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〇昭和24年か5年ごろ、妹の誕生前後だったと思われますが、桂小学校の4年生ぐらいだった長姉が「すずらん姫」の主役になりました。物資の乏しい中、母が幾夜か夜なべしてバレエの衣装を拵えました。薄手のギャザーの白地に緑色の縁取りを施した幾つかの「鈴蘭」紋様。母の子への愛が伝わる作品で、今もその柄を鮮明に覚えています。当時の主婦にとってお裁縫は必須科目。子供の洋服やブラウスなどは自分で作る時代でした。 現在は昭和に直せばすでに百余年。庭の片隅で咲いている「スノードロップ」の花を見て居て、大昔の思い出が蘇ったのでした。この衣装を着た長姉は、去る26,7日の深夜、突然!浴槽にて逝去しました。宝塚歌劇を愛し、歌・演技力に秀でていた姉よ、安らかに永眠なさいませ♪(付記)姉の葬儀では、目の不自由な(聞き覚え)姉が所属していた合唱団・コン・アモーレの皆様が、さくらさくら等の数曲を姉の遺影に向かってご披露していただきました。棺に花を入れるお別れの時間、小さく演奏されたピアノ伴奏、「すみれの花」や宝塚の幾つかの主題歌に、私のファルセットを添えましたら、合唱団の皆様から、ひとこえ、三声、耳元に囁いてくださいました。
2026.03.31
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〇昭和24年か5年ごろ、妹の誕生前後だったと思われますが、桂小学校の4年生ぐらいだった長姉が「すずらん姫」の主役になりました。物資の乏しい中、母が幾夜か夜なべしてバレエの衣装を拵えました。薄手のギャザーの白地に緑色の縁取りを施した幾つかの「鈴蘭」紋様。母の子への愛が伝わる作品で、今もその柄を鮮明に覚えています。当時の主婦にとってお裁縫は必須科目。子供の洋服やブラウスなどは自分で作る時代でした。 現在は昭和に直せばすでに百余年。庭の片隅で咲いている「スノードロップ」の花を見て居て、大昔の思い出が蘇ったのでした。この衣装を着た長姉は、去る26,7日の深夜、突然!浴槽にて逝去しました。宝塚歌劇を愛し、歌・演技力に秀でていた姉よ、安らかに永眠なさいませ♪(付記)姉の葬儀では、目の不自由な(聞き覚え)姉が所属していた合唱団・コン・アモーレの皆様が、さくらさくら等の数曲を姉の遺影に向かってご披露していただきました。棺に花を入れるお別れの時間、小さく演奏されたピアノ伴奏、「すみれの花」や宝塚の幾つかの主題歌に、私のファルセットを添えましたら、合唱団の皆様から、ひとこえ、三声、耳元に囁いてくださいました。
2026.03.31
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〇この世に生を受けてから自分自身が得たものの中での宝ものと言えば、もちろん家族と健康でしょう。次は青春時代の想い出。それがグリークラブという男声合唱の世界。百人近いメンバーが心を一つにして生み出したハーモニィと休符の余韻。手垢でぼろぼろになり、赤鉛筆やカラーペンで書き込まれた楽譜。年数回発行した機関紙。演奏会のチケット、チラシやプログラム。カメラに収めた古い景色。学生時代に愛用した参考書や辞書。大学時代の学生証、学園祭に出した短編小説入賞の新聞。幼い子供たちが微笑んでいる八ミリ映画。小首をかしげたあどけない顔・・・こう言う写真等も宝物に違いありません。企業戦士で働いていた当時の職場写真以外には中年期の宝物がぐんと減ってしまいます。最近は至近な想い出がどんどん記憶の彼方へと薄れていくばかりですから、夫婦単位の想い出作りや、趣味の俳句作品や、ボランティア・ガイドの想い出などを・・・。やはり意識をもって行動しないと、想い出という宝ものを具体的に残すことが難しそうです。
2026.03.30
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〇16年前の4月には七尾方面に家内と旅していました。旅館に荷物を預け、華の香号というミニ遊覧バスにて七尾市の観光スポットを巡りました。能登では嫁入りの時に一度だけ使う豪華な暖簾・花のれんを披露、それを潜って嫁入りの第一歩となる慣習が今も続いているようです。加賀百万石の祖、前田利家の手による両親の墓所が長齢寺に残っています。ご住職さんは不在で奥様の適切なガイドを頂戴しました。夫人は大阪は石切のご出身で、彼女も18年前、花のれんを潜られたそうな。最初は何度も帰阪して居られたものの、平成14年の大河ドラマ「利家とまつ」の放映から急遽、大人気スポットとなり観光客の波が押し寄せるようになったので帰阪は無理だとか。寒い日でしたが、奥様心づかいの熱い茶一服が何よりものご馳走でした。また七尾市の一本杉通商店街の皆さんは労を惜しむことなく、丁寧に応対して下さいました。
2026.03.29
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〇子供の頃、濃い目に書きたいような気がして鉛筆を舐めて書いた記憶がありますが、その一方で鉛を含んでいるんだから身体に毒という恐怖観念が無きにしも非ずでした。しかし親や兄弟から聞いたその知識は誤まりで、英語のleat pencilやドイツ語のbleist(鉛)+stift(ピン、釘)の訳意に因ります。 鉛筆の芯は黒鉛(炭)と粘土を混ぜ合わせ、糊で固めたもので人体には無害。一方、色鉛筆は顔料や染料、タルク等と蝋等と混ぜ合わせたものだから普通の鉛筆よりも柔らかくて折れ易い。そこで折れにくいように、厚みが均一になるよう丸い形に工夫されています。 桂枝雀さんの落語「貧乏神」では、怠け者の大工にくっついた貧乏神が、一向に働こうとしない彼に業を煮やし楊枝づくりの内職を始めたところ、上下両方とも削ってしまい、即刻首になっったと言って笑いを誘います。しかし両面を尖らせば一本分多くなる訳で一理あります。我が家には二十四色の色鉛筆や、水に浸せば水彩絵の具のように描けるものもありますが、画才がないので、宝の持ち腐れになっています。草萌えの土手や疎水べりの柳、それに桜などの風景を描けば春の謳歌になるのですが・・・。
2026.03.28
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〇某月某日、地元のスナックに飲みに行ったとき、後から来店されたお客さんが、点数附きのカラオケが大好きな男(ヒト)で、ママの話に拠れば、これまで何度か全国1位をとっている御仁なのだそうだ。歌というものは聴衆の耳に、心に届いてこそと思っている私には、機械が判断するカラオケの点数方式、順位方式は根っから好みませんが、お遊びとして全国1位に命を賭けておられるこの御仁に、つい同調しました。彼は1曲目が5位、私の1曲目の美川憲一「大阪の夜」は4位。ママの実姉(御歳73、4?)も来られていて、これは40位。但しその曲を歌っている人数も多いのでした。さて2曲目は高得点の出そうな平坦な曲を選んでみました。フランク永井の「こいさんのラブコール」。歌っている画面には、曲想やボリュームやリズム、音程などの項目ごとに、棒グラフが上ったり下がったり、高得点の場合はカラフルなグラフの柱が頂点に行きっ放し。それで、わたしの結果はどうだったのでしょう?各項目ごとの分析による五角形が割と大きな面積を保って居て、その日、全国で1500人ほどのチャレンジの中で第1位という表示が出ました。これまで、付き合いの上での点数争い、順位カラオケは2回ほど経験しるものの、そのいずれもが不発でしたが、この日ばかりは晴の第1位と言うことで、恥ずかしくも、少し嬉しくもありました。
2026.03.27
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〇新幹線のスピード性について述べるなら、ビジネスの一環として有用な速さという便利さは否めませんが、旅の手段として乗物を思うとき、昔ながらののんびりした列車への愛着は次なる旅への誘い水になっていますね。そして旅と言えば、駅弁。子供の頃、列車の窓越しに買った茶器は素焼きの容器で小さな茶呑み碗がついていました。給食のパンの容れ物に似たものを首から吊り提げ、自慢の弁当を売り込むおっちゃんの目の優しかったこと。 父から教えられた作法に、<折り弁当は先ず蓋にくっついた米粒から1粒づつ箸でつまんで賞味し、漸くおかずに箸を進めるべし>があって、私は勿論なのですが、その作法は長女に及び、自然態で溶け込んでいることが血筋なんだなと感心する次第です。いつぞや岡山の女性合唱団とジョイントした折、何度と無く中間地点で合同練習をしましたが、懸賞好き・スタンプラリー好きの家内の依頼で、岡山、姫路、神戸、新大阪などの駅弁を買ったことがありました。父の代から残る駅弁の陶器の容器にも郷愁が漂っているのです。
2026.03.26
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〇カラスはもともと人とつかず離れずのに生きてきた頭の良い動物で、ライオン等の猛獣のお零れを狙うハイエナ的生存法を選択しています。本来密林のカラスと呼ばれるハシブトカラスでさえ、近頃は山奥よりも人里や町中を根城にしているようです。似たような生き方をする動物には雀、ドブネズミや土鳩も居ますが、何と言っても、ずる賢いカラスは大きな大脳を持ち、エサへのこだわりもなく、何処にでも巣作りができること、そして旺盛な繁殖力を供えています。 杉田昭栄著の『カラス』を参考にすれば、落穂拾いをするカラスは、ほかにヒコバエ(稲を刈った後に出る稲)は美食として好み、畜舎の周りもご馳走でいっぱいとあって、牛の背に止まるカラスは牛の毛を抜き、巣の一部に利用しているようです。日本には5種類のカラス(ハシボソ、ハシブト、ミヤマ、ワタリ、コクマル)がいて、カラス科には、カケス属、オナガ属、カササギ属、ホシガラス属が仲間として存在するとか。犬より脳が立派なカラスは自分たちに不利益を負わせた人そのものは勿論、その人の所有する乗用車も覚えていて糞落とし等の仕返しをするとも言われています。
2026.03.25
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〇毎日のように編集に追われていますが、いくら記事を集めて本に仕立てても、翌月号に訂正事項としてあげるのは最も辛いことで、それ故、校正作業は軽視できません。 毎日新聞校閲グループ編の『校閲記者の目』はあらゆるミスを見逃さないプロの技術をまとめていて、興味を覚えたのは、校閲グループの前に貼り付けてある訓。 校正可畏。 焉知硃筆之不如墨也。 四回五回而無訂焉。 斯亦不足恃也已校正はおそろしいものである。赤字が原稿に及ばないといったい誰がいえようか。4回5回(の再校)にして誤りを正すことが無いのであれば、依頼するに値しない。同社前身東京日日新聞初代社長の福地源一郎の言葉で、論語の一節「後生(後進の者)は恐るべき存在だ。今の我我ほどになれないなどと誰が言えるだろう・・・」を校正に直した訓。 俳句数千句の校正5名、本文欄1~3名の私達の肝に命じる訓でもあります。
2026.03.24
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〇朝日新聞の日曜版に、各紋様の紹介コーナーがあって、その隣のページに、「木々の百花撰」というシリーズも併載されていて、文・高橋治、写真・富成忠夫、題字・坂野雄一というお顔ぶれ。高橋さんの文章との相性が良いので、今後ときどき、転載します。 うらうらと山茱萸の咲く枯木中 中村嵐石冬の去りきらぬ山を黄に彩るから、牧野富太郎が、春黄金花と名づけたという。 源平時代悲恋の民謡ひえつき節の”庭のさんしゅゆ”は薬味のさんしょうで、現在も九州で誤用されると一書にある。 <戦前わが家(高橋氏)にこの歌を持ちこんだのが佐賀出身の豪傑東大生、私(高橋氏)の家庭教師だった。 歌い、かつ九州の春を語ったが、聞いてほしいお目当ては私の姉らしかった。(中略) 山茱萸に明るき言葉こぼし合ふ 鍵和田秞子 山茱萸の黄や町古く人親し 大野林火実が美しいことを知って読むと次句意味深い。 山茱萸の黄にかがやきて身籠れる 芳沢かつ子>此処までが高橋さんの文章(一部割愛)です。 今から十年前、大山崎ふるさとガイドの会有志で、奈良は百毫寺などの閻魔堂を訪ねがてら、奈良の閑静な住宅街を歩き回ったことがありました。 その折見た山茱萸の綺麗さ。数年前、大阪は住吉公園で見かけたのも山茱萸だったような・・。秋に成る実は棗の形をしたオレンジ色。 山茱萸の貴公子然としてをりぬ 星子
2026.03.23
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〇鷹匠同心といえば譜代席ながら禄はわずか30俵二人扶持、片山勇八は雑司ケ谷の組屋敷に住んでいました。 *<27日、みえ(妻)が留守に候とて、東隣寺田より茶を煮てくれ、西隣久保田より茶と芋の煮つけ呉れ候。28日、今日も西隣より飯くれ候。東隣は菜と蕗の煮たのをくれ候>とあり、里帰りでもした妻不在の同士を両隣からまめまめしくご飯や煮物、茶などを振舞って貰っています。現代の付合い、助け合いに比べたら、慎ましくも幸せな人情が感じられます。同様に彼の歳末餅つきも26日の日記に、隣組協同で行った様子が書かれていて、<今日も餅搗を例の通り田家にて一所に致し候。辰(午前8時)より始めて正未(午後2時)に終る。>ついでに新生児宮参りの赤飯やあんころ餅を作って方々へ配った様子なども。 また箪笥町の植木屋・平兵衛が来て、家の前で屋台店を開業、その看板を書いて欲しいと障子2枚、横障子1枚持参で頼んだようで、<するめ、つけやき、さとう入りきん時ささげ也、ゆで玉子、丸あげ、さつま芋のつけあげ也>と2枚したため、横障子へは芋と玉子を車に積み、5、6人にて引き候所を席画の図面にしたため、遣し候。やきいも1袋みやげにくれ候」とあります。 また旧暦の2月12日。勇八は同僚家の娘たちと共に摘み草にも行っていて、<・・その後娘達にそそのかされ摘草に出候。>おつげ、おとき、おてい、おとめらの名前があって、なんばん飯にうどの汁、なとりの平などにて振舞を受けています。(参考図書:稲垣史生著)「時代考証事典」)
2026.03.22
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〇1冊目は101曲の主題歌集で昭和44年発行。1ページには静間潮太郎氏の男役・左右の女役のシンプルな絵。幸せを売る妖精、虹のオルゴール工場の2曲、東京の空の下、夜霧のモンマルトル、波間に何か漂う、花の中の子供たち、すてきなあの娘、筏流し。 2冊目は昭和47年発行。那智わたる・八汐路まりらしき男女の絵。我が愛は山の彼方に、今もお前が、君ありてこそ、朱いけしの花、さよなら皆様。3冊目は昭和52年版。p1には安奈淳・榛名由梨・汀夏子・鳳蘭4人の写真。愛あればこそ、タヒチの歌、この恋は雲の涯まで、すみれの花咲く頃、幸福を売る人、落葉散る丘の小径。昭和59年発行の4冊目の巻頭には、高汐巴、大地真央、麻実れい、峰さを里の写真。他の号と重複する曲を除けば、知らない曲ばかり。それもその筈、この時代は一度も観劇していませんでした。すみれの花とタヒチの曲は加茂さくらさんがよく歌って下さった。カラオケにある曲でわが十八番は「この恋は雲の涯まで」「愛あればこそ」。好きな曲は「今もお前が」です。
2026.03.21
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〇わたしらの大先輩、小まめ姐さんや米一姐さんが活躍しておいやした時代は、祇園には700人もの舞妓・芸妓はんがおいやしたさかい、お座敷へ呼んで貰うんにも、えらい競争やったそうで、10名程しか居やはらへん今の舞妓はんは、或る意味では、お座敷もようかかって楽なんと違うやろか?ああ、紹介が遅れまして堪忍どすえぇ~、わたし祇園の芸妓やらしてもうてます、星奴と申します、よろしゅうご贔屓にしとうくれやす。 あんなぁへぇ~、わたしら祇園で生きてゆくもんにとって一番大切な心がけは、お母さんから耳に胼胝ができるほど、聞かされたことどすけど、挨拶や思てます。或る有名な東京のお客さん、その人は東京でいろんな花街で遊んで来とおいやすお人どすけど、やっぱり祇園は違うなぁと言うてくれはるんどすえ。しんそこ、心が癒される場所や言うて目細めはるんどす。そやさかい、わたしら道で逢うた人には、分け隔てなくお辞儀したり、挨拶してますのや。祇園界隈に足を踏み入れた途端、何や気ぃが落ち着くて言うて貰えるん、嬉しおすえぇ~。祇園で生まれた長女は、一家の面倒を一人で引き受ける格好になりますんで、そらぁ辛おすけど、そこを明るく楽しくお座敷勤めるのが芸妓のプライドどす。 数人で来ておくれやしたら、花代そんなに高こうおへんさかい、是非来とうくれやす。一緒に遊びまひょ!
2026.03.20
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〇京都新聞社編『東山三十六峰ー京都案内記』(河出書房)は約60年も前に発刊され、既に絶版となっている為、詳しくは述べられませんが、詩人、随筆家の串田孫一氏の文章を参考にしますと、第1峰 比叡山第2峰 御蔭山(別称・高野山など)第3峰 赤山第4峰 修学院山(離宮の山)第5峰 葉山第6峰 一乗寺山第7峰 茶山(情延山)第8峰 瓜生山(城山など)第9峰 北白川山(勝軍山)第10峰 月待山第8峰 瓜生山(城山など)第9峰 北白川山(勝軍山)第10峰 月待山第11峰 如意が岳第12峰 吉田山第13峰 紫雲山第14峰 善気山第15峰 椿ケ峰(不動山・宮山)第16峰 若王子山 法然院あたり第17峰 南禅寺山第18峰 大日山 蹴上辺り第19峰 神明山第20峰 粟田山 青蓮院があります第21峰 華頂山 知恩院があります第22峰 円山 祇園・八坂神社の東第23峰 長楽寺山(将軍塚)第24峰 双林山第25峰 東大谷山(東漸寺山)第26峰 高台寺山 寧々さん縁りの地第27峰 霊山(霊鷲山)第28峰 鳥辺山 昔の墓所第29峰 清水山(音羽山)第30峰 清閑寺山第31峰 阿弥陀ケ峰 太閤秀吉眠る山第32峰 今熊野山第33峰 泉山(月輪山・泉涌山)第34峰 恵日山第35峰 光明峰第36峰 稲荷山以上ですが、「京鹿子娘道成寺」の長唄にも山づくしとして第九段の鞨鼓の踊りの歌詞に出てきます。
2026.03.19
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〇宝物とは行かなくとも大切に残しておきたいものが多々あります。父の親友だった新関一杜(淑郎)氏の書簡集もその一つ。 それは「みちのくだより」と称し120号まで及び、彼が東北に単身赴任して居られた数年間の、亡父との往復書簡で、季節折々の植物などがデフォルメされた逸品なのです。図柄は、笹巻き、山菜の王しほで、さくらんぼ、早咲きのリンドウ、杜若、蔵王スケッチ、蕎麦の花、ねこじゃらし、囲炉裏端、なすび等等。 父は菓子道楽、うまいもん道楽していましたが、一杜氏もしかりで、手紙の中にはうまいもんの紹介や感想も書かれています。 俳句を介して同じ勤めの同僚が、恰も恋人に文遣るごとき頻度で、その友情の深さには余人の入る隙すら無いほどです。 亡くなる前の、病床にある父が彼に送った最後の手紙は、「ちょっと旅してきます。どうか、このまま放念下さい」という内容の葉書であったことを葬儀の席で披露して戴き、どっと涙が溢れたことを思い出しました。 奥様のY子さまも気品があって、物静かで俳句を嗜まれ、絵筆もお達者でした。某年、十数年、寡婦だった奥様の逝去による年賀辞退の葉書をご長女から貰いました。
2026.03.18
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〇私の誕生日は去る11日ですが、ひと昔前、懸賞マニア?の家内のお陰で、誕生祝いは、琵琶湖ミシガン号の乗船ペアーご招待。 甲板で餌をやる人に寄ってくるユリカモメの群れを三階の甲板から見下ろしていました。緑色の湖面と白カモメとのコントラストを眩しく感じました。 やや霞がかった天候でしたが、日本一広い湖上には幾艘ものヨットが思い思いの場所で春の光を反射しながら斜交いに進んでいました。続いて京阪坂本線に乗って坂本駅まで。 坂本近辺は、穴太衆という石組みの名匠たちの里があります。至るところで豊かな水音を聴きながら散策したついでに旧竹林院のお庭を見せて貰いました。名刹の誉れ高いお庭からは、山盛り茶碗のような八王子山が樹間に見えました。澱みのない池には緋メダカや川蟹がいました。 *穴太衆の見事な石組みをいくつも見ながら2駅歩き再び電車にて浜大津まで戻り、琵琶湖ホテルのレストランにて暮れ行く琵琶湖を見ながら和食を戴き、わが誕生日は夫婦二人で過していました。
2026.03.17
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〇勝木俊雄著『日本の桜』(学研)に拠れば、花による検索では散形状花序→大島桜、山桜、霞桜、高嶺桜、豆桜など、散房状花序→大山桜、寒緋桜、江戸彼岸、総状花序→深山桜など。葉の形状による検索もあって、微妙な違いがあります。 瀬戸内寂聴さんは、佐野藤右衛門さんとは互いに嵯峨野に住んでいながら、滅多に逢う事がないものの、偶に会うと、昨日会ってまた会ったような自然さで「よう」「よう」という調子となり、忽ち話が核心に入っていくから不思議と評されていました。 桜と言えば藤右衛門、その藤右衛門さんは派手な染井吉野が大嫌いで、一番いいのは山桜との由。山桜の品の好さと、素朴な美しさは、桜の女王とまで宣う。これを目にして、最近、電車や街騒で見かける若い女性は、化粧法や美という認識の在り方が欧米風。某日のフェイスブックでの拙作「輝く貴女に」に添えた数枚の乙女の写真と今とを比べたら一目瞭然。私の初恋の人は、電車のなかでも目立たないところが却って目立った女性でした。
2026.03.16
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〇毎日のようにバーや小料理屋に飲みに行く或る酒豪に言わせれば、その引き際は粋人たる者にとって極めて大切なことなんだそうです。 あまりも素っ気ないのは以降、軽んじられるし、「では・・・」や「つけといて」では他の客の手前、メンツが下がります。下手な引き際だと、店から「何やポッピンのケツかいな」と揶揄されさそう。 ぽっぴんはフラスコの首を長く伸ばした形の薄ガラス製のおもちゃで、大阪ではポッペンとも言っています。江戸時代は正月に、これを吹いて楽しんで居たようで、喜多川歌麿の浮世絵「ビードロを吹く女」、切手で見たことがあるでしょう? 管には長短があって、1メートルに近いものもあるようです。管の先端から息を吹き込んだり、吸ったりすると、円錐形の底部分の薄いガラスが「ぽっぴん、ポッピン」と鳴ります。「ぽっぴんの尻」とは、薄い底の構造から、懐が薄いという洒落。また、軽薄な人や尻軽な人にも「ぽっぴんの尻」とも言ったそうな。
2026.03.15
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〇篠崎晃一監修、佐々木正考著『アレ何?大事典』という本から2つほど抜き出しました。< >部分は殆ど本の文章のまま。* *部分が私の文です。<傘を閉じたときに留めるベルトの名は?> <傘を閉じる時に、ギュッとまとめて締めるのが役目。フックで引っかけるものだったり、ボタンでパチリと留めるものだったり、バリエーションも様々だ。単にベルトと呼んでしまいそうだが、通称ネームベルトという。>*そう、本来はあの部分に持ち主自身が名前を書き入れる(縫込みやマジックペン書き)ためのものでした。* <鼻と口の間に溝があるじゃない?>*<鼻と口の間にある溝は人中(じんちゅう・にんちゅうとも)。*<「鼻の下を伸ばす」といえばココを伸ばすことになる。この人中を人相学的に見ると、稼ぐ行為を表す鼻と財布を象徴する口をつなぐパイプ役。つまり金運にはすごく重要なパーツで、深く長い方が吉>*なんだとか。*
2026.03.14
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〇明治維新後、御所から天皇家が東京にお移りになったので、京都の人は寂しく暮らしていました。明治6年、オーストリアのウィーンで万国博が開催されるので、京都からも出品せよとの勧誘。これに対処すべく、西本願寺の白書院を会場として明治4年、博覧会の真似事があり、鳥羽僧正、ドモの又平の絵や空海、信長、秀吉、家康らの筆跡、鹿の胎児、頭のふたつある蛇など骨とう品やゲテものが陳列されました。開催1カ月ながら1万1千2百人、266両2分1朱の利益を計上。槇村大参事、大丸や三井、鳩居堂らの社長らの発起で博覧会社を設立。さらに盛り上げる為、祇園町、先斗町、宮川町などの花街に話が持ち込まれ、鴨の河原での花火大会、安井神社での能楽、知恩院三門の上にお茶席など。花街はこの時、各所にてをどりを計画。都をどり、鴨川をどりなどが人気を博しました。
2026.03.13
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〇某年某日。宝積寺にて温かい甘酒の振る舞いを戴いた後、本堂に上がり式次第の始まりを待ちました。 いつも柔和なお顔の住職さんの説明を聴きながら、鉦の鳴るのを合図に山門からお坊様、山伏、鬼たちが揃って登って来るのが見えました。 やがて読経などに続いて煌びやかな散華がありました。お坊様たちは彩り美しい木の葉形の散華をかわらけのように投げたり、近くの人々には手渡しで下さいました。 散華は尖った円形つまり目の形をした金地或いは銀色地に、飛翔する天女の絵やこの宝寺のシンボルである三重塔や蓮の花、尾の長い鳳凰、雅楽に使用する太鼓などの絵がカラフルに描かれた7cmほどの紙切れです。観音経、般若心経などの読経の中、鬼加祈(鬼役の人にもお祓い)があり、やがて鬼たちに豆を撒く追儺もありました。そして袴姿の年男・年女や公募した七福神たちが参詣者に豆を撒きました。 これは節分の行事でしたが、4月の18日ごろ、同じ出で立ちで「鬼くすべ」が行われます。
2026.03.12
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〇浪花の脚本家・秋田実著『日本語と笑い』(日本実業出版社)から拾いますと、 <若い時に聞いた話であるが、講談で有名な幡随院長兵衛、あの侠客のお墓の裏に一首の歌が刻まれてあった。 下の句が「仏の中の仏なりけり」、お詣りした人が、その歌を間違えて「男の中の男なりけり」と皆に伝えた。 *その文句の方が幡随院長兵衛に適わしいので、それから「男の中の男」という文句が流行り出し、さらに幡随院長兵衛が白柄組の水野十郎左衛門の屋敷へ単身で乗り込み、俎板の上へ料理してくれと寝たとこから魚に譬えて「男一匹」という新語が流行り出した。 そして後には、「男は一匹というのに、女はなぜ一匹と言わないのか?」「それは、女は、子供を産んで、何匹にもなるから」そんな冗談も出てきた。> それから「いつまでも有ると思うな親と金」というフレーズは、歌から引用された言葉で、これは漫才の舞台で明らかにされたようです。「いつまでも有ると思うな親と金 無いと思うな 運と災難」だって!
2026.03.11
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〇いろんなものの数え方、数詞は知っているようで、実は曖昧。波・海・嶺はその字の前に一をつければいいけれど、山は違います。一座。風雅なものは月。「幅」は火影を数える言葉で、ここから派生して、一幅の月明かり。また窓のすき間から細く差し込む月明かりを一条の月明かりとすれば、俳諧的。 面白いのはデモ隊を一波、流れ星は一筋、棚は一架、アイロンや梯子の一挺、そろばんは一面。まとめた髪から一つ外れた髪は一筋、落ちてしまった髪は一本、束ねた髪は一茎。鳥居は一基、寺の鐘は一口、簾は一垂れ、張り子の虎は一張り、笠は一蓋(がい)。(参考『絵で見る「もの」の数え方』町田健監修)
2026.03.10
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〇わが心の師・鈴鹿野風呂翁の『野風呂序文集』は京鹿子五十周年記念に上梓されたものですが、その中に父の句集『春燈』に添えて戴いた序文があります。 父が公にした句集はこの一冊だけですが、七十才の折、ワープロを購入、いろんな絵模様の中に句を入れた自作の句集は四集ほど作り、俳句を愛する後輩の人々に配っていました。 話が逸れましたが、『春燈』の序文の中に京都を愛した父の一面を捉えられた野風呂翁の一部分を参考までにご披露しましょう。<…すばる兄みたいに(最初の)来訪記念日をよつく覚え、而も年々歳々欠かさずに親しくとひ、遠くにあつても消息を怠らぬあたゝかい心の持主は稀である。すばる兄は私と同じく純粋の京都つ子である。而も兄は中京の鉾町生れである。京都人と云へばどこかヾ冷かなところがあるとやゝもすれば噂せらるゝ、けれどもすばる兄の如くあたゝかく正しき好漢も居る。 【昨年祇園会の一つの鉾が損傷した。復旧に骨が折れる。】この記事のある京の新聞を佐賀で読んだ兄は金若干をイの一番に喜捨した。やがてこの事が京の新聞、ラジオが報じた。あたかも私がスイツチをひねると電波にのつて胸に迫るではないか。 放送の終りも敢へず筆をとつて知らせた。之によりその鉾町の人々乃至京の人等を刺激し、立派に復興した。> <注>佐賀に居る間、父は叔母を介して二年間、京都新聞を郵送して貰っていました。
2026.03.09
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〇戦国期までは天子も将軍職も世襲制に慣って来ていましたが、自分の息子たちよりも後世を託すには能力者が良いという考えを記したものが、斉藤道三の遺言状で、京の妙覚寺に残されています。<わざと申し送り候意趣は美濃国の地、織田上総介の存分に任すべきの条、譲状、信長に対し贈り遣わし候事> この時は長男の義龍によって道三は滅ぼされたので、遺言通りになりませんでしたが、後年、孫の義興が信長に奪回されています。歴史的には秀吉が五大老に秀頼の事を託した経緯が伝えられていますが、宣教師フランシスコ・パシオ宛の手紙では、 一旦家康に政権を譲り、秀頼が成人した暁には豊臣家に政権を戻して欲しい意向が記述されていたそうな。 秀吉の時代ではまだ、世襲制には戻らぬ戦国期の名残があった事は秀吉にとって不幸と言えましょう。しかし家康とても二代目将軍を誰にするか重臣に相談したところ、意見が分かれていたようで、本多正信は二男の秀康を、大久保忠隣は三男秀忠、井伊直政は四男忠吉を推したという事は、長男の松平信康(切腹)を除けば、家康の子に秀逸な子が居なかった裏付けとも言えましょう。(参考文献・小和田哲男著『国盗りの組織学』)
2026.03.08
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〇童謡「かごめ かごめ」を検証すると、幾つもの不思議に出遭います。 先ず”かごめ”って何のこと?”夜明けの晩”っていう歌詞も矛盾しています。めでたい時に使う”鶴・亀”が滑って転ぶもの変。止(トド)めが”うしろの正面 だぁれ”の収め方。 * わらべ唄の遊びは幾つかのジャンルに分けられますが、この唄は「箪笥長持ちどの子が欲しい?」同様、「子取り遊び」の一つ。千葉県野田市の古社である愛宕神社には、「籠の中の鳥」の彫刻があって、籠の中の鳥は、いついつ出やるという訳で、籠には破れ目まで拵えてあるようです。 野田は江戸初期から醤油の産地として知られ、江戸川伝いに堀川へ、その水門を通る時には低い余り身をかがめる必要性があったので、屈む=かごめに転じたと推察されます。 鬼役の子供は霊媒師・呪術師のひとつで、屈みなさいと唱えつつ、霊力を高める為、ぐるりを廻ったとも考えられます。かがめではなく、囲むの命令形から転じたとも言われ、霊を外に逃がさない為に囲んだとも。後ろの正面、 *つまり真後ろで見えない人を霊力で当てる遊び、いや神事の例かも知れません。
2026.03.07
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〇大山崎の名刹・宝積寺の仁王門を少し上ったところには「待宵の鐘」があります。大晦日の晩には善男善女が並んで除夜の鐘を撞きます。この梵鐘の願文は、 「天下泰平、国土安穏、特庄内安全、十方旦那諸人快楽(ケラク)也」と小文字で彫られていますが、鐘の名の謂れは石清水八幡宮別当の娘・待宵の小侍従に因んでつけられています。 彼女は平安末期の近衛天皇の皇后多子に仕えた女流歌人で、恋人が来るのを「待つ宵」と、「後朝(キヌギヌ)の別れ」とのいずれに趣が深いかを問われた時の歌が 待つ宵に更行かねの声きけば あかぬわかれの鳥は物かは(新古今)と詠んだことから、恋う男性の訪れを待ちわびる女性の恋情をこの鐘に託して後々、「待宵の鐘」と呼ばれるようになったとか。 小侍従は恋歌の名手だったので、恋の成就に効果がありますよと私たちガイドが説明しますと、女性の皆様は悉くワァーと歓声を上げて下さいます。
2026.03.06
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〇古いキセルの中に「大仏張り」という奇妙な刻印を押したものが、今でもかなり数多く保存されています。「大仏張り」はキセルとしては、もっとも形状の古い初期のものですが、いたるところに残っているところを見ると、よほど大量に生産されたもののようです。古い記録を調べてみた結果、このキセルなんと大仏さんの生まれ変りと判明。それもことの起こりがおもしろくて、頃は天和年間(1681~83)、天下をおさめた徳川幕府が真っ先にやったのは豊臣秀吉がつくった目ざわりな建築物や文化財をかたっぱしからこわすことでした。ところが京都に秀吉が造営した銅製の大仏をつぶす段になって、その処理に頭を痛めました。重臣たちが協議の結果考え出したのは、それを利用してキセルをつくり、庶民に売るという一石二鳥の方法なのでした。そこでついた名が「大仏張り」。当然何百万本ものキセルがつくられたのに相違ありません。うたかたのように消えた豊臣政権を、煙をくゆらすキセルによって表現したあたり、まさしく「坊主憎けりゃ袈裟まで」を地でいった徳川幕府の痛切な政策というほかありません。(参考文献・旧専売公社発行「続・たばこ立ちばなし」)
2026.03.05
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〇常々私は人の真正面にあってもその人の裏側を観る心の姿勢で、本当の人格を読み、個性的な女性だったら、そっくりそのまま歌詞に変えてしまう様なことをしてきました。表面の美しさだけに捉われないよう、時には街を歩く折、レントゲンを当てたような骨格として人物を見ない訳でもありません。浄土真宗僧侶の川西蘭氏の「坊主のぼやき」を読んでいると、初めて死者に対面する時、取り乱しやしまいかと不安に駆られておられましたが、死相図とりわけ鎌倉時代に描かれた「小野小町九相図」を何度も観て居るうち、これが人間の死の事実だと悟った途端、<筆遣いの繊細さに目がいくようになり、描線に美しさを感じたりしました。腐乱していても美しかった頃の名残があるように描かれているのですね。絵師の腕には感嘆します。>と述べておられます。人間と謂えど他の動物同様、死んでしまったら魂の抜けた亡骸、九相図にあるように、生前相、新死相、肪膨相、血塗相、蓬乱相、青瘀相、噉食相、骨連相を経て古墳相と変化するようです。
2026.03.04
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〇QC運動家の藤田董さんが某塗料関係の商社の受付嬢のお辞儀がお座なりでなく、丁寧で、心がこもっていて感じが良いと思われたので会社側に特別な教育を実施されたのか問われたそうです。ところが、それは受付嬢たちが自主的に研究して結論を出した方法だという話でした。彼女らはストップウォッチ片手にいろんな会社の受付を覗きに行き、立ち上がって、いらっしゃいませと言うタイミングやお辞儀の角度、言葉遣いを調査したとのこと。 +ストップウォッチを用いることによって数値的に記録され、平均値は2秒、しかし感じの良い会社のそれは3秒。彼女たちはこれまでの2秒半から30秒足し、立って、いらっしゃいませと言ったあと、頭を下げ、1、2、3と数えてから頭を上げるようにした。ただ、それだけで、心がこもっている、と感じさせるようになったと言う話です。この大発見は、経営者や部課長など上からでは思いつかない、ストップウォッチで測って一番良いお辞儀の仕方を知ると言う発想に成功が潜んでいたことになりますね。<参考図書・上前淳一郎著「読むクスリ」(文芸春秋)>
2026.03.03
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〇2006年2月某日の日記では、関大の入学式に臨席し、学歌等を披露する為の練習を話題に。 現役の人数が細るばかりの関大グリー。3月20日の卒業式に列席して男声合唱による学歌、学生歌、そして「さくら(森山)」を演奏する為に、しばらく練習から遠ざかっている私にも応援せよの伝令がありましたので、練習に参加して来ました。粗削りな出来栄えでしたが、追々修正して行けば、中高年の男の魅力ある美声で会場内の女子学生は元より、グリー・クラブの存在をアピールし、しいては新しい現役が入部するように働きかけたいと思っています。念願の「入学式」でも現役と一緒に式に参列し、男声によるハーモニイで新入生獲得の一助となるなら、幸甚に思います。>
2026.03.02
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〇一度、この記事はお披露目していますが、再掲載させて下さい。<先日サントリーの小冊子「洋酒天国」について書きましたが、物置の棚からまた別の小冊子数冊を発見しました。朝日麦酒株式会社発行の「ホロニガ」がそれで、昭和42年7月10日付になっている創刊号から隔月で発行されているようで、〆て11冊。創刊号目次の主なものは「ずいひつ」 ビールよ今夜も有難う(安倍寧) ビールの季題(戸板康二) 野村が打つとグイッ(井沢淳) ピーチューのこと(松野谷夫) 飲むほどに(岩崎謙太郎)サッカーブーム・・・撮影・小久保善吉「四十から」サッカー・・・轡田三男花のパリのカモナンバ・・・岡部冬彦 ほろにが交遊録 獅子文六氏の巻・・扇谷正造あ・ら・びーや・ないとホロニガ談話室(戸塚文子・三枝佐枝子・十返千鶴子)そのほか、麦酒・大世界史(バビロニアの巻)ビールに合う夏の料理(東畑朝子)立ち飲みのあるビヤホールバンザイ ビヤーガーデンなど
2026.03.01
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