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『言葉の「裏」を読む』という言い方がある。写真などを霊視する人と言うのがいらっしゃるが、その方たちと言うのは多分、写真の中をわざわざ意識して探ったりしているわけではなくて普通に我々が写真を眺めているのと同じ状態で私たち普通人には見えないものをそこに見ていると言うことなんだろうと思う。『言葉の「裏」を読む』と言うのも別に、そこで裏を勘ぐったりするということではなくて発している人が意識しているいないに関わらず、そこに含まれている内容をすっかりすくい上げている人と言うことであって、人の裏をかくとかといったニュアンスにあるようないやらしい勘ぐりだとか画策がそこに在るということではなくて言葉の中に含まれる全ての事を無意識のうちに感じ取っていると言うだけなんだろうと思う。ただ、普通人が写真を見ても霊能力のある人が見たほどには映っているものの中から内容をすくい上げられないのと同じで言葉の中に含まれる内容・心情の全体を汲み取れない鈍感な「普通人」からすると言葉の中にあるすべてのことを汲み取れる人と言うのが何かこう不気味で特殊と言う風に感じられたり根性が捻じ曲がった暗い人のように思い込んでいるだけで、実は、言葉を発している人と言うのは言葉を発する際に、何も頭を使っておらず、相手が自分の言葉をどう受け止めるだろうかと言うことを考えずに発してして、自分が無意識のうちに自分をさらけ出しているだけなんだという事が見えていないだけなんだろうなと思う。言葉の「裏」を読む人が問題なんじゃなくて、言葉の中に「裏」がある言葉を発している人が問題なんだよって思うね。或いは、裏のある言葉を発している事さえ自覚がないほどに自分が見えていない人であったり、嘘が日常に成っていたりする人って言う事だと思うヮ。
Oct 31, 2008
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本物に触れた者は触れた内容だけで終るという事がなくそこを起点として、いろんなところにその影響が及び不可逆的に開発されていく事になる。が、偽物の内容に触れた場合には、いくらその内容が見かけの上で立派に見えていたとしても触れた内容だけに留まりそこから発展・開発される事にはならないのだなと思う。いろんなことに頭を突っ込んでみてそんなことを感じるようになった。真理は、物事の基礎・基本ということであり、だからこそ、そこから物事に幅や奥行きが出来てくる。偽物は、表面をさらっているだけだからそこの部分でしか影響しない。ああ、そういうことなんだな~って思う朝だった。で、ひとたび本物に触れてしまうとそこから先はどんどん開発されてしまうから、もう、元の、見えていなかった状態には戻れないし、さらに見え易くなるだけなんだ。だから、より一層細かく感じるように変わっていく。神経回路が密になる~って感じ?
Oct 31, 2008
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http://sankei.jp.msn.com/world/europe/081024/erp0810242044003-n1.htm117億円ですか!6億程度で「BIG」とか言ってるな!っちゅう感じですね。
Oct 28, 2008
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訓練済みの犬であっても、全てが良い犬ということにはならない。私の中に在る良い犬というのは、何かが出来るとか、従うことに抵抗が無いとか、そうしたことよりも、悪さが出ないということに重点がある。悪さといっても、人間が着けてしまった悪さもあれば、その個体特有の気質から来るものもあるし、犬という動物の本能に基づくものだってある。が、悪さが出ないという点から言えば、人間が着けてしまった悪癖や恐怖、不信感、警戒心と言うのが一番不快感を感じると同時に生活していくうえでの弊害も多かったりする。個体特有の気質によるものだとか犬の本能からくるものと言うのはさほど問題ではない。まあ、ツェッペリンクラスのシャイになるとちょっと話は違ってくるけれど、それでも、問題は在ったとしても不快感と言うのは感じない。まあ、しょうがないよな。。。で終らせられる。で、人間が一度悪癖を開発してしまった個体と言うのは、訓練だの躾だのと称して施された内容を継続して行なうような関わりだとか、もとの悪さを引き出さないような扱いだとかをかなり意識していないと悪癖に回帰する事になりやすい。また、そうしたことを心がけていても周りに悪癖を触発する様な刺激が起きたりすると、意図せず、そこに戻ってくれちゃったりする。そうしたことが無い犬と、そうしたことがある犬とでは、本質的なところで、快・不快も差が出るし、不都合の有無もかなりの差が出る。確かに訓練で犬なんていうのはいかようにも変えられる。が、やはり、悪癖を開発されずに来た犬とそれを開発されて後是正された犬とでは能力からして違ってくる事を知ってしまうと開発されずに「素」のまま、よさだけを伸ばしてきた犬というのが非常に貴重な存在であり、何物にも代えがたい。悪癖を正して良くした犬というのならそんな犬は吐いて捨てるほど居るし、別に欲しいとも思わない。が、悪癖をつけずに育った犬というのは本当に入手が難しいなと感じる。本当だったら、仔犬の極幼い時期に大きな問題を抱えていた犬であったとしても、それ以後、しっかりそこを是正するように関わっていれば問題は在っても、悪さと言うのは感じられない子に育てる事は可能だ。それは、ヤマトを見ていていつも感じる。ヤマトが、大問題を抱えている子でありながらも、可愛いと感じられるのはそういうことだと思う。が、そうした人間が開発してしまった悪さと言うものが犬の奥底に常識として固定されてしまっていたり、ヤマトとは質の違った悪さなどが開発されていたりする事は本当に後々まで、関わっている事自体が大きなストレスとなる。大きな問題を抱えていた犬を直すといったマイナーな作業を中心として活動してきた経緯がありながら、一方ではブリードという作業を行なってみると、そうした、良い犬とそうでない犬との違いと言うのがクローズアップされ易い。が、そのどちらもやったことが無かったり、一方のみしか知らなかったりすると、こうした違いと言うのを理解していなかったりするから、やるべきときを逃し、もっと問題が固定化されて後是正したのであっても違いが無いと思っていたりする。が、こちらが快・不快の差として感じている以上に本人達犬はもっと人間に対する信頼への深さと言う部分に差が生じていたり精神の安定度に違いが生じていたりする。そこが解らないで、後になって是正をかけても効果は変わらないと思っていたりするのは大きな間違いだと感じる。
Oct 27, 2008
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犬が悪さを身に着けないようにと言う配慮を怠り一杯悪さを身に纏った後で、それが気に食わないと叱るのは無駄な叱責ではないのかな?叱責を受けるだけの悪さを刷り込む生活をさせたのはもっと伸び伸びさせてあげたいという犬が群の一員として生きるために身に着けるべきルールを徹底しようとしなかった貴方のおかしな思いやりや怠慢が原因でしょ?仔犬の時期に体得してしまった悪さと言うのは叱責を受けたその場は治まったように見えても奥底に根付いているそうした一度身に着けてしまった悪さと言うのは、事あるごとに頭を持ち上げてくる。そのたびに、その子は貴方の怒りに触れる事になる。何故、最初にそれを体得させない努力をしなかったのか?まだ仔犬だから。。。この時期は伸び伸びさせてあげたいから。。。そんな「余分な自分の思い込み」の犠牲に成ったんだとは思わずにその子が悪さを見せるたび貴方は迷わず叱責する事になる。自分がやった失敗など振り返ることも無く、叱られるのは犬が悪いからだと思って何も疑わずに叱る自分が群を取りまとめるαとして責務を立派に果たしていると自我自賛。その子がもっともっと幼い頃にそのαとしての役割を徹底させていたなら、その子は、物心つく前に素直で優しい思いやりのある子に成っていたはずなのに。。。退く事を教えず、周りを制することばかり体得させた後でそれは違うといわれ続けるその子の混乱や不満。それらを消化できるだけの我慢も教えてこなかった人が自分のαを主張するのは単に自分が支配的だからではないの?本当に思いやりのあるαだったら、その子が大きくなってから混乱したり不満を抱えたりしなくて済む暮らし方を教えたんじゃないかと思うのだけどね。それこそ貴方が嫌っていた恐怖で抑圧されて暮らすだけの子として叱責を受けているだけで、仔犬の時期にあるべき姿を教育されてたこなかったその子は叱責を受けている理由なんて理解できないレベルに育っていると私は思う。それが理解できるくらいだったら、もっと周りの空気が読める子に成っていたろうと思うし、そういう状態だったら叱責を受ける事も無かったろうと思う。周りの空気を感じ取るだけの繊細さだとか理解力自分が退くということを何も教えられずに育った子を今度はいきなり引っ込んでいろと言ってしまうαは、優しくないよねって思うんだ。それこそ、力と恐怖でねじ伏せるだけのαなんじゃないのかな?でもあなたの本質がそこにあってそういうのが好みだから「やんちゃ」という名の乱暴者が好きなんだよね。仔犬の時期にキツイ叱責を行なっているのを見た大抵の方たちはそんなに小さいのにそこまでする必要はないんじゃないか?!とおっしゃる。でもね、物心がつくまえに自分が退くべきなんだというのを教育されている子は物心がつくころには叱責されることと言うのが殆どなくなるんだよね。それ以後、寿命がくるまでの十年以上を穏かに、自分を認められて過ごすのと、僅か、数ヶ月の間やりたい放題が許されてあとの十年以上を否定され続けて暮らすのとではどちらが楽な暮らしだと思う?それが解っていないから仔犬の時期に伸び伸びさせちゃうんだと思うんだ。その時期に、犬の本能に合致しない周りに対する気配りの無い暮らし方をその子の常識にしておきながら後になって本叱りしたことを自慢げに話すのを目にするのはその子が哀れに思えて悲しくなる。
Oct 26, 2008
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昨晩(今日未明?)、旦那の部屋にがんちゃんを抱っこして入った。がんちゃんは、旦那の部屋と言うそれまでには入ったことの無い場所に緊張していたし、それを煽るように52インチテレビから「ER」の台詞がガンガン流れていて画像の忙しない人の動きにがんちゃんは目が点になってビビリまくっていた。抱っこしているこちらの肩に回したがんちゃんの前脚はガチガチに力を込めてしがみついていたから肩に爪先が食い込んでとっても痛い!そんな風なのに、ずいぶん大きくなったなぁとか言ってがんちゃんの鼻先に手を出して自分の臭いをかがせる旦那。ただでさえビビッテいるところに余計な刺激を与えんでくれ!と思うのに、ましてや人の臭いをチェックするようないやらしい習慣をつけないように育てているというのにわざわざそうやって自分の臭いをかがせようとする心理って何なんだろうか?よく、見知らぬ犬を触るときは自分の匂いを嗅がせてからと言う話を聞くけれど、見知らぬ犬にまでちょっかい出そうという自分を引っ込めておくことを知らないやつと言うのはわざわざかがせなくたって自分からバンバン匂いを発しているものなのに。。。我欲を放っている犬が体から強く匂いを放っているのとおんなじで、自分を引っ込めておくことが無い人間もやっぱり体臭がきつかったりするんだよね。わざわざ手を犬の鼻先に差し出さなくたって犬はすでにそうした我欲の強い相手と言うのがわかっていてだからガンちゃんはビビッテいたというのに、相手を恐がらせないように自分の情報を先に提供してあげるという一般論は、あくまでも「一般論」というだけでそれが正しいとは限らない。相手を安心させたいのなら無関心で居てあげれば良いことだ。相手の犬を安心させてあげるためなんかじゃ全然無くてただ、自分が相手の犬にちょっかい出す間噛まれたくないって言うだけなんだよってのが解り易い。そこまでして自分と言う存在を相手に知らしめたいというでしゃばりなヤツは一度ガッツリ噛まれればいい。そしたら、余計なちょっかいを出して相手を恐がらせたりしないで自分が犬の視界に入らないように少しは自分が退く事を覚えるのじゃないかしら?
Oct 25, 2008
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三つ子の魂とはよく言ったものだと思う。極々幼い幼少期に開発されなかったものは持つことが出来ないのだなと思う。その時期に、僅かでも開発されていれば、後から、それを種として、水をやり肥料を与えて育て上げていく事は出来るけれど、最初の「種」になる部分をその時期に開発されなかった人は後からどうあがいても出来たつもりであったとしても結局、芯の部分では何も育っていないのだというのがいざと言うときに表面化する。核の部分が出来ていないのに、その周りの肉付けをいくら施しても核が空っぽである事を補う事は出来ないのだと思う。
Oct 25, 2008
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が、結果は得たい。しかし、そこまでの努力はしたくないとか出来ないとかと言うところであたかも強要されているように思い込むことで自分の中に生じている不均衡を是正しようとする。結果を得たいのか?得なくて良いのか?努力をしてでもそうした結果を得たいのか?そこまでして得たいわけではないのか?自分の中での決着がついていないのだな。この、自分の中のことがクリアされていない事の自覚が無いままに他に原因があるかのように思いこむことで心の均衡を保とうとする「癖」を持つ人と言うのは、自分にとって何かまずい事が起きるたび、自分を振り返ることよりもそれは他者・相手に原因があったとして問題のすり替えによって心の均衡を保とうとするわけだから、自身を振り返るという事が出来ない傾向がある。そういう人の場合、自分が望む形の御互いの関係が自分の犬との間に成立しないことについても自分に原因があるということを認められなかったり、さらには、それをどのようにするのが正解なのか?といった思考に進むよりも、相手の犬を弄繰り回す事にばかり進もうとする。犬は、自分がやってきたかかわり方の結果でしかないということを認め、それを改善するには自分が変わる必要があるのだということを頭ではなく心で実感するまでにかなりの時間を要する事になる。元になっている他者への責任転嫁という「癖」は、ずっと以前から培われてきたものであるという事を考えると、本人が、それと自分に気づくとかそれを改善することを心がけるとかと言うことは本当に大変な事であり、ショックな事である事は充分想像に難くない。が、そこを変えていかなければ、犬とは、まず、上手く行く事にはならないと思う。何故なら、自分の中でのことも矛盾や欺瞞が一杯の非常に解り難い複雑怪奇な人を犬が理解できるとは思えないからね。
Oct 25, 2008
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今自分がかかわっているかかわり方は私が望んでいるものを手に入れるためのかかわり方であって、他の人が望みもしないのにそれを強要するというようなものではない。が、こちらがそれを強要しているように勘違いされる事がままある。それと言うのは、犬を作っていくのにどれだけの努力が必要で、どれだけの労作がかかり、どれだけの精神力を要することかと言うのがあまりよく解っていらっしゃらないために、今、私が得ている結果と同じものを欲していながら、さほどの努力や労作、意志力などが必要なことではないと思っているところからそうした誤解が生じてくる様に思う。犬という生き物がもっと簡単に扱えるものと思っているのだろうな。ところが、この犬という生き物真面目に関わってみれば解るのだけど、一筋縄ではいかない生き物なんだな。それは、まったく自分たちとは違う生き物に自分たちの考え方を理解させようと言うのだから一筋縄でいかないのはちょっと考えれば簡単にわかりそうなものなんだけど、世間の犬というのは実に巧妙に人間を騙して暮らしているから、そこら辺のことが犬の媚態に隠されて見え難くなっていたりする。が、そういう生き物を相手にすると言う場合、こちらは、かなりの努力が必要だということだ。結果が簡単に手に入るものという思い込みが有るから、望んだ結果を手に入れるのに必要な努力を示されるとこちらがそれを強要しているような勘違いが生じてくる。いや、そちらが、そうした結果を得たいと望むなら、そうした内容が必要になるよと言うだけで、それだけの結果を望まないというのであればそこまでの努力を払わない(払いたくない)という選択肢はもちろんあるわけで、結果を欲するのか欲しないのかだけハッキリしてもらえれば良いということなのだけどね。。。もちろん、結果を得たいということならそれなりに努力は必要になるのだけど。。。が、結果は得たい。しかし、そこまでの努力はしたくないとか出来ないとかと言うところであたかも強要されているように思い込むことで自分の中に生じている不均衡を是正しようとする。結果を得たいのか?得なくて良いのか?努力をしてでもそうした結果を得たいのか?そこまでして得たいわけではないのか?自分の中での決着がついていないのだな。それと、もう一つ、そういうジレンマに陥りがちの人と言うのは自己評価が実際よりも高いところにあるというケースが多い。実際は、それをこなせるだけの技術があるわけではないのにいとも簡単にそれをこなせる自分が居るように思っていたりする。が、現実はそんなに甘くないから、簡単に出来るだろうと思っていたことが実は、そんな簡単なことではなくて思いのほか苦労してしまう事から継続して努力する事に嫌気が差してきて、意地悪をされているように感じてしまうのだね。物事に対する見方が甘い。。。というか、自己の能力を過大評価している。。。というか、なぜ、そうした内容が「仕事」として成り立っているのか?というところに視点が働かないのだね。簡単に誰もが出来ることなら「仕事」としては成り立たない。そう考えれば、そんな短期間でこなせないのは当たり前なのであって、別に落ち込んだり苛ついたりするようなことではないのだけれど、そこで、落ち込んだり苛ついたりするのは、仕事にしているこちらの内容というのを簡単にこなせるかのように軽く見ていたということなのかな?と突っ込みを入れたくもなろうというものだ。そういう人は「一日僅か数分でよくなりました~!」とかいうのに毒されているんだと思うヮ。
Oct 24, 2008
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犬とのかかわりも子どもとのかかわりも充たしてあげるなんていうのは簡単だ。でも、充たしてあげた結果に責任を持つことは大変だと思う。人間の子どもも犬の場合でも充たすべき事と充たしてはいけない部分とがある。充たすべきは「安心感」。充たすべきでないのは「楽」と「贅沢」。でも、大抵の飼い主はこれ、逆をやっているなと思う。みんな、「本能に根付いている安心感」だとか、「諦める事の楽」というのを知らなくて、目先の「楽」だとか、人間的価値観で自由と言うのを捉えていたりするからだろうと思う。そう、それと、与える事の心地良さにすがっていたりする。与えないで居る事がなにか悪いことをしているかのような罪悪感があったりして、与えないでいる事に耐えられないという物質が溢れ、軽薄な愛情しか知らないという「現代病」を抱えていて「与える」行為の偽善感覚に汚染されているんだと思う。
Oct 24, 2008
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犬とのかかわり方というのは勉強とかと似ているなと思う。勉強と言うのは、やればやっただけ物事を知ったり理解が進んだりさらには、自分から何かを生み出すことが出来るようになる。やってもいないのに、結果だけ望んでもそんなものは叶う事は無い。犬とのかかわりと言うのも自分がどれだけかかわったか、関わろうとしたかによって相手との距離、相手が此方に抱く印象、言葉の通じる度合い、呼吸を読み取る能力などが違ってくる。今自分がかかわっているかかわり方は私が望んでいるものを手に入れるためのかかわり方であって、他の人が望みもしないのにそれを強要するというようなものではない。飼い主それぞれが自分の望むかかわり方をすれば良いのであって、人それぞれに望むレベルは違っていて当然だ。私は今、犬のことだけやっていれば済む環境に居るし、犬のことをもっと知りたいというのが望んでいることだから生活の全ての基準がそこにある。が、仕事を持っているとかお子さんがいらっしゃるとか、ご家族で介護を必要としている方がいらっしゃるとかもっとやらなくてはならないことがある人はそうしたこととの兼ね合いを考えて現時点での自分が自分なりにやれることと言うのを模索すべきなのであって、その中で、自分なりのかかり方の度合いを決めて行けば良いことだ。けれど、自分がやれているかかわり方の度合いと言うのを度外視し、結果だけを先に求めていたり、しっかり関われる環境に居て、やれることも一杯ありながら、それをやることを自分が怠っていながら結果だけ求めようとしていたりする。「自分がやったことの結果は自分が負う」と言う部分がすっぽ抜けているように思うんだな。自分が、きちんと関わってもいないのに結果の高望みも間違いだし、きちんと関わろうとしなかった結果を誰かに庇ってもらおうというのも間違いだ。今、関われる環境に居て、やれることは一杯有るのに、それを怠っている結果そのツケは後から確実に自分に降りかかってくることになるというのは解り易いことなのに、関わっていない割には物事が問題なく丸く治まると思い込めるのは何故なんだろう?予測が出来ないから?楽天的だからか?自分がやっていること、やったことの結果は自分が負う。良くも悪くも関わった以上のものが手に入ることはないし、関わっただけのものが手に入らないということもない。ただそれだけのことが、なぜ理解していないのかがとっても不思議。
Oct 23, 2008
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気が小さいからね、興奮しやすいのだわ。だから、それを逃がすのに、飛び跳ねてりゃ満足だったりする安上がりな幸せ君。もうちょっとそのウハウハを抑えないと君、早死にしちゃうよ!
Oct 22, 2008
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犬が相手を舐める行為と言うのは、相手を舐めている事だと気づいている人と言うのは余り居ない。舐める=舐めている舐められる=支配を受け入れているに成っているわけだけど、それを甘えられていると思ってしまうところに人間の愚かさがある。犬が犬同士でしきりに耳の中を舐めているところなども舐められている側が舐めている側の支配行為を受け入れている形であり、決して仲良し子吉でグルーミングしてあげているわけではなくて、耳の中を舐められている側と言うのが生意気による興奮から耳の中が蒸れて臭いがちなのが支配側にとって自分より下のヤツが派手に自分の匂いを放っているというのが気に入らないからそうした匂いを自分の涎の匂いをなすりつけることで自分のテリトリーの主張だとか生意気に自分の匂いを飛ばしてんじゃネェヨをやっているだけなんだよね。言ってみれば、それは愛撫なんかじゃ全然無くて、単なる「制裁」。考えてみたって解るじゃん!?他人(他犬)が、自分の耳の中にごちょごちょとベロを差し入れてくるんだから、そんなのが決して心地良いはずが無い。鼻息、鼻水、涎、舌による摩擦。気持ち良いわけ無いじゃん!特に、犬にとって「耳」というのは急所なんだからそこを相手に好き放題されるのを受け入れるって言うことはソケイ部提示と同じことであって舐めている側にしてみれば、相手がそれを受け入れるかどうかと言うところで自分の支配力の確認を行なっているということだ。で、気にすべき点は、そうした耳舐めをやられている側の犬というのが、やる側から見て普段以上に気に成る匂いを放っていたということだ。それというのは、舐められている側の精神状態が普段より悪く、興奮や緊張が強まっているという事から耳から発つ臭いが強まっているという事なのさ。そんなだから、そうした光景を動画で公開されていたりするのを目にすると舐めている側の犬というのがなんて可愛くないヤツだと思うし、舐められている側の犬がなんて卑屈な犬だろうと思ってしまう。そうした犬同士での上下関係を飼い主の目の前で公然とやってのけていても飼い主はそれを止めないというのでは飼い主が自ら野犬の群を公認しているようなものだと思うんだな。犬同士の関係だけで完結してしまっていて人間との関係なんか何処にも無いってことだからね。飼い主に重きを置いている犬だったら、飼い主の目の前で別の犬に対する支配行為なんか出来るはずが無いもんね。いかに飼い主を軽んじている犬かが見えるってもんだ。犬が相手を舐めるときと言うのは特に、ピチピチとした舐め方ではないベロベロという遠慮会釈の無い圧がかかるような舐め方のときなどは本当に「相手を舐めている」ときなんださ!相手に対して気遣いのあるなめ方と言うのはベロベロベロベロとかビ~ット、ビ~ットとかって感じじゃなくてピチピチ、ペチャペチャという圧が相手にかからない舐め方なのさ。舐め行為=友好の証だの愛撫だのと思っている程度の観察力じゃまったくお話にならない。それは擬人化しすぎだな。猫なんかだとそうした耳舐め行為などにそこら辺の力関係がはっきりと現れる。
Oct 22, 2008
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今ラフっ子3頭に集中トレーニングをやっているわけだけど、どんどん素直さや努力する姿勢と言うのが伸びてきてキツイ口調でこうしろああしろと迫っている割になんだか可愛いわね~というのが本音。^^;他所から来た子だと、そんなこと思うよりもコナクソ、ちゃんとやらせにゃあ!という感じだけだったりするんだけど、そういう感じよりも一つ一つ可愛いねぇとか思ってみてしまう。真剣みが足りないかしら?とかちょっと思ったりするけれど、可愛いものは仕方ないやね。やっぱり、素直とかやる気とか見せられると此方も鬼の姿勢を通せないな~。。。そこら辺が、甘いってことだな。師匠との差はここだ!そうだ!そういうことだ!?もうちょっと、自分の中で、仕上がりに対する意識を強化するか!?
Oct 21, 2008
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ラフっ子達の集中トレーニングの最中に独りワーワー騒いでこちらの集中力の邪魔をしていたヤマト。ラフっ子達の訓練を終えたのち、おまえさんも鍛えてやるぜ! とヤマトを引っ張り出して鍛えていたのだけれど、その時に、あっ!そうかっ!という閃きが・・・う~ん、これってまさに瓢箪から駒?
Oct 20, 2008
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先日、オースティンを撮影したときにジョワイアンも同時に撮影した。が、彼の内面が非常に悪いなと言うのが彼の下唇のダレ方に現れていて、この状態だと、飼い主が頭の中に存在していないだろうと思って見ていた。ラファールの状態が悪かった最後の一月半というもの、まったく他の子達に構えずにいたようなものだったから、その上ラファールが発作を起こすたびに彼が放つ恐怖と言うのがみんなを脅かしていたりして飼い主との関係が希薄になっている中で恐怖オーラを浴びせられるというのはラファールが自分の発作に際して飼い主から救い出してもらえないという逃げ場の無い恐怖を感じていたのと同じ状態に他のみんなも居たようなものだった。だから、この状態を続けていく事はいつか破綻すると思っていたし、それを防ぐには、あるところで決断しなくてはダメだというのもずっと考えていた。が、実際には、そうした決断と言うのはなかなか出来ないもので、結局、ラフに恐れていた症状が出た段階でやっと諦める事が出来たという感じだった。ラファールは、そこから恐怖を感じる事は無くなったわけだけど、他のみんなは今後希薄に成っていた関係が修復されるまで他から感じる恐怖と孤独に戦っていなくては成らない。だから、早急に彼等との関係を修復する必要があるのだけれど、今、ラフっ子達の訓練も時期的に疎かには出来ない部分もあり、取り急ぎ、ラフッ子訓練を一日のメインに据えて、他のこまごました世話時間の中でみんなの中にある孤独感を払拭するための方法をちょこちょこと行なったりしている。特に今、関係の希薄さを感じさせられているのがジョワイアンとジェットに続きマギーといった感じだ。彼等は、気の小ささから来る興奮が強く、それらを支配性に移行させる傾向のある犬達だ。ジェットやマギーは理解力があるから比較的自分を抑えることが出来るのだけど、ジョワイアンの気の小ささはツェッペリンやアクセルと同じところに居るのでツェッペリンやアクセル同様に一日たっぷり時間をかけるような本格的な遊びや作業によって関わってあげないと自信がもてなくて追いつめられていくといった傾向がある。どこかでしっかり関わる時間を設けなくてはだめだなと思っていた矢先、彼の緊張が爆発的に支配性に変わった瞬間がやってきて昨日、彼はガッツリ叱られている。叱るという行為は一時の対処法でしかないし、何の解決にも成っていないことは百も承知だが、その場を放置するわけにも行かないからそうするしかなかったのだけれど、あのときに見た下唇のダレは、やはりこういうところに現れたなぁと解っていた事だけにまあ、そうだろうと納得できてしまうのだけど、世間では、ああした下唇をしている犬でもまともに暮らしていられる犬だと勘違いしていられるのは、人間と犬とが実質関わっていないから、そうした希薄さがクローズアップされる事無く流されているからだよなぁとそれと気づかず過ごしている画像を観るたびかかわりの薄さと言うのを感じてしまう。服従心と言うのは希薄な関係の中ではそれが有るのか無いのかということが見え難い。一見服従してそうに見えていても追い込まれた状況だとか愛情を意識的に干してみるという事をしないと実際どうなのかと言うのは見えてこない。負荷がかからない状況なら犬は大して過剰な反応はしないから服従してそうに見えてしまう。が、本当にそうなのか?とこちらが知ろうとしなければそれはそのままお互いが何も問題が無いように勘違いしてしまう事になる。そういうことと言うのが表面化するときと言うのが獣医に出かけたときだとかしつけ教室といった他所の犬が一斉に集合するような場面だったりする。普段、ドッグランなどで他所の犬達と遊んでいるような犬でもそうした、自分の自由が利かないような状況下で他所の多数の犬と同伴させられることが我慢できなかったりするのはそれまで問題が無いように錯覚していただけで飼い主が頭の中には存在していなかったという事の表れだ。今、ラフっ子達に行なっているのは本当に君達は人間に対して抗ったり攻撃したりする意志はないか?を確認する作業だ。で、やってみると、これがまた、凄いんだな。笑三ヶ月段階で出来ていた服従心なんていうものは、まだまだ非常に曖昧なものなんだっていうことを思い知らされる。これから「大人」になる途上にある彼等にはこれまでに見せてくれていた程度の服従心では到底人間社会の中で生かされるには不十分だという事を実感するから、この時期、彼等の訓練には手を抜く事が出来ない。
Oct 20, 2008
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犬の毛艶というのは体調の良し悪し以上に精神状態の良し悪しが出てくるなぁと感じる。みんな、素晴らしく良い餌を食べさせているわりになんだかボサボサした毛の犬が多いなぁと思う。
Oct 19, 2008
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このところ、まあまあ大きめな地震が続いている我家地方。地鳴りから?か、予知吠えするツェッペリンが居る。それはそれで、理解力の無い通称「智恵遅れチャン」「スーパーシャイ子」のツェッペリンゆえ地震が恐くて叫んでしまうというのは仕方ないかなぁ~と。。。が、今年、夏場に地鳴りと遠雷を勘違いして遠雷だの、本格的な雷だのを始まりとして電車の車両入れ替え?音だのにまで過剰反応するようになった彼女を一旦、リセットしてここ暫らくは、それらに対する雄叫びが消えていたというのに、最近頻繁に起きる大きめな地震から、上空を飛ぶ航空機のジェット音を、地鳴りと勘違いして叫ぶという妙技が始まった。^^;昨晩など、入浴中にツェッペリンが雄叫び上げ始めたものだから素っ裸でいる入浴中に大地震とかいうのは勘弁して欲しいぞ!?とか思って気忙しく湯船から出たというのに、地震とか来ないし!でもパニクリまくっているツェッペリンの様子からまだ、彼女が感じている問題は終ってはいなさそうだと思って窓を開けたところ、遥か上空を飛ぶ旅客機のジェット音だった!爆う~ん、さすが智恵遅れのツェッペリンだわいと思うのだけど、君は足元から聞こえてくる音と頭上から聞こえてくる音の区別もつかんのかいな?と。。。ツェッペリン、意味不明だからさ~。そのたびパニくっている彼女を見るのも飼主として辛いものがあるのだが、パ二くって、真夜中に玄関で思いっきり雄叫びを上げられるのもこっちの心臓が持たんぞという問題も。。。またリセット作業が必要かな~?とか思うのだけど、リセットしても千葉県東方沖地震が治まらないとこれの繰り返しになるョなぁとか、気が重いわ~!もうちょっと頭良くならんものだろうか?
Oct 18, 2008
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http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/science-technology/2529833/3440839そうだよ!GPS搭載の首輪。。。小型軽量で実用化されれば良いのに。。。
Oct 18, 2008
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仔犬時代のかかわり方の間違いと言うのはその場で結果が出るということではないのが厄介だ。大抵、それは、自我だとか、オスの我などが現れる5ヵ月、7ヵ月、10ヶ月、1才半、2才、3才という後になってから影響が出たりするから、その頃になって、仔犬時期にやっていたことのツケが現れていたのだとしても、その原因が何処にあったのかを考えることはとても難しいし、仮にその答を見出せたとしても、その時期まで、それを是正しなかった事は殆ど、問題を放置し、固定化するために時間が流れていたようなものだったりする。かつて、はっきりと問題が見えていたからこそ(普通で言う「飼育放棄」された犬などよりももっと程度が悪かった個体だ)そこを是正すべく、日々うんざりしつつ、憤りを感じつつも真面目に根良く三年半近い年月を関わっていた個体が三歳を半分方過ぎたあたりから急にそれまで放っていた悪さを脱ぎ捨て非常に良くなったと感じられる一方で、当初まったく問題が感じられなかったがためにその必要が感じられなかったせいでさほど真剣なかかわり方をしてこなかった個体が、3才を過ぎるあたりから問題が見え始めたという比較検証のような例があることで初めて、ああ、この時期にはこういうことを行なう必要があったのだなと解ったりする。そう、問題が見える子の場合にはこうしようああしようと言うのがあったりするのだけれど、問題が無く育っている子の場合には、本当は、そうした問題が無い時期に、絶対にやっておかなくてはいけないことと言うのがあるということが解りにくかったりするんだな。その、やっておくべき時期、そうしたことをやらずに過ごしていた結果が、三歳過ぎてから出たりする。もっと凄いのは、七つの子達のように五歳半程にもなってからああ、あの頃こういうことを行なっていたのは決して良い結果に結びついたとは言い難いのだなぁとか、ここはこうしておくべきだったのだなとか、犬の寿命の三分の一ほども経ってから気づく事があったりするということだ。そうした比較結果に基づいてラフっ子達を育てているわけだけど、それによって、ラフっ子達は、先住犬でやらかした飼主の失敗は避けることが出来るわけだけど、それでも、先住犬の中に見出す事が出来ずに放置されているであろう内容についてはまだまだ彼等での失敗と言うのは可能性大なのだということは考えておく必要がある。仔犬時期のかかわり方の是非と言うのは、その場で結果が見えないという状況が多いから、多頭飼育の、それも、七つの子のように同じ時期に育った比較できる仔犬達が居ないと何処に間違いの根本があったのかを見つけ出すというのは難しいだろうなと感じる。それは、比較対照と成る仔犬数頭で自分がかかわった犬が最終的にどんな子に成長したのかを数年かけて追った経験が無いとかかわり方の結果が良かったのかまずかったのかを知るには至らないから、仔犬で売ってしまうブリーダーに躾の相談をしたところで、大して意味の無いことに成るのかもしれない。もし、そうした相談をするのであれば、自分のところに何頭か仔犬を残しその子達が半分方生涯をそこで過ごすといったことが行なわれている繁殖者であれば、相談する価値はあるといえるのかな?とか思ったりする。仔犬から飼うと言うことはそれくらい難しい問題が実に沢山含まれているということは知っておく必要があると思う。
Oct 18, 2008
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本日犬達の世話をしていたら玄関に居るツェッペリンが騒ぎ始めた。今日も、結構大きな地震があったりしたからまた、地震か?と思って身構えていたが何も起きない。じゃあツェッペリンはなんで騒いでいるのだ?まったくあいつは意味不明だからなぁとツェッペリン混乱の原因を探るため玄関ポーチに近づくと確かに聞きなれない変な声がする。妙に甘ったれた子猫の鳴き声に似た声色の聞きなれない声。ツェッペリンは、この声に反応していたらしい。あたりを見回すが子猫らしい姿は見つからず、変わりに、お尻を青大将の幼蛇にくわえ込まれて身動きが取れなくなっている食われかけの7~8cmほどもありそうなトノサマガエルとそれを咥え込んで、飲み込む体勢に入っている青大将の姿があった。甘ったれた子猫様の声はトノサマガエルが発していた「悲鳴」らしかった。すげぇ!こんな場面見たことねぇ!以前見たのはトノサマガエルの胴体に巻きついてカエルを締め上げている青大将だった。ここは、そういうシーンと言うのは大して珍しくは無い。が、今日のようにお尻に食らいついて後ろから飲み込もうとしているシーンと言うのは初めて見た。カエルは、自分の身に何が起きているのかきっと理解不能なんじゃないか?動きが取れないとは思っていてもまさか、自分がお尻から食われかけているとは。。。これは、口で説明するより撮影だ!そう思って、急いでカメラを取りに家に入りそれを持って大急ぎで蛇の後ろから構えたらカエルをお尻から食ってしまおうという強気な蛇だった割りにカメラを構えられたのが後ろから自分が襲われるとでも思ったのか?咥えていたカエルをパッと放してそそくさと逃げてしまった。な~んだ、根性の無い蛇だなぁ。撮り損ねちゃったじゃないか~!とガッカリ!上手く撮れていたら深夜に帰宅する旦那とこの話題で盛り上がれたと思うのに。残念!カメラを持って出たついでに、犬たちを撮影。今日の一枚は夏場異常を感じて先日血液検査してきたオースティンだ。前に、「本日の一枚」と題してラファールの画像をアップした数日後にラファールの薬害問題が始まり、何かこう、あの画像が遺影と成ってしまったような感じがしてあれは、もしかしたら虫の知らせだったのかな?なんて考えすぎかとも思うけど犬達の顔をまともに撮影するというのがちょっと恐く成っていた。が、今日はそんなジンクスを打ち破るようにオースティンの顔写真を撮ってみた。少しはカメラに馴れて来たようだ。
Oct 16, 2008
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先の連休の最終日に娘から電話があった。カメラを買い換えた娘。犬たちを撮ってあげようと思って連絡したとのことだった。。。が、生憎その日はバタバタと出かけてしまったためにこちらが携帯を忘れて出かけていた。帰宅して携帯に娘から電話があったことを知りかけなおしたらつい先ほどまで此方が買い物に行っていたホームセンターに居るという。まあ、今日はなんてすれ違いの日だろうかと残念に思った。何でも、娘は、今まで住んでいたアパートの大家さんが建物の老朽化のために建て替えるのだろうと思うのだけど契約の更新はしないということになり、急遽住み替えの必要に迫られ、引越しの手配をしたり新たに必要となる家電製品を買い漁っているとのことだった。新しい住まい先と言うのが、これまでの場所とは全く関係が無い「都賀」になるという。勤め先が都内で、住まいが都賀ではもう殆ど此方に顔を出す事はなくなるなと思った。ちょっと前だったらそういうのは堪らなく寂しいと思ったに違いない。が、今は寂しいという感覚が無くなった。そういう意味では、以前は、実際のことは別として、「頭が」隙だったんだなと思う。それよりも、娘が地元でいつも相談役としてお世話に成っていたバイクやさんの店主と会わないで娘は暮らしていけるのかな?とか、寂しん坊の娘のことが気にかかる。最も、おっちゃんが企画するツーリングで出合った時に積もる話しをするのだろうか?
Oct 15, 2008
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物事と言うのは何でも自分がやってみて初めてそのことについての真実が解ることと言うのが一杯だ。お金で解決していると確かに時間は節約できて次のことに取り掛かれるペースと言うのは早いから、いろんなことを経験できるというメリットは大きいナとは思う。けれども、経験したことについての内容の深さを考えると、いろんなことを経験した「つもり」でしかなくて、その実、経験したことの内容はと言うと全く真実に迫った事が無いという状況だったりする。だったら、それって無意味なんじゃないかな?。。。と棺桶から片足出た状態のこの年に成ってそこら辺のことが良く見えるようになってきた。それというのは、さて、棺桶に残りの片足を入れる時期が近づいてきたって言う事なのかな?と。。。どうせ経験するならお金で解決して、解ったつもりに成ってしまうのではなくて自分で真実を見極められるくらいにまで深いところで理解できるよう自分の足で立つ努力をした方が正解な気がするこのごろだ。
Oct 15, 2008
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自分が望む犬に作り上げるためにどう関われば、目的を達せられるのか考え、考えた結果を自分の行動に反映しようと言うとき、それが厄介なことだとか緊張が続かないから継続できないとか難しくて出来ないということをおっしゃる飼い主さんと言うのが多い。自分が望む犬を得るために必要な自分の変化ということなのに、それが難しいだの継続できないだのと言っちゃえるって凄い自分勝手だなぁと聞くたび思う。だって、変えられる方の犬は自身が変わる必要性を感じているわけでもないのに変わりなさいと言われ続け、変われるまで意識を継続しなさいと言われ続けそれだけでなく行動そのものに対してもいつでもちゃんと意識していなさいとやられるんだぜ!なのに、もしも、人間である自分がそうした努力が大変だというのであれば、言葉が通じて、目的も理解できる人間でありながらそれが出来ないというのに、犬にはそうしたことを望むというのはとってもおかしいことだなと思うんだ。そういう人は、犬を望む形に変えようなんて思わない方が正解!犬を自分が望む形で治めたいなら、治まる犬を作るために払う努力は惜しくないはずだと思うんだな。犬はまったく必要性も理解も出来ていないことを要求されるということであって自分が勝手に犬に対して望んでいることなのに、人間であり、必要性を理解でき、犬に要求する自分自身が変われないというのに犬に要求できると思うのはおかしいでしょ?だからね、もしも、自分が変わる努力を維持することは大変でそうした努力は出来ないと思うのであれば、最初から犬を変えようとは思わないことだと思うのさ。だって、自分自身でさえ手に入れたい目標への努力は出来ない、したくないと言うのだから、相手に変わってもらいたい気持ちと言うのはその程度のものなんでしょ?!って思う。自分でも努力したくない程度の願望なのに相手に要求する事だけイッチョ前って、そんな自分勝手な話ってあるもんかい?!って思うもの。貴方は人間。相手は犬なんだってことを考えれば、自分が出来ない努力を相手に要求しようなんて最初から考え方が間違えているって思うよ。自分も頑張ってみるから大変だけど、おまえさんもこんな自分にお付き合いしてねっていうのが本当なんじゃん?!なのに、自分はこういう犬を望むけど、そういう犬が手に入れるのに必要な努力はする気がなくて、犬にだけは何でも立派に要求しますって。。。そういう我侭で矛盾や自分勝手が一杯の自分が作った犬だから今目の前に居る犬が出来上がったんでしょ!?って思う。
Oct 15, 2008
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今日の千葉県東方沖地震ではツェッペリンが予知吠えした。こちらはラフっ子達の訓練中だったから訓練の集中を妨げられてプチッと来て思いっきりツェッペリンに文句を言ってたらその直後に突然グワッ!と一瞬大きく揺れ、ツェッペリンのギョーッ!という心臓をバクバクさせてくれるあの独特の吠え方は地震の予知吠えだった事を知った。無駄吠えかと思って訓練中に心臓バクバクさせられたことに文句言っちゃったんだけどスンマセンデシタ!と思わずツェッペリンに謝っちまったさ!爆
Oct 14, 2008
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匙加減とか塩梅とか侘び寂もその類かなと思うのだけど感覚的な表現というのは日本人が得意とするものだったんじゃなかったか?今って、そういう「感覚的」なものが生活の中に欠けているんだろうなと思うこのごろ。こういわれたからこうだ!みたいに、1足す1は2的感覚で物を見ている人が多いなって思う。犬は元々かなり永い時間寝ている動物だという話しを聞くと日がな一日ずっと寝続けている犬に対してまったく疑問を抱かなくなる。ものには限度ってものがあるだろうと思うのだけど、そこら辺の匙加減がわからないから世界を拒絶して逃避の意味で自分の世界に引きこもるために寝続けていたり病気で寝てばかりいても疑問に思わない。ちょっとは「何か変じゃないか?」と思うモンじゃないのかな?加減。塩梅。かつての日本独特の世界感は彼方に押しやられてしまったのかな?
Oct 13, 2008
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どんなにまずい事であったって、それがまずい事と感じ取っていない人が表現すると、それが好ましい事であるかのように聞こえてしまうことって言うのは多いなと思う。一番解り易いのは「やんちゃ」と言う言葉だろうと思う。「やんちゃ」というと、可愛らしく元気なように聞こえる。が、実際、そうした言葉で表現されるのは「何でも有り」の「野獣」だったりする。一度「やんちゃ」状態を体得してしまった子と言うのはそこに制約のある暮らしを示されると、ストレス満載のご不満犬と化す。そういう子に訓練を行なって表面上の行動は是正されたとしても、やんちゃ時代の名残はいつでも奥底にくすぶっていてそこに回帰しようとするペースは非常に速い。それが解ったから「やんちゃ」時代を経験してしまった犬をあえて買おうとは思わなくなった。
Oct 13, 2008
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感性と言うのは周りから汲み取る能力だとか、汲み取ったそれを基にして新たな視点を見出す感覚だろうと思うのだけど「感性を磨く」というと、感動を呼ぶ素敵なものに触れる事だとか小さなことにも気づけるような意識の改革のように思っていたりする。が、それよりも、「自分の我を消し去る事」の方がずっと感性には磨きがかかるのでは?と思う。「我」が強いと、強い我を発している者に対して周り(人・犬共通)の者は引いてしまって自己を表現しなくなり、本心を隠されてしまうことになったりする。それと同時に、こちらが「自分が自分が」をやっていると、自分の思い込みから脱する事が無く、相手に自分の考え方を押付ける事になり、もっと相手の真意が見えにくくなる。また、相手が何かをこちらに対して伝えようとしていたとしてもこの「自分が自分が」が強かったりすると相手はただ内容を伝えようとしているだけなのに、何かこう相手の考え方を自分に押付けられてでもいるかのように感じてしまったりして相手の意見や感想を撥ね退ける気持が強くなり、結局、相手が言わんとしようとしていたことを理解したり受け止めようとする気持に欠けてくる。そんなだから、「自分が、自分が」(我侭)をやっていると真意や真実を汲み取る機会と言うのが激減する事になり、感性が磨かれることはない。自分を消し去って、周りの空気と溶け込んで自己の存在が掻き消えてしまうくらいになってしまえば、周りは自分を前面に出してくる。それを観れば相手が何を感じ、何を考えるのかが見え易くなる。結局自己主張の激しい「我侭」な自分に気づかないと感性が磨かれる事は無いのではないかなと思う。自分を引っ込めるという鍛錬を行なうのが「感性を磨く」のには近道なんじゃないのかな?他人の意見に対し聞く耳持たずとか受け入れられないような「我の塊」をやっていたのでは、口で何かを物語るわけでもない「犬」という動物が何を考え、どう感じているか?なんてことを知るには到底無理があるという気がする。感性を磨くという事の新たな視点で別の価値観を生み出すという場合にはそれまでその人がどんな事を経験してきたかとかどんなものに触れてすごしてきたかといったことと言うのは大きく影響するのだろうけれどそうではない対象物から何かを感じ取るという意味での感性は多くの人が考えている感性の鈍さは決して感じ取れる能力が欠けているということではなくて自分の我を引っ込めれば解決する問題なのに自分を引っ込めてまで感じ取ろうとしてはいないというだけなんだろうなと思う
Oct 13, 2008
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先日血液検査と内診を受けてきたオースティン。今のところ、発作が出たとか言うわけではないから様子見の状態にある。「七つの子」は七頭揃っているから「七つの子」なんだよね。みんなと一緒に長生きしようね、オースティン。
Oct 12, 2008
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犬は異常な脳波の者(犬・人共)が周りに居ると落ち着けないというのはその様子から見て取れる。落ち着けるのはα波を出している人だ。よくα波というのは良い睡眠時に出るというけれど、起きているときでも、何かに集中してリラックスしているときには大抵その状態にあるらしい。特に、仕事でも、華道とか書道とか茶道のように○○道と名がつく仕事に就いている人の多くはこのリラックス・集中状態というのを自分でコントロールして作り出せるらしい。犬が落ち着けるのは、こうした状態にある人と言うことになる。ただ偶然にα波がでるというのではなくて自在にそれをコントロールできる人と言うことだ。逆に、それが出せない人の場合にはそういう者が周りに居ると落ち着けないのだから、極端な考え方をしてしまえば、犬からみたβ波だのナンチャラ波だのといったα波以外の波長を示している人間と言うのは彼等からみれば異常者のように感じて脅威を抱いているのかなと。。。α波以外の者は「失格!」と烙印を押されている世界なのかな?と。。。
Oct 12, 2008
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もう随分永いこと、夢と言うのをみていない気がする。正確には、見ている最中に目覚めた事が無いとか記憶に残っていないって言うべき?でも、なんでだろうか???
Oct 12, 2008
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ちゃんと名案が降りてくる
Oct 11, 2008
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メーカー側の話なんてのは自分たちに都合よく改竄していて当たり前だと思っているのが正解だ! そこで、そうした説明に 何も疑問を抱かないような医師なんてのも これまた信用すべき相手ではないと思う。 薬害HIV訴訟 血液製剤の肝炎訴訟 カネミ油訴訟 サリドマイド訴訟 水俣訴訟 これまでだって メーカー側に最初から誠意が見られたためしなんか無いじゃないか? でも、そうしたことが自分の身に起きたとき 初めて、その被害者達の無念さの深さを実感することになる。 今回、薬害にあって、安楽死せざるを得なくなった愛犬に関する無念は 絶対どこかで追求して見せるから! という思いを残す形となった。こういうことが起こったときの先方が持ち出す「最期の切り札」も今回のことで手の内が見えるようになった。それは、こちらが、動きが取れない状況にあることを逆手に取った内容で、普通そこらの、相手が誰であっても尻尾を振っている飼主不在の犬だったら何も問題が無く終る内容だが、此方の犬はそういう犬達ではないから関わる相手と言うのがお金で雇って事足りる事ではないというのがネックと成っていた。今後の事を考えると、早期に助手を受け入れられる体制を整えておくことが今回のような問題が発生したときに困らないための一番の対処法となる。夏場に設けた話し合いなど全く意味を成していなかったということが今回メーカー側の話しと対応に答が見えた。症例を隠すつもりは無いと言ったあの話し合いの場での発言は最終段階での話の中で、その不誠実さが暴露した。今回、ラファールの身に起きていたことは症例としての意味さえ無かった事にされてしまったのだからね。そこを切り崩すには獣医療と言う、人のそれではないことが症例が表に出てこないということがネックとなる。患畜のオーナーが、揃って声を上げなければ農水省の検査機構を動かすことは難しいだろう。ここに、今回、一個人と言う立場とメーカーと言う企業との間に立ちはだかる「壁」を見せ付けられた結果となった。ラファールの症状が、もう、持ちこたえられない状況にあったから、此方の体勢が整わなかったということがこれ以上の追求を断念せざるを得ない状況を生み出していた。が、何らかの形で、今後もそれと、その薬剤の使用に関する注意喚起が続行できる手立てを考えようと思う。ラファールの死を無駄にさせないために。*********************************************************************ジブリ作品の「ゲド戦記」の中で「永遠の命」の解釈について語られている部分がある。それは、一個の個体が保有するものではなくて次へと繋いでいくことによるという解釈だ。そういう意味で、ラファールが没した今もラフっ子達の中に彼の命は生きている。保護活動家というのはうちの子の子が欲しいからという安易な繁殖は行なうべきではないとして避妊去勢を推奨する。「安易」であってはならない事である事は確かだと思う。が、「命」というものを考えたとき、次につながらない「生」を半ば強制的に語るのは「命」への解釈がどこか歪んでいるのではないか?という気がして成らない。それは、いい加減で安易な繁殖を行なう者やヒートの管理が出来ない人たちが大半の世の中である事によってそのように歪んだ解釈が必要になったということなのだろうなと思う。が、ラファールを送らざるを得なくなったとき、そこを納得させた理由のひとつにラフッ子達の存在と言うのが大きかったことは否定できない。彼等の中にラファールはちゃんと生きていて、ラフっ子達の存在は彼がこの世に存在していた事の証明であり、彼がこの世に生を受けた事に意味があったことを示してくれている。ラファールそのものは犠牲となったけれど、彼は永遠の命を次に繋ぐこの世に生まれ出た者としての責務は果たしていた事になる。それは、アスタやリズについてもいえることで「七つの子」の存在は彼等が生きていたことの証明だ。しかし、今回、オースティンに真性癲癇の疑いが生じたことは、アスタやリズが果たしてきたこの世に生を受けたものとしての責務を全く無駄に終らせることになった。遺伝疾患と言うものの罪は、その個体を入手したオーナーに多大な悲しみと苦悩を課すことに成るといった問題以上に永遠に引き継がれる命の鎖を途中で断ち切らざるを得ないことにある。
Oct 10, 2008
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ここで疑っていた内容。ラファールのことがあってなかなか検査に行けずにいたが、今日、一ヶ月以上も経って、やっと検査に至った。その間、全く異常なく、経過を観察した感じだとやっぱり疑っていた内容らしいなと。。。で、今日、心臓・肝臓・腎臓などおおよその検査に加えて、筋肉に関するものも検査項目に入れ血液検査を行なったがやっぱり異状は無かった。。。ということで、真性癲癇の疑いが強まる。別に、あの時も引っくり返ったとかという事が有ったわけではなくただ、動きが異様に緩慢で、目の焦点が甘かったと言うことだけなのだけど、これまで、多々、癲癇持ちの子は見てきているだけに、オースティンの様子と言うのがそれらしかったという感覚的なもの。特に発作らしい発作があったわけではなくても大体こういうときはこういうことという経験による勘のようなものだ。それを考えると、ルガーは本当に可哀想なことをしたと思う。彼女のような症状を示した子というのがこれまで居なかったからそれと気づいて上げられなかったからさ。今日、オースティンを検査に連れて出かけられたのは、ラファールを永眠させたことによる。ラファールが亡くなった今、敷地内の空気がこれまでとは全く違っている事を感じる。多分、ラファールが5月に異状を示し始めるまでは敷地内の空気と言うのはずっとこの状態だったと思う。とても穏かで静か。犬達が落ち着いている。このところ、ラファールの発作のよるピリピリだけでなく、犬達が、なにかこう落ち着かないことによってもキリキリしていた部分があった。犬というのは不思議な生き物で、脳波に異常がある者が身近に居ると、落ち着けないでワサワサする。特に、このところ激しく発作に見舞われていたラファールが放っていた恐怖感と言うのは他の子達にも脅威を与えていた事は解り易かった。そんなことを考えると、ラファールが感じていた恐怖からもっと早くに解放してあげるべきだったかもしれない。自分が後悔したくなかったばっかりにその決断を遅らせ、結局は、ラファールだけでなく他のみんなをも苦しめていたのかもしれない。そうは思うけれど、こういうことは、また、同じような状況が起ったら、やっぱり、同じことを繰り返すだろうと思うし、そうしなかったら、納得できかねるだろうとも思う。ここが、アスタの最期の時とは異なる。。。と今は思うのだけど、アスタの時も、あの時は、やっぱり今のように思っていて、だけど、年月が経過して冷静になってくるとやっぱり、その時とは考え方が違ってきて、その当時、如何に冷静さに欠けていたかを後になって思いっきり思い知らされた。だから、アスタの最期のときのような状況には手術で切り刻むという事はもう絶対にしないと決めたのだけど、今回ラファールを永眠させた事もあと何年かしたら、もっと早くにしてあげるべきだったのに。。と決断の遅さを後悔したり思ったりするようになるのだろうか?ラファールの最期には、こういうやり方があるのかと妙に冷静に見つめてしまった部分があった。普通、寿命などで亡くなったりした時は、亡くなってまもなくすると硬直が始まり、それまで生きていた相手とは思えない物質と化した亡骸だけがそこにあるような非常に残酷な情況がある。が、今回、ラファールに行なったそれは、亡くなって後、かなり長い時間、硬直は始まらず、温かみも長いこと残っていて、また、フッと息を吹き返すのではないか?眠っているだけなのではないか?と見間違うような穏かさでことが進んでいく方法だった。ラファールにとって負担や恐怖・痛みなどが無いというだけでなく彼にとってどうかと言うことにも増して私にとって、心理的な負担を和らげてくれる方法を取ってくださった事に感謝せずにはいられない。この一連の問題の発生に対して責任があっただろうという責めたい思いはズッと頭にあった。が、もうどうにも逃れようが無くなっていた現状に際して最期の最期を気持を乱されず、穏かに送って上げられる状況を作ってくださったことに関してだけは感謝できる方法を選択してくださったと感じている。
Oct 8, 2008
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自分の中でやれる最大限の努力をしていてもこれ以上はどうにもならないと受け入れるしかなくなったときだ。
Oct 8, 2008
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是非観てもらいたい映画だと思う。『七十年目の審判前編・後編』
Oct 5, 2008
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こんな風に小さな世界で遣れない事、遣っていない事が、もっと広い世界で遣るはず、出来るはずが無いというのは犬の躾の事だけじゃあなくて、環境の話でもいえることだなって。。。今朝、犬達の排泄物を片付けていたときふと頭に浮かんできた。たとえば、今自分が置かれている環境と言うのがあまり恵まれていない状況にあったとして、そういう場合、大抵自分としてはもっとこうだったらこういうことが出来るのになぁとかっていう思考パターンに陥り易い。だけど、冷静に現在の自分を見つめ直してみれば、今の、満足できかねる環境下に於いてその中で、精一杯、今自分でやれるだけのことをやっている自分がいるか?と問うと、答えに行き詰る自分が居る。ていうことは、遣れる事がまだ沢山あるのに望んだ結果が得られていない事を自分のサボりの結果だとは認めず環境条件のせいにしてしまっているずるい自分が居るってことだ。今ある環境の中で遣れる事を全て遣りつくした後もっとこうだったらこういうことが出来るのに。。。と嘆くのはそれならそれで許される事だろうけれど、遣れる事がまだまだ沢山有って遣り残していながらそう嘆くのはそれは何か間違えているよなぁと。。。これが、今朝、ウンチを処理しながら頭に浮かんだ内容だ。さて、自分が今居る環境の中で遣り残している内容をもっと突き詰めてやってみようじゃないか!?好条件の環境が無いことを嘆いてすねているよりもずっと前向きだと思うからさ。全ては、極々小さな世界の中に凝縮されていてそこがクリアできていない段階で好条件が整ってしまったりすると、自分の身の丈を見誤るという失敗をしでかす事になるというのを昨日、かの人達が、実際に見せてくれたじゃないか?今日、こうしたきづきが得られたのはかの人達のそうした失敗を昨日見せてもらったからに違いない。この極限られた小さな環境でさえ最大限にそれを生かせずに居るものがもっと大きな環境を動かしていけるはずが無い。環境だけが先行して恵まれてしまうとそれが、環境条件によって補われている事にも気づかず自分の能力が高いからだと錯覚し自己を見誤った結果信用を失う事になるというのは彼等がよく見せてくれている。見た瞬間、胃の辺りがキューッとなって思っていた通り、やっぱり今日お腹が壊れているのだけど、あれは、神の啓示のような出来事だった気がする。
Oct 4, 2008
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待つのが苦手な私。ラフっ子3頭を早く動かしたい!。。。が、彼等の後肢形成が意外に遅くて私、いい加減じれております。それぞれが、父犬母犬のどちらの遺伝による構成かが見えるから血統によって肢体の出来方がかなり違うんだわねぇと感じるのだけれど、それにしても、遅いっ!乳歯が全部生え変わるくらいまでかかってしまうのかなぁ。。。乳歯は今半分強生え変わっている状態にある。
Oct 3, 2008
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犬の躾でも、御褒美使ったり褒め褒めしたりと言うプラスのことをいくら行なっても犬が嫌悪感抱くマイナスのかかわりをやめなかったら折角与えたプラスもマイナスによって帳消しにされてしまうよっていうこんな簡単なことを理解できないトレーナーが多いのは、みんな恵まれた環境でフワフワ育ったからなんじゃないのかな?病気の人にマッチョに成れるようなプロテインをプレゼントしたってプレゼントされた方はちっとも嬉しかぁないやね。健康になれる方法を教えてくれるほうがずっと嬉しいと思うんだ。どんなに好きな人と結婚してもお姑さんと上手くいかなくて結局それが原因で離婚に成る人っていっぱい居るでしょ?貧乏で、いつも生活に不安を抱えていてご飯を食べられない人のところにケーキを買って行くのなら、そんなもの(美味しい物)よりもお米を買っていく方が喜ばれるんじゃないのかな?嫌な上司が居る職場で僅かばかり昇給があるよりもその嫌な上司が居なく成ってくれたほうがずっと嬉しいんじゃないのかな?プラスが起きることで得られる幸せなんていうものはマイナスが消えてなくなってゼロに成ることで得る幸せに比べたら全くちっぽけな幸せでしかない。ていうか、プラスの出来事がもたらしてくれる幸せごときではマイナスによって生じている不幸を補う事は難しい。プラスを提供してくれるよりもマイナス条件がなくなることの方が重要なんだよね。犬というのは、実に無欲でシンプルに生きている。ゼロのマイナスがない状態で充分満足できる生き物だ。ご大層なプラスを求めているのは犬なんかじゃなくて飼い主だけだったりするんだな。
Oct 2, 2008
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友人は、人と言うのは多くの場合『自分の居場所』を探していると思うんだよねという。『自分の居場所』って何だろう?そこはどんなところだと思う?私が思うにはそれは『心地良く感じる場所』だろうと思う。孤独が好きな人は自分が独りになれる場所だったりするのかもしれないけれど、普通は、自分を無条件で受け入れてくれる場所だったりするかな?でも、人が集る場所というのはそれぞれ利害が絡むから決して「無条件」で自分を受け入れてくれる場所なんて言うところは無い。昨日、旦那が仕事に出る間際、幸せなんていうものは身近にいくらだって転がっているのに、それに気づかないって言うのは不幸だよねと話の流れの中で私が言うと、旦那の口からそれはさ、どんな相手と一緒にいるかによるんじゃないかな?と言う言葉が出た。確かにね、自分にとって魅力ある人尊敬できる人と一緒のときは幸せだ。尊敬できないまでも、自分に対して否定的でない人(自分を受け入れてくれている人)と一緒のときは幸せだと感じる事だろう。でもね、それと言うのは恵まれて育った人の言葉なんだと思うよ。そうじゃない人が感じる幸せっていうのはね、自分を攻撃したり否定する人が「居ない」という事だったりする。自分の身や心を守る事で精一杯という暮らしを経験した人たちにとっては、誰か心地良くしてくれる人と一緒に居るということではなくて、自分に危害を加えてくる人が身近に存在しないという事だけで幸せを感じるんだよ。自分が心地良く感じる相手と一緒に居ることを幸せだと感じるなら、それは、随分甘やかされて楽に生きてきたっていう事だと思うよと旦那に言うと旦那は、ハッとした顔をして仕事に出かけて行った。だからさ、前から言ってるジャン!過積載のトラック、普通タイヤで、カスカスの切れそうなチェーン持たされて冬の大雪の中を雪国に向って走らされていた事があると雪が降っている日に家の中でのんびりしていられることがなんてありがたいことだろうと思うんだって。。。それっていうのは、トラックの運転だけの話じゃなくて人生全てに当てはまる事なんだってこと解っちゃないよね!?そんなだからさ、人の機微が見えないんでしょ!って思うのよ。そういうフワフワした環境で育った人だからかえって良いのかもしれないけどさ全て解ったつもりにだけには成って欲しくないよね。旦那が幸せを感じるには彼にとって自分を心地良くしてくれる相手が必要と言うことに成る。こちらが幸せを感じるのにはこちらに危害を加えなければ良い相手となる。旦那には自分をおだてたりして持ち上げてくれる人自分が価値ある人間だと感じさせてくれる人が必要なんだなと思う。。。が、こちらは、相手にはプラスの意味では何も望んでいないということになる。マイナスの感情を抱かせないでくれればそれで良いのだから。恵まれて育つとね、贅沢なんだ、全てが。。。その分身近に溢れている幸せを感じ取れる機会も減るわけだからある意味不幸だとも言える。犬の躾でも、御褒美使ったり褒め褒めしたりと言うプラスのことをいくら行なっても犬が嫌悪感抱くマイナスのかかわりをやめなかったら折角与えたプラスもマイナスによって帳消しにされてしまうよっていうこんな簡単なことを理解できないトレーナーが多いのは、みんな恵まれた環境でフワフワ育ったからなんじゃないのかな?プラスなんかなくたって、マイナスがない暮らしだったら犬は落ち着いて此方の話に耳を傾けてくれるからね。逆に恵まれて育ったがためにマイナスのかかわりと言うのが犬に与えるダメージの大きさを知らない分そういうトレーナーや飼い主というのは犬の「安心出来る暮らし」に対する願望の強さや心理を理解できないから不幸かもしれないね。
Oct 2, 2008
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んなわきゃ~ないのは犬も人も同じ。だけど、犬というのはおかしな生き物で、叱るべき時(自分がいい加減を遣っている自覚があるとき)に叱らず(気づかずとか、気づいていても)に流してしまう人はもっと嫌うから不思議。ま、それはさておいて、トレーニングなんかで叱ったときに反応が悪かったりする犬って言うのは、我侭だとか、甘やかされていて叱られる事に対する耐性がナイってのは勿論なんだけど、案外知られていないのが、普段からコチャコチャと意味不明な叱り方をされている子だったりもする。叱られる事に対する耐性がナイ⇔普段からコチャコチャと意味不明な叱り方をされているって、一見矛盾しているように感じるでしょうけれどここに矛盾はない。普段からコチャコチャやたら叱られている子というのは案外しっかり叱られた事が無かったりするんだ。人間は叱っている「つもり」なんだけどね、本人は叱られているとは感じていなくて、うっせ~な!くらいにしか感じていなかったりするわけさ。そんなだからね、本当に叱られることに対してはやっぱり耐性が無かったりする。
Oct 1, 2008
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七つの子もラフっ子達も悪天候に、遊べない日々が続いて遊んでもらいたい気持に限界が来ている。こちらもまた、ラファールのこのところの群発発作に精神的な限界が来ていて、ここらでブヮ~ッと解放してしまいたくなっている。たかが排泄の行き返りでさえチマチマと遊びを取り入れて彼等とおちゃらけてしまう自分。まだまだ忍耐が足りねぇな!これで、思いっきり羽伸ばせる場所になんか出てしまったらもう、タガが外れまくりだってのが解り易い。実際、今の状態ではラファールを置いては、とても出かけられないから思いとどまっているようなものだけど、それが無かったらヤバイところに居る。自制しろ~自制しろ~。。。
Oct 1, 2008
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Oct 1, 2008
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案山子の屁さん>山田洋次監督の「学校」シリーズは1~2本見たかな? この15才は知らなかったです、内容をHPで見ました・・・見たく成りました、レンタル屋で探して見ようかな。-----この大輔という15才の少年は、まさに「育ちが良い」と感じます。物事を素直な目で見つめ、真摯に受け止める。人(大人)の言葉や生き方から多くのことを学び、多くのことを感じ取る。こうした素直さや真面目さと言うのは、彼を悩ませていた両親が培ってきたものである事を、ちゃんと最終的には感じ取れる子である。こういう子、こういう親が増えれば、もっと日本は良くなるのでは?と思いました。。。と同時に大人になるほど人の話しを聴かない人聞けない人が増えるねぇ。。。とも思いました。彼を取り巻く旅先の大人たち。ま、映画だから、こんな風にまともな大人の方が多く現れるのであって(そうでないと見せ場がナイ?)、現実だともっと悲惨だったりするわなぁ。。。とか思いますが。。。子どもの感性と言うのは、みずみずしい。。。そんなことを思い起こさせてくれる映画でした。こうした何でも受け入れて吸収するみずみずしさをどこでみんな捨ててしまうのでしょうかねぇ。。。本当に良い映画です!是非ご覧ください。^^
Oct 1, 2008
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