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男子サッカー日本代表が、今日、強豪オーストラリアを2-0で破り、W杯2018年ロシア大会への出場権を獲得した。6大会連続出場ということになる。先制点は浅野拓麿、2点目は井手口陽介。 実は私はこの試合を観ていない。テレビをこの3,4ヶ月間、まったく観ていないのだ。まったくである。理由は特にないけれども、テレビへの関心を失ったとも言える。
Aug 31, 2017
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15年ほど使用した洗濯機が電子基盤に狂いが出て使えなくなった。脱水まで順調に進んだと思ったら、残り7分ばかりのところで元に戻ったり、かと思えば、ウンともスンとも頑固に動かなかったり、洗い終わったのに扉が開かなかったり-----。 というわけで、新調することにした。明日配送される手はずになっている。古いのは引き取るというので、昼過ぎに移動しておいた。 外見は傷んでいないのに使い物にならないというのは、電子機器の特徴的欠陥である。電子基盤を交換すれば良い場合でも、その基盤自体が生産終了していたりする。 昔は自分で修理して使える物が多かったが、いつの頃からだろう、コンセント・プラグさへ修理不可能な作りになった。危険防止の法的措置らしいが、余計なお世話とも言える。それで粗大ゴミの山をつくっているのだからなんとも馬鹿馬鹿しい。(影の声:これで戦争にでもなれば、資源不足で、モッタイナイ政策が強制されるのだろう。ほしがりません勝つまでは。って、負けたじゃねーか! アホらしい。) 我家の電気製品の歴史を思い出してみると、みな当りが良いというか、長持ちして来た。電気洗濯機の場合、第1号が昭和30年(ハンドル式絞り器のヤツだ)、以後現在まで62年間に4台かな? ということは耐用平均年数15年。頻繁に使用しての15年間は、良く保ったのではなかろうか。 掃除機はどうだろう? ここんところ3年ほどで交換しているが、第1号がやはり昭和30年、そして昭和年代だけで3台。つまり10年間くらいは保ったわけだ。 コンピューターは、実は捨てるに捨てられずにいるのだが、一番古いのは25年、いやもっと古い、30年前くらいのものだ。もちろんデスク・トップ型。インターネットが無い時代のいわゆるパーソナル・コンピューターの初期のもの。 タイプライターもかなり古いものが捨てずにある。と言ってもタイプライターの歴史はコンピューターの比ではないから、古いと言ってもせいぜい50年くらい前のもの。英文用と、別に日本語用がある。日本語用は、若い人は実物を見たことがないかもしれない。活字盤の活字をハンドル操作で拾いながら打ってゆく。たしか物置に入れてあるはずだが、私自身、もう何十年も見ていない。英文用タイプライターは3台、インターネット時代のコンピューターに替えるまで使っていた。最後はブラザー製品だったが、海外との手紙のやりとりや契約書の作成に大いに活躍してくれた。私はワード・プロセッサー(いわゆるワープロ、----ああ、いやな言葉だ)を使わなかった。たしか、タイプライターの新しいインク・リボンを買ったと同時に、すなわち20年ほど前、そのリボンをほとんど使わないままコンピューターに替えてしまった。 壊れた電気洗濯機のことから話がひろがってしまった。 古いコンピューターを持っているくせに、今の私は、携帯電話も、あらゆるモバイル端末を使っていない。使うつもりはまったくない。
Aug 30, 2017
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午後、民生委員の会議に出席。1時間半ほどで終了。急いで帰宅。 会議の最中に気温は最高に達し、33℃。4時過ぎてもまだ32℃。残暑が厳しい。帰宅して汗を流し、シャーベットを食べる。椅子に掛けたまま10分ばかり眠った。 以後、作品制作に入る気分にもなれず、昨日のつづきでパリ展のための作品の仕上げの化粧をする。
Aug 29, 2017
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現在22時10分、きょうの制作を終了した。まあ、忙しい。昼には民生委員の仕事をし、次に、土曜日(9月2日)の美術講義のために書き下ろした400字詰59ページの原稿、およびスライド131ページの最終チェック。次に午後5時30分まで、韓国展覧会のための作品制作。夕食後、パリ展用の作品の仕上げ化粧。そして、明日の市役所での会議のための準備。 話は変わる。 隣家の夫人が二階のベランダから我家の柿を見て、「すごい数が生っていますねー!」と賛嘆した。そうなのだ、去年は落柿もあったがほんの数えるほどしか生らなかった。今年は鈴生り、というより、枝という枝にひしめきあってものすごい数である。 もう15年くらい前だが、やはりぎっしり生って、とうとう重みで枝が折れてしまったことがあった。自分の実の重さで折れるなんて、オバカな柿だと、ぼやきながら片付けた。なんと、大きなゴミ袋にぎっしり詰めたほどだった。-----ことしはあの年に匹敵するほどの生り様である。 「でも、渋柿ですから----」と言うと、 「干し柿になさったら?」 「そうですねー、この蒸すような気候では、干し上がるまでに黴てしまうのじゃないでしょうか」 「私の家には柿はありませんけど、去年、お友達が干すだけの状態にしたものを頂戴して、ベランダに吊るしておいたら、おいしい干し柿ができたんです。ですから、あるいは、大丈夫かもしれませんよ」 「やってみる価値はありそうですね。だめになって、もともとと考えればいいのですから」 「そうですよ。もったいないわ、こんなに沢山生っているのですもの。捨てておしまいになるなんて-----」 と、民生委員の仕事をすませて帰宅したところで、立ち話である。 干し柿作りは、皮を手で剥いていては大変だろう。以前、柿酢をつくったことがあった。古い瓶を引っぱり出してそれに仕込んだ。発酵後に漉すのが大変だったが、まろやかな柿酢ができた。寿司をつくるのに、この柿酢をつかうとなかなかおいしい酢飯ができた。 いくつかを干し柿に試し、残りは柿酢に仕込もうか。ものづくりは何でも大変なもの。面倒がっていては何にもできない。 忙しいうえに、また忙しさを重ねようとしている!
Aug 28, 2017
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午後4時まで作品制作をし、その後、合唱練習に出かけた。練習室の私の席に冷房がきいていないわけでもなかろうが、暑さのせいで少し頭痛がした。帰宅して、遅い夕食を摂ると、疲れが出て来た。日記はきょうはこれまでとする。 実のところ、小池東京都知事が、関東大震災時に虐殺された朝鮮人を慰霊するため9月1日に開かれる式典に追悼文を送ることをやめたというので、私は「小池さん、あなたは愚劣な歴史修正主義者の仲間か!」と、抗議文を書こうと思ったのだが------ 歴史修正主義者のグループを相手に、自らの政権維持のためのかけひきをするなんぞは、安倍首相とともにひそかに憲法改悪を画策するあなたが底の浅い人物だと疾うに見えてはいたが、こんなところで馬脚を出したわけだ。「第三国人」などと公言する破廉恥きわまりない石原元都知事さへ、部下任せだったとはいえ恒例となっていた追悼文は出していた。小池さん、あなた、歴史修正主義の愛国標榜者と結託しているようでは、悪鬼の手に墜ちたようなものです。やがて、それこそあなた自身が歴史から排除されてしまうでしょう。極右極左の愛国とは所詮そんなものです。なぜならそこには「知」がはたらいていないからです。彼らは、どんなに大きな集団を形成しようとも、自らの腐敗臭ただよう破廉恥な精神を、ナルシズムで必死に覆い隠そうとしている病者に過ぎません。 いまからでも遅くはないでしょう、立派な追悼文をお出しになったほうがよろしいです。このような場合の朝令暮改は、一向に差しつかえないと、私は思います。
Aug 24, 2017
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樋口カエ子先生 お元気でいらしゃいましょうか。山田維史でございます。先生がお元気であると思ってこの手紙をしたためます。 今朝、目が覚めたとたんに先生のことを思い出しました。いえ、実は、もう数十年間、思い出さない日はなかったと申上げられるほど、毎日の感謝を先生に捧げて参りました。そして、私の子供の頃について訊かれると、誰憚る事無く、私の人生最大の師として先生について話して参りました。ときにブログ日記に子供時代の思い出として書きもしました。 私が長野県の川上第二小学校に入学し、あの中央玄関に向かって一番右端の教室で、私の担任として先生に出逢った幸せを、何と申上げたらよいでしょう。私はあの日のことが、72歳のいまでも鮮明な映像で記憶しております。先生の教卓から見て左から2番目の列、前から2番目が私の席でした。母たちが教室のうしろに立っていました。先生が新しい教科書をくださいました。その嬉しかったこと! 先生がいま在る私をつくって下さったと思っております。忘れられない決定的なシーンがいくつもあります。 お忙しかったであろう先生にとって、私は少しやっかいな子供だったかもしれません。宿題でもないのに私は書き取りの練習帳を一日一冊書上げ、そのノートと絵日記のノートを、毎朝登校すると先生の教卓の上に置いていました。すると先生は下校時までにそれを読まれ、赤インクで感想を書いて返して下さった。短い感想もあれば、1ページにわたる長い感想、それは虹がどうしてできるかとか、平面的な絵に対するそれとない立体観察の助言、あるいは私の家庭生活の幸せを喜んでくださる文章でした。毎日毎日のことでしたが、私が転校してお別れするまでつづきました。まったく、なんという子供だったのでしょう! しかし、先生の感想が私の励みになっていた。それはまったくまちがいないことでした。考えてみれば、私の「表現」をまともにきちんと受け止めて下さった初めての「他人」、それが先生でした。私は先生が大好きだったのです。 授業で、顕微鏡をのぞかせてくださいました。それは蝶の翅でした。目には粉でしかない鱗粉が、黄や赤や紫や緑や、錦織なす矢羽根のように整然とならぶ映像は、私が初めて見た驚きの自然の真相でした。 先生は、私が鉱山技師だった父にともなわれて坑内に入って採集した地衣蘚苔類の標本制作を、6年生の課外活動のなかに特別に入れて指導してくださいました。6年生たちは、そのとき、草木染めをしていました。同じ教室で、私ひとりだけ苔の分類研究をしていたのでした。できあがった標本を、先生は私が知らないあいだに何処かに送られた。そして、しばらくのちに私はその蘚苔類標本によって子供科学賞を受賞しました。 苔のつぎに私は蝶類標本をつくりたいと先生に申上げました。すると先生は、鱗粉転写法を教えてくださいました。その標本は、先生とお別れしてからも作りつづけ、実は、64年後の現在も保存してあります。 蝶と言えば、ひとつだけ先生にお話しできなかったことがあります。学芸会のときでした。私たち1年生は舞踊劇「春よ来い」(正しい題名は忘れました)。浅野たか子さんが春の精でした。そして私は背丈ほどもある黄緑色の大きな翅の蝶でした。ところが練習の最中に、先生は役を交換してしまわれた。私の大きな蝶の翅は、某クンに背負われ、私は雪の子に----。雪の子は歌をうたわなければならず、しかもステージから消える(退場)ときに、枯れススキなどの雪景色の舞台装置を半回転させて、春の緑の草に変える役目を担っていました。先生は、たぶん私ならその役目をスムーズにおこなうと買いかぶってくださったのかもしれません。「♪ちらちら雪、ちらちら雪、もっと降れ、もっと降れ、ランランラン----」いまでも歌えますが、衣装は白いシャツに白いズボン、体操用の紅白帽子を白にして綿をくっつけて。-----私は立派な蝶の翅をとりあげられて、どんなにガッカリしたことか! 画家となった私の絵にしばしば蝶が登場しますが、もしかするとあのときの蝶の翅を絵のなかに取り返そうとしているのかもしれないと、半ば冗談、半ば本気で考えることがあります。 絵日記の感想のなかで先生は「観察」の重要性を示唆してくださいましたが、遠足でどこか山の中に行ったとき、「タダミさん、ちょっといらっしゃい」と私を手招きして、みんなから離れ、食虫植物の群生地を見せてくださいました。 学校の休み時間に、私はみんなと遊ばずにひとりで備え付けの学級文庫を読んでいました。当時出版された講談社絵本が全巻揃えられていました。『ゆり若大臣』など、お気に入りの一冊でしたが、私が「ぜんぶ読んでしまいました」と言うと、先生は私を中央玄関の隣の部屋に連れて行きました。そこは図書室でした。私はそのとき初めて「図書館」の存在を知ったのでした。 私は先生が担任してくださっている間に、二度入院し、手術を受けました。 ある日、弟を相手に、押し入れの上の棚から飛び降りて遊んでいました。何度目かに飛び降りたとたんに股間に激痛が走り、動けなくなりました。学校の近くの木村医院で診てもらうと、陰嚢水腫と診断されました。岩村田の井出病院で手術をしました。それが2度にわたったのでした。 退院後、私は運動嫌いになりました。そして、先生も、おそらく学校の先生方みなさんがだったと思いますが、大変気遣ってくださったようで、運動会のときにクラス全員が控え席から出場していっても、私は平然とひとり控え席に座っていました。父兄席で見ていた母は呆れてしまったと言ってましたが、先生は何もおっしゃいませんでしたね。他の先生も一言もおしゃらなかった。私は自分が出場したいと思った種目だけに席を立ったのでした。 実際、あらためて自分の小学1年生の頃を振り返ると、私は先生の大きな翼の下でのびのびとしていたと思います。先生のおかげで学校が大好きで、他校へ移ってからも、中学生になってからも、学校を自分の書斎であり実験室であり、学校の備品は全部自分の物(生徒の物)と、何の疑問もなくそう思っていました。 中学校の音楽室の戸棚に埃まみれで乱雑に積み上げてあったレコードを、放課後放送室に持って行き、たったひとりで全部聴いたり、当時は高価だったテープレコーダーの録音用テープを切り刻んで編集して放送劇をつくってみたり-----。小学校では校長先生に私自身の切手収集のために校長先生宛の手紙の切手を集めてくれるように頼んで、校長先生はその約束を果たしてくださった。 そんな自由闊達なふるまいを、樋口先生のご指導のせいにするのは、先生には迷惑千万でございましょう。しかし、私の自由精神の根底には、私という子供を見る先生の御心の大きさがほとんど決定的に影響していると申上げないではいられません。 2年生の1学期終了と同時に私は転校することになり、先生とお別れいたしました。そのとき、先生は,いつもお首に黄色いリボンでぶらさげていらした2.5倍の折りたたみ式ルーペを贈ってくださいました。表裏に「樋口カエ子」「K.Higuchi」と刻んでありました。 私はそのルーペを40歳くらいまで仕事に使っていました。作品の印刷の校正刷りを点検するときなどです。刻まれた御名前が消えそうになってきたので使うのを止めました。現在は、私の一生の宝物として大事にしています。他に1年生の正月に頂戴した年賀はがき一通も。上述しました蝶の鱗粉転写標本も。 もう何十年か昔、依頼された作品の取材の帰途、川上村を訪ねました。伊倉を通るとき、ああ、ここに先生がお住まいだったと、車窓から眺めました。私は梓山でした。学校は秋山でしたから、学校が中間あたりということになりましょうか。川上第二小学校は、その時より数年前に全面新築されたのだと、昔の我家の向かいの高見沢さんにおしえられました。 記憶をたよりに私がもしやとお宅を訪ね、玄関戸を開けて「ごめんください、山田ともうします」と声をかけますと、いきなり「タダミさんですか?」と声がして、高見沢さんにお嫁入りされたという奥さんが出て来られました。これには本当にびっくりいたしました。奥さんは、数十年前の昔、私の上級生だったそうです。 私が転校したあとに、先生とクラスのみんなが一緒の写真を送ってくださいました。そこに今はない校舎が写っていますね。先生のお姿を偲ぶ唯一の写真です。今朝、クラスのみんなの名前も思い出しました。-----井出四五六君、斉藤清忠君、佐野健蔵君、井出文雄君、遠藤君、礼二君、とおるちゃん、秋山君、浅野たか子さん、風間たかねちゃん、大林ななこさん、小平のぶこさん----- 先生にお会いしたいと思いつつ、ご消息もわからないまま、72歳の今日まで来てしまいました。ずいぶん以前ですが、どこかに先生のご消息を尋ねたことがありましたが「個人情報」とやらで捜索を断られました。 私の父母は亡くなりました。先生のお元気なことを願って、この当てのない手紙を書きました。 ほんとうにありがとうございました。ありがとうございました。追伸: 先生が思い出してくださることを願って、当時、1年生入学時の私の写真をお目にかけます。
Aug 23, 2017
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ポルターガイスト? 私の寝室でタタタタ・タタタタタと連続音がした。しばらく耳を澄ますと、何か意味不明の低く鋭く、短いながら絹を裂くような声がする。そして空気が揺れた。-----昨夜のことである。 ところがこれは2度目で、最初は一昨日の深夜だった。同じことが起っていた。タタタタタという音は、ときにラタラタラタというふうにも聴こえ、あちこち移動していた。のみならず、音だけではなく、明らかに寝室にある物に触って揺らしているのである。 しかしその夜は、私はそれが地震だと思った。しばらく目をつぶったまま耳を澄まし、そして、そのまま忘れた。 昨夜、2度目ともなると、また地震かと思いつつ、少しヘンだなと思った。誰かがいる。何かがいる。そこではじめて「ポルターガイスト」という観念がでてきた。 ポルターガイストならば、おあいにくさま、出る場所、出る人物をまちがえている! 私は、そういう現象や怪異そのものにまったく恐怖感がないのだから。ポルターガイストさん、おかどちがいだね、ってなもんだ。 ところが、その途端だった。ガタガタという音とともに部屋の空気が揺れて、寝ている私の顔のそばを何者かが通ったのだ。 電灯を点けた。その明かりに驚いたのだろう、シーという鋭い声を発して、黒い影が宙に舞った。 なんと、コウモリだった。明かりに照らされた寝室を縦横無尽に飛び回って、天井の隅に忍者さながらにピタッと張り付いた。 つかまえようとすると、飛び去る。しばらく追いかけっこしたあげく、こつ然と視界から消えてどこかに潜んでしまった。私のほうが根負けして、まあいいか、明日の夜にまた出て来るだろうと電灯を消した。 我家は山の上にあるので、過去にもコウモリが入って来たことがあった。このたびも、寝室の窓をあけているときに、いつのまにか入っていたのだろう。 ポルターガイスト? ちがいました、ちがいました、たぶんドラキュラ伯爵です!
Aug 22, 2017
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ここ一ヶ月ばかり、朝5時過ぎに目覚める。猫達に御飯をせがまれて目覚めるのだ。そのまま7時過ぎまでベッドに横になったまま読書している。就寝時にも1時間ばかり本を読む。たいていは気軽に読める英語の短編小説集で、枕元に4,5冊置いてある。ウィリアム・サローヤン、ジェフリー・アーチャー、レイモンド・カーヴァ2冊、フィリップ・ロス、トルーマン・カポーティ、それに詩集もある。 起床後は、10時頃まで何やかにやの雑用をすませる。先日は8時半に民生委員としての緊急の相談が入り、家をすっ飛んで出て、事にあたった。-----まあ、そんな日もあるが、今日は10時から作品制作を開始し、午後5時過ぎまで執筆。 昨日うまくいった女の顔を、さらに慎重に肉付けする。と云うのも、髪の毛一本の幅とまでは言わないが、やはりそのくらいの塗りが、表情をまるで変えてしまうので、苦慮の末につかんだ表情なので、慎重にならざるをえない。 顔の肉付けだけで1日仕事になってしまった。明日からは身体に移る。こちらはすでに2度の下塗りを終わっている。たぶん週末までかかるだろう。 頭の中ではすでにひとつの「美」ができあがっているのだけれど、はたしてどうだろう?
Aug 21, 2017
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20時ちょうど、今日の制作を終了。ただいま茶を飲みながら、仕事を点検している。 ちょっと機嫌がいい。女の顔を描いていたのだが、知性的で気品があり、ほんの少し神秘的にできあがった。 実は下絵の段階から3度やり直した。なかなか私の思想を顔に表現できなくて、苦慮した。ここが描けなくては作品としては大失敗。現代の何事も表現してないということになる。 描けて一層、私自身が何を考えているのか、あらためて確認した。
Aug 20, 2017
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長雨がようやく上がったと思っていたら、夕方になってまた強く叩きつけるような一降り。その雨音を聞きながら今日の制作を終了した。 冷たい緑茶を飲みながら、好きなモーツァルトの交響曲25番、第一楽章アレグロ・コン・ブリオだけを聴いた。 このところ25番の第一楽章だけを聴いている。時間にして8分弱。2,3回繰り返し聴くこともあり、ほぼくちずさむことができるほど頭に染込んでしまった。 困ったことに、CDを聴いていないときでも頭の中でしょっちゅう鳴り響いている。就寝して、半睡状態のときでも、また夜中にトイレに起きたり(やっぱり老人だねー)、朝目が覚めると、たちまち↑ソソソソソ・レレレレレ・♭ミミミミミ・↓♯ファファファファファ・・・・と鳴り始めるのだ。 25番の疾走感が私は好きで、制作に勢い付けようと思うと、この曲を聴く。ただし制作のペースをつかんでしまうとクラッシックよりは、YouTubeで音量を小さくして演歌を連続して聴いているほうがいい。Jーポップスなんていうのはダメ。歌詞が素人くさいというか幼稚というか、それに日本語の発音が汚いので、気になってしまう。美空ひばりさんもダメ。彼女の歌は聴き入ってしまう。筆が止まってしまう。ながらではとても聴けない。こっちへ来い、と引っ張るのだ。すごいもんです。 YouTubeといえば、おもしろいヴィデオをみつけた。音楽ヴィデオなのだが、演奏しているのがマッド・マシーンというか、いや、マッドではないな、きちんとした音楽演奏するカラクリ機械である。ウィンターゲイタンさんという方の作品。 もうひとつ、こちらはコンピュータを駆使したアニメーション。アニミュージックと称している。たくさんの作品をアップしている。 いずれも私の大好きなカラクリ仕掛け。それが音楽と結びつけられているのだからたまらない。なにしろ私は子供のころから、『矢車剣之助』や『冒険ダン吉』のジャングル・トロッコにあこがれ、日本のロボットのさきがけカラクリ人形はもちろん、ヨーロッパのオートマタ(自動人形)に涎をたらし(汚いなー!)、ティム・バートン監督の映画『チャーリーとチョコレート工場』を喜び、マーティン・スコセッシ監督の『ヒューゴの不思議な発明』に喝采を贈っているのだから。 ごちゃごちゃ言っていないで、そのYouTubeをご紹介しましょう。Wintergatan - Marble Machine Animusic.com
Aug 19, 2017
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私のこのブログ日記では他国の議会や国会議員については、極力書かないことを方針にしている。しかし、今日ばかりはどうしても書き留めておきたいことがある。昨日の夜、朝日新聞が伝えたオーストラリアの右翼政党の党首の議場でのふるまいに対する司法長官のみごとな言葉についてである。 上院議員で右翼政党「ワンネーション」の党首が、イスラム教徒の女性の神聖なる服装ブルカを着込んで、議会に出席し、治安を理由に公共の場所でのブルカ着用を禁止しないかと提案した。テロの脅威とイスラム教徒のブルカを結びつけた意見だった。 この発言に対してブランディス司法長官は次のように言った。私の記述間違いを避けるため、朝日新聞の記述をそのまま引用させてもらう。 〈「禁止にはしない。あなたがイスラム教を信じていないことをここの全員が知っている。その中で、あなたはブルカをかぶってきた。信仰心を害する行為だ。豪州にいる50万人のイスラム教徒の圧倒的多数は、法を守るよき豪州人だ」と一蹴した。〉(朝日新聞DIGITAL;シドニー=小暮哲夫2017年8月17日19時01分) 私は、この圧倒的な強さを備えた知性的な言葉と、誰も予期しなかった事態に対処する人格の崇高なまでの高潔さに讃嘆した。深い教養をうかがえる、社会と人間についての洞察力。本当の学問を積んだ人(名ばかりの「学歴」ではないということ)に備わる、「意見の違い」などではない、ユマニティに基づく動じない姿勢。それがブランディス氏をして司法長官という立場に御身を置かせている。----- 私が、他国の司法長官の言葉を、ここに記すのは、無論、我国の国会議員を始め地方政治家も含めて、彼らには今のところまったく望むべくもない有様を嘆くからだ。いや、嘆きもしない。恐るべき事態を見詰めている。
Aug 18, 2017
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まるまる1週間も、ああでもないこうでもないと考えあぐねていた作品の構想がようやく成って、今日は一日がかりで下絵作りをし、キャンヴァスに写し、さきほど22時過ぎに下塗り前に仕掛ける「工作」を終了した。これで明日から本格的な制作に取組める。
Aug 17, 2017
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きょう8月16日はエルビス・プレスリーの40年目の命日。 そうか、亡くなってもう40年になるのか-----。 私がエルビス・プレスリーを知ったのは、彼の音楽や映画からではない。彼は、当時アメリカにあった徴兵制度の召集令状を受取って2年間の兵役に就いた。その入隊のときであったか、それとも除隊して任地の西ドイツから帰還したときだったか、それを報じるニュース映画を私は観ているのである。 いまウィキペディアで調べたところ、入隊は1958年1月20日、除隊は1960年3月5日だったという。さて、私が観たニュース映画はどちらであろう。 私は12歳、14歳だったわけだが、到着した列車の若い男に女たちが嬌声をあげて群がる映像がいまでも私の記憶にあるので、たぶん除隊して帰還したときのような気がする。 若い女たちの異常な熱狂のなかでにこやかに笑う男がエルビス・プレスリーという歌手であることを、私は初めて知った。-----そうだ、やはり除隊のニュース映画だ。というのは、私はそのとき小坂一也氏が歌う『監獄ロック』を知っていたのだから。そしてその原曲を歌っているのが、このエルビス・プレスリーだと結びついたのだ。小坂一也氏のあとに先日亡くなった平尾昌晃氏も日劇カーニバルで歌っていたように思うが、ちょっと自信がない。 ともあれ、そのようにして私のなかに入ったエルビス・プレスリーは、次には映画俳優として私は何本かの作品をいわばイン・ヒズ・デイズで観た。『燃える平原児』や『ブルー・ハワイ』『ガール!ガール!ガール!』『ラスベガス万歳』などだ。さすがに大学生になると、エルビス映画は卒業した。 しかし、ずっと後年になって、私が英語の詩に関心をもつようになって、こんどはエルビスの歌を歌詞カードを見て、押韻を調べるようになった。ポピュラー・ソング、そしてロックでも、厳密な英詩形式ではないにしろきちんと韻を踏んでいることを知った。つまり、押韻によって、英詩が成立するのだという事実を、意外に感じながらも私は頭に入れたのだった。-----もちろんエルビス・プレスリーのCDは所持している。
Aug 16, 2017
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第72回 敗戦記念日 民主主義確立 身を焼かれ心焼かれて残暑哉 青穹 忘るるな長の惰眠なれ火焔樹 いくさ後も責かえりみず夏禊 炎熱に兵打ち捨てて白馬過ぐ 送り火に英霊たちの背中行く
Aug 15, 2017
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東京はこの1週間、雨の予報が出ている。空梅雨だったと思ったら、雨はこんなところに引っ越していたかという感じだ。 昨夜来のその雨がちょっとあがったので、自転車で猫の缶詰を買いに出た。街はガランとして、車も少ない。お盆休みの帰省か。 車が少ないのをいいことに、老人が通りのこちら側から向い側に歩道ではないところを渡っていた。おいおい、と、私は自転車を止めて、老人の前後左右を見守った。 こういうときに、突然声をかけると、老人という者は立ち止まって声の方向をさがしてキョロキョロする。また、たいていの人は、自分の足腰はしっかりしていると思っている。あるいは早足で渡っている、と。-----はたから見ると、ちっともしっかりはしていず、危なっかしい歩き方をしているのだけれども。 -----案の定、遠くに小型車がこちらに向かって来ていた。私は手を振って車を止めようかと思ったが、それより早く運転者は老人に気付いたようだ。かなり遠くからスピードを落してくれた。老人はそんなことは知らぬげに道を渡り終わった。 やれやれだ。 と、人心地ついたら途端に蝉の鳴声がかまびすしく耳に入ってきた。 そういえば、今朝の朝日新聞の天声人語に、芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」を引いて、この蝉は何蝉かと、斎藤茂吉と小宮豊隆に意見の違いがあったことを紹介していた。茂吉は勢いよく鳴くアブラゼミだと言い、小宮はニイニイゼミ説だった。のちに茂吉は現地にも行き、標本も調べて自説をひっこめた、と。 天声人語子は、近年の環境変化を憂いながら、芭蕉が聞いたとおぼしきニイニイゼミの運命も予測しがたいと書いていた。 私は自転車を走らせながら、蝉の鳴声から種類を聞き分けていたのだが、ミンミンゼミ、クマゼミが圧倒的に多い。「カナカナカナ」と鳴くヒグラシもいる。ツクツクボーシの鳴声は聴こえない。 私はヒグラシの鳴声が好きだ。どこか儚げだ。その鳴声に、ヒグラシという名もぴったりである。 蝉時雨ひたと鳴き止む事情哉 青穹 八月のそぼふる雨に蜩(ひぐらし)や かなかなと啼いて日暮れる葉月朔 ぞんぶんに啼いてから死ね蜩や
Aug 14, 2017
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一昨日11日は「山の日」という国民の休日(ナショナル・ホリディー)。どんな根拠か知らぬが、昨年から始まった。 私は、職業柄かもしれないが、昔から祝日だとか連休だとかに無頓着。関心がないといえば関心がない。昨日も、家人が「今日は休日」と言うから、「何かの日?」と聞くと、「さあ、秋分の日?」「秋分の日ということはないよ、まだ8月半ばだよ」 と、トンチンカンなやりとりをして、一応気になって調べたら「山の日」だった。だったけれども、ますますわけが分からない休日ということになった。「海の日」があるから「山の日」か? 次は「川の日」かな? -----まあ、何でも良いさ。私は一日中、仕事場に籠りきりである。
Aug 13, 2017
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私の夏休み終了するや小品制作を2点同時に始めたが、昨夜、その2点目も完成した。プロモーターの画商からもさっそく電話が入り、完成したばかりの2点について打ち合わせし、来る20日過ぎまでに引き渡すことにした。 私にとって問題は、次にとりかかる作品の構想だ。ああでもない、こうでもないと、思想の的にイメージの矢を放っている。放っても放っても、叩き落されている(自分自身で叩き落しているのだが----)。矢尽き刀折れという想いがあるのだろうか、夜、眠っていても心身の深いところにさざなみのような震えが走る。一瞬の知覚だが、恐怖感が尾を引く。 さて、長崎原爆の日、被爆した人たちが、核兵器禁止条約に署名しようとしない安倍晋三に対し、「どこの国の総理か?」と言った。新聞が報じていた。 まさにそのとおりだ。 現在、世界の政治地図は、愚か者が国の采配を振るうという、かつて長らく起らなかった様相を呈している。 「悪貨は良貨を駆逐する」とは今では言われることもない経済原則だが、その原則の真実は政治の世界でも同じで、国の長たる者が愚かだと、配下は無論のこと、立法司法行政は堕落し、その堕落は一般大衆の隅々にいたるまでの人心に波及して行く。 おおきな社会構造を観察しにくいというなら、ヤクザ社会(暴力団)をイメージしてみるとよい。実際、その社会は一般社会から遊離したり断絶しているのではなく、一般社会の「善良」と思われている部分と裏腹の局面で、いわば抱き合わせである。したがってヤクザ社会とはその階級意識を含めて一般社会の完全な雛形(モデル)なのである。 いま日本は、本当の知性によって克服していなかった腐敗した部分が表に出て来ている、あるいは、出て来ようとしている。軽薄な偽の知性(全人類的・全人的幸福理念に到達しなかった人)がそれを助長している。 例をあげよう。 神奈川県の精神障害者施設でおこった恐るべき事件の犯人が、ナチスの政策を自己主張のアリバイにしていた。この犯人とまったく同じ主張をしていた有名人物がいる(いた)。その人物は愛国主義を標榜し、ある団体の顔の一人となり、多くの著作をものしていた某大学の名誉教授だった。この人物が、かつて、ナチスの精神障害者殺害計画を讃美して日本の行政的な提案した。さすがにマスコミは黙っていなかった。そのためであろう、その後、その精神障害者対策を公言することはなかったようだ【後註】。喉元過ぎれば熱さ忘れるで、おそらく多くの人たちがこの人物の精神に巣くっているものを忘れた。そのときになって、類は類を呼びだ、徒党を組んで公言したのは、憲法改悪しての軍事国家を示唆するものだった。【註】私の知見が甘かった。この人はその後も精神障害者に対する非人道的な思想を公表していた。この人の思想を実名を記して批判した、大岡昇平著『成城だより』の「1980(昭和55)年10月」(中央公論新社)の十月十五日の日記、中公文庫P234〜236を参照。 まさに、ジョージ・バーナード・ショウの言うとおり、「愛国主義は破滅をもたらすもの、痴愚の精神病形態である。」(“Patriotism is a pernicious, psychopathic form of idiocy.” - George Bernard Shaw ) そして、H・G・ウェルズが喝破したとおり、「愛国主義は建設的な義務もない自己主張を国に鼓舞しているのである。」 (“Patriotism is flag-cheering national self-assertion with no constructive duties.” - H.G. Wells ) ------知性の涵養とは本当に難しいものだ----- 一流大学の名誉教授たる者の心性にへばりついている「人間悪」を、言論の自由の名の下に、誰も糾弾しえなかった。この人物は、言論の自由の下に、言論の自由を奪い失う体制をめざして発言していた。その自己撞着をどのように処理していたのか。 この人物は表社会で「功成り名を遂げた」。しかし、上述の殺人犯は名誉教授の精神的な雛形(モデル)のように、私は思えるのだ。 一握りの愚かな為政者たちが、60億人の生命を地獄に突き落とす。そのイメージは幻想であろうか? すべての宗教界の頂点に安座している者たちに、何の期待もできないのだから------
Aug 10, 2017
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第72回 長崎原爆忌 2017年8月9日山田維史『平和は何処に II』油彩画をCG加工Tadami Yamada [Where is Peace on Earth?]Oil on canvas on board and processed CG2017年8月9日現在、長崎被爆犠牲死者17万5743人
Aug 9, 2017
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ゴジラ俳優の中島春雄氏が亡くなったという。享年88。 1954年の最初の作品「ゴジラ」から1972年の「地球攻撃命令ゴジラ対ガイガン」まで、スーツアクター(ぬいぐるみ俳優)として活躍された。映画作品の主人公でありながら、画面に顔を出さなかった俳優、しかも世界中に知られた俳優というのもきわめて珍しいのではあるまいか。ゴジラのイメージは中島春雄氏によって決定的に忘れられないものになった。私は嬉しくも幸いなことに最初の「ゴジラ」や「ゴジラ対アンギラス」をオン・タイムで観ている。9歳のときだった。 中島春雄氏のご冥福を祈ります。
Aug 8, 2017
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台風5号の影響で、昨夜は激しい降雨と風。我家は幸い何事もなかった。そして今日は32℃を越す暑さとなった。 昼前から作品制作にとりかかり、午後6時まで仕事する。10月半ば過ぎまで、なんだかんだのスケジュールが詰まっている。制作に影響しそうなほどだ。とにかく作品をつぎつぎに描いていかなければならない。
Aug 8, 2017
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私の1週間の夏休みも終り、昨日は両親の墓に参ってきた。夜には作品制作にとりかかった。まずは小品から。同時に2点。描くうちに次第にいつもの調子が出て来て、今日は昼前から始めて、1点はたぶん明日のうちに完成しそうだ。もう1点も今週中に完成するだろう。そして少し大きめの新作にとりかかるつもりだ。
Aug 7, 2017
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第72回 広島原爆忌 2017年8月6日山田維史『平和は何処に』 キャンヴァス・ボードに油彩Tadami Yamada [Where is Peace?] oil on canvas on board
Aug 6, 2017
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シェイクスピアのソネットにみつけた言葉。 Die single, and thine image dies with thee. どう訳したらいいだろう?-----私は、次のように訳してみよう。「死ぬときは独り、君の面影は君とともに死に逝く」 一日三回の食事、80歳で死ぬとして86,400回の食事。うんこして、排尿して、生殖して---- 私が敬愛する人たちの、あの人たちだけが産み出せたもの-----それを考え産んだ巨大な脳。あの人の死とともにその生産は完全に終わってしまった! 一日三回の食事、80歳で死ぬとして86,400回の食事。うんこして、排尿して、生殖して----偉大なものを産んだのだ、あの人たちは!
Aug 3, 2017
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もう5日間、読書のほかは何もせず過ごしている。 夏休みと言ってよかろうが、学生時代以来のことである。ところが、なんだかエネルギー・レベルが下がってきているようなのだ。やりつけないことをやっているせいだろうか。 外国(英語圏)の、これは占いなのだろうか、誕生月でその人の生まれながら備わっている性格や気質を告げるというのがある。私は占いとか、そういう類いのことにはまるで関心がないのだが、まあそれはともかく、私の気質には、[Easily consoled] が備わっているのだそうだ。「自分で自分を元気にする力」と言うのか、「すぐに元気になる」とでも言うのか----- 言われてみれば、たしかにそんなところもある。しかし、[Sickness usually in the ear] は、まるで無いなー。「通常、耳の病気がある」というのでしょう? むしろ、その反対だ。かなり耳が良い。子供のころは両親に「地獄耳」と評されたほどである。 [Restless(休息しない)] というのは、そうかもしれない。でも、実は、休息の取り方がうまいのだと思う。 しかし------その普段のペースとちがうことをやると、今この時のように、なんだかエネルギー・レベルが低下しているように感じるのかもしれない。 なに、どっちみちイージリー・コンソルド、すぐに元気になる私である。もうしばらく夏休みらしい日々を過ごす。
Aug 2, 2017
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フランスの大女優ジャンヌ・モローさんが亡くなったと報じられた。享年89歳。 ジャンヌ・モローさんについて今更私が述べることなどない。私が敬愛する女優。私は「死刑台のエレベータ」(1958)以後、ずっと出演映画作品を観つづけてきた。「死刑台のエレベーター」は、私が13歳のときの映画である。私は一足先に観て来た高校生Tさんに聞いて、遅ればせに映画館に行ったおぼえがある。 しかし、私にとってなにより嬉しかったのは、1990年2月2日、モローさんの来日公演の舞台「ゼルリンヌの物語」を、たった一枚残っていた当日券で観ることができたこと。それについては、11年前のこのブログ日記に書いている。昨日、モローさんの死去のニュースを受けてであろう、その昔の日記に33人の方がアクセスされていた。 →(2006年05月17日「私のジャンヌ・モロー」) あらためて私の保存資料から当時の劇場パンフレット(これには日本語に訳された台本が掲載されている)と、チケットと一緒に受け取ったリーフレットの画像を掲載して、ジャンヌ・モローさんを追悼いたします。
Aug 1, 2017
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