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〇豊田都峰「京鹿子」前主宰が大阪俳人クラブの代表の任にあった当時、その機関俳誌(年四回発刊)の話題として、シリーズ「かんさいの変った町名」と銘打って、第130号の淳和院町を皮切りに、弁慶石町、俊成町、道修町(大阪)、京の紹巴町、本塩竃町、二畳半町、黒谷町、垂水町(大阪)、蛸薬師町、兎我野町(大阪)、天使突抜町など、4年間掲載させていただきました。京都市内の街角にある木製やホーロー製の細長縦看板は明治四十三年に郵便配達員が困らないように設置したのが起りで、中でも有名なものが仁丹提供のものですが、上友禅町、或いは虎石町や八瀬かまぶろ温泉の養安町、など多種多様です。 今年、再び京鹿子が運営を任される事となり、S編集長が事務局長、小生がサブになっています。
2025.09.30
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〇金田一春彦著『ことばの歳時記』の9月16日相当頁のテーマは”大きい小さい”でした。先ずは太公望に触れ、 <よく釣り落とした魚ほど大きいなどといって「こんなでかいやつがかかったんですがねえ」と、両手をオーバーにひろげてみせる人がいるが、土地によっては大きい小さいの表現が逆になることもあるから、面白い。>三重県尾鷲の郊外の三木里では、小さい魚がかかれば、「大きんがとれたノウ」と言い、大きい魚の場合はこの逆だとか。この用法は、夏に裸同然の恰好をしている時に突然の客があった場合には、「ええ恰好しておりまして・・・」と照れますし、悪いを好いと言ったり・・・私など、学校の成績の悪い私のことを人前で、ほんとうに良く出来る子ですので・・・と母に言われた口なんです。
2025.09.28
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〇最近目につく働く女性と言えば、私鉄・市バス・タクシーの運転手、婦人警官、婦人自衛官、議員等が挙げられますが、平安時代の女性の職場環境について藤川桂介著『暮らしの歴史散歩』を参考にすれば、次のような事が言えそうです。 律令制では官僚数が総数12506人、うち男性が11712人、女性は6%の794人に過ぎない男社会でした。それでも藤原道長の時代には、娘彰子が宮中に入った折には40名もの女性が従い、 ライバル中宮定子にも40名の女房共が支えていた事から、時の帝、一条天皇に従う女房の数は200人、天皇の妃でない人に仕える者を考慮すれば、300人ほどの女性の働き口が別途あったとも言えそうです。 このほか例えば和泉式部のように、上流の男性貴族に仕えた女房も多くあったし、その女房に仕える女性も居たので、所謂、官僚としての女性(勤続28年、80余才で没した従三位・内侍司など)の数に匹敵し、併せて1600人ほどの女性が働いていたものと思われます。中央部では最下級位の父の許に生まれた紫式部は、同じ身分の宣孝と結婚し賢子を授かったものの、夫を早く亡くし、中宮彰子の後宮に勤め、後に上東門院に出仕して生計を立てていたし、人生探索の目的で女房となった清少納言や、社交界に出さえすれば婚活となると願った『更級日記』の作者・孝標の娘など、様々な彩の宮廷なのでした。
2025.09.27
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〇保護猫シリーズでテレビ画面に登場される元巨人軍のラミネス氏が2年連続で、セ・リーグの最優秀選手に選ばれた記事の切抜、2009年11月19日分。パ・リーグは誰か?日本ハム在籍のダルビッシュ選手。でもこちらは裏面記事で、<足利義昭や家康が指した将棋駒>「水無瀬駒を初公開」21日から島本町歴史文化資料館」或いは、<端正な形「優雅な筆跡魅力」>等の見出しがあって、<安土桃山時代の公家で将棋駒制作の第一人者・水無瀬兼成が作った将棋駒が、21日から・・・> <能筆家として知られる兼成は737組の将棋駒「水無瀬駒」を制作した。気品のある筆跡やツゲ製の端正な駒形が特徴だ。先が細く薄く、手前が肉厚で幅が広い形は現在の高級将棋駒のルーツとされる。そのうち53組を徳川家康が注文したほか、後陽成天皇や豊臣秀次、足利義昭からも発注があったことが兼成自筆の日記で明らかになっている。>ざっとこんな記事です。
2025.09.26
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〇某年某日、寝室兼書斎の出窓から垣根の方をみると秋の陽を受けて、時には金色に、また銀色に輝く芒がさようならの手を振るかに揺れています。金田一春彦さんの『ことばの歳時記』から拾いますと、<ススキは昔から日本では屋根を葺く材料として重用され、また炭俵などの材料としても使われた。日本人にもっとも親しまれる草の一つで、「芒」という正しい字では足りず、「薄」という中国では全く別の意味に使われる文字まで、いつの間にか当てて使っている。>とあります。また<ススキというのは元来雅語で、口頭語はカヤである。>つまり茅葺の茅、萱のことです。 子供の頃大阪は住吉・帝塚山の社宅は20坪ほどの狭い住まいでしたが、黒塀の隅っこにススキ群れ生い、梅雨には俄かに延び始め、秋の穂が済むと、丈夫な茎をチャンバラごっこの刀として隣の子供たちと遊んでいました。また茎を使って、庭の片隅に秘密基地の小屋を作ったりなどしていました。私にとってススキは少年期を想い起こすものでもあります。
2025.09.25
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〇京都の観光地としての人気スポットの一つは清水寺。大きな覚悟で以て事に当たるとき、「清水の舞台から飛び降りる」と言いますが、最初に飛び降りたのは誰でしょう? 八幡和郎さんの『京都のナゾ?意外な真実!』に依れば、それは『宇治拾遺物語』にある由。 平安時代には千手観音のお膝下で僧侶たちの読経を聞き、仮眠をとりながら一夜を過ごすと、朦朧とした意識のなかで見る夢は実現するという謂れがありました。宇治拾遺では、そんな風雅なものではなく、或る若者が数人相手に喧嘩沙汰を起し、多勢に無勢で清水寺に逃げ込みましたが、とうとう舞台に追い詰められました。 万事に窮した彼は、やおら傍らにあった蔀戸を両脇に抱えて、清水の舞台から向こうへと飛び出し、あっけにとられている追っ手を後ろ目に、しばらく滑空して首尾よく麓に着地した、日本人としては”鳥人間第1号”だったという話です。
2025.09.24
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〇新型コロナウイルス禍のため、予定表が以前より少なくなり、物置小屋や自分の書斎(兼寝室)の整頓に励んでいます。先日、背後にある桐の箪笥の隙間にあった色紙包みから、永年探していた掲題の手紙を発見しました。封筒の消印は昭和28年11月7日。住吉区帝塚山に住んで居た頃のもので、<御清祥賀し上げます。9月15日付の御手紙を手にしながら、これを書取ってもらってゐます。すぐにも御返事を差上げるつもりでゐながら2月ほど経ってしまひました。病人の無精お許し下さい。久しぶりにお手紙頂き、うれしく拝見いたしました。だんだん御栄進およろこび申上げます。御社では高田取締役を知ってゐます。終戦の頃、神戸で同じ建物に居り、支店長仲間でした。よろしくおつたへ下さい。(中略) 私の句集、お読み下さったさうでありがたう。高著な春燈頂き、謝し上げます。この程、拝読を終りました。御参考までに、私の好きな句を挙げてみます。>とあって、一句目から適宜、31句を抄出、上5と掲載んだん御栄進およろこび申上げます。で結ばれています。11月7日 草城(代筆)すばる様 「京鹿子」誌11月号は草城句集『人生の午後』の序を請け負われた野風呂先師の玉章を掲載します。お互いの道を歩むことになった野風呂師と日野草城、或いは五十嵐播水らとの交友は、その後もずっと温められていたことが文面から読み取れます。それは己よりも相手を尊び、広いこころを持つ者同士だったからでしょうね。
2025.09.23
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〇掲題の『京都ことわざ散歩』は寺町仏光寺下るの「三密堂書店」で、二千年年十二月の初版だから、亡父ではなく私が買った古書。<あかん三切れ>は身を切るだから縁起悪い?<朝観音に夕薬師>信心深い京人の普段の姿かも。<京都三条愛宕道 露の命の捨てどころ><京によきもの三つ><京はお口のべっぴん><外面如菩薩 内心如夜叉><建仁寺のだらり鐘><四神相応><醍醐味><近くて遠きもの 鞍馬のつづら折り><辻褄が合わない><鼻の下が京間><掘り出しもの><病弘法 欲稲荷><呂律が回らない>など総計百五十九ものことわざに簡単な説明とカット絵が付してあります。
2025.09.22
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〇古来から髪は女性にとって、それは命に等しいほど大切なもので、吉田兼好も「女の髪のめでたからんこそ、人のめだつべかんめれ」と徒然草に書き残しています。その頃の美容法では、黒胡麻を9度蒸し9度水にさらし、粉にしてなつめのにくとまぜて丸め、日に20粒ずつ朝夕飲めば黒髪になれるという記録もあるようです。短い髪の女性を助ける法として”おちやない”という商売つまり落ち髪はないか?と言って買い歩き、それをかもじ(加文字)つまり鬘にして売り歩く商売があったようです。源氏物語や枕草子、栄華物語にも表記されていて、髪の短い女性に鬘が利用され、表着(ウワギ)の裾から1尺2寸(呉服屋の物差し)ほど出るのが良いとされていた由。 鬘の種類、舞妓、芸妓、花魁などの髪の種類や装飾品については「日本髪の世界」を検索願います。
2025.09.21
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〇いまから10数年前の記事より雨に痛めつけられた印象の八月でした。◎正眼に構へ西瓜は峰打ちに◎犇めくは此岸(シガン)のゆゑか流燈会 八朔や烏お髪といふ色香〇山陵にをんな一人の晩夏なる 酔芙蓉あんななりして誰に逢ふ〇ぎんやんま修業僧の青つむり◎秋めくや父の遺せし星座表 台風に一歩先んじ僧ご着〇向日葵のなにはともあれプラス思考 カンナ燃ゆけふ胃カメラを呑むことに (創作上の詠み)
2025.09.20
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〇真夏日日数のトップを占めた京都ですが、今朝は涼しさを感じます。湿気が抜ければ、なお秋めくことでしょう。 子供の頃、野原で遊んでいて、頬を撫で髪を梳く風の変化には敏感だったような・・・。漢字として並べてみると、追風、逆風、風光、風景、風雅、風流、風聞、風刺、風化、風紀、風采、風貌、風情、風格・・・など、実に細やかな世界が広がります。雨や雪は目に見えますが、風は透明人間のよう・・・。枝が揺れ、葉がそよぎ、髪がなびき、紙がぱらぱらめくれたりする時に、その存在がはっきりしてきます。秋は正に、この風を感じる季節で、それが空の澄んだ色と、暮れ行く黄昏と、光の陰影などと相俟って、人の心にいろんな影響を与えます。頑張って、泣いて、笑って、怒って、打ちひしがれて、落ち込んで・・・・いろんな行い・経験を重ねていくことによって、人の風貌も風格も作られていきます。言葉は一文字違いでいろんなニュアンスの差を生み出しますが、秋の風のように、人の心の隙間から慰めていくような言葉を選んでいきたいものです。
2025.09.19
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〇朝日新聞社出版局写真部の田中真知郎、奈良国立博物館美術室の上原昭一共著『かんのんみち』は昭和51年11月30日発刊定価3000円。仏教伝来から暫くの間は、貴族の信仰の対称でした観音様が、後年、大衆からの支持が圧倒的に増え、愛されて来ています。観音菩薩は33の姿に化身して、人間の苦しみや悩みに救いの手を差し伸べて下さっています。この書を上梓するにつけ、撮影に携われた田中氏が思いを新たにされた事は、戦国乱世に、庶民たちの手で戦火の中から救い出されたという伝説の殆どが近江の国という事実。一歩足を踏み出される姿の観音菩薩、滑らかなお姿に、私たちは癒されますね。でも、渡岸寺の十一面観音さまは、御名のとおり優面から怒面、真裏の気味悪い「大笑」面もあり、その点ご留意下さい。本書には103体もの様々な観音様が紹介されています。
2025.09.18
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〇 真っ白な大きな画布に 先ず最初に僕が一本の樹木を描いた それは大好きなイチョウの古木 黄緑色に陽が射し込んで 金粉を散りばめているような 若葉が天使を呼び寄せているような そんな樹木を描いたんだ それが二本になり三本になり 何時の間にか ハイネの詩に出てくるような 写実的な西洋絵画のような 森を形づくっていた 或る日突然 一匹の白兎の絵が描き加えられて きっと君が描いたんだね 僕は嬉しくなって 画布の左に白樺の樹を植えた すると君が青く澄み渡った 楕円形の湖を描き入れた 僕の手で右上方に太陽を輝かせると 湖畔には優しい小花をいっぱい 赤、黄、紫、黄色、ピンクの彩りを 君が描き入れた 僕はすかさず湖面に つの字の首をした白鳥を浮かばせた すると画布の左方から右へと 七色の虹の架け橋を君が描き足した こうして僕たちの風景画が 誕生した
2025.09.17
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〇土岐信吉著『西行花明り』(河出書房新社)。人生の大半を旅で過ごした西行の、若き時代の激しい恋を王朝絵巻のような、それでいて、武家政治の黎明をも匂わせながら綴ってあります。白河法皇縁りの女院との大人の愛を絢爛たる文章で読者を惹き込んでしまいます。 元来、日本には一般に地下文庫を呼ばれる艶本がありますが、一流の大家が名を伏せ(別名)て、粋な読み物を遺しているのも事実です。流行作家になる以前に生活の為、こう言ったジャンルの作品を書いていた作家も多々あるようです。そりゃ~、大家の手になる作品は、古典と等しく、流麗な美文、格調の高い美文で綴られていて、読者をして恍惚の世界へと誘うのです。
2025.09.16
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〇かぐや姫がいよいよ天に昇ろうとする時、その置き土産として残したのが「不死の薬」で、かぐや姫自身も壺の液体をひと舐めしています。お世話になったお爺さん、お婆さんにも舐めさせてあげれば良いのに、天人の命令で止む無く帝に薬を渡しています。京楽滋賀大教授の説明をお借りすると、<帝(天皇)と「不死の薬」というと、史料に出てくる薬が思い起こされます。それは淳和天皇(768~840)や仁明天皇(810~850)が飲んだ「金液丹」です。これはヒ素や水銀を含むもので、現代人の感覚では劇薬です。が、当時は、不老不死をもたらす仙薬だと考えられていました。体の弱かった仁明は、淳和に勧められて飲み始めた、といいます。>医者の制止を振り切ってでも淳和帝は服用され、病気を平癒されましたが、その副作用に苦しまれたとも。淳和帝、仁明帝ともに長生きではありませんでしたので、「金液丹」は不老不死の妙薬ではなかったのではと思われます。 さてかぐや姫の残した「不死の薬」は燃やされてしまったようです。嗚呼、勿体な~。 (参考文献・京都新聞掲載の京楽真帆子のエッセー「竹取物語の世界」)
2025.09.15
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〇学生時代から家族ぐるみで宝塚歌劇を愛して来た父の影響で、長姉は高校生の折に「宝塚ふぁんコンテスト」というラジオ番組に出ました。風邪をひいていたのに歌は上々、初めて使われた狂言劇も上手く対応できて、黄金賞を貰いました。 父は生命保険会社を定年で退社、折よく昔の劇団員の紹介で京のノートルダム女学院中高等学校の教鞭をとらせて戴きました。その教え子3人同時に宝塚音楽学校に入学、74期生として晴れの初舞台に立たれました。 成績1番の加茂うららさん(雪組)、月組の花園ゆかりさん、そして花組の嵯峨野ゆりさん。3人とも娘役。父はノートルダム女学院のお母さんPTAに俳句の指導をしていました。2度目の発癌で病床に居た父に、加茂うららさんには、遥々アメリカから実家経由で見舞いに来て戴きました。その美しさったら、オーラー輝く御姿でした。
2025.09.14
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〇何某日図書館から借出した毎日新聞社編「タカラヅカ」の初めの方に、劇画のルーツはタカラヅカと明記してありました。 実はこうなんです。大正末期生まれの漫画家・手塚治虫は宝塚育ち。しかも隣人はと言えば、宝塚の象徴とも言える天津乙女その人で、「オサムちゃん」と呼ばれ可愛がられていたそうな。昭和一桁の「パリゼット」「花詩集」のレビュー全盛時代にオサム少年は宝塚風の美意識を育まれたのでしょう。日本敗戦時、彼の纏めた原稿は十五編、三千枚にも及んでいたようです。治虫は歌劇編集部にも籍を置いた時期もあり、「リボンの騎士」の主人公、男装の麗人・サファイア王女のモデルは淡島千景と言われています。 後年、池田理代子作の「ベルサイユの薔薇」の舞台化によって、宝塚が再び脚光を浴びる契機になったことは不思議な縁と言えましょう。
2025.09.13
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〇堀田善衛著「定家明月記私抄」続編(新潮社)の頁を繰っていると、現代にも通じる様々な出来事が網羅されていて、興味が尽きません。以前には歯の治療の件りを述べたのですが、続いてこんな奇妙な記述がありました。建暦2(1212)年、<吉富広宿傀儡ノ輩ト、忠弘ノ下人等闘諍ノ由、夜前、使ノ者来タリテ告グト云々。(略)・・・今日、吉富広宿ノ傀儡等来タリテ訴訟ヲ成ス。(10月5日)・・・子細ヲ含メ、下向セシム。・・・明らかに身分が上である定家が、彼らの訴訟に下手から対応しお引取り願ったという。しかも、筋の通らぬ話であるけれど、一歩譲って張り合わなかったようです。その背景には、後白河院の時代から天皇家が白拍子や傀儡師の芸に惚れ込まれ、こういう下層の芸人たちに身分保証を与えたり、全国出入り自由の証を与えて居られたことや、公卿たちの中にも遊女・舞女・白拍子を母にしている人が多くなり、これらの女性を母とする皇子もあったようなのです。天皇の権威が落ちてゆくに従い、これらの遊芸集団が賎民視されて来たようです。そして定家を可愛がって下さった後鳥羽院も、白拍子や猿楽の人々を優待していて仮設の舞台などを設営させていました。この贅沢さには定家は上皇との根本的な価値観の違いを感じていたようです。
2025.09.12
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〇某年某月、祇園町常連O氏のお手配にて、「湖藤美」の二階座敷に、昨年末に舞妓から芸妓になられた小愛さんのお酌を頂きました。まるで地毛のような自然な鬘の御髪は黒く、艶やかに。程良い化粧のお顔には、どんぐり瞳の愛らしい姐さんでした。芸妓さんを招いてのお茶屋遊びは初めての経験。贅を尽くしたお品の数々。ビールも美味し!冷酒も格別。小愛さんは勝気な中に、頭の回転も素晴らしく、現代っ子の健康な色香の中に、将来の良い人(白馬の王子)を夢見る乙女。 私たちが俳句を嗜むと聞いて大喜び。実は彼女も数人で句を楽しむ文学芸妓なのでした。毎月、彼女が季題を決め、寸暇を割いて”今日的な句”を見せ合っているそうな。小愛ちゃんへの献句は 来ぬ人に朝の座敷のいとど哉by星子いとどはコオロギのこと。来ぬのコ 朝のア いとどのイ つまり小愛さんの名を織り込んで詠みました。小愛姐さんはふところに挿していた女物の扇子を取り出し、此処に書いておくれやすとのたまいました。さて彼女も一句ひねり出し、 弾む下駄君の姿に良夜かなかわゆい娘心を詠いこみました。愉しい宴が終わる前に、私は歌舞伎の声色を遣いました。 <ご新造さんへ、おかみさんへ、お富さんへ、いやさお富、久ぶりだなあ・・・しがねえ恋の情が仇・・・死んだとお富たあ お釈迦様でも気がつくめぇ、よくもお主は達者で居た>昔春日八郎が歌った流行歌でお馴染みの源氏店 きられ輿三の「輿話情浮名横櫛」の一節です。小愛姐さんのアンコールに応えて、「三人吉三廓初買」の<月も朧に白魚の、かがりも霞む春の空、・・・>も小愛さんと一緒に披露しました。お座敷遊びは、周りの同胞を持ち上げる気配りと、好かれる客像を胸に、座を盛り上げることが大切なのかも知れませんね。
2025.09.11
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〇中世から戦国期の女性の名前についてひとこと触れますと、太閤秀吉の正妻・北政所の幼名は”ねね”、ライバルの淀君のそれは”ちゃちゃ”。足利義政時代に流行ったをさな名が”ちゃちゃ”で、当時を記した『大上臈御名之事』に拠れば、貴族層のをさな名として人気のあった名が、あちゃ、かか、よよ、ちゃちゃなどが挙げてあります。やがてそれらが武家にも広がったようです。”ねね”も割りと流行った幼名で、秀吉の”ねね”宛の手紙には”おね””ね文字””おねね”等があります。北政所として出す公的な文書には貴人の正妻らしく”吉子”と記していたようですが、ねね自身が近親者に与えた手紙に”ね”と一字だけ記されたものがありますが、これは遠慮の要らない相手への用法だったとか。
2025.09.10
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〇いつまでも衰えを見せない猛暑ですが、健気にも幽かに届く虫の声。平安時代の虫の名前と今とでは、逆転しているものがあります。リンリンと鳴く方を松虫と言っていたものが、唱歌「虫のこえ」を参考にすれば”あれ松虫が鳴いている チンチロチンチロチンチロリン”と変っています。またキリギリスとコオロギも同様に、後京極摂政太政大臣・藤原良経公の”きりぎりす鳴くや霜夜のさ筵に 衣かたしきひとりかも寝む”こおろぎが軒近く鳴いている霜夜の寒い筵の上でわたしは自分の衣だけ敷いて、たった独りで寝るのであろうか、わびしいことだなぁ。これにヒントを得て詠んでみました。 良経卿かた敷の夜のぎすのこゑ さて、第3日曜23日は、御所に隣接する梨木神社にて”萩まつり”句会が開催されます。既に多くの短冊が本部に寄せられています。神社の方方で、萩に吊り下げていただきます。その優雅な日本の香りをお確かめ下さい。お待ちしております。
2025.09.09
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〇昨日は本部の例会(句会)を不在投句にして、関西大学グリークラブOBで構成される千里エコーの創団50周年記念、第13回定期演奏会(於・いずみホール)に臨みました。821席、そしてパイプオルガン設備をようする素敵な会場がほぼ満席状態でした。第一ステージ 「草野心平の詩から・第三」 原子、地球、猛烈な天、宇宙線驟雨のなかで、 夜の海宇宙の中の小さな星・地球、そこに生きる人間たちの不可思議を、見事なハーモニーで歌いあげた。第二ステージ 「信長貴富作品集~うた・ウタ・ 歌~」 うた、父の唄、ボクはウタ、Hab'Sonne im Herzen、くちびるに歌を指揮者、伴奏者、そしてコーラスが三位一体の塊となって聴衆の一人一人に迫り、抱擁してくれた素晴らしい演奏。千里エコーを引率して戴いた塔筋氏の完成に近いソロも拝聴できて大満足。第三ステージ 中国短期大学フラウェンコールOG 合唱団フラウェンコールシャマントゥ 「女性合唱曲集「うたを うたうとき」 第21回、第22回全日本合唱コンクールにて連続一位の偉業を遂げられた合唱団のOGたち。当時の華やかさと美声には届かなかったけれど、数人の美声が快く耳もとに。 第四ステージ 本山秀毅客演指揮 「今でも…ローセキは魔法の杖」柴野利彦・詩、遠藤雅夫・曲 溢れる泉は日々を巡りほか5つの詩。 音域の幅、ハーモニーの妙を織り込んだ作品でしたが、本山先生との練習がもう少したっぷりあったとしたら、素晴らしいステージになっていた筈。日進月歩という熟語がありますが、私が参加していた当時から数段違いの実力を蓄えたチームになっておられ、団員皆様の意気込みと一つの芸術品を成し遂げるという情熱、真剣味、心の和が脈々と伝わりました。その証拠は、威風堂々の入・退場に惜しみなく注がれた会場でも大拍手。
2025.09.08
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〇台風下にあっても、日本全土のファンたちが掌に汗握りながら応援した世界バレー選手権。ベスト4に上り詰め、メダル確定、決勝進出という大看板にチャレンジしました。キャプテンの石川真佑さんのリーダーシップ、要所要所の活躍は無論の事、捨て身でボールを拾い続ける児島満菜美さん、驚愕の活躍を見せた島村春世さんキレのいいスパイクやブロックを決めながら平然とした表情の宮部藍梨さん、名刀に切れ味と敵陣の穴を即座に発見対応するバンコク会場での人気を攫った和田由紀子さん、大切な戦力の一人という事を認識させるに十分な活躍を見せた佐藤淑乃さん、将来を託せる北窓、秋本両選手。そして大事な場面でサーブポイントを決めた山田二千華さんの晴れやかな表情、一生彼女の宝物として輝くことでしょう。
2025.09.07
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〇三十五歳にして辞世の一首を残した吉川経家。 君が名をあだになさじと思ふゆゑ 末の世までと残し置くかな中国攻めの大軍二万余に包囲され、鳥取城主山名豊国は前年九月に投降していたものの、秀吉が一旦姫路に下ったすきに、残った家臣らが毛利方へ新たな城将派遣を願い、やってきたのが経家で、標高二六四米の久松山の要害を頼りに籠城。しかし、秀吉方が法外も無い高値で米を購入、城内には兵糧米が底をつき始めていた。城内の兵千四百余のうち、半分近くが逃げ込んできた農民、兵力にもならず・・・。 当初定期的に柵近くの草木を取らせていたが、それもなくなってしまうと、牛馬、それが尽きると・・・恐ろしい光景が。二百日間の飢餓地獄は漸く幕を閉じることになった。戦国史上、最も悲惨な戦であったと思われる。
2025.09.06
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〇昭和21年からスタートした『サザエさん』(全68巻・別冊3巻)は途中から愛読し始めました。最初の舞台が福岡になっているのは、佐賀県生れの長谷川町子さんが幼年、青春時代を福岡で過された影響なのでしょう。 磯野家のトイレは71冊のうち、11カット登場し、古い家に4つ、新しい家に3カ所もあります。推定によれば、波平54歳、フネ48歳、サザエ27歳で、フネさんは後妻だったと思われるなど、この本では肌理細やかに調査しています。独身時代のサザエは典型的なアプレ・ゲール(放恣・退廃主義)、男女同権を主張していたものの、男っ気は皆無。波平の趣味は釣り、囲碁、清元、盆栽、骨董。フネは長谷川一夫のファンで時代劇映画大好き。 サザエは推理小説、カツオは俳句・短歌、ワカメは算術には弱いけれど、童話を書くことに秀でています。戦後の貧しい暮らしから次第に豊かな日本へと成長してゆく世相を会話や服装、調度品などから読み取れるのがサザエさんの魅力でしょうか。 波平は出世主義でなく、人間として心豊かに暮らすことを重んじた人物像として見えますが、ステテコ姿の、あの禿げ茶鬢と亡父とが、私の中では重なりあうのです。 (参考書・東京サザエさん学会編『磯野家の謎 ”サザエさん”に隠された69の驚き』)
2025.09.05
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〇最近は矢鱈に人身事故が多くって、時間内に目的地に着けるかとやきもきすることも。良い政治体制下にあるとは言い切れないですね。さて田辺聖子さんの『古川柳おちぼひろい』の心中から拾ってみると、 心中はほめてやるのが手向なり失敗すれば大ごと!三日間、日本橋の橋詰に生き恥を晒され、生き延びても元の市民社会に戻れませんでした。 死にきつて嬉しさうなる顔二つ「どうだえ、あの嬉しそうな顔は」「二人とも、あの世では一つ蓮に仲良く並んで夫婦だわな。かわいそうに」「なんまいだぶ、なんまいだぶ。成仏しろよ」「なあに死んで花実が咲くものか、というじゃねえか。若い盛りに死ぬことはねえ」等と野次馬が騒いでいる所へ、検死の役人登場。 歌舞伎では「曽根崎心中」。これは大阪旧歌舞伎座で当時の鴈治郎親子を何度も観ました。「冥途の飛脚」は俗に言う封印切。花魁や女郎大勢居る中で、御十両の封印を切り、畳へ散りばめるシーンは、子供には印象的でした。他に「心中天網島」等。
2025.09.04
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〇1974年12月発刊の季刊誌「銀花」(第20号)には「らんぷの美」という特集が載せられています。 いつも睨むランプに飽きて三日ばかり 蝋燭の火にしたしめるかな 石川啄木観光地での土産物屋のちゃちなランプと違って、明治の御世を照らしてくれたランプには言葉で表わせない風情というか重みがありますね。 そこにはあらゆる才知と努力が塗り籠められた燈火の道具。ライオンが飛びつこうとしているシルエットの赤地のランプうす青地に薄い白地の横線の並んだランプ金魚鉢そっくりの形をしたランプ黄土色地に龍や花模様のランプ昔懐かしい電灯の笠を逆さにしたような緑美しいランプ白地に草模様を彫り込んだランプ切れ込みがあって所々隙間のある華奢なランプ実にいろんなランプがあるものですね。秋の夜長はランプで演出するのも一考かと・・・・。
2025.09.03
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〇いつか果たしてみようと思いながら、何らかの事情で未遂のまま繰越していることが多々ありますね。10数年前には、一つ果たせたことがありました。50年ぶりに佐賀市を訪れ、幼年期の1年半過した家に辿り着けたことでした。一方、果たせそうで果たせていないのが”風の盆”の見物です。高橋治氏の小説と亡父すばるの俳句によって、伝統的な田舎の盆行事、影絵のような男舞い・女舞い、空の暗さと奔流する水音・・・などが既に脳裏にインプットされているのですが。 風誘ふ手振りとも見ゆ風の盆 風の盆権現立ちの男振り 風の盆反り身で決まる女振り 暮れんとす空濃く濃く濃く風の盆 天界に風の盆あり戻りバス平成5年にすばるが詠んだ”風の盆”30数句の一部です。
2025.09.02
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〇某日、物置小屋から手巻き蓄音機を運び入れ、SP盤のレコードをかけてみました。少々雑音のあること、ボリュームを落とせない難点がありますが、なかなか古風で芳しい。泪の乾杯:竹山逸郎、 港の見える丘:平野愛子、すずらんの咲く頃:奈良光枝、 東京の夜:藤山一郎・渡邉はま子昔の流行歌手は音楽学校でみっちり勉強し、基本を積んできた人がなるべくして歌手になったのだから一定のレベルがあります。カラオケはエコーという魔法を使いますので、アラが目立たないだけで、これらの歌手とは比較できません。次に「唄の旅」と題したレコード盤はお江戸日本橋:勝太郎、 箱根八里:福村貴美子、伊勢音頭:筆香、 安木節:市丸関の五本松:筆香、 福知山音頭:小二三金毘羅船々:筆香、 ぶらぶら節:福村貴美子串本節:市丸小学5年生の頃、家にテレビが初めて置かれた年の紅白歌合戦では勝太郎姐さんも、市丸姐さんもお元気でした。このレコードは戦前か戦後すぐに録音されたものだから、お二人とも迫力満点の歌いっぷりです。小二三姐さんは小唄では日本を代表する名人だったのでしょう。さらにパワーのある歌でした。このように考えますと、録音状態が充分とは言えないけれど、昔の人々の生き様や息吹が、そっくり伝わってきます。SPレコードは重いので保存が大変ですが、残しておきたいなと思いました。
2025.09.01
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