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昨年の8月、イングランド中部のレスターの駐車場の地下を発掘していたレスター大学の遺跡研究チームが、一体の完全な人骨を発見した。精査の結果、今年の2月、それがリチャード3世( Richard III, 1452年10月2日 - 1485年8月22日 ; 在位1483-1485)の遺骨であることが判明した。遺骨のDNAと、リチャード3世の姉の子孫になる人のDNAが一致したのである。遺骨には大きな特徴があった。脊柱側彎曲症が歴然としてい、また頭骨にも、剣か斧によって殺害されたと歴史が伝えるとおりの損傷痕があった。脊柱側彎曲症については、シェイクスピアの戯曲『リチャード3世の悲劇』に描写されていたのであるが、これまではその特徴がシェイクスピアの創作ではないかと言われてきた。リチャード3世の身体的な特徴を描写した信頼すべき史料がないからだった(後註)。それが遺骨発見によって、シェイクスピアの描写が事実であったことが逆証明されたというオマケが付いた。 この発掘についてのレスター大学の発表は、次のサイトで見ることができる。The Search for King Richard III - The Scientific Outcome【註】後世のリチャード3世の身体的な特徴は、シェイクスピアの描写を踏襲するか、少なからず影響されているらしい。ちなみに19世紀のディッケンズ(1812-1870)の『イングランド史』では、次のように描写されている。[although he was a clever man, fair of speech, and not ill-looking, in spite of one of his shoulders being something higher than the other.](彼は如才ない男で、弁舌さわやか、醜い容貌ではなかったが、両肩の一方がいくらか高かった。) ところで、そのシェイクスピアによるリチャード3世の身体的特徴「脊柱側彎曲症」であるが、現在までにそれを証明する史料が発見されていないのなら、シェイクスピアはどこで知り得たのであろう。戯曲『リチャード3世の悲劇』が初演されたのは1591年で、リチャード3世の死からおよそ100年後のことである。100年なら、まだ古老からの聞き伝えが其処此処に残っていたかもしれない。しかし、それならばなおのこと、なぜ史料には現れないのか。シェイクスピアに関わることについて本家本元のイギリスにおける探索研究は微に入り細に入り膨大なものだ。その網の目から洩れるような史料があろうとは到底思えない。 「シェイクスピアのインフォーメーション・ソースは何だ?」・・・私の素朴な疑問である。 シェイクスピアのリチャード3世は、野心のある役者ならハムレットとともに演じてみたいキャラクターにちがいない。身体障害のために歩くさへ不自由であるばかりか、容貌は醜く、陰険狡猾、人に好かれない、しかしながら弁舌さわやか。また一方で、善政を布いたとも言われる。不自由な身体をものともせず、率先して戦場に出、戦死した。イギリス史上、戦死した王はたった3人しかいないが、その一人がリチャード3世なのである。まことに一筋縄ではゆかない複雑怪奇な人格。役者に挑戦状をつきつけているようなキャラクターである。 日本でもしばしば上演されているが、BBC制作のものがYouTubeで全編観ることができる。RICHARD III 再び、ところで、だ。 きょうのCNNによれば、上述のレスター遺跡を継続発掘していたレスター大学の研究者たちが、同じ場所から新たな石棺を発掘した。その石棺、蓋を開けると、中に、鉛でできた別の棺が入れ子状に納められていた。鉛の穴から覗くと足が見えるのだという。リチャード3世よりも100年ほど前のものと推測されるが、人物はまだ特定されていない。これから鉛の蓋を開けるために棺の状態等を慎重に調査するそうだ。CNN.co.jp : リチャード3世の埋葬地で謎の2重棺が出土 英
Jul 31, 2013
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今日はほとんど一日中、町の自治会のために会計帳簿付けや会議資料制作で終わってしまった。資料は表紙を含めて、A4で55ページ。やれやれである。 そんな仕事が一段落して、TVで「なんでも鑑定団」を見ていたら、「会津銀判」という謎の古銭が登場した。 幕末に会津藩でわずかばかり造られた領内貨幣と推測されるものの、研究者に諸説あり、詳しいことは不明なのだそうだ。一両、二分、一分の三種。ともに表は上部中央に十六単弁菊花紋、その下に若松の枝が下部を交差するかたち、すなわち相生の松が刻まれている。裏面は、鎚目に「會」の印刻と文様細工職人の花押が刻まれている。しかしこれにも異同種がある。一両の重量は15g(4匁)、同額の幕府鋳造貨幣のおよそ半分だとか。私はまったく初めて知った。 「なんでも鑑定団」に出品されたのは、残念ながら大正時代から昭和にかけて、会津若松の人、古銭蒐集家福西氏がつくった模造品(福西判)だった。裏面は鎚目ではなく、つるりとしてい、裏面の字体も真物とは違うという判定。 ちなみに私は、「福西」と聞いて、中学・高校時代の同級生福西君を思い出した。友人福西君の家は、会津若松の旧家だった。・・・福西君、元気かなー。【追記】会津銀判については次のサイトに詳しい。 会津銀判
Jul 30, 2013
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きのうの「八重の桜」は、鶴ヶ城を明け渡し、松平容保公をはじめ藩士たちはそれぞれに禁固謹慎の身となり、八重は母や姉妹とともに米沢藩士の離れに移住する。かつての数多のTVドラマや映画で物語られてきた戊辰戦争前後の会津の状況から、新たな局面へと物語は移った。明治3年、御家再興が認められ下北に3万石の領地を与えられて斗南(となみ)藩として再出発することになった。 東京・護国寺(現在の文京区音羽に存在)に禁固謹慎していた山川大蔵は、家老の義兄・梶原平馬に推挙され斗南藩大参事に就任。大蔵は御家再興認可の知らせを携えて、米沢の八重たちを訪ねる。八重の母はその吉報をみなで祝うべく、会津の郷土料理「こづゆ」つくり、一同、なつかしさに胸をつまらせるのだった。「うめぇ」、大蔵は思わず涙をこぼした。 ところで、その会津の「こづゆ」である。 いまではインターネットで検索すれば由縁やレシピがたくさん出てくる。現在もなお、祝い膳には欠かすことができない郷土料理である。ひとくちに「こづゆ」と言っても、わずかながら各地域、各家庭で具材がちがうらしい。しかし、いわば正統といわれるとしたら、以下の七種の具材が入った薄口の醤油汁である。 干し貝柱(小柱)、豆麩、人参、里芋、銀杏、木耳、しらたき。 干し貝柱の出汁がコクを出し、具沢山の醤油汁に特徴をかもしだしている。七種の具というのは、祝い膳として吉数を尊んだのであろう。また、東北地方の郷土料理といえば「濃い味」と想われがちだが、「こづゆ」が薄味なのは、藩主の召し上がりものという由縁にあるのかもしれない。 私は青春時代を会津で過ごしたけれども、そして精神のなかに「ならぬことはならぬ」という会津精神が組み込まれていると思わぬでもないが、じつは父母は北海道の出身。もっと遡れば、父の家祖は仙台藩士の出、母は松前藩の仏家である。それだから我家の料理は会津郷土料理とは無縁だった。私は「こづゆ」さへ知らなかった(私は会津若松で身寄もなく、たった一人で自炊していた)。 それがいま、「八重の桜」を観て、ふと懐かしく思い出したのは、たしか高校三年のときだったと思うが、友人の家に遊びに行ったときに、友人のお母さんが「こづゆ」を作って振舞ってくださったのだ。「会津のこづゆですよ、食べてみてくなんしょ」と。 後に、私は「こづゆ」の由縁を知り、あのとき友人の母上は、たいへんもてなしをしてして下さったのだとわかった。TV画面を見ながら、山川大蔵とともに「うめぇ」と、思い出を味わったのだ。
Jul 29, 2013
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男子サッカー東アジア・カップ、日本チーム最終戦は韓国と対戦。トップを中国と競っていたザック・ジャパン、韓国に勝てば初優勝、引き分けの場合は2−2が条件。1−1の場合は警告カード数によって決まる。 ザック・ジャパン、初優勝! 2−1でライバル韓国を破った。2ゴールはいずれも柿谷曜一朗(前半25分、後半46分)。 戦いは熾烈をきわめ、ボール保持率はおそらく韓国が優っていたのではあるまいか。東アジア杯、韓国は3回優勝している。日本はいまだ優勝経験なし。今回、5回目にして手にした優勝カップだ。後半戦、アディッショナルTでの韓国のつづけざまのセットプレーを日本はよくしのいだ。あわや2−2の同点にもちこまれるかというシーンも、試合終了間際になって投入された豊田のみごとなプレー・・・韓国のCKをクリアーした直後のシュートをゴールライン直前で豊田がヘディングでかわした。「アッ!」と、息を呑んだ瞬間の好プレーに思わず私は椅子から腰を浮かせて拍手。 彼は、A代表の本田の1年先輩、香川や長友など海外有力チームで活躍する選手とほぼ同期である。それだけに内心に忸怩たる思いを抱えているにちがいない、と私は勝手に忖度していた。代表に定着してもらいたい選手のひとりだ。それだけに今日の活躍は嬉しいかぎりだ。
Jul 28, 2013
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先日の俳句から二句を英語俳句にした。A dead body of cicadafell from the sky on the pathIts still intore thin cloth(落ち蝉のまだ破れなき薄衣)A migratory butterflystays a leaf here on her wayin a shower, summer day(渡り蝶旅の宿りも驟雨かな)
Jul 27, 2013
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25日、韓国の華城(ファソン)でおこなわれたサッカー・東アジア・カップ男子第2戦、対オーストラリアは、3−2で日本が勝利した。 この試合の直前に同じスタジアムで女子なでしこチームも北朝鮮と対戦、0-0で引き分けていた。なでしこの対北朝鮮の過去の戦績は5勝4分9敗と、あまり芳しくはない。それだけにまさに宿敵。昨日の試合、なでしこは攻撃的で技術的にも非常に進化していると私は見たが(後半戦からだったが)、北朝鮮もまた固い守備で隙がない。大儀見の2度のシュートは巧みであったものの、ボールは高く浮いてしまい、いずれもネットの上を遙かに越えた。 さて、我がザック・ジャパン。第1戦は中国と3-3で引き分けている。東アジア杯を制するためには、このオーストリア戦で勝ち点3をあげておきたかった。 この第2戦、ザッケローニ監督の采配はかつてない驚くべきものだった。というのは、第1戦のメンバーを総入れ替えしたのだ。第1戦もこれまでの代表メンバーではない、いわば若手を選出してきたが、それをさらに総入れ替えしたので、GK権田は別にしてメンバーのなかには世界戦初出場となる選手もいた。各メディアも、おそらくまったく予想していなかったにちがいない。 3-2の内容は、斎藤学1ゴールと大迫勇也2ゴール、オーストラリアの2点のうち!点はPKによる。このPKはザック・ジャパンにとって痛かった。 斎藤のゴールはじつに美しかった。「芸術的」と、こんなときのメディアの常套句ながら、私もまた思わずそう言いたくなった。 残念ながら私はいつものようなメモをとりながらの観戦でなかったので、ここに試合経過を振り返ることはできない。しかし、総じて、この試合のメンバー、クレヴァーだった。スピード感のある試合のなかでの言わず語らずのポジション取りと、その布陣への各選手の確かな目配り(その距離感など)が、オーストラリアにつけいる隙を与えない。言い過ぎかもしれないが、いつものベテラン勢、スター選手たちのザック・ジャパンより賢いかもしれない。世界戦を重ねてゆくと、おもしろいチームになりそう。私はワクワクしたのだった。
Jul 26, 2013
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女子バレーボール元日本代表、世界の名セッター、竹下佳江さんが引退を表明した。私は思わずガッカリ! やめないでよ、竹下さん。小柄なあなたの狙いすました自在なトスワークを見られなくなると思うと・・・ウウウウウ
Jul 25, 2013
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しばらくぶりの俳句。落ち蝉のまだ破れなき薄衣 青穹 贈られし扇手挟む浴衣かな渡り蝶旅の宿りも驟雨かな山鳩の鳴き交わすなり雨あがる【自註】1)二句目、「贈られし扇」は、先日町内のお年寄りたちの「手づくり作品展」に協力したときに、ひとりの御老人から、「これを山田さんに」と、扇をプレゼントされた。2)三句目、「渡り蝶」は、カバマダラを言った。近所の山道を下っていると次々と三羽のカバマダラに出逢った。少し小型であったが、カバマダラを本州でみかけるのは珍しいと思った。じつは、昨年も同じ所で見ている。蝶類図鑑では台湾に定住し、日本に北上してきている記録はあるが定住しているかどうかは不明とある。しかし、近年、私自身、南方系の蝶の飛翔を東京で見かけることが多くなった。どういう理由であろう。 ついでながら、これも先日の「手づくり作品展」のときに、私と話をしたいと訪ねてきた中年の男性がいた。私の絵に蝶が登場することから、その人も蝶に関心をもっていて、その朝も珍しい写真を撮ったと見せてくれた。貴重種なので詳しくは書かないが、やはり南方系の蝶を見ることが多くなったと言っていた。
Jul 25, 2013
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先日、明星大学のシンポジウムに参加し、シェイクスピアのファースト・フォリオを初めとする同大所蔵の稀覯本を見る機会が与えられたことはすでに書いた。 IDカードを携帯したおよそ170名の参加者は、五つのグループに分かれ、マスクを着用して展示室に入ったのだった。私は最後の第五グループだったので、じつは展示室に入るまで30分ほど待たなければならなかった。で、それは主催者があらかじめ予想していたことであったため、その待ち時間を利用して、前日まで同大図書館で開催されていた明星大学50周年を記念する特別稀覯書展「デカルトの手紙、カントの手紙』を、展覧会の終了を一日延ばして我々に見せてくれたのだった。 学外者である私にとってはこれもまたとない機会であった。展示されていたのはルネ・デカルト(1596-1650) の実物の手紙一通と『方法序説』のオリジナル初刊本、そしてイマヌエル・カント(1724-1804) の実物の手紙一通と三批判書すなわち『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』のそれぞれオリジナル初刊本である。 デカルトは、言うまでもなかろうが、哲学の重要命題「我思う、故に我在り(Je pense, donc je suis ; ジュ パンス、ドーンク ジュ スゥイ)」で衆知の哲学者。明星大学が所蔵する手紙は、「ユトレヒトのごたごた・・・」という書き出しで、アルフォンス・ポロ(Alphonse Pollot) 宛のもの。日付は1643年10月17日。 「ユトレヒトのごたごた」というのは、1641年、デカルトはパリで『省察』を刊行し、そのころから彼の名声は高くなってきていたのだったが、ユトレヒト大学神学教授ヴォエティウスは彼を無神論者と激しく非難し、1645年、ユトレヒト市は、デカルトの哲学に関する書物の出版と論議を一切禁じる命令を発効した。ポロ宛の手紙は、まさにその「ごたごた」の渦中に書かれたもので、そのなかでデカルトは彼なりの手回しを報告し、また願っている。大変重要であり、また興味深い手紙だ。というのは、デカルトのいわば処世術が透けてみえるからでもある。その自筆は、小さな文字ながら実に几帳面な字体で、美しいといって良かろうと思う。 ちなみにアルフォンス・ポロ(アルフォンソ・ポロッティ;1602-1668) は、国務省のイタリア人下士官で、デカルトの信頼していた友人である。 さて、カントについても言うまでもない。 展示された自筆の手紙は、重要なものではないが、カントの日常生活を垣間見せていて、おもしろい。ある材木商に当てた短簡である。「あなたの店の材木を買うことにしたので送ってほしい」と書かれている。日付は1801年2月10日。冬のさなかだ。おそらく暖房用の薪を注文しているのであろう。 ついでながら、我々がシェイクスピアの稀覯本を見る時間まで待機していたのは、明星大学のシェイクスピア・ホールだった。このホールは、ロンドンのテームズ川南岸に1596年に建てられシェイクスピアの戯曲が数多く初演されたグローブ座(Globe Theatre) を復元したものである。 ロンドンのグローブ座は、1613年、シェイクスピアの『ヘンリー八世』を上演中に、本物の大砲をぶっぱなしたために焼失した。翌年、すぐに再建されたのだったが、実は正確な設計図が残っているわけではない。1647年にヴァーツラフ・ホーラーが外観をスケッチしたものがあり、そうした絵などから現在のグローブ座は復元され、それに倣って明星大学内の「グローブ座」も建設されている。日本の能楽堂のように、屋上屋を重ねる態で、実際のグローブ座は建物の中央部は青空天井なのだが明星大学グローブ座は全体をすっぽり覆うように屋根を架けている。 とはいえ、私は座席に座りながら、そのなんともイイ感じに浸ることができた。この舞台、もちろん授業の一環として実演に使われているのだそうだ。なんとすばらしいことだ。
Jul 24, 2013
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きょうは朝から町内会の仕事であちらへ行ったり、こちらへ行ったりしていた。途中で突然、バラバラと音をたてて大粒の雨が降り出した。あわてて駆け出したが、すると頭上のベランダから「○○さ〜ん、雨ですよ〜!」と主婦の声。見上げると、通りをはさんだお向かいさんに呼びかけていた。お向かいさんのベランダには洗濯物がずらりとかかっている。 私はいささか感心しながら再び走りだした。すると横合いにやってきた車が停まって、運転席の窓が開いた。 「山田さ〜ん、おひさしぶりです。お元気ですか〜!」と、女性の声。 だれ?と見やると、一年前まで亡母が世話になったケア・マネージャーだった。 私は思わず開いた車の窓に両手をかけて、「元気です、元気です、このとおり」 往来する車も人もいなかったので、そのまま雨に打たれながら1分ばかり話をした。 車を見送って、再び走り、もうすぐ我家というところで、またもや「○○さ〜ん、雨が降ってきたわよ〜! 洗濯物、洗濯物!」 わが町内、いわゆる東京の下町というイメージから遠いのだけれど、そしてまた、私は普段仕事場にとじこもっているので、実のところ今朝のような町内の主婦達のやりとりを見たことはなかった。なんでもない日常の光景なのだろうが、「ヘー!」と感心すること、しきり。こんな雨も、まんざら悪くはない。そう思ったのだった。
Jul 23, 2013
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「The Robben Island Bible」について ネルソン・マンデラ氏がロベン島の獄中で読んでいた「シェイクスピア全集」については、昨日のブログ日記「シェイクスピアの読者たち」で触れた。 ロベン島は、南アフリカ共和国の監獄島である。ケープタウンはブルバーグストランド海岸の西方約7km、テーブル湾に浮かぶ孤島。現在、かつての監獄は博物館になっていて、観光ツアーのアイテムになっている。マンデラ氏が収監されていた独房もそのまま保存されている。先日、同国を公式訪問されたオバマ米大統領も訪れ、その独房にひとり立ち尽くす写真が世界に配信された。 ネルソン・マンデラ氏は反アパルトヘイト活動によって1962年に逮捕され、1964年、国家反逆罪終身刑となりこのロベン島の監獄に収監された。以後、1982年までここに囚われ、同年、ケープタウン郊外のポルスモア刑務所に移され、1990年に当時の南ア大統領デクラーク氏の尽力により釈放されるまで27年間、獄中に在った。 さて、マンデラ氏が読んでいたシェイクスピア全集は、詳しく述べると南アフリカ人の反アパルトヘイト活動家で政治犯としてロベン島監獄に収監されていた Sonny Venkatrathnamが所持していた「The Complete Works of William Shakespeare」一巻である。Venkatrathnam氏は、1972年から1978年まで同監獄に囚われていた。囚人達は宗教書一冊のほかにもう一冊だけ本を所持することを許されたときに、Venkatrathnam氏は妻に「シェイクスピア全集」を送ってくれるよう頼んだ。同氏はその本を独房に入れられている多くの政治囚に次々と回し読みさせた。囚人達はその「シェイクスピア全集」の自分の気に入った台詞にしるしを付けて署名し、日付を書き込んだ。 そうして署名し日付を書き込んだなかに、ネルソン・マンデラ氏がい、また、ウォルター・シスル氏やゴヴァン・ムベキ氏、アーメド・カスレイダ氏など南アフリカの民主化のために苦闘した人たちがいる。みな、シェイクスピアの台詞に自らの意義を見いだし、メッセージを託したのである。 そしてこの一巻の「シェイクスピア全集」は「The Robben Island Bible(ロベン島聖書)」と称されていた。 「Bible」とは称するものの、もちろんキリスト教の「聖書」とは何の関係もない。マンデラ氏をはじめとする囚人たちの心のよりどころとなった本という意味がこめられているであろう。加えて不思議なブックジャケットで装われていることも「Bible」と言われた所以かもしれない。インドのヒンドゥー教の神々を描いた極彩色のカヴァー。どうもオリジナルのカヴァーのようなので、私には「シェイクスピア全集」として一層不思議に映るのだが、そんな奇妙な宗教色からも「Bible」と称されたのかもしれない。 「The Robben Island Bible」は、現在、イギリスのシェイクスピア誕生の地、ストラットフォード・アポン・エイボンの Shakespeare Birthplace Trust が所蔵している。
Jul 22, 2013
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明星大学 国際シンポジウム「シェイクスピアの読者たち」MEISEI UNIVERSITY : An International Symposium on Readers and Users of ShakespearereanfoliousSpeaker : ★住本規子(明星大学文学部教授)「明星大学所蔵フォリオの書き込み」 ★ジャン=クリストフ・メイヤー(フランス国立科学研究センター教授)「Life with the Bard --- Shakespeare and the Shaping of the Early Modern Self (詩聖と共にある人生 --- シェイクスピアと初期近代自己の形成)」 ★廣田篤彦(京都大学文学部准教授)「〈ヘンリー8世〉 の 'craftie emperor' --- 書き込みから考える劇中の外交政策」 7月19日に明星大学で開催されたシンポジウム「シェイクスピアの読者たち」は、当日のこのブログ日記に記したとおり、同大学が所蔵を誇るシェイクスピア稀覯本、なかでも1623年に刊行された世界出版史に記念されるファースト・フォリオの頁余白等にのこされている当時の読者による多数の書き込みから、現代の我々は学問として何を読み取ることができるか、という問題を3人の研究者がそれぞれ講義するものだった。そして、シンポジウム後に、実物のファースト・フォリオ(1623年刊)、セカンド・フォリオ(1632年刊)、サード・フォリオ(1663年刊;第2刷1664年刊)、そしてフォリオ判最後の刊行となったフォース・フォリオ(1685年)を見る機会を与えられた。 じつは明星大学はこの知的遺産を世界共有のものにすべくデーターベース化して広く公開している。もちろん誰でもアクセスすることができる。私のブログの読者は是非そのサイトを見ていただきたいのだが、今回のシンポジウムの基盤にある研究と言ったら良いだろうか、山田昭廣元明星大学教授(元明星大学図書館長、現信州大学名誉教授)が明星大学ファースト・フォリオの17世紀の書き込みを最大限可能な限り読み取り、その研究成果を”The First Folio of Shakespeare : A Transcript of Contemporary Marginalia, Yushodo, 1998' として発表されていられる。その研究成果も御自身の解説つきで上記データーベースで読むことができるので、ここで詳しくは述べない。 Meisei University Shakespeare Collection Database 要するに、17世紀のイギリスでは、すでに安価本は出版されていて(識字率が格段に低かったので安価本とはいっても読者階級はきわめて限られていた;後註1)シェイクスピアの戯曲(単独)も例外ではなかったが、フォリオ判(現代の百科事典ほどの大きさと思えばよい)による出版は宗教書や法律書に限られていて、ましてシェイクスピアのファースト・フォリオは「戯曲集」であったから、その出版はまさに空前絶後のことであった。世界出版史に明記される所以である。しかも当時、ロンドンの熟練工の手当が週に6シリングであったが、シェイクスピア・ファースト・フォリオは1ポンドというから、大変な高価な本であった(後註2)。 明星大学本は、17世紀の最初の所蔵者がウィリアム・ジョンストウンという人物であったことが本の余白(margin) の自筆の書き込みからわかる(学説)。そのほかに同一筆跡の書き込みが多数あり、それらは当時いまだ英語のスペリングが確定していなかったり、あるいシェイクスピアの使用した言葉がすでに意味が不明になっていて、それらの解釈がなされている。あるいはジョンストウン氏の人生における実体験に照らし合わせたと思われる識語などだ。 具体的な例を上記山田昭廣元教授の研究から示せば、『マクベス』に次のような書き込みがある。 Macbeth furnishes to him self true reasons to / forsake his porpoise of killing the king / but his hellish wife dries him to do it (mm2,a) この下線で示した「hellish」という言葉にジョンストウン氏の感覚というか意見が見てとれるのだ。マクベス夫人を「hellish (ゾッとする)」女房だ、と彼は言う。 このようなウイリアム・ジョンストウンという一人の読者を通じて現代の我々は何を読み取るかという、シンポジウムの命題に立ち返れば、住本規子教授はこう述べる。 17世紀のイギリスのシェイクスピア読者は、紙背に徹するような読書体験が教条主義にとらわれずドラマを通じて日常生活と直結し、書物を自らの書き込みとともにそれを手にするであろう次の読者へ残そうとする意思(それは18世紀のハンマー本にみられる過去の注の書き込みを転送書き込みしていることや、ハンドライティングにもかかわらずまるで定規を当てて書いたように美しい書き込みであることなどによって推測される)が、総体的な知の集積として我々にシェイクスピアの再構築を可能ならしめているのではないか、と。 また、メイヤー教授はこうも述べる。 16世紀から18世紀にいたる間にシェイクスピアの読者は「育って」いったのだが、その読者たちは、シェイクスピアを演劇として観るにしろ戯曲として読むにしろ、人生を変えようとし、実際に変えたと信じている、と。 ---シンポジウムの開催にあたって、司会も担当された住本教授があるスライドを掲げながら、昨2012年7月19日~25日までロンドンで開催された「シェイクスピア展」に展示された「The Robben Island Bible」に言及された。それについては日をあらためて述べるが、マンデラ氏が獄中で読んでいたシェイクスピア全集に、「ジュリアス・シーザー」の台詞に { と記し、欄外にネルソン・マンデラ氏の署名と1977年12月16日という日付が書かれている。その台詞とは、 Cowards die many times before their deaths : The valiant never taste of death but once. Of all the wonders that I yet have heard, It seems to me most strange that men should fear, Seeing that death, a necessary end, Will come when it will come. (臆病者は自らの死の前に何度も死ぬ。勇敢な者は死の味など味わわない。味わうとしたら一度きりだ。私が不思議なのは、男どもが必然の死に臨んで恐れるということだ。死はやって来るときにはやって来る。---山田維史訳) シェイクスピアのこの台詞が獄中にあるマンデラ氏をどんなにか勇気づけていたことか。想像できなくはないが、余人の想像をはるかに超えるものであったにちがいない。 じつは、このエピソードはロンドンの「シェイクスピア展」をまたずして、我々はすでにクリント・イーストウッド監督の映画『インビクタス(負けざる者)』(2009年、出演;モーガン・フリーマン、マット・デイモン)によって知っている。モーガン・フリーマン演じるマンデラ大統領が人種融合のために南アフリカ共和国代表のラグビーチームの白人キャプテン(マット・デイモン)にW杯制覇へ向けて協力と奮闘を求めるという、実話にもとづく映画だ。そのなかでマンデラ大統領が白人キャプテンにプレゼントするのが、自身獄中にあっての座右の銘、上記のシェイクスピアの台詞だった。まさに現代の理不尽に苦闘する男マンデラ氏の人生に、シェイクスピアは寄り添っていたのである。時に7月18日は、ネルソン・マンデラ氏の95歳の誕生日であった。 【註1】ジャン=クリストフ・メイヤー教授によれば、17世紀のイギリスにおける男性人口の20%が文盲であり、ロンドンの商人の70%が文字を読むことと書くことができた(北方イングランドでは50%)。さらに女性の90%が自分の名前を書けなかったという。読書は娯楽より実用だった、とメイヤー教授は述べた。 【註2】メイヤー教授によれば、シェイクスピアの最初のベストセラーは『ヘンリー4世』(第7版まである)、『リチャード2世』(第5版まで)、『リチャード3世』(第5版まで)の3作品で、いづれも価格は6ペンスであった。当時、一般にフォリオ判は未製本のもので15シリング、製本すると1ポンドだった。リチャード・ストンリー(78歳)という人物の家計簿に、シェイクスピアの出版されたばかりの『ヴィーナスとアドニス』(詩作品)を6ペンスで購入したという記録があり、また、サー・エドワード・デリング(25歳)の1623年12月5日の日記にファースト・フォリオ2冊を2ポンドで買ったという記述があるという。 同じくメイヤー教授によれば、ファースト・フォリオが出版された1623年より以前、1600年前期、ロンドンの人口は200,000人。シェイクスピアの刊本は約50,000部売れていたそうだ。驚くべき売れ行きと言ってもよいだろう。 【参考】240ペンス(現行100ペンス) = 20シリング = 1ポンド ちなみに1623年、日本では徳川家光が3代将軍に就いた。
Jul 21, 2013
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きょうは明星大学に行き、午後1時30分から5時まで、国際シンポジウム「シェイクスピアの読者たち」に参加した。明星大学図書館には有名なシェイクスピア・コレクションがあり、特にファースト・フォリオ本とよばれる1623年に出版されたシエイクスピアの最初の刊本をなんと4冊も所蔵している。ちなみに、もし現在国際的なオークションに出たとすると、一冊6億円から7億円は有に超す、まさに稀覯本中の稀覯本である。明星大学は4点のファースト・フォリオのみならず、セカンド・フォリオ(1632年刊行)、サード・フォリオ(1663年刊行:第2刷、1664年刊行)、フォース・フォリオ(1685年刊)のすべてのフォリオ判を所蔵してい、今回、シンポジウム参加者に特別公開されたのだった。もちろん普段は銀行の金庫並みの厳重扉にとざされた(秘密の)稀覯本室に保存されていて、近づくことはできない。したがって、全員がマスクを着用して、今回のために気密性の特別ガラスケースに展示されたそれらを見る機会を得たことに、私は興奮冷めやらぬのである。 今晩はこれからメモを整理し、シンポジウムについては明日また書くことにする。
Jul 19, 2013
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6点目の脱戦争ポスター
Jul 16, 2013
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脱戦争ポスターNo.5
Jul 15, 2013
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作曲家・新実徳英氏が来る10月1日(火)に個展演奏会を開催すると次のような案内があった。「このたび 第二回の作品個展を開くことになりました。 2008年の〈ピアノ・トリオ〉から音の組織法を変化させ、また音楽の「螺旋性」に目覚もし、作曲を勧めてきました。 今回はその〈ピアノ・トリオ〉(2008年)、それに続く〈チェロ・ソナタ〉(2009年)、〈弦楽四重奏曲第2番ーAsura〉ーこれは、2011年の3.11にまたがって完成した作品で、僕にとってはとりわけモニュメンタルなものとなりましたー、そして新作の〈弦楽四重奏曲第3番ーSpiritus〉をお聴きいただくことになります。 今、音楽に何ができるのか、何をすべきか。そのことを念頭におきつつ、「佳きもの」「美しきもの」そして「歓び」に向かって、一歩ずつ進んでいきたいと願っています。 新実徳英』新実徳英 作品個展 II 〜室内楽を巡って〜2013年10月1日(火)19:00 浜離宮朝日ホール(築地、朝日新聞東京本社新館2F)入場料:一般4,000円 / 学生2,000チケット取り扱い:東京コンサーツ 03-3226-9755 http://tokyo-concerts.co.jp / 東京文化会館チケットサービス 03-5685-0650 http://t-bunka.jp/
Jul 14, 2013
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7月13日の注目報道。中国が核燃料工場の建設を住民の反対デモを受けて中止決定したという。朝日新聞 中国の核燃工場建設、異例の中止 住民の反対デモ受け 2013年7月13日22時0分読売新聞 中国、核燃料工場計画を中止…デモで異例の撤回 2013年7月13日22時50分
Jul 13, 2013
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去る3月、長い間使っていたDVDプレイヤーの電源が入らなくなり使えなくなった。数日後、たまたまほかの用事で来宅したケーブルTVの技術者にそれを調べてもらった。結果はやはり壊れている、ということだった。新しい物に買い替えなければと思いながら、捨てもせずにそのまま設置して放っておいた。 今日、夜に入って、何気なくそのDVDプレイヤーを見やると、ウインドウに白い点線が光っている。「あれ?』と、不思議になって、老眼がおかしな方向に悪化したのではないかと思いながら、眼鏡をはずしてウインドウに顔を近づけて見た。 錯覚ではなかった。電気が入っているのである。試しに電源ボタンを押すと、なんと、起動したではないか。TV専門の技術者が何度も繰り返し電源ボタンを入れたり配線をチェックして、ついに「壊れていますね」と言ったのだったが・・・。 私は、「どういうこっちゃ?」と思いながら、映画『ダ・ヴィンチ・コード』をトレイにのせてみた。ちゃんと視聴できるではないか! ・・・ちょうどある映画作品について調べ物をしていてDVDで確認する必用があり、新しいプレイヤーを買わなければ、と思っていた矢先だった。まことに幸いなのだが、ちょっと狐につままれたような思いなのだ。
Jul 12, 2013
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猛暑だからといって家にとじこもってばかりもいられず外出したが、街は時折吹く風さえも熱風である。家のエアコンデショナーを26℃に設定している。それでもひんやりと感じるほど戸外の暑さは尋常でない。 そういえば、CNNによると、アメリカのデスバレーで世界最高気温と認定されている56.7℃が記録されてから、今日はちょうど100年目なのだそうだ。例年真夏に38℃を超すことなど普通だとか。デスバレー(死の谷)とは、よく名付けたものだ。【関連記事】CNN 「世界最高気温56.7度到達から100年」 2013.07.11 Thu posted at 15:10 JST 我家の猫たちは冷房が嫌いなので、5匹ともに終日外にいて、朝昼夕の御飯時だけ帰ってくる。私が帰宅すると、どこかで見ていたらしく、フクが鳴きながらやってきて、車の下にもぐりこんだ。「おいで」と言っても、私の目をじっと見ながら「嫌だ」という顔をして腹這いになった。そこが涼しく安全なのだろう。他の4匹も、おそらく、それぞれ涼しく安全な場所にもぐりこんでいるにちがいない。 そんな猫たちのために、水いらずの猫用シャンプーを買って来た。 夜、弟の娘がやってきた。ケーキをおみやげに持って来た。おばあちゃん(亡母)の分もあり、仏壇に供えていた。きょう私は我家の墓の管理費を振り込んできたところだ。2回目の盂蘭盆会がやってくる。
Jul 11, 2013
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相変わらずの猛暑だが、午後4時頃から遠雷が聞えてい、やがて小雨となった。これで少しは暑さがやわらげば良いが。 机に向かって長時間書きものをしていると、尻の下が蒸れてかなわない。 「あっ、そうだ」と思い出したのが、亡母が在宅医療看護で熱中症予防に使用していた空調座布団。 母は寝たきりだったので、15分から20分毎に体を右左入れ替え、それは床ずれ予防でもあったのだけど、熱が籠らないようにするためでもあった。しかし、猛暑がつづき、3.11の原発事故以後の電力供給制限や節電でエアコンデショナーが使えなくなり、蓄電式の扇風機を買い、加えて電池式の小型扇風機が仕込まれた空調座布団を買い求めてベッドに敷いたのだった。 この空調座布団は、布袋の中に空気流通を疎外しない特殊ネットが入っていて小型扇風機で中に空気を流通させる仕組みとなっている。 このような物を工夫して(水分補給は勿論のこと)、母を一度も熱中症にさせずにすんだ。我家のやりかたを主治医や看護師が注目し、他の在宅医療患者に勧めていたようだ。価格は忘れたが、1万円以下だったと憶えている。電池は4本使用し、ぎりぎり24時間保つ。充電式電池にすると経済的だ。 その座布団を思い出したのだ。母の死後も捨てずにしまっておいた。それを椅子に敷いたわけ。ウ〜ン、尻が冷たい! ありゃりゃ、雨がやんじまった!
Jul 10, 2013
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連日の猛烈な暑さ。外出の予定も取り止め、家にとじこもっている。昼頃、ちょっとベランダに出たのだが、たちまちジリジリと焼けるような日差し。「オットット」と、すぐさま引っ込んだ。 ところで、この暑さのせいではあるまいけれど、昨日午前10時ごろからインターネットの信号が突然受信できなくなった。ブロバイダーに電話したところ、どうやら我家ばかりではないらしかった。何か異常事態が発生したらしく、その点検が今日午前中から始まり、さきほど午後4時過ぎにようやくおわった。 修理というよりも器械そのものを新品なものに交換していた。長くかかったが、コンピューターも元通り快調にサクサクと行くように回復した。 インターネットは使えなくとも、コンピューターのワードプロセッサーは使えるので、それで文章を書いていたが、インターネットが使えないとやはり不便だ。いまさらのように、私の仕事のシステムが、昔とは根底から変ってしまっていることに気づかされた。 私の年輩の知り合いに、いまだにIT機器に抵抗している人がいる。私は、その抵抗はあまり意味がないと初めから思っていたが、人には人の方針があるから何も言いはしない。そうした抵抗に基づく文明批評も、いまじゃどこまで意味があるか。新たな文明論を構築できるとも私には思えないのだ。 インターネットのインタラクテイヴ性を考慮しても、たしかにそのコミュニティーは未成熟で、落とし穴もたくさんある。私自身、慎重をこころがけている。のみならず、このブログを開設した当初に「荒らし」も経験している。あるいは、直接実害は起きてはいないが、今日なども、ブログを一日半開かないでいると、コメント欄を利用した商品販売サイトへの誘導が10件ばかり書き込まれていた。迷惑千万。 ・・・まあ、そんな些細な問題に鬱陶しさを感じることもあるが、しかし、一方で思いもかけない世界とのコミュニケーションができていることも事実だ。それこそインターネットが開いた新しい窓だ。インターネットが使えなくなって、そう私はあらためて思った。
Jul 9, 2013
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長崎原爆で被爆し、戦後、反核運動の先頭に立ち世界に呼びかけられていた山口仙二氏が亡くなられた。享年82。1982年、国連において、「ノー・モア・広島。ノー・モア・長崎、ノー・モア・被爆者、ノー・モア・ウォー」と、拳をふりあげての演説はすばらしかった。最近は体調を崩されたとかで運動の一線から退いていらしたが、愚かな安倍や石原にあなたの爪の垢でも呑ませたかった。まことに残念。苦しい御生涯でしたでしょう。ご冥福をお祈りします。
Jul 6, 2013
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NHK大河ドラマ『八重の桜』は、先日30日の放送で、戸の口原が破られて白虎隊が敗走。ついに飯盛山において自刃した。若松城下にも官軍は侵攻し、家老西郷頼母の一族の婦女子はみな自決した。 すでに何度か書いてきたが、いままさに戦火にあおられている若松城下は、私の青春時代を過ごした町というだけでなく、舞台となっているその場に住んでいたので、ドラマを観ていても想いは一層強くせまるのである。藩校日新館址に私は住んでいたのだが、じつは『八重の桜』の主人公山本八重の実家、山本家はこの日新館のごく近く、ドラマでは明確にされてはいないが米代二之丁、現在の米代二丁目だったそうだから、同じ町内ということになる。 事実のドラマ化なので、登場人物の多くは出生地がはっきり分かっているので、私の頭の中では、ああ、あのあたりに屋敷があったのだなとか、八重は篭城戦であのあたりに居たのだなとか、登場人物の動線がおおよそ頭に描けるのである。 そんなわけで、普段はTVドラマをまったく観ないのだが、『八重の桜』は欠かさず観ている。時間のおりあいがつかない時は、家人に録画してもらいながら。 さて、白虎隊士中二番隊の二十人が自決し、そのなかの飯沼貞吉がただ一人甦生し昭和の時代まで生きた。先日書いた春秋二回の白虎隊墓前祭で、我が母校会津高等学校剣舞委員会が奉納する白虎隊剣舞において、吟詠を担当するのは生き残った飯沼貞吉役の生徒である。舞をまうのは、したがって十九人である。以下に、その七言律詞の漢詩を紹介しようと思う。どうも世上には幾つかの異同の詩があるようで、私自身、どれが正しいと言い切れる知識はないのだが、ここに掲げるのは鶴ヶ城内の武徳殿に掲げられているもので、また、会津高等学校剣舞委員会が受け継いでいるものであるので、これが正統な「白虎隊」なのだと思う。ただし、コンピューターの漢字制禦によって、書けない文字があることをあらかじめお断りしておく。 ちなみに、作詞者の佐原盛純は戊辰戦争後、明治になって私黌(しこう)日新館が設立されると同時に教授になった人で、白虎隊十七回忌のために作詞し、また生徒とともに剣舞を振り付け、墓前で奉納した。その十七回忌については詩において言及されている。会津高等学校剣舞委員会はそれを伝統として130年間受け継いできているのである。白虎隊佐原盛純 作少年團結白虎隊國歩艱難戍堡塞大軍突如風雨來殺氣慘憺白日晦へい鼓喧てん震百雷巨砲連發僵屍堆殊死衝陣怒髮堅 縱横奮撃一面開時不利兮戰且卻身裹瘡痍口銜藥腹背皆敵將安之杖劍間行攀丘岳南望鶴城烟焔あがる痛哭飲涙且彷徨社禝亡矣可以止十有九士屠腹死俯仰此事十七年畫之文之世稍傳忠烈赫赫如前日壓倒田横麾下賢【読み下し】少年団結す白虎隊国歩艱難(こくほかんなん)堡塞(ほうさい)を守る大軍突如として風雨きたる殺気惨憺(さっき、さんたん)白日晦(くら)しへい鼓喧塡(けんてん)百雷を震う巨砲連発して僵屍(きょうし)うずたかし殊死(しゅし)陣を突いて怒髪立つ縦横奮撃(じゅうおう、ふんげき)一面を開く時に利あらず戦いかつ退く身に創痍をつつみ口に薬をふくむ腹背は皆敵まさにいずくんぞ行かん剣を杖ついて間行(かんこう)丘岳(きゅうがく)を攀(よ)じる南鶴ヶ城を望めば烟焔あがる痛哭涙を飲んでしばらく彷徨(さまよ)う社稷(しゃしょく)亡びぬ以て止むべし十有九士腹を屠(ほ)って死す俯仰(ふぎょう)すればこの事十七年これを画(えが)きこれを文にし、世にようやく伝(つと)う忠烈赫赫(ちゅうれつ、かくかく)前日のごとし圧倒す田横(でんおう)麾下(きか)の賢(けん)【意味】少年団結、白虎隊は国の前途の難儀に際して城塞を守った。大軍が突如攻め寄せ雨嵐となり殺気はものすごく、昼日中といえど暗かった。攻め太鼓は鳴り渡り、雷鳴もはげしい巨砲の攻撃はつづき、倒れた屍が重なった。死にものぐるいで敵陣を突き、縦横に奮戦して一面を破り時に不利なりといえども戦い、また退却した。満身創痍で口に薬を含み、前も後ろも敵ばかりで身動きもとれない。剣を杖にしてひそかに間道を行き、丘や山をよじのぼった。南、鶴ヶ城を望めば、焔と煙が風に煽られて舞い上がっている。嘆き叫びながらしばらく彷徨い歩いたが、我が豊かなる国は滅び、もうこれまでだと思った。十有九人は腹を切って死んだ。思えばここに十七年が過ぎて、このことを描き、文にしたため、世にわずかながら伝える。忠義の心は烈しく赫赫(あかあか)と燃えさかり、まさに昨日のことのようだ。「田横麾下顕(でんおう、きかのけん」の故事を圧倒するものである。【字解】★國歩(こくほ); 国の運命、国の前途。★堡塞(ほうさい); 城塞。★戍(じゅ); 戍(まも)ると読ませ、守ること。★へい鼓;(ヘイは鼓の下に卑と書く。)攻め太鼓、馬上で打ち鳴らす太鼓。★喧塡(けんてん);(塡の字は、山田が当てた。武徳殿の額では門のなかに眞と書いている。)かまびすしい。★殊死(しゅし); 死にものぐるい。 ★間行(かんこう);(間は正字で門に月と書く。)ひそかに行くこと。また、間道のこと。★烟焔あがる;アガルという字は風へんに易と書く。風によって空中に舞い上がるさまをさす。★僵屍(きょうし);僵(きょう)は倒れ死ぬこと。僵屍はその屍体。★社稷(しゃしょく);五穀の神★壓倒田横麾下顕(あっとうでんおう、きかのけん);田横は中国漢初の斎王。田横の部下が主君に殉じた故事(『史記』「田たん(ニンベンに澹の右のつくり)列傳」)に拠る。ここで「麾下」は田横の臣下を指し、「麾下の顕」は劉邦がその殉死を褒めたたえての言葉。白虎隊の忠烈はその故事を圧倒するという意。
Jul 3, 2013
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町内のお年寄りたちのミニ展覧会がおわった。わずか9時間の催しだったが、様々な手作り作品が200点寄せられた。油彩画、水彩画、竹工芸、パッチワーク、陶人形、押絵、押し花、絵手紙、写真、盆栽、ビーズ工芸、ミニチュア建築、和装小物、アップリケ、陶芸等々。老後を楽しむ多彩な趣味に驚かされた。 お手伝いして協賛出品した私の油彩画は、「山田維史作品展」と銘打って別室に特別展示されたが、とても喜んでもらったように思う。私の作品は、保存管理に大事をとって、5時間の展示だったのだが、私の休憩1時間を除く4時間の間に、私と話しをしたいと呼ばれて接した方々が40人。町内とは云え、みな初対面なのだから、次々とこんなにお話をしたのも初めてだ。驚いた驚いた。中には、ある会でおしえてほしいと、「1日でいいですから、9月に来てください。予約しましたよ」と、なかなかの押しの強さで携帯の予定表かなにかに書き込むおばあちゃんも。いやはや、どないしよう・・・ まあ、それはともかく、長らく外出したこともないお年寄りが、家人に支えられ、そして私と話したことを喜んで帰られるのを見送りながら、これも絵描き冥利と思った次第。 あとかたづけが終わって、世話人たちと休んでいると、年配の男性が私に扇をプレゼントしてくれながら、「この町で、山田さんは孤独死することはありません」と言ったものだ。私は大笑いした。
Jul 1, 2013
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