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〇上方落語の七度狐、特に米朝師匠の語りは忘れ得ませんが、江戸後期、島津藩士の毛利正直の書いた『大石兵六夢物語』に出て来る狐も悪さが酷い。鹿児島の山野に出没する性悪の狐を退治する役目を負った兵六と真っ向対立する狐との戦闘ぶりを綴っています。自慢の太刀を腰に唐芋まじりの握り飯を袈裟がけに背負った兵六の前に、鏡に朱を注いだような二つ目の、耳まで裂けた口、針金を刺したような髪の茨木童子が現れ、「わたしゃ渡辺綱ほどの剛の者ではございませんと逃げ出した兵六が石地蔵にすがりつく。一つ目小僧や抜け首の茶屋女など百鬼が出現しますが、神仏の加護もあって苦境を脱出。漸く大狐を一匹捕らえて刃で一突きしようとすると、父の左衛門が現れ、狐は稲荷大明神の親族で島津家とも縁が深い、殺せば勘当じゃと言うので放せば、二匹の狐。散々な目に遭って今度こそ捕らえたと友人の前に見せたがやはり二本の襟巻だったと言う噺。
2025.03.31
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古い律令時代から偽造は盗に准ずとされ、鎌倉時代の御成敗式目にも、謀書の罪は、侍なら所領没収又は遠流、凡下(庶民)は火印を面(顔)に押すこととされ、下って江戸時代は、首謀者は引回しの上で獄門、共犯者も死罪と定められていました。平成も去りなんとする現在、役人の偽文書や嘘の答弁はどのように罰せられるのか、それを放置するのが正しい施政と言えるのでしょうか? 花押の真贋、書体・書風など厳格さを極めた鎌倉期から一転、南北朝を境に室町期以降、文書の真贋のチェック機能が次第に失われ、戦国時代は家格を引き上げる為、様々な欺瞞を重ね、戦国末期から江戸初期にかけ偽文書が多く作られました。1959年の伊勢湾台風を機に発見されたとされる『武功夜話』は読み易くまるで講談を聴いているような臨場感を覚える読み物ですが、近年、贋作とされています。
2025.03.30
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〇1683年と言えば5月8日家綱公が亡くなり、五代目として綱吉公が即位した3年後に当り、西洋ではオーストリアの首都ウィーンがオスマントルコ軍に包囲されていました。或る朝、トルコ軍が地下道を掘削している物音を早起きのパン屋が感知、国軍に通報。よってトルコ軍を撃退することができました。戦勝を祈念し、トルコ帝国の旗印にある三日月を食ってしまおうと三日月形のパンを作りました。そのパンがフランスにも知れ渡り、「croissant」つまりクロワッサンと呼ばれ、現代に至っています。
2025.03.29
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〇岸恵子・ジャンマレー・ダニエルダリュウ競演の「忘れ得ぬ慕情」のパンフや歌舞伎月報社刊の「芝居と大阪」第1巻第5号には市川寿海・富十郎の「箕輪心中」或いは「高野聖」の扇雀(後年の澤村藤十郎)の美形が写っています。また昭和30年2月3日初日大阪旧歌舞伎座での通し狂言「仮名手本忠臣蔵」(竹田出雲二百年祭記念上演)それに昭和31年5月、中村吉右衛門劇団に寿海の参加、幸四郎、歌右衛門、勘弥、宗十郎、大阪福助、又五郎など懐かしい実力者出演京鹿子娘道成寺や籠釣瓶のほか、鞍馬山だんまり、金閣寺、蜘蛛の拍子舞、狐と笛吹きなど。こういう資料は簡単に処分してはならないものに挙げられそうです。
2025.03.28
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〇嬪嶋珠光著『なぜかヘコまない女の共通点』の目次を繰ってみると、第1章 心をつよくする12の方法・・・から 適当なストレス→心の善玉菌がつよくなる 失敗→ランクUPの為に不可欠 お肌の手入れと心の手入れ しつこいタイプへ→「心ののりしろ」を用意 対抗意識→自分への励ましの手段 第2章 「ブチご用心」な人とのつきあい方 ほめ言葉で近づく相手→色眼鏡でみよう 無理難題を言う人→「ノー」を連呼 罵詈雑言には→集中力UPの好機 二者択一を求められたら→「どちらもいらない」とアンス 「気にしないでね」→=「気にしていてね」第3章 あなたを傷つける人には要注意 実力者に媚びる人→相談事を控える 難問から逃げる人→手柄を横取りするタイプ ほめるのは上等な心、おべっかは下心 顎で使う人→一流の社会人を装うだけの人第4章 ヘコまない女はコミュニケーション上手 目立ちたがりは前方で、聖人は後方にオーラあり 否定形が言えない相手→先ずは「おもしろい」表現はかなり変えていますが、ざっとこんな見出しです。一番最初の件リでは<大して働きもせず怒鳴り散らす上司のいる職場>なら、この状態を自分の腹の中に置き変える。人間の腸内には善玉菌と悪玉菌が混在。もう1つ日和見菌も。で、善玉菌20%、悪玉菌30%、日和見菌50%のバランスをキープすれば健康体で居られるとか。怒鳴り散らす悪玉菌を気の毒と思い遣る心の余裕が、どっちつかずの日和見派から評価を得ることになるという理論でした。
2025.03.27
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〇人前で大っぴらに煙草をふかせてみせた女性の第1号は、劇作家バーナード・ショーの恋人だった女優パトリック・キャンベルその人。それまで女性の愛煙家は人目に触れない場所で、こっそり吸うのが嗜みとされていました。紳士の集ったパーティの席上で、スパスパ煙草を吸って見せたので、世の中がひっくり返った由。賛否両論がイギリスの社交界を沸騰させていた折、某新聞記者が意見を聞きに来ました。すると何と彼女は、一人当たり25ドルのインタビュー料を記者連から徴収して、威風堂々と男女平等論を説きました。さすがの記者達もその強気におそれをなしてキャンベルを支持。16世紀来守られて来たタブーはかくして300年目にして崩壊したのでした。(参考図書・続々・たばこ立ちばなし、 旧日本専売公社)
2025.03.26
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陰陽師、吉田神道の家に生まれられた鈴鹿野風呂先師は鹿児島七校卒、京大文学部卒。京都武専教授・校長、京都西山専門校教授、大阪成蹊女子短大教授等々。大正9年1月ホトトギスに初入選、虚子三高在学中には鈴鹿家の隣家に下宿。11月23日、日野草城らと三高京大俳句会の機関誌として「京鹿子」創刊。誓子、秋櫻子、白文地、白川、いはほ、静塔らと現代俳句を担った。大正11年1月、35歳にしてホトトギス初巻頭、2位に草城。昭和46年勲4等瑞宝章受章、3月10日没。春夏秋冬と新年各季ごとの1昼夜で詠む大矢数。夏は1186句を詠んだ。1つの季語をテーマに100句の軸は、何も見ないで書き込んだ。この軸が324あった。わが家には「羽根」の百句軸。その他、短冊、色紙、額、その他はがき多数有り。昭和19年~22年のほぼ毎日綴られた俳諧日誌毛筆書きのものを読み下し文に。凡そ900頁。しかも人名(p22)、地名(p33)の索引、付録の来信・往信の人名簿等(全てチェック)も付けての上梓だから大変苦労しています。
2025.03.25
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〇毎日のように編集に追われていますが、いくら記事を集めて本に仕立てても、翌月号に訂正事項としてあげるのは最も辛いことで、それ故、校正作業は軽視できません。毎日新聞校閲グループ編の『校閲記者の目』はあらゆるミスを見逃さないプロの技術をまとめていて、興味を覚えたのは、校閲グループの前に貼り付けてある訓。 校正可畏。 焉知硃筆之不如墨也。 四回五回而無訂焉。 斯亦不足恃也已校正はおそろしいものである。赤字が原稿に及ばないといったい誰がいえようか。4回5回(の再校)にして誤りを正すことが無いのであれば、依頼するに値しない。同社前身東京日日新聞初代社長の福地源一郎の言葉で、論語の一節「後生(後進の者)は恐るべき存在だ。今の我我ほどになれないなどと誰が言えるだろう・・・」を校正に直した訓。 俳句数千句の校正7名、本文欄1~3名の私達の肝に命じる訓でもあります。
2025.03.24
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〇掲題の小冊子に挟んであったのは、昭和15年3月21日付、大阪毎日新聞社の8面「雛ものがたり」という見出しの特集記事。花柳章太郎、桐竹紋十郎、田中弥三郎など6氏の座談会で<身替りになった男雛の哀れな思ひ出>という見出しも。他に、小新聞サイズのカラー写真付き雛特集。俳句では、 紙雛のさうざうしさよ立姿 其角 草餅に雛の袂や薄萌黄 許六 振舞や下座に直る去年の雛 去来 蜜柑ばこふたつ重ねてめりんすの 赤き切しく我が子等の雛 与謝野寛が載せられています。さて小冊子の目次を見ると、 ひな亦ひいなの名義 雛人形の起源 形代から人形へ 雛遊び まゝごとから上巳へ 上流から世俗へ 遊びから祭りへまた 雛は少彦名ノ命を祭る 人がたの思ひ誤り 雛祭りと粟島明神 雛は船旅の護りその他興味ある見出しがあります。
2025.03.23
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〇月刊俳誌「京鹿子」の表紙裏の画像は、日野草城ら同人と創刊して以来、鈴鹿野風呂先師が初めて主宰となった年の神麓居を柴田晩葉画伯が描いた図を載せていますが、平成3年4月1日発行の「京鹿子」800号記念に寄せた20名の稿に父すばるのものもありました。<京鹿子の創刊号は一枚の長い紙を折り畳んだだけの俳誌だったが、私の入門時(昭和8年)は無論立派な表紙がついていた。柴田晩葉画伯の神麓居門前の絵が懐かしい。晩葉画伯を引継いだのは、現主宰(海道)の姉君、渡辺俊子さんで当時は女子学生、川端柳生画伯の愛弟子であった。その伏見人形シリーズは他誌からも評判が高かった。金時さんの画はその中でも秀逸。その表紙絵も何代か引継がれて今は洛風林提供の帯地シリーズ、毎月替わりの豪華さ。連載の野風呂先生の俳階日誌および神麓居訪問者の寄書「水雲集」は当時の京都俳壇を知る貴重な史料である。虚子先生がホトトギスを譲渡しようと京鹿子を訪問された事実は永く秘話となっていたが、先生が亡くなられる直前の京鹿子大会講演で公表され、その速記が当時の京鹿子に掲載された。・・・略>追記・先日この「水雲集」のページを繰りました。日野草城や山口誓子、その他こんにち一派の本家筋になる著名俳人の書込み、絵筆の美しさに感動しました。また後日。
2025.03.22
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〇昭和40(1965)年5月10日から翌3月11日まで、207回に亘って朝日新聞の女性面に掲載された掲題のシリーズが定価720円で発刊されました。父はそのシリーズをきちんと切り抜いて遺しています。既にセピア色を呈していて、執筆者の村井康彦、高取正男、林屋辰三郎、上田正昭、赤井達郎、衣笠安喜という先生方がそれぞれ、中世、民俗、序説・中近世、古代、文化、近世部門を担当されました。女紅場、総選挙、三従思想、中世では武具を着る女性も、婿入りが常識で婦唱夫随の時代、神の嫁としての巫女(埴輪)、女王の謎、後妻を優遇した古代と妬む正妻、錦木塚などなど。一流の大学教授の研究論旨だから歴史の深掘り、逸話等もあり、また切り抜きの裏面が大鵬が清国を破った記事や柏戸が栃の海に敗れた記事と交錯して面白いです。
2025.03.21
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〇最近は男性用の化粧品や頭髪リキッド、スプレーがコーナーの一角を占めていますが、文明国にあっては、何と言っても美への執着心は女性側に軍配が挙がりますね。亡父すばるは美への探究心が強く、簪や櫛なども集めていました。『櫛玉手箱』と言う文化出版局の豪華本が遺されているものの、父はこの本を購入しただけで、その欲求・夢が充たされたのでしょうか、手垢のつかない儘古びています。 さてページに満載された櫛は、金箔を施したもの、蒔絵のもの、象牙のもの、繊細なもの、重量感のあるもの等、京・江戸の匠の息吹が伝わって来そうなものばかり。黄楊(つげ)、柞(いす)、鼈甲、象牙、擬甲(水牛の角、馬爪、牛爪、卵甲)、金属(真鍮、アルミニウム、銀)、ガラス、水晶、セルロイドなどが材料になっています。ユニークな櫛と言えば、源内櫛。これは現在の大河ドラマにでている平賀源内発案に依る田沼意次家で愛用されていたようです。相撲櫛(鬼勝象之助は顔に白粉を塗り二枚櫛を挿したとか)、光輪櫛(尾形光琳の作風を真似たもの)、政子形櫛(頼朝の内室:政子所蔵を模写)、お園櫛、お六櫛などなど。この書物の最後を見て驚きました。写真家:清岡純子さんの手に依っているのですが、今は懐かしき安達瞳子さんの所有なさっているものが全体の25%ほど占めていました。そう言えば、安達さんは一見、もの静かで漆黒の長い髪をして居られましたね
2025.03.20
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〇京都新聞社編『東山三十六峰ー京都案内記』(河出書房)は約60年も前に発刊され、既に絶版となっている為、詳しくは述べられませんが、詩人、随筆家の串田孫一氏の文章を参考にしますと、第1峰 比叡山第2峰 御蔭山(別称・高野山など)第3峰 赤山第4峰 修学院山(離宮の山)第5峰 葉山第6峰 一乗寺山第7峰 茶山(情延山)第8峰 瓜生山(城山など)第9峰 北白川山(勝軍山)第10峰 月待山第8峰 瓜生山(城山など)第9峰 北白川山(勝軍山)第10峰 月待山第11峰 如意が岳第12峰 吉田山第13峰 紫雲山第14峰 善気山第15峰 椿ケ峰(不動山・宮山)第16峰 若王子山 法然院あたり第17峰 南禅寺山第18峰 大日山 蹴上辺り第19峰 神明山第20峰 粟田山 青蓮院があります第21峰 華頂山 知恩院があります第22峰 円山 祇園・八坂神社の東第23峰 長楽寺山(将軍塚)第24峰 双林山第25峰 東大谷山(東漸寺山)第26峰 高台寺山 寧々さん縁りの地第27峰 霊山(霊鷲山)第28峰 鳥辺山 昔の墓所第29峰 清水山(音羽山)第30峰 清閑寺山第31峰 阿弥陀ケ峰 太閤秀吉眠る山第32峰 今熊野山第33峰 泉山(月輪山・泉涌山)第34峰 恵日山第35峰 光明峰第36峰 稲荷山以上ですが、「京鹿子娘道成寺」の長唄にも山づくしとして第九段の鞨鼓の踊りの歌詞に出てきます。
2025.03.19
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〇高谷伸のエッセイ集『凉しき灯』には、鴨川沿いに電車(京阪)が通るようになって風致が壊されたと嘆いています。大水で電車が一週間程止まった時、電柱の燈火も消えたので、久しぶりに故郷に戻った気分になったとも。その時は清水あたりの家々の灯がいつになく明るかったし、月が出ると八坂の塔が殊に美しく見えたようです。洪水がある都度問題になった竹村屋の橋(車道橋)が、いつの間にか無くなったと述べています。当時は、地蔵の祀られる一角で、先斗町から対岸の祇園縄手筋へ渡した橋、幅5尺~1間(1.6~1.8m)あるなしでも橋を渡る人はいつも美しかった。その橋の中ほどから河原へ降りるようになっていたようで、名所図会などにも夕涼みの名所として描かれていました。
2025.03.18
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〇私が銀行に入行したその年、降って湧いたように流行ったのが掲題の曲で、ザ・フォーク・パロディギャング作詞、加藤和彦作曲、歌っていたのが、ザ・フォーク・クルセイダーズという知りもしない連中でした。 しかも録音時の回転数に工夫があって、オクターブ上の変った歌唱形態で、<天国よいとこ、一度はおいで酒はうまいし、ねえちゃんはきれいだ、ワ―ワ―・・時代を先取りするような自由発想的な作風。死んで、長い雲の階段を上り、よたよたと天国の門へ着き、掲題のフレーズが出てきて、死んだ原因はおらの酔っ払い運転。ねえちゃんはきれいで最高だけど、こわい神様が酒を取り上げ、天国はそんなに甘いもんやおまへん、まじめにやれと諭されるけど、酒を飲み続け、神様にあきれかえられ、ほな出て行けと追い出され、長い雲の階段を降り続け、おらは目をさまし、生き返ったという筋書きの長い歌詞です。
2025.03.17
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〇京都は永い間、日本の都として政治・文化の中心にありました。明治維新後皇居が東京に移されると聞かされた都の人々の落胆ぶりは想像を絶するほどでした。 そこで賑やかさを取り戻そうといろんなイベントが催されました。京都大博覧会、平安神宮を祀り、時代祭の開催等がそれです。 京都と言えば古色豊かで、いかにも雅びの総本家のように称されますが、只単純に古い伝統だけを守り通して来ただけなのではありません。一見排他的に見える京都人の気質はプライドと謙虚さを巧く配合することに長けていて、新しい流行や文化を一旦謙虚に受け入れながら、その研ぎ澄まされた美的感覚で、都のあった処として相応しいものかどうかをプライドという秤にかけながら良いもの選別し、その良いものを京都色にアレンジし、都ブレンドとしながら残して来たのだと思います。京都人に謙虚さが無かったら、単に旧いものだけを守るだけのデッド・タウンと化して居たに違いありません。京都は謙虚さを以って、新しいもの、新しい血を受け入れ、常に住みよい、心癒される町として悠久の歴史を伝えて来ているのだと思います。わたし達もできるだけ謙虚な姿勢を忘れないで、ここに集まる仲間の斬新的なものの考え方や感覚の優れた部分、自分の琴線に合う部分を吸収し、更に自分という「原石」を磨いて参りましょう。
2025.03.16
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〇「脊椎動物の寿命からすれば人間は120~140才まで生きられる筈」という学説があります。寺川国芳さんが歯科医師の立場で研究されたお説では乳歯、第一大臼歯、第二大臼歯、高校生の頃親不知の第三大臼歯、そして24才頃で顎の関節が石灰化して完全な大人になるとか。つまり人間は6年周期で成長し、その5、6倍生きられるから、人間の寿命は120~140才という考えに。 しかし現実的には癌や心臓病、脳卒中等ほかの病気で早逝してしまうので、よく噛んでから食物を喉に通せば、唾液をたっぷり浴びるので、ガン細胞が増えるのを抑える恩典に預るという次第。また顎を動かせば動かすほど脳の血流が良くなるので脳卒中や脳血栓の予防にもなるとか。顎が動いて脳へ血液を汲み上げるポンプ役をするので、心臓の負担が軽減されるという理由。それに加えて、よく笑うと目尻が下がり、口角が上ります。すると胸腺が刺激を受けて胸線ホルモンの分泌を促すので癌などを攻撃する免疫力を持つNK細胞を活発化することになり健康を維持できるとも。(参考資料・上前淳一郎著『読むクスリ』)
2025.03.15
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〇勝木俊雄著『日本の桜』(学研)に拠れば、花による検索では散形状花序→大島桜、山桜、霞桜、高嶺桜、豆桜など、散房状花序→大山桜、寒緋桜、江戸彼岸、総状花序→深山桜など。葉の形状による検索もあって、微妙な違いがあります。 瀬戸内寂聴さんは、佐野藤右衛門さんとは互いに嵯峨野に住んでいながら、滅多に逢う事がないものの、偶に会うと、昨日会ってまた会ったような自然さで「よう」「よう」という調子となり、忽ち話が核心に入っていくから不思議と評されていました。 桜と言えば藤右衛門、その藤右衛門さんは派手な染井吉野が大嫌いで、一番いいのは山桜との由。山桜の品の好さと、素朴な美しさは、桜の女王とまで宣う。これを目にして、最近、電車や街騒で見かける若い女性は、化粧法や美という認識の在り方が欧米風。三日前のファイスブックでの拙作「輝く貴女に」に添えた数枚の乙女の写真と今とを比べたら一目瞭然。私の初恋の人は、電車のなかでも目立たないところが却って目立った女性でした。
2025.03.14
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〇浪花の脚本家・秋田実著『日本語と笑い』(日本実業出版社)から拾いますと、 <若い時に聞いた話であるが、講談で有名な幡随院長兵衛、あの侠客のお墓の裏に一首の歌が刻まれてあった。 下の句が「仏の中の仏なりけり」、お詣りした人が、その歌を間違えて「男の中の男なりけり」と皆に伝えた。 その文句の方が幡随院長兵衛に適わしいので、それから「男の中の男」という文句が流行り出し、さらに幡随院長兵衛が白柄組の水野十郎左衛門の屋敷へ単身で乗り込み、俎板の上へ料理してくれと寝たとこから魚に譬えて「男一匹」という新語が流行り出した。そして後には、「男は一匹というのに、女はなぜ一匹と言わないのか?」「それは、女は、子供を産んで、何匹にもなるから」そんな冗談も出てきた。> それから「いつまでも有ると思うな親と金」というフレーズは、歌から引用された言葉で、これは漫才の舞台で明らかにされたようです。「いつまでも有ると思うな親と金 無いと思うな 運と災難」だって!
2025.03.13
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〇十八番にしている歌の一つ、島津亜矢の「おつう」は台詞入りなので、最初のうちは羞恥心が勝ってなかなか歌えませんでした。しかし、乙訓の伝承物語を、スクリーンに映しながら語る出前ガイドの経験を鑑みれば恥ずかしいと甘えては居られず、次第にセリフと歌唱とのバランスが上達しました。 一方、劇としての「夕鶴」について触れれば、「夕鶴」は佐賀市の赤松小学校生の姉が村の子を演じていた写真が残っていました。民族学者の鈴木棠三氏が佐渡の北岸辺で民話を聞き出し、木下順二氏が戯曲化したこの作品は、山本安英さんが演じられて好評を博し、森光子さんの「放浪記」の新記録が出る前まで、史上に残る再演回数の金字塔を打ち立てた当たり役となりました。 さて、カラオケで私が「おつう」を歌う場合、三番まである曲の一番はまず紹介画面に合わせてゆっくり語り二番は趣向や声質を変えファルセットで、三番は泣いてしまう寸前まで気持ちを高め、語りと歌唱との融合を図り、大いに盛り上げて歌うように心掛けています。
2025.03.12
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〇某年某日、リポビタンデーの懸賞で当てた頑丈なリュックを背負い、家内と午後の散歩に出かけました。目的は無人販売所での野菜購入。さながら終戦時の買出しの恰好です。 昔、よく通った整形外科近くの小さな小屋でわさび風味の野菜と青々とした葱を購入。続いて別のお百姓さんの販売所でブロッコリーを買いました。 鄙びた田舎道を山の方へ向かい、上水道のタンク附近で土筆を摘みました。竹薮の舗装路を東へ進むと以前混声合唱の練習をしていた婦人会館、右手に体育館。 散歩の犬のように自由な足運びで私らは好きな道を選びながら田畑の多い場所へとやって来ました。段差のある畦にも幾本かの土筆が生えています。まだ菜の花の咲いている畑もあってのんびりした乙訓の日永。喫茶店でコーヒーを戴き、長岡天満宮の梅や三椏などを鑑賞しながら戻りました
2025.03.11
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〇嵯峨山地区を愛されたのが桓武帝の第2皇子嵯峨天皇。異母兄に平城天皇、異母弟に淳和天皇。大山崎町には、旧勢力(主に仏教徒)との軋轢から逃れ、気分転換を図られた帝の別荘・離宮八幡が駅近くにあります。そして嵯峨天皇の12番目の皇子が源氏物語のモデルとされた源融で、私事ながらわが家の菩提寺も融屋敷の一部だと寺伝に記されています。 ところで嵯峨天皇は薬子の乱を参考に死刑制度を廃止された方で、廃止制度はその後338年間生かされました。また三筆の一人で達筆だったと伝えられています。現世からあの世へ送り出す釈迦如来と西方浄土へ迎え入れる阿弥陀如来とを奉る二尊院を建立させた天皇としても著名。 嵯峨院の跡で皇子源融の別荘でもったのが釈迦堂(清凉寺)で、結社では先師野風呂以来数年前まで8月の早朝句会(午前9時半締切)の場でもありました。
2025.03.10
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〇私事ながら私ども夫婦は見合い結婚だから、当時の私の考えでは、新居は双方の実家の中間点辺りにしようと思い、吹田は豊津の古家を賃借しました。掲題の「婿」について元早大名誉教授の興津要氏著『おもしろ雑学日本語』を参考に綴りますと、 恋婿が来て薄紙を引きへがし (柳2)一人娘が恋い焦がれた男性を婿に迎えたと途端に、まるで薄紙を剥がすかの様に恋患いが全快したという一句。婿の語源は、<向子mukako>の略、つまり<迎ふ子>の意かなどをはじめとする諸説がありますが、夫としてよそから迎える男性のことに違いありません。 江戸時代の入り婿は、家つき娘である女房や、その父母の支配、命令のもとに置かれ、<家>の重圧にあえいだものと思われます。 藤田まことさんが好演された「必殺仕置き人」の中村主税が嫁・姑に苛められていたことで良く理解できますね。実は私も某都銀の外回り・営業担当者だった独身の折に新築の家付きで娘を貰って呉れないかと某取引先の重役に言われたことがあります。長男だったので、既に許嫁がいるようなニュアンスで婉曲にお断りした記憶があります。
2025.03.09
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〇赤坂治績著の『歌舞伎 ことばの玉手箱』は歌舞伎を軸とした演劇の関する事典のような書物で、あらゆることが網羅されています。それを参考にセリフやト書きに触れてみます。 セリフという語の古い形は「せれふ」。天正年間の狂言本にでてくる「競り言ふ」「競り合ふ」が語源と思われますが、舞台で行う会話・対話を意味していました。 初期の歌舞伎は寸劇の部分は役者がせりふを言い、舞踊の部分は演奏者の歌や語りに基づき、役者が舞ったのでしょう。 歌舞伎はセリフ劇だから台詞を中心とした台帳(現在では脚本)には違いないけれど、状況説明に舞を添えたりするほかに、演出者の意見をいれた「ト書き」も入るようになって来ました。テレビなどで役者や俳優・女優さんの生活を追っているとき、脚本にいろいろ書きこんでいる人もあって、役者稼業も大変そう。しかし、たった一度の人生ながら、いろんな人物になりきって演じることができるのだから、羨ましい部分もありますね。
2025.03.08
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〇常々私は人の真正面にあってもその人の裏側を観る心の姿勢で、本当の人柄を読み、個性的な女性だったら、そっくりそのまま歌詞に変えてしまう様なことをしてきました。表面の美しさだけに捉われないよう、時には街を歩く折、レントゲンを当てたような骨格として人物を見ない訳でもありません。浄土真宗僧侶の川西蘭氏の「坊主のぼやき」を読んでいると、初めて死者に対面する時、取り乱しやしまいかと不安に駆られておられましたが、死相図とりわけ鎌倉時代に描かれた「小野小町九相図」を何度も観て居るうち、これが人間の死の事実だと悟った途端、<筆遣いの繊細さに目がいくようになり、描線に美しさを感じたりしました。腐乱していても美しかった頃の名残があるように描かれているのですね。絵師の腕には感嘆します。>と述べておられます。人間と謂ど他の動物同様、死んでしまったら魂の抜けた亡骸、九相図にあるように、生前相、新死相、肪膨相、血塗相、蓬乱相、青瘀相、噉食相、骨連相を経て古墳相と変化するようです。
2025.03.07
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〇京の東山一帯はやさかのみやっこという氏族が住んでいた地域で、古代から文化の発達した所でした。八坂の塔で有名な法観寺は飛鳥時代の寺院の跡地で、清水寺が平安期の物語に再々登場します。 牛頭天王を祀った祇園社(感神院)は御霊信仰と結びついて早くから賑わっていました。桃山時代には社前に茶店などがずらり並び、参詣人の休憩場所となっていて、これが茶屋と呼ばれました。元和・寛永期には茶立女或いは茶汲女も現れ、その色香が人を集め、祇園町にお茶屋が結びついた次第です。またこれら茶立女・茶汲女がのちの祇園芸妓の祖となり、同じころ、四条河原に阿国歌舞伎が発生し、都へ上った諸国の人々は、四条河原へ、東山へと物見遊山に出かけ、祇園社頭から四条河原の方へ家が立ち並び祇園町が形成されました。(追記・都をどりで著名な祇園甲部はお茶屋地域とは謂えど、太閤殿下没後、高台寺で暮らされた北の政所・ねね様をお慰みする芸能一派でした)
2025.03.06
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〇古典から樋口一葉に至るまでを語り続けて来られた幸田弘子さんの『朗読の楽しみ』(光文社)。 *<廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝(ドブ)に灯火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、 *明けくれなしの車の行来にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申しき>有名な『たけくらべ』の冒頭の一節。生き生きとしたリズム、あざやかに転換する描写。「お釜で炊いた、それも焚きたてのご飯のように文章の一粒一粒が凛然として立っていると指摘。たけくらべご自分で口に出してみて下さい。黙読とは全く違う世界が広がっているはずですと幸田さんは書いて居られるそうな。 *<朗読でいちばん大事なことは「文章がきちんと伝わるような読み方をする」「繰返し読むことが大切」とも>・・・ *これは正しく、カラオケ等で独唱する場合やガイドの心得なのだと思いました。
2025.03.05
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〇大坂の与力、同心が賄賂を取り過ぎるという悪い噂が蔓延する折、 大坂西町奉行に新たに赴任した佐々木信濃守が往来で<裁判ごっこ>をして遊ぶ児らを家来と傍観。きのうまで奉行役を務めた他の子は東町奉行所の真似をしていましたが、それまで盗人役ばかりだった聡明な四郎吉は、初めて奉行役が回ってきた時、西奉行所の佐々木信濃守の真似を選んだのでした。「一つから十までに<つ>が全部つくや否や」という命題問答が今回の子供同士の喧嘩騒動の原因のようでしたが<十つ>とは言わない難題を裁判官の四郎吉は「五つつ」が(本来十にあるべき)<つを>一つ盗んでいると名解答を示し、「道なかにおいて、口論の上、喧嘩をいたし、上多用のみぎり、手数をかくる段、ふとどきのいたり、重き刑にもおこなうべきところ、格別のご憐憫をもってさし許す・・・」と見事な台詞を朗々と言いのけたのでした。當の信濃守は大いに感動して、親もろとも、町役人つきそいの上で奉行所へ出頭するよう家来に申しつけました。 いざ奉行所では、今度はお奉行と四郎吉との智恵比べ、とんち比べになるのですが、四郎吉の返答が水際立って見事で、寄席ではこの辺りが聞かせどころなんです。
2025.03.04
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〇京都は永い間、日本の都として政治・文化の中心にありました。明治維新後皇居が東京に移されると聞かされた都の人々の落胆ぶりは想像を絶するほどでした。 そこで賑やかさを取り戻そうといろんなイベントが催されました。京都大博覧会、平安神宮を祀り、時代祭の開催等がそれです。 京都と言えば古色豊かで、いかにも雅びの総本家のように称されますが、只単純に古い伝統だけを守り通して来ただけなのではありません。一見排他的に見える京都人の気質はプライドと謙虚さを巧く配合することに長けていて、新しい流行や文化を一旦謙虚に受け入れながら、その研ぎ澄まされた美的感覚で、都のあった処として相応しいものかどうかをプライドという秤にかけながら良いもの選別し、その良いものを京都色にアレンジし、都ブレンドとしながら残して来たのだと思います。京都人に謙虚さが無かったら、単に旧いものだけを守るだけのデッド・タウンと化して居たに違いありません。京都は謙虚さを以って、新しいもの、新しい血を受け入れ、常に住みよい、心癒される町として悠久の歴史を伝えて来ているのだと思います。わたし達もできるだけ謙虚な姿勢を忘れないで、ここに集まる仲間の斬新的なものの考え方や感覚の優れた部分、自分の琴線に合う部分を吸収し、更に自分という「原石」を磨いて参りましょう。
2025.03.03
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〇古いキセルの中に「大仏張り」という奇妙な刻印を押したものが、今でもかなり数多く保存されています。「大仏張り」はキセルとしては、もっとも形状の古い初期のものですが、いたるところに残っているところを見ると、よほど大量に生産されたもののようです。古い記録を調べてみた結果、このキセルなんと大仏さんの生まれ変りと判明。それもことの起こりがおもしろくて、頃は天和年間(1681~83)、天下をおさめた徳川幕府が真っ先にやったのは豊臣秀吉がつくった目ざわりな建築物や文化財をかたっぱしからこわすことでした。ところが京都に秀吉が造営した銅製の大仏をつぶす段になって、その処理に頭を痛めました。重臣たちが協議の結果考え出したのは、それを利用してキセルをつくり、庶民に売るという一石二鳥の方法なのでした。そこでついた名が「大仏張り」。当然何百万本ものキセルがつくられたのに相違ありません。うたかたのように消えた豊臣政権を、煙をくゆらすキセルによって表現したあたり、まさしく「坊主憎けりゃ袈裟まで」を地でいった徳川幕府の痛切な政策というほかありません。
2025.03.02
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〇QC運動家の藤田董さんが某塗料関係の商社の受付嬢のお辞儀がお座なりでなく、丁寧で、心がこもっていて感じが良いと思われたので会社側に特別な教育を実施されたのか問われたそうです。ところが、それは受付嬢たちが自主的に研究して結論を出した方法だという話でした。彼女らはストップウォッチ片手にいろんな会社の受付を覗きに行き、立ち上がって、いらっしゃいませと言うタイミングやお辞儀の角度、言葉遣いを調査したとのこと。 ストップウォッチを用いることによって数値的に記録され、平均値は2秒。しかし感じの良い会社のそれは3秒。彼女たちはこれまでの2秒半から30秒足し、立って、いらっしゃいませと言ったあと、頭を下げ、1、2、3と数えてから頭を上げるようにしました。ただ、それだけで、心がこもっている、と感じさせるようになったと言う話です。この大発見は、経営者や部課長など上からでは思いつかず、ストップウォッチで測って一番良いお辞儀の仕方を知ると言う発想に成功が潜んでいたことになりますね。<参考図書・上前淳一郎著「読むクスリ」>
2025.03.01
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