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寒さが逆戻りしたかのようだ。昨夜来の雨が降っている。「春雨じゃ濡れて行こう、ハックション!」では、月形半平太も転けてしまうだろう。 ここ数日、俗事にかまけていて、気持がなかなか作品制作に飛び込んで行かない。しかしその俗事の今後のスケジュールを見ると、7月の展覧会用の作品引渡し、すなわち6月半ばまでに、何やかにやとキャンセルできない外出仕事がひかえている。「気持が---」なんて言ってられない。 よし、やるかー!
Mar 26, 2017
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きょうは小学校の卒業式に出席。昨日の幼稚園と比較することは無意味だが、私個人的にはなんとなく児童たちが哀れに感じた。 式の長いこと長いこと、9時40分に始まって11時50分終了。児童は教師の指導のままに行動しているので批評の対象外としなければならないが、とにかく式典はペコリペコリと一事に何度も礼をくりかえすばかばかしさ。 登壇話者に例をとると、名を呼ばれて立ち、学校関係者席に向かって一礼、次に保護者に一礼、来賓に一礼、登壇して(たぶん国旗・市旗・校旗に対してだろう)一礼、児童・会衆に向かって一礼、話し終わって一礼、再び旗に向かって一礼、降壇して教師たちに一礼、保護者に一礼、来賓に一礼--------一事に10回おじぎをしている。このパターンが卒業証書授与、校長式辞、教育委員長式辞、来賓式辞、PTA会長式辞等々とあり、加えるに卒業生一人一人が卒業証書を受けるにあたりまったく同じパターンが繰り返される。すなわち80人の卒業生がいれば計800回のおじぎが繰り返される。 「過ぎたるは及ばざる如し」と言うが、小学校の式典で1,000回近くもペコペコおじぎを繰り返していては、「美礼」と言うより返って「空虚」感が漂う。しかも、私が児童たちに哀れを感じたのは、この式典のために予行演習をしていることを思うからだ。たくさんの歌を斉唱していたので、その練習を含めておそらく長時間を費やしたことだろう。団体教育の一環であることは間違いないにしても、なんと創造性に欠ける時間だろう。 そして、おや?と思ったのが、唱歌『あおげば尊し』の復活。たしか昨年まで組み込まれていなかった。今までの音楽教科書にも含まれていないだろう。この小学校は幸いなことに事件が起っていないが、今日、教師と児童・生徒との間でありうべからざる様々な問題が出来(しゅったい)している義務教育現場で、「仰げば尊し、わが師の恩」と歌う(歌わされる)この復活は、何を意味しているだろう。 それでも、私はそれぞれに着飾った子供達の晴着に、むしろ潰されていない個性を感じた。 ある男の子は和装で、袴を穿いて素敵な黒と銀鼠の子持大名縞の長振袖の羽織を着、後ろに束ねたた肩までの長髪はうっすらと茶に染めた自毛にパーマをかけたのかエクステンションなのか。女の子にも袴姿の和装もいれば、鮮やかな花模様のスカートに黒のチュール(シースルーのネットもしくはオーガンジーやレース)をかぶせて、それはさしずめ錦繍に紗をまとう粋人好みに似てなくもなかった。もちろん男の子のスーツにネクタイ、あるいはスーツにネクタイに見せかけて染めたシャツ。女の子のシックなモノトーンの上着とパンツの組合せ等々------おしゃれが実に堂に入っている。少し大きめのジャケットの男の子は、きっと中学生になっても着れるようにと考えたご両親の心、それはそれでとっても素敵だ。きっと中学生になれば、いつの日にか、それがつんつるてんになってしまうだろう。そのときのご両親の嬉しさが私には想像できる。 おしゃれは卒業生担任の4人の先生方も同様。きっと申し合わせたのだろうが、いずれも和装だ。あるいは和装が「望ましい」などとするどこやらからの指示があったのか----。もしその指示があったとしたら余計なお世話というものだろうが、先生個人の考えであるとしたなら男の先生が仙台平袴に青紫の五つ紋長羽織、白絹王冠平組羽織紐-----黒紋付よりはくだけるが若々しい。帰りがけに廊下で見送ってくれたので、「先生、にあいますねー!」と声をかけると、「ありがとうございます」と照れていらした。 そんなふうに昔では有り得なかった個性表現も見られて感心したが、それを帳消しにしてしまうのが式典の有り様だ。子供達を空虚な儀礼のロボットにしても、日本が良くなるわけでもあるまい。感激顔していたのは大人たちで、肝腎の子供達は感激しているのであろうが大人達とはまったく異なる感慨がその表情にうかがえたのである。
Mar 24, 2017
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午前中、幼稚園の卒園式に出席。可愛い,可愛い。そしてえらい、えらい。 感激と緊張で泣き出してしまう子もいた。私の前を通る時に泣きながらおじぎをしたので、思わず頭を撫でる。おおきくなったらレストランのシェフになりたいと言っていた。おいしい料理をつくってお客さんに喜んでもらいたいんだって-----。 お友達とお別れするのが悲しかったのかな? 男の子、小さくたたんだ青いハンカチで拭っても拭っても涙がこぼれる。おさない人生の初めての別れだ。 さて、夕方から合唱団の練習。 留守中に末弟がしばらくぶりで我家を訪れたそうだが、私に会わずに帰った。菓子折を置いていった。娘が大学を卒業して大手IT企業に入社したとのこと。 末弟も年をとったものだ。 彼が小学生の頃の写真を掲載してみよう。私は大学1年、夏休みに札幌の両親の家に帰ったときだ。壊れたサングラスをかけて遊んでいる。
Mar 24, 2017
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東京は開花宣言したそうだ。と言っても、我家の近辺ではすでに数日前から咲いていた。夜になってやや冷え込んで来たが、昼間は温かく、住宅街を巡回している灯油販売車が、「本日をもちまして灯油の販売を終わらせていただきます」と拡声器で流して通り過ぎた。3店が週にそれぞれ順繰りにやって来ていた。他の2店はどうなのかと、聞くともなく聞いていたら、夜になって別の店が販売にやって来た。商売の押し引きの微妙さを感じて、私はおもしろく思った。予報によると、夜の気温は今夜よりさらに1度ほど低くなりそうだ。花冷えである。巡回販売を終了した店主、早まったと思ったかどうか。ハハハ。 エージェントの画商の私の担当者から電話があり、ニューヨークへ行ってくるとのこと。今回の新作について少々の説明をしておいた。「これを新しいシリーズとするのですか?」との問いには、そのつもりであると応えた。しかし実のところは少し決めかねている。しばらく考えることにする。
Mar 22, 2017
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今朝、8時半過ぎ、猫のサチが昨年10月以来になる突然の全身痙攣をし、そばにいた私は急いで心臓マッサージをして数分後に蘇生した。 痙攣は横たわったままバタバタと音をたてて床をたたきつける激しさ。その音で私は何事かと見やったのだった。 この5ヶ月間、注意して見守って来た。いつも猫用品を買っている店の人達も、私が行くたびに様子を聞いてきた。無事にいることを喜んでくれていたのだ。昨夜は、ほぼ一晩中私の床の中で腕枕で寝てい、いつもよりややおとなしい寝方に「もしや?」と想ってはいた。 蘇生して、私の腕の中で荒い呼吸をしていたが、やがてそれが収まると、何かちょっと窺い知れない表情でどこというでもない宙をみつめた。あたかも、「ここはどこだ?」と、記憶を探っているような----。 それから私の腕を離れ、縁先のガラス戸から雨降る庭をみやり、しばらくジーッと見ていた。戻って、自分の塒(ねぐら)には入らず、その周囲の部屋の隅などを見、それから塒の前にうずくまって眠るでもなく椅子に座った私をいつまでも見ていた。 3年前、猫のマリが死んだその日、まさに死の直前に、残っている力をふりしぼるようにして戸外に出、家の回りを一周して戻って来た。遊び慣れた自分の住まいを最期に見ておいたのだろう、と私は思ったものだ。 サチの様子を見ていると、痙攣しながらまさに死の淵まで行って戻ったけれども、その間、見知らぬところを旅し、帰り着いたところがもとの住み慣れた場所とは思えない不審感があるのではないか、と思えるのだ。 その「旅」は、いったいどんな時間なのだろう。サチの意識のなかに何がおこっているのだろう。何が目に映っているのだろう。 サチは、蘇生して帰った場所が、もとの場所だと信じられないような、何事かを体験しているにちがいない。しかも、どこか見知らぬ処へ行ったという感覚に違いない。 私はサチを抱きとって、その目を覗き込んだ。
Mar 21, 2017
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きょうは父母の墓参。年度は異なるが共に3月に亡くなっている。春の盛りだというのに------ 当時、そのことどもを句に詠んで、句集『春喪』を編んだ。その中から----- ひっそりと息引く九十二春半ば 莟五分みまかりし日の椿かな 母逝きてひとり閑座す春の風 独活の香やひと皿進上三途の半ば 春雨やみまかりて部屋の広さかな 供花の香のうするゝ春や三七忌 春惜しむ納骨の日をきめかねし 骨壷のまるきに添える花明かり きょうも車窓からの風景にさまざまな花々が咲いていた。山裾の薮陰に山桜や辛夷。サンシュユ、ユキヤナギ、ツバキ、トサミズキ、ハナモモ------ 私はちっともセンチメンタルな精神をもちあわせていないが、そうした車窓に流れる花々を見やりながら、春に死ぬのも良いかもしれないと思った。猫のマリも3月に死んだ。私も-----?
Mar 19, 2017
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桜が咲き始めている。我家の紅椿が一斉に咲いた。おもしろいものだ。 次の7月アメリカでの展覧会のための作品制作準備をする。すでに最初の粗描きは終わっている。 明日からの1週間は両親の墓参や、猫のマリとマスクの墓参、そして幼稚園と小学校の卒業式出席、合唱団の練習、民生委員月例会議等々で仕事場に落ち着いていられない。
Mar 18, 2017
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本日、ニューヨーク用の作品を出荷。約束を果たせたので、やはりホッとする。ボン・ボヤージュ・マ・パンチュール! そんなわけで少々のんびりした気分で庭の草むしりをしたり、生命力が強くて剪定しても次から次に枝を繁らす柚子の枝伐りをしたり。実を三つ穫り、夕食のサラダに和えた。 仕事場の机に向かったが、何をするというでもなかった。コンピューターを起動させ、ここ一ヶ月のブログを繰ってみた。 船村徹氏追悼記事のなかで、私自身が14曲歌えると書いている。-----私は常々、歌謡曲の浸透力に関心をいだいてきた。古代からの日本芸能史への関心に組み込まれているが、また、芸術的創造の大衆的成果として感服するのである。-----そこで、私がいったいどれくらい歌謡曲を歌える程に憶えているか、書き出してみることにした(暇だなー!)。 私は先夜、民生委員の先輩が飲みに行くというのでくっついて行き、初めてカラオケを体験した。ことほど左様に、私が歌謡曲を歌えると言っても、覚えようと意志したのではない。長年の間に耳から入ったものが、いつのまにか歌えるまでに記憶してしまったのだ。いや、歌詞はさすがにウロ憶えだ。メロディーを憶えているのである。カラオケのモニター画面に歌詞が出てきたので歌えたというのが正確なところ。 さて、しばらく時間をかけてリストアップしてみると、思い出した曲名が300曲を越えたのだ。これには自分でもビックリした。たぶん、もっと曲名を思い出して歌えると思う。 書き出してみて自分でも笑ってしまうが、長く耳になじんでいない近年の曲は一つも入っていない。 ゴチャゴチャ言っていないで、そのリストを掲載してみましょう。しつこく繰り返しますが、これ、メロディーは全部歌えるのです。いやー、あらためて歌謡曲の力ってすごい!【あ】青い山脈あの丘越えて哀愁列車哀愁出船赤と黒のブルース赤いハンカチ赤いグラスああ上野駅あざみの歌アンコ椿は恋の花赤城の子守唄雨の慕情赤いランプの終列車あん時ゃどしゃ降り雨降る街角アカシアの雨がやむとき哀愁波止場哀愁の街に霧が降る雨に咲く花雨の中の二人雨がやんだらあの娘たずねて愛と死をみつめて雨の夜あなたは帰る雨の御堂筋雨赤坂の夜は更けて逢いたかったぜああ人生に涙あり(水戸黄門主題歌)あの娘が泣いてる港町あの娘と僕 ー スイム・スイム・スイム或る雨の午後ある女の詩愛燦燦逢いたくて逢いたくて愛の終着駅雨の慕情逢いたいなァあの人に嵐を呼ぶ男愛のさざなみ赤い花(西郷輝彦の春に背いて・・)雨に濡れた慕情愛しちゃったのよ【い】異国の丘潮来笠いつでも夢を田舎のバス石狩川悲歌石狩挽歌伊勢佐木町ブルース居酒屋粋な別れ【う】うそ裏町酒場美しい十代上を向いて歩こう浮き草の宿【え】越後獅子の唄江梨子襟裳岬(島倉千代子)襟裳岬(森進一)【お】おんな船頭唄おんなの宿奥飛騨慕情男の純情女ひとり大阪しぐれ大阪ラプソディー踊子俺は待ってるぜおまえにおまえに惚れた女心の唄落葉しぐれ小樽の人よお別れ公衆電話お月さん今晩はおひまなら来てねおーい中村君王将おふくろさんおんな港町お月さん今晩は思い出なんて消えっちゃえお富さん弟よ女のみちおんなの朝【か】影を慕いて悲しき口笛帰り船学園広場悲しい酒川の流れのように川は流れるカスバの女柿の木坂の家勘太郎月夜唄カチューシャの唄悲しき雨音風が泣いているからたち日記学生時代勝手にしやがれ喝采怪傑ハリマオの歌(怪傑ハリマオ主題歌)岩壁の母【き】北上夜曲霧子のタンゴ君恋し銀座の恋の物語君は心の妻だから君といつまでも北の宿から霧にむせぶ夜霧の摩周湖君こそわが命北国の春北酒場君だけを霧の中の少女銀色の道今日でお別れ兄弟盃兄弟船銀座の蝶ギター流し黄色いサクランボ君の名は【く】黒い花びらくちなしの花口笛が聞こえる港町黒田節【け】芸道一代ゲイシャ・ワルツ【こ】古城湖愁湖畔の宿国境の町高校三年生こぼれ花ゴンドラの唄この世の花こんにちは赤ちゃん恋のGTコモエスタ赤坂恋人ならば恋のメキシカン・ロック恋のフーガ子連れ狼恋心五番街のマリーこまっちゃうなここに幸あり恋のしずく小指の思い出恋のハレルヤ恍惚のブルース恋の町札幌【さ】さざんかの宿酒は涙か溜息か錆びたナイフサーカスの唄酒よ寒い朝再会サントワマミーさのささくら貝の歌さだめ川酒場にてさよならはダンスの後にさすらい(夜がまた来る)【し】人生劇場人生の並木道修学旅行白い花の咲く頃島育ち下町の太陽十七歳のこの胸に上海帰りのリル上海の花売り娘白雲の城シクラメンのかほり知りたくないの秋止符ジョニイへの伝言新宿の女新宿ブルース新宿そだち知床旅情人生いろいろ三味線渡り鳥昭和枯れすすき【す】好きだった好きになった人すきま風スーダラ節ズンドコ節鈴懸の道すみだ川【せ】船頭小唄世界は二人のために青春の城下町惜別の歌瀬戸の花嫁青年おはら節青春サイクリング絶唱【そ】宗右衛門町ブルースそして神戸蘇州夜曲【た】武田節田原坂誰か故郷を想わざる他人船誰よりも君を愛す旅姿三人男旅の夜風(愛染かつら)旅笠道中たそがれの銀座黄昏のビギンダイナマイトが百五十屯だから言ったじゃないの誰もいない海達者でナ【ち】チャペルに続く白い道チェッチェッチェッ(涙にさよならを)チャンチキおけさ小さな花(プティット・フルー)【つ】月の法善寺横町津軽平野津軽海峡・冬景色月がとっても青いから【て】てんとう虫のサンバ【と】東京音頭東京キッド東京の灯よいつまでも東京午前三時東京ナイトクラブ東京のバスガール東京だよおっ母さん東京流れ者東京アンナ時の過ぎゆくままに東京五輪音頭トンコ節【な】長崎の鐘長崎の女なみだ船涙の酒涙の連絡船長崎は今日も雨だった長崎ブルース中の島ブルース南国土佐を後にして浪花節だよ人生は何も云わないでなみだ恋涙になりたい涙をありがとう涙君さよならなみだの操浪速恋しぐれ【に】新妻鏡西銀座駅前人形の家【ぬ】【ね】ネオン川【の】野崎小唄【は】波止場だよ、お父つぁん花笠道中羽田発七時五十分花と蝶花咲く乙女たち花はおそかったバラが咲いた【ひ】ひばりの佐渡情話白虎隊【ふ】二人の銀座二人は若い二人でお酒を二人の世界二人の星をさがそうよふたり酒風雪ながれ旅ブルーシャトーブルーライト横浜舟歌釜山港へ帰れ【へ】ベットで煙草を吸わないで【ほ】星の流れに星影のワルツ星影の道星屑の町星空のあいつ星娘星のフラメンコ北帰行ほんきかしら鳳仙花骨まで愛して【ま】まつのき小唄真っ赤な太陽街の灯り瞼の母【み】港町十三番地港が見える丘港町ブルース見上げてごらん夜の星を皆の衆緑の地平線みだれ髪水色のワルツミヨちゃん未練心【む】麦と兵隊霧笛が俺を呼んでいる無法松の一生霧氷【め】名月赤城山明治一代女夫婦坂夫婦春秋【も】もずが枯木で【や】山のけむり山の吊橋山小屋の灯柔矢切の渡し柳ヶ瀬ブルース【ゆ】湯の町エレジー湯島の白梅有楽町で逢いましょう夕焼け雲夢は夜ひらく夕陽が泣いている夕焼けとんび夢追い酒【よ】夜霧のブスルー夜霧の第二国道夜霧に消えたチャコ夜霧の慕情夜霧よ今夜もありがとう夜のプラットホームよこはま・たそがれ喜びも悲しみも幾年月四つのお願い嫁に来ないか【ら】ラブユー東京【り】りんごの唄りんご村からリンゴ追分りんどう峠リーフ【る】ルビーの指輪【れ】連絡船の唄【ろ】浪曲子守唄【わ】私は街の子別れのブルース別れの一本杉勿忘草をあなたにワン・レイニー・ナイト・イン・トウキョウ私の城下町我が良き友よ別れの波止場若いお巡りさん
Mar 17, 2017
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一昨日のブログで小林一茶の『父の終焉日記』を読んだと書いた。この日記の現代語訳があるかどうか知らない。私が所蔵している信濃毎日新聞社刊の一茶全集(全7巻・別巻1)は、一茶研究の最も重視されている書物だが、脱語誤記に校訂併記するほかはすべて一茶が書いたままの原文である。 日記と称されていないけれど、一茶にはほかにも『西国紀行』などは日付が入っていて、日記と言えば言えるものだ。その『西国紀行』のなかで、一茶が俳聖と言っている松尾芭蕉の五編の紀行文は、いずれも明確な日付は記されていない。唯一『嵯峨日記』が、わずか14日ほどのものながら、日付が明記してある。 日本古典文学には多くの日記が存在する。それらは別行を立てて日付が記されているわけではない。書かれている記事中にそれとわかる記載がある場合がほとんどだ。「土佐日記」にしろ、「かげろふ日記」「和泉式部日記」「更級日記」、あるいは定家卿の「明月記」にしろ、「満済准后(まんさいじゅごう)日記」然りである。 こうして書き出したのは、私自身のこのブログも公開を前提に書いているけれども、まあ、日記だ。いや、そんなことなどどうでもよい。 現代文学の日記はどうだろう。 小説家が、たいていは公開を前提にするか、後々人に読まれるであろう事を予測して書いている。たとえば、永井荷風の『断腸亭日乗』がある。三島由紀夫の『アポロの杯』は世界一周旅行記で5部から成るが、朝日新聞に連載された。『裸体と衣装』、『外遊日記』と、いずれも読者向けの日記である。 しかし文学者の日記がみな読者を想定しているかというと、そうとは限らない。石川啄木のローマ字日記は、いわば秘密日記ともいうべきものだ。 卓抜なエッセイストでもあった映画監督・伊丹十三は、やはり本として出版することを前提にして4冊の日記を書いている。『ヨーロッパ退屈日記』であり、自作映画の制作過程を綴った『「お葬式」日記』、『「マルサの女」日記』、『「大病人」日記』である。 私は上記のほかにもかなりの「日記」を所蔵しているが、それへの関心は、いわば正史と稗史との関係を考察するに似ている。 三島由紀夫のそれのように、書名が「日記」とされてないものもあるが、ちょっと私の書棚を見てみよう。 『ゴンクウルの日記・全3巻』(1947年、鎌倉書房)、 『ドラクロワの日記』(1969年、二見書房)、 『日記・花粉』ノヴァーリス(1970、現代思潮社) 『ジャン・コクトー 占領下日記・全3巻』(1993年、筑摩書房)、 『ポルトガル日記 1941-1945』ミルチャ・エリアーデ (2014年、作品社)、 『昭和天皇独白録 寺崎英成御用掛日記』(1991年、文藝春秋)、 『幕末欧州見聞録・尾蠅欧行漫録/市川清流著・楠家重歳編訳』(1992年、新人物往来社)、 『幕末出島未公開文書 ー ドンケル・クルチウス覚え書/フォス美弥子編譯』(1992年、新人物往来社)、 『フランス艦長の見た堺事件」プティ・トゥアール著・森本英夫訳』(1993年、新人物往来社)、 『新選組戦場日記』永倉新八著・木村幸比古編(1998、PHP研究所) 『夢日記/正木ひろし』(1974年、大陸書房)-------- きりがないのでこのへんで止めよう。 『ゴンクウルの日記』は、19世紀のフランス文学界のみならず社交界の様子が鋭い洞察で活写されていて比類無い。 ジャン・コクトーの日記も然り。占領下のパリで創作演劇の活動にいそしみ、ナチスに占領されていることなど歯牙にもかけない芸術家の強い意志が見いだせる。そこに当時の日本の状況を重ね合わせた時、日本の現政権が極右勢力と結託して戦争ができる道を開こうとしているが、そうなったときに日本国民をどんなに惨めな状況に置く事になるか浮かび上がってくる。 ほかに、神坂次郎著『元禄御畳奉行の日記 尾張藩士の見た浮世』(1984年、中央公論社)は、尾張藩家臣・朝日文左衛門という下級武士が残した日記『鸚鵡籠中記』の紹介を兼ねた抄訳。 『森鴎外歌日記』は、軍医として戦陣にあって詠んだ歌・俳句を一本に編纂した稀稿本。 『乃木希典日記』も明治の将軍の日常行動を知るうえで貴重。この日記を詳細に分析し、彼の特異な性癖を読み取ったとする市井の研究者がいる。私はその研究論文を読んでいる。しかし、それについてはここに触れない。 純然たる日記ではないが、早坂暁著『華日記 ー 昭和生け花戦国史』(1989年、新潮社)は、事実にもとづいた日付ある日記体ドキュメンタリー風な「小説」である。登場人物を変名にしてあるからだ。 上記の『夢日記』の著者正木ひろしは、えん罪事件再審等で活躍した弁護士である。戦時中は個人の夢まで監視され、それを記した日記は思想犯・不敬罪の証拠とされた。正木氏の夢日記5千ページは、その時代を生き延びて残されたものも多いそうで、著者78歳のときにその一部を公刊したのが本書である。 そうそう、私の長年の知己、元國學院大学教授で小説家の花輪莞爾氏に、伝統ある「國學院雑誌」に不定期連載した『夢日記』がある。このなかで、ある日の夢に、私の絵が現れて大暴れした、と書かれていた。花輪夫妻は私の絵を5点購入、所蔵している。 下の画像は、私の高校・大学時代の日記の一部である。 小学1年生から書いていた絵日記は、札幌の両親の家に保存していたのだが、東京の私と同居することになった両親は、私の住まいが狭いと考えて独断で全部捨ててしまった。これを聞かされた私は茫然自失の大ショック。とりかえしがつかないので、私は一切口には出さなかったが------。 そして、年をとってから始めた「血圧管理帳」。毎日、朝夕2回の血圧測定記録および一週間毎の体重記録である。数値とそれを折れ線グラフにして、一目で変動がわかるように書いている。 そのほか、同時に書き始めた「一日の食事」をコンピューター・ファイルとして記録している。朝昼夕および間食の、要するに口に入れた飲食物すべてを詳細に記している。料理の食材、調味料・スパイス、そしてカロリーがわかるものはそれも書く。これによって栄養バランスはもちろん、塩分・糖質がだいたい把握でき、健康と体重65kgを維持する目安となっている。 また、4年余におよぶ大学ノート13冊の母の『看護日記』がある。ただしこれは毎日の時間毎のスケジュールにもとづいて、栄養薬液点滴を1時間かけて入れたとか、血圧や脈拍や体温の数値、尿量数値や大便の状態、口内清拭や痰吸引状況等々の記録で、私の感情や感想などは一切書いていない。私の感情の波が、病状観察の正確さと看護の正確さとをそこなわないようにと考えてのことだった。母が亡くなって5年になるが、捨てずに保存している。母の終末記録であると同時に私の仕事の記録でもあるからだ。 そうそう、母の在宅看護に入り、私は男性の訪問看護師が最初にやって来た日、彼に画家としての活動をすべて止めざるをえないことと、その胸の内を告白した。私は初めて人前で涙をこぼした。それで私の何年つづくかわからない看護の覚悟ができた。しかし、私の人生の習慣となっていた創作意欲が閉ざされ、私の精神を苦しめた。そこで、それを幾分でも安らげるために、2010年1月1日から1年間、日記として俳句を1,000句つくることを決め、実行した。同年12月25日にちょうど1,000句ができた。その日は、私が好きな与謝蕪村の命日、「蕪村忌」であった。最後の句は、「蕪村忌や障子貼り替ふ紙白し」。私は手製の句集『青穹千句』をつくった。
Mar 15, 2017
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昨夜来、雨が降ったり止んだりで、20時過ぎにまた大粒の雨音が聞こえている。東京は今夜半、あるいは雪になるかもしれないそうだ。やれやれである。 作品制作の過程で、気温差が微妙に影響する作業をしている。室内暖房できないので、おのずと気温が乾燥時間にも影響し、場合によっては48時間もの遅れがでる。 数十年もの間、私は、乾燥が早く、しかも良質な絵具を、海外からの輸入品に頼って来た。ところがどういうわけか、数年前からこの絵具が日本に入ってこなくなった。メーカーが製造をやめたと通告した色もあって、その時は私は在庫品をたくさん購入したのだった。しかし、全部とは言わないまでも、日本をふくめ他の製品で、私にとっては代替がきかないのだ。色味の問題ではない。私の制作スピードとの相性の問題。つまり、長年の間に、この色はこれだけの乾燥時間を要する、と身体がおぼえていることが通用しなくなっているのである。 -----いやはや、今や大弱りしている。
Mar 14, 2017
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作品出荷前の全作品への最後の化粧直し終了。 時間ができたので小林一茶全集第五巻所収の『父の終焉日記』(原文)を読む。 享保元年(1716年;徳川吉宗が将軍位に就く)、一茶三十九歳のできごと。継母や腹違いの弟に虐待されていた一茶は、十四歳のときに父のはからいで郷里信州柏原から江戸に出された。たまに帰郷していたのだが、この年の4月にも柏原に帰っていた。たまたま父が悪性の傷寒に罹り、一茶はひとり一心に看病するが、結局これが死病となった。この日記は、畑で茄子の苗に水やりをしていた父が、背に陽を受けて倒れているのを一茶が発見したところから起筆し、ほぼ一ヶ月後の臨終を経て初七日にいたるまでの経緯が詳しく書かれている。一茶の境遇が知れる一級の資料だ。 重病とはいへ存命中は夫に辛く当たっていた継母や弟が、死んだ途端に屍にとりすがって泣くのを見た一茶は、これが偕老同穴というものかと思うくだりがある。子供のころから肉親の情愛が薄かった一茶の人間を観る目が、ぐっと深く幅広くなる瞬間である。 そういえば、私は子供の頃、小学2年生のとき、舞踊劇『一茶と子供』で一茶の役をやったっけ----。 ♪(子供) 信州信濃の雪とけて お山はとろり春がすみ さくら花さく日ぐれころ とぼとぼひとりおじいさん もしもしどちらへゆきまする♪ ♪(一茶)はいはい わしかな わしならのう 旅から旅の うたよみじゃ まつりばやしの あの村へ これからぶらり ゆことてのう♪--------加藤省吾作詞 八州秀章作曲 ハハハ、憶えているもんだなー。64,5年前のたった一度きりの歌を。踊はすっかり忘れたけれど。 夜、TVで映画を観る。ジョージ・クルーニーが監督した第二作、『グッドナイト & グッドラック』。 アメリカ社会のひとつの歴史的汚点と言えるだろうが、マッカーシー旋風(マッカーシー議員が煽動しアメリカ合衆国中に吹き荒れた魔女狩り的な共産主義者摘発の動き)、いわゆる赤狩りをめぐって、その過ちを指摘し徹底的に対抗したCBS・TVの実在したジャーナリスト、エド・マローの物語。後にエド・マローは「テレビ・ジャーナリストの父」と称された。 映画は全編白黒、一部分ドキュメンタリー風に撮っている。最後の方で、「証拠もなく、裁判もなく、流言飛語によって人を告発することは誤りである」とテレビで宣言するアイゼンハワー大統領は、本人に良く似ていたが、もしかしたら当時のフィルムをはめ込んだ本人か? いま、まさに、アメリカ合衆国のみならず、日本のわれわれも見ておかなければならない映画だ。 ついでながら、このマッカーシー旋風を下敷きにして、アーサー・ミラーが戯曲『るつぼ』を書いた。物語はキリスト教の魔女狩りに置き換えられている。しかし、アーサー・ミラーはこのアメリカ合衆国のマッカーシー旋風の渦中にあった作家だ。 もうひとつ、ついでだ。私は民芸が上演した滝沢修氏主演の『るつぼ』を高校時代に観ている。感動のあまり血が逆流し、身体がしびれてしまい、劇場の座席から立ち上がれなかった。そしてこの夜、私は滝沢修氏に直接お会いして、そのことを話した。滝沢氏は、「ホーッ!」と言って、私をうながし、話を聞いてくださった。
Mar 13, 2017
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きょう3月11日は東日本大震災から6年目に当たる。津波に浚われたまま何の手がかりも得られていない犠牲者も多く、同時発生の原発災害避難者を含めいまだに仮設住宅に住む方は3,4万人いられるという。【6年前の3月11日の日記】 東京、午後2時46分、ただいま地震。大きな揺れ。仏壇の位牌や花瓶がころがり落ちた。玄関にワイヤーで吊ってある大鏡が激しく揺れ、私の仕事場では立てかけてある大きな絵が倒れた。家人とともにベッドに寝ている老母の周囲をガード。長い揺れである。 揺れが少しおさまったところでテレビの速報・警報を見る。震度7、マグニチュード8.4(後に8.8に訂正)。宮城県の海岸に6mの大津波が到達。3時20分、10mの警報。テレビ画面は釜石漁港が津波に呑み込まれる様子を映し出す。停車中の十数台の自動車が波に浮き、没してゆく。仙台空港が水没。集落全体が波に押し流されてゆく。次第に被害甚大の様相。 原発災害の処理は6年経っても一向にメドが立っていない。それでもなお原発稼動に向けてやっきになっている輩がいる。そのなかには、捕らぬタヌキの皮算用ではないが、したたり落ちる甘い汁に舌なめずりをしている奴ばらの姿が透けて見えもする。明日は我身の上かもしれない被災者の犠牲の大きさのみならず、政府は国土の荒廃など意にもかけない。まったくなんということだろう。 私は日本の古来からの政治思想の基底に、「棄民思想」が汚泥のようにこびりついていると見ている。それはほとんど無意識化されているのだが、法規上に、それを現実的に運用する行政に、そして歴代の政治家の心底によこたわっている。 時にそれが誰の目にも明らかに露呈することがある。 たとえば南米移民を劣悪条件を隠蔽してそこに放棄したり、零細農民等をほとんど狩りたてるようにして満蒙開拓団として送り込み敗戦と同時に敵襲のなかに放置して顧みなかったり、あるいは沖縄戦における住民に対する軍幹部の卑劣でバカげた対応、そして現在、その沖縄の傷に塩を塗り込むような政治、あまつさへ政府の対応に反対する人達を「極左」とレッテルを貼るファシズム的なプロパガンダ。 あるいは、麻生太郎副総理兼財務大臣が、こんな演説をした。「90歳になって老後が心配とか、訳のわかんないこと言っている人が、こないだテレビに出てたけど、オイ、いつまで生きてるつもりだよと思いながらテレビを見てましたよ。(2016年6月)」 この傲慢不遜な物言いに、政治家としては「棄民思想」を培養していると言わなければならないだろう。------例をあげていたらきりがない。 注目すべきは日本政府の上記のようなプロパガンダにおいて、「極右」としてレッテルを貼り批難したことは、日本政治史上(おそらく)皆無だ。当然といえば当然で、右翼とは政府に組すること。したがって彼らのほとんど暴力的な行為も「言論の自由」と抱き合わせて半ば容認されてきた。 いまようやくヘイトスピーチに対する規制はでてきている。が、それもどうも弱腰。なぜなら彼らを煽るように強力にバックアップしているのが現政府の支持団体だからだ。 私は、世界中の極右的な愛国主義者たちを観察して、「なぜだろう」と思うのだが、みな暴力団的な要素がある。彼らのなかには、そして大変多くが、社会的には大きな地位にある人、あるいは知識人とみなされている人、あるいは宗教者と------まあ、いろいろではあるが、何かもっともヒューマニズムな共生と平等の気質を欠落しているように思う。ヒューマニズムは「ユマニスム」とフランス語のほうが適当かもしれない。それはひとつの哲学的な思想にすぎないけれども。 稲田防衛相はとかく知性を疑う言動の人物だが、いまでは「教育勅語のどこかが悪い」と息巻いている。 「教育勅語」は、気がつかれないのかもしれないが、ひとつの差別思想だ。ひいては棄民思想にすぐにも変化してしまうものだ。「教育勅語」のもとでは女性防衛大臣など生まれなかったであろう。日本の教育史は、稲田さん、それを克服してきたのです。あなたは負けん気だけで世渡りしてきたのでしょうか? 現在、日本会議などの極右愛国主義団体などが宗教団体と結んで復古的な主張を繰り返しているが、憲法は無論のこと社会制度の復古は日本にとって亡国的に害をもたらす。彼らの愛国思想は人命をないがしろにするタナトス(屍体願望)と深く結びついている。私はそれを見抜く。 一個人が懐旧にひたるのは、あまり健康な精神とはいえないが、まあ問題にすることはない。しかしながら、日本の現代史は、懐旧の誘惑的な牽引力に抗しながら、曲がりなりにも制度的社会悪を克服してきたことを示している。それは時の政府の力ではなく、日本国民の力だったのだ。極右愛国主義者おとくいの言語武器「自虐思想」どころではない、誇りとすべき国民の力である。 私は、愛国者だ。これからの愛国はまったく新しい哲学、新しい思想で、これまでの死臭・腐敗臭ただよう泥沼のような日本から脱出しなければ! 東日本大震災から6年目になる今日、犠牲になられた方々に深甚なる哀悼の意を捧げつつ、日本政治の根底によこたわる問題について考える機会とする。
Mar 11, 2017
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次の作品に取りかかるまで少し時間ができたので、気晴らしもかねて新宿に買い物に行って来た。しかし、ものの数十分で買い物をすますと、あらためてぶらぶら街を歩く気にもならず、そそくさと帰って来た。 なんだか眉間に皺を寄せているような感じだ。顔の筋肉がこわばっている。鏡を見るではないが、眼もきつくなっているような----- 帰宅するや仕事場に入り、ニューヨーク用の作品引渡しのために最後の化粧直しをしなければと思いながら、椅子に腰掛けて数分間眠った。寝れば海路の日和かな-----である。
Mar 10, 2017
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午後、民生委員と包括支援センターとの3ヶ月に一度の定例会議。 具体的な情報交換の会議でもある。つまり、私たち民生委員が就任時や任期途中に受けるかなり長時間の各種研修は、法的問題を含めての原理原則の学び。そして民生委員は各人の担当地区で、いわば現場と言うべき具体的な住民の支援にたずさわる。今日のような会議は、その具体的事例について経過報告や今後の対応、あるいは新たに支援しなければならないような問題について話し合うのである。--------------------------------- さて、私がこれまで2、3のところで引き受けてきた美術講義だが、少人数の仲良し達のあつまりで雑談風にお茶を飲みながらやってくれないかという話があった。 しかし、それはきっぱりお断りした。私の話は雑談ですむ内容ではない。そんな人達のために私の時間を無駄遣いするほど暇ではない。 私が少人数のために美術講義なり絵画技法を指導するとしたら、私が才能を見込んだ人、一を語れば十の正鵠を射抜く質問をし、それだけの自主的な学究心のある人だ。そんな人がいれば、喜んでお話する。たった一人でもよい。 芸術的な才能は、たとえ今それが眠っているにしても、じつはその人にほとんど生まれながらにそなわっている一つの重大な「気質」だ。 画家は絵だけを描いていれば良いというのではない。それができる環境を自ら作り上げて行かなければならない。それは子供のときから親がかりで打ち込むというのとは、全然ちがう。なぜなら、子供の絵は子供の絵にすぎないからだ。17歳を乗り越えられるかどうか、そこから世界を見据えた哲学をもてるかどうか、肉体を画家の肉体に変えられるかどうか。一生創作しつづけていける内的主題をかかえているか。食うために描き、しかし食う事に足をすくわれないで描いていけるか。死ぬまでそれができるか。------そういうことができること、それが画家の才能なのだ。 ------私はそうしてどうにかこうにか72歳まで絵描きとして生きて来た。それでも私の絵は全然完成していない。それでどうして数人の何の準備もしてこなかった人達のために、それも「老人」たちの暇つぶしのために、私の研究を雑談として話さなければならないんだ? 冗談じゃない。たとえ若い学生だって同じだ。絵が好きだぐらいではものにはならない。彼らには、まあ、誰でも引きうける学校があるじゃないか。 私は、自分で言うのもヘンだが、誰にでも親切で、たぶん優しい。しかし、私の本質はもうれつに厳格で、激しく、ある意味で恐ろしい男だ。皮を斬らせて肉を斬り、肉を斬らせて骨を断つ、という思いがある。無意味なことに私の人生を使いはしない。
Mar 9, 2017
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午後5時、まだ署名していないが作品を描き終わった。3日ほど乾燥を待って、最終仕上げ。これでニューヨークの方は全作品が完成する。 ----なんだか眠くなってきた。
Mar 8, 2017
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昨日のこと、読売新聞オンラインが伝えたニュースに私は「ホーっ!」と思いながら、泉下の父のことを思い出した。東京・浅草と福島県南会津田島とを結ぶ東武鉄道が、4月から乗り換え無しで新型特急「リバティ会津」を運行するというのだ。ニュースは、その「リバティ会津」号が田島駅で初披露されたことを伝えていた。1日4往復、最短で3時間9分の走行だそうだ。 私が「ホーっ」と思い、亡父を思い出したのは、私の小学生時代を含め家族が10年間を過ごした八総鉱山は田島管内で、田島は最寄りの「町」だったばかりではなく、亡父は町会議員として2期務め、その最後の仕事が、当時未開通だった南会津と東京とを鉄道で結ぶことだった。南会津の人達の長年の願い,----大正・昭和、いやおそらく明治の頃からの悲願であったろう。 亡父がその実現に奔走していたころ、私は中学・高校と、家族とは離れて会津若松市で独り暮しをしていたのだが、その当時、南会津から東京に出るためには、会津線で会津若松に行き、磐越西線に乗り換えて郡山に出、そこで東北本線に乗り換えて上野に行った。じつはその頃でも、浅草と川治・鬼怒川とは東武鉄道が結んでいた。そして鬼怒川と南会津(八総、滝の原、糸沢、荒海、田島等等)とはそれほど遠くはなかったのである。峡谷を縫って江戸時代からの要路である日光街道が通じていた。しかし、鉄道は無かった。山深い峡谷がそれを阻んだのであろうか。近くて遠い、南会津と鬼怒川の間だったのである。 野岩鉄道として悲願が達成したのは、父が議員を辞めて10年ほど経ってからだ。両親は東京の私と一緒に暮らすようになっていて、私の家に父宛の鉄道完成記念式典の招待状がとどいた。父はあいにく式典に出席できなかったが、後日、父の尽力に対する礼状と記念品が田島町から送られて来た。 この4月から特急が1日4往復するという。私は心の中で亡父に報告したのだった。数日後に、父と母と、そして猫のマリの祥月命日がやってくる。
Mar 7, 2017
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今日もぐんぐん描き進んで、全画面の粗描写を終了。明日から仕上げに向かう描写、その何段階かの初段に入る。まずは順調な進行だ。 さて、本業の絵だけを描いているわけにもいかず、スケジュール表を見ながら時間調整をしているのだが、さきほど午後7時、7月9日(日曜日)に合唱の出演するという連絡があった。 その日、全国から民生委員が東京ビッグサイト(江東区有明)に集まり、二日間にわたり大会が開催される。そのときに、東京都の民生委員1万名を代表して120名の合唱団を構成し、「民生委員の歌・花咲く郷土」を歌うというのだ。 私の都合は如何かと訊かれて、もちろん否やはない。東京ビッグサイトで歌う機会などめったにあるまい。よろこんで120名の中に入れてもらう。ただし合同練習はたった2回だそうだ。-----まあ、大丈夫、大丈夫、全然平気さ!
Mar 6, 2017
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あいもかわらず仕事場に閉じこもって作品を描いている。作品引渡しは17日。その前の準備もあるので、次の一週間で、すべての作品を完成させなければならない。 そして、出荷後にまた休む間もなく次の新作にかかる。こちらの展覧会は、6月半ばに作品引渡し。 -----あれ? 合唱団の本番ステージが6月でなかったかな?------ええと、-----(スケジュール・カレンダーを調べて)、ワッ! 6月11日だ! 親分! てーへんだ、てーへんだ!
Mar 5, 2017
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先日、右足首をひねって、痛みはまったく無いのだが踝の周辺がやや腫れている。今朝、主治医のクリニックへ行き診てもらった。足首を触診して、血行が悪いのだろうと言う。血行促進の薬を塗布してからマッサージをするようにと、処方箋を書いてくれた。 3月3日、雛祭。桃の節句だ。梅はそこらじゅうで満開だが、桃はみかけない。 純白だけど桃の花によく似たアーモンドは、大きな鉢植えながら、かつて我家の庭のもっとも華やかな存在だった。ちょうど今頃から4月にかけて、一番に春を告げる花卉で、家中の者達が開花を楽しみにしていたものだ。 もう何年前だろう、私が母の在宅医療看護に24時間気が抜けない日々をおくっていたころだ。盛夏に焼けるような日照がつづき、庭の植物に灌水する時間もつくれないまま、じつはその一事だけではなく何年も庭を放ったらかしにしていたので、鉢植え植物も庭木の一部も全滅してしまった。 アーモンども、父が気に入っていたらしい大輪の黄薔薇も、玄関先の柱に巻きつきながら濃い桃色の花を何百と咲かせていた薔薇も、みな枯死してしまった。まるで父母の死とともに、我家の庭は死んでしまったのである。 外に出られない母が車椅子で家の中から見えるようにと、私は数十鉢の色とりどりの花々を縁先に置いていた。それらもすべて全滅。枯れ庭、荒れ庭となって、もう父が亡くなって10年、母が逝って5年になるが、私も家人も今や花を栽培しようとは思わない。ときどきまた始めようかと思うのだけれど、おかしなものだ、あのときに気力を使い果たしたようだ。弟がたまに花の鉢を買ってきてくれるが、私はそれだけでいい。 雛祭の今夜は、せめて華やかな彩りの「ちらし寿司」でもつくろうか-------。
Mar 3, 2017
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小雨が降っている。私は毎日仕事場にとじこもって、制作に明け暮れている。 新しい作品にとりかかった。 下塗りは済ませてあったが、いざ本腰を入れて描き始めると、まだイメージが掴み切れていないことに気付く。主題は年来と同じ。が、そのなかで「笑い」をやろうとしている。考え方はまったくゆるぎないけれど、「笑いのかたち(貌、象)」に迷いが出る。欲張りすぎているのか、二重三重、あるいはそれ以上の複数のアスペクトを一つにする形を掴みたいのだ。それができなければ、「私の絵」にはならない------- 困ったと言っていられない、切羽詰まった困ったである。
Mar 2, 2017
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午前中から制作にとりかかり、午後5時、先日につづく作品を完成させた。同時並行で描いていた作品だ。また次の作品にとりかかるが、今日のところはもう仕事をやめて夜は休む。最初の下塗りはすんでいる。
Mar 1, 2017
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