まいかのあーだこーだ

まいかのあーだこーだ

2006.04.02
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テーマ: 風のハルカ(31)
カテゴリ: 風のハルカ
ここからは、『風のハルカ』を本格的に考察。



このドラマは、
わたしにとっては、あまりにも分かりにくい。

とても分かりにくい意図をもってるか、
あるいは何ひとつ意図なんてないのか。そのどっちか。

わたしは、ひとつの結論に達した。

まず、
このドラマは、
はじめから絶対に「ハッピーストーリー」でなきゃいけなかった。


なぜなら、
これはNHK朝ドラという「国民的な番組」だったから。
そして同時に、大森美香ちゃんにとって、
これは『不機嫌なジーン』のあとの作品だったから。

だから、
絶対にハッピーストーリーでなければならなかった。

それゆえに。

このドラマは、物語の内容それ自体が、
「ハッピーストーリーとは何か。」という問いへのアンサーになってる。



この物語、

じっさいには、いろいろと悲劇的な部分をはらんでました。

でも、
そういう悲劇的な要素をとことん遠ざけることで、
この『風のハルカ』というハッピーな物語は成立しています。

この物語のヒロインは、


たとえば、奈々枝の兄の死。

この少年との出会いが、
ヒロインにとっての「初恋」だったのかどうかは分かりません。
それは、まだ「恋」と意識することさえできないほど、
純心なころの出会いだったったのかもしれません。

でも、
ヒロインが彼との出会いの中で、
「好きって、ドキドキすることや」と確認しあったことは、
後のラブストーリーにとっても、重要な意味をもつべきです。

大人になった彼女の恋心が、
少女のままの純粋な気持ちのままなのか。
それとも、
もう少女のような気持ちのままじゃないのか。
そのことを確認する意味でも、
少女時代の、奈々枝の兄との出来事は重要だったはず。

にもかかわらず、
彼女は、大人になってどんな恋をしても、
いちども奈々枝の兄のことを思い出しません。

絶対に、奈々枝の兄のことを思い出さない。
奈々枝と再会しても、彼のことを物語の中心に呼び戻すことはありません。


このドラマのヒロインは、
悲劇的なものを絶対に物語のなかに取り込もうとしないのです。

どうしても、そういうキャラに見えてしまう。



奈々枝の兄だけでなく、
奈々枝自身も、悲劇的な要素を抱えている人物でした。

しかも、
奈々枝にとっての悲劇は、まだ過去のものではありませんでした。
奈々枝の背景には、いまも悲劇的な要素が潜んでた。

したがって、
ヒロインと奈々枝との再会は、
奈々枝の抱えている、そうした「悲劇的な要素」が、
ドラマの中心に持ち込まれてしまう危険性をはらんでいました。

でも、
ヒロインは、見事に、それをねじふせた。

奈々枝と再会しても、
それでヒロインの人生観が変わったりすることはありませんでした。
むしろ変化させられたのは、奈々枝の人生観のほうだった。

願いを裏切られても「龍のウロコ」を信じ続けたハルカに対して、
そんなことを信じようもないほど、辛く悲劇的な人生を歩んだ奈々枝。

でも、
二人の出会いによって、心の動揺を強いられたのは奈々枝だけ。
ハルカのポジティブな人生観は、まったく動じることもなかった。

このドラマのヒロインは、ものすごく頑丈だった。


ハルカと奈々枝の再会のエピソードには、
ドラマの中でも、それなりの時間が割かれていたけど、
奈々枝がハルカのポジティブな人生観に懐柔させられていくこの部分は、
シナリオ的にみても、あまり説得力があったとは思えません。

奈々枝というのは、
ハルカのそれまでの人生を、
まったく反対側から照らすことのできる唯一のキャラクター。
そう言ってもいい存在です。

そういう少女との再会であるにもかかわらず、
ハルカの側には、心の動揺があまりにも無さすぎたし、
ちょっと、頑丈すぎた。

その点は、脚本的に見て弱い部分だと思います。

いずれにしても、
このドラマのヒロインが、
奈々枝の悲劇的な影をはねのけることは、
最初の設定の段階から、すでに決まってたんだといえる。

このドラマは、ハッピーな物語だから。



そして、妹のアスカ。
彼女も、ドラマに悲劇的な要素をもちこむ危険性をかかえるキャラクターでした。

彼女は、
その胸にかかえた、故郷と家族への憎しみの思いを、
「小説」というかたちにして、世に解き放つ。

ですが、
それがドラマの中心で爆発することはありません。

アスカが家族の前でそれを爆発させようとしたとき、
ハルカは、
それを押し倒して、怒鳴りつけて、封じる。

もちろん、
それは家族として、
そして姉としての、強い愛情ゆえです。

彼女はそうやって、妹と、家族を守ろうとした。

この場面は、とても感動的だったし、
シナリオ的に見ても、申し分のない説得力があったと思う。

※全般的に、アスカを中心にして家族の別れや絆を描いたエピソードは、
 感動的で説得力のある場面になってることが多かった。
 やっぱり、いちばん歳の下の子供って、そうういうもんなのかな‥。

でも、そうやって、
アスカのもっていた悲劇性もやはり、
ドラマの主題から遠ざけられてしまったことには違いありません。

アスカの小説の中身は、
けっきょく、ドラマの中で明かされることはなく、
それは、ヒロインのポジティブなキャラクターの力によって、
ドラマの軸に入り込むことを封じられたと思う。

のちに、この小説は「映画化」されることになるけど、
この「見たいような、見たくないような」映画は、
結局、ドラマのなかで上映されることもありませんでした。

ヒロインをはじめとする登場人物はこの映画を見ようとしないし、
そもそも、映画が完成する前に、ドラマのほうが終わってしまいます。

ここでも、
アスカがもっている影の要素は、
ヒロインの(あるいはドラマの)明るさによって、封じ込められる。



もうひとり、
ヒロインの人生に悲劇的な要素をもちこんだ、
最大のキャラクターが存在します。

それは、予想外なことに、
なんと幼なじみの正巳でした。

じっさい彼は、ヒロインの人生を、
不幸のどん底まで落とし入れてしまいました。

ハッピーな物語であることを命題にするはずのドラマで、
彼は、犯してはならないタブーを犯してしまったと言えます。

したがって、その瞬間から、
正巳のキャラクターは、
視聴者からも、ヒロインからも、
許されることのないものになってしまいました。

たとえ幼なじみでも、
たとえドラマの冒頭から登場するキャラでも、
たとえ転校生だった少女時代のヒロインにとって、
唯一、無邪気な味方でいてくれた少年だったとしても、
ヒロイン自身を不幸にするなんてことは、絶対にやってはいけない。
だから、彼は絶対に許されることはありません。

視聴者からも。ヒロインからも。

そのときから、彼はドラマの中心から遠ざかってしまった。



このドラマは、
「ハッピー・ストーリー」がどうやって成立するか、
ということについての、ある種の自己言及的な物語になっています。

悲劇的な要素はそこらじゅうに存在するし、
場合によっては、ものすごく身近なところにもありうることだけど、
ハッピーな物語を作るためには、それを遠ざけなきゃいけない。

そういう命題を、このドラマは最初から背負っていました。






このドラマの、
一見、無内容にも見えるハッピーなスートリーは、
「ハッピーな物語はどうやって作られるか」ということについての、
この脚本家なりの考え方を示してるんだ、と思えてしまいます。



もちろん。

「このドラマのヒロインには、悲劇を幸福に変える力があったんだ」
と解釈することも、不可能なことではありません。

そういう見方もできる。
というより、その見方のほうが正しいんだと思う。

離婚によってバラバラになった家族を、
ヒロインがもういちど「幸福な家族」として再生させた、
そういう解釈をするほうが、むしろ正論なんだと思います。

あるいは、
奈々枝のような不幸な少女を、
ヒロインが湯布院に連れ戻して、その人生を幸福なほうに導いた、
そう考えるほうが、まともな解釈なんだろうと思う。



どちらかの解釈のしかたを選ぶかによって、
“ケータロー”という存在の意味づけかたも、変わってきます。



彼は、物語の外からやってきた孤高のカメラマン。
そんな寂しい人物を、ヒロインこそが「家族」の中に招き入れて、
彼の人生を幸福なほうに導いたんだとも言える。

逆に、
“悲劇を遠ざけるヒロイン”が、
ただ正巳を遠ざけて、ケータローのほうを選んだだけにも見えてしまう。

どちらの見方もできてしまうってところが、
猿丸啓太郎という人物の、
最後まで“謎めいたキャラ”である理由なのかもしれません。










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最終更新日  2008.12.21 12:45:17


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