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2025.02.01
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カテゴリ: 報徳記を読む
報徳記を読む 報徳記 【3】物井村岸右衛門を導き善に歸せしむ その2



岸右衛門は始め二宮尊徳先生の仕法に悉く反対し、妨害してきた。
先生は反対者妨害者をあえて排除しようとはされず、ほおっておかれた。
年数がたつにつれ、尊徳先生の三村復興の仕法の実績はあがり、仕法の正しさが歴然となってきた。
岸右衛門は、これ以上反対すると終には罰せられだろうと怖れて、人を介して今後は先生の指導に随いますと言わせた。
先生はその改心を喜ばれ、陣屋に呼んで人道の大義、仕法のあらましを説かれた。
岸右衛門は、先生の道の偉大なることを知って感激し、これより先生の指揮のもと荒地開発に率先して励んだ。
ところが、村民は日ごろの岸右衛門の言動から改心したということを信用しなかった。岸右衛門は憤った。
先生はこう諭されたのであった。

「おまえが前非を悔いて尽力しているからと言って、村民がどうしておまえの本心がわかろう。
人が難しいとするところは私欲を去ることである。
おまえが私欲を去らなければ人は信用しないであろう。」

「私欲を去るには何を先にすればよいのでしょう」と岸右衛門は先生に聞いた。


 また、田んぼをことごとく売り払って差し出せ。
 私欲を去り、私財を譲り、村民のために力を尽くせば、人の善行として、これより大きいものはない。
 人の道として、己を棄てて人を恵むより尊いものはない。
 しかし、おまえの旧来の所業は、ただ自分を利せんとするほか余念がなかった。己を利して他を顧みないのは禽獣の道である。
 人と生まれて一生鳥獣と行いを同じくすることは悲しいことではないか。
 今、私の言葉に従い、禽獣の行いを去り、人道の至善を行う時は、諸民もその行いに感じて、お前を信用するに疑いない。」

 岸右衛門は、決心がつかなかった。

☆ 嘉永五年、二宮尊徳先生が箱根塔ノ沢の温泉に入浴された折、大澤精一が先生と一緒に入浴したことがあった。
二宮先生は湯桁に腰掛けて大澤精一にこう諭された。
「分度を守って、よく譲るならば、一郷、富み栄えて、和順とすることは疑いない。
 古語に『一家仁なれば、一国仁に興る』という。
仁というのは、人道の極である。
 これをたとえて言えば、この湯船の湯のようなものだ。
 これを手で我が方にかけば、お湯は我が方に来るようであるけれども、皆向こうのほうへ流れて帰る。
 これを向こうの方に押す時には、お湯は向こうの方に行くようであるけれども、また我が方に流れ帰る。
少し押せば少し帰り、強く押せば強く帰る。
これが天理である。
仁といい、義というのも、向こうへ押す時の名である。
我が方へかくときは、不仁となり、不義となる。
慎まなければならない。」

「それ人体の組み立てを見てみよ。
人の手は、自分のほうに向いて、自分のために便利にできているが、また向こうの方へも向き、向こうへ押すようにもできている。これが人道の元である。
鳥や獣の手は、これに反して、ただ自分の方へ向いて、自分に便利なだけである。
そうであれば、人たるものは、他のために押すのが道である。
それなのに、わが身の方に手を向け、わがために取ることのみを勤めて、他のために押すことを忘れるのは、人ではない。けだものである。
ただ恥ずかしいだけではなく、天理に違うがゆえに終いには滅亡するのだ。それ故に、私は常に奪うに益なく、譲るに益あり。譲るに益あり、奪うに益なし。これが天理である
と教えるのである。」(二宮翁夜話三十八)

☆「二宮尊徳傳」(佐々井信太郎)にこう言う。
「尊徳先生が32歳で、大久保候から酒匂川の河原で表彰を受けた時、
『その身はもちろん、村の為にもなり』
とあったことで、一身を立て一家を興すことが村の為になると気付いた。
以来、自家の利益を眼目とした生活を転じて、人の為にも村の為にもなるように振り替えたのである。
この自他振替こそが、利権争奪の私益の世界から、報徳推譲の公益の世界へ昇華する第一段階であった。
 先生の自他振替はますます顕著となり、桜町に移住するときには、一家を廃して『身代限り』の資産を持ち来たって仕法の資金とし、俸禄そのほか一切の収入を譲って三村の仕法に投じられた。すなわち全推譲である。
 しかし、領内での仕法反対者の結託した妨害に悩まされた。
一たび成田山3週間の参籠により、全村民が先生の指導に随うようになったが、それはまだ先生の指導原理による教化が普及しきったわけではなかった。報徳の指導原理による推譲生活を現実に村民の前に展開するには、なお数年の歳月を要した。」

尊徳先生が岸右衛門に教えられたのは、この自他振替、一家を廃し万家を興すという自分が実践してきたことを勧められたのだ。
しかし岸右衛門が当初逡巡し、家族の反対で揺らいだのも無理はない。
岸右衛門のケースは多くのことを考えさせてくれる。




【3】物井村岸右衛門を導き善に歸せしむ

然りと雖も邑(いふ)民其の人と爲りを賤みて其の言を用ゐず、
岸右衛門甚(はなはだ)之を憤悶せり。

先生岸右衛門に諭(さと)して曰く、
汝前非を改め上下の爲に盡力するといへども、諸民何ぞ其の本心の有る所を知らんや。
夫れ人の難(かた)んずる所は私欲を去るにあり。
汝私欲を去らずんば、人之を信ぜず。


岸右衛門曰く、
教に隨ひ、欲を捨(すつ)ること何をか先んぜん。

曰く、
汝の貯(たくはへ)置きし金銀器財を出し、窮民救助の用となせ、
又田圃悉く之を鬻(ひさ)ぎ、代金となし之をも出すべし。
私欲を去り、私財を譲り、邑(いふ)民の爲に力を盡(つく)すこと人事(じんじ)の善行豈(あに)是より大なるものあらん。
人の人たる道、己を棄てゝ人を惠むより尊きものはあらず。
然るに汝、舊來(きうらい)の所行、只(たゞ)我を利せんとするの外他念なし。
己れを利せんとして他を顧みざるは禽獣の道なり。
夫れ人と生れて一生鳥獣と行を等しくすること、豈(あに)悲むべきの至(いたり)に非ずや。
今、我が言に隨ひ、禽獣の行(おこなひ)を去り、人道の至善を行ふ時は、汝の心、私欲の汚れを去りて清淨に歸し、諸民も亦これを見て其の行(おこなひ)に感じ、汝を信ぜんこと何の疑ひあらん
 と教ふ。

岸右衛門憂喜(ゆうき)交々(こもごも)至り決することあたはず、
一は此の善道を踏んことを欲し、一は一家の癈せんことを憂ふるが故なり。





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最終更新日  2025.02.01 00:00:23


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