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田村地域以外の田村麻呂伝説 福島県にある田村麻呂伝説のうち、特に多いのが田村地域ですが、他の地域にも多く残されています。各地の郷土史料に、それについての記述があります。 坂上苅田麻呂の子が、奥州宮田村(郡山市西田町宮田)に産まれました。母は高野郡(今の田村地域南部と石川郡北部を合わせた所らしい)に住んでいた橋本光忠の娘・阿口陀姫で、これがのちの、田村麻呂になりました。田村麻呂は赤津四郎という賊将を打ち破ります。 赤津四郎は多田野村(郡山市逢瀬町多田野字鬼ヶ城)の鬼穴で、または赤津村(郡山市湖南町赤津)の布引山の鬼穴で、あるいは丸守村(郡山市熱海町字大峯)の蝦夷穴(不動尊の地)で、またその他にも喜久田村(郡山市喜久田町の)小室山で、さらには鬼生田村(郡山市西田町鬼生田)で産まれたと伝えられています。 多田野村の鬼ヶ城の山には鬼穴という大きな岩窟があり、その麓の谷の両側には数個の蝦夷穴が並んで集落を形成していました、 田村麻呂は鬼穴近くの「鬼ヶ平」で対戦し、赤津四郎を射殺しました。血引き金山、矢もぎ山、鬼ヶ平、十牧おって山、真弓山、萩袋、大峯不動尊は、赤津四郎に関係する旧跡です。 (郡山市熱海町) 延暦十四年、安積郡に赤津四郎という山賊が、鬼穴と呼ばれる洞窟に居住して周辺で悪事を為していた。田村麻呂がこの山賊を滅ぼした。 (守屋村史・いまの郡山市三穂田町下守屋) これらの伝説を知った私は、赤津四郎という名から湖南町の赤津に行ってみました。すると赤津にそのような洞窟めいたものはありませんでしたが、福良に鬼穴というものが有ったのです。福良に鬼沼というのがあるのをご存知でしょうか? 猪苗代湖岸唯一断崖のある屏風岩のそばです。地元の人に案内されて行って見ましたが、残念ながら舟で湖に出ないと見ることが出来ないとのことでした。ところがこの他にも、この周辺には鬼沼山、鬼渡神社、鬼沼城(鶴見館)跡などの残る不思議な場所です。 ところでこの赤津四郎に似た名の赤頭太郎(あかずのたろう)という蝦夷の伝説が、桑折町にあります。本拠を赤頭館とし、その勢力範囲は伊達・信夫にまで及んだとされています。延暦二十三年(八〇四)、再び北征した田村麻呂に、赤頭太郎は領民の安全を条件に自ら降伏したのですが、現在の半田銀山史跡公園の一角にあたる吉田川の畔で首を切られました。領民がその死をあまりにも悼んだので田村麻呂は神社を建立し、人々は赤頭大明神として崇めました。鎌倉幕府は、伊達氏に赤頭大明神を益子神社と改めさせました。その赤頭館跡は、北半田赤瀬に明神さまと呼ばれる祠やカヤの大木などに、わずかな痕跡が残されています。 (桑折町) 朝廷はこの地のエミシを退治するため、藤原小黒丸を征夷大将軍として派遣しました。小黒丸はエミシと戦いましたが利あらず、一旦退却して高幡山の宇奈己呂和気神社に戦勝を祈願しました。宝亀十一(七八〇)年九月十一日、小黒丸は下山してエミシと戦いましたが、今度は苦もなく打ち勝つことができました。 (郡山市三穂田町下守屋) 延暦二十年、東夷ことごとく平らげた田村麻呂は、帰路、田村庄に着きました。田村麻呂はそこで不屑女を見染めました。女は田村麻呂の子を宿しましたが村の人は賤しい女のためこれを認めず、生まれた男の子は山に捨てられたのです。すると不思議なことに二羽の鶴が飛んできてこの赤子を養育しました。これを見た村人は驚き、疑いを晴らして赤子を女に返しました。その家系は代々続き、三春の田村清顕公に至ったのです。ところが跡継ぎがなかったため、天正十六年に断絶しました。延暦二十年より天正十六年までは、ほぼ八〇〇年にわたった年月です。 (郡山市熱海町) 縁起その他判然としないが、古老の言い伝え等によると「桓武天皇の御宇、田村将軍奥州達ヶ窟に籠りたる、酋長悪路王を伐って平定御凱旋。当時矢田野辺、広原茫々、此処の彼処に人家あるのみ、将軍広原に出給う時、天に祈り、国土守護のため大矢を放つ、此の大矢をもって磐女の神を祭り、磐女大明神として敬う」とあり、矢田野の地名もここから生まれたものと思考され、坂上田村麻呂の勧請と言い伝えられている。 (須賀川市大字矢田野字岩ノ上六一 磐女神社) 藤原阿黒丸は、陸奥小野郷須萱村大嶽(田村市大越町)に籠もって天下の貢ぎ物を掠め取り、民家に入って財宝を奪ったりしていました。そのため田村麻呂は小倉字一斗内(須賀川市)に下向し、千余騎の軍勢でこれを攻め滅ぼしました。 (須賀川市) 大滝根山の早稲川(田村市大越町)にある、達谷窟または鬼穴という洞窟にはエミシの首魁・悪路王大武丸(大多鬼丸とも)がいて、田村麻呂と死闘をおこなったという伝承があります。史実としては田村麻呂その人ではなく大和の東征軍との戦いだったのかも知れませんが、大滝根山のすぐ南東の山は鬼ヶ城山(八八七、三メートル)といい、また大滝根山周辺には鬼五郎など鬼の地名が多いことから、その戦いは死闘・激闘であったことが想像できます。また大和は、手強いエミシの抵抗があった地に鬼の地名をつける傾向が顕著でした。 (郡山市史より) 田村麻呂は、白河付近の国見山で賊を滅ぼしました。 (白河市) 県内には、この他にも田村麻呂の伝説があったと思われますが、いずれこれらの話は、大同小異であったと言っても過言ではないと思っています。やはりこれらの話も、門付けたちのアドリブの影響を強く受けたものである、と考えられます。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2015.03.26
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田村麻呂、死の伝説 田村麻呂の伝説は、岩手県、宮城県そして福島県を中心に残されています。また彼が通過したと考えられる栃木県、長野県、静岡県、愛知県、三重県、滋賀県にもありますが、田村麻呂が直接行っていない山形県、秋田県、青森県さらに西日本の岡山県にも伝説が残されています。 伝説が一番多く残っているのは福島県田村地域で、生誕から戦闘そして凱旋に至る伝説から地名に関わる伝説、そして寺社伝説に至るまで約80種類が数えられます。次に多いのが宮城県で約40種類の伝説が残されています。 これら多くの伝説の原点は、平安時代末に発生したという『田村語り』や『御伽草子(例えば浦島太郎、カチカチ山など)』の中の『田村の草紙』の話などであると考えられています。そしてこれらの話は、『奥浄瑠璃・田村三代記』(室町時代成立)、『謡曲・田村』へと文芸的な発展を重ね、『古浄瑠璃・坂上田村丸誕生記(江戸時代初期に成立)』に結実していったものと思われます。『謡曲・田村』は、田村麻呂の征夷からはじまるのですが、これは御伽草子の一つで、田村麻呂をモデルにする藤原俊仁一族三代に渡る妖怪退治談です。内容は『田村三代記』、『鈴鹿』などの作品との相似性があります。 この田村麻呂に関しては、江戸時代に書かれた『仙道田村兵軍記』という書物があります。これは平姓(三春)田村氏の始祖といわれる田村清顕の一代記として書かれたもので、延暦13(794)年の田村麻呂の征夷からはじまり、古くからこの地に定着していた橋本氏に結び付け、自らの出自を貴種としている物語です。この話は、江戸期に一ノ関に移封された田村氏が、三春で勢力を振るっていた時代を回顧して書かれたものと想像されています。一ノ関は、胆沢城の南、阿弖利爲(アテルイ)と母礼(モレ)の勇敢な戦闘の歴史が残る場所です。 これらの伝説は田村麻呂の史実や戦歴とが重なり、人の口を通して各地に流布していったものと思われます。その後の江戸時代に入ってからは、仙台を中心にこの話が語られはじめるのです。しかしそれは、盲目の琵琶法師たちの門付けによるものでした。各地の町や村を巡っていた彼らは、盲法師(ボサマ)とかジョウルリさんと呼ばれていました。そして彼らが語っていたものは奥浄瑠璃、または仙台浄瑠璃と呼ばれていました。仙台藩や津軽藩は、これら盲目の奥浄瑠璃語りたちを庇護したことから仙台浄瑠璃と名が付き、津軽三味線につながる芸能を残したとされています。 ところでこのジョウルリさん。自分の語る話が客に受けなければおカネになりません。そこで考えました。行く先々で内容や地名をその地域に合わせたのです。恐らく田村は、話を合わせるのには最適な地域だったのではないでしょうか。何と言っても田村郡だったのですから。客は喜んでおひねりを弾み、感涙にむせんだのかも知れません。 栃木県には、剛勇な田村麻呂が敗れたという伝説が残されています。それは延暦十四(七九五)年、都から那須野原に進軍してきた田村麻呂は、ここで賊の大軍に囲まれました。戦いの準備に入った田村麻呂は、馬を(栃木県矢板市の)馬立(地名)につなぎ、矢櫃(地名)で弓矢の準備をし、烹飯(にまま・地名)で兵士のための炊さんをしました。しかし田村麻呂は、鬼怒一族に暗殺されたのです。田村麻呂の暗殺に驚愕した朝廷は、田村麻呂の死を隠蔽し、彼の弟を田村麻呂将軍として祭り上げました。このような朝廷の自作自演が必要だったのは、蝦夷征服の最後の切り札が田村麻呂将軍であったからと言われています。 矢板市の木幡神社には朱色の業火に焼かれ、逃げ惑う鬼たちの地獄絵が本殿の内壁に描かれているそうです。その鬼こそが、蝦夷である鬼怒一族であったとされています。太田原市佐久山字豊田には田村麻呂の墓といわれる将軍塚というものがあります。 (栃木県矢板市・木幡神社) 伝説とは言え、田村麻呂が殺されたとは驚きです。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2015.03.16
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バベルの塔 バベルとは「混乱」を意味するもので、後にギリシア語でバビロンと呼ばれるようになったとされ、その地方一帯をバビロニアと名づけられたとされている。今から2600年前、そのバビロンはオリエントのみならず世界の政治、経済、文化の中心であり、世界のすべてはバビロンの王に平伏していた。バビロンの王は地上のすべての民からは恐れられ、敬われる超越した存在だったのである。 旧約聖書、創世記の五十一章に、人間の高慢な心を描いたバベルの塔の記述がある。それによれば、「塔を一段と高くして天と競わせよ」と大王が命じたことにはじまるという。これを要約したのが、次のような話である。 『全人類はシナルの平野に住み、同じ言葉で生活をしていた。互いの意志の疎通もよく、生活のレベルも向上していった。そして人類の団結力が、煉瓦やアスファルトの技術をバックに超高層の塔をつくりはじめた。もしその塔が完成すれば、一部の人間は神の高みに近づき、やがて神と同等にもなれるはずであった。神はそれを善しとなさらなかった。神は地上に降り立つとすべての人類を地球上に散らされ、言葉を乱された。これによってバベルの塔の建設は出来なくなってしまった。つまり神は、人との差を明確になされたのである』 つまりエホバの神は、神を恐れぬ挑戦的態度として腹をたて、塔を建設していた上下の石工たちの言葉に混乱を起こさせたのである。その結果、意思疎通が出来なくなった石工たちは塔建設を断念せざるを得なくなったというのである。この話は、紀元前586年に行われた二度目のバビロン捕囚によって、多くのユダヤ人が奴隷として連れ去られ、故国が滅亡した事実が伝説として形を変えて生き続けていると考えられている。だが、現在はその栄華をうかがい知るものは何一つ残されていない。天にも届くと思われた巨塔も大空中庭園も見るかげはない。 これらのことから現在の状況を見つめると、非常にバベルの塔の状況に似ているような気がする。どちらが仕掛けたのか不明であるが、宗教戦争とも言えるような混乱。そしてその混乱を鎮めるためとして使われる無人兵器。特にこの一世紀の間における科学と技術の発達とこれらから帰結する科学万能主義。いつの間にか人類は自然(神)を制御できるものと錯覚し、結果としてそれの破壊を推し進めていると思われる。神のお許しのある(自然の自浄作用の働いている)うちはそれでも良いのであろうが、それが駄目になったとき、神はどういうお裁きをなさるお積もりなのであろうか。すでにその片鱗が、世界的な異常気象などに見えはじめているような気がするのである。 傲慢にも神に限りなく近づこうとした人間を、神はすでに神を冒涜する者として分断なされたのであろうか。世界に散らされた人間は、それぞれの神と正義を主張し、結局その相手を武力で屈服することを覚えた。人類の歴史は戦争の歴史であったと言っても過言ではない。戦争は科学を発達させた。科学は常に兵器に利用され、そののち、おもむろに平和利用がなされたのである。あの第二次世界大戦においてさえ、一部には、まだ軍馬という名の兵器が使われていた。それを考えれば、今に至る間の兵器の発達。これこそ科学の粋であろう。原水爆、原子力潜水艦、レーザー兵器、超音速機、無人爆撃機、スターウォーズなど、しかも平和利用とされている原子力発電所が、世界的に増えている。 この平和利用であったはずの原子力発電所において、重大な事故が発生している。1979年のアメリカ・スリーマイル島、1986年のソ連邦・チェルノブイリ、そして2011年に起きた福島の原発事故は、全ての科学者が使用済み核燃料の始末に手を焼いている事実を世界に知らせることにもなった。解決の方法が見つからないのである。これではまるで、トイレのない住宅を作ったようなものである。 不遜にも太陽(核融合)を手に入れ、宇宙の高みに駈け上った人類は、いま再び、神の怒りに触れたのではあるまいか。広島や長崎そして平和利用に名を借りた福島の原発事故の惨状、さらには頻発する異常気象による災害は、神(自然)の怒りの前兆ではないだろうか! 今年は、第二次大戦後70年になる。と言うことは、原爆70回忌ということでもある。この70年の間に、世界ではいくつの戦争があったであろうか。しかし幸いなことに、日本は他国に銃を向けることはなかった。この戦争とは無縁であった70年の日本の歴史は、それこそ世界に誇るべき歴史であったと考えられる。それなのに今、安倍内閣はそれをなし崩しに崩そうとしている。日本に神の怒りが向けられないように、と祈るのみである。 信仰は信じることから、そして科学は疑うことからはじまり、輪となって真理につながるものと考えている。つまり平和は互いに信じることから始まり、戦争は互いを疑念から勃発するのではなかろうか。そのためには、信頼を世界に回復させなければなりません。そして科学を平和に奉仕させねばなりません。バベルの塔の悲劇は、なんとしても防がなければならないのです。この大いなる宇宙の中の、そして、神の掌(たなごころ)の中のたった一個の地球の平和のために!ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2015.03.06
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阿尺と安積(続) 本誌・2月号、「阿尺と安積」(コラム)で、「宝積寺」の読みから考えて、「安積」と文字を変えた時点では「あしゃく」あるいは「あしゃか」と読んでいたが、後、「あさか」に転訛したといったようなことを書きました。先日、安藤智重氏より次のようなご指摘を戴きました。【ご指摘】 「宝積寺」の「積・しゃく」は呉音です。奈良時代に遣隋使が長安から漢音を学んで持ち帰る以前に、すでに日本に定着していた漢字音です。呉音は漢音より「古い読み」で、仏教関係は呉音で読みます。 三種の神器の一つの八尺瓊勾玉の「尺」は、「さか」と読んでいます。「杖足らず 八尺(やさか) の嘆き嘆けども」などと『万葉集』でも「尺」は「さか」と読みます。そうであれば、「阿尺」「安積」の「尺・積」を「さか」と読んで、特に問題ありません。平安中期の漢和辞書『和名抄』でも「阿佐加」と訓じています。「しゃく」から「さか」に転訛したということの根拠をご教示ください。【私からの回答】 大辞林(三省堂)『さか【尺】』の項に、[「しゃく」の転]君来ますやと我が嘆く八尺の嘆き/万3176。と出ていますが・・・。【再指摘】 なるほど。はじめ呉音の「しゃく」が入ってきて、日本で「さか」に転じたということなのでしょう。「さか」という音は、母音が二つ入っていますから、中国本来の音ではなく、日本に入ってから転じた音と思われます。ところで、古代「さしすせそ」は「しゃししゅしぇしょ」に近い音でした。今も博多弁など九州の方言に残っています。ですから、「さか」という表記であっても、実際は「しゃか」と言ったのではないでしょうか。とすれば、「あしゃか」という読みが「安積」につながるという橋本様のご推測は、大正解でしたね。【結語】 私の不勉強のため、前回のコラムで事実誤認があり、読者の皆様にご迷惑をおかけしました。しかし結果的にではありますが、「阿尺」「安積」は「あしゃか」の読みでよかったようです。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2015.03.01
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