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あきれると言うより、ゾッと寒気が走る。すでに昨日の報道になるが、東京電力福島第一原発の放射能汚染水漏れの国会審議が、五輪招致への影響を考慮して、先送りにされた。放射能汚染水漏れ対策は金を消費するだけだが、五輪開催は金儲けのチャンスというわけか。 国会がここまで愚劣だと、もう何を言ってよいか、この国は絶望的だね。原発の放射能汚染水漏れは、日本国だけにとどまる問題じゃない。海洋汚染に拡大しているのだから、まさに世界に対する「犯罪」だ。周辺諸国から漁業被害が出て来たら国際的な賠償問題に発展するだろう。五輪で金儲けどころではあるまい。 健康被害の心配のない国で、健康的なスポーツの祭典が開催されるなら諸手を挙げて喜んでもいられようが、放射能が無毒化するまでに10万年もかかる、そういう非常事態に現実におちいっているというのに、国会議員どもは能天気。「そのうち、そのうち」と審議をしない。 きょうも熱暑だというのに、私は寒気がするよ。【関連報道】朝日新聞 汚染水漏れ審議、国会先送り 五輪招致への影響考慮 2013年8月30日23時2分
Aug 31, 2013
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残暑お見舞い申しあげます。8月も残り1日。今日は猛暑がぶりかえし、先日、繁りに茂った庭木をかなり思い切った刈り込みをしたので、空いた葉叢からギラギラした日が差す。 こんな日は家にとじこもっているにかぎるのだが、そうも行かなくなった。猫のマリが左前肢をびっこをひいている。足首のあたりが腫れていた。さぐってみると、私の指先に粘液が触れた。それで急遽、病院に連れていったのである。 前回、飼い猫を病院に連れていったのは、もうちょうど10年前のこと。以来、5匹の猫たちは何事もなく元気にすごしてきた。しかし、5匹は姉妹、もう15歳になるので、そろそろ老化にともなう何事かがおこってもおかしくはない。そんな想いがふと胸をよぎることもないではなかった。 X線写真を撮り、骨の状態を調べ、腫瘍か否かの検査をした。いずれも所見無く、切り傷であろうということで、消毒と化膿予防の抗生物質を注射した。念のため1週間後に再診することに。 診療室から待合室にもどると、マリとそっくりな猫を抱いた婦人がいた。マリを見て、「あら、そっくり」と言った。「幾つですか」と訊くので、「15歳と2ヶ月になります」と言うと、「若いですねー。うちのは、23歳です」 「23歳ですか。長生きですねー」 「でも、もう哭くこともできないんです」 人間でいえば90歳くらい。それにくらべるとマリはたしかにまだ若い。 老猫は婦人の膝に抱かれたまま、ぐったりしている。毛並みが濡れたようなのは、病熱のため汗をかいているにちがいなかった。 ・・・私はかつて、マリたちの祖母になるクロが重病になって医者に見放され安楽死を勧められたとき、それを拒否し、病院から器具を貸してもらい、自宅で添い寝しながら1ヶ月、とうとう回復させたことがある。そのときのクロの状態は、骨が浮き出るほど痩せさらばえ、汗のためボロ雑巾のようだった。食べることもできなかったので、鮪の刺身をすりつぶして指で口にいれてやったり、生卵を注射器で呑ませた。左目は高熱のため溶けてしまった。回復してから、借りていた医療器具を返しにゆくと、医者は「おどろきました。山田さんにしかできなかったでしょう。とても生きていられる状態ではなかったですからねー」と言った。 ・・・そんな経験があったので、婦人の老猫がかなりの慢性的な高熱を発していると見て取れたのだった。マリが哭くと、「良いですね、哭けるのですもの」と婦人は言った。そして、診療室から名前を呼ばれ、入っていった。 マリは注射が効いて少し楽になったのか、それとも帰宅すると察したのであろうか、ケイジのなかでおとなしく坐り直した。車が家に近づくと、慣れた空気でも感じるのだろう、ケイジの窓から目をこらし、「帰って来た」というかのように哭いた。 いま、これを書いてる途中で、仕事場の外の廊下に何か気配を感じるのでドアを開けると、マリだった。二階まであがってきたのだ。 「マリ、痛いのが少しはなおったのかな」 抱き上げて、「ちょっと待っててね、もう少しで終わるからね」と、膝にのせて、キーボードを叩いている。
Aug 30, 2013
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雨あがりいっきに高し秋の雲 青穹さらばとて胸に名残や木槿垣【註解】木槿(むくげ)の花は、朝開き、夕方には萎み、翌日にはもう咲くことがない。たった一日の花である。
Aug 28, 2013
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新聞各紙は松江市教育委員会が、「はだしのゲン」の小中学校の学校図書館での閲覧禁止要請を撤回したと報じている。朝日新聞 「はだしのゲン」閲覧制限、松江市教委が撤回 2013年8月26日21時35分毎日新聞 ゲン閲覧制限撤回:松江市教委「混乱させたことをおわび」 2013年08月26日 21時12分 抗議の声を逸早く多方面からあげたことが、この結果となった。ファシズムの芽を摘み取るのは、早ければ早いほどよい。 私が指摘した「子供を守るため」という閲覧禁止の理由付けは、委員の一人の清水伸夫教育長(62)は「子供の健やかな成長を願った判断だった」と弁明している。物事を直視しないで、すこやかな子供が育つはずはないのだが、清水伸夫氏にとっての「すこやか」とはいかなる精神状態、いかなる人格をさすのであろうか。同氏はつづけて、こうも言った。このたびの教育委員会としての要請が、「結果として混乱させたことをおわびする」と。・・・松江市教育委員会の「要請」が、なぜ多くの抗議をまきおこしたか、どうもこの言葉からはその本質を理解してはいないようだ。 では、「はだしのゲン」を閲覧禁止にすることで起ってくる本質的な問題とは何か。 まず第一に、過去に日本が引き起こした侵略戦争の官製の歴史から洩れる民衆レベルでの戦争の実体・・・その残虐性や、命令系統のなかで起るのっぴきならない非人間性について、目隠ししてしまうことになる。真実をしるすべをもたずに成長した子供は、他者の痛みに鈍感になり、ひいては自分のいのちについても鈍感になる。それは人間的な共生社会の否定につながり、自己存在はただ無知性な自己愛にのみにすがることとなる。自分につごうのよい幻想だけが肥大化し、それを維持してゆくために常に敵を必要とする。身勝手な理由付けによる攻撃の標的である。 物事を・・・良いことも悪いことも・・・直視できないということが、人間ひとりを如何に狂気に落すか、社会を、国家を、狂気に落すか。そういう危険性を、「はだしのゲン」の閲覧禁止問題は確実に孕み、確実に予知できたのである。 「表現の自由」に対する侵害も、むろん指摘できるが、あえて指摘しなくても上に述べたことのなかにそれは当然含まれてくる。閲覧禁止と言論弾圧は同じ根っこをもつからだ。 悪政はまず焚書をする。本を燃やさないまでも過酷な弾圧を繰り返す。そこに権力者にとって不都合な真実が書かれているからだ。歴史がそれをしめしている。キリスト教史において、ナチスにおいて、中国の文化革命において、もちろん我国の赤狩りにおいても、また反軍国主義の弾圧において。そこでは官憲による殺人も辞さなかった。しかし、いずれも、その愚行は、大きな歴史の流れ・・・時間に、耐えることはできなかった。 いま日本は戦後かつてなかったほどキナ臭い。 もういちど繰り返して言おう。ファシズムの芽は、なかなか見えにくいが、摘み取るには早ければ早いほどよい。
Aug 26, 2013
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本が、粘土板からパピルス、あるいは最古の般若心経が記されている植物の葉の綴り、あるいは羊皮紙や梳紙の巻物や経本仕立と称す折りたたみの形体から、羊皮紙や紙を束にして綴じ合わせ・・・つまりバインディングして表紙をつけた形体になって、すでに長い歴史がある。いずれの形体、いずれの時代においても様々な工夫がこらされてきた。 さらに、人間の「知の集積」として、またその知を宗教権力者や世俗権力者が独占するという歴史的な一面も見逃すことはできないが、ともかく「宝物」として美々しく装われて、本のオブジェ性を高めることによって造本芸術を確立するにいたった。 そうしたことは、現代のまだ端緒についたばかりの電子書籍にはのぞむべくもない文化的な深さとなっている。 一方で、電子技術(IT)による知のひろがり、階級制の破壊は、紙の本の長い歴史が到達できなかったことだ。そこにはオブジェとしての美の追求はない(いまのところ、ない)し、宝石のような本や珍しい造形の本を所有する喜びはないが、歴史的なそれらを「画像」として自分のコンピューターに保存しておくことはできる。 それが、人間の「所有欲」を満足させるかどうかは、私には何とも言えない。なぜなら、「美」は視覚のみならず、触覚、嗅覚、味覚、聴覚にうったえるものだからだ。読書の喜びには、味覚はともかくとして、紙をめくるときの爽やかな音、すなわち聴覚の喜びもあるのである。 コンピューターのモニター上の、手を触れることができない画像。愛書家(ビブリオフィル)とか、愛玩、玩弄という言葉は、ここでは意味をなさないだろう。もしかすると、永遠の飢渇状態が、事、所有欲に関しては心理的におこってくるのかもしれない。 それはともあれ、今日は、まさにインターネット上にあふれかえっている画像のなかに見つけた、おどろくような本の姿をここに拝借してご覧いただく。いずれもtumblrからの画像である。これらの画像に、詳しいデータは付けられていない。 この巨大な本を見てください! 表紙にハンドルが付いていますゾ! ついでに、イェール大学の「稀覯本図書館」の画像をご覧ください。
Aug 25, 2013
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稲妻ややがて別れの夏境 青穹蜩(ひぐらし)や愛(かな)し愛しも夏未練
Aug 24, 2013
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今朝、いつものようにNHKBSでメジャーリーグの野球を見ようとしたら、それはやっていなかった。そのままチャンネルを変えると、NHKBSプレミア・アーカイブで指揮者佐渡裕氏がベルリンフィルに初めて招かれ、ショスタコービッチの交響曲第5番を振るまでの氏の経歴がらみのドキュメンタリーを放送していた。途中からだったが、私はそのまま椅子に腰をおちつけた。 前置きは長いが、書こうとしていることは短い。 佐渡氏は、ベルリンを振る以前に、一昨年、東日本大震災直後の3月24日に、ドレスデン交響楽団の震災支援のチャリティー・コンサートの指揮を依頼されて、ベートーベンの第9を指揮された。 その映像が流され、第4楽章。クライマックスの合唱パートにいたる最終楽章だが、その部分が始まった。私は第9のスコアを見たことがないのだけれど、ピアニッシモ、あるいはピアニッシシモかもしれない、ごくかすかな音から始まり、次第にクレッシェンドしてゆく。 そのときだった。まったく意外に、私の目から突然、涙が吹き出したのだ。自分でもびっくりした。すばらしい音楽! その有無を言わせぬ一音一音の圧倒的な表現に、感極まったのである。 私は中学1年生のとき、当時まだめずらしかったLPレコードで、ブルノー・ワルター指揮の第9を聞いて感激して以来、たくさんの指揮者の第9を聴いてきた。名盤といわれるフルトヴェングラーのバイロイト音楽祭も聴いた.カラヤン、ベルリンフィルも聴いた。ベームのヴィーンも、クレンペラーのフィルハーモニアも。 しかし、いずれも私の固い涙腺を開けはしていない。 テレビが流した佐渡裕氏のドレスデンは、全譜ではないのみならず、途中にナレーションがかぶさった。音楽鑑賞のためにつくられた番組ではないので仕方が無い。にもかかわらず、私には第4楽章冒頭の数小節で充分だった。これほどすばらしい第9を、かつて私は聴いたことがない。そう言い切って、臆することはない。 たぶん私の耳は、この佐渡裕氏のドレスデン交響楽団の第9、第4楽章冒頭の数小節を、生涯記憶することだろう。
Aug 23, 2013
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毎朝、9時前後、雑用をかたずけながら大リーグの対戦をちらちら見ている。イチロー選手、黒田選手、ダルビッシュ選手、上原選手、川崎選手等等、日本人選手の活躍がたのしみだ。 そんななかで、今日(現地時間21日)、イチロー選手が日米通算4,000本安打を達成した。大リーグ史上にはタイ・カップ選手の4,191安打、ならびにピート・ローズ選手の4,256安打の記録がある。4,000本を越えたのは、過去にわずか2人だけ。イチロー選手の記録は、大リーグ在籍オンリーではないのだが、史上3人目ということになる。 達成の瞬間、ヤンキーズの同僚は全員駆け寄って祝福し、観客も総立ちになって拍手をおくった。むろん私も仕事の手を拍手にかえた。 ヤンキーズに移籍してからのイチロー選手は、ポジションが定まらず、ベンチ控えもまれではない。打順も日ごとに変り、代打で出ることも代走だけの試合もめずらしくはない。マリナーズ時代は規定の休養日以外は出ずっぱりで、それはそれでファンとしては心配だったが、ヤンキーズにおける立場が気にかからいでもなかった。 4,000本安打までもう1本となった昨日でさえ先発からはずれ、相手チームの川崎選手の活躍をベンチで見ている姿をテレビカメラがとらえていた。同点で迎えた9イニング目に代走で出て、俊足をいかした御得意の盗塁でホームにかえりチームを勝利にみちびいた。それはそれで嬉しいけれど、ファンとしては、なにもここで先発からはずさなくとも、と思ったものだ。 そのような必ずしも、スター選手としてチャヤホヤされていたわけではないので、プロ根性で地道につみあげてきた結果としての4,000安打の偉業に、私は惜しみない拍手をおくったのだった。 イチロー選手、おめでとうございます!
Aug 22, 2013
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庭の木々が伸びほうだいに伸びて、強い夏の日差しを除けるには都合がよかたのだが、そろそろ秋の気配も感じ、なによりも柿の木の4mほどもあるてっぺんにたわわに実っている実が、枝ごと折れて落ちてくるかもしれない。 もう10年も前になるが,留守にしている間に大風が吹いて,枝が折れたことがあった。その年は、柿が生りに生って、折れた一枝に数百個もついた。その実が庭じゅうに散乱し、大きなゴミ袋いっぱいになった。隣家の夫人が、まるで自分が折ったかのように恐縮して、「風が,風が」と言った。 そんなことがあったので、台風シーズンをひかえて、ふたたび折れないともかぎらない。たわわに生っている柿の実にはかわいそうだが、伐ってしまおうと思った。新しい軽量の高枝伐り鋏を買い、とどけてもらった。品物が到着し、いざ作業にとりかかろうとしたときだった。すさまじい雷鳴とともに、どしゃぶりの雨である。せっかくの意気込みをさえぎられて、あえなく中止。 上枝(ほつえ)の柿の実は,命拾いしたと思っているに違いない。
Aug 21, 2013
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このブログも3日間の夏休みをとっていた。 猛暑はまだまだつづきそうだが、しかし、感覚を澄ませば、暑さの中にわずかながら秋の気配がある。蝉は、ミンミンゼミやアブラゼミの鳴き声からヒグラシに変った。夕方の陽の光に黄色がまじっている。白壁を染める陽の色が真夏とはあきらかに違う。夜、静けさが深まると却って耳鳴りのような音がジージーと聞えるものだが、それを凌駕するほど秋の虫のすだきがあたりに鳴り渡っている。庭の柿の実はまだ青いが、ただ一個だけ赤く色づいて、まさに忍び寄る秋の先兵のようだ。 話は変わる。 グーグルが新しいサイト「歴史アーカイブ」を開設した。日本からは「広島平和記念資料館」と「長崎原爆資料館」が参加してい、数多くの画像や原爆投下直後の市街の動画等を見ることができる。 Google Cultural Institute 一方で、松江市教育委員会は、被爆体験を描いた漫画「はだしのゲン」が過激・残虐な描写であるとして、同市内の小中学校に学校図書館での子供への閲覧や貸し出しを中止するように要請している。 バカどもがしゃしゃり出て来て、子供が物事を直視し、思考し、判断する力を養う機会を奪い、心弱き狂気を育てようとしている。こいつらのやっていることが如何に非教育的であるか、子供たちの知性に対して如何に犯罪的愚行であることか。 全国の暴力教師は6,000人を上回り、その犠牲となった子供たちは14,000人にのぼると報告されている。子供たちに対して日常的・現実的にふるわれている暴力には手をこまねいて、机上の空論ばかりほざいているやつらだ。「はだしのゲン」のなかの日本兵の残虐行為と暴力教師との心性には、共通するモノが脈々と流れているのだ。それを直視し、分析しないところに、大きな人間的な誤りがある。誤りは今後も出てくる。 ・・・誰か心ある漫画家よ、こいつらを漫画に描いてはいかがか。そうすれば、己らがいいきになって居座っている教育委員会の恥ずべき姿を、少しは客観視できるのじゃないかね。それとも、やはりバカにつける薬はないか。バカは死ぬまでバカなのか。 ・・・こういう点なのですよ、私が普段から指摘している、愛国ナルシズムの潜在的な狂気というのは。彼らは本質的に無知、もしくは無恥なので、臭い物に蓋をすれば当面の平安がおとずれると思っている。そういう欺瞞的平安が愛国心と直結している。臭い物に蓋をする司法・立法・行政は、すなわち全体主義的ファシズム(独裁的軍事政治)の胚胎を許すのだ。ファシズムは知らず知らずのうちに忍び寄り、知らず知らずのうちに皆が加担して、気づいたときには国民は首輪をはめられ鎖につながれてファシズムの嵐のなかにいる。 松江市教育委員会の学校図書館に対しての「はだしのゲン」閲覧禁止の要請(やがて権力行使をして教員人事などで人心を惑乱し萎縮させる、その入口としてのやり方)は、そのファシズムの一つの芽。・・・「子供を守る」と言えば、「そうだ、そうだ」と乗っかってくる親たちが必ずいる。それを待っていて、ここぞとばかりにバックアップするファシズム(極右)の旗振りたちがいる。そうなると無知の力は、知性を制するものだ。狙いは、そこにある、って言うこと。 (後記;上記のカラクリを、20日の毎日新聞社説が伝える事実の経緯に、読み取ることができる↓。 さらに、右傾化にある報道機関がこの事実を報道していないことにも注目すべきだろう。) 見るべきもの、見たいものは、グーグルのような「他力』に頼るしかないのか。自主憲法だなどと息巻いているが、チャンチャラおかしいぜ! 他力本願、他力本願。【関連報道】毎日新聞 はだしのゲン:閲覧制限 2013年08月20日 07時30分毎日新聞 社説:はだしのゲン 戦争知る貴重な作品だ 2013年08月20日 02時33分朝日新聞社 はだしのゲン、鳥取でも閲覧制限 2013年8月20日13時11分NHK NEWS WEB 「はだしのゲン」鳥取市でも閲覧制限 8月20日 16時43分
Aug 19, 2013
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午前中にお盆の墓参に行って来た。墓を洗い、草むしりをし、供物を飾り、香を焚き、手をあわせる。 つい先日、たまたまTVの世界ランキングとかの番組を見ていたら、墓参りをする回数の多寡についてのランキングが出ていた。詳しいことは忘れてしまったが、日本は意外に低かった。確か年2回に満たなかった。その数字は容易に理解できる。つまりもっとも新しい死者の命日の墓参と、盆の墓参りが、おおかたのところだろう。私もまたそのとおりで、もう一回、年末年始いずれかが加わる程度だ。父も母も、同じ月に亡くなっているので、新しい母の命日に父の方は兼ねさしてもらっている。 しかし、墓参のたびに思うのだが、我家の墓のある霊園は、いつもたくさんの若い人達がしごく丁寧なお参りをしているのを見かける。たいていは年輩者から逝くのだから、遺族は若い人達であろうけれど、10代の子供(もっとも反発しがちな年齢)も素直に手をあわせている姿に、やはり感心するのだ。 ところで、きょうは終戦記念日でもある。 我家の親戚関係に戦死者は比較的少なく,ただ一人だけである。少年水兵として駆逐艦「夕雲」に乗り組み、還らぬこととなった。自宅に届けられた骨箱は、開けてみると何も入っていなかった。 20年ばかり以前、そういう話を伯母がするので、私は調べてみた。そのころ仕事を依頼されていた出版社から、数十冊におよぶ多方面にわたる戦記をプレゼントされ、どかっと自宅に届いた折りでもあった。 駆逐艦「夕雲」は、昭和18年(1943) 10月6日未明ラバウルを出撃、ブーゲンビル島南方海域で欺瞞航行後、ベララベラ島近海に向かった。同日夜、フランク・R・ウォーカー大佐率いる第42駆逐艦隊と遭遇、いわゆる第二次ベララベラ海戦が始まった。「夕雲」は第42駆逐艦隊の先制攻撃に逸早く応戦するが、敵艦隊からの集中砲撃を浴びて火災発生。なおも攻撃をつづけるが、21時05分、魚雷が命中し、21時10分、沈没した。 「夕雲」の乗員の大半は戦死したが、味方の駆逐艦「風雲」およびアメリカの魚雷艇に救助された乗員もいた。私の親戚筋の少年は、そこで戦死していた。 当時、兵士たちは自分が「夕雲」に乗り組むことは知っていても、行く先を知ることはなかった。よしんば知っていても、たとえ親兄弟といえども行く先を知らせることは禁じられていた。したがって現在では詳細な戦記によって「夕雲」の運命を知ることができるけれども、伯母は年老いてゆくままそのような調査に気もまわらず、どこでどうして死んだものやらと、長く想いつづけて来たのだった。私が、ざっとながら分かりやすく説明すると、「ありがとう、ありがとう」と言っていた。間もなく伯母は亡くなったので、あるいは胸の閊えがひとつ消えて逝ったかもしれない。 少年は、出征の前の晩、母の実家の寺に訪ねて来て、敬礼しながら出征を告げた。母は生前、ふと何かの折にその姿を思い出すらしく、しばしば私にも話して聞かせたものだ。
Aug 15, 2013
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男子サッカー、キリン・チャレンジ・カップ、対ウルグアイ。途中からのTV観戦。 残念ながらザック・ジャパン、2−4で敗れた。しかしこれは技術的に見ると、完敗といってもよいだろう。香川と本田が2点を返したものの、ウルグアイのシューティング・アビリティーに感心することしきり。何か子供と大人の差を感じたと言ったら、言い過ぎだろうか。ウルグアイ・チームのそれを見ていると、その正確さ、精度の高さにおいて、ゴール前での敵のGKやDFを引きつけておいてのボールの動きの付け方は、・・・何と表現したら良いだろう・・・まるでビリヤードのキュー捌きとボールとの物理学的、幾何数学的な関係を思い起こさせる。 試合前日、ザッケローニ監督はインタビューに応えて、「ウルグアイからは学ぶことがたくさんある」と言っていたが、まったくそのとおりなようだ。本当に学んでほしいなー。 日本は、ことあるごとに「チーム力」と言ってきた。しかし、今の日本A代表は、その場その場の寄せ集めのような具合になっているのじゃないか。海外で活躍する選手が多いのは嬉しいが、国際試合のたびにあちらの国こちらの国から掻き集められ、国内組に混ぜ合わされ、共に練習する時間も少なく、あるいはそれさへもなく、休養する時間さへないままに本番に臨む。はたしてこんな調子で、世界の最優秀チームと戦えるだろうか。 監督も、招集された選手も、必死であるだろうことは窺える。だが、私の観察では、その心にさへ、なにか慢心のようなもの、精神主義が陥る傲慢さのようなものが、無意識のなかに巣食っていはしまいか。一昨日所属チームで試合をし、そのまま飛行機に乗り、翌々日には母国で国際試合に臨むなどということが、勝利を可能にするとは思えない。いかがであろう。 巨額の金が動いているのだからスターシステムを採らざるをえないにしても、日本のサッカーが J1、J2と、20年前とは比べものにならないほど活況を呈していても、選手の力量は国際的なレベルからすると層が薄いということか。そのあたりのことは、私は全く分からない。スターシステムを採らざるをえないことに対する疑問というか、そこで私の思考が停止してしまう、と言っておこう。 あくまでもTV観戦する、シロウトの見方ではあるけれど・・・
Aug 14, 2013
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昨夜のペルセウス座流星群は、東京は夕方から雷雨、しばらく降ってあがったものの、空は厚い雲におおわれたまま、とても流星観察どころではなかった。残念、残念。15日ぐらいまでは見ることができるそうだが、それでも東京は見込み薄のようだ。 私は、花火見物に出かけたことがない。積極的な関心がないのだ。それなのに、流星群は機会あるごとに、一人つくねんとベランダに出て小一時間も夜空を眺める。別に悠久の宇宙を想っているわけではない。 私はロマンチストではない。「幻想画家」と言われ、それはそれで何の抗弁せずに甘んじて受けるけれど、私の絵は現実直視から生まれる。非常に広範囲の現象をとりあげて、理念や思想の長い糸で網をあむように結びつけ、遊びと、いわば冗談の光景に仕立て上げる。それは「ロマンチック」とはちがう、と私は思っているのである。 毎日新聞が昨夜の流星をとらえた、そして私の琴線にふれた写真を掲載している。 手塚耕一郎氏が宮城県気仙沼市で撮影した4枚掲載のうちの1枚。東日本大震災の津波で打ち上げられた「第18共徳丸」の背後に流れるペルセウス座流星群の流れ星。 私の創画方法に照らせば、この写真は、幻想的であるけれどもまぎれもない事実であり、悲惨は希望をかかえて詩に昇華していないだろうか。ロマンチックと誤解されかねないが、ロマンチックでは断じて無い。その図像には時事的批評性がある。撮影者の意思が明瞭に表現されている。写真であることに大きな意味がある。画家も描けなくはない図だが、絵では意味をなさない。写真でなければならないのだ。毎日新聞 ペルセウス座流星群:被災漁船の上空、闇切り裂き…気仙沼 2013年08月13日
Aug 13, 2013
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空蝉の身は嘆かねど炎暑かな 青穹 なんという暑さだ。東京の最低気温が30℃ときた。高知県四万十市では41.0℃だそうだ。これは全国過去最高気温だとか。 家の中にいるぶんにはさして堪えないが、さきほどよんどころない用事で2時間ほど外出した。夏休み、お盆休みとあって、この時期、東京はガラガラ。それはそれで東京を離れない住人には静かで良いのだが、すれちがう人はみな茹で蛸のような顔に汗が吹き出ている。朦朧とした様子で歩いている人を見かけると、思わず足を止めて「この人、大丈夫かね」と後ろ姿を目で追ってしまう。そしてまた、どこかの大学の相撲部の連中か? やけに体格のいい(腹の出た)男達が、ランニングですれちがった。私が思わず歩道の片側にずいとひっこみ道幅をつくると、「すみません」と身体に似合わない小声で挨拶した。おいおい、大丈夫かよ、こんな暑さの中で水も持たずにランニングとは・・・。彼らに遅れること50m、別な二人が、これはもう走る力がない。股擦れしそうな太いアシで、ノタリノタリと歩いて付いて行った。 ところで、今夜から明けて午前3時をピークに、ペルセウス座流星群が見られる。天候次第、雲の在る無し次第だが、条件が良ければ1時間に50個くらい観測できるかもしれないという。 1月の四分儀座流星群、12月の双子座流星群と、私はいつもベランダに立ち尽くすのだが、ここ2,3年は、あいにくの曇り空で見ることができなかった。 双子座の流星降って山眠る 青穹と、詠んだのはもう4年前のことだ。 そういえば、私がペルセウス座のこと、というよりこの名称に親しんだのは、確かSF作家堀晃氏の雑誌掲載小説のためのイラストレーションを描いたときだったと憶えている。堀さんの短編小説を何本か描かせてもらっているのだ。
Aug 12, 2013
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今朝、家人が「今年は柚がたくさん実をつけている」と言った。「あっ、そう? それは嬉しいね」 ウドの大木という表現をするが、我家の柚はユズの大木で、成りばかりでかくて一向に実をつけたことがなかった。柚は実をつけるまでには何年もかかるのらしいが、それにしても、もう10年になる。ところが昨年のこと、ちょっとおかしな色をした直径7cmもある実が、たった一個生った。はじめての結果だった。 今年の春に、白い花が咲いていたので、あるいはと期待した。今までは花さへ咲いたことがなかった。 先週、近所のバイオマス・アドヴァイザーを仕事にしている方が、近頃しょっちゅう話し合っている町内会の事業のことで訪ねて来た。そのときに我家の庭木のこと・・・柿や柚の実生のことを立ち話した。環境の変化、・・・気づかないほどの小さな変化ながら、確実に変って来ているという話題からそこに行き着いたのだ(我家の門から玄関までのアプローチは、以前は飛石を置いていたのだが、年老いた父母にはそれでは危険なので、ちょうど10年前に車椅子も使えるように重量コンクリートブロックを平に敷きつめた。それが、一昨年3.11、地盤が褶曲したか落ちたかして、一部に1cmほどの段差ができた)。 まあ、そんなこんなの矢先の家人の柚の実生報告だった。あとから庭に出て(いやはや、クソ暑いゼ!)見てみると、なるほど、直径3cmほどの濃い緑の実がボコボコと生っていた。やはり実が生るはずの木に実が生るのは嬉しいものである。
Aug 10, 2013
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きょう、68回目の長崎原爆忌。Tadami Yamada "For The Memory of Nagasaki Atomic Bomb Attack"Pen and ink on paper, August, 2011.
Aug 9, 2013
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NASAが今年の11月に予定している火星探査衛星の飛行計画 "The MAVEN" の、「あなたの名前をDVDに記録して火星への旅に出発しませんか」という呼びかけに応募したところ、参加認可の証書が送られて来た。火星には2年くらいかかって到着するらしいが、夢を見ようと思っている。昔、講談社インターナショナルの依頼で、レイ・ブラッドベリの『火星年代記』の表紙絵を描いたことがある。これも遠い縁かもしれない、と思いながら・・・
Aug 8, 2013
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68歳の私。すなわち昭和20年(1945) 生まれ。何度も書いて来たが、文字通り日本の「戦後」とともに生きて来た。私の写真アルバムの最初のページに、私の生後6ヶ月に撮影した6枚の写真が貼ってある。父が結婚前に買ったドイツ製のカメラ、バルダックスで撮った。父は婚約したまま戦地におもむいたので、もちろんカメラは家に置いたままだった。戦地から戻り、すぐに結婚し、私が生まれた。忘れていたカメラにフィルムが入れたままになっていた。年月が経っているので、写るかどうか分からないが、試しにと、私を撮った。6枚に写っていた。その6枚も、初めのほうは、写るには写ったが、やはり粒子が荒れていた。生後6ヶ月というと、昭和20年11月。何も物がない時代。良くぞカメラが残っていて、フィルムも生きていたことか。父母にとって、この写真は宝物となり、そして私自身にとってもそのとおりである。 その6枚の中の1枚と、68年後の68歳の私の自画像とを組み合わせてみた。病気をすることもなく、たんたんとではあるが、平和を生きて来たと思いながら。 そのときが来たら書くことにするが、じつは、NASAが火星へ向けて飛ばす探査衛星に、私の名前をDVDにプリントして一緒に飛ばしてくれることになった。核兵器で地球が壊滅しないうちに、せめて名前だけでも逃がしておこうと思ったわけではないが、NASAの呼びかけに応募したら、許可の証書が送られて来た。 この身は地球に置いて、死のときまで戦争反対、核兵器廃絶を訴えて行こうと思う。Tadami Yamada "Self-Portrait at the Age of 6 Months and the Age of 68" Composite of a photograph and a sketch with Photoshop, 7 August, 2013.
Aug 7, 2013
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私の手元に一冊の小さな児童書がある。ポプラ社文庫・広島テレビ放送編『いしぶみ 広島二中一年生全滅の記録』(1983年刊)。 昭和20年8月6日、朝から暑い日だった。広島二中の一年生322人と先生4人は、動員された作業(家を取り壊したあとの片付け)のために、広島市の中心、中島新町の本川土手に集合した。現在の平和公園、広島市公会堂の前の道路である。集合時間は、暑くならないうちに作業にかかれるようにと、午前8時10分であった。 広島市では市内に5カ所の空き地をつくるために、8月2日から1週間の予定で、建物を壊す作業等に男女中学生3万人、地方からの義勇隊7万人、そのほか軍隊も合わせて延べ30万人が動員されていた。8月6日は、本川土手に集合したのは、広島二中一年生の他に、広島市立第一高等女学校と広島市立造船工業学校の一年生および二年生、そして地方義勇隊がいた。 広島二中の一年生は新大橋東詰(現在の西平和大橋東詰;ひがしづめ)から川を背にして一学級、二学級と、六学級まで順に二列横隊に並んだ。その真っ正面からB29爆撃機エノラ・ゲイは広島に進入して来た。点呼を終えた直後だった。みんなは空を見上げた。午前8時15分17秒、エノラ・ゲイは直径70cm、長さ3mの原子爆弾を投下した。三学級の森川君は、原子爆弾が落ちてくるのをはっきり見た。43秒後、原子爆弾は、広島二中一年生が並んでいた場所から北東500m、上空570mのところで爆発した。 『いしぶみ 広島二中一年生全滅の記録』は、一人一人の死までの足跡を追った希有な記録である。巻末に亡くなった322人全員の名簿が載っている。本文ページにその生前の肖像写真が掲載されていて、私の全身は痛ましさに震える。
Aug 6, 2013
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明日は68年目の広島原爆の記念日である。 今年4月の国際的な『核兵器の人道的影響に関する共同声明』に、日本は署名しなかった。核兵器を「爆発による即死や破壊のみならず、環境を破壊し、次世代から健康や資源を奪う」と定義した調子の高い声明であったにもかかわらず、被爆国日本はそれに同調しようとはしなかったのだ。 愚かな首相や元首相をはじめ、愛国面をした戦争愛好者たちが、国民の経済的疲弊感と、一方では飽食と享楽に慣れきった、相反する感覚を利用して、国をひっくり返そうと目論んでいる。愚か者の自己肥大化した心は、自分の目論見が国を眞に危機にさらし、若者達の屍体の山を築くことには無頓着だ。 ドイツのように第二次大戦を徹底的に自己批判をして「二度と過ちをくりかえしません」(これは広島原爆碑に刻まれてある言葉)と、厳しい自己規制の憲法を布いてきた国でさへ、戦後68年も経てば、ネオ・ナチなどという野蛮が芽を吹く。我国は太平洋戦争で300万の自国民を死なせた愚劣な国策の歴史を一向に顧みないできた。顧みようという良心的愛国心を、文部省が手先となって潰して来た。それを楯にして悪喨々のラッパが鳴り響く。ひどい国だ。 終戦前夜にこの世に生まれた私は、まさに戦後とともに生きて来た。いまや私の関心はこの国の精神病理にある。非常にやっかいな病を病んでいる。 かつて銃後の愛国国防婦人会のように、狂気となって我が子を、他人の子を、死地に駆立てるようなことを、68歳という老人の域に入りつつある私もやってしまうだろうか。母親や女たちが戦争に反対する力になる、というのは嘘だ。いやいや、そう言ってしまってはいけない。我々は自分が戦場に行かなくてもよい立場になると、悲しみの顔をして他人を(若者を)戦地におもむかせるものだ。きれいごとを言って、戦時法というワナで彼らをからめとって、背中をどやしつけ、蹴り出すのだ。 いま、内閣は、・・・まさにその戦時法への足固めをしようとしている。先日、政府の憲法解釈の番人であるはずの内閣法制局長官を、第9条を改悪して集団的自衛権を容認する(すなわち国防軍を創設する)に積極的な人物にすげかえる人事を発表した。つまり政府の立法的な暴走を阻止する番人がいなくなってしまったということだ。この人事は見過ごしにできない。麻生副総理はある馬鹿者どもの集まりで、憲法改悪はナチスのやりくちに学べと演説した。「誰も気づかないうちに、やれ」ということだ。一見遠い濠から埋めて、なし崩しに既成事実をつくって本丸を落とすやりかた。私は以前から指摘しているが、そのやりくちは、とっくに始まっているのだ。もう、笑っている場合じゃない。Tadami Yamada "The Crown of The World, 1"CG, 5 August, 2013 for The Memory of Hiroshima.山田維史《世界の王冠(1)》CG,2013年8月5日、広島原爆の日記念
Aug 5, 2013
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ゴシック小説ファンでなくても『フランケンシュタイン』を知らない人はいないだろう。映画化も何度となくされている。正確な題名は『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス (Frankenstein: or The Modern Prometheus)』という。作者はメアリー・シェリー(1797年-1851: イギリス)。『フランケンシュタイン』が執筆されるにいたった経緯は、これもあまりにも有名なので述べる必要もないが、これから少し書こうとしていることに深く関係しているので、念のため触れておく。 1816年5月、メアリー・シェリーは後に結婚することになる詩人のパーシー・シェリーと駆け落ちした。向かった先はバイロン卿とその友人が滞在していたスイスのレマン湖畔のディオダティ荘だった。長雨が降り続いていた。外に出ることもできず、辛気くさい日々。ある夜、バイロン卿が提案した。「みんなでそれぞれに一篇ずつ怪奇譚(a ghost story) を書こうじゃないか」。 このときの着想をさらに膨らませて、2年後の1818年3月、メアリー・シェリーは『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』を匿名で出版した。ゴシック怪奇小説の名著の誕生であった。 さて、昨年2012年9月、ロンドンの稀覯本古書店ピーター・ハーリントンが、その『フランケンシュタイン』の初版本を、特別顧客の内覧会で初公開した。扉に「バイロン卿へ 著者より(To Lord Byron from Author)」と、ペンによる手書きの献辞が記されている。つまり、著者メアリー・シェリーが、この小説を書くきっかけを与えてくれたバイロン卿に贈呈した本。バイロン卿が所持していた『フランケンシュタイン』初版本である。 この本を発見したのはピーター・ハーリントンの若い研究員サミー・ジェイで、彼はこれが偽の献辞ではないかという疑念を一方に抱きながら研究をした結果、「To Lord Byron」の「T」の筆法が明らかにメアリー本人のものであることが判明した。匿名で出版したのであったから、署名が「著者より」となっているのもうなづける(普通は名前を書くところだ)。 かくして世界に一冊しかないバイロン卿が所持していた『フランケンシュタイン』初版本は、一躍稀覯書中の稀覯書の仲間入り。内覧会でピーター・ハーリントンが付けた価格は、なんと、350.000ポンド(約5千2百85万円)。 じつはこの話、私はピーター・ハリントンのwebサイトのヴィデオで知った。研究者によるこの本の解説と内覧会の様子を撮った2本のヴィデオである。ロンドンの有名な稀覯本古書店がどのように顧客にデモストレーションしているかが分かり、その点もおもしろい。興味のあるかたはご覧ください。 この古書店は、愛書家や古書蒐集家に対するいわば教育的な講義ヴィデオもアップしていて、上記2本のほか。現在、「華麗なるギャツビーのダスト・ジャケット(日本ではカヴァーと言っているが、英語でカヴァーほ本体表紙のこと)」、「ジェーン・オースティンの初版本」、「ジェイムズ・ボンドをコレクションする」、「どのように初版を識別するか」、「チャールズ・ディッケンズの初版本のフォーマット」、を見ることができる。私は、一昨日、一昨々日と、チャールズ・ディッケンズの『イングランド史』の一部分をこのブログで紹介したばかりだ。ディッケンズの著書の初版本がなぜさまざまなフォーマットであるかが、このヴィデオでわかる。これもまたおもしろい。是非一覧を。↓Videos - Peter Harrington Rare Books ついでに、ハーバード大学の稀覯本室の写真をご覧ください。The Rare Book Room of Harvard from the web site of "History of the Book at Harvard"
Aug 4, 2013
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kurumiさんの制作した「脱戦争ポスター」。「戦争になったらまず行かされるのは若い人。戦争したい人じゃない。」とkurumiさんは言います。まったくそのとおりです。
Aug 3, 2013
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昨日のつづきです。チャールズ・ディッケンズ『子供のためのイングランド史』より第25章「リチャード3世治下のイングランド」(Part 2) 山田維史 訳 彼の成功の時代は楽しかった。リチャードは、議会を招集し金を獲得するために考えた。そして議会が招集された。議会は彼が望む以上の喜びを彼に与え、おもねった。イングランドの正統な王であると、彼と彼の唯一の息子エドワードに対して宣誓した。エドワードはそのとき11歳、次の王位継承者だった。 リチャードは議会に言わせるべきことを充分に承知していた。エリザベス王女はヨーク家の女性相続人として人々に記憶されていた。そしてリチャードは、加えて、彼女をリッチモンドのヘンリーと結婚させようとしている陰謀団の計画についての正確な情報も入手していた。彼は、陰謀団の裏をかいて彼女を息子と結婚させれば、それが一層彼を強くし、彼らをを弱めるにちがいないと感じた。この展望を携えて彼はウエストミンスターの聖所におもむいた。そこにまだ故王(山田註:リチャードの兄エドワード4世)の未亡人と彼女の娘(山田註:王女エリザベス・オブ・ヨーク))がいた。彼はふたりに宮廷に来るように懇願した。宮廷で・・・と、彼は有りと在る物に誓って言った・・・彼女達は安全に名誉あるもてなしをされるであろう、と。彼女達は申し出によりやって来た。ところが宮廷に滞在すること一ヶ月、彼の息子が突然に死んだ。・・・あるいは毒殺された・・・それで彼の計画はこなごなに砕け散ってしまった。 この窮地のなかでリチャード王は常に積極的に「私は別の計画を立てなければならない」と考えた。そして、エリザベス王女は彼の姪だったのだが、彼女と自分自身との結婚を企てた。その道筋にはひとつの厄介な問題が横たわっていた。彼の妻、アン王妃である。彼女は生きていた。しかし、彼は(甥たちを思い出して)邪魔者を如何に取り除くかを知っていた。そして彼は、王妃は2月に死ぬであろうことは確かだと感じていると告げながら、エリザベス王女に求愛した。王女は大変誠実な若い貴婦人というわけではなかった。つまり、軽蔑と憎悪で彼女の兄弟を殺した男を拒絶せず、彼を心から愛していると開けっぴろげに誓った。そして2月になった。王妃は死ななかった。エリザベスは、長過ぎて待ちきれないと、意見を吐露した。しかしながらリチャード王は、彼が予言したことからそう遠くないところにいた。王妃は3月に死んだのである。彼は事を注意深く運んだのだった。それからこの愛し合うカップルは結婚を望んだ。しかし、彼らは落胆した。と言うのも、このような結婚計画は、イングランドではまったく好かれなかったのだ。王の首席顧問ラトクリフとケイツビーは、そんな計画に決して着手しなかったにちがいない。そこで王は、そのようなことをまったく考えたことはないと、公然と宣誓せざるを得なかった。 この時までに、彼は、国民のすべての階級から恐れられ、憎悪されていた。彼の貴族たちは日ごとに彼のそばから離れて行った。彼はあえて別の議会を招集しなかった。彼の罪をそこで批難されないようにだった。そして金がほしかった。市民階級すべてが彼に反抗して腹をたてないように、彼らの 〈慈悲心〉 をあてにせざるをえなかった。 また、こんなことも言われた。良心によって打ちひしがれながら、彼は恐ろしい夢を見た。そして夜中に飛び起き、恐怖と良心の呵責にかられて荒れ狂った、と。 このすべてを通じて、死ぬまで積極的だった彼は、リッチモンドのヘンリーと彼の追随者たちが彼に逆らってフランスからフリート艦に乗ってやって来ていると聞いて、彼らに対するきびきびした声明文を発布した。そして凶暴で残忍なイノシシのように戦闘をくりひろげた。そのイノシシは彼の楯に標されていた。 リッチモンドのヘンリーは6千の兵士とともにミルフォード・ヘイヴァンに上陸した。リチャード王に逆らって軍を進め、北ウェールズを通り、2倍にふくれあがった軍隊とともにレスターに野営した。ボズワース・フィールドで二つの軍隊は出合った。 やって来るヘンリーの兵士たちを見、自分を見捨てたイギリス貴族たちとともにいるその大軍を見て、リチャードは青ざめた。彼らのなかに、強力なスタンリー卿とその息子(リチャードは彼をしっかり記憶にとどめようとした)がいたのだ。しかし、彼は邪悪だったが勇気もあった。そして戦闘のまっただ中に突っ込んで行った。彼はあちらこちらへ騎馬を駆り、前後左右を打ちまくった。彼がノーザンバランド伯爵・・・リチャードの数少ない味方の一人だった・・・を見つけたとき、ノーザンバランド伯が動きを止めて立ち上がり、彼の軍隊の本体がためらった(後註1)。その時だった、リッチモンドのヘンリーが彼の騎士たちの小さなかたまりのなかにいるのが、自暴自棄になったリチャードの目に入った。彼は全速力でヘンリーに向かって駈け、「反逆者め!」と叫びながらヘンリーの旗手を殺した。恐怖にかられた馬が別の領主を振り落とした。そしてヘンリーを斬り倒すために思い切り一撃を喰らわした(後註2)。しかし、それが打ちおろされる瞬間、ウィリアム・スタンリー卿がとっさにそれを躱した。リチャードは再び腕を振り上げる前に、押し寄せる軍勢の中でぐっと耐え、落馬し、そして殺された。スタンリー卿は王冠を拾い上げた。打ち瑕だらけで、踏みつけられ、血に染まっていた。彼はそれをリッチモンド公の頭上に置いた。「ヘンリー王万歳!」大きな歓呼があがった。 その夜、一頭の馬がレスターのグレイ・フライアーズ教会に導き入れられた。その背にはボロ袋のような丸裸の屍体がくくりつけられていた。そこに埋葬するためであった(後註3)。家系図の最後の屍体(後註4)、リチャード3世、強奪者にして殺人者、2年間の統治の後、32歳でボズワース・フィールドの戦いで戦死。【山田註】1)ディッケンズは明瞭に書いてはいないが、リチャード3世が唯一の味方と思っていたノーザンバランド伯ヘンリー・パーシーは、このときリチャード3世派(ヨーク家派)の右翼で指揮しながら戦況を見ていた。しかし自らの率いる軍隊を動かそうとはしなかったのだった。その後、テューダー朝が成立するとノーザンバランド伯ヘンリー・パーシーはその王朝のために活躍したので、ボズワースの戦場での彼の行動は「裏切り」と言ってよいだろう。2)リチャード3世の武器は斧であった。 3)現在は駐車場になっているこの場所で、レスター大学の遺跡発掘チームが一体の完全な遺骨を発見し、それがリチャード3世であることが科学的に証明されたについては、すでにこのブログで述べた。その死から517年が経っていた。4)ヨーク王朝最後の王ということ。
Aug 2, 2013
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きのうの日記でリチャード3世に触れた。それで、ものはついでと、チャールズ・ディッケンズが子供の為に書いた『イングランド史』の「リチャード3世治下のイングランド」の章を読み直してみた。どうせなら翻訳してブログの読者にお目にかけようと思い、それを以下に掲載します。この章は短いのですが、今日と明日と2回にわけることにします。ディッケンズが長く述べてきたイギリス史の途中の章なので、そこまでの経過がないと話を把握しづらいとは思いますが、お読みいただけたならと思います。チャールズ・ディッケンズ『子供のためのイングランド史』より第25章「リチャード3世治下のイングランド」 山田維史訳 リチャード3世は、その朝、眠りから覚めるとウェストミンスター・ホールへ行った。ホールには大理石の椅子があった。二人の大貴族の間にあるその椅子に彼は坐った。そして、彼は人々に告げた。この場所で新しい王政が始まる、と。というのも、君主の第一の義務は万人に等しく法を執行することであり、正義を主張することであったからだ。それから彼は馬に乗ってシティ(ロンドン)へ戻った。シティで彼は、あたかも実際に戴冠して王権に就いたかのように、また、正統的な男であるかのように、聖職者と群衆に迎えられた。聖職者と群衆は、そのような臆病なごろつきに対して、ひそかに自分たちを恥じなければならなかった、と私(筆者ディッケンズ)は思っている。 新しい王と王妃は、すぐに、人々が大好きなショーとばか騒ぎのなかで戴冠した。そして王は、彼の支配権を知らしめるために各地へ行進を繰り出した。人々が充分にショーを楽しみ騒ぎたてるように、彼はヨークにおいて二度目の戴冠をした。彼は行く所どこでも、強靭な肺をもった善良な民衆から歓びの叫びで迎えられた。人々は喉を痛めつけるほど叫ぶと、金が支払われたのだった。「リチャード王に神の祝福を!」 計画はもののみごとに成功した。王の支配を知らしめるために各地への王の行進は、それ以後、他の強奪者たちの真似するところとなった、と私は述べておく。 この旅の間に、リチャード王はワーウィックに一週間滞在した。そしてワーウィックから彼は、かつて行われた殺人のなかでも最も邪悪な殺人者の一人にあてて、二人の幼い王子、ロンドン塔に幽閉されているリチャードの甥たち(後註)を殺すよう、本国へ指示を送った。 ロバート・ブラッケンベリー卿は、当時、ロンドン塔の総督だった。彼に、ジョン・グリーンという名の送達吏によってリチャード王からの手紙がもたらされた。ある理由によって二人の王子を処刑せよ、という命令だった。しかしブラッケンベリー卿は・・・私(ディッケンズ)は、彼が自分の子供をもち、愛していたからだ、と思いたいのだが・・・、そのような恐ろしい仕事はただの一遍たりとも私にはできない、という返書をしたためた。ジョンは馬に拍車をかけ、埃を巻き上げながら戻った。王は不機嫌にしばらく考えていたが、彼の乗馬の師であるジェイムズ・ティレル卿を呼ぶように言いつけた。そしてティレル卿にロンドン塔の指揮を奪って、24時間、ロンドン塔のすべての鍵を所持する権限を与えた。望まれていることを熟知していたティレルは、身の回りから二人の無情な悪党を探し、自分の馬丁の一人ジョン・ディグトンと、殺し屋のマイルス・フォレストを選んだ。これらの二人の助っ人を従えて、ティレルは八月上旬のある日、ロンドン塔へ行った。王からの権限委任状を示し、4時間と20時間、指揮を奪い、鍵の所有を獲得した。そして暗い夜のとばりが降りると、罪深い悪漢のように忍び足で暗い石の螺旋階段を上り、暗い石の通路を二人の幼い王子がいる部屋の扉までやってきた。王子たちは就寝前のお祈りをし、ベッドに横たわり、お互いの腕を握った。ティレルは二人の悪魔ジョン・ディグトンとマイルス・フォレストを送りこみ、様子をうかがいながら扉の内に耳を澄ませていた。二人はベッドと枕で王子たちを窒息させた。そして屍体を階段の下まで運んだ。階段の足許に埋め、たくさんの石を積みあげた。夜が明けた。ティレルはロンドン塔の指揮権を手放した。鍵をもとに戻し、一度も後ろを見ずに大急ぎで立ち去った。ロバート・ブラッケンベリー卿は恐怖と悲しみで王子たちの部屋に向かった。そして王子たちが永遠にいなくなってしまったことを知った。 読者諸君は、この歴史のすべてをとおして、裏切り者が決して誠実ではなかったのではなく、如何に誠実であったかを知る。諸君は、バッキンガム公爵がまもなくリチャード王に背いたと知っても、驚きはしないだろう(後註)。 バッキンガム公は、リチャードの王位を剥奪し、正統な王冠の主の頭上にそれを戻すために組織された陰謀団に加入した。リチャードは殺人を秘密にしておくつもりだった。しかし、彼のスパイから陰謀団の存在を聞き知り、さらに、多くの領主と紳士たちがロンドン塔の二人の王子の健康を祝って秘密裏に酒を酌み交わしたことを知って、彼は王子たちが死んだことを知らせた。陰謀者たちは、一瞬邪魔がはいったけれども、すぐに殺人者リチャードに背いてリッチモンド伯爵ヘンリーを王位に即けるための決議をした。リッチモンド伯ヘンリーは、ヘンリー5世の未亡人でオウェイン・チューダーと結婚したキャサリンの孫である。ヘンリーの出自はランカスター家だったので、彼らは、彼が故王の長女で現在はヨーク家の女性相続人であるエリザベス王女と結婚すべきだと勧めた。すなわちこの敵同士の縁組によって、赤薔薇と白薔薇との宿命的な薔薇戦争が終結する、と。すべての実質的なことが協議された。ブリタニーからやって来るヘンリーの期日と、イングランドの様々な場所における反リチャード決起とが同時刻に調整された。十月のその日、反乱はおこなわれた。しかしながら不成功に終わった。リチャードは準備していたのである。ヘンリーは嵐で海に押し戻されてしまった。イングランドの彼の支援者たちは散りぢりにされた。バッキンガム公爵は捕らえられ、ただちにソールズベリーの市場の広場で斬首された。 (つづく)【山田註】1)バッキンガム公爵ヘンリーはリチャード3世の政権樹立に貢献した。後に、ここに書かれているように、反乱を起こす。2)ロンドン等に幽閉された二人の王子とは、リチャードの兄、イングランド王エドワード4世の息子で王位を継承したエドワード5世とその弟リチャード・オブ・シュルーズベリーである。したがってふたりはリチャード3世の甥にあたる。リチャード3世は兄エドワード4世に忠誠を誓い、兄の死後幼いエドワード5世が王位に即くとその摂政となった。しかしその権力を手中にするや故兄王の王妃一派を捕らえて粛正し、エドワード5世と弟王子をも塔に幽閉、3ヶ月後にエドワード5世の王位の正当性を否定する議会に推挙されて自ら王位に即いた。
Aug 1, 2013
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