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松田東吉先生は、初めて教えに触れ、魂が震えるほど感動して、信心をされだしましたが、しばらくすると、神様に対する疑いが出てきました。そこで、「もし神様がおられるのなら、明日1時に起こして下さい」と祈って眠りました。そうすると、ちょうど1時に目が覚めました。その翌日も、その翌日も、1時に目が覚めます。これはただ事ではない、と思って、神様を試したことをお詫びし、それから12キロある教会へ日参することにしました。このように、神様を試した人は多くあります。桂松平先生も、数珠の数を丁か半で続けて10回どちらかであれば、神様を信じるが、1度でも違えば、もうこの神様のことは心にかけない、と心に決めて数珠をもみ、手の中の数珠の数を数えたら、10回とも、丁でした。もう3回試しても、丁でした。それで神様を信じた経過があります。又、安武松太郎先生は、参拝する数時間前に、足を竹で貫き、怪我をして痛くて歩けない状態を、出発するまでに治していただきたい、と願いを立てて、痛くなくなるおかげを頂きました。これも、神様を試したことになるでしょう。そうして、こうした先生方は、いったん納得がいったら、もう試すことはされません。試すことは、ご無礼なことでもありますから。しょっちゅう試したい気になるのは、本当に信じていないからでしょうね。そうなりがちなところが自分にはあります。神様がされることは、絶対先々のためにいいことである、と信じて行きたいと思います。来年は、神様がいよいよ現れて下さる年になりそうです。どうぞ、楽しみにさせていただきましょう。今年は、この広前にご参拝くださり、有り難うございました。来年も、よろしくお願いいたします。どうぞ、よいお年を。
2009.12.31
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今日は、年末感謝祭です。その準備もだいたい出来たので、寸暇を惜しんでブログを書いています。今日の感謝祭には、初めて家内が祭服をつけます。家内も祭典に祭服をつけて御祭を仕えられるようになってもらうため、今回から祭服をつけてもらいます。緊張していると思います。しかし、こういう緊張感がいいですね。祭典では、こうした緊張感が神様へのお供えになります。一年のお礼を、緊張感をもって、真の心で、感謝祭を仕えさせていただきます。
2009.12.30
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今朝6時のご祈念は、神前拝詞の後、すぐに立教150年御礼祈願詞をあげてしまいました。途中がすべて抜けました。それを、言われるまで気づきませんでした。ちょっと危ないです。そういえば、「洗心」1月号には、「痴呆症にならないために」を書きました。私自身、しっかり実践しなければいけません。ご祈念とお話が終わったとき、ある信者さんが、漬物とご飯で皆さんに朝ごはんを頂いてもらいたい、というお届けがありました。そういうことで、ご祈念を早くされたのでしょうか?昨日も、寝るのが午前1時で、起きたのが4時半でした。3時間半睡眠です。眠ったと意識せずに寝ていたのかもしれません。気づいていない、というのに、ちょっとショックを受けました。今年は、インフルエンザ防止祈願をしましたが、来年は、ボケ防止祈願をしましょうか。たくさんの人が祈願のお願いに来られそうな・・・。これは、お願いに来られなくても、こちらが勝手にさせていただくものですから・・・ご安心(?)ください。
2009.12.29
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茂久平が、結界取次について、次のように言っています。改めて聞かせていただきたいと思います。我が道の広前は、少しの間も奉仕者が他出して、あけておくことは出来ぬのであって、このことについて、教祖の御神意は、一、二にして足らぬ理由がある。まずその一には、広前へ参拝する者は、取次者の不在の時には、今日はお留守じゃと言うて、神様のお留守のごとく思い、おかげをよう受けないことになる。ゆえに、大勢の者が御取次を神と認めて参拝して集まって来る所であるから、一人の依頼のために、他所の信者の宅へ行き、祈念せんと外出していたなれば、ただ一人のために、他の大勢の氏子が力を落としてしまうからである。その次には、この神は世界一目に見てのお守りの神じゃによって、病人の枕元へ行って祈念せねば助からぬような、小さい神ではないのである。その次には、不幸悲境の時には、心が細くなり、狼狽もするときであるから、さような欠点につけ込み、教えを持ち込んで信心の押し売りをするような卑怯な手段は、我が生神は堅く禁じられたのであります。かかる大なる理由があって、本教では絶対に病者の枕祈念に行ってはならぬと、神様からとめられています。この後に、近くの総代が奥さんの枕祈念を頼んで、行かれず、おかげを頂かれた例をあげておられますが、結界をあけないことを、ここまで重んじているか、と改めて心を正される思いです。茂久平の時代に、既にここまで、結界取次の尊厳を感得しておられたかと、感じ入っています。
2009.12.28
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一昨日、少年少女会で、ご本部へお礼参拝をさせていただきました。金光様に一年間子供たちが元気にお育て頂いたお礼を言わせていただくと同時に、信心が子供たちに伝わりますように、そして、より多くの子供たちをお引き寄せ頂き、信心を伝えさせていただけるようにお願いさせていただきました。お結界で言わせていただいたことは、神様に届きます。来年は、少年少女会に、より多くの子供たちが来てくれるようになると思います。今年は、初参拝者20人以上の願いを立てさせていただき、そのおかげをいただきました。来年は、少年少女会に来てくれる子供たちが5人以上増えるよう、お願いさせていただきたいと思います。中学2年生の女の子が、私のブログを読んでくれていますが、最近は面白くない、と言いました。どんなのが面白いのか、と聞くと、鼻毛の話とか、そういうたわいもない話だそうです。本格的な信心の話は難しいですよね。でも、それを、子供にも分かるように、かみくだいてお話をしていきたいと思います。この日は、鼻毛を頭につけたらいい、などと失礼なことを言われながら、ご本部参拝をしてきました。こうして、人間ができてきます。有り難いことです。すべてを有り難く受けていくのが信心です。これで、めぐりを取っていただける。これで修行をさせて下さる、と前向きに生きることを、神様は喜んでくださいます。
2009.12.27
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茂久平の話の続きです。この「取次に隙(ひま)なし」との御流儀は、教会所のひれいである。絶えず神前につき切って、氏子の願い届けがいつでも出来るよう、神の御心がいつでも、氏子に伝えられるような態度になっているのである。たとえ信者の信心が落ちていても、取次の祈念には緩みがあってはならぬ。取次に隙なしとは、氏子のお願いのある時もない時も、取次には隙がない意である。誰も参らぬときは、お願い届けがないが、その参拝者のない時には、信徒総代をはじめ、信者氏このために、厄難災禍のないように祈念するのである。また、道を誤らぬよう、一心にご祈念するのである。このご祈念もなくて、間が抜けていると、取次に隙が出来たということになるのである。広前に隙ができてはならぬ。教師たるものは、寝床に入っているときも、いつも神前の方に頭を向けておって、もし信者に夜中、大事が起こったときにも、取次にはそれが響いて分かるまでに、心を神に向けていなくてはならぬ。この頭を向けているということは、寝ていても神に仕えているということである。以上ですが、なかなか厳しい教導を曽祖父はしていたものです。寝床に入っても、油断なく神に心を向けておく・・・。ちょっと難しいですね。しかし、その出来ないようなことを、歴代金光様はしていて下さっているのです。その御礼をしないことは、申し訳ありません。すべての人は、その恩恵を被っています。特に、金光教の人が被っている恩恵は大きなものがあります。昼夜を問わない、この恩恵を、有り難く思わず、金光教の人で、助けてもらっていない、と言われたりすると、がっくりときてしまいます。(ちょっと個人攻撃のようになってしまいましたね。ごめんなさい)
2009.12.26
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書く時間が余りありません。高橋茂久平の書いている文を書くことで取次を理解していただきたいと思います。以下、茂久平述です。「金光大神の広前には、参拝者なきときといえども、取次に隙なし」という御教風になっているが、もし、参拝者のない広前の取次に、手隙のある時には、遠方の信者や、または手がふさがっておって参拝のできぬ信者のために、厄難災禍のないように祈念するのであって、これが本教の最も大切なことである。信者が古くなるとおかげを落とすということがよくあることであるが、これがどういう訳かと言えば、取次の先生を軽んじたり、無視して、信者自身の心が高上がりをするためである。「金光大神頼むと願え」の御教示のごとく、金光大神の手を経て、神がお聞き届けになるのであるが、その筆法で教祖はまた、「先生取次の手を経て頼め」と仰せなさるのが順序で、これが我が道の流儀であって、これを踏み誤ったならば、おかげはなく、手続きをもって頼まなければ、おかげはないのである。時間がないので、続きはまた。
2009.12.25
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高橋茂久平が、巡教講師で京都に行っていたとき、その教会長と世話方が「説教の日は、町内の衛生講話があるのですが、そのお話を先生に頼んでくれと、区役所から頼まれているので、説教はやめにして、衛生講話をしてもらえないでしょうか。そちらは、1戸から1人ずつ出ることになっているので、沢山集まり、説教には余り人が集まらないでしょうから」とのことでした。茂久平は、衛生講話などしたことはなかったのですが、まだ日にちが相当あるので、調べておきましょう、と返事して、準備をしました。それから5,6日経ってから、区役所から断りの連絡があったそうです。実は、他宗の方から、金光教の教師に話させるのなら、我が宗派からも、という意見があり、収拾がつかなくなったので、専門家を頼むことになったというのです。茂久平は、代わりに保津川下りでもしていただきたい、と言われましたが、金光教が大侮辱されたわけだから、面白くない。そこで、ご神前で祈念を凝らすと、説教の講題が、ありありとずうっと下がった気持ちがしました。そこで、教会長に、「人が集まりさえすれば、当日説教をしてもいいのでしょう」と言うと「それはいいです。区役所も説教をさせないと言うのではありません」と答えました。「それなら、聴衆を集めるに良い考えがあるのだが」と言うと、「何ですか」。「集めるには、京都の市内18ヵ所の教会の先生と世話方だけを集めて、他のものは聞かせられぬということにしたらいかが」「それは良い思いつきです。そうさせていただきましょう」ということになって、その講題は、「生神金光大神の信心に著しきごひれいの輝く理由」というので、各教会の幹部のみを入れるようにしました。そうすると定刻の30分前に、お広前がワイワイという盛況です。一方、教会所の向かいにある学校の衛生講話には、誰も人が来ていない状況だったそうです。世話方から、「町内の者も参ってきていますが、どうしましょう。入れましょうか」「入れ、入れ」ということで超満員だったそうです。このときに茂久平が、話した内容は、「金光教の広前は参拝者なきときといえども、取次に隙なし」ということだったそうです。この内容は、金光教の人には分かりますよねまた、次回にでも書きたいと思います。
2009.12.24
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今日は、年末のお忙しいときにもかかわらず、クリエイトの発送作業に沢山の方がこられました。私は、ご本部へ年末お礼参拝をしていて、帰って来ましたら、駐車場に沢山の車が止まっていました。ですから、午前中で作業が終わりました。やはり、たくさんの人がいると、作業が早いです。一方、私は、しなければいけないことをやり残しており、気分は焦っております。しかし、こういうときは、神様にお願いして、絶対にできさせていただける、と信じなければいけません。それが信心です。順調にことは進んでいる。大丈夫。おかげを頂きます。お結界でよく言う言葉です。(^_^)
2009.12.23
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今朝は、片島せん先生のお話をさせていただきました。片島先生が御用を始められて間もないとき、神様が、夜中に、「奉公に出ている息子が病気で死にかけているから、すぐ行ってやれ」と言われました。片島先生は、御神酒と御神米を持って、外は暴風雨でありましたが、その中を雨下駄を履いて走っていきました。途中、雨下駄の緒が切れたので、裸足でかけていきました。奉公している家について、戸をたたいて出てきてもらい、息子の様子を聞いていると、息子が元気に出てきて、「こんな時間に何しに来たのか」と尋ねました。片島先生は、宵にたたき起こしたお詫びをして、もし、病気になったら、御神酒と御神米をいただくように言って、帰路に着きました。帰って神前に出ると、神様が、「わが子の病気といえば、雨風の中でも助けに行くであろう。ここへ願い来る者は、皆そのような切ない心で参って来る。ゆえに、わが子に病気災難が起こったと同じ心になって、信者の願いを神に取次ぐことが、この道の取次ということである」と言われたということです。神様は、このように取次者の心を教えて下さっています。信者はわが子と一緒です。何としても助かっていただかなければなりません。信者が助かる御用になりますように、と願わされます。
2009.12.22
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昨日は、信友会の忘年会をしました。今年はないかもしれないと思っていましたが、急遽しようと会長さんが言い出されました。急なことで、参加者が10人ほどでしたが、信徒会長さんと婦人会長さんの飛び入りで、12人の忘年会となりました。お酒も、ちょっと変わった高級なビール、にごり梅酒など、ちょっと変わったものも差し入れがあり、お刺身と鍋の豪華な食事を頂きました。ついつい食べ過ぎたようです。でも、こうした場に参加できることがありがたいですね。また、ますます信心に力を入れて生きたいと思いました。最後に皆さんに一言ずつ言っていただきました。私は、来年は、信者さんのところの信心継承が成就することに祈りを込めていきたい、と話しました。
2009.12.21
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今日の月例祭で、何をお話ししようかと、直前まで考えていました。1時間前ぐらいに、この話とこの話、というように決まりました。月例祭では、その時、自分が一番分かってもらいたいことを話します。これを話したい、というものが出てくることを待っています。お話は、自分が話すようで、自分が話すわけではありません。神様に話させていただくのです。ですから、自分で話しながら、ああそうか、と教えられたりします。(笑)話しながら、聞かせていただくのです。私は、神様のスピーカーに徹したいと思っています。自分の考えを述べるのでなく、神様のお考えを述べるのです。そのためには、自分が虚しくなる必要があります。自分を無にして、神様に使っていただくのです。しかし、直前まで、話すことが出てこないときには、焦りますけれどね。その焦るのが、我そのものですね。
2009.12.20
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人は、神様から神様の分け御霊を与えられています。その分け御霊は、自己を磨くことにより、神様に近づいていくのです。最初から神ではありません。神様に近づくとは、足立幸子さん流に言えば、波動をあげていく、ということです。波動をあげるには、心行をしなければいけません。そして、波動があがってくれば、近くの難儀な人を助けたい心になるはずです。神様の心が、人を助けたいだけの心なのですから、神様に近づけば、当然そうなります。そういう心にならずに、神様の心になることはないのです。そして、難儀な人が、助けてくれ、と訪ねてくるという現象が現れるはずなのです。そういうことなく、自分が神になったなどということはありません。人の魂(分け御霊)は、肉体という乗り舟に乗って、人生の荒波を航海していくのです。その間に、修行をしていくのです。その修行の仕方を、金光教祖様は細かく教えて下さっているのです。その教えに従って、修行することが、人生において大切なことなのだと思います。
2009.12.19
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昨日ぐらいから、冷え込みも厳しくなり、水行も、相当気合を入れなければならなくなってきました。この気合がいいのでしょね。この気合を出すための水行です。そして、水行をしだしてから、寒さに対して、挑戦的になってきまして、去年も裸足で通したのですが、今年も裸足で通そうと思っています。そして、裸足で通すと、去年は、足に霜焼けが出来ませんでした。手にはできたのですが・・・。それが、今年は、手にもできていません。体が、寒さに対する仕様に変わってきたのでしょうか。とにかく、ありがたいことです。このブログを書いているところにもストーブをつけていません。手は、ジンジンしていますが、大丈夫です。何が大丈夫か分かりませんが。とにかく、前向きに取り組む姿勢は大切です。難儀も、その難儀に正面から取り組もうと覚悟を決めると、難儀がなくなってくるように思います。難儀はありません。ただ神愛だけです。
2009.12.18
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ある方が、奥さんも誘われてお参りしておられました。そうして、しばらくした時、お参りの途中でこけられて、足を骨折されたのです。それから、その奥さんは参られなくなりました。お参りしても、そんな目にあうのでは、おかげがない、と思われたのでしょう。しかし、私は、次のように思うのです。その奥さんは、骨折をした時、本当は、もっとひどい怪我をする運命であったのです。もしかしたら、命さえも危ないことであったかもしれません。そこで、少しでもお徳を積ませようと、お参りさせられたのです。その結果、骨折という、それでも小難にまつりかえていただいたのです。ですから、神様から見られたら、大難を小難にして下さったのですが、その奥さんから見られたら、お参りしたら、骨折という難が来た、というふうに見えるのです。真実は、どちらか決まっているのですが、人間には分からないのです。私は、神様のお知らせを頂かれた先生方の実例から、大難を小難にして下さったと考えるのですが、証拠を示すことができません。しかし、そこをその奥さんに分かっていただきたいと願っています。そして、また、お参りするようになっていただきたいと願っています。それでないと、その奥さんの本当の助かりにならないのです。
2009.12.17
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昨日は、クリエイトの総会と忘年会がありました。初めての方が、丹波笹山から参加して下さいました。遠いところからご参加くださり、ありがたいことでした。20人の参加者があり、皆さんの意見に感動を覚える、いい会でした。初めての方も、このような考えを持って生活しておられる方々がおられることを知って感動している、と言われました。それぞれが、真摯に神様に向かっておられます。そういう中で、私がお話をさせていただいたことは、神様からのメッセージを受信する姿勢を持つことの大切さでした。神様は、常に私たちに語りかけてくださっています。それを聞く姿勢になることが大切です。聞こうとしない人には聞こえません。聞こうとする人は、聞こえるようになってきます。聞こえると言っても、声で聞こえるわけではありません。インスピレーションのようなもので、思わされることが多いのです。そのように聞く姿勢をもって生きていくと、神様とあいよかけよの生き方ができてくるのです。
2009.12.16
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昨日、分け御霊と神との関係を考えながら歩いていると、また本箱に引き寄せられて、ある本を示されました。それは、足立幸子の「あるがままに生きる」という本でした。足立幸子さんの言うことは、私もある程度評価しています。そして、それだけの実績も認めています。足立さんが言うのに、個人の肉体は、神と繋がっているのです。神は、真我であり、おおもとであり、深い部分の自分なのです。個人の中にある意識(分け御霊)は10段階に分かれており、波動があがるほど、10段階に近づいていきます。それは、潜在意識の段階です。それまでは、個人の肉体に所属しているといっていいでしょう。しかし、それを超えて、波動があがっていきますと、真我の領域に意識が入っていくのです。そうすると、神の意識になってくるのです。その意識にも段階があって、奥は深く無限に近いようです。この意識になると、意識体の方が大きく、個人の肉体に収まりきらない感覚になるのでしょう。足立さんは、その真我を神とも言っていますが、私は神はまた違っていると思っています。真我を分け与えて下さったのが神であると思っています。しかし、意識の波動があがり、意識が真我の領域に入っていけば、その意識は、神と言ってもいいのではないかと思います。教祖様が御神号を下げられましたが、それが意識の神化した状態に下げられたものだったのでしょう。
2009.12.15
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人の可能性は、どこまであるのでしょうか。神様に近づくことができるほどですから、私たちが思っている以上でありましょう。そして、成長し続けるには、謙虚であることが大切です。自分は、もうできた、と思った時が、成長が止まるときです。成長が止まるだけならいいのですが、堕落し始めていきます。それで、幾多の新興宗教の教祖たちが堕落して行ったことでしょう。自分はできる者になった、という慢心ほど恐ろしいものはありません。その慢心に潜む魔は、その人を徹底的にダメにさせてしまいます。自分を客観視できなくさせてしまいます。自分が基準ですから、自分が正しいか間違っているかの判断ができません。判断ができないというよりも、自分が正しいとしか思えません。悲しいことです。そこに陥らないためには、徹底した謙虚さが必要です。金光教祖が、最後まで、自分もいつ間違えるか分かりません、と言い続けられました。三代金光様が、御神勤40年の御礼の会をしたい、という話が持ち上がったとき、「そのお礼の会は断っていただきましょう。私は年限が長いというだけで、何の功もありませんから」と言われました。何の功もない、と言われる!あれだけ多くの人を救いながら・・・。この謙虚さがあられるからこそ、間違えられずにこられたのです。徳を積み続けられたのです。
2009.12.14
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今日は、ご本部の布教功労者報徳祭に参拝します。お結界恪勤をするとしますと、こうした祭典にもお参りしないことになります。それほどのことで、結界恪勤はできるのでしょうが、ご本部へのお礼参拝は必要な気がしています。直信先覚の先生方は、「ご本部参りは、商人で言えば、商品の仕入れに行くのである」と言われていました。教祖様の時代は、ご本部へ参って、教祖様のお話を聞くのが、商品の仕入れになっていたと思います。それが、また、一番の楽しみでしたでしょう。今は、ご本部の祭典にお参りするのは、お徳の仕入れに行くのでしょう。ご霊地には、お徳が満ちています。そのお徳を頂かなければいけません。そして、お徳を頂くには、それだけの気構えが必要です。「お徳を下さい」と唱えながら、歩ませていただくぐらいでないといけないと思います。でないと、ただ参っただけ、ということになりかねません。お結界をあけてお参りするのですから、それぐらいの気構えでお参りしないといけません。
2009.12.13
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昨日は、本を見させてくださり、寝るようにお知らせをいただいたことを書きましたが、それ以前に、寝させて下さるお働きがありました。家内が、リクライニングのソファーを買うと言っていました。何種類かの中のどれがいいか、たびたび尋ねられました。私は、必要ないと思っていたのですが、買うように言うので、別段とめもせず、これがいいのでは、などと返事をしていました。そして、そのソファーがやってきました。でも、あまり使いませんでしたし、使う気も余りありませんでした。昔の先生は、帯紐とかない修行、横にならない修行をされていますから、ソファーに横になるなど、もってのほかという気がしていました。(でも、するのですけれどね)しかし、あの本を読んでから、さっそくソファーを使わせてもらっています。ソファーが来たのは、そういうことだったのか、と思いました。神様は、ちゃんと用意をして下さいます。(^_^)しかし、こういう中で、ちゃんと修行をさせていただかなければなりません。1000人の祈りは、キッチリさせて頂きたいと思っています。今まで、何とか続いています。
2009.12.12
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昨日は3回も書いてしまいました。アクセス数も伸びて230行きました。しかし、これは、同じ人が何度も見ているということですから、見る人が多くなったということではありません。やはり、多くなるのは、いい内容のブログを毎日書き続けるしかありません。それは、難しいことですけれどね。今日は、私が昨日、受けたお知らせについて書きます。お知らせといっても、神様の声を聞いたのではありません。本を見せて下さったのです。何気なく本箱の方に引き寄せられて、ある本が目に付いて、それを読め、という感じで差し出されました。それは、阿倍野教会の三代教会長の一年祭の偲び草でした。その中の伊藤良三先生のお話のある箇所が、目に入りました。伊藤先生は、ずっと睡眠時間が三、四時間で御用しておられました。そうしましたら、ある時、クモ膜下出血で倒れられたのです。お医者さんが言われるのに、睡眠不足が原因ということでした。それも、座ったままでうとうとするような睡眠ではいけなく、足腰を伸ばして寝なければ意味がないということでした。私も、三、四時間睡眠で、後は、お結界でウトウトするのでいいだろう、と思っていましたが、それではいけない、というお知らせであろうと思いました。それを読んだせいか、昨日晩から、今も、少し頭が痛い感じがあります。このまま行けば、クモ膜下出血になるのかもしれません。このように知らせて下さったことは、大事にしたいと思っています。少し、睡眠時間を伸ばしたいと思います。お医者さんは、8時間寝て下さい、と言われたそうです。それは、ちょっと無理ですが、6時間ぐらいにしたいと思っています。振り分けを考えようと思います。昨日は、夜5時間、そして先ほどまで30分ぐらい、横になっていました。寝ない修行は辛いですが、寝る修行は楽です。
2009.12.11
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禁破りのついでに3回書きます。別に禁じていたわけではないのですが。阿部敏郎のブログで、時間がないこと、つまり過去も未来も同時に展開していることが書かれてありますが、「ITスペシャリストが語る芸術」というブログにも、今日、同じようなことが書いてあります。こういうのを共時性と言うのです。それには、心で認識したことしか現象化しない、ということも書いてあります。つまり、現れている現象は、自分の心でつくり出しているのです。すべて!!合楽教会の初代も、「心一つですべてを創る」と言われています。それが真実なのだと思います。私たちの心は、すべてを生み出すことができるのです。まさしく神のような存在なのです。しかし、それは、天地金乃神様と繋がることでできるのだと思うのです。そこに、生神金光大神取次が必要だと思うのです。
2009.12.10
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1日1回ブログを書く約束を破って、2度目を書いています。まあ、ボーナス月ですから、ボーナス(?)です。1日アクセス数200を目指した一つの理由は、阿部敏郎の「いまここ塾」というブログに、1日10000アクセスあることを知ったからです。阿部敏郎が言っていることは、「いまここ」に存在する自分が、すべてである、という論を述べていて、それは自身の神秘体験から確信していることだということです。過去も未来も同時に起きており、この世のすべてのものを生かしているのが自分自身であることを知った、というのです。今日の阿部敏郎の「いまここ塾」には、そのことが書かれてありますので、興味のある方は読んでみて下さい。そういうことに共感する人が、10000人を超えているということから、その時の私のブログのアクセス数は100ほどでしたから、いっぺんに100倍にするわけにいかないので、まずは200アクセスを目指したということです。生神金光大神様が天地金乃神様に教えられた内容は、阿部敏郎の内容に優るものであると信じているので、それなら10000アクセスを超えてしかるべきであると考えたのです。あの6月の時点より、アクセス数は伸びて、最近は、160平均ぐらいだったのです。アクセス数が伸びるということは、本物でないといけないということでもあります。私は、阿部敏郎が言っていることは、天地金乃神の意識に同化したからこそ得られた感覚なのだろうと思っています。私達は、神の子ですから、神と同化することができるのです。その至福の体験を述べているのだろうと思います。神と自分の区別がなくなるのは、右脳の働きです。左脳は、自分と周りを区別します。違いを際立たせます。ですから、対立し、競争し、不安感が増します。右脳は、すべてが一つであることを認識しますから、競争もありません。不安もありません。安心で幸せな感覚になれます。そして、そのことも正しいことなのです。阿部敏郎の言っている世界もあるのです。しかし、同時に区別のある世界もあります。そこらあたりが、西田哲学の言う、絶対矛盾の自己同一ということなのでしょう。しかし、これからは、みんな一つである、ということを強く認識する時代だと思います。
2009.12.10
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大した願いではなかったのですが、1日1回ブログを書いて、アクセス数が200行くのを願っていました。さしあたっての願いでした。学院で6月に授業したとき、各種活動で、ブログも金光教の名広めになる、といった話もして、自分もブログを書いていることを言いました。そして、1日のアクセス数200を第一目標にしていることを言いました。おかげさまで、ここしばらくは、130~180ぐらいでしたが、昨日は、ちょうど200でした。ありがたいことです。これも、ノロカメさんのおかげかもしれませんね。(^_^)
2009.12.10
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私たち人間は、神の子ですから、神に近づいていけるわけですが、どのような状態が神になるということでしょうか。一つには、色々なことがわかる力がつくことでしょう。近藤藤守先生が、布教中に、警察に捕まって牢屋に入れられたことがありました。牢に入れられたのが5月でしたが、そのことを教祖様は1月2日にお知らせを頂かれていました。そして、1月1日に神様に伺うと、1、2、3、4月のことを、2日には、5、6、7、8月のことを、3日には、9、10、11、12月のことをお知らせくださる、と言われました。その徳を受けよ、とも藤守先生に言われています。神に近づくには、そのぐらいの徳を頂くのは、まだ初期の段階で、まだまだ深いものがあります。また、教祖様は、まず手にお知らせを頂かれました。願い事が叶うときには、手があがり、叶わないときには、手が下がるので、お伺いができるのです。次に、口にお知らせがあるようになられました。このように分かるお徳を頂くことが、神に近づくことでもあるのです。そういうことが出来ずに、神になることはできないのだと思います。そして、神徳がついてくれば、難儀な人が助けを求めてくるようになります。そうした現象がなければ、これも神に近づいたとはいえないと思います。そうした事象を見ながらでなければ、その人が神に近づいているかどうかは分からないと思いますし、そうしたことがなく、本人の自覚だけで悟ったと言っても、それは勘違いである可能性が高いと思います。ある先生が、「人が話を聞いてくれません」と言われました。それに対して、金光四神様は、「徳のないときは、人が聞いてくれない。心配しなくても、神徳を頂けば、人が話を聞かせてくれと言ってやってくる」と言われています。多くの人が話を聞いてくれるようになるかどうかも、神徳を頂いているかどうかの判断基準になります。そうしたことを、客観的に見て、自分が神に近づいているかどうかが分かるのであろうと思います。
2009.12.09
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今日は、岡山教会と芸備教会にお礼参拝させていただくことになりました。最初は、家内に代参をしてもらおうと思っていたのですが、お伺いすることもでき、また、今年のお礼のお参りなので、参らせていただくことにしました。教祖様に対し、神様が、「金光は、神が知らせてやらなければ、何も知らない」と言われています。逆に、教祖様には、神様が色々お知らせを下さっていたのです。ですから、当時は、お結界でご神意をお伺いすることはよくありました。三代金光様の時代でも、布教地は、たいていお伺いをして行っていたようです。最近は、お知らせのある取次者が少なくなってきたので、お伺いも少なくなってきました。しかし、お知らせのあるなしにかかわらず、お結界で言った言葉には、神様があわせて下さるところもあります。ですから、お結界でのお言葉は、絶対的なのです。今日は、お伺いすることがあります。ご神意が正しく受けられますよう、願いながら、お参りしてきます。
2009.12.08
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ノロカメさんの言われる精神(分け御霊)と、私の考えている分け御霊が違うところから、すべての考えが違うようになっていると思うので、そこをはっきりさせたいと思います。ノロカメさんは、精神が神であり、それが肉体をつくった、と考えておられるようです。私は、精神(分け御霊)は神様から授けられたもので、神様の一部ですけれど、神様そのものではない、という考えです。(同質のものですから、神様そのものといってもいいのですが、肉体に入ることによって、分からなくなったところもありますし、様々な制約を受けています)だからこそ、神様の神性を磨きださなければいけないと考えます。神様から、神徳も頂かなければなりません。ですから、修行も必要です。そして、肉体は、神様(精神ではない、その元の神様)がつくってくださったと考えます。ですから、病気などになれば、製造元の神様に治してください、とお願いするのです。精神が肉体をつくったのであれば、病気になれば、精神が治せばいいことになります。神様にお願いすることもありません。しかし、金光教祖様は、「祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならぬ」と先に神様に祈ることを大切なことと説かれています。精神が治せるのであれば、神様にお願いする必要はないでしょう。この時点で、ノロカメさんと金光教祖様の信心は、違うように思うのです。そのほかの点でも、違う点が多く見られるのは、精神と神との捉え方の違いだと思います。元が違えば、そこから発生するすべての考えが違うことになります。ですから、ノロカメさんが説かれるのは、マイ宗教であって、金光教ではない、と考えたほうがいいでしょう。
2009.12.07
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今日は、月例祭とバザーで、朝から忙しくしていました。家内は、昨日はほとんど徹夜のようでした。おかげで、盛大なバザーが行なわれ、たくさんの人に来ていただけました。駐車場も、いっぱいになりました。教会のすぐ前に、122坪の駐車場を買わせていただいたことは、本当に神様のおかげでした。それでは足りないおかげを頂かなければ、神様に申し訳ありません。今日は、おかげを頂くための修行ではなく、お礼をするための修行をしなければいけない、というお話をさせていただきました。どのようにすればお礼になるのか、求めて行きたいと思います。
2009.12.06
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昨日のアクセス数は、175でした。ノロカメさんが意見を言われ、意見沸騰したからでしょう。金光様一心様も3回も参られました。コメントも多く入りました。それは有り難いことです。そうした中に、本当のことが分からせていただきたいと思っています。ノロカメさんの言われたいことも、分からないことはないのですが、人が神に成長して、神様のお世話にならなくてもよくなる、という意見には、賛同しかねます。そのような傲慢さでもって、人はめぐりを積んできたのですから、同じ轍を踏んではいけないと思います。人は神なのですが、大いなる神のお世話になって生きているものでもあるのです。そのお礼の心を忘れてはいけません。お世話になっているのは、過去だけでなく、今現在もお世話になり続けているのです。おおもとの神様(天地金乃神様)は、お礼を言えとは言われませんが、そこの所は、悟らせていただかなければなりません。それが分かるだけの徳を頂かなければなりません。そして、自分に与えられた神様の分け御霊を、成長させていただかなければなりません。そのためには、信心の稽古が必要です。死ぬまでが稽古です。卒業というものはありません。そんなに簡単に神になることは出来ません。教祖様は、神様から、「天地の神と同根なり」と言われたにもかかわらず、「間違えば、いつお暇が出るか分かりません」と油断をせられませんでした。亡くなられる100日前には、100日修行までされました。それほどのものであろうと思います。
2009.12.05
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茂久平は、神徳とは、次のようなものだと語っています。神徳とは、切実なる憧憬と熱烈なる渇仰との情念が、感謝となり、お詫びとなり、お願いとなりて、純真無垢の極致に達し、遂に生神教祖を通して天地の大神霊に感通し往来し、以て所謂霊験を顕し、霊感を得るの妙境に向上せる、最も崇高にして尊厳なる信仰的精神状態を云う。ちょっと難しいですね。しかし、しびれる表現です。人間、純真無垢の極致に達することが肝要ですね。
2009.12.04
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私の曽祖父は、高橋茂久平で、高橋家の信心の初代です。その茂久平の信心を学ぶことが、今、私に求められている感じがしました。そして、茂久平の「御理解感話」を紐解いていくことにしました。これは、今で言う学院生に話したものを書物にしたものです。今日は、「神徳」のところを読ませていただきました。神徳とは、そういうことであったのか、と改めて思わされる表現でした。言葉も難しい言葉を使っているからかもしれませんが、冒しがたい威厳を感じました。何度も何度も読んで、身に沁み込ませたい表現でした。姿勢を正して取り組まなければいけないものを感じました。これが「神徳」なのでしょう。それにしても、偉大な先祖だと思いました。
2009.12.03
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ある人が命が危なかったとお届けがありました。その人は11月22日に危ない状態だったそうです。私は、11月16日から1000人の祈りをしています。その人も入っています。どちらかと言うと、その方よりも、その奥さんの方が心配で祈っていました。ですから、その方の祈りが抜けがちであるところを、1000人の祈りをさせていただくことで、その人のことが祈れていたことが有り難かったです。今、祈りたい人が710人になりました。ですから、1000人を祈るということは、必ず毎日、全員を祈れることになります。2度祈る人が300人近くいるのです。そのことが、有り難いことであったと実感として感じています。神様がさせて下さったのです。
2009.12.02
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睡眠時間2時間の後は、やはり眠たかったですね。昨日は、9時半のご祈念ぐらいから眠たくなり、それから、お結界で座ったまま、よく眠りました。ご神前に出ても、ご祈念の体勢になると、眠りに落ちました。やはり、睡眠時間が短いのは無理がありますね。これから、睡眠時間を5時間はとりたいと思います。それが、なかなか取れないのですが・・・。
2009.12.01
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