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2024.11.27
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カテゴリ: イマジン
奈良・飛鳥宮跡で最大の建物跡が出土 天武天皇に関わる私的な施設か




飛鳥時代の歴代天皇の宮殿が重なる奈良県明日香村の飛鳥宮跡(国史跡)で、宮内最大の大型建物跡が確認された。奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)が27日発表した ​。天武天皇(在位673~686年)が即位した飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)の時期の建物とみられ、規模や建築構造の特徴から、天皇や皇后の私的な施設だった可能性が指摘されている。

見つかったのは、1辺1・5~1・7メートル、深さ1・5~2メートルの掘っ立て柱の抜き取り穴14個。隣接地で同規模の柱穴12個が見つかった2009年度の調査結果とあわせ、東西約35・4メートル、南北約15メートルの四方にひさしを持つ大型建物跡と確定した。

 宮跡の中枢部「内郭(ないかく)」にある天皇の住居とされる正殿(東西約24メートル、南北約12メートル)や、天皇が政務や儀式を執り行う大極殿(だいごくでん)との説が強い「エビノコ大殿」(東西約29・2メートル、南北約15・3メートル)よりも大きいが、現地は内郭の外側(北西約40メートル)にあたり、国内初の本格的な宮廷庭園跡「飛鳥京跡苑池(えんち)」(国史跡、名勝)と隣接する。

 構造に特徴があり、母屋の東西の柱と柱の間隔は約3メートルだが、両端だけ約4・2メートルとやや広い。平城宮内裏や、天武天皇の孫にあたる長屋王の邸宅などでしか確認されていないという。

専門家からは、皇后の住まいや、天皇の特別な行事に使われた施設などとの見方も出る。飛鳥時代の歴史に詳しい猪熊兼勝・京都橘大名誉教授(考古学)は「 規模と格式から言えば、天皇の住まいでもおかしくない。飛鳥宮の構造に見直しを迫り、のちの藤原宮、平城宮、平安宮につながる長い歴史の中で考えるべき重要な発見だ 」と話す。

天武・持統天皇時代の飛鳥宮(飛鳥浄御原宮)模型。左中央の塀で囲まれた部分が内郭。右手前の建物が大極殿。2002年作製のため、今回の大型建物は表現されていない=明日香村奥山の奈良文化財研究所飛鳥資料館で2024年11月21日午後16時5分、皆木成実撮影
天武、持統両天皇の住まいか 飛鳥宮「塀の外」で最大建物跡確認

奈良県明日香村の飛鳥宮跡北側の7世紀後半の遺構が、東西35・4メートル、南北15メートルと宮最大の建物跡であることが確認された。27日発表した県立橿原考古学研究所(橿考研)は「天武、持統両天皇の住まい『内裏(だいり)』と考えられる」とするが、宮殿中枢「内郭」外側に位置しており、なぜ塀の外に重要建物があるのか謎は深まっている。

南向きに建てられている構造や規模を考えても、内裏の可能性が高い という。

 飛鳥宮の内郭外には南東側にも「エビノコ郭」と呼ばれる区画がある。中央の建物跡は東西29・2メートル、南北15・3メートルと今回の建物に次ぐ規模で、国家儀礼の場「大極殿」とみられている。飛鳥宮内郭には天皇の御殿「内安殿(うちのあんどの)」、臣下が控える「外安殿(とのあんどの)」、酒宴の場「大安殿(おおあんどの)」とみられる建物跡があるが、いずれも今回の大型建物より規模は小さい。

 藤原宮以降は内裏や大極殿は内郭内の中央部に配置された。また宮のモデルとなった古代中国の都城は異民族の侵入に備え、高い城壁で中枢部を守る厳重な構造だった。鶴見泰寿・名古屋大教授(考古学)は「藤原京遷都を控えた仮の内裏だったため、内郭の外の空いた場所に建てたと考えられる。今後の調査による解明が期待される」と話している。





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最終更新日  2024.11.27 18:40:22


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