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北の元寇 1 北日本、襲撃さる 皆さん幼い頃に、マモーとかマモケなどという単語を聞いたことがありませんか? これらの単語は私たちが子どもの頃、恐ろしいもの、化け物のようなものとの感覚で受け取っていました。それがなぜか恐ろしかったのですが、その多くは語感にあったのではないかと思っています。このマモー、中年も過ぎた頃、三春町史に次のように書いてあるのに気が付いたのです。『当時、広大なユーラシア大陸の東西にまたがる大帝国蒙古は元と国号を改め、高麗を征服したあとたびたび日本に服属を迫ったが、執権北条時宗はこれを退けたため、元の大軍が文永十一(1274)年と弘安四(1281)年の二度にわたって九州北部を襲った。幸いにも防ぎ得たが、国内上下に与えた恐怖感は、現在でも、子どもに恐ろしいことを「マモー」と言うように、魔蒙として恐れられていた言葉であると言われるほどに脅威であった』 それを読んでなんとなく分かったような気がしたのですが、どうもよく考えてみると、ちょっと納得しかねたのです。というのは今から約800年も前、しかも九州という遠隔地で起こった元寇という事件が、またいかに蒙古兵が恐ろしかったとは言え、このように長い時間を過ぎてまで福島県の子どもたちを恐怖に陥れていたということが不思議だったのです。しかし詳しく調べる気もなくそのままになっていたのですが、ある日東京へ行く新幹線の中で、備え付けられているトランヴェールに手を伸ばしたのです。単に時間つぶしが目的だったのですが、めくっているうちに『十三湊を旅する』という特集が目につきました。そこには次のような一節があったのです。『鎌倉時代の文永十一年と弘安四年、日本列島は元朝による「蒙古襲来」におびやかされた。西日本ばかりでなく北方にも元によるサハリン方面への侵攻が続き、それに連動する形で起こる蝦夷人の反乱に幕府は悩まされた』 家に戻ってから知り合いなどに聞いてみると、マモーと同じ意味としてマモッケなどが県内各地で、またモッケ、モコなどが東北各地や新潟、富山、石川、長野の各県、そして北海道渡島半島にまで広く語り継がれていたのを知ったのです。柳田國男著の『妖怪談義』のなかに『昔、蒙古人を怖れていた時代に、そういい始めたのであろうという説さえある』という記述を見つけた時、むしろ単なる説ではなく、事実なのかも知れないと思いました。何故なら元寇が九州だけではなく、秋田県などでも起きた事件であるとすれば、これらの単語がこの地方に残る意味が、少し分かるような気がしたからです。 仙台市の善応寺にある『蒙古の碑』が写真入りで説明されていた山川出版社の『宮城県の歴史散歩』を目にしたのは、この頃でした。しかし私は、このような碑が仙台にあるのは不思議なことだと思いました。なぜなら仙台は、戦国時代に伊達政宗が作った町です。それ以前の鎌倉時代、たしかに多賀城という対蝦夷の施設はありましたが仙台という町はなかった筈です。それに蒙古は、樺太や北海道、それに秋田にも来襲したらしいのに、太平洋側に碑があるのもおかしな話です。もし蒙古が仙台まで攻めてきたとしたら、仙台は多賀城の南ですから、幕府は自己の領分と考えて捨てておけなかったはずです。だからもし仙台に攻めてきたとすれば、必ず日本の歴史に記述されていなければならないのですが、それもありません。私は仙台に行ってみました。そして驚いたのは、『蒙古の碑』は一つだけではなかったのです。 1 善応寺(宮城野区燕沢二丁目3〜1)に一基。 2 牧島観音堂(宮城野区燕沢東一丁目3)に一基。これは 『蒙古の碑』が、ここから善応寺へ移したことの記念碑で あるので、『蒙古の碑』そのものとは言えません。 3 東北大学植物園(仙台市青葉区川内12〜2)に二基。 東北大学植物園のパンフレットには、次ぎのように紹介 されています。 『弘安十(1287)年と正安四(1302)年に建てら れた板碑(供養碑)で、「もくりこくりの碑」とも呼ばれ ている。これらの板碑は鎌倉時代のもので、左は 弘安十年に陸奥守と号した人の供養のため、右は正安四年 に四十余人の講衆が、それぞれの縁者の霊を弔うために 建立したものである。これらが建立された年代が元寇 (文永十一年1274、及び弘安四年・1281)にすぐ 続いているので「蒙古高句麗の碑」と呼ばれてきた。蒙古 来襲は、当時の日本では最も恐ろしい出来事で、恐ろしい ことの代名詞にされてきた。そうした事に因んでか、これ らの板碑は子供の百日咳を直す霊験があると言われ、永く 信仰されてきた。 4 来迎寺(青葉区八幡五丁目1〜8)に『モクリコクリの碑』 が二基。 5 三宝荒神社(若林区南鍛冶町41)に一基。蒙古兵の弔い の石とされるものがありましたが、銘はありません。 6 仙台神宮(青葉区片平一丁目3〜6))に一基。ここには、 蒙古の碑ではないと否定された経緯のある碑が残されてい ます。 いずれこれらの碑に、『蒙古』とか『モクリコクリ(蒙古・高句麗)』と明示されていることは、やはり『蒙古』と関連づけるべきなのではないでしょうか。私はこれらのすべてを見て回りましたが、せいぜい案内板にある説明程度で蒙古との関係や詳細を知ることはできませんでした。しかし『蒙古の碑』については、次のように想像されています。 1 当時、北の守りとして陸奥国府の多賀城(多賀城市)があり、 仙台市内若林区に陸奥国分寺・国分尼寺があってこの地が 多賀城への中間地点になること。 2 松島が霊場として発展していて、鎌倉とも交流があったこと。 3 蒙古軍兵士の慰霊の碑であるが、社会情勢を考慮し、 当時僻地とされていた陸奥に、しかも省字(判読できない字) を彫ってカモフラージュをした。 『元史 巻十三・十四』によると、弘安七年(1284)、弘安八年、弘安九年と三年続けて蝦夷を襲撃しています。当時蝦夷は、ほぼ多賀城より北に住んでいたとされていました。ちなみに東北大学にある『蒙古の碑』の一基は、弘安十(1287)年のものなのです。 『元分類(注1)巻四十一』によりますと、永仁五(1297)年、骨嵬(くい・注2)軍は逆に大陸まで攻め込んでいます。これの防衛に、蒙古は一万以上の兵力を投入したといわれます。この年の三月、吉烈迷(にぶふ・注3)の百戸長(注4)カンツキらが蒙古の東征元帥府(注5)を訪れたので扇と漁猟用の網を与えてねぎらい、カンウジャを吉烈迷の万戸府に移させました。五月、骨嵬は吉烈迷の作った黄窩児船(板船)を奪って渡海し、チリマ(場所不詳)の先で略奪などを行っています。また瓦英・玉不廉古らが指揮する骨嵬軍が再び反攻、黒竜江下流域のキジ湖(注6)付近で蒙古軍と衝突しています。六月、蒙古軍は、骨嵬をスチホトン(場所不詳)で破りました。七月、骨嵬のユブレンクはクオフォオ(場所不詳)より渡海してフリガ(場所不詳)に攻め入ったのですが、蒙古軍はこれも破っています。延慶元(1308)年、蒙古軍は吉烈迷の百戸長コシュナイより、「骨嵬のワンセヌが降伏したい」と言っているのを聞き、タイホナを使者とし奴児干(ぬるがん・注7)に知らせました。また吉烈迷のトウシンヌは、「骨嵬が毎年珍奇な皮を納めることを条件に降伏を願っている」と報告しました。結局骨嵬は三度大陸に反攻したものの、蒙古軍に降伏したことになります。ちなみに東北大にあるもう一基の『蒙古の碑』には、正安四(1302)年の年号が付されています。 注1=元分類 中国,元の詩文選集。元末の蘇天爵 (12 94〜1352)の編。 注2=骨嵬。アイヌ民族の形成が十三、四世紀とされている ので、クイとアイヌは同一とはとらえがたい。しかし アイヌ民族を形成した人びとの集団にあったと考えら れる。 注3=吉烈迷(ニヴフ・Nivkh)。樺太中部以北及び一部黒竜 江下流地域に住む少数民族。古くはギリヤーク (Gilyak)。また、古来の日本や中国大陸の文献に記載 されている粛慎(しゅくしん、みしはせ)はニヴフで はないかと指摘されている。 注4=モンゴル帝国期、チベット各地の有力領主たちが万戸 制に基づく万戸長に任じられたことに由来する呼称。 注5=東征元帥府。キジ湖より黒龍江を越えた北。 注6=キジ湖。ロシア連邦ハバロフスク地方ウリチ地区 最大の淡水湖で、アムール川流域の山麓に位置する。 注7=奴児干。中国,明代に満州経営の前進拠点となった モンゴルの地方軍事機関。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2015.11.26
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日本神話の萌芽と残滓 日本の後期旧石器時代は、約三万五千年前に始まって約二万年間続き、多くの遺跡が確認されています。これに続く縄文時代は約一万四千年続き、その後の邪馬台国女王 卑弥呼の死が3世紀中頃とされていますから、これらを足すと、気の遠くなるような長い年月です。この長い年月の間に受けた自然の恵み、そしてその猛威にさいなまれたこともまた多かったと思われます。それらはストレートに、あるいは昇華されることで、その時代時代の人たちに語り継がれて来たであろうことは容易に想像することができます。そしてこれらの出来事や自然現象が、『神』という超自然的力により起こされたものと考えたであろうこともまた想像することができます。 日本神話のほとんどは、『古事記』や『日本書紀』および各地の『風土記』の記述によるものです。その成立年度は古事記が和銅五年(712)、日本書紀が養老四年(720)となっています。古事記は語り部によって言い伝えられた『皇位継承』の伝承を忠実にほぼそのまま記述したもので、要は、天皇家が歴代統治してゆくことの正当性を述べようとしたものです。また日本書紀は白村江の大敗により失われた我が国の主体性を再構築するため、中国風の史書を作ることを目的としたものです。そのため王権にとって都合の悪いことを隠そうとして、意図的な取捨・改竄が随所に行われているといわれます。しかし神話はこの時代に創造されたものではなく、それまでに起きてきた何かの事実を基礎に編まれたものではなかったのかと想像しています。例えば、口伝えされてきた現実の話から作られたと想像する理由に、次のようなことが挙げられると思います。1:神々の行動が現実の国土と密着する形で物語られることが多いこと。2:神々の系譜が単に神々の世界に留まらず、現実の世界にのめり込んでいること。 神世 世界の初めに高天原(たかまがはら)で神世七代と言われる神々が誕生、これらの神々の最後に生まれてきた神が伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)で、神武天皇の7代前の先祖となります。ただここで気になるのは、多くの国の神話が『神は人間を自分に似せて作った』としているのに対し、日本では『神が人間に変化』していったことです。 国生み この伊邪那岐命と伊邪那美命は、自らがつくった淤能碁呂島(おのころじま)に降り、結婚して大八洲(おおやしま)と呼ばれる日本列島の島々を次々と生み出します。日本書紀は、大日本豊秋津洲(おおやまととよあきつしま・本州)、伊予(四国)、筑紫(九州)、隠岐、佐渡、越(新潟)、大洲(おおしま・山口県屋代島か?)、吉備子洲(きびのこじま・岡山県児島半島)の8島をあげていますが、古事記では越以下を欠き、加えて淡路、対馬、壱岐の8島としています。 天の岩戸 皇室の祖神である天照大神(アマテラスオオミカミ)は、弟 素戔嗚尊(スサノオノミコト)の荒々しい所業に怒り、岩屋に隠れてしまいました。このため世の中は真っ暗になるのですが、八百万(ヤオヨロズ)の神々の機転により、天照大神は『天の岩戸』を開けて岩屋から出たので天地に光が戻ります。素戔嗚尊は高天原から追放されました。この『天の岩戸』の話もさることながら、この姉弟の関係が魏志倭人伝に言う卑弥呼とその弟との関係に酷似しており、女性神である天照大神は女王 卑弥呼がモデルではないか、と指摘されています。 因幡(いなば・鳥取県)の白兎 『因幡の白兎』は、『淤岐島(おきのしま)』から『稻羽』に渡ろうとした兎が、『和邇(わに)』を並べてその背を数えながら渡ったというものですが、その和邇に毛皮を剥ぎ取られて泣いていたところを大国主神に助けられるという話です。しかし和邇は鰐ではなく、鮫との説もあります。ところが鰐説を裏付けるかのように、昭和三十九年(1964)、大阪府豊中市待兼山に化石の採取に来ていた高校生、人見功と大原健二が、脊椎動物の肋骨破片を発見しました。その後の発掘調査で頭骨を含むほぼ完全な骨格化石が採集され、マチカネワニと名付けられたのです。このこともあり、何らかの鰐に関する事実がこの神話に反映したもの、と思われます。 天孫降臨 天照大神の孫(天孫)の邇邇芸命(ニニギノミコト)は、高天原から葦原中国(あしはらのなかつくに・日本)を統治するため、筑紫の高千穂に天下りました。ここで木之花佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)を妻とし三人の子をもうけました。この子供たちの二人が海幸彦(ウミサチヒコ)と山幸彦(ヤマサチヒコ)です。この山幸彦と豊玉毘売(トヨタマヒメ)との間に生まれた子が、天津日高日子波限達鵜葺草葺不合命(アマツヒコヒコナギサタリウガヤフキアエズノミコト)と言う神ですが、成人して豊玉毘売の妹(つまり叔母)である玉依毘売(タマヨリヒメ)と夫婦になります。この二人の間に生まれた子供たちが、五瀬命(イツセノミコト)や神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレヒコノミコト)でした。神倭伊波礼毘古命という神は、のちの神武天皇です。 神武東征 神倭伊波礼毘古命が倭を支配しようと攻めて来たので、倭の先住者たちは果敢に抵抗しました。しかし先住者たちは、敗れてしまいました。神倭伊波礼毘古命は、畝傍(うねび・橿原市)の橿原宮で即位します。この神倭伊波礼毘古命が『高天原の神(天津神)の子』であり、初代の神武天皇です、この東征神話は、神武天皇がいかに立派であったかを説明するための話とされています。しかしこの東征神話は、邪馬台国の卑弥呼の話ではないかとの説もあります。なぜなら稲作文化がこの時代に九州に渡来していることから、東征が神武天皇の武力による侵攻ではなく、実際は卑弥呼による稲作文化の伝播と考えられるからではないでしょうか。東征神話によると、神武天皇は、宇佐(大分県)を経て岡田宮(福岡県)で1年、多祁理宮(たけりのみや・広島県)で7年、高島宮(岡山県)で8年も滞在しているのです。これらの年数は稲作技術指導のための期間であったのではないか、と思えるのです。このことから、邪馬台国が九州と畿内の両方に関係していたと考えてもいいのではないかと思われます。いずれにせよ高天原の神々による葦原中国の平定があり、出雲の神々は国譲りによって天津神に服属します。そして筑紫の神々は天孫降臨によって『天津神の子』である神武天皇に統合されてゆくという政治性が、強く打ち出されていくのです。 神武天皇は東征において、三脚烏の八咫烏(やたがらす)に導かれています。もともと三脚カラスは中国神話に登場する烏で太陽に住むとされ、高句麗では古墳の壁画にも描かれています。ただし太陽にいるのは金鶏(きんけい)であるとの神話もあります。これらのことは、神武天皇の東征の際、神武の弓の弭にとまった黄金色のトビ(鵄)が光り輝き、長髄彦(ナガスネヒコ)の軍を眩ませたという話と重なり、またす。三脚カラスが太陽に住むという中国の神話は、天皇は太陽の子であるとする日本人にとって受け入れやすい話であったのかも知れません。朝鮮から、『稲作と一緒に三脚カラスも渡来した』、とも考えられます。日本神話の残滓 金鵄勲章(きんしくんしょう)というものがありました。これは大日本帝国陸海軍の軍人軍属を対象に、明治二十三年(1890)の紀元節(二月十一日)に制定されたものです。金鵄は、日本の軍人を彩る鳥となっていきました。そして日本は神の国であり、国民は神の子(天皇)の赤子(せきし)と教育されてゆくのです。そのため天皇は現人神(あらひとがみ)であるという考えが国民の間に根付いていきました。ちなみに八咫烏は、サッカーチームのシンボルマークとして、現代の日本によみがえりました。 昭和十四年(1939)、早稲田大学文学部教授で東京帝国大学法学部講師(東洋政治思想史)を兼任していた津田左右吉博士が、日本書紀に於ける聖徳太子関連記述についてその実在性を含めて批判的に考察した『神代史の研究』などの本が、翌昭和十五年、発禁とされました。まさにこの年は、皇紀2600年の祝典が挙行された年でもあったのです。この神話の時代を国史(日本史)とした学校教育の終わりは、昭和天皇が『人間宣言』をした第二次大戦の終結まで、待たなければならなかったのです。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2015.11.16
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手長足長 和漢三才図会に長脚(あしなが)国・長臂(てなが)国の記述があり、そこには「長脚国は赤水の東にあり、其の国人長臂国と近く、其の人常に長臂人を負ひて、海に入つて魚を捕ふ。長臂国は『にんべん+焦』僥国の東にあり、其の国人海東にありて、人手を垂るれば地に至る」とあるそうです。県内に、足長の神の例は少ないのですが、手長の神は各地に多いようです。中でも有名なのは新地町の手長明神で、その伝説が新地町に残ります。『昔、山に長い手を持った仙人が住んでいました。動物が好きで老いた鹿と白狼をかわいがり、この山に腰をかけいつも四方を眺めていたそうです。ある日腹が空いたので東の海に貝があるのを見つけ、食べてみるとおいしかったので毎日食べるようになりました。捨てた貝殻が積もって丘のようになったのが貝塚です。この巨人を手長明神として祀り、山を鹿狼山と呼ぶようになりました。この貝塚は小川貝塚遺跡です』 新地町には明治20年代まで手長明神を祀る神社がありましたが、現在は近くの二羽渡神社へ合祀されています。また相馬市山上にも手長明神があって附近には貝塚があり、参詣者は貝殻を納めるのが例とされています。 手長・足長については日本書紀の中に、神武天皇が葛城(奈良県)の土蜘蛛を誅し給う条があり、『土蜘蛛の人と為りや身短く手足長く、侏儒(しゅじゅ・背丈が並み外れて低い人)と相類す』とあるそうです。本来土蜘蛛とは、上古に天皇に恭順しなかった土豪たちのことであり、日本各地で記録されているのですが、単一の勢力の名ではなく、勿論、蜘蛛とも無関係です。 もともと土蜘蛛の名は、先住民族の或る者に対してつけられた貶称で、恐らく彼らが穴居していたための名であろうと推定されています。大和の人々は『遠き国の人ども』と言い、土着勢力を人間以下の存在、つまり土中に棲む蜘蛛のたぐい、妖怪のたぐいとして分類していたのです。そして天皇の支配下に入った土蜘蛛のみが『土蜘蛛』のレッテルを外され、『人間』として扱われることになったのです。土蜘蛛は足が長いという意味で、八握脛(やつかはぎ)とも呼ばれていました。 日本武尊が八槻郷(棚倉町)の八人の土蜘蛛に八本の槻弓・槻矢を放ち、これを討ったという話が残されており、それためここを矢着、八槻と呼ぶようになったそうです。この話にでてくる棚倉町の八槻都々古別神社の祭神は、日本武尊です。そして近くの八溝山からは金が産出していました。当時、大量に武器を必要としていた大和が、金・銀・銅・鉄などの鉱物資源を求めて日本武尊を全国に派遣して探していたとも考えられます。ただし日本武尊は個人ではなく、大和人の集団を意味したとも説明されています。 日本武尊は八槻郷に入る前、房総半島の北で八握脛という悪者と戦っています。つまり土蜘蛛です。この悪者たちが日本武尊に抵抗するため巣穴から出て留守にしている間に馬に乗った兵士たちが茨を穴の中に入れ、そこへ八握脛たちを追い込んだところ、穴に逃げた彼らは皆その茨によって死んでしまったといわれます。この神話から、現在の茨城県の名が出来たとされています。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2015.11.06
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仮名序〜もう一つの想像『安積山』の歌は、『難波津』の歌とともに『古今和歌集仮名序』の中で『歌の父母』の1つとされています。 古今和歌集仮名序は、『古今和歌集』に添えられた2篇の序文のうち仮名で書かれているものの方の名称です。通常は単に『仮名序』といわれます。執筆者は紀貫之で、初めて本格的に和歌を論じた歌論として知られ、歌学のさきがけとして位置づけられているもので、この内容は次のようなものです。 (一部省略) 『難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花』なにはづのうたは、みかどのおほむはじめなり。(おほさざきの帝の難波津にて皇子ときこえける時東宮をたがひに譲りて位につきたまはで三年になりにければ王仁といふ人のいぶかり思ひて よみてたてまつりける歌なりこの花は梅の花を言ふなるべし) 『安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思はなくに』安積山の言葉は采女のたはぶれよりよみて。(葛城王を陸奥へつかはしたりけるに国の司事おろそかなりとてまうけなどしたりけれどすさまじかりければ采女なりける女のかはらけとりてよめるなりこれにぞおほきみの心とけにける)あさか山かげさへ見ゆる山の井のあさくは人をおもふのもかは。]、 この二歌は歌の父母のやうにてぞ手習ふ人のはじめにもしける。 この仮名序に、私には不思議なことが書いてあるように思えます。第1首の難波津は帝の御初めを賛(たた)える歌として詠まれ、作者も王仁とはっきりしているのですが、第2首の安積山は歌ではなく『言葉』とされ、詠み人は陸奥国前采女(つまり氏名不詳)の『戯れ歌』とされているからです。 では何故、このようなことが起こったのでしょうか。考えられるのは、安積山の歌の出来がよかったということだけではなく、それ以上のもの、つまり『安積山』が『安積親王』を象徴的に表していたからではないかと想像しています。そう考えると、『安積山の歌』が『歌の父母』の1つとして推奨されたことの意味が分かるような気がするのです。 万葉集約4,500首の歌のうちに安積山を詠った歌は、」この1首しかありません。これに対して安達太良山の歌が3首もあるのですが、これは実在の山と架空の山との違いなのでしょうか。安積山が架空の山であるということは、安積山が安積親王であるという私の仮定に基づきます。 これに関して奈良の春日大社に問い合わせたところ、奈良ホテルのある丘が浅香山で、その近くには『山ノ井』があるそうです。このことは、歌に『山ノ井』を織り込むことで奈良の浅香山を連想させ、安積親王の印象を薄めることで藤原氏に対しての目眩(めくら)ましにしようとしたとも考えられます。 沢潟久孝氏もその著『万葉集注釈巻十六(85頁)』の中で、『確証がないからこそ、安積山の歌が京師の歌人によって作られた歌であると、筆者はそう考えたい』と述べておられます。 これら推測のまとめとして、もし万葉集の編纂中に橘諸兄と大伴家持の間で何らかの話し合いがもたれ、万葉集の中に安積親王の歌が1首もないのを残念がって橘諸兄が安積に行幸したことにして詠み、作者も『陸奥国前釆女』として左注を書いたという可能性が無いこともないと考えられます。そうであるとすれば、このような左注を書ける人は橘諸兄本人か大伴家持以外にはないと思われるのですが・・・。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2015.11.01
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