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自分がどのような人生を歩むのか。それは大体決まっているようなのです。金光教祖は、「人は生まれてきたときに、いつどのようなことがあるかは決まっているのである。だから、生まれた時に、お悔やみに行ってもいいぐらいのものである。しかし、信心をすれば、大難は小難にしてくださる」と言われています。ですから、運命は大体決まっているが、変更も可能である、というのが真実だと思います。そして、運命を好転させるには、喜ぶことが大切なことなのです。難があっても、喜んでいくと、難が消えていくのです。難があっても、おかげを頂いているところもたくさんあります。そのことをお礼し、喜べば、おかげが大きくなっていきます。愚痴不足を言うと、おかげが遠のきます。これは天地の法則です。神様もどうすることもできません。ですから、「おかげは我が心から出ると思って信心しなさい」と言われるのです。どんな中でも喜ばせていただきましょう。
2009.05.31
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昨日は、信者さんの50日祭、納骨をさせていただきました。この方の親族には、金光教の教師もおられます。その方は、2年前に奥さんを亡くされました。その奥さんと、よく会話をされるそうです。料理はすべて、奥さんに教えられながらつくるそうです。「はい、お醤油をお玉半分」「はい、それぐらい」と言って、いちいち指導してくれるそうです。それでは、死んだ気がしないですね、と言わせていただきました。人が死ぬとは、肉体がなくなるだけで、生きていることには変わりありません。だからこそ、この先生のように、御霊様の声を聞くことができるのです。また、神様もおられます。おられるからこそ、教祖様のように、神様の声を聞かれる方がおられるのです。神様の声を聞くと言うと、幻聴であるとか、オカルトであるとか言われますが、そういうものも確かにあるのですが、普遍的に人が助かる働きがある教えを残された人は、本当の神様の声を聞かれたのです。それが、神様がおられる証拠でもあります。ないものの声は聞けません。あるからこそ聞こえるのです。精神異常でなく、人格的にしっかりした人が、神様の声を聞き、それが実際のおかげに結び付くものであれば、神様がおられる、と考えるのが、自然であり、科学的であると思います。神様がおられることを、科学的に証明することはできませんが、おられないことも科学的に証明することもできていません。神様のことは、人間の能力では、分かるものではないのです。ですから、「人間が分かるぐらいの神様であれば、潮の満ち引きもないであろうし、一輪の花も咲かせることはできないであろう」と言われるゆえんです。「疑えば、限りなし」「疑いを離れて、広き真の大道を開き見よ」信じるものが、神様を分からされるのです。
2009.05.31
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毎月、月末の日曜か土曜日にご本部へお礼参拝させていただいています。朝、ご祈念後の6時半ごろ出発します。朝はすいているので、7時20分ごろご本部に着きます。教主金光様が7時35分にお結界をひかれるので、ご祈念する前にお届けをさせていただきます。以前は、私が代表してお届けをしていましたが、ある時、お広前係の先生が、お結界がすいているときは、皆さんお届けをされたらいいですよ、と言ってくださったので、それからは、一人ひとり、金光様にお届けをさせていただいています。とても有り難いです。その後、ご神前で、心中祈念をします。それから、休憩所で朝食を頂き、奥城参拝をして帰ります。もう27年ぐらい続けています。ご本部のお徳をしっかり頂いて帰らせていただきました。
2009.05.31
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以前、家内に「ホ・オポノポノ」と「生まれ変わりの村1」を買ってきてくれるように頼んだとき、「ホ・オポノポノ」はありましたが、「生まれ変わりの村」はなかったので、アマゾンのインターネットで注文しようとしましたら、古本が安く出ていました。中には、1円で出ている本もあります。「生まれ変わりの村1」は、300円台で出ていました。送料340円を入れても、600円台で買えます。「生まれ変わりの村」の著者・森田健は、船井幸雄氏の話の中にも出てくるので、森田健の「運命を変える 未来からの情報」という本が16円で出ていたので、つい買ってしまいました。送料を入れても、356円です。定価は1500円です。きれいな状態と出ていましたが、実際来て見ると、新品同様です。少し前に出た本であれば、古本で買うに限るなあ、と思いました。そして、読んでみると、結構面白い。未来は大体決まっているが、変更も可能、という説です。これは、金光教祖の考えと同じです。教祖の神も、「いつどういうことが起きるかは決まっているのである。信心をすれば、大難を小難に祭り替えていただける」と言っておられます。ですから、この説は正しいと思うのです。私たちは、どのような人生を歩むかは、大体決まっているのです。ただ、信心すれば、運命を好転できるのです。それほどの神様を信心させて頂いているのです。
2009.05.30
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今年は金光教の立教150年のお年柄で、信行期間を設けることになっています。8月8日から11月15日の立教記念祭までの100日間です。鳥取の教会長研修会の時も、この信行期間のことが話題になりました。私も、発題の時、これから取り組みたいことを言ったのですが、それをそのまま信行期間の取り組みにしたいと思います。それは、1日500人の祈りと、このブログの読者を1日200人にすることです。今、100人から130人ぐらいです。毎朝書くと、120人ぐらい見てくださるのですが、書かなければ、60人ぐらいになります。今まで最高が170人ですので、常時200人ぐらいのおかげを頂きたいです。それだけ見てくださると言うことは、それだけの内容がなければいけません。それだけの内容あるものを発信できるようになりたいです。そうすると、ブログにかかる時間が長くなりますが、それぐらい力を入れてもいいのでないかと思うのです。このブログを通して、助かりの道を伝えていければ、と願っています。
2009.05.30
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修行には、する修行とさせられる修行があります。十津川教会の先生は、師匠に「させられる修行は、きついで」と言われ、自分からする修行の方が楽だと教えられました。させられる修行とは、病気の修行とか、人間関係の問題とか、財の修行と言った修行です。それで、薪の上に座ってご祈念をする修行などをされました。この前、金光新聞を読んでいましたら、する修行とさせられる修行と、もう一つ、せずにおれない修行がある。そして、そのせずにおれない修行が大切である、と教務総長が述べておられました。せずにおれない修行は、する修行の中に入ると思いますが、私がしている修行は、このせずにおれない修行でもありました。毎日、神前拝詞10巻をあげる修行。金光様のお出ましを頂く修行。1日1食の修行。すべて、せめてさせていただきたい、という、せずにおれない気持ちでさせていただいた修行です。それがどうした、と言われたら、返す言葉もないのですが、修行とは、そのようなもののような気もします。
2009.05.29
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鳥取での教会長教師研修会での発題を書きたいと思います。立教150年を迎えて、結界取次の充実が願われていますが、結界取次の充実とは何なんでしょう。それは、教祖様の願われていた、そして、神様も願われていた「人が助かりさえすれば、それでいい」ということが実現することだと思います。そして、結界取次で助かるのは、参って来る人もそうですが、取次者が助からないといけないのだと思うのです。教師になる人は、めぐりが深い、と言われます。神様が、教師にさせて、人を助けさせ、その徳で助けようとされるからです。ですから、私もめぐりが深いのだろうと思うのです。そこで、お結界に座らせてくださり、座行によってめぐりを取っていただきたい、と願っています。ですから、自分にとって、お結界は、行場でもあります。1日座る行をさせていただくのです。そこを離れることは、行を中断することでもあります。そういう意識も持っていいのではないかと思います。そして、座ることで、信者さんも助かっていただけます。ですから、座ることで、信者さんも取次者も共に助かるという、素晴らしいシステムなのです。そういった行という観点からも、お結界をイス席から、正座に変えました。そして、正座に変えたもう一つの理由は、神様の前では、ひれ伏すことが大切だと思うからです。例えば、自分の子どもが川で溺れそうになった時、助けて下さった人がいたら、その人の前で、正座して、両手をついてお礼するでしょう。毎日命のおかげを下さっている神様の前でも、同じようにするのが本当だろうと思うのです。神様に対しては、そうした謙遜の姿勢が大切だと思い、正座に変えたのです。
2009.05.29
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東中国教区の教会長教師研修会を岡山と鳥取の2会場にするようにしたのは、私がセンター所長になってからです。鳥取と岡山県北部は、過疎地という教会の置かれている状況が似ているので、共通の話題が持ちやすいと考えたからです。そして、岡山会場は、1日ですが、鳥取会場は、1泊2日です。岡山県北部から出て行くのに、時間がかかるからです。しかし、1泊すると、じっくり話し合いができ、親睦もはかれます。私も所長時代は、この研修会を楽しみにしていました。所長を辞めて、もう来ることはないだろうな、と思っていましたが、発題者になって、また行かせていただけました。また、行きたいという潜在意識の願いをかなえていただいたのかと思いました。しかし、向こうについて、昼食の海鮮どんぶりを頂いているとき、イクラが汁をかけてきました。まるで生きているようでした。それで、背広が汚れてしまいましたが、これはどういうことだろうか、と思いました。まだ、分かりませんが。そんな遊び感覚で来るのではなく、使命があるから、その自覚をせよ、という注意だったかもしれません。実際、研修会では、それなりの意見を言わせていただかないといけない場面に出合いました。研修会を成功させるかどうか、と言ったら、おこがましいのですが、私なりの役前を果さなければ、いけない会であったと思いました。だからこそ、神様がよこして下さったのに、私にその自覚がなかったので、イクラの汁をかけられて、気持ちを引き締めよ、全力で当たれ、と言われたのだと思います。そのつもりで、意見も言わせていただきましたが、それがお役に立ったのやら、お邪魔になったのやら分かりません。
2009.05.28
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昨日は、岡山教会まで家内に車で乗せてもらい、そこからは、岡山教会の車で、鳥取に連れて行ってもらいました。岡山教会に着いた時に、磐梨教会長が亡くなられたことを知らされました。前日に連絡網がまわった、ということでした。しかし、うちには、まわってきていません。家内に、連絡網が、前の教会まで来ているかどうか確認して、もし来ていないようであれば、もう一度最初から流してもらうように、と言って、出発しました。結局、岡山教会からまわった連絡網が、最初のほうで、途絶えていることが分かりました。もし、このとき気がつかなければ、岡山教会から連絡されるブロックの教会のほとんどに、連絡が行かなかったことになります。この日に、私が、鳥取に行くため、岡山教会に来るようになっていたのも、お繰り合わせでした。
2009.05.27
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今、鳥取から帰ってきました。私も発題しましたが、「人が助かりさえすれば、それでいい」という教祖様の願いは、取次者と参拝者のあいよかけよの関係から、両者が助かるように、神様が導いて下さるのだ、という趣旨で発表しました。詳しくは、又後ほど。これから、お結界奉仕に戻らせていただきます。
2009.05.27
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今日から明日まで、鳥取へ教会長教師研修会に行ってきます。そこで3人の先生の発題があるのですが、私もさせていただきます。立教150年を迎えて、どういうところに力を入れて取り組んでいるかを発表します。自分が今まで、取り組んできたことを言いたいと思います。「人が助かりさえすれば、それでよい」と言われた、教祖様の願いが表れることを願っています。それでは、行ってきます。
2009.05.26
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昨日は、天瀬教会のご大祭でした。そこで、ある先生とお会いしたのですが、その先生も私のブログを読んでくれていました。時々、ブログを読んでいますよ、と言ってくださる方がいます。そのたびに、誰が読んでくださっているか分からないなあ、と思わされます。誰でも読めるものを書いているので、思わぬ人が読んでくださっていることは当たり前なのですが、書いているときは、そういう意識があまりないのです。あまり知っている人は読んでいないのではないか、という意識なのです。しかし、考えてみれば、知っている人のほうが、関心を持って読んでくれるはずですよね。ですから、金光教にかかわりのある人が多いのかもしれません。何割の人が金光教にかかわりのある人で、又、何割の人が、私を知っている人かを知りたい思いがします。しかし、そのような手立てはありませんよね。
2009.05.25
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今日は、月例祭があります。そのお話で、やはり潜在意識のお話をしたいと思っています。昨日のブログで、十分証明していないことを話すのはよくない、と書いたばかりですが、やはり、今、一番考えていることを話さなければ、他のことを話しても、どうも力が入らない気がするのです。しかも、このことは、話し方によって、すごい気づきになると思うのです。どうぞ、このお話で、多くの人が助かられることになりますように。少し前から、お広前にいっぱいの参拝者が詰め掛けているビジョンが浮かんでいます。そのビジョンが現実に現れてくることを楽しみにしています。おかげは、すでに我が心にあります。
2009.05.24
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クリエイトでは、毎回の例会内容を報告書にして、会員全員に送ります。私が話した内容も、送ります。昨日、テープ起こしをした原稿がきましたので、読んでみましたら、やはり、文章が繋がらない・・・。消化不良の話でした。そこで、手を入れるのが大変です。半分以上書き直しました。ホ・オポノポノのやり方と、金光教でのやり方を、すり合わせようとしたとこに無理があったようです。書き直したものも、うまくかけているかどうか分からないのですが、話したときよりは、まとまっていると思います。教祖様は、神様からのお知らせを自分で確かめて、間違いのないことを確認して話してくださっています。やはり、そこまでの用心深さがいります。私は、ちょっとよさそうなことがあると、吟味をせずに言うところがあります。気をつけなければいけないところです。
2009.05.23
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ホ・オポノポノで言われていることを参考にしながら書いていきます。私たちの潜在意識には、過去の人類のすべての記憶があります。ですから、自分の考えの中には、そうした記憶の影響があるのです。例えば、男尊女卑の考え方が、根強く残っています。ですから、女は男の後をついてくればいい、という考えから、抜け出られないところがあります。顕在意識のところで思ったことの100万倍の記憶が潜在意識のところで立ち上がるそうです。人は、みな神の英知を与えられているのですが、その潜在意識の記憶が邪魔をして、神の英知の光が届かないのです。その邪魔をしている記憶を消し去れば、神の英知が届いてくるのです。だから、金光教祖は、「女は神に近い」と言われました。過去の記憶に邪魔をされないところにおられました。そして、実際、女性が社会を動かしているところがあります。それが、現れつつあります。私たちは、神の分け御霊を頂いています。その分け御霊が輝きさえすれば、本来の素晴らしい働きができるはずなのです。そういうことが分かりだした時代であると思います。
2009.05.22
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ホ・オポノポノで過去の記憶を消すといっても、潜在意識の記憶ですから、顕在意識には分かりません。このやり方は、例えばある人からひどい目にあっている場合などに有効なのではないかと思います。ある人からいじめられている場合に、その人から何かされると、自分の中の潜在意識に、その100万倍の嫌な記憶が立ち上がるのです。その思いが、又その人のいじめを助長するのです。ですから、その記憶を消していかなければなりません。その消す言葉が、「ありがとう」「ごめんなさい」「許して下さい」「愛しています」という言葉なのです。その言葉を言っていますと、潜在意識の記憶が消えていくそうです。そうすると、現象面に影響が出てきて、例えば、いじめていた人がいじめなくなる、ということになるということです。私は、試してみる価値のあることだと思っています。
2009.05.21
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昨日、クリエイト21の例会がありました。平日でしたが、15人の参加があり、盛会でした。はじめて参加して下さった方もありました。ご本部のお広前で御用をしてくださっている先生です。ありがたいことです。昨日の私の話は、潜在意識のところを、ホ・オポノポノのやり方を絡めて、話させていただきました。ホ・オポノポノのやり方を、まだ消化していないのに、話すのは、ちょっと早いかと思ったのですが、どうしても話したくて、話してしまいました。聞いておられる方は、分かりにくかったかと思います。申し訳ありませんでした。報告書になるときは、加筆して、分かりやすくしたいとは思っています。こうして、少しでも心の構造を分かり、おかげを頂いてほしいと願っています。
2009.05.20
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ホ・オポノポノでは、例えば会社の社長さんが、自分の会社を管理して自分でやろうという思いを放すようにするそうです。そうすると、会社自体が会社の使命を知っていて、うまく機能するようになるそうです。それを読んで、湯川安太郎先生が、神様がご主人で、自分は奉公人である、というあり方と似ているなあ、と思いました。自分には、力がないので、自分がするという思いをなくすのです。そこを、より高い意識にお任せするのです。そうすると、その意識が働かれ、本来のあるべき正しいあり方になっていくのです。今日は、クリエイト21の例会があり、そういうことを話してみようと思っているのですが、まだ、まとまっていません。何とかまとまるおかげを頂きたいと思いますし、そこを自分でしようという意識を手放したいと思います。
2009.05.19
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昨日、家内が本屋へ行くとき、「生まれ変わりの村」と「ホ・オポノポノ」の本を買ってきてくれるよう頼んだのですが、「生まれ変わりの村」はなく、「ホ・オポノポノ」を買ってきてくれました。ホ・オポノポノは、400年前からハワイの人達に伝わっていた問題解決の方法です。それは、ハワイの人間州宝となった伝統医療のスペシャリスト・モナが、インスピレーションを得て、開発したものです。私たちの潜在意識は、宇宙が創生されてからのすべての記憶にアクセスして、瞬間瞬間膨大な記憶を立ち上げているそうです。私たちが認識しているのは、顕在意識ですが、その100万倍の記憶が1秒間のうちに潜在意識の中で立ち上がっているそうです。その中のマイナスの意識が、私たちが成功することを妨げているというのです。モナは、そういった潜在意識の中で、毎秒立ち上がる過去の記憶を消去し、神聖なる知能と一体化する方法を示したのです。私は、潜在意識で考えていることが、現実に影響力を持っている、と考えていますから、その思いを消して、神の英知に直接触れることは、いいことだと思っていますので、ホ・オポノポノの考え方にも関心を持ちました。ちょっと勉強してみようと思います。しかし、時間がないのですが・・・。
2009.05.18
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ホ・オポノポノの本を調べていると、この本をチェックした人は、このような本もチェックしています、ということで、「生まれ変わりの村」という本が出ていました。確かに、私は、生まれ変わりということに関心がありますし、ある程度研究もしてきました。しかし、その本に書いてある内容は、私が勉強した内容とは少し異なるようなのです。そこで、ちょっと読んでみようか、という気になりました。又、生まれ変わりということで、一説ぶちたいと思います。(^_^)しばらくお待ちくださいね。
2009.05.17
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御南教会の先生のお話の中で、昼食を抜いて、一日中お結界に座っておられた先生のことを話されました。その先生は、私も知っている先生ですし、青壮年教師会で、よくご一緒して可愛がってくださった先生です。私も、その先生が好きでした。自分のことを野武士だ、と言っておられました。もう、亡くなられましたが。その先生が、「座っているときも、攻めている」と言われたそうです。最初、その先生が、信者さんがお願いしたことがどうなったか、報告に参ってこないことなどを、責めている、ととったのですが、そうではなく、信者さんがおかげを受けられるよう、神様に向かっておられることを「攻めている」と言われたのです。取次者が座るとは、そういうことなのです。
2009.05.16
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今日は、御南教会の天地金乃神大祭でした。お話は、教会長でした。挨拶をしてきます、と言われました。祭服を着替えて、長い挨拶を聞きに行きました。そのお話の中に、ある教会の先生がいつもブリの照り焼きを食べられるので、修行生が、「先生はブリがお好きなのですね」と言うと、奥様が、「先生は食べながらも信者のことを願っていて、そちらに意識が集中しているので、骨がないブリを出している、とのことでした。そこまで、信者さんのことを思い続けておられるのです。湯川安太郎先生は、「人思うこと人後に落ちず」と言われましたが、どこまで思っておられたか、想像を絶するものがあります。先生の思いに神様が感応されるのです。
2009.05.16
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今朝、信者さんと話していて、口臭の元になるものをテレビでやっていた、という話になりました。喉の奥のところに、くぼみがあり、そこに食べかすなどがたまっており、それが口臭の元になるというのです。それを出すためには、うがいをするとき、喉の奥まで水がいくようにうがいをすれば、出てくるそうです。ある方は、赤い塊のようなものが出てきたそうです。最初、血痰かと思ったそうですが、その食べかすなどの塊だったそうです。私は、口臭はあまりないと思っているのですが、ためしにうがいをしてみました。水が奥まで行くようなうがいをしなければなりませんので、そうしていましたら、鼻に水が行ってしまいました。なかなか難しいです。しかし、何回もしなければいけない、と聞いていましたので、6回ぐらいしましたら、半透明の白い塊のようなものが出てきました。ああ、これなのか、とちょっぴり嬉しかったです。
2009.05.16
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願い事をブラックボックスに入れる。そうすると、中でどのような過程を通るかは分からないが、願ったことが出てきます。神様に願うのは、そんな感じがあります。このような段取りでおかげがある、という予想がつかないのです。思いもよらない方法で、おかげにして下さいます。ですから、こちらは、願い事を神様に渡しさえすればいいのです。後は、ブラックボックスの中のように、わけは分からないけど、おかげになっていくのです。そこはお任せです。よろしくお願いします、と神様にお渡しするのです。
2009.05.15
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神様はどこにおられるのでしょうか。教祖様は、「神に会おうと思えば、外へ出てみよ。上が神、下が神」と言っておられます。天地金乃神は天地に満ちわたっておられる、とも言われます。又、心に神がござる、とも言われます。これは内在神ですね。私たちには、神様と同質のものを与えられている、とも言われます。神様の分け御霊様が与えられているのです。だからこそ、外なる神様を感知することができるのです。その内なる神様を、西田幾多郎氏は、「わが心 深き底あり 喜びも 憂いの波も届かじと思う」と詠まれています。内なる神の探求は、内観や瞑想でなされます。外なる神へは、祈りで向かいます。信心とは、外なる神に祈る中で進められ、その中で、内なる神の目覚めがあるように感じています。
2009.05.14
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神様が働かれないと思っている人には、神様に祈ることは、無意味なことでしょうが、神様が働かれることが信じられる人は、神様に一心にお祈りするでしょう。祈れば、うまくいくのですから、祈らないのは、もったいないと感じるでしょう。しかし、その差はどこから生まれるのでしょうか。小さいときからの教育もあるでしょう。又、神様に祈っておかげを受けた経験の有無もあるでしょう。又、神様を感じやすい体質的なものもあるでしょう。いずれにしても、神様からすれば、信じてすがってくる氏子は、ほっておけなく感じるでしょう。もちろん、すがってこない氏子も、かわいい氏子に違いはないのですが、ある面、どうしようもないところがあるのです。すがってこられてこそ、神様も存分に働くことができられる。そういう意味で、遠慮なくおすがりするのが、おかげを頂くコツでもあります。神様のおかげが受けられるかどうかには、人間側の姿勢が大きく影響します。素直に信じておすがりする、その赤子のような心が、一番おかげを頂ける心だと言われるのです。あれこれ考えず、おすがりすることが、おかげの近道です。
2009.05.13
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今年、学院の各種活動の講義を頼まれました。昨日は、講師の打ち合わせ会があり、行ってきました。何もお誕生日にしなくても・・・と思ったのですが(冗談ですよ)、学院にとっては、そんなことは関係ないですよね。この講義は、平成15年まで3年ほどしていましたが、平成16年に教務センター所長のお役を受けるようになったので、平成16年からはお断りしました。この講義は本科で8時間、特科で3時間あります。この講義には、苦しみました。私の持っている内容では、学院生に対しても、申し訳ないように感じています。そして、もうすることもないだろうと思っていたのですが、する羽目に陥りました。前、受け持たれていた先生が、諸事情で急遽お断りになられたとのことです。直前なので、新たにお願いできるのは、前にしたことがある私だったのです。私も、事情が事情ですので、今年1年だけ、ということでお受けしました。これから、講義を組み立てなければなりません。又、苦しみの日々が始まります。いえいえ、苦しんでいては、相すみません。やらせていただくからには、楽しんで、これを伝えるんだ、という思いで取り組みたいと思います。神様は、可愛がって下さいます。
2009.05.13
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ホ・オポノポノという問題解決の方法の本が出ています。その説明は、以下のようにされています。ビジネスでの業績や人間関係に関する悩みは誰にでもあることでしょう。それらを部下や上司のせいにするのではなく、(どんな立場の人であっても)「すべての責任は自分にある」と考えることがホ・オポノポノの大きな特徴です。それを解決するには、問題を引き起こしている自分の中の過去の記憶(情報)を消去(クリーニング)して、「ゼロ」の状態にすればいいということです。そのクリーニング方法も超簡単です。「ごめんなさい」「許してください」「ありがとう」「愛しています」という4つの言葉をひたすら心の中で唱えるだけでいいのです(感情は入らなくてもいいそうです)。以上ですが、真理があると思います。金光教でも、お詫びとお礼が大切だと教えられています。まず、神様に「ごめんなさい」「許してください」「ありがとう」と言うことが大切です。詫びれば許して下さるのが神様です。そして「愛しています」という言葉も力があります。愛するとは、大切にすることです。「実意を込めて、すべてを大切に」というのが、金光教の行き方です。
2009.05.13
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誕生日を迎えると、命について考えます。私には2歳上の従兄弟がいました。金光教の教師養成機関の金光教学院も、一緒に行きました。その従兄弟が45歳で亡くなりました。非常なショックでした。私も45歳ぐらいで死ぬのではないだろうか、と感じました。しかし、45歳を通り越し、52歳を迎えることが出来ました。でも、本当は46歳で死んでいたのではないかと思うのです。46歳の時、居眠り運転をしてしまい、すんでのところで即死でした。直前で目が覚め、急ブレーキをかけ、横のガードレールにぶつかりながら、反転して、トラックにぶつかりました。気づくのが、後1秒遅かったら、眠ったままあの世に行っていました。あの予感は、当たっていたのです。そこを、神様に助けていただきました。ですから、死んだと思って、欲を放して神様の御用をさせていただかなければなりません。教祖様が立教神伝で、「死んだと思って欲を放して、天地金乃神を助けてくれ」と神様に頼まれたのが46歳の時でした。同じ歳だと喜んでいてはいけませんし、私の場合は、神様が頼まれたわけでもないのですが、命を頂いたお礼として、精一杯御用をさせていただこうと思っています。一人でも、難儀な氏子を助けさせていただきたいと思っています。どうぞ、神様、お使いください。
2009.05.12
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誕生日を迎えました。朝ご祈念後のお茶を頂く時、ケーキを作ってくださり、祝って下さいました。52年間も生かしてくださり、私が神様にお礼申し上げなければいけないのに、こうして祝って下さるとは、何ともありがたいことです。私は、前から50歳代は、教師として一番脂の乗り切ったときである、と思っていました。実際、そのように感じます。心に余裕が出来てきます。体力もまだ残っています。若い時からの努力が報われて、芽が出だすときでもあります。もうしばらく、命を頂いて、御用させて頂きたいと思います。神様をどこまで出せるか、取り組みたいと思います。
2009.05.12
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この前のご大祭の講題は、「天地金乃神と申すことは」ということで話させて頂きました。そして、話す中で、めぐりの出所を、神様のお世話になっていながら、そのことにお礼が言えていないところである、と話しました。しかし、それだけではありません。そこのところが不十分な感じがしました。めぐりのもう一つの大きなもとは、「何事もわが力でする」というところにあるのです。人間は、「自分のことは自分でしなさい」と言われて育ちました。ですから、「わが力ですること」は、いいことである、とされてきました。それが「めぐりのもと」だと言われると、意外な感じがするかも分かりません。しかし、人間は、わが力でする力はないのです。人間は、米粒一粒、魚一つ作ることはできません。それを天地から恵んでもらっているのです。又、目が見えるのも、声が聞こえるのも、すべて神様のおかげでさせていただいているのです。そこのところにお礼しながら、そして、させて下さい、とお願いしながら、させていただくことが大切なのです。物事が出来るためには、色々なお繰り合わせを頂かなければなりません。それは、神様にお繰り合わせを頂かなければならないのです。そのことをお願いすると、神様が、その御繰り合わせと共に、お徳を下さいます。それで、出来させていただけるのです。それなしで、やっていると、徳切れになってしまい、めぐりを積むことになってしまうのです。そうした天地の道理を知っておくことが大切です。
2009.05.11
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今回の月例祭は、この前のご大祭のお話のビデオを見ました。ご大祭のとき、信者さんは御用で、落ち着いてお話が聞けないので、次の月例祭の時に、聞かせていただくのです。話は、私がさせて頂きました。ですから、自分で自分の話を聞きました。改めて、話が上手ではないなあ、と思いました。「それで」という接続詞が多いです。しかも、時々「それで」を「せえで」という方言で言っています。そして、最後のまとめも、ビシッと決まっていません。詰めが甘いです。これは、話を考えるとき、時間がなく、最後まで詰めができていなかったからです。そういうところは、キッチリ表れます。それから、言い足りないところもあります。そういうことに、後から気づきます。まあ、気づかないよりいいですが・・・。そういう意味で、自分の話を聞くのはいい勉強になります。
2009.05.10
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人は、難儀があるから信心するところがあります。難儀がなければ、信心などしないでしょう。そして、信心をしなくても、難儀がなく、幸せに生きて行ければいいのですが、それは難しいことなのです。それというのも、そういう生き方は、天地の道理から外れているからです。そうすると、どうしても行き詰まりが起きてくるのです。私たちは、神様の生かそうとするお働きにつつまれて、生活しています。食物もすべて、神様が与えて下さっています。人間には、何もない中から、お米一粒さえ作る力はありません。食べ物も、着る物も、住む家も、そのもとは、神様が与えて下さっているのです。そのようにお世話になっている方に対して、お礼を言うのが、天地の道理に沿った生き方なのです。お礼を言わない、感謝しないあり方は、無礼なあり方なのです。そうしたあり方は、天地には通用しません。どうしても行き詰まりが起きてきます。それが難儀です。しかし、神様は、その難儀をも救おうとされます。人間の自業自得で陥った難儀ですが、そのことを責めず、どうぞ信心しておかげを受けてくれよと教祖金光大神様に取次の業(わざ)を託されたのです。ですから、お取次を頂き、これまでのご無礼をお詫びし、お礼をし、お願いをしていけば、助かることが出来るのです。難儀は、ただ忌み嫌うものではなく、信心の気づきになるものでもあります。「難儀の中に、神います」と言われた先師がいます。難儀の状態の時こそ、神様がそばにおられ、心配して働かれている時でもあるのです。難儀の時が、神様に一番近いときでもあります。
2009.05.09
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「なぜ、山に登るのですか」と問われたとき、「そこに山があるから登るのだ」と答えた登山家がいました。私も、「そこに難儀があるから、お取次をさせていただくのだ」といった感じです。難儀を抱えている氏子が、救いを求めてお取次を頂きに来られます。私は、そのことを神様に取り次がせていただきます。そうすれば、必ず神様が働いて下さいます。自分が我が力でしようとして積み上げた難儀を、神様にお願いすることで、取っていただくのです。そして、これからは、自分でしようとせず、神様にお願いして、させていただくようにするのです。そこに、おかげの道が開けていくのです。
2009.05.09
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今、直信先覚の先生方のお話を読んでいます。神様を求め、人が助かるために、激しい修行もされます。その気迫に、こちらも襟を正されます。そうしたあられようで、おかげがないはずはないと思うのです。今、金光教は元気がなくなっていると言われます。それは、そういった先生方が少なくなってきたからに他なりません。そういった先生方が多くいれば、おかげが立つに決まっています。当然、金光教も元気になります。それは天地の道理です。表行を勧めはしませんが、人の助かりのために、懸命になることがいると思います。難儀な人は多くいます。神様も助けたい思いは切なるものがあります。後は、神に使われる人が、本気になれば、その働きは、次々と広がっていくでしょう。そのようになりたいと願っています。
2009.05.08
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先月末から、昨日まで、大祭や霊祭が続き、出ることが多かったのですが、今日は、久々に、ずっと教会におれました。やはり、教会にいなくてはいけない感じがします。数日前、信者さんで、具合がよくないお届けがありました。神様にお取次ぎさせていただいたので、必ずよくなる、と思っていましたら、今日は、快方に向かわれたお届けがありました。そして、午後には、参拝と電話のお取次が、あまり重ならず(少しは重なりましたが)つづき、神様にお使いいただけたように思いました。教会にいれば、お参りがあればお取次をさせていただき、お参りの間には、ご祈念をさせていただいて、お届けのあったことを神様に申し上げ、おかげが頂けるように祈っていると、結構忙しいのですが、結果がよく現れるので、ありがたいです。こうした日々を過ごさせていただけることが、とてもありがたいことだと思います。
2009.05.07
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私は、過去に数年玄米食にしたこともありました。多分7年ぐらい続けたと思います。普通の玄米は、消化が悪いので、「酵素玄米」という特別な炊き方で、小豆を入れた玄米を食べ続けました。玄米の糠の所に、栄養があるのです。白米は、その栄養のところを取ったものですから、玄米の粕(かす)なのです。だから、粕(米を白くしたもの)と書くのです。玄米食は完全食と言われています。玄米と少しの野菜を食べれば、栄養的には足りるそうです。宮沢賢治が「雨にも負けず」の中で、「玄米四合と少しの野菜を食べ」と書いていますが、それでいいのだと思います。しかし、実際は、それでは食の楽しみが乏しい感じがします。天婦羅やお寿司が食べたくなります。相当な強い意志がなければ、玄米食を続けられません。やってみて、そう感じました。もちろん、玄米食もおいしいのですけれどね。そして、玄米食のいいところは、解毒作用が強いところです。広島に原爆が落ちたとき、爆心地に近いところにありながら、原爆症にならなかった病院の医師と看護婦さんたちがいました。その病院では、玄米食をしていたそうです。放射能さえも解毒する働きがあったのだ、と聞きました。その真相を確かめてはいないので、本当かどうかは分かりませんが。今のように、食品添加物が多い時代には、玄米のような解毒作用の強い食事がいいようには思います。しかし、玄米食も、今はやめています。今は、なぜか、食事についてのこだわりが、なくなってきています。ただ、有り難く頂ければいい、と思いますし、食べられなければ、食べなくてもいい、と思えるのです。神様が食べさせて下されば、食べるし、食べさせて下さらなければ、食べないだけです。
2009.05.06
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私は、結構、食について、考えてもきましたし、色々なことを実行してきました。10年ぐらい、肉食をやめたこともありました。もっとも、カレーなどに入っている肉を出して残すようなことはせず、ステーキとか、から揚げとか、肉料理を食べないようにしただけですが。そこは、金光教の食べ物がもったいなくないような食べ方をするのが基本にあります。ですから、厳密に肉食をしないようにしたのではなく、大らかに肉食をなるべく避けるあり方をしました。ですから、ベジタリアンもどき、と言っていました。口の悪い人は、偏食と言っていました。肉を食べないようにした理由は、牛肉を1キロ作るのに、穀物が8キロいる、つまり、穀物を食べれば、8人が食べられるのに、牛肉だと1人しか食べられなくなる、といったように、肉食は、贅沢な食べ物だからです。ちなみに、豚肉は1キロ作るのに、穀物が4キロ必要であり、鳥肉1キロ作るのに、穀物が2キロ必要、と言われています。肉食をすると言うことは、飢える人々をつくることでもあるのです。そのようなことはしたくない、と思ったのです。それから、肉食は、精神性にとってもよくない、という説があります。やはり、凶暴になるところがある、と言うことです。正しいかどうかは分かりませんが。そして、肉食は、健康にもよろしくないのです。そのような肉食は、やめよう、と思ってやめました。しかし、1日1食にするとき、肉食を解禁しました。あまり厳しすぎる食の制限は、精神面にもよくないように感じたからです。
2009.05.05
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今日、黒衣を着た状態で体重を量ると、71キロありました。ありゃりゃ、と思って、洋服に着替えてから量ると、69.2キロでした。2日前と同じです。1日1食に戻そうかと思いましたが、まずは、食事の量を減らそうと思います。そして、結構、お参りが続くときがあるので、そういうときは、食事を抜こうと思います。ちょっとしたことの積み重ねで、大きな変化が起きてくると思います。信心も同じです。ちょっとした心がけで、おかげが頂けるのです。
2009.05.03
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お結界は、くぼい所でなくてはなりません。くぼい所であると、難儀が寄ってきます。又、助かるからこそ、神様がお引き寄せ下さいます。最近、多くの難儀が寄ってきているように思います。それだけ、お結界がくぼくなっているということでしょうか。難儀は、助かるからこそ、神様が引き寄せて下さっているのです。そのことを信じて、御用をさせていただいています。
2009.05.02
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