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伊達政宗の影武者は愛姫? 影武者とは、いわゆる「替え玉」のこと。相手が気づかないことを前提に特定の人物になりすまし、襲いくるすべての事に対処していく人間のことで、影法師、影名代とも言われたと言う。 自分の明日の運命もわからないような戦国の世。信頼していた家臣による裏切りも、いつおこるか分からない時代。天下を狙う武将が、味方の裏切りなどで命を落としたくないと考えるのは当然です。つまり、万一の時に備えて影武者を使う、というのが一般的な理由です。また合戦の際には、どんな武将でも自分のコピーが欲しくなります。敵を威圧し、味方の士気を高めるために陣頭に突進する自分と、本陣に腰を据えて戦局を見守りながら次の作戦を考える自分、の二つが欲しいのです。社会的立場が高くなればなるほど、一人二役は難しく、どうしても影武者の存在が必要だったのです。 影武者の役目は、仕える武将に完全になりきることです。当然本人の素性を簡単に明かす訳にはいきません。ですから影武者に関する具体的な史料は、ほとんど残っていません。信長をはじめ、秀吉、家康も当然登用していたはずですが、名将になればなるほどそのガードも堅く、今もってその存在は謎に包まれたままです。ただし、家康に関しては、山岡道阿弥、伊賀の服部半蔵などが身代わり役をしたことが残っています。 端正な顔立ちの愛姫は政宗の正室で、奥州三春の出身。そこは東北きっての馬の産地で、女でも馬乗りは珍しくありませんでした。そんなこともあってか、騎馬隊を率いての武者ぶりを発揮した政宗の影武者は、愛姫だったという説があるのです。実は愛姫は、実家から20人ほどの女性の鉄砲隊を持たされていたと言われていたことから、鉄砲は扱いにさえ慣れれば女性でも操れる武器であったと考えられています。 会津芦名氏に従っていた二本松城主 畠山義継は、田村領に近い宮森城に入った政宗親子に恐れをなし、政宗に降伏を申し出、それを許されました。翌日、仲介に立った政宗の父 輝宗にお礼言上のため再度登城、退出の際不穏を感じた畠山義継は輝宗を抱えて拉致、阿武隈川のほとりの粟の須まで逃走しました。ようやくこの辺で本宮方面に鷹狩りに出かけていた政宗も追いついたものの首に刀を当てられている最悪の状況の中で輝宗が叫んだと伝えられています。「このまま義継を二本松城へ入れては後が面倒。父と共に撃て!」 それでも撃てないで苦悩する伊達の家臣たち。そしてこの時輝宗と義継を射殺したのは、愛姫の鉄砲隊であるということに仙台ではなっているそうです。しかし歴史書にはこのように載っていませんので、証拠はありません。とは言いながら、愛姫について仙台 瑞巌寺導師の雲居禅師も、「家庭をよく治め、慈愛深く聡明な奥方であられました」と愛姫の人柄について語る言葉を残しています。また仙台 瑞巌寺の尼僧姿の愛姫像も美しく、「愛姫=めんごい(愛くるしい)姫」の愛称どおりだったようです。その上愛姫は、一時期キリシタンでもあったとも言われます。政宗による支倉常長の遣欧使節のこともありますので、あり得ない話でもないと思われます。この政宗の影武者説が、『歴女』に受けない理由の一つかも知れません。もしもそれが、このような愛姫影武者説が世に広まってのこととすれば誠に残念。どこかで修正されればいいなと思っています。 かつて愛姫は、青葉神社の境内にあった愛姫神社に祀られていたのですが、現在は本殿に合祀されています。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2015.06.26
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保科正之と江戸城 江戸城は武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった城で、江戸時代には江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城とも呼ばれていました。この城は、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が長禄元年(1457)に築いた平山城で、徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里という日本最大の面積の城となったものです。 慶長度の天守は慶長12(1607)年に竣工していますが、天守は5重で鉛瓦葺(慶長見聞集)もしくは7重(毛利三代実録考証)、9重(『日本西教史』)とも伝えられています。しかしこの天守は、元和8(1622)年に解体されています。 元和度の天守は、元和8(1622)年から翌年にかけて天守の建設が行われました。規模は慶長度天守の3分の1、高さも7間に縮小されています。しかし天守の構造は5重5階(地階1階を含めると6階)の層塔型とされ、その高さは約30間とされていますが、外観や構造については、諸説が残されています。元和度天守は、秀忠の死後、家光によって解体され造り直されているのですが、その動機も秀忠・家光の親子関係に起因するともいわれています。 この造り直された寛永度の天守は、寛永14(1637)年にかけて完成しています。規模は元和度を踏襲していますが高さは30間、下総からも眺望ができたといわれます。しかしこの城は、明暦3(1657)年の大火で焼失しました。明暦の大火による被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大のもので、江戸の三大火の筆頭として挙げられています。その被害は外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失しました。死者は諸説あるのですが、3万から10万人と記録されています。この大火は、振袖火事・丸山火事とも呼ばれています。 それでもこの大火の後、ただちに再建が計画され設計図も作成されたのですが、江戸城の天守は再建されることはありませんでした。この未曾有の大災害の陣頭指揮にあたったのが3代将軍家光の異母弟であり、4代将軍家綱の後見役となった会津藩主保科正之でした。保科正之は、「天守は織田信長が岐阜城に築いたのが始まりであったが、江戸城の守りのためには、必ずしも必要なものではない」として被災者の早急な救済と民生安定、さらには長期的展望に基づいた江戸市街の災害復興を最優先の課題と考えたのです。それまで江戸城の守りのため天守は、江戸幕府の権威と権力の象徴と考えられていたのですが、今はその再建のために幕府の財産を費やす時節ではないと判断し、作らないことを決定したのです。 この保科正之の英断が、それ以降200年にわたる江戸期の社会の平和と安定の礎(いしずえ)となり、元禄、文化・文政の江戸文化が花開くこととなったのです。これ以降、江戸城も富士見櫓を実質の天守としたこともあり、諸藩でも天守の建造を控えるようになり、事実上の天守であっても「御三階櫓」と称するなど、遠慮の姿勢を示すようになったのです。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2015.06.16
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三春・福聚寺 三春に臨済宗妙心寺派の寺院で、慧日山福聚寺という寺があります。実はこの寺、多くの移転の歴史があるのです。 当初、福聚寺は、現在の郡山市日和田町八丁目字聖坊にあったとされます。ところでこの聖坊の『聖』という文字ですが、これは臨済宗ではなく、真言宗との関連性を指摘されることがあります。しかし臨済宗と『聖』がどのような関係にあったとしても、聖坊という土地の名に、聖地というような何らかの宗教的意味の関連があったには違いないと思われます。その後福聚寺は、元弘2(1332)年、同じ日和田八丁目字門前に移転、さらに暦応2(1339)年、守山の田村輝定によって富久山町福原字古戸地内に移されたといわれています。そしてさらにその後の永正元(1504)年、戦国時代三春の領主・田村義顕によって三春に移され、田村氏の菩提寺となったのです。(寺伝)相生集にも、八丁目の古跡に「古福聚禅寺」を挙げて「今三春町に移る・・・」と述べられています。 この聖坊の福聚寺が転出した跡地に、新しい寺が建立されました。この寺の名は、古い福聚寺の跡地に作られたことから、古福寺とされたとされるのですが、この寺もまた、何故か福聚寺が最初に移されたとされる八丁目字門前に移され、さらに八丁目字中頃に移されて保福寺と名を変え、現存しています。福聚寺の玄侑宗久氏によると、「僧の代替わりとともに寺の名を変えることもままあったと言われるから、中頃の古福寺が臨済宗から曹洞宗に変わったときに保福寺と名も変えたことも考えられる」と言っておられます。 私はこの古福寺と保福寺という名の関係もさることながら、この中頃という場所の地名が、もともと福聚寺があったとされる聖坊と、移転先の門前との丁度中間点にあるというのも、不思議な話であると思っています。また相生集に、古福寺は三春の八幡町に移されて福田寺になったとあるのですが、三春にその名の寺があったことの証明はされていません。 『会津・仙道・海道地方諸城の研究』に、本柳寺という名が出てきます。しかし本柳寺とは次に出てくる本栖寺の古称ではないかと思いましたが、確認することはできませんでした。 本栖寺は、福聚寺が移転した字古戸から三春に再移転をした際その跡地に建立され、その名も元の福聚寺が以前に栖んでいた寺という意味で本栖寺と名付けられたと伝えられています。その後、阿武隈川の水害を嫌い、福原集落が現在地に移転する際、普賢坂(八山田字牛ヶ池)に仮堂を建設、その後の延宝4(1676)年、福原字福原の現在地に移転したと伝えられています。ただいづれにしても時期を変えて、福聚寺、古福寺、本柳寺の三寺が、時期を変えてともに聖坊に創建されたとも考えられます。そしてこのことこそが、地名・聖坊の『聖』の由来であるのかも知れません。 さてこれらを参考に寺ごとに移転した順序に並べてみると、次のようになります。ただしここでの数字やアルファベットは、それぞれのグループをあらわしています。 宗派 山号 寺院名 所 在 地 移転年1 臨済宗・(不明)福聚寺 日和田町八丁目字聖坊2 〃 ・( 〃) 〃 富久山町八丁目字門前 元弘二 (1332)年3 〃 ・( 〃) 〃 富久山町福原字古戸 歴応二 (1339)年4 〃 ・慧日山 〃 田村郡三春町御免町 永正元 (1504)年A 〃 (不明)古福寺 日和田町八丁目字聖坊B 〃 ( 〃) 〃 富久山町八丁目字門前C 曹洞宗・恵日山保福寺 日和田町八丁目字仲頃ア (不明)本柳寺 日和田町八丁目字聖坊?a 臨済宗・恵實山本栖寺 富久山町福原字古戸b 〃 ・ 〃 〃 富久山町八山田字牛ヶ池 (普賢坂)元和初 (1615)年頃c 〃 ・ 〃 〃 富久山町福原字福原 宝暦四 (1754)年 こうしてみると、これらの寺の間には不思議な一致が見られます。 第一はその宗派が曹洞宗の保福寺を除いて、全てが臨済宗であるということです。しかしこの臨済宗と曹洞宗に関しては、中国の禅僧・蘭渓道隆が、「済洞(さいとう)(臨済宗と曹洞宗)を論ずる勿れ」と諭しているように、ある意味非常に近い関係にあります。そうすると、この寺々のすべてが臨済宗である、と考えてもよいのではないでしょうか。 第二には、慧日山、恵日山、恵實山と、不明な山号を除いて全てが同じ語感の山号であるということです。 さらに曾我仏という石塔が、香久池二丁目の法久寺境内に保存されています。考えられることは、安積の伊東祐長〜祐能〜祐家の時代に何かよくないこと、例えば不作とか洪水、風水害などが数多く起こったため、祐長の父を討った曾我兄弟の祟りと考え、兄弟の供養塔を建立したのではないかと思えることです。この供養塔は、日和田と冨久山の境の字西仲鹿島後か字白石田にあったものを、昭和二十九年ころ法久寺境内に移したと言われています。 この曾我仏には、次のような郡山市教育委員会の案内文が付されている。『曾我仏 日和田町、富久山町の境、高場山中俗称恵日台より移す』 そしてここにも、恵日台という地名が出てきます。恵日山に似た山号のあるこれらの寺々との間に何らかの関係が感じられます。ただし現在、高場山、恵日台の地名は残されていませんが、これらは門前、戸ノ内を指すとも伝えられています。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2015.06.06
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天皇になれなかった安積親王 天皇になるべくしてなれなかった皇子に、安積親王がおられました。この地に住む以上、何とも気になるお名前です。 藤原不比等は、38代天智天皇から藤原氏の姓を賜った藤原鎌足の子です。ところで39代の弘文天皇が壬申の乱に敗れて自害し、在位わずかに6ヶ月にして40代天武天皇(在位13年)が皇位につきました。この天武天皇に、不比等の異母妹の五百重姫が后となっています。天武天皇亡き後、五百重姫が41代持統天皇(女帝)となったのですが、在位7年で42代文武天皇(在位10年)に譲位しました。不比等はその文武天皇の后に娘の宮子を嫁がせたのですが、そこで生まれたのが首皇子(おびとのみこ)、後の45代聖武天皇になります。しかも不比等は娘の光明子(後の光明皇后)を聖武天皇の后とさせたのです。不比等は妹と2人の娘を、三代にわたる天皇の后とすることで、天皇の姻戚としての地位を確立したのです。 神亀4(727)年、第45代の聖武天皇と安宿媛(あすかひめ)(藤原不比等の娘の光明子で、のち光明皇后になる)との間に基皇子(もといのみこ)が誕生しました。待望の男子を得た天皇の喜びはひととおりではなく、生後わずか32日の乳飲み子を、皇太子に仕立てあげてしまったのです。天皇はもちろん皇太子にも成人であることが求められた当時としては、きわめて異例な措置でした。しかし翌年、基王は重い病気となったのです。そしてその年、聖武天皇と県犬養広刀自との間に、聖武天皇の第二皇子として安積親王が生まれたのですが、なんとその1ヶ月後に、皇太子の基皇子が夭折してしまわれたのです。なお刀自とは、地域の女性の統率者を指したのですが、次いで、夫人の尊称として使われたものです この当時、天皇家を巡って、藤原氏が台頭していました。そのような天平8(736)年5月、安積親王は8歳のとき、すでに斎王になっていた姉・井上内親王のために写経を行っています。なお斎王とは。伊勢神宮または賀茂神社に巫女として奉仕した未婚の内親王または女王のことを言います。 基皇子が亡くなったため、聖武天皇唯一の皇子であり、皇太子への最も有力な候補である安積親王がいたにもかかわらず、天平10(738)年、安宿媛(あすかひめ)を母に持つ阿倍内親王(のちの四十六代・孝謙天皇)が初の女性の皇太子になられたのです。しかし阿倍内親王の弟の基王のときは生後二ヶ月で立太子させながら、安積親王は10歳になっていたにも関わらず幼いとされ、20歳になった阿倍内親王が皇太子とされたのです。伊勢にあった21歳の井上内親王は、実弟の安積親王が皇太子であるべきであるとして強力に反対したのです。これはある意味、皇室と藤原氏との対立が、表面化したものとも思えます。内親王の立太子は前例がなかったのですが、これは、光明皇后を皇室に送り込んだ不比等の強力な巻き返しの一手であり、皇室としても当面の安定策として採用せざるを得なかったものと思われます。 天平15(743)年、15歳になった安積親王は、藤原八束の邸にて宴を開いているのですが、このことから見えることは、藤原氏も一枚岩ではなかったということかも知れません。この宴には当時内舎人であった大伴家持も出席しており、家持が詠んだ歌が『万葉集06/1040』に残されています。 久堅の 雨は降りしけ 思ふ子が 屋戸に今夜は 明かして去かむ(ひさかたの 雨よ降れ降れどんどん降ればよい。そしたら、私の大切に思っているあの子(安積親王)が帰れなくなってここに今夜はお泊りになるだろうから) どうでしょう。「やがては」、と安積親王に期待する家持の気持ちが詠われているようには思えませんでしょうか。しかも藤原氏に気兼ねをしたのか、安積親王を『あの人』と表現しているのです。この宴は安積親王を慰める、または元気づけるためのものであったと思われますが、もしそうであるとすれば、記録にはありませんがこれ以前にも多くの宴が開かれていたと思われます。また翌16年1月11日には安積親王の邸があったと見られる活道の岡でも、家持、市原王らが集まって宴を開いています。 一つ松 幾代か経(へ)ぬる 吹く風の 声の清(きよ)きは 年深みかも(一本松よ あなたはどのくらいの時を生きているのか 吹いて来る風の声が清らかなのは 長い時がたったからなのか (万葉集 06/1042) 市原王 なお市原王は、天智天皇の皇子で弘文天皇の弟に当たります。この歌は、皇統から疎外された市原王と、政権から疎外された名門の大豪族の末裔の貴公子大伴家持との、安積親王に対する祝福の歌であったのであろうと想像されています。彼らにとっての最大の願望は安積親王の即位にあったのではないでしょうか。この歌は安積親王への正月の祝賀歌であると同時に、『一つ松』という言葉に安積親王の即位を待つ期待が、また『松』には安積親王の無事長命を合わせ込めたものであると言われています。 天平16年、聖武天皇の難波行幸に同行した安積親王は、脚の痛みにより途中から引き返し、そのわずか2日後に、17歳で薨去されました。しかし脚気により、しかも2日後に急逝したことはあまりにも異常なことであり、この事実から、安積親王は藤原仲麻呂によって暗殺されたのではないかとも言われています。 さてこの安積ですが、実にこれは、難読地名の一つなのです。当時、いまの兵庫県宍栗市にある安積山(あづみやま)製鉄遺跡のような呼ばれ方が普通だったのです。それであれば安積(あづみ)親王の方が正しかったとも推測できます。しかし安積親王誕生4年前の神亀元(724)年、海道(東北の太平洋沿岸)で蝦夷の叛乱があり、防衛のため陸奥按察使兼鎮守将軍である大野東人により、多賀城が設置されているのです。安積の地が対蝦夷戦の兵站基地にされたらしいこともあり、都人(みやこびと)の間では安積の地名が知られていたとも考えられます。 この蝦夷との接点の多賀城、つまり軍事的に重要な地域への兵站基地の安積という地名には「猛き者、強き者」という意味で親王の名としたのかも知れません。『あづみ』をあえて『あさか』と読み変えた理由が、ここにもあるような気がします。それにしても、この時点で、安積(あさか)という地名が聖武天皇の皇子の名とされていたことに驚かされると同時に、もし安積親王が天皇になっておられたら、安積という地名の知名度が高まっていたかも知れません。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2015.06.01
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