まいかのあーだこーだ

まいかのあーだこーだ

2005.04.21
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カテゴリ: 政治
憲法改正の論議は、


結局、ナニも議論しなかったのと同じ。

「自衛隊の存在を位置づける」という、
それ自体には、意味のない条項を入れとくだけ。
(そこにハッタリがあるわけですが。)

あとは、
「プライバシー」だの「環境」だの、
いかにも当たり障りのない新概念をとり入れて、


「護憲はもう古いんだ」ということだけを、
必死のスローガンにして叫び続けたのは、
逆にいえば、
改憲論議そのものにほとんど実がなかったから。

肝心の「シビリアンコントロール」を、
どのように確保するのかという議論は、まったくの皆無でした。

楽天あたりのナンチャッテ右翼とかなら、
「シビリアンコントロール」という言葉を知ってるだけで、
ものを知ってる気分になってるチビッ子がいてもしょーがないけど、

もしかしたら、
国会議員のなかでも、

と信じている人間が多数を占めてるんじゃないか?と不安になる。

そういうカン違いに対して、
識者とかから意見が出ないんでしょうか?

ちょっと考えりゃ分かることだけど、
「文民が統制すれば、国家の暴力装置を安全に運用できる」


なんどか書いてきたことだけど、
文民がバカだったら「文民による統制」なんて意味ないんだし、
場合によっては「軍人による統制」よりも危険です。

もちろん「文民による統制」は必要条件だけど、
それだけでは十分条件にはならない。
その背後に「法的統制」がなければならないのは当たり前のことです。
いまの安全保障論議では、そのことがまったく無視されてます。

じっさい、
今日のナベツネの社説を読むと、
「政治に責任さえあれば、法的な統制は要らないんだ」
みたいに読めてしまう。

その証拠に、
有事法制を見ても、
このたびの一連の調査会報告を見ても、
軍隊の運用にかんする「制限的な規定」は何も書いていません。
(国民の権利に対する「制限」は書いてありますけど)
逆にいうと、
「軍隊に何ができるか」ということだけが書いてあって、
「何ができないか」ということについては、まったく書かれてない。

その時点で、政治は無責任だというほかない。

たしかに、9条の一項に「戦争しない」とは書いてあるけど、
戦争はしなくても、「自衛」はやるわけだし、
そして、「自衛」の概念はまったく定まっていません。

事実上、
この調子でいったら、
政治家(文民)がまったくフリーハンドで軍隊を運用することになる。

それを「シビリアンコントロール(文民統制)」だとでも言うんでしょうか?

こんなテキトーな論議で、
憲法なんか改正されたら、たまったもんじゃありません。



※追記

「環境権」とか「プライバシー権」とかいうのも、
当り障りなさそうには聞こえるけど、
「環境再生」という名目で、
新しい利権構造を狙ってる奴もいるし、
「プライバシー」とか「人権擁護」とかを掲げて、
権力側の保身のために情報統制をたくらんでる動きがあるのも事実。
だから、改憲のための単なるカムフラージュにもならないと思う。





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最終更新日  2005.04.21 16:56:26


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