげで、集中力が続き、いろいろなことが完成しました。お祈りくださった方々、ありがとうございました。でも、月刊誌の印刷や今日の信者さんの式年霊祭の祭詞を書いていたら、午前2時になってしまいました。4時に起きることにしていますので、2時間睡眠です。でも、ちゃんと神様は起こしてくださいます。家内を使ってですが・・・。4時15分に起きました。ちょっときつい。それから、5時までご祈念をするのですが、元気なときは、神前拝詞をあげるのですが、昨日はさすがに元気がありませんでした。心中祈念をしましたが、寝中祈念になりました。でも、ちゃんと終りの5時には起こしてくださいました。いつもは、その後、参っておられる方のお取次をさせていただくのですが、今朝は、おられません。具合が悪くて、帰られたのかなあ、と思いましたが、しばらくお結界に座っていると、参られました。家内が、気を利かせて、私を寝させてあげようと、信者さんを内に招き入れたようです。でも、その必要はなかったのですが・・・。神様が起こしてくださいますから。寝中祈念をしましたので、元気が出て、今日は無事に、御用ができました。今度は、5月5日の九州の教会でのお話に向かって、集中力を持続させていきたいです。神様、よろしくお頼み申します。
2007.04.30
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明日の早朝参拝までにしなければいけないことが、沢山あります。時間は10時間を切りました。寝る時間も欲しいです。出来るかどうか・・・・。しかし、不思議と平常心でおれます。適度の緊迫感と集中力があります。これから、食事をしますから、その後、崩れるかもしれませんが、今はいい状態です。神様がおかげをくださっているのだと思います。では、食事から、かかります。
2007.04.29
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土曜日がお休みの会社は、今日から大型連休に入ります。5月1,2日を休みを取れば、9連休です。しかし、金光教の教師は、隣接の教会でご大祭があるため、却って忙しいです。私も、先ほど、倉敷の方にある教会のご大祭にお参りしてきました。明日は、岡山の教会のご大祭ですが、お葬式が入りまして、私は金光の方に行かせていただきます。その次は、御本部への早朝お礼参拝です。朝6時半ごろ教会を出発します。帰ってきたら、すぐ信者さんの1年祭です。その次の5月1日は、芸備教会のご大祭にお参りします。その次の2日は、初めて教会に1日おれます。その次の3日から6日まで、ずっと出る御用があります。出ると疲れます。ですので、2日が唯一のゆっくりできる日です。でも、本来は、それが専門の御用です。それが休息になるようでは、いけません。もっと、力を入れて、お祈り、お取次をさせていただかなければいけません。ですから、金光教の教師には、1年365日、お休みはありません。それはそうです。教主金光様が1日のお休みもないのですから。毎日早朝3時50分に本部広前にお出ましくださり、私たちのことを、世界のことをお祈りくださるのです。毎日です。お休みがありません。教祖様も、お天道様がお休みになられませんから、とお休みになられませんでした。相手が神様ですから、なかなか大変です。こちらは、生身の人間です。でも、神様のお働きがあるから、私たちは生かされているのです。そして、お取次のお働きがあるから、生かされているのです。お取次にお休みがあってはいけないのです。教主金光様は大変です。その御用の報恩のためにも、金光教教師は、お休みなしで御用をさせていただくのです。そして、御用が楽しいのです。お休みするより、楽しいのです・・・・・・少し無理があるかな?
2007.04.28
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以前、管理画面が出ず、変な画面が出たので、早く管理画面が出るように焦ったところもあり、おすすめリンクを設定せずに管理画面に戻るところを見逃して、次にを押したら、おすすめリンクが設定されてしまったことがありました。あの時は、嫌な感じがしましたが、おすすめリンクがあっても、気にせずにきましたが、昨日ある先生から、信心のことを書いているブログに、株のおすすめリンクがあるのは、あまり好ましくない、というお電話を頂きました。あのリンクの内容は、いろいろ変わりますので、その先生が見られた時は、株のすすめのリンクであったようです。私も、株のおすすめリンクではなあ、と思いまして、設定のところを変更して、おすすめリンクをはずすことが出来ました。何か、画面がすっきりしました。やはり、ああいう広告はないほうがいいです。金光教では、寄進の札は出さないことになっています。信心がそれによって曲がるからです。お広前は、純粋に神様に向かうところです。誰がいくら寄進したという札があると、自分もいくらしないといけないか、とか、自分はこんなに寄付をした、といった変な心が出てしまいます。それが信心の邪魔になります。神様には、真をお供えするのです。真からお供えするのは、神様の御比礼になりますが、そうでないお供えは、不浄が入ります。話が、少しずれました。このブログも一つのお広前だと考えています。お広前には、信心と関係のないものは、なるべくないほうがいいです。神様と取次者とお参りの人がいればいいのです。そこに、助かる働きが生まれればいいです。それぞれの人の中に、暖かいものが生まれる、やる気が生まれる、感謝が生まれる、やさしくなれる、そうしたブログ(お広前)になれることを願っています。注・お広前とは、神様の御前、という意味です。
2007.04.27
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おとといの夜、ある方の娘さんから電話があり、父親が胸が痛く影があり、血も吐いたよう、とのお届けがありました。早速ご神前でお願いしましたら、お勇みがありました。神様がお働きくださっている、とありがたかったです。翌日、奥さんがお参りになられ、癌を心配しましたが、肺炎だとのことで安心しました、とのこと。そして、その方が土地を借りておられるお年の方が、ここ数日調子が悪い、気管支炎であるよう、肺炎にならなければいいが、とのことでした。私は、肺炎が重なっていることで、おかげだと思いました。その方の奥様がホームに、その日に行かれたら、前日までは顔色も悪く、弱っておられたが、今日は元気になられました、とのこと。前の人の癌は肺炎に祭り替えいただき、後の方の肺炎はお取り払いいただいたのだと思いました。神様は、一生懸命働いてくださっています。しっかりお礼させていただきたいです。
2007.04.26
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最近のお広前は、椅子席が多いですが、岡東教会のお広前も、お結界も正座のお結界に変え、椅子も少なめにしました。神様の前では、人間は頭を低く、出来れば額を畳につけてお祈りするのがいい姿だと思っているからです。そういうことで、お祈りは正座ですべき、ということを、ある先生がブログに書いておられるのを見て、賛同のコメントを書こうと書いていましたら、あにはからんや、椅子でも真剣なご祈念ができると思います、という反対の意見を書いてしまいました。なぜだろうなあ、と考えました。それは、ある信者さんの奥さんが難病にかかられました。手が動かなくなり、足も動かなくなり、しまいには、肺も動かなくなり、死んでしまうという難病です。治療法もありません。その方は、奥さんと一緒に毎晩7時のご祈念に参られました。二人椅子席に並んでご祈念をされました。私も、必ずおかげがいただけるという信念を持って祈らせていただきました。しかし、だんだん衰弱していかれ、ご祈念の途中で、横になられるようになりました。それでも、お参りをされました。参られたら、すぐ横になられだしました。それほどしんどかったのです。呼吸が浅く、血液の中の酸素量が普通の人の半分以下になっておられました。普通の人が急にそうなると失神してしまうぐらいの量だそうです。それでも参られました。命がけです。こちらも命がけのご祈念をさせていただきました。しかし、亡くなられました。しばし、信じられない思いでした。必ずよくなられると信じていましたから。亡くなられてからも、その方は、一人で7時のご祈念に毎日参られています。今も、その時座られていた椅子に座っておられます。奥さんも共に参っておられるつもりで参られているのでしょう。私も、椅子を少なくしましたが、お広前の真ん中の椅子までは残しておきたいと思いました。その方と、奥さんの座られる椅子は、そのまま残しておこうと思っています。それで、ブログのコメントに、椅子でも真剣に祈れると思う、と書かされたのだろうなあ、と思います。
2007.04.25
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朝、ご祈念後に、お茶をいただきながら、信者さんと話すのですが、今日は母の耳が聞こえなくなった話が出ました。母の里は、ここでよく書いている越智常太郎先生の川上教会です。母は、常太郎先生の三女です。上二人が女だったので、三番目は男を期待していたのですが、期待に反して母が生まれたので、がっかりされたそうです。でも、母の責任ではありません。川上教会は、常太郎先生の様子で分かるように、お結界は教会長がするものというお考えでした。ですから、母も、岡東教会へお嫁に来て、お結界に座るなどとは考えもしなかったことだったのです。しかし、岡東教会は芸備教会に習って、私の祖父(博志)が、教学研究所に出ていることから、お結界は祖母が勤め、お広前先生と言われていたのです。父も、研究所に勤めに出ていますので、母もお結界に座らされることが多かったようです。母は、人付き合いが苦手で、お結界は、大の苦手なのです。それが嫌で嫌で仕方なかったそうです。そうこうしていると、高熱が出て、その後、耳が聞こえなくなったのです。母は、下の子を連れて、川上教会へ帰ろうと思ったそうです。そうしましたら、父も一緒に川上教会へ行き、下働きでもして、教会においてもらおうと思ったそうです。そうしたら、今、岡山教会に行っている信一先生が、岡東教会を継いだかもしれません。しかし、母も、耳が聞こえなくなるほどのストレスだったのでしょうか。今も、人付き合いが苦手で、私が出るとなると、機嫌があまりよろしくありません。でも、神様のおかげで、3ヵ月ほどで、また耳が聞こえるようになり、川上教会へも帰らなくてよくなり、また開き直りが出来たようです。これもおかげでした。それからは、お結界奉仕も、開き直って出来たようです。人間、開き直るほど強いものはありません。
2007.04.24
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1年半前ぐらいから、遠くに住んでおられる方のメールでのお取次をさせていただいています。その方は、うつ病で、寝ることが多かった状態でした。そこをメールでお取次を頂かれながら、おかげを受けられ、今では会社に行くおかげを頂いておられます。途中で、会社に行けなくなりましたが、その時にメールを毎日ください、そのメールに神徳が乗って、流れて行きますから、と言いました。それで、また、行けるおかげを頂かれました。そして、最近でも、メールで元気が出た、という知らせを受けました。やはり、メールで神徳が流れていくのだろう、と思えます。私に神徳はありませんが、神様に引っ付いていますので、神様から神徳を流してくださるのだろうと思います。こうしたことが出来るということは、朗報だと思いませんか?もちろん、お参りするのが、一番神徳をいただけますが、お参りできない人や、遠い人などは、それでも神徳がいただけるとするならば、こんなに有難いことはありません。
2007.04.23
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今日は、岡山教会のご大祭です。私も参拝させていただきます。今日は、落合教会でも御大祭が仕えられます。今日は、沢山の教会でご大祭が仕えられます。お日柄ですから。落合教会の先生が、今年の3月ぐらいに、どのようなご大祭を仕えたらいいか、映像をもって、神様からお知らせを受けられたそうです。それに基づいての御大祭が仕えられるそうです。祭員が、神前で半円形に並んで、みんな神前に向いて仕えられるようです。思い切ったことをされます。私も、ご大祭を、もっと感動深いものにしたい、と思っていましたが、どのようにすればいいのかが分かりません。もっと真剣に神様におうかがいしたら、神様に教えていただけるでしょうか。
2007.04.22
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越智常太郎先生が、全国教師会に、特別派遣講師として御出講になったときのことである。終わって、本部で慰労会が催された。その時、慰労の意味で金一封が贈られた。玉水の先生は、最初こんなものを頂いては、と拒まれた。堀尾先生と先生は、さっさと頂かれた。その足で先生は、、それを金光様に御供えされたのである。「それだけのものを持って帰って、何になる。それよりは、わしはおかげが欲しいのだ。お徳を頂いて帰れば、どれだけ多くの信者が助かるかと思うと、そうせずには居られん。欲が深すぎるのだなあ」「しかし、わしはそれを金光様へお供えしたが、堀尾さんは、お賽銭箱の中へ入れたようだ。その時わしは、堀尾さんに負けた、と思ったよ」すごい先生方のされることは違うなあ、と思います。お金を頂くよりも、おかげやお徳をいただきたい。それが越智先生などには、はっきりと感じられるから、そのようにされるのです。お金に執着するのは、お徳の力を、はっきり分かっていないからでしょう。船にも車にも積めぬほどの神徳というものを、はっきりと分からせていただきたいと思います。
2007.04.21
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お供えには、欲がつきものです。その欲を放さなければいけません。越智常太郎先生は、「豊かに恵まれたからといって、それを我が物にし、お供えがあがったからというて、これはわしの御神勤の報酬だなどと思ったら、教師は死んでしまうぞ。教師は世の中に率先して、苦労・不自由を忍んでいかなければならぬ。それが教師だ」と言っておられます。私が教師になって御用をさせていただくようになり、年々お下がりが増えていきましたが、それを自分の御用に対する神様の月給である、というように考えていました。とんでもないことでした。そんなことでは、死んでしまうところでした。でも、欲は出ます。戦い抜かねばなりません。
2007.04.20
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越智常太郎先生は、次のようにも言われる。「倒れて後、止むでは、まだいかん。やるというのは、そこから向こうのところを、やることだ。わしの目を見い。いつも疲れで、鰯の目のようになっておろうが。休んだらすぐなおるのじゃが、休む暇がない」先生は、よく「忙しい忙しい」と口癖のように言われた。ちょっと聞くと、不平か恩着せがましく聞こえるが、真実は、むしろそれが嬉しく得意だった、というほうが当たっておるであろう。いつも忙しくてたまらんところや、疲れきったところにおらんと落ち着けん人であった。本気の性分だ。そこまでの本気さは、なかなかであるなあ、と思わせられます。
2007.04.19
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川上教会の越智常太郎先生は、本気に徹せられた先生であった。そのことを、弟子の永井肝四郎先生が書かれている。本気の「き」は、働きの「き」と一枚である。そして、この「き」は、天地の気と一つだ。何一つ天地の真似の出来ぬ人間が、ここだけは神様と一つである。先生ほど、働けと言われた方もないが、御自身一代を働き抜かれた方もない。そのもととなったのが、この本気である。先生の教義の根幹を貫くものが、この本気であった。また、本気は、うぶな心、純一無雑、無垢清浄、疑いなく迷いなく、我心我欲なき三つ子の心とも言われた。この心が真に神を動かすものである、と説かれた。あるとき、皆を前に、「お前たちは教会の財産は何と思うか」とお尋ね。問題が大きくて見当がつかん。ためらっていると、大声一番、「神と本気の信心なり」と言われた。御大祭以来、神様が育てる、と言ってくださいましたが、それは、もっと本気を出せ、ということでもありましょう。
2007.04.18
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4月15日に天地金乃神大祭を仕えさせていただき、祭主をさせていただき、祭主ならではの味わいを体験させていただきました。祭典中、祭主は、神様からも、参拝者からも注目されており、神様へ氏子側の願いを申し上げましたら、それに対する神様の思し召しも感じさせていただけるのです。神代実現の願いをさせていただきましたら、神様から、こちらの修行を促されました。修行と言っても、火や水の行ではなく、いろいろな事柄の差し向けを、神様におすがりしながら取り組む修行です。早速にいろいろな修行が差し向けられています。しかし、そのことにひたすら取り組むことが、祭詞で述べたことが実現していくことですので、ありがたく取り組みたいと思っています。祭典は、神様との誓約の儀式でもある、と感じさせていただきました。緊迫感がありますが、ありがたくもあります。おかげを頂かせていただきたい、と心が高揚するものもあります。このたびのご大祭では、信心の修行をさせる、そして育てていく、というメッセージをいただきました。
2007.04.17
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今日は、御本部や親教会その他へのお礼参拝をさせていただきます。御大祭も、多くの方のお祈りがあり、仕えさせていただけたのです。何事も、見えないお働きが大きいと思います。出来るだけ、御礼の心が行き届くよう、お願いさせていただきます。教祖様も、「目に見えるおかげより、目に見えないおかげが多いぞ。知ったおかげより、知らぬおかげが多いぞ」と教えてくださっています。本当に、お礼が足りない自分でありましょう。ですから、お礼の足りないお詫びばかりさせていただかなければならないのでしょう。本当に、生かされ、恵まれ、愛されている私たちなのですね。
2007.04.16
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今日は、私たちの一切のおかげの源である天地金乃神様にお礼をさせていただくご大祭を仕えさせていただきました。教会長が体調不良のため、祭主をさせていただきました。信奉者の代表として、神様に祭詞をあげさせていただきました。その中で、今は競争社会のため、環境破壊もすすみ、ストレスも増大し、難儀な状況に陥っている人が多くなっていることを述べました。そうした厳しい状況の中で、お取次をいただきつつ、神様に生かされて生きるあり方が実現されるよう、願わせていただきました。私たちは、競争して勝たなくても、神徳に生かされていくことが出来ることを知れば、もっと穏やかに、安心して生きられると思います。神様にお願いしつつ、安心して暮らせる世の中が神代だと思います。その実現を祈らせていただきました。
2007.04.15
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恋ついでに恋文について、書いてみましょう。恋文=ラブレター、今では、死語になりつつあるかもしれません。しかし、切なる思いを手紙に書く、何とも心を締め付けられるような、また、やるせないような、複雑な心境です。でも、手紙を書くことで、思いが確かめられもする。以前、私が教区で「めぐみ編集委員」になっていたとき、本を作っていました。その時は、「金光大神様への手紙」という本をつくりました。編集委員が、金光大神様への思いを手紙に託して書きました。おかげを受けたこと、また、今ぶつかっている問題について、金光大神様に語りかけました。中には、恋文のようなものもあった・・・・かな?でも、本当は、恋文になるべきものでしょう。教祖様も、神様から、ご無礼をして難儀をしたこと、神信心しておかげを受けたことなどを書き出せ、と言われ、「覚」を書かれました。これなどは、壮大な恋文でもあるでしょう。晩年に、教祖様は、高橋富枝先生に、分厚い書き物を見せながら、「私は、おかげを受けたことを、このように書いております。神様が今朝ほどから、ようもようも、こういうことが出来ましたなあ、と何度も言ってくださいます。と語られながら、はらはらと涙をこぼされた、ということです。私も、神様に、ようもようもこういうことが出来ましたなあ、と語りかけられる信心をさせていただきたいです。明日は、ご大祭です。祭詞をあげさせていただきます。神様への恋文・・・とは、だいぶ違いますが、心を込めてあげさせていただきます。
2007.04.14
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今日は、ちょっとロマンチックに行こうと思います。あさっては、岡東教会の天地金乃神大祭です。今、信者さんが、その準備の御用をしてくださっています。私は、その隙間を狙って、こうしてブログを書いています。ぜんぜんロマンチックでない?まあ、もう少し辛抱してください。天地金乃神様は、私たち一人ひとりを、とても大切に思ってくださっています。まるで恋人のように思ってくださっています。そのことが分かれば、私たちも天地金乃神様に恋をするはずです。先ほど、神様が、相田みつをさんの詩の本を見せてくださいました。その最初の詩です。ひとりでもいいあなたにめぐり逢えてほんとうによかった生きていてよかった生かされてきてよかったあなたにめぐり逢えたからつまづいてもいいころんでもいいこれから先どんなことがあってもいいあなたにめぐり逢えたからひとりでもいいこころからそういってくれる人があればどうですか?ロマンチックでしょう。私は、天地金乃神様にめぐり逢えて本当によかったと思っています。あさっては、その親神様のお祭りです。信者さんがにぎやかに御用をしてくださっているのを見ると、こちらもウキウキしてきます。この神様は、恋神様である、と言われた方がいました。恋神様に喜んでもらいたい、そのために真心を込めて、準備をさせていただこうと思います。
2007.04.13
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昨日は、閑谷へ、お社のおはやしに行ってきました。閑谷には、岡山教会の信者さんから青少年活動や、農園活動のためにお借りしている土地があります。今は、あまり行けませんが、静かでいい所です。少し前に、ある方から電話があり、その方のお姉さんがなくなり、金光様のお社をどう処分していいか分からないので、お願いできないか、ということでした。それで、持ってきていただけば、おはやしします、ということで持ってきていただきました。本当は、そのご家族の方が信心してくだされば、一番いいのですが、残念ながら、その気はないようです。せっかく、このお道のご縁を頂かれたのに、それを手離すのは、もったいないなあ、と思いますが、仕方ありません。そのお社を、閑谷へ持って行かせていただき、燃やしておはやしさせていただきました。昨日は、穏やかないいお天気でした。車で行きましたが、あちこちに桜が咲いていて、きれいでした。今年の桜は長くもっています。まだ、満開です。山全体が桜で満開のところもあります。最近、特に桜が多くなったような気がします。桜を愛する人が多いのでしょう。美しい国に変わっていく実感がして、嬉しかったです。これから、神代に変わっていかなければいけません。
2007.04.12
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金光教の生命は、お結界です。ですから、お結界に座る教師が、金光教の財産です。その教師の奉仕いかんによって、お道の盛衰は決まってきます。ですから、教師は、お結界奉仕を信心の生命として、一代修行と心得ていくのです。ただ、人を助けたら発展するとか、地位が上がるとか、いう事を心に持ってはいけません。助けるということで打ち切っていくのです。右手に神様をつかみ、左手に氏子を握って、右手を離して氏子に向かうと、左手の氏子も逃げます。左手を離しても、右手を離しさえせねば、氏子はついてきます。教師は、神様に向いていなければなりません。信者に向いてしまうといけません。今日は、自戒を込めて、教師向けに書きました。
2007.04.11
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春のご大祭は、天地金乃神大祭ということで、天地金乃神様へのお礼のご大祭です。御本部でのご大祭は、今日が最終日になります。私は、今日も教務センターに出させていただきます。そして、岡東教会の御大祭は、4月15日に仕えさせていただきます。教会長(父)が、少し貧血で、しんどいので、今回のご大祭は、祭主をさせていただきます。少し緊張します。そして、祭詞も書かせていただきます。今は、ご大祭の時に出させて頂く機関紙「これから」を作らせて頂いています。それがすんでから、祭詞つくりにかかります。圧倒的に時間がありません。おかげを頂かなければなりません。今朝の教話は、信心には、一心と真心と辛抱の三つが大切であり、その中の真心を先に立てて信心するとみやすく信心ができる、というお話をしました。神様へのお礼の真心を持って、取り組ませていただきたいと思います。
2007.04.10
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昨日は、教会の大掃除をさせていただきました。「ありがとうございます」となるべく心の中で唱えながら、掃除をさせていただきました。掃除は、お世話になっているものへのお礼でもあります。又、神様へのお礼でもあります。全てのものは、私たちへの神様のお恵みでもあるからです。ですから、掃除をしないことには、お礼が十分でないことにもなります。お礼が十分でないということは、信心も十分でないということです。もちろん十分な信心というものはありませんが、せめて少しでもお礼の心を表そうと思って、掃除をさせていただくことは大切なことです。以前に、トイレ掃除を素手でさせていただくことに、熱心に取り組んだことがありました。学院の非常勤講師に行っていましたので、行ったときには学院のトイレも素手で掃除をさせていただきました。でも、今は、少しモチベーションが落ちてきて、教務センターのトイレをあまり掃除させてもらっていません。また、モチベーションをあげて行きたいと思います。
2007.04.09
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今日は、教会の大掃除をさせていただきます。掃除は、お世話になっている物へのお礼でもあります。ですから、掃除をさせていただけば頂くほど、お礼が行き届くということでもあり、おかげもいただけます。小林正観という人が、「トイレ掃除をすると、お金に恵まれてくる」と言っています。汚いところ、人が嫌がるところを掃除すると、おかげも大きいのでしょう。今日は、信者さんが沢山来られて、掃除をしてくださいます。私も、一緒にさせていただきます。お礼の心を込めて、掃除をさせていただきたいと思います。
2007.04.08
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今度、5月5日のある教会のご大祭の教話の御用を受けさせていただいている。九州まで行かせて頂く。そんなに遠くまで行って話させていただくので、少しでもためになるお話をさせていただきたいのであるが、そう思えば思うほど、そんなお話はできないので、その御用が苦痛になってしまう。ご依頼を受けたのは、ずいぶん前であるが、忙しいこともあり、手がつかずにここまで来てしまった。でも、ずっと忙しいのであるから、少しの時間でも、教話作りをしていかないと、いつまでたっても出来はしない。早速、昨日から、書き始めた。自分が金光教に出遭ってから(教会に生まれたのであるから、最初から出遭っているのであるが、信心の内容に出遭ってから)今日まで、お育て頂いたことを述べてみようと思っている。そうすると、書いているうちに、神様のお働きが有難くて、書くのが楽しくなってきた。こうでなくっちゃ。御用は楽しくさせていただかなければならないものです。苦痛であったり、いやいやであってはいけません。嬉しく、楽しく、ありがたく・・・あっ、西川先生のキャッチコピーになってしまいました。
2007.04.07
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4日の御本部大祭のお話は、川上教会の越智正晴先生でした。私がこのブログでよく書く越智常太郎先生のお孫さんになります。私とも従兄弟の関係になります。ある時に、頭にただならぬ感じがあり、気分が悪くなったそうです。その場にうつぶせて、しばらく辛抱しておられました。これは、大変なことになったのではないか、と思われたようです。しかし、しばらくすると、気分もよくなり、元に戻られたそうです。しかし、気になりますので、数日後に病院に行って、その時の様子を説明しますと、お医者さんが、少し慌てられた感じで、すぐ髄液を抜いて、検査をされたそうです。そして、ニコニコしながら言われるのに、「くも膜下出血かと思って、検査しましたが、そうではなく、よかったです」ということでした。しかし、よく検査をしてみましたら、目の後ろ辺りに、かなり大きな動脈瘤がある、ということでした。これが破裂したら、本当に、くも膜下出血になってしまいます。緊急に手術が必要です、ということでした。では、気分が悪くなったのは、動脈瘤と関係があるのですか、と尋ねましたら、関係ない、ということでした。それでは、なぜ、あのような症状が出たのでしょうか、と尋ねましたら、「あなたに予知能力があったということでしょうか」と答えられたそうです。動脈瘤が破裂したら、あのような症状になるわけですから、破裂しない前にその感じを受けられたことは、予知能力だ、ということだったそうです。これは、神様が、お知らせくださったのです。信心は、倒れぬ前の杖、と言われますが、このようにお繰り合わせをくださるのです。昨日書いたようなお繰り合わせといい、今日書いたお話といい、神様が縦横無尽に働いてくださっていることを気づけよ、と教えてくださっているように思います。今日も、御本部にお参りして、お礼の真を捧げさせていただきます。
2007.04.06
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昨日は、御本部大祭にお参りしました。御本部に着く、少し前から、雨が降ってきました。着く前に、雨があがる、というのなら分かりますが、雨が降り出すというのは、どういうことでしょうか。不徳のいたすところでもありますが、神様のただならぬお計らいも感じていました。小雨ではありましたが、雨が降っていましたので、小走りで会堂を目指して走りました。しかし、途中で、教務センターに行けば、置き傘があるのに気がつき、教務センターに行くことにしました。教務センターに着くや否や、印鑑を押してもらわないといけない書類が沢山たまっている、ということで、そこで10分ぐらい、その仕事をしました。いつもは、参拝のときは、信者さん方と行動するので、教務センターには寄らないのです。今回は、雨が降ったため寄りましたら、仕事が待っていました。それがすんで、教務センターを出たら、雨がやんでいました。まさしく、センターに寄らすための雨でした。それから、お広前に行き、拝ませていただき、お届け所に行こうとしましたら、その日、一緒に行く予定だったのが、時間に間に合わなくて、別行動にされた信者さん親子と出会いました。この親子を、帰りに車に乗せてあげるお繰り合わせを頂きました。そして、一般お届け所に行きました。大祭のときは、お結界は、教会長のみの、しかも時間指定です。私は、いつでもお届けが出来るので、ご大祭のときは、一般お届けでお届けさせていただきます。お届け所には、4人ぐらいの先生が並んでおられます。私は、佐藤元信先生(金光学園校長)のところに行かせて頂きました。そうしましたら、元信先生が、「少し前に、クリエイトに入っておられた方で、悩みをお届けされたので、高橋寛志先生にお届けされたらよろしかろう、と言いました」と言われました。元信先生も、私がその方のすぐ後に、お届け所に来たことが、不思議に思われている様子でした。それから、後ろの方へ行きましたら、そこでそみさんにお会いしました。このブログで、お互い4日が参拝なので、会えたらいいね、と願っていましたら、会えました。本当に次から次へとお繰り合わせを頂きました。そして、祭典前のお話も、お繰り合わせのお話でした。それは、次回、書かせていただきます。
2007.04.05
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近藤藤守先生が、金光教祖様について、次のように語っておられる。「教祖の神のご修行が、安政六年から明治十六年の御帰幽まで、前後二十七年の長きにわたっていたことは、今ここで述べるまでもないことである。その間のご修行の場は、六畳一間であった。お住まいそのものも、実に目も当てられない、むさくるしいあばら家であったが、その六畳の間には、三枚の破れ畳とあらむしろ三枚が敷かれているだけであった。 こじきが雨露を凌ぐ仮の宿とたいした違いのない、このようなお粗末なお宅で、長い年月を過ごされながら、教祖の神は、天地の親神様の御徳をその身に現されたのである」あのお広前を、修行場としてみておられる。確かに、六畳の間から、門外不出を二十七年間、貫かれたのであるから、大変な修行であられた。しかも、ずっと座りっぱなしである。そして、夜中も座っておられたときもあられた。みすぼらしいあばら家の中で・・・。藤守先生は続けて語られる。「どんな場合にも、自分の得になるかどうか、そろばんをはじいて、損得しだいで近寄ったり離れたりする近頃の現金主義者やがりがり亡者に、ともすればなりがちな我々である。破れ畳とあらむしろの中で、ひたすら世のため人のためにご修行された教祖の神を仰ぎながら、せめて今日一日だけでも、物に不足を思わず喜ぶという願いを持ちたいものである。色あせやすい楽しみや、離れやすい幸せを、いくら味わったからといっても、一向に役に立たねば、それまでである。もっとどっしりした深い味わいを心に刻みつけてこそ、この世で生きる甲斐もあるのではなかろうか」私が、お結界に座りきりたい、と願うのも、こうした教祖の神の姿に近づきたいと思うからです。心のまねはなかなか出来ませんが、せめて形の真似でもしてみたい。門外不出で、座り続けたい、と願わせられるのです。
2007.04.04
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今日は、久々に教務センターに出務させていただきに御本部へ参らせていただきます。御本部広前で、ご祈念をさせていただけるのを楽しみにしています。でも、一面、教会で御用をしたい気持ちの方が強くあります。教会にお参りされる方のお取次をさせていただきたいのです。でも、しばらくは、3分の1ぐらいは御本部へ出ることになります。教務総長は、教会へは余り帰られない、とお聞きしました。何故なら、金光様が御霊地におられるからだそうです。金光様のお側に常に居られるようにしたい、と願われているそうです。金光様を頂かれることに徹しておられます。さすがです。私は、参ってくる氏子を放ってはおけない気持ちでいっぱいになります。後ろ髪を引かれる思いで、教務センターへ行きます。でも、本部広前で、お祈りでき、金光様のお徳をいただくことで、氏子が助かるのだ、という思いもあります。
2007.04.03
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昨日は、勧学祭とちびっ子春祭りがありました。勧学祭には、20人の参拝申し込みがありましたが、2人欠席でした。人数構成は、幼稚園・小学生が7人、中・高校・大学生が、13人と、高齢化しています。10年以上前は、小学生が半数以上を占めていました。やはり、少子化の影響でしょうか?勧学祭の後に、駐車場で、ちびっ子祭りということで、餅つきをしたり、焼そばやカレーやミニドッグを販売したり、輪投げをしたりしました。お餅は、自然のヨモギを入れたヨモギ餡餅です。お餅も杵でつきます。今回は、お手伝いの大人の人が少なく、準備に不安があったので、ご祈念していましたら、おかげで何とかできました。しかし、いつも焼そばを作ってくれている人が、仕事で急きょ来られなくなりました。代わりの人が作ってくださいましたが、味が辛かったという感想がありました。いつも作ってくれている青年は、焼そば作りの2代目で、前の人から作り方を伝授されていますが、今回の人は、そうではないので、無理もありません。私も、会場準備などがうまく出来ますようにとご祈念させていただいていましたが、味のことまでご祈念しておりませんでした。申し訳ありませんでした。取次者の不徳のいたすところです。行き届いた信心をせよ、と教えられていますが、なかなか行き届いたご祈念が出来ません。でも、祭詞も書けましたし、少人数ながら、会場準備も出来ましたし、ご婦人方が、買い物から、カレーやミニドッグ作りなどをしてくださいましたので、無事に出来ましたことを、感謝させていただきたいと思います。今日も少年少女会のバンド練習があります。忙しさで、祈りが疎かにならないように、お願いしていきたいと思います。
2007.04.02
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昨日は、クリエイトの例会がありました。その例会で、お話をするのですが、いつも、何をお話させていただこうか、と神様にお伺いしながら、思わせていただいたことを話させていただきます。ですから、お話の内容は、少し前に決まります。昨日も、直前まで、迷ったのですが、「とかく信心は地を肥やせ、と言われます」と話し出すと、「地が肥えるとは、和賀心になることです」と和賀心についてのお話になりました。そして、例会で、今度、教会参拝研修をさせていただく教会を決めることになっていました。その第1候補の教会にお願いの電話をさせていただきましたら、断られました。そこで、みんなに次の候補の教会を決めてもらい、電話をしましたら、今度は気持ちよく受けていただけました。その教会は、和賀心を強調しておられる教会です。それで、私が和賀心の話をさせていただいた理由が分かりました。神様の方では、最初にお願いした教会ではなく、次にお願いした教会の方がいい、と判断されていたのです。ですから、断られるのも、神様のお計らいの中なのです。断られるのもおかげです。ですから、こちらの思い通りになるのが、おかげではないのです。こちらの思い通りにならないということは、神様の思い通りにされているということでもあります。それはそれで、有難いのです。ですから、お願いし、起こることはすべていいことなのです。参拝させていただく教会では、一切神愛とも言われています。まさに、そうだと思います。
2007.04.01
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