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画材店に買い物に行き、ついでに寄り道して高幡不動尊の春期国宝祭を覗いた。境内で開かれている「ござれ市」で骨董を物色するのが目的。 しかし、触手がうごく物は何もなかった。店主のみなさんには失礼だが、この市に上物が出ることはない。それでも一応覗いてみたわけだ。 まあ、気になった物といえば、銅製薬缶と小さな阿弥陀仏の頭部。薬缶は銘品ではないが大きさも手頃、姿も悪くはない。口から胴にかけての丸みの美しさはなかなかのもの。女店主はあまり気にもとめていないのか、雑物のなかにころがしてあった。持っていた金で買える値段だったので、一瞬「どうしようか」と思ったが、やめにした。把っ手のバランスに、いまひとつ踏み込ませない甘さがあった。 画材店では純金の箔を購入。少し値上がりしました、と店員は言った。大画面の作品だと材料費におおきくひびいてくる。しかたがない。これに代わる材料がないのだから。
Apr 29, 2013
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ゴールデンウィーク中に仕上げようと、午前中に10号(50×45,5cm)の新たな作品の下塗りをする。その後は、読書。 “An artist is a creature driven by demons–he usually doesn’t know why they chose him and he’s usually too busy to wonder why.” William Faulkner 「芸術家というのは悪魔に操られている生き物だ。悪魔がなぜ自分を選んだかを知らず、その理由を詮索するために常に多忙だ。」 ウィリアム・フォークナー
Apr 27, 2013
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友人Sが亡くなったという報せがあった。まったく同年齢で、薄い付合いだったが、20代後半から30代前半にかけて、飲み歩いた仲間だ。最後に会ったのは、たしか、もう20年ほども前だ。新宿ステーションビルで、私がエスカレーターで降りようとしていると、Sが下からのぼってきた。互いに「オッ!」と驚き、そのまま連れ立って喫茶店に入って近況を語り合った。彼は商業デザイナーで、私と同業といってもいいが、少し分野がちがった。あまり仕事の話はしなかったと記憶している。 彼の死を報せてくれた人も、同年齢だった。もうひとり同年齢の男がいて、飲み歩いた仲間は大勢だったが、同年齢というのはたぶん4人だけ。それだけに、「ショックだ」と、報せてくれた電話での言葉は本当だろう。「 だんだん一人消え、二人消え、いなくなる。元気なのは、われわれ二人だけだ」と。
Apr 25, 2013
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パリのオペラ座の屋上で養蜂をしていることはご存知の方も多いだろう。考えてみればなるほど、大都会のど真ん中といえど、近くには花の市場もあるし、公園も多い。ミツバチにとっては格好の「花の都」なのだ。 東京はどうであろう。先日この日記に書いたばかりのデ・ラランデ邸が信濃町にあったころ、建築家ゲオルグ・デ・ラランデ氏の邸宅であった明治時代から以後、その所有者は次々に変ったことはこのたび復元されたことを報じた朝日新聞の記事にも書かれていたが、20年以上前だと記憶するが実はさる養蜂家があの邸宅でミツバチを飼育していた。JR信濃町駅を見下ろす高台は、左向かいに大宮御所、各宮邸や赤坂離宮(迎賓館)、右向かいに神宮の森がひろがり、一方、その反対側には新宿御苑がある。花にはことかかない、まさに養蜂にはうってつけの場所だった。 ところで、我が家の蜂蜜はといえば、これも東京都心産。みなさんご存知でしょうか、東京駅のすぐそばにある八重洲ブックセンター、ここの屋上で養蜂をおこなっていて、そこで採れた蜂蜜が我が家の食卓のもの。本好き、読書好きを誇る方でも、あえて八重洲ブックセンター産の蜂蜜を食べている方は少ないかもしれない。「八重洲BーBee project」 と称している。製造元は鹿島建設環境本部。 たしかにここも東京駅をはさんで皇居があり、日比谷公園がある。ミツバチにとってはさほどの飛行距離ではあるまい。 ここ2,3年、世界的にミツバチが消えるという「事件」が起っている。養蜂家にとっては死活問題だが、それはさて、じつは我が家の小庭にアシナガバチの小さな巣が庭木のしげみにあって、どうもそのハチがグミや柿の受粉に一働きしていたらしいのだが、昨年、その巣がいつのまにか無くなってしまった。飛び交っていたハチも姿を消してしまった。そして、それかあらぬか、昨年、我が家の柿もグミも花がたちまちに落ちて、ほとんど実をつけることがなかった。いや、アシナガバチばかりではない。昆虫の飛来をみかけなくなってしまったのだ。毎年、柚の葉叢のなかで孵化していたらしいアゲハチョウが、今年は姿をみせるのかどうか。 ホットケーキに八重洲ブックセンター産の蜂蜜をかけながら、花時をおわって次第に緑の葉をしげらせている、庭のグミをながめている。
Apr 24, 2013
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お気楽な話をひとつ。 プランター用の土を買いにゆき、そのショップで耳にとびこんできた年配の婦人たちの会話。 「ねぇ、ちょっと見てよ。きのう美容院にパーマかけに行ったのよ。いつもやってもらっている美容院が休みで、急いでいたものだからその先にある、ほら、○○○という美容院、あすこに行ったのよ。すごく若い美容師でさ、私、ふと心配になったんだけどさ、しかたがないのでやってもらうことにしたのよ。そしたら、いきなり襟足をバッサリバッサリ切ってさ、耳の上も切っちゃったのよ。あっと言うまもなかったわよ」 「いやにさっぱりしたわねぇ」 「さっぱりどころじゃないわよ。それでパーマをかけたら、このザマよ。みっともないったら、ありゃしない。1万2千円よ!」 あまりに憤慨するので、私はちらりとその婦人を横目に見た。思わず吹きだしそうになりましたな。オランウータンそっくりな茶髪の頭が目に飛び込んで来たのだ。 いや、御気の毒さま。まさに「覆水、盆に還らず」。バッサリ切られた髪はしばらくは元にもどらない。せっかくの春風も、彼女にとっては嘆きの春でしょう。ハハハ(いや、笑っちゃ悪いね)。
Apr 23, 2013
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4月下旬だというのに各地で雪が降ったという。仙台では、4月の雪は60年ぶりだとか。我が青春の城下町・会津若松も、NHK大河ドラマ『八重の桜』に登場する「石部桜」の満開に咲き誇る花に、雪が降り掛かる。朝日新聞の朝刊の第一面にその光景の写真が掲載されていた。 東京は雪こそ降らなかったが、一昨日の夜来の雨は昨日の午前中いっぱい降り続き、寒さはひとしお。ひっこめたセーターをまたぞろ引っぱり出して着た。それまで日溜まりに置いていた桜盆栽や三,四の花の鉢も屋内に入れた。この天候不順、いったいどうしたことか。 しかし、きのうの日曜日、雨がやむと、遠くで祭太鼓の音が聞えていた。鎌倉時代の武将を祀る小さな社の祭である。向後都内各所でおこなわれる夏祭りの先駈けだ。太鼓の音を聞きながら、早逝した祭好きの友人のことを思い出していた。遺贈された彼の蔵書が数十冊、私の書棚におさまっている。
Apr 22, 2013
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朝日新聞が伝えるところによると、かつて東京・信濃町にありランドマークともなっていた「デ・ラランデ邸」が,東京・小金井市の江戸東京たてもの園に移築復元されて、この20日から公開がはじまったそうだ。 私がこの洋館にことのほか愛着を感じるのは、昔、大学への行き帰りに電車の窓から高台を見やりながら、あれは三島由紀夫の『鏡子の家』のモデルにちがいないと、ひとり合点していたからだ。このことはかつてこのブログでも書いた。三島由紀夫の「鏡子の家」のモデル しかし、年月とともに信濃町のこの高台近辺もおおきく様変わりして、高台の下にはマンションであろうか、電車の窓からの視界をさえぎって建ち並んだ。デ・ラランデ邸の特徴ある2階から上をいろどっていたベンガラ色も見えなくなってしまった。邸そのものがすでに古建築めいて、遠目にも傷みが感じられたので、あるいは取り壊してしまったか。惜しいかな、と思ったものだ。 『鏡子の家』は、発表当時、文芸評論家を称する人たちからは、たしか、ほとんど無視されたはずだ。しかし、私は、この小説をひとつの境に三島由紀夫文学は明らかに変化したとみるので、その意味でも重要な作品と考えている。それはともかく、学生として上京したばかりの私(極度の不眠症や幻覚に悩まされながら)は、デ・ラランデ邸を見上げながら、三島由紀夫の物語を紡ぎ出してゆく力を想像したのだった。 復元されたデ・ラランデ邸は、もともとの食堂がカフェとなって来館者向けに営業されているそうだから、いつか私も訪ねてみたいものだ。朝日新聞デジタル 東京・信濃町の「デ・ラランデ邸」復元 2013年4月21日15時27分
Apr 21, 2013
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教師による児童生徒に対する暴行が相も変わらず出来(しゅったい)している。 報道されるこうした事件を、教師たちは一体どのように受け止めているのだろうか。 新聞もTVニュースも見聞きしない連中なのだろうか。 わがこととして身を引き締め、子供の教育はいかにあるべきかを考えてみることはないのだろうか。 人間を育てるという最も重大な任を負っているという認識は無いのだろうか。 昔、「でも、しか先生」という言葉があった。「先生にでもなるか」とか「先生になるしかない」という、いわば社会からドロップ・アウト寸前に教師という職業を選び取った人たちを指した言葉だ。それはダメな教師を揶揄したものだけれども、また当の教師が自嘲ぎみに称した言葉だ。そしてまた、そのようないいかげんな気持ち、すなわち人間を育てるという重大責任を負うという気概も真摯さもない者が教師になるべきではない、という痛烈な批判を含んだ言葉だ。 私は、教師にとって最も必要な資質は、「成熟した人間」ということであろうと思う。暴力教師というのは、私の見るところ、おしなべて幼稚だ。人を教え諭すというより、その本人がまず教育されなければならないほど人間として成熟していない。以下に示す事件報道の数々のなかには、当の教師の年齢が50歳台などというのもある。この教師はその年齢にいたるまで人間の何を見、何を人間の理想として己の教育理念としてきたのかと、私としては判断に苦しむ。 教師も人間、したがってその心性に「悪魔」がひそむことも承知している。(私の末弟が小学2年生のときに、担任の年配の女性教師から、弟も家族も知らぬ裏側で寝耳に水の酷い目にあわされた。仰天する両親に弟は健気にも宣言した。「ボクは、お母ちゃんに絶対心配をかけるような子供ではないよ」と。我が家へも遊びに来たこともあったその教師が、なぜ小学2年生の幼い子供の生涯を踏みにじるような、おとしいれをしたのか・・・) しかし抗弁する言葉さへ持たない子供達が、一等信頼したいのも教師なのだ。 教師による止むことない暴力を、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」という風潮に乗せないために、それらの事件報道をここに収集掲載しておく。 朝日新聞 近江高の柔道部顧問が体罰 部員4人を平手でたたく 2013年2月19日12時13分朝日新聞 児童に侮辱的なあだ名、ほうきはさみ正座 名古屋の教員 2013年2月19日13時38分読売新聞 ボール当たったことに…体罰の顧問もみ消し図る 2013年2月24日09時46分朝日新聞 バレー部で体罰 長井南中 - 山形 平手打ち 鼓膜破れる 2013年2月25日朝日新聞 滋賀の私立高6校で体罰17件 1人で9件のケースも 2013年3月8日11時39分毎日新聞 体罰:熊本の中学剣道部監督 全国制覇の強豪 2013年04月10日11時17分読売新聞 強豪中学剣道部、別の指導者2人も体罰 2013年4月11日10時26分毎日新聞 体罰:教員155人から確認 都教委調査 2013年4月11日11時40分毎日新聞 傷害容疑:教え子に暴行、元Jリーガー逮捕 2013年04月11日14時26分朝日新聞 小2担任、いじめ誘うような発言で勤務外される 2013年4月18日3時30分読売新聞 児童に「泥棒」「邪魔」暴言繰り返した女性教諭 2013年4月19日12時30分You Tube 暴言の女性教師、その肉声入手 公開日: 2013/04/19読売新聞 特別支援学級生徒に暴行、元臨時教諭を書類送検 2013年4月20日14時42分
Apr 21, 2013
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暑かったり寒かったり、春も暮れだというのに地方によってはまだ降雪予報が出たりする。昼前に買い物に出ると、ほんの一滴二滴、雨が顔にかかった。さすがにコートは着ないけれど、いささか寒い。 それでも街は花盛りである。街路樹のハナミズキが咲き、藤が薄紫の花房を重たげに垂れている。薔薇やチューリップや、躑躅、ドウダンツツジ、ボケ、モクレン、カイドウ、ツバキ、サザンカ、アルメリア、シバザクラ、サクラソウ、シラン、プリムラ等々。・・・山際の草むらにはスミレが咲き、タンポポが咲き、我が家の小庭にはフッキソウがいたって地味な白い花をつけ、しかし繁殖の領域をぐいぐいと広げている。 盆栽の桜も満開のまま、まだまだ花保ち良く咲き誇っている。この桜、種類は旭山桜とわかった。今後、毎年咲くように上手く育てられるかどうか。ただいま桜盆栽についてにわか勉強をしている。 花といえば、初夏に向かって、そろそろ向日葵の大皿を出そう。皿そのものが余白のない向日葵の花冠の形をしている。昔、ニューヨークでみつけて買った。パーティー好きな私は、それにフルーツサラダを盛って出したらどうかと。しかし、いまではホーム・パーティーから「足を洗い」、もっぱら夏の飾りに使っている。 ニューヨークで、同じ時に、朝顔形の白磁の猪口をみつけた。ひとめで気に入り、どうしても10客ほしかった。もしかすると日本の磁器かもしれない。数をそろえるためにわざわざ探してもらった。「そろった」という報せで店に受け取りに行くと、若い女性店員がこの小さな器を何に使うのかと訊いた。Sakeパーティーだと言うと、いかにも招待してほしそうな顔をした。この朝顔の猪口も、夏のパーティー用に、と思ったのだった。 週末は、東京は雨らしい。鉢植えの土作りをしようかと思っていたのだが・・・。どうやらスケジュール変更である。
Apr 19, 2013
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三國連太郎氏が14日亡くなられたという。享年90。 私の好きな男優のおひとりだった。90歳というお年を思えば、残念ではあるが、人の定めでもある。せめて私が観た出演映画を列挙して御冥福を祈ります。 「警察日記」「ビルマの竪琴」「異母兄弟」「鷲と鷹」「荷車の歌」「キクとイサム」「宮本武蔵」「切腹」「陸軍残虐物語」「越後つついし親不知」「怪談」「飢餓海峡」「神々の深き欲望」「戦争と人間」「海軍特別少年兵」「戒厳令」「金環蝕」「犬神家の一族」「八甲田山」「皇帝のいない八月」「野生の証明」「復讐するは我にあり」「あゝ野麦峠」「マルサの女2」「釣りバカ日誌」「利休」「息子」「豪姫」「大病人」「大鹿村騒動記」 消えがたい映像が、脳裏にこびりついている。
Apr 15, 2013
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町内自治会の役員をやるはめになっての年度初め、自治会として大きな事業に取り組んでいるので、私はそのための9点の帳簿を作成し、記入した。まだ4点作らなければならない。なんという多さ! 丸一日ついやしてしまった。 自治会が使用しているPCのOSはWindows。私は長年Macのみを使ってきた。しかも表計算などは仕事に必要ないので、そのためのソフトは入っていない。これから1年間、膨大な量の帳簿付けに忙殺されるので、よんどころなく自費でOffice for MaCを購入した。 初めて使用するので勝手がわからない。心配だったが、心配するには及ばなかった。良くできたソフトで、このソフトについてまるで知識が無い私でも、ただ勘だけでまったく操作に問題なく仕事を進めることができた。いや、これがなかったなら、とてもとても13点もの帳簿を作成し、記入、計算を一日で終わらせることはできなかっただろう。 (誰だい、こんな膨大な仕事をおしつけておいて、手書きの帳簿でも結構ですよ、なんて言ったのは!・・・そう言えば、これに似たような場面が、TVCMにあったよナー。) ところで忙中閑有り、我が家の盆栽の小さな桜がいまや満開である。四方八方から眺めて楽しんでいる。
Apr 14, 2013
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昨日、午前中に主治医のクリニックを訪ね、2ヶ月毎に診てもらっている健康チェックをした。日常生活が適切にコントロールされていて、血圧、血糖値、コレステロール値等、いずれも正常値とのこと。体重59kg, 身長167.6cmで、いわゆる肥満度を表す体格指数(BMI)は、21。基準値内におさまっている。 ちなみに体格指数(BMI)は、次の計算式で求められる。 体重(kg)÷ 身長(m)÷ 身長(m) = BMI 基準値は、18.5~24.9。 この数字が25以上になると医師の指導があるが、しかしBMI数値には内蔵脂肪が付いた隠れメタボリック症候群は現れにくい。 私がこの1年半前からわりとこまめに主治医に健康チェックしてもらっているのは、そろそろ晩年に向かっているので、できるだけ長く作品を制作して行こうがためだ。主治医も、破滅型の芸術家とはまるで反対の、意志的に生活をコントロールするタイプの私に親身に寄り添ってくれ、私の意識と無意識とのフィードバックの仕組みに関心をもち、おもしろがってくれている。つまり極めて意識的に計算された作品を制作する私が、潜在意識をどのように汲み上げているかと。意識の表層で仕事をしているわけでは決してないはずなので、無意識を表に出すための仕組みが生理的につくられているはずだ、というわけである。 たとえば先夜のように、睡眠中に突然意識が覚醒し、作品意図の構造を再確認したり修正したりすること、・・・それは先生に言わせればナイト・メア(夢魔)のようなものかもしれないが、その曖昧なものを確信的に意識化する日常的な習慣。それは一種の興奮状態であると言えようが、日常生活においては血圧は良くコントロールされているらしい、と。 私自身は、すくなくとも自作の制作に関して、健康でなければ作品は不健康になってしまう。それを嫌うのだ。他人の作品の不健康さ(作者が気づいていようと気づくまいと)は、おもしろがっているが、私は自分の精神の不健康さには耐えられない。誤解されては困るが、私の言う精神の不健康さというのは物事を直視できない脆弱さということだ。人間の営為は、いかなるものでもそこに人間が存在することの現象面として批評無しに感受すること、そしてそこから私のいわば芸術的な営為が始まる。・・・私は、ずっとそう考えて来たし、それを自分の枠組みとして来た。言葉にするといささか大げさだが、なに大したことはない。自分の限界も知っているつもりだし、健康志向の捨て身、というだけだ。そういう矛盾をかかえている人間だ。
Apr 13, 2013
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先週から薄着になっていたけれど、今日はなんだか寒い一日だった。昼頃には雨も降った。 そして私は忙しく過ごした。昨日書いたように市の福祉課長を自宅に迎え、みごとな説得に屈服しそうだ。しそうだと言うのは、私の諾否の返事は来週まで待つという。その間にもういちど考えてほしいと。 私の在宅看護の経験をいかして是非協力してくれと言うが、これも亡父亡母の置き土産だろうか。どうも人生が、想定外の方向へ進みそうだ。もう晩年も間近だというのに・・・。これまで私の人生でつきあった人たちとはほとんどまったく異なる世界の人たちとの接触が、私の意志とは関係なく濃厚になってきている。いままでは意志的に、そのへんは厳格にやってきたのだが・・・
Apr 11, 2013
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昨年のこと、町内で2件の孤独死があった。一人は一軒家で、もう一人はアパート住まいだった。そういうことが起こりうるかもしれないと、誰しもが想っていたことが、現実になり、にわかにコミュニーティー内での「声かけ運動」が持ち上がっている。ただ、我が町内ならずとも、こういう事件が報道されると、常に後手後手にまわっていると思わないでもない。それには多分に理由があって、一軒家で亡くなっていた方は、ご近所つきあいを拒否していたらしいのである。つきあいたくない、と言われては、あえて声をかける人はいないだろう。「声かけ運動」といわれて当惑する人もあるわけだ。 この2件の孤独死とは直接に関係がないのだが、市から私に福祉の仕事をしてくれないかと言ってきた。どうやら亡母の長きにわたった在宅看護を見ていた人が推薦したらしいのだ。今年に入って4度ほど話しがあって、そのたびに時間的な余裕がないからとお断りしてきた。しかし、やはりどうしてもと推薦者は市に連絡したらしく、担当課長が明日直接来宅することになった。 いやはや、どうした巡り合わせか。この4月からは町内自治会役員に推されて、とんでもない大仕事を担当し、現に今日も自分のコンピューターに向かいその仕事をしていた。その上に市の仕事だなんて・・・。自分の仕事もあるし・・・。 エーイッ、オレでよけりゃ、やってやろうじゃないか! そろそろ就寝するころになって、そんな気持ちになっている。
Apr 10, 2013
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昨年買った盆栽の桜が今年初めて咲いた。買うまでにどのくらいの年数、育てられて来たものか不明なのだが(買ったときはまるで枯木のような状態だった)、ことしになって枝に花芽が出たので楽しみにしていた。蕾がふくらんで薄紅の花びらが見えはじめたのが先週土曜日。翌日、大雨があがった午後に開花した。ようやっと三つ四つ咲き、まだまだたくさん蕾が付いているので、これからどんどん咲くだろう。 江戸彼岸桜だと思うのだが、いまのところはっきりしない。樹高わずかに17cmほど。毎年咲いてくれると良いのだが。
Apr 9, 2013
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姪(弟の娘)から電話があり、きょうは大学の最初の授業だったとのこと。「どうだったの?」と訊くと、 「すべて英語だけの授業だったので、とまどいました」 「日本語は無し?」 「そうです」 「それじゃあ、4年間がんばれば英語が身に付くね」 「がんばります」 楽しみながら勉強してほしいものだと思いながら、電話を切ったのだが、ふと私は自分の学生時代の英語の宮本陽吉先生やフランス語の宗左近先生を思い出した。宮本先生の最初の授業はバーナード・マラマッドを読み、宗左近先生はいつも大汗をかきながらやってくると猛烈な早口で動詞の変化をまくしたててからドーデを読んだものだ。 しかし私は心が不安定になっていて、不眠症と蛍光灯のような光に対する恐怖症状や幻覚に悩まされ、あげくは自殺衝動でフラフラと電車に飛び込みそうになり、学校にも日が落ちてから行くというような有様だった。もっとも楽しかるべき時代が、もっとも苦しい時代だった。世の中がおもしろく、人間が大好きになったのは、ようやく30歳近くになってから。姪に大学生活を楽しんでもらいたいと思ったのには、私自身の学生生活のそんな苦い思い出からだ。
Apr 8, 2013
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まだ夜が明けない午前3時ころ、眠っていた目が覚めた。といっても、意識が覚醒したというのが正しく、目はつむったままだった。そのまましばらく何を考えるでもなく、じっとしていた。すぐにまた眠りにつくのだろうと思いながら。 ところが眠るどころか、意識はいよいよはっきりとして、そのとたんに、「アッ、そうだ。これで行けるぞ!」と飛び起きた。ここ2,3日考えあぐねていたことの構想が明確になって頭に浮かんで来たのだ。「あそこを入れ替え、こちらを入れ替え・・・」と、それまでの闇雲なアイデアが整合性をもってくっきりした形になった。付け加えることは何も無い。ただ入れ替えれば良いのだと気がついた。 私はそのまま仕事場に入り、コンピューターを起動させ、その考えをメモとして書いた。夜中の不意の思考は、熱にうかされたようなところがあり、昼間もういちどその考えをなぞってみると、実はフニャフニャということが少なくない。それを知っているので、一旦、陽がのぼるまで待つことにした。頭の中で考えを遊ばせておくよりは、文字にきっちり書いておくほうが、より客観的に批評できる。 それにしても、こんなことはしばらくぶりだ。若いころはしばしば夜中にめざめて、暗がりで筆記具を手探りして(灯りをつけると雲散霧消しそうで)、書き付ける紙がないのでシーツに書いたこともあった。あるいは、このHPのフリーページ・DRAWINGS 1に掲載している『星月夜の森』や『嵐を孕む樹』などは、夜中に飛び起きて、この時とばかり、日頃気になっていた場所や樹の有様を見に行った。もちろん家人を起こさないように、足音を忍ばせて家を抜け出したのだった。そして、やはり忍び足で帰宅して描いた絵だ。 そんな熱にうかされたような若い時代があった。昨夜、私はその時のように不意に意識が覚醒し、飛び起きたのだったが、これはあるいは老の目覚だったかもしれない。しかし、構想はまとまった。
Apr 7, 2013
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ハリウッド映画のプロダクション・イラストレータの巨匠、メンター・ヒューブナーについては、映画ファンなら知らぬ者はいないだろう。1917年生まれ、2001年に84歳で亡くなっている。 映画美術のもっとも基本となるスケッチを描く仕事をした人で、その手がけた作品をあげていたらキリがないが、たとえば、『ベン・ハー』『ブラム・ストーカーのドラキュラ』『フラッシュ・ゴードン』『ブレード・ランナー』『ハーレム・ナイト』『キング・コング』『キャッツ・アイ』『北北西に進路を取れ』『ロンゲスト・デイ』『ロード・オブ・リング』等々等々。 彼のスケッチをもとにセットが製作され、背景画が製作されるわけだが、その膨大なスケッチは制作現場の関係者以外にはほとんど目にふれることはない、と言ってよいだろう。ごくたまにメイキング・ブックのような書籍でわずかばかりを目にしたことがあるが、まあ、目にすることができてもその程度だ。 私はイラストレーターとしてはもちろんだが、映画ファンとして、とくに映画美術に目をこらしてきただけに、そのようなスケッチを見たくて見たくてたまらないのである。 と、前置きが長くなったが、故メンター・ヒューブナー氏のオフィシャル・サイトがあり、その多様なコンテンツのなかに「フィルム・プロダクション・デザインズ」という項目がある。上記の作品のラフスケッチが掲載されていて、「あっ、あのシーンがこのスケッチか!」と胸がおどる。興味があるかたはご覧ください。映画美術が作られる過程に関心が無かった方も、上記の映画はご覧になっているでしょうから、その記憶とメンター・ヒューブナー氏のスケッチとを比較してみてはいかがでしょう。映画が、俄然、別の角度から見えてくるかもしれません。 Mentor Huebner Official Website - Mentor's Drawings
Apr 6, 2013
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午前0時もとうに過ぎたので今日のことになるが、気象予報が6,7日は全国的に台風並みの風雨と報じている。ところがその二日とも連ちゃんで、私は町の自治会の会議がある。なんとも大げさであきれているのだが、隠居したような住民が次第に多くなっているので、みな退屈しのぎをしているのではないかと、私は内心に思っている。コミュニティーの結束のためなどと思っているらしいから、なおのこと始末が悪い。私は来月68歳になるが、隠居どころか活力がありあまって忙しくてしかたがない。まことに迷惑千万。各地のみなさんの町では如何なのでしょう。 ともあれ、嵐の前の静けさだろうか、遠い町の灯もいつもより少ないような気がする。
Apr 5, 2013
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「世事に疎い」というが、私は若い頃からほんのつい最近までそのクチで、ことに親類縁者に関してはほとんど埒外のこととして自分の仕事に打ち込んで来た。父母共に亡くなったいま、どうもそうしていられなくなっている。内心に「くだらない」と思いながら、寄せる波あれば受け止めなくてはいけない。完全に無視するほどの蛮勇は、どうやら私には無い。 とはいえ、今まで埒外のこととして来たので、父母のつきあって来た方々の名前も住所も知らなければ、親類という人たちがどういう関係なのかさへ知らない。そういう私が大変重宝しているのが、亡母が遺した小さな手帳である。 亡母がマメに何かを書いていたのは知っていたが、その手帳を繰ってみて、30年におよぶ飼い猫たちの誕生日から死亡の月日まで、きちんと書き留めているのには驚いた。自分の法名(戒名)まで書いてある。「享年」と書いて、その下が空白になっている。自分の死亡年齢を書き込むわけにゆかないのは当然だが、「享年」とまで書いているのが、可笑しかった。どういう心境だったのだろう。 おそらく書道作品のための心準備だったのだろう、こんなメモがはさまれていた。 〈私の故郷は北海道の南で雪の多い所なので、夜など、しんしんと降る雪、今でも深い郷愁をおぼえる。書の道でどうしたら此のしんしんと降る雪を表はせるのか、なつかしい故郷の静かに降る雪の状況を表はせるのか。静かに置きすぎても間のぬけた感じになるであろうなど、苦肉の末、兎に角、筆の穂先の置き方に心を配ったつもりである。〉 ・・・思えば、ごくたまに母は自作の書について私の感想をもとめてきたことがあった。そのたびに私はうるさがって、母の書道も埒外に追いやっていた。聞く耳をもたなかった。あるいは、文字の底にある文化について「なぜもっと勉強しないんだ」と責めた。そして、「そういうことに気がつかない人に、何を言っても無駄だよ」と、突き放した。 いまになって、紙の切れ端に書かれたメモを見て、母が身体で文字を書こうとしていたのかもしれない、と私は思った。 そんなわけで、亡母の小さな手帳を処分できないでいる。
Apr 4, 2013
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一日中、冷たい雨が降りつづいている。ただいま22時過ぎ、雨はますます激しい音をたてはじめた。 電話が鳴って、出ると、姪(弟の娘)だった。今日、大学の入学式だったとのこと。希望する大学に入ったらしいので、「おめでとう。お祝いをしようね」と言うと、「いえ、いいんです」と一応は言いながらちょっと嬉しそう。それはそうだろう。正直でなかなかよろしい。 母親が交替し、入学式につきそって出席してきたとのこと。雨の中、ご苦労さん。 入学式につきそったと聞かされ、ふと私自身をふりかえってみた。中学生のときから親元を離れて学校に通っていたので、中学以後は入学式も卒業式も親につきそわれたことはない。そればかりか両親家族は札幌に住み、私一人が親戚縁者のない会津若松や東京に居たのだから、学校や生活にかかわる一切合切の事務的手続等を私自身がやっていたのだ。担任教師と親との面談なども、私自身が出席していた。 私の学業に関してのみならず、私の人生について、親が手出し口出ししたことは一度もない。一度だけ父が東京に来た時に連れ立って道を歩きながら、相談というほどでもないが自分の進みたい方向を話したことがあった。すると父は、「にいちゃんの人生だから、にいちゃんがやりたいようにやりなさい」と言った。そんなことをいまだに憶えているのは、それがただ一度の「相談」だったからだ。 手出し口出しせずに、金だけを出してくれた両親に私は感謝している。そして私という人間の気質と性格に、それがもっとも適した教育であったのだと、今になって思う。 両親にとってそれは「方針」というほど大層なものではなかったはずで、ただ私に対しての完全なる信頼だったのだ。こんなこと考えたこともなかったが、彼らの子供としての私は(たぶん弟たちもであろうが)、両親に疑われたことはただの一度も無い。むしろどれほど信頼され、人間としての尊厳をもって接してくれたことか。たとえば、名前を呼び捨てにされたことさへ無いのだ。そうしたことはすべて、私の生き方そのものになっている。 それはともかく、姪にはどういうお祝いをしてあげようか。
Apr 2, 2013
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