PR
カレンダー
カテゴリ
コメント新着
キーワードサーチ
「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著
1~2頁
発明王の面影
鈴木藤三郎は、発明王として、大事業家として、中央に雄飛した存在で、地方的関係は少なかったが、それでも郷党の間では憧憬の的で、ほとんど神様くらいに思っていた。実際普通の人間業であれだけの発明をしたり、あれだけ先覚者的事業をなしとげられるものではない。政治家や世間並の実業家とちがって、ほんとに根底から、第一歩から、自己の創意を生かしていった大事業家であった。鈴木の発明や事業については本書に詳しいから贅言しないが、彼こそは明治が生んだ最大傑物の一人であった。
彼の最後の発明、事業となった日本醤油会社の、早造り醤油なども、現在では皆それを実行している。時代が早過ぎたために、反って神秘化されて、それが彼の失脚の因となったとは皮肉である。その成功を恐れる一派の卑劣な陥穽があったという説もあるが、ここでは言わない。
この偉人の伝記が今度嫡子五郎氏によって、正確に、客観的に書かれたことは、故人を追慕するばかりではない。これによって感激奮起する人が必ず少なくないことを確信する。
昭和31年10月 村松梢風
3~5頁
序
日清戦争後、台湾の糖業適地に着眼し、蔗作原料から製白糖への一貫作業の実現を期すべく、台湾製糖株式会社を設立して初代社長となり、台湾における糖業開発に先鞭をつけた。我が国糖業の規模と体容は、ここに一歩前進を遂げ、将来の発展の礎石を築いたものと言える。
しかし、糖業経営のみならず、また食料工業技術の発明にも、大いに力を傾注している。製糖技術は申すに及ばず、機械製塩法、促成醤油醸造法、熱風乾燥器、燃焼器、煮炊器等、晩年の約10年間に159件の発明を完成した。これらに関連する製塩業、醤油醸造業、水産加工業は、複雑な原因のために大成しなかったとしても、事業家としてあるいは発明家として、いわゆる報徳精神をもって生涯を貫いた気迫と努力には、何人も敬意を表さねばなるまい。
戦後日本の製糖事業は、台湾の基地を失い、ほとんど外国よりの輸入原糖に依存し、これに精製加工を施す程度の規模に縮小している。したがって今や、自らの手に原料を確保することによって、斯業(しぎょう)の安定と発展を図ることが、緊急の課題となりつつある。あたかも鈴木藤三郎氏が日本に精製糖業を興し、しかして台湾糖業に進出せんとした明治30年前後の様相に、髣髴(ほうふつ)たるものがある。
日本糖業の進路はどうあるべきか、ないしは、広く経営者や事業家や発明家の心構えの在り方について、本書「鈴木藤三郎伝」は、貴重な示唆を与えるものと信じ、敢えて推奨するものである。
昭和31年9月12日 藤山愛一郎
大正7年(1918)慶応義塾大学法学部を病気のため中退。
大日本製糖(株)社長を25年務めた父・雷太の後を継いで昭和9年(1934)に社長に就任した。
(38歳の若さでした。就任当時、昭和2年(1929)の世界恐慌をきっかけに暴落した砂糖相場が関税引き上げなどから回復。会社経営も安定し始めた頃で、製糖業界の好況とともに戦前の黄金時代を築いた。
昭和16年(1941)、44歳で東京商工会議所会頭、日本商工会議所会頭に就任。
戦後、公職追放となりましたが昭和25年(1950)に追放解除となり財界復帰。
製糖事業を再開したばかりの大日本製糖(株)再建に力を注ぐとともに日本航空会長、日本テレビ取締役などに就任した。
昭和26年(1951)のユネスコ総会の日本代表を務め、昭和32年(1957)には岸首相の要請で民間人として外務大臣に就任。これを機に大日本製糖(株)社長をはじめ財界の要職を後進に譲り政界の道を進んだ。
翌年、衆議院議員に当選。第2次岸内閣の外務大臣、池田内閣の経済企画庁長官、自民党総務会長を歴任。昭和50年(1975)78歳の時、政界を引退。特に日中国交回復に尽力した政治家として名を残した。
昭和60年(1985)死去、88歳。
補註 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 その… 2025.10.14
補註 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 その… 2025.10.13
補註 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 その… 2025.10.11