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2024.03.31
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カテゴリ: 報徳
報徳日めくりカレンダー

19日 

欲にしたがいて家業にはげみ

欲を制して義務を思うべきなり


二宮翁夜話【3】尊徳先生はおっしゃった。人道はたとえば、水車のようなものだ。その形、半分は水流にしたがい、半分は水流に逆って回っている。まるごとに水中に入れば回ることができず流れてしまうであろう。また水を離れれば回る事はない。仏教の僧侶のように、世を離れ、欲を捨てたののは、たとえば水車が水を離れたようなものだ。また凡俗の者が教義も聞かず、義務もしらないで、私欲一偏に執着するのは、水車をまるごと水中に沈めたようなものだ。ともに社会の用をなさない。だから人道は中庸を尊ぶ。水車の中庸は、よろしいほどに水中に入って、半分は水にしたがい、半分は流水に逆昇って、運転が滞らないところにある。人の道もそのようで、天理にしたがって種を蒔き、天理に逆って、草を取り、欲にしたがって家業を励み、欲を制して義務を思うべきである。


「報徳記を読む会」読了記念に8月2日(日)に「今市見学会」を実施した。
 今市の報徳二宮神社の宝物館をいまいち一円会のお2人の先生に案内いただいた。宝物館の2階に鈴木藤三郎氏が、寄贈した報徳全書2,500冊が蔵されている。鈴木藤三郎が二宮尊親の了解を得て、二宮家に伝わる日記・書簡・仕法書等を20人の書生を雇い、3年の歳月をかけて、筆写させたものという。
 そしてそれを納める防火蔵まで寄贈した。その話に深く感銘を受けてこの鈴木藤三郎氏を顕彰したいと思った。そこで、藤三郎氏の子息五郎氏が著した「黎明日本の一開拓者」を中心に「斯民(しみん)」に掲載された鈴木藤三郎氏本人の講演録などの関係資料をまとめたのが「報徳社徒 鈴木藤三郎という人」である。60部印刷し、「今市見学会」でお世話になった3先生ほかご縁のあった方々に送付した。また、現在鈴木藤三郎氏の故郷森町にも送付した。

 鈴木藤三郎が報徳に出会ったのは、22歳のときであった。生家に年賀の挨拶に行った時 、「天命十か条」(天命十訓) を見つけて、兄に「二宮(にぐう) とは何か?」と聞くと「にぐう ではない。にのみや だ。」という会話をしたとある。

この近辺を年表でみると次のようになる。

1846 弘化3年 この年、安居院庄七、遠州に入り、長上郡下石田村に報徳を伝える。
1852 嘉永5年 2月 安居院庄七、森町村に来村、新村里助家に滞在中発病。
        閏2月 森町報徳社結成。
1853 嘉永6年 9月14日 新村里助、中村常蔵ら遠州報徳連中代表7人、安居院庄七とともに日光桜秀坊にて二宮尊徳と面会する。
1867 慶応3年 この年 小田原報徳社員福山滝助、森町村に来村、新村里助家に逗留。

1871 明治4年 この年 遠譲社設立。新村里助「重世話人」となる。
1875 明治8年 1月 鈴木藤三郎、生家で「天命十箇条」を読み感銘を受ける。

鈴木藤三郎、生家で「天命十箇条」を読む8年ほど前に、福山滝助が森町の新村里助の家に逗留し、森町報徳社を再興している。
福山滝助は、参会のとき、冒頭で二宮尊徳が御殿場の藤曲村を復興する際、与えた仕法書に記された「天命10箇条」もしくは宮原家にあてた書簡を法書として読むのが常であった。
1871 明治4年には遠譲社設立され、新村里助は「重世話人」となる。
つまり、遠譲社として一番精力的に報徳思想を普及していた。おそらくは鈴木藤三郎の兄かなにかがそうした参会の場で「天命十箇条」をもらい、家にもって帰り置いたのを藤三郎がみつけたということになるのであろうか。


「福山先生一代記」

20 先生各社巡回の事
 ここに掲ぐるは明治14,5年頃の有様である。
先生は各社を巡回して日より日に及ぶ朝は先ず夙(つと)に起きて神前に向かい、その日参会の定日に当れる各社の人名簿を朗読し、その平安を祈りたまう。(この故に各社員の姓名は先生大抵暗記したまいき。)かくて甲社より乙社に至りたまうその服装は脚絆をつけワラジをはき菅笠をかぶりヤタテを腰にし、大なる「風呂敷」に種々の書類を入れ、幾個かの「竹こり」を包めるを背負い、杖を携えたまう。その様、越中富山の薬売りに似たり。されば始めて先生にまみゆるものは皆その風采の質素なるに驚かざるはなかりき。(ある人かつて先生の迎えに出て道に先生と逢うて心付かずして行き過ぐ。既にして人の注意を受け、始めて先生なるを知る。かくのごとき事往々ありき)
先生道を行くに路傍に農業を為すものあれば必ずご苦労と云いて挨拶し、路上に木石あれば必ず杖を以て傍らによせて過ぎたまう。かくて参会の家に至りたまうに、社員いまだ集まらざれば携え来たりし「竹こり」より筆硯を出し各社の帳簿の雛形又は加入金元恕金の相撲番付を作りたまう。(先生はこの相撲番付を以て社員奨励の具となしたまいけり。)
社員すでに集まれば、先生正面に坐して机に向かい、まず法書を朗読し終わりて講話をなす。法書は多く藤曲、宮原の二書(共に二宮先生の御趣法書なり。)を用ゆ。 講終わりて後は社員と雑話をなし、間々声をあげて笑いたまう。社員もし問うものあれば、諄々として説き、問うものあらざれば語りたまわず。社員もし余談に移り喃喃(口数多くしゃべり続ける)としてかまびしければ知らざるもののごとく座にありて眠りたまう。往々熟睡したまう事あり。されど別席につきて横臥したまうがごとき事はあらざりき。
先生人に接するに貧富によりて待遇を異にしたまう事なく、その宿するに貧富を選みたまう事なし。会散じて後留まりて教えを乞うものあれば、これと語りたまう。この時留まるものの多くは社長副社長又はこの道に熱心なるものにしてその問いまいらする事は仕法の組立帳面の認め方又は家政の取直し子弟厄介の処分等なりとす。先生皆辞せずして教えたまう。中にも帳面の認め方は先生のもっとも重んじたまう所なりき。(ある社の社長先生に帳面の認め方を問う。先生外々の参会は余人にても事足るべし。帳面の相談とあれば、我ら自ら行かざるべからずとて、即日連れ立ちて行きたまいき。)
先生社員の家にあり食を進むれば直ちに食し、浴を進むれば直ちに浴しゆとめて煩いをかけざるようにしたまう。また飲食ともに極めて粗食なるを甘んじたまい、菜は一菜の外食せず、酒はわざとばかり召していかにすすむとも過したまわず。煙草は好みて喫したまう。
先生身の丈高く骨格たくましくおわせしが、この頃は背少しくかがみ歯みな脱して総入れ歯をなしたまいき。

21 本社春秋2期大会の事
 遠譲本社春秋2期の参会は先生の最も心を用いたまいし所なれば少しくその事を述ぶべし。
本社秋期の参会は貸付の会なり。すなわちその年新たに創立したる社に善種金を貸与え、また旧来の社にて返金を終わりたるには順次貸付を行うなり。報徳の仕法は貸付をなし、その返済を終わる頃にはまた貸付をなし、かくして間断なからしむるにあり。されば絶えず注意してあらかじめ数年後の案を立つる事を要す。本社社長副社長ありといえども皆指揮を先生に待つものなれば、大会前数日間は先生いと忙し。されど先生すべてこれをなしたまいき。
本社春期の参会は帳面納めの会なり。すなわち各社前年度において行われたる成績を本社に報告するものなり。各社の帳簿は先生又は隣社の先輩の指揮を受けて製するものなれども、往々誤謬なきこと能わず。先生本社の社長副社長を指揮して帳簿を検せしめ、もし当日し能わざるものあれば他日を期して訂正せしむ。されば参会後数日間は先生また繁忙なりき。
この時本社もまた1年の成績を明らかにするため、帳簿を製する事、各社と同じ。ただその帳簿は3部を作り、1部を本社に備え、1部は小田原社に、1部は中村なる二代先生のもとに納む。

22 先生春秋2期帰省の事
 先生この2期の会を終わりたまう時は小田原に帰省したまう事年々一定したる例にてありき。かくてまた4,5年ごとに1回小田原社と遠譲社との帳面を携えて岩城国中村なる二代先生及び三代先生のもとに至り、富田高慶その他二宮先生に親炙したる人々に逢うて、この道の物語をなしたまうをもってこの上なき楽しみとなしたまいたりき。(二代先生は明治4年(1871)12月1日率し給う。)

23 先生病を得て帰国し給う事
 明治19年(1886)6月先生、遠江引佐郡祝田村星野孫蔵方にてはからず病を得たまいける。時に年70にておはしき。これより先、先生時々脱腸といえるものを患いけれども、いつも久しからずして癒えたまいけるが、このたびその病発して容易に癒えたまわず。歩行したまう事いと困難におはせしかば、これより各社を巡回する事をやめたまい、ここに3日かしこに5日滞在して病を養いたまいしが、秋に至りても癒えたまわず、よって帰省を見合わせたまい、かくてその翌年明治20年(1887)には1年全く遠江にありて病を養いたまいければ、帰思しきりに催したまいければ、明治21年(1888)6月小田原に帰りたまい熱海箱根の間に遊び、温泉に浴し給いければ効験著しくて幾ばくもなく平癒したまいける。かくて先生小田原にある事ほとんど1年に及びけるが、身は小田原にありても心は常に遠三の間にあり、つらつら思い給うに遠三の仕法今のままにては将来の維持極めて難し。中にも遠江は社数多くして地域広ければ到底一本社のよく総覧し得るべきにあらず。よろしく適当の法を設くべし。今幸いに病少しく間あれば、速やかにかの地に至り最終の処理をなすべきなりと、ここにおいて明治22年(1889)5月再び遠江に赴きたまいける。(先生病後各社の巡回をやめ給いしかば、小田原社員小林菊太郎氏大いにこれを嘆かれ、遠路来たりて遠三のために久しく各社の巡回を勤めたる事ありしが実に感謝すべき事なりける。)





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最終更新日  2024.03.31 10:07:31


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