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〇熾仁親王との許嫁のお立場にも拘らず十四代将軍・家茂に降家召された和宮親子内親王のことは遍く知れ渡っていますが、徳川幕府が政治介入を恐れたほど英邁な霊元上皇の皇女・八十宮(やそのみや)さまをご存知でしょうか? この八十宮さまは、当時僅か七才の七代将軍・家継の嫁として、更に幼い身、二才ながら婚約させられた皇女でした。 享保元(一七一六)年二月五日、京で結納の儀式が挙行され、幕府からは老中阿部豊後守正喬一行が上洛しました。 献上品は緞子百巻、色絹・練絹各百反など五種五荷、帝や公卿にも多数の品々が献上された由。 ところが間もなく風邪をこじらせた家継が四月三十日に逝去。悲報に接した霊元上皇の胸の内は、悲喜交差し戸惑うご心境だったと思われます と言うのも、既に八十宮吉子内親王は、七代将軍家継の正室として徳川の系譜に組み入れられていたから。 幕府は宇治・紀伊・葛野三郡から年五百石を終身御料に進上していたので、江戸輿入れも入籍も果たさないまま生涯貞節を強いられる結果となりました。 事実、吉子さまは一度も見(まみ)えることのない婚約者への貞節を守り続け、九代家重の宝暦年間、四十五才の生涯を終えられた。ご法名は浄淋院。合掌。(参考「江戸城大奥100話」安西篤子監修)
2025.06.30
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〇装丁という世界でも、既に紹介した大貫伸樹著『装丁探索』では芸術的な、凝りに凝った豪華本を採り上げて居られるのに対して、松田哲夫著『本に恋して』(内澤旬子共著)では、<深窓の令嬢や絶世の美女>ならぬ<市井にいる庶民的な娘さん>に親しみを覚えると言って居られるように、装丁のイメージとして、”文字”から沸くものや、”色”から来るケース、否、”質感”からとか、”絵柄”が主張して来る場合などを挙げて居られます。またベストセラーとして注目を浴びる本の形態、容貌、色合い、デザインについて略記された上で、製造工程について図入りで解説されています。ちょっとした豆知識を脳内に宿しながら、街の書店の居並ぶ本を手に取り、漫然と楽しむのも一法かも知れませんね。
2025.06.29
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〇某年6月19日、吟行句会の題材を求め、今宮神社に寄りました。小さな赤い太鼓橋などをカメラに収め、本殿礼拝、境内を歩いていると、男女の職人が青いビニールシートの上に碧い葉を束ねて茅の輪を作っている最中でした。 ところで6月の末日には「みなづき」を食べてお祓いをしますね。あの小豆入りの餅が三角形をしていますが、何を形どったものなのでしょう?<あてなるもの(上品なもの)、けづりひ(削り氷)にあづまら(甘葛)入れて、あたらしきかなまり(金属製の浅い椀)に入れたる>と『枕草子』にも記されていて、清少納言らは、削り氷に甘いシロップをかけた、かき氷のようなもの夏の涼味として食べていたようです。洛北に六ケ所あった氷室から天皇に届けられていたようで、6月1日には「賜氷の節」という節会が宮中で行われていました。これに因んで、氷の形を模した三角形に作られるのが「水無月」です。北区の鷹峯から氷見峠を越え、杉坂へ向かう街道から少し逸れた北の方に、栗栖野氷室が残っています。
2025.06.28
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〇私にとって僅か二年間の佐賀市での暮らしは何ものにも変え難き大切な思い出の倉庫。校内に土俵のあった一度目の小学校、家には大きな枇杷の樹があって、夥しい収穫がありました。三学期には別の社宅に住み、赤松小学校に転校。学校の正門は「佐賀の乱」の砲弾痕のある佐賀城の砦門。御濠が校庭の先にあって、冬場には蓮根を掘る夫婦が無言で働いていました。 長姉は劇が上手く、「湖上の美人」?という演目の狂女役をシビアにこなし、学校中の評判。お前の姉さん、気違い?と同級から聞かれるほどでした。その姉が佐賀から大阪に転校するにつけ、担任の御厨先生に書いて貰った台本で、二つのお芝居をレコードに吹き込んで貰っていました。佐賀市内の玉屋デパートにエレベーターが出来る話題で佐賀弁ばかり。今もSP蓄音機で聴くことが出来ます。 その玉屋デパートの正面に飾られたのが花氷。これも忘れ得ない画像でした。 歌舞伎座のロビーの隅の花氷 北河 翠
2025.06.27
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〇2008年某日の記事によれば、この日、2度目のファッション・ショー見物、抽選で招待券を獲得してくれた家内に感謝しています。ファッション・ショーはね、ファッションそのものの見物だけではなくって、当日参集した関係者席や一般席の中に垢抜けした美人、素でも美しい雰囲気、オーラー出始めの素人美人がわんさと居られる事も魅力の一つです。 さて、モデルさん達は、それぞれ工夫をした歩き方をしています。外人の足の長さは流石ですが、日本のモデルさんも最近はマネキン人形並みに均整のとれた肢体を持って居られ、嬉しい限りです。 ローマを本拠地とする「FENDI」の秋冬コレクション(主に毛皮)では、あちらのモデルが陰気な雰囲気の中、無表情という表情の中、睨みつけるような目でインパクトの強い表現をしていました。日本のモデルさんも洋物の衣装では「睨みつけ」作戦が主流でした。人気女優の掘北真希さんは愛くるしい表情でしたし、準ミスユニバースの知花くららさんには観衆を魅了するオーラーのような大きなもので包み込む優しさと華やかさが感じられました。
2025.06.26
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〇改造社版『志賀直哉全集』第九巻には、龍安寺に寄せた直哉の一文が収録されています。<龍安寺方丈の庭は相阿弥の作で、一樹一草も使わぬ石だけの庭である。大小十四の石が五十余坪の平地に五つのかたまりに置かれてあるだけの庭である。・・・奇抜で思ひつきのやうであるが、吾々はそれから微塵も奇抜とか思ひつきとかいふ感じを受けない。それは相阿弥の作する動機の深さから来る。・・・吾々は広々とした海に点在する島々を観、島々には鬱蒼たる森林の茂るのを観る。(ここが一番主張したい部分でしょう)<自分は桂の庭が(小堀)遠州の長編傑作であるとすれば、これはそれ以上に立派な短編小説であると思ふ。・・・相阿弥が石だけの庭を残して置いて呉れた事は後世の者には幸だった。>直哉の考えは、他の名園がその時代のまま現在に受け継がれているのか不詳であるけれど、龍安寺の庭では<吾々は当時のままでそれを(=相阿弥の思い)感ずる事が出来る。>と述べています。 受験浪人時代の私は川端康成の『新文章読本』を片手に、漱石から潤一郎、そして短文の名手・志賀直哉をも手本にしていました。俳句と言い、簡潔な構成の中に、自分の思いを読者に伝える事は技術を伴いますので、飽きる事のない修行の世界のように思えるのです。
2025.06.25
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〇テレビ画面に登場する芸能界女性の大半が自己を美しく見せようと今風の化粧法に従い、目の在りどころにも留意されているのが感じられますが、若い男性もナルシスト化しているように感じられます。 さてさて、学校の美術の時間に習ったアルブレヒト・デューラーはルネッサンス期のドイツの画家。彼の作品の自画像を観ると、相当なナルシストぶりを感じてしまいます。木村泰司氏はその著『名画はおしゃべり』でデューラーを取り上げる中、<「芸術的な気質の持ち主=芸術的才能の持ち主」であるといった勘違いを、洋の東西を問わず多くの人がしている。或いは、現代の日本に蔓延する「芸術に携わること=格好良い」といった風潮が何よりもいただけません。芸術を目指す道は苦難の道であって、楽しい趣味の範疇の話ではないのです。それはプロではなく、責任のないアマチュアの話なのです。>と触れておられます。私の小説や詩作、或いは作詞・作曲も趣味だから気楽に楽しめました。話を元に戻せば、ルネッサンス以前、画家という職業は職人の一つという程度の評価でした。それを芸術の域と認めさせるべく、デューラーは自画像を何枚も描いて、苦悩の結果を白日の下に晒したのでした。
2025.06.24
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〇日本には9種類のホタルが分布するが局所的に発生する種類が多く、5月旬から6月下旬までの光輝強くゆっくり光るのがゲンジ。 世に言う蛍合戦は交尾に関係ある行動で、空中で好配偶を得た一対は草葉の上に来て交尾。ヘイケは6月下旬から7月上旬まで。 晋の国の車胤は華南福建省の生まれで、そこには体大きく光強くゆっくり明滅し、しかも四季を通じて生息しているので、”蛍雪の功”が可能だったとか。 では、俳句を添えましょう。 蛍火の鞠の如しやはね上り 虚子 親一人子一人蛍光りけり 万太郎 飛び交うて一つは暗き蛍かな 王城 蛍籠昏ければ揺り炎えたたす 多佳子 供へたる蛍が照らす位牌かな 湘風 蛍火に四方山壁の雲ケ畑 野風呂 どちらともなく手をつなぐ蛍の夜 星 子 宇治川に舞う蛍を宇治蛍と言い、紫式部が『源氏物語』を綴った石山のを石山蛍と言うのなら、わたしの地元、小泉川の蛍は地域名から”乙訓蛍”、或いは小泉元首相を捩って”宰相蛍”とでも名付けましょうか。
2025.06.23
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〇あの幻想的な緑色を点滅させて優雅に飛舞する蛍について、わたし達はどれほどの知識があるのでしょう。 昭和34年発行、平凡社「俳句歳時記 夏の部」(編集代表:富安風生)を紐解けば、あらまし次のように記しています。 螢 初蛍、蛍火、飛ぶ蛍、蛍合戦、源氏蛍、平家蛍、蛍籠。 [解説] 陰暦72候の1つ、6月・中の第一候に、「腐草為蛍」とあり、昔は草がむれて腐って蛍となると信じられていました。 陰暦5月26日源三位頼政の忌日に、頼政の怨霊が蛍となって、宇治で蛍合戦をする伝説など。万葉以前に蛍の文字が無いのは、多分ほかの名前で呼ばれていたと推察されています。 語源は火垂(ホタリ)或いは火照(ホテリ)の転と辞書に出ています。雄も雌も、蛹(サナギ)も幼虫も卵までも、一生を通じて光っています。 (前編)
2025.06.22
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〇古来から髪は女性の命に等しい大切なもので、吉田兼好も「女の髪のめでたからんこそ、人のめだつべかんめれ」と徒然草に書き残しています。その頃の美容法では、黒胡麻を9度蒸し9度水にさらし、粉にしてなつめのにくとまぜて丸め、日に20粒ずつ朝夕飲めば黒髪になれるという記録もあるようです。短い髪の女性を助ける法として”おちやない”という商売、つまり落ち髪はないか?と言って買い歩き、それをかもじ(加文字)つまり鬘にして売り歩く商売があったようです。『源氏物語』や『枕草子』、『栄華物語』にも表記されていて、髪の短い女性に鬘が利用され、表着の裾から1尺2寸ほど出るのが良いとされていた由。鬘の種類、舞妓、芸妓、花魁などの髪の種類や装飾品については『日本髪の世界』に詳しく出ています。(参・奈良本辰也編『京都故事物語』)
2025.06.21
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〇掲載が1日ずれてしまいましたが、昨日6月19日は「桜桃忌」と言って、太宰治が山崎富枝と入水した日でした。元来江戸の町衆は井の頭の池から流れ出る神田上水を飲み水にしていましたが、人口が増えつづけ、神田上水だけでは賄いきれず、多摩川の水を引くことを思いつきました。ただ、江戸の殆どは海を埋めてできた新興地、塩分を多く含むため、上流から延々と、引かざるを得ませんでした。京町家の玄関口に見られる三和土(たたき)の手法を採用したという逸話があります。 黒々と人は雨具を桜桃忌 桂郎 夜学生教へ桜桃忌に触れず 欣一 太宰忌の夕日まるごと沈みゆく 明子
2025.06.20
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〇某年某日、NHK「生活ほっとモーニング」は鳴子温泉郷を採りあげていました。子供の頃の私は、このこけしを綺麗だなと愛ずる一方で、恨みに思ったりもしていました。それは本来衣服が収まるべき整理ダンスに、畏れ多くもかしこくも、こけし達の寝台であったからでした。こけしだけでなくトランプ、切手、古銭、宝塚スターのプレート、ビデオ・カセット、美術書・・・などが増えて行くにつれ、とうとう段ボール箱に詰められ、物置小屋へと島流しに遭ったこけしの末路なのでした。 鳴子こけしは、義経が平泉の藤原秀衡の足下に逃れる道すがら立ち寄ったとされる鳴子で、赤ん坊をあやす為に弁慶が考えたとされるこけしの前身。それが累々と芸術性を高めつつ、製法によって泣き声まで鳴らせるように工夫されたということです。亡父すばるは美への憧れが強かったものですから、筆遣いの美しいこけしに魅入られたのもうべなる哉と思います。父の魂が甥に乗り移ったのか、長姉の子が何度も鳴子を訪れ、すばる以上にこけしの虜になっているようです。こけしに絡む専門書、こけしの幾つかを彼はこの家から自分の手元で大切にしてくれています。大阪の帝塚山の住宅に居た頃は、50センチほど高い床の間が一間半ほどあって、その飾り段に同じ作家の同じガラのこけしが大小15体ほど並べてあった時は壮観な眺めでした。父は蝋を沁み込ませた布で毎日拭き磨いていました。あれから半世紀もの日数が過ぎ去りました。 それでもこけしの表情に変わりは無く、いつも柔和な笑顔を見せているのです。これは亡父の微笑みなのかも・・・??
2025.06.19
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〇鬱陶しい梅雨の季節に在って唯一の楽しみは、あじさいを堪能できることですね。「あづ」はあつ(集)、「さい」は「さあい」(真藍)、つまり青い花が集まって咲く様子から名づけられたようです。花色は酸性土では青、アルカリ性土では赤紫色を呈するとも書いてありました。 女という不思議を生きて紫陽花活ける」・・・これは梅田という女性の句ですが、時には頼り無げな、時にはふてぶてしく逞しい女性の精神力、生活力、世渡りの巧みさを含めた、或いは女は男次第でどうにでも変わりますよという皮肉もこめた女性心理の不可思議を詠って居られますね。 「紫陽花の毬は大きなメロンパン」by星子これは首を垂れることなく瑞々しいメロンパンを掲げ刻々と変化する様を詠んだ旧い句です。大山崎町には円明教寺や大山崎山荘にも美しい紫陽花が咲いています。そこいらの門ごとには紫陽花や額の花が、空梅雨にもめげないで咲いていますね。
2025.06.18
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〇食事に於ける箸の使い方の例として、口に対して真正面、直角の方向から箸の先を押し込むという、若い人が好む食べ方が主流になっています。では、箸の使い方として宜しくない振る舞いは幾つあるのでしょうか? 1)込み箸(箸で食べものを押し込む食べ方)2)噛み箸(箸の先を噛む仕草)3)ねぶり箸(箸の先を舐める仕草)4)咥(クワ)え箸(箸の先をくわえる仕草)5)せせり箸(箸の先を楊枝代わりに使う)6)かき込み箸(器に口をつけたまま、かき込む、お茶 漬け)7)寄せ箸(器を手で寄せないで、箸で寄せる)8)探り箸(底の方までオカズを掻き回して具を 探す)9)迷い箸(何から食べようかと迷い、箸をあち こち動かす)10)移り箸(一旦箸をつけた料理を食べずに、 他のものを食べる)11)刺し箸(食べものを箸で突き刺す)12)指し箸(箸で人や方角を指し示す仕草)13)涙箸(料理の汁気を滴らせ、卓を汚す)14)渡し箸(器の上に箸を渡す、ヘリの部分で も良くない)15)叩き箸(器や卓を箸で叩く仕草)16)仏箸(てんこ盛の御飯に箸を突き刺す)17)拾い箸(箸から箸へとバトンタッチする仕 草、これは火葬場での骨拾いを連 想させます)これら、御身に覚えはありませんか?
2025.06.17
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〇某年某日。前師から乙訓の難しい地名を教えて戴きました。先ず葛原(クズハラ)は昔の京都の地名で葛原郡から分かれて弟訓(乙訓おとくに)の地名が生まれたそうです。鶏冠井はカイデと読みますが、これは蛙手の姿から楓、それの上半分切り取った形がまるで鶏のトサカにそっくり。井は本来住む場所を言うとのことでした。粟生はアオ。わが息子と同年齢(18歳)とおぼしき敦盛を討ってのち、仏門に入った熊谷直実で有名な光明寺は粟生にあります。神足は神様が至る→カミイタルが訛ったところへ、足という文字を当てたようです。駅前再開発と同時に、JR神足駅は親しまれ易いように長岡京駅に変わりました。 神足のむかし語りも梅雨地蔵 星子久御山町には一口と書いてイモアライと読み、巨椋池の近くにその名を用いた豪族もいました。長岡天満宮は道真公が九州に左遷の旅に出られた折、筆で自画像を残された由緒から祀られたようで、本来は横大路に草津という処があってそこから舟出されました。北向かいに見返り天神が祀られているようです。長岡の境目の伏見区には羽束師という地名も。一方西山連峰にある楊谷はヤナギダニ、目の治療に霊験あらたかということで霊水の柳谷観音が光明寺の末寺として今も訪れる人も多いようです。 霊水の楊谷寺まで道をしへ by星子
2025.06.16
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〇人間の体内には無数の血管が走っていますが、その流れが悪くなると健康状態に変調を来たします。同じように家々が密集している場所や植木の手入れを怠っている庭にも同じことが言えそうです。某日トイレに入っていた時、涼やかな音色が聞えてきました。何となく聞き覚えのある金属製の風鈴の音色。随分遠い所から聞えているようで居て、小さな音ながらしっかり耳元にささやく音色です。何を隠そう、これは金属製の火箸を四本吊り下げた風鈴で、姫路名産第五十二代明珍宗理作の銘品でした。風鈴の短冊には「只許清風到」(只清風が到るを許す)と書かれた山田無文の筆。昭和を代表する禅僧で禅文化研究所を興し妙心寺派管長、花園大学名誉学長だった無文禅師は、私が某行千本支店の外交をしていた頃はお元気でした。若き時代、病床から眺めた風から悟りを得ようと仏門に入ったとされる山田無文さんらしい風の音色が耳に快く聞えます。またこの涼やかな音は、父亡きあと荒れ放題だったわが家の庭をせっせと綺麗にしてくれた家内の労力の生み出す風の音色でもあるのです。
2025.06.15
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〇昭和44年7月13日、大山崎文化協会(当時会長:小林政治郎教育長)が中心になって「葛原親王記念碑」の除幕式を円明寺団地内で行っています。葛原親王(780~853)は、長岡京時代に桓武天皇の第3皇子として生まれましたが、皇族を嫌い、庶民と共に生活したと言われています。現代でも皇子のファンが多く、「親王塚」や「屋敷跡」が保存されています。昭和44年当時、円明寺一帯は住宅化が進み、これらの遺跡に児童公園として永久保存に努めたものでした。記念碑は2つとも、幅50×横20×高さは、前者が300センチ、後者が200センチ。それぞれ「葛原親王屋敷伝承地」「葛原親王塚伝承地」の碑題が入っています。当時の大山崎小学校6年生の大槻裕子さんが幕を取り除くと、神谷町長、小林教育長、や地元の30人から拍手があったと新聞には掲載されています。
2025.06.14
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〇宇野宗佑氏は図らずも女性問題で国家の宰相の場から引退された御仁でしたが、歴史学者、文筆家としても一流の人で「中仙道守山宿」(有限会社青蛙房刊)では、旧家の総領として、滋賀県守山市に関わる歴史を詳細に綴って居られます。七五三の膳、杜氏来る、兎狩り、鴨、象、蛍、地蔵盆、風船、草もみじ、伊勢参りなど、過去の文献や祖母からの聞き伝えなどを参考に史実をも交えながら見事な文章で紹介して居られます。 また日本でも指折りの人形収集家として、酒蔵を利用した人形館に、日本は勿論世界各国の人形を展示して居られるようで、数年前、家内と訪問した時は時間の都合で拝観できませんでしたが、いずれ機会を見つけて宇野さんの集められた人形を観たいと思っています。
2025.06.13
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〇大阪の信太地区に古くから伝わる保名と葛の葉の恋物語。 恋しくば尋ね来て見よ和泉なる 信太の森のうらみ葛の葉余りにも有名な和歌ですが、大阪の郷土史家・牧村史陽氏は、この和歌は古歌を寄せ集めて造ったものと断言しておられます。 * 南北朝時代の「増鏡」の一節に、頼朝が天王寺へ参詣に行った折、和泉の国の一老尼の訴状によってその旧地を安堵したときの歌があって、 和泉なる信太の森のあま鷺は もとの古巣に立ちかへるべし或いは、「新古今集」にも赤染衛門が、<和泉式部、道貞に忘れられてほどなく敦道親王かよひ給ふとききて読みつかはしける。 うつろはでしばししのだの森をみよ かへりもぞする葛のうら風おなじく返し 秋風はすこし吹くとも葛の葉の うらみがほには見えじとぞ思ふ >これは二首とも恋の歌で、心の乱れさわぐのを葛の葉が風に乱れるのに比べ詠んだもの。これらの歌をつきまぜて信太の森の葛の葉が風にそよいで裏葉をみせるのを「恨み」にいいかけ、和泉式部が道貞に別れたのを信太のきつねが夫に別れたことに思い合わせて、こうした歌を作りあげたものと推測できるし、 *葛の葉とは女の名ではなくて、信太辺にたくさんあった葛の葉をさしています。更に同じ「新古今集」に わがいほはみねのやまもと恋しくば とぶらひ来ませ杉たてる門などとあるものも参考となっていると思われます。結局これらの歌を集めればそのまま「恋しくば・・・」の歌が出来上がると牧村氏は説いておられます。
2025.06.12
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〇関西では8チャンネル、アンビリバボーという番組では5月23日を恋文の日として紹介し、その最たる例として宮崎の貴島テル子さん97歳の現役女医の純愛を報道していました。 文字が綺麗でないという理由、書き誤っても消しゴムも二条線も要らない便利さゆえに、最近は専らパソコンに頼る日々を過ごしていますが、心の中では自責の念が薄れません。やはり文章は書いた人物の筆跡を通して相手に伝わる度合いが高くなると思っていますので、ましてや恋文は・・・。ここからテル子さんの話です。<友人の兄と初めて出会い、双方ともに一目ぼれ状態。それが高じて主に文通によってふたりの信頼が深まっていました。彼からのプロポーズを快く受け入れましたが、戦闘機の軍人である彼をテル子さんの父親は認めようとはしませんでした。それでもふたりの根気が奏功し、めでたく結婚。しかし新婚生活も彼の戦地への赴任もあって、わずか75日。ふたりをつなぐものは手紙のみ。いよいよ米国との激戦が顕著になって来ると、彼からの手紙は死を覚悟した文面ばかり。やがてそれもぷっつり途絶えました。テル子さんの許に愛おしい彼の戦死の知らせが届き、1カ月ほどは泣き暮らしていたテル子さんは、婚前の彼とのデートの折、彼の姉のように、女性も職業をもって独立すべきと言っていたことを思い出し発心。彼の両親に一旦別れを告げ、必ず戻って来ると誓い、猛勉強の末、立派な女医として嫁ぎ先の名、貴島医院を開業され、現在も現役として子供たちの病気を治していらっしゃいます。>彼女の宝は150通もの亡夫の手紙。 メールが悪いとは言いませんが、やはり自筆の、そこそこ思いの伝わる手紙が、言葉として永遠に輝きを保つのではないでしょうか。
2025.06.11
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〇外出する時は肩下げバッグに飲み物と句帖の他に、何かの読み物1冊を忍ばせて出かけています。掲題『京都 なるほど事典』(清水さとし著)は左右の頁つまり2ページに収まる範囲内で、京に関する豆知識を盛り沢山綴って下さっている便利帳で、電車内で読むのにぴったり。第1章「古寺・名刹・神社仏閣を歩く」 その最初の見出しは”どうして東寺があって、西寺がないのか”から始まって、”大原野の十輪寺にある塩釜に秘められた恋とは”まで43話。第2章「京都の歴史を知る街歩き」 ”山城国に平安京が造営されたのはなぜ?”に始まり、”鹿ケ谷の陰謀事件と真夏のかぼちゃ供養”に至る30話は、「京都通」になる裏ワザとも言えましょう。この日記で本当の京都を知るには観光地よりも寧ろ京の町々を歩いて下さいと口酸っぱく申し上げている所以です。第3章「京都の味を食べ尽くす」(25話) 例えば”南禅寺と嵐山に湯豆腐の店が多いのはなぜ?”・・・この項を読めば、時の流れが歴史・景観を変えてしまう恐ろしさに気がつきます。南禅寺にある1635年創業の「奥丹」と、片や1850年代創業の嵯峨豆腐「森嘉」の人気にあやかり昭和30年代に殖えた嵐山地区とは重みが違う筈ですが・・・。このほか「怨霊・魔界・百鬼夜行を歩く」(15話)や「京都通になるための知恵袋」(21話)とまぁ、完全に読破した上で、この本1冊を携え て京の町を歩き廻られたら、あなたは立派な「京都通」になられることでしょう
2025.06.10
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〇大永年間(1520年代)、美濃国に珍しい油売りが現れ、「当世名物一文銭の油売りでござ~い。油を売るに漏斗は使わず、一文銭の穴から通します。たら~りたら~り。上から通します。見事通りましたら拍手喝采。万が一、穴の外へ少しでもかかりなば、お代が免除、油はただで進ぜましょう。どうぞお買い求めなされ」とうとうたらり、~十垂らりっと、とうたらり *クレハホームソングにもこんな歌詞の歌がありましたが、現在その冊は不在の為、不詳。 稲葉山城主長井藤衛門の家臣矢野五郎衛門が巷の噂を聞きつけ、彼を呼び寄せ、油売りの口上から三間槍の妙技まで確かめ、城主にこの松波庄九郎を目通りさせ、これを機に国盗三昧、やがて、斎藤道三へと大変身。
2025.06.09
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〇私は京都市内で生まれ、小学2年の1学期まで桂という片田舎で育ち、亡父の転勤で九州は佐賀市に引越しました。最初は市内の南ショウタン小路という処で、学校には土俵があって体育の時間に回しを着けて相撲を取った記憶がかすかに残っています。そして京都からはるばる一日がかりで汽車に乗り、辿り着いた社宅の門前に、会社の人が出迎えて下さり、綺麗な色とりどりのアイスキャンデーを振舞って戴いた、そのキャンディの原色っぽい黄色を鮮明に覚えています。本来一階の瓦葺でしたが物見櫓(畳一畳分の広さ)が有ったこと、庭には枇杷の大樹があって、籠三個ほど、枇杷の収穫があったことを覚えています。
2025.06.08
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〇18世紀末イギリスのワットが発明した蒸気機関が島国日本に敷設されるには二百猶余年の月日を要しました。日本人で最初に蒸気機関車に乗った人物は土佐の中浜万次郎、次いで新見豊前守ら咸臨丸の人々。鉄道敷設には陸軍を含む反対論者が多く、紆余曲折を経たのち、明治5(1872)年、新橋~横浜間で開通しました。当時の天皇は直衣に冠、供の者も直垂に烏帽子姿だったのですが、5年後、京都~神戸間の開業式に臨まれた御姿は大礼服になっていました。で、初代の京都駅は旧七条郵便局、現在のタワー・ビルの場所に、左右対称の切妻屋根、赤煉瓦造り、瀟洒な洋風2階建。明治10年の京都駅附近の地図には大阪へ向かう線路の表示や御土居が点線で描かれています。千年の昔から牛の引っ張る御所車しか見たことのない京都の民は、東寺の塔を覆い隠すほどの陸(オカ)蒸気の煙や地響き、威圧感に驚きながら「1時間40分で大阪に着くんやて」と囁きあっていたことでしょう。(参考図書「京都駅物語」荒川清彦)
2025.06.07
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〇古い話題で恐縮ですが、2009年の日記です。6月に入ってから3日間は午前中がフリー、木曜から本日まで終日フリーの日が続いていますので、自作曲のパソコンへの再録保存やカセットテープ、ワープロのフロッピィ等の整理に時を費やしていました。すると娘のお食べ初めの折に録音したものが出てきました。時は30年も遡り、義父母と母との会話の弾む様が如実に遺されているテープです。 新婚時代は吹田市は豊津という垂水神社の近く、40坪の敷地に6畳・6畳・3畳+キッチン・浴室という小さな家に間借りしていましたが、家主の方が東京の支店から戻って来られたら、その古家を直ぐ出る事になるので、新築マンションの見学・申し込み並びに大阪府の賃貸住宅への申し込みも行って居て、当選し、この録音テープに録音した千里ニュータウン、南千里の5階建て、その3階玄関口のスペースにはピアノを据え、南隣はキッチン、西は浴室・洗面・トイレ、東側に6畳2間があるだけの狭い賃貸アパート。7年目にして授かった長女の晴れの日を祝っている光景の録音テープなのでした。阪急電鉄の南千里駅から徒歩3分という至便さ。南面にはバルコニーがあって6畳もキッチンも浴室も比較的明るかった。一棟ごとに建て方が異なっていて、我らの棟の方が住み易かったのですが、そんな違いを語ったり、蛍の話などとりとめもない会話が途切れませんでした。そういう貴重なカセットテープ、義父母も母もみんな鬼籍の人になってしまいました。
2025.06.06
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〇中村汀女さんは昭和の4T(星野立子、橋本多佳子、三橋鷹女)と称賛された女流俳人の一人でした。そんな俳人汀女さんにも、故郷の熊本にはたまに会える母親テイさんがおられました。 <母は私(汀女)の帰郷にご膳立てをして待ってくれる。お吸い物の身はタマゴ、大きな輝くようなゆでタマゴがころりとはいったおわんが、私をほろりとさせる。私の国では「お吸いもん」の汁は冷たくする。冬でも冷たいすまし汁はのどにひやりと気持ちよい。 調理の様を見ていたら、砂糖はツボから、茶のみ茶わんですくいこまれていた。グラムやサジなどおよそここでは縁がなく、すべてが目分量、かんの働きである。> 逗留のひと朝芭蕉つと巻葉 汀女汀女さんは昭和63年、88才で天寿を全うされた。あやかりたいのもですね。
2025.06.05
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〇テレビ番組の大半がお笑い芸人・タレントで占められていると言っても過言ではない程ですが、近代日本では講談が主流で、多くの英雄・豪傑が生み出され、三面記事的なことも題材にされ、歌舞伎と共に史実抜きに脚色化され、庶民・大衆に浸透して居たのでした。 江戸末期に松林伯円という講談師が居て、白波ものが得意で、弁天小僧、鼠小僧などを語りものし、人気を博しました。加えて、1855年河竹黙阿弥作の「鼠小僧東君新形」(ねずみこぞうはるのしんがた)という歌舞伎が世評を呼んだのでした。鼠小僧次郎吉は江戸堺町に住み、武家屋敷99か所にまぎれこみ、3020両以上を盗み、天保3年8月19日に処刑されました。それにしても彼が武家屋敷を専門に荒らし回ったことで日頃武家階級に抑えつけられていた憤懣を庶民は心地良く喝采したのでしょう。武家屋敷の警備は一見厳重そうですが、現在の行政府と同じ、セクト主義がこの時代にもあって簡単に忍び込めたようでした。
2025.06.04
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〇数年前、家内の懸賞応募で、実にささやかなものが當りました。トマトの苗。そこで家内はお百姓さんに早変り。牡丹の株の近くを耕し植えました。庭の二箇所に蛍袋の株があります。一つは小じんまりとした愛らしい白色。もう一つは西の庭に元気よく咲いている赤紫の株で、袋が鈴なりにぶら下がっているので、家内の生花の贄となってトイレに飾られました。
2025.06.03
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〇文芸春秋編『食ー京都の誘惑』の176~177頁には掲題の品々を紹介しています。納豆、おから、枝豆、ヒジキと油揚げ、塩豆、ホタルイカ酢味噌、なすのゴマ和え、山芋千切り、キンピラ、ほうれん草と椎茸のおひたし、なすの辛子漬け、イカの腸和え、ジャコと大根おろし、チソの葉佃煮、高野豆腐、丸干しいわし、梅干し、小芋の煮ころがし、蕗の葉佃煮、ニンジン・大豆・コブの煮物、たか葉の油いため、炒りたまご、山椒の葉佃煮、大根ハリハリ漬け、はたけ菜、油揚げのお椀ちょうど26種類もの品々があります。また、生麩名店「麩嘉」の品々は一月から順に、手鞠、梅、桃、桜と橘、粽、青梅、糸巻、南瓜、瓢箪、紅葉、菊と柚子、12月はくわいと蜜柑いずれも綺麗ですね。
2025.06.02
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〇30数年前の季刊「銀花」第9号には”和紙”の特集が組まれて居て、民芸運動の立役者:柳宗悦が寿岳文章氏に宛てた和紙の手紙(出雲岩坂の安部栄四郎の漉き技で、柳家の家紋も漉きこまれたもの)の写真と一緒に一文などを載せています。また彼の著『和紙の美』は紙子紙に漆文字の装幀、和紙の実物入り本文用紙小川産の凝りにこった書物だったようです。また寿岳文章家の番傘は「ひきの強い紙に、ぱらぱらと落ちる雨の音、私はあれが好きだ・・・紙の傘はいつまでもあって欲しい」と『紙漉村旅日記』に寿岳氏も書き残しています。 父が野風呂前師から戴いた野風呂直筆の句の数々、宝船の画数枚、京鹿子結社戦前の俳人たちの寄せ書きなどまたいつか使おうとして父が遺している和紙がまだ沢山あります。
2025.06.01
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