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2025.01.31
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カテゴリ: べらぼー
蔦屋重三郎が礒田湖龍斎から預かった美人画の下絵をダメにしたとき、それを拾い子・唐丸が、湖龍斎本人も別物とは気づかないほど、見事に描き写してみせたことだ。原画そのままだと絶対本人にバレるだろうけど、錦絵の場合は版木にするというワンクッションが入るから、ちょっとぐらい変わってもわからないというのが幸いしたけど・・・それでも唐丸のコピーの才能が、とんでもないレベルであることは間違いない。

この展開を見た瞬間、浮世絵の知識がある視聴者から一斉に「あれは誰の幼少時代だ?!」というコメントがあふれかえった。当時の有名な浮世絵師は、出自がはっきりしない人が多いので、誰に該当してもおかしくはないのだけど、 一番有力なのは蔦重が世に送り出した最強の絵師・東洲斎写楽 だろう。

💛美人絵を得意とする歌麿かもしれない。

喜多川 歌麿(きたがわ うたまろ、1753年(宝暦3年) - 1806年10月31日(文化3年9月20日)は、江戸時代の日本で活躍した浮世絵師。

来歴
姓は北川、後に喜多川。幼名は市太郎、のちに勇助(または勇記)と改める。名は信美。初めの号は豊章といい、天明初年頃から歌麻呂、哥麿と号す。生前は「うたまる」と呼ばれていたが、直接本人を知るものが居なくなった19世紀過ぎから「うたまろ」と呼ばれるようになったようだ。なお、天明2年(1782年)刊行の歳旦帖『松の旦』に「鳥山豊章」「鳥豊章」の落款例があり、一部の美人画にも「歌麿源豊章」の落款と「鳥山」の落款印があることから、歌麿を師である鳥山石燕の子であるとする説もあり、それによると青年期の歌麿が放蕩生活の末、 蔦屋重三郎の食客となったことが縁で、蔦屋の本姓の喜多川姓を名乗るようになったのだという 。俳諧では石要、木燕、燕岱斎狂歌名は筆綾丸ふでのあやまる、紫屋と号して、蔦屋重三郎とともに吉原連に属した。

生年、出生地、出身地などは不明 。生年に関しては、没年(数え54歳)からの逆算で1753年(宝暦3年)とされることが多い。出身に関しては、川越説と江戸市中(『浮世絵類考』)の2説が有力だが、他にも京、大坂、近江国、下野国などの説もある。






1790 - 91年(寛政2 - 3年)から描き始めた「婦女人相十品」「婦人相学十躰」といった「美人大首絵」で人気を博した。「青楼仁和嘉女芸者部」のような、全身像で精緻な大判のシリーズもあったが、「当時全盛美人揃」「娘日時計」「歌撰恋之部」「北国五色墨」など大首美人画の優作を刊行した。一方、最も卑近で官能的な写実性をも描き出そうとした。「北国五色墨」の「川岸」「てっぽう」や「教訓親の目鑑(めがね)」の「ばくれん」、あるいは秘画に見られる肉感は、決して美しさだけではなく、生々しさや、汚濁もある実存世界へと歌麿の眼が届いていることも知らされる。蔦重との連携の下「無線摺」「朱線」「ごますき」といった彫摺法を用いて、肌や衣裳の質感や量感を工夫した。やがて「正銘歌麿」という落款をするほどまでに、美人画の歌麿時代を現出した。また、絵本や肉筆浮世絵の例も数多くみられる。

💛写楽は実は、平賀源内かもしれない。
平賀源内が書き溜めていた歌舞伎の人物の戯画を、歌麿が浮世絵になぞったのかも?
そこで「唐丸が、湖龍斎本人も別物とは気づかないほど、見事に描き写してみせた」伏線が生きてくるのではなかろうか(^^)

・写楽の画法に遠近法を見た、日本で遠近法を用いて絵を描いた平賀源内と写楽を結びつけた





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最終更新日  2025.01.31 19:19:18
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