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2025.10.14
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カテゴリ: 鈴木藤三郎
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 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 189~191ページ

 台湾製糖株式会社設立の根本計画についての井上の注意は、微に入り細をきわめていた。なお驚かされることは、この注意が、続いて将来の工場の建築材料から砂糖積出し港の築港にまで及んでいることである。

「なお、工場その他の建築材料などについても、台湾で求めるのはすこぶる困難なので、これを内地から輸送するとして 打狗 タークー (高雄)港まで積み送らなければならない。しかし、同港は波風が荒いために陸揚げができないで、無益に引返すというような場合がしばしばあるので、運賃に非常な巨額を要する。私は、もっともこのことを心配しておったが、鈴木氏の説によれば、曽文渓の上流に、およそ5,000町歩ばかりの官林があるとのことである。それで、当局から、できることなれば5,000町歩のうち1,000町歩でも払下げを受けて、輪伐法によって植林をして、永遠に建築材料に使用したら利益であろうと想像した。

そこで、後藤長官に会ったときに、この話をしたところ、同氏のいわれるには、あの地の山林伐採は、まだだれも試みたものがないから、当会社に払下げるとしても、後の利益について一応の研究を要するであろう。ちょうど、鉄道施設の設計に際して、右の木材を使用して見ようと思って取調べ中であるから、その結果、当社で必要とあれば、木材を払下げてもよし、あるいは、このうちの1,000町歩を払下げることもさしつかえなかろうとのことであった。

また聞くところによると、台湾鉄道もすでに 打狗 タークー 港に達したそうであるから、政府の援助を得て同港の築港をすることが、もっとも緊要であろうと思う。この点について後藤民政長官に話したところ、すでに設計中であるとのことであるが、台南地方の開発の第一着手として、一日も早く、この築港を成就されるよう希望するものである。

このように話すのも、ただ国家経済のために、この事業の成功するように願うからである。これらの先見の明がないと、あとになっていろいろ無益の失費を要して、その時になって悔いても及ばないことであるから、目前の小利に走って、未来の基礎を強固にするのを誤まらないように、今自ら永遠の利益を図って確実な営利を期待されんことを、ひたすら希望に堪えない。私は、前に申したように、当社には徳義上の関係があるので、この席で一言、諸君に御注意を申し上げた次第であります。」(台湾製糖株式会社・特別株主協議会議事録)
 話し終わって井上は席に帰った。一同は、熱狂的な拍手で、これに答えた。
 近くロシアとの開戦を覚悟していた井上は、大蔵大臣としての最近の体験からも、当時、わが国の輸入超過の激増によって正貨が海外に流出して、万一に備える資力が薄弱になることを心の底から憂えていた。その唯一の救済策として、わが国の産業の発達に、彼の全精力を集中していた。その中でも新領土の新興事業としての台湾製糖会社に、彼が、どんな大きな期待をかけていたか、この演説でも十分に知ることができる。

※  「台湾製糖株式会社史」74-76頁

三 井上馨伯と当社創立計画

 当時三井物産合名会社専務理事の要職にあった益田孝氏は、製糖会社設立の新計画に就て、常に井上馨伯に報告相談していた。伯は、夙(つと)に台湾糖業に着目し、曩(さき)に明治31年、児玉総督台湾赴任の際、特にその振興を説かれた程で、謂はば斯業(しぎょう)の発案者であるから、この計画には勿論大いに賛意を表され、

「新規ノ製糖事業ヲ今日ノ台湾ニ創始シヨウトスルガ如キハ、全ク国家的ノ事業ニ属スル。普通一期半期ノ配当ヲ顧慮スル一般的株主ノ烏合ニテハ、事ヲ成ス所以デハナイ、宜シク予ガ三井家並ビニ毛利家ヲ説キ、此処ニ資本ノ中堅ヲ定メテ、三期、五期ノ損耗無配当ヲ予メ覚悟シテ当ラセヨウ」と、大いに激励すると同時に、自ら斡旋の労を取られた。資本金は明治33年5月には50万円と決定されていたが、後、 井上伯は鈴木藤三郎氏を招致して、同氏の資本金増額の発案を委細聴取された結果、ここに百万円を以て台湾製糖株式会社創立の計画は決定した。 かくて発起人としては益田孝、鈴木藤三郎、田島信夫、上田安三郎、ロベルト ウォルカー アルウィン、武智直道、長尾三十郎の諸氏が立ち、愈々創立発起人会の開催となったのである。

 井上伯は、かくの如く当社創立の産婆役として、更に創立後に於ても事業の基礎を確立するため会社自ら耕地を所有することの必要を説かれ、また金融関係について力を致され種々懇切に斡旋される等、この後援はまことに容易ならぬものであった。武智現社長は、当社創立35周年を迎へた際、老侯の尽力、後援を偲びつつ

 「井上老侯ハ当社ノ創立ニ非常ニ尽力サレマシタ、一製糖会社ノ為トシテデハナク全然国家的見地ニ立タレテ、亡クナラレルマデ一方ナラズ尽力サレマシタ、ソシテ、ドウモ日本ノ会社ハ繁昌スルカト思フト直グツブレテ困ル、台湾製糖ハドウカ株式会社ノ模範トナル様ニ仕度イモノダトノオ話ガ御座イマシタ。至極尤モナ事デ、コノ仕事ハ国家産業ノ為ニヤラウトイフ事ニナッタノデアリマス。又ソノ方針デ今日迄進ンデ来タノデアリマス。」

と述べている。当社今日の隆盛は、会社当事者一同の不断の奮闘に因ることもさることながら、同時に井上侯の後援指導に負ふところまた極めて大なることを銘記せねばならぬ。

※  「植民地企業経営史論」久保文克著より

台湾製糖経営陣の誕生

 久保氏は台湾製糖の創立について、「内山田の井上馨邸に集った台湾総督府側の 児玉源太郎 総督と 山田煕 、三井物産会社側の 益田孝 ロベルト・ウオルカー・アルウィン 、それに 井上 を含めた 5人こそが台湾製糖創立の青写真を作成した 人々であり、この内山田の会合が『台湾新糖業誕生会』と後に称される」と記されている。(59頁)

 「同会合に出席した5人の中に日本糖業史上あまり注目されていなかった2人の人物が含まれている。井上馨、益田孝、児玉源太郎とともに列席した山田煕とロベルト・ウオルカー・アルウィンである。」

山田煕 は、台湾総督府の技師で、初代社長鈴木藤三郎の現地調査に先立って行った調査にもとづき、台湾製糖設立の目論見書を作成した人物として知られている。現地調査にもとづいて社有地主義を掲げた鈴木に対して、山田はあくまでも甘蔗作農からの買い上げによって原料を調達すべきであるとの考えを示し、 台湾製糖第一工場の建設地をめぐって鈴木社長との間に大きな意見の食い違いを生ずるに至った 。」

「実はこの台湾総督府技師である山田こそが、台湾における新式製糖工場建設の可能性と重要性を児玉総督に説いた人物にほかならなかったのである。」(60頁)

「そもそも内山田の会合とは、資本家遊説のため山田技師を伴って上京した児玉総督が三井家を説得するために井上のところに赴いた結果実現したもので、三井物産関係者である益田とアルウインが同席していたことからもこうした事情はうかがい知ることができよう。当時三井家における家政改革を引き受け、最優先課題として『三井家憲』の制定を推進しつつあった井上は、1900年7月の『三井家憲』の施行とともに『三井家憲施行法』によって三井家の修身顧問に就任し、三井家同族に対する監督権をはじめとした重要な職務・権限を与えられることになる。」

※三井家憲施行法第12条 始メテ三井家憲ヲ施行スルニ際シ、其実行奨励スル為メ、特に伯爵井上馨殿ヲ以テ其終身間三井家顧問トス

「台湾製糖創立の決意を固めた井上は、三井物産の専務理事の職にあった益田孝に台湾総督府との具体的交渉に入るよう指示する。」(62頁)

久保氏は井上馨と益田孝を引き合わせた人物こそが、ロベルト・ウオルカー・アルウィンであるとされる。

「ロベルト・ウオルカー・アルウィンは1866年に来日したアメリカ人で、横浜にあった米国貿易会社ウオルシホールに勤めていた。時を同じくして横浜において商人を志し、ウオルシホールにも出入りしていた益田とは、まさにこの貿易会社において懇意の間柄となったのである。 アルウィン は商売の関係上、 当時大蔵大輔の職にあった井上のもとをしばしば訪ねており 、その際同伴することを常としていた 益田が井上の目にとまるに至り 、一足飛びに紙幣権頭に登用されることになった。また、野に下った井上は三井物産会社の前身をなす先収会社を創立して自ら社長となるや、益田を副社長に抜擢した。そしてここに、三井物産会社の初代社長として益田は迎えられ、再び入閣した井上の分身として三井家に残るに至った。一方 アルウィン 自身も、三井物産会社顧問として迎えられ、後の 台湾製糖の創立に発起人の一人として参画し、同社相談役として重要な役割を担う に至った。」






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最終更新日  2025.10.14 08:20:05


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