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坂上田村麻呂黒人説 私は、古代日本の英雄、征夷大将軍 坂上田村麻呂が黒人であったという説があるということを、ついぞ知らなかった。しかしこの説は、説得力のある証拠を何一つ提示できなかったにも関わらず[、主に黒人の学者のなかで21世紀の現在に至るまで引用されており、古代日本に黒人種が存在していたことを証明するものとして考えられているという。 明治四十四(1911)年、カナダの人類学者チェンバレンはその著、『人類の文明への黒人の貢献』のなかで、歴史上人類の文明化に功績のあった黒人を紹介する際に、坂上田村麻呂について短く触れている。それによると、遠い日本で、現代の日本人の先祖はその国の先住民であるアイヌに敵対し北上していたが、その軍団の指導者が有名な将軍であり黒人でもあった坂上田村麻呂であったというのである。この記述の典拠がどこにあるかは記されていないが、おそらくこの記述が坂上田村麻呂黒人説の初出らしい。 大正四(1915)年には、アメリカの公民権運動指導者であるデュボイスが『ニグロ』において黒人の秀でた支配者もしくは戦士の一覧に坂上田村麻呂を加えて紹介している。終戦後の昭和二十一(1946)年にはフレミングとプリードによって『国外の著名な黒人』が出版された。これは田村麻呂を黒人として詳細に紹介した最初のものである。またこの年にはウッドソンとウェスレイによる『黒人の歴史』やロジャースによる『世界における偉大な黒人』において、田村麻呂が黒人として取り上げられ、注目を浴びた。平成元(1989)年、ハイマンによって出版された『日本の黒人将軍』によって、清水寺の田村麻呂像のイメージは、より具体的に示された。それによると、田村麻呂の像は仲間たちよりも背が高く、髪は巻毛で隙間なく、目の間隔は広く茶色で鼻孔はふくらみ、額は広く、顎は厚く少し突き出していたという。 1980年代後半から90年代にかけて、これらの記述を基にした田村麻呂の伝説が、黒人の情報を発信する者たちによく知られるようになった。実際には、田村麻呂を祀る清水寺田村堂(開山堂)の田村麻呂像は寛永十(1633)年の大火以降に作られたもので、黒人の特徴は一切見られない。ハイマンが述べているのがこの像なのか別の像なのかは不明である。 黒人説は、平成十四(2002)年に黒人の歴史研究家ラシディによって取り上げられるなど、21世紀になっても一部の黒人の研究者に信じられてきた。インターネットの広がりとともに、この『黒人の将軍』の物語はさらに広まるなど命脈を保ち続けている。 日本において一般的ではないこの説が黒人社会で広く受け入れられるようになった理由として次のような背景が考えられる。 最初に田村麻呂黒人説を紹介した一人であるデュボイスは日本と深い関わりがあったことで知られている。彼は日露戦争における大日本帝国軍の強さに感銘を受け、有色人種が白人に勝利したことに勇気づけられていた。彼はのちに疋田保一による黒人プロパガンダ工作に協力し、来日も果たした。彼が共同設立者の一人となった全米黒人地位向上協会は第二次世界大戦中の日系人の強制収容に強く反発し、戦後には収容所から解放されて戻ってきた日系人を歓迎し、仕事を斡旋したり、教会に招いたりしたことで知られている。 大正八(1919)年、大日本帝国が主張した人種的差別撤廃提案を在米の黒人は支持していたが、ウィルソン大統領が全会一致でないという理由でこれを成立させなかった。このことも一因となり、悲惨な人種闘争が勃発するという事態に陥った。このように黒人の間では、日本に対して好意的な感情をもつものは少なくなかった。特に第二次世界大戦の戦中戦後において、田村麻呂の黒人伝説は黒人の間に広がった「日本人は白人に比べて差別的ではない」という考えと切り離せないものであった。 日本を含むアジアに黒人が定住していたという説は何度も唱えられてきた。 アメリカの人類学者ディクソンは、日本人が古オーストラロイドと古ネグロイドの混血であると主張し、日本人にはネグリト(東南アジアからニューギニアにかけて居住する肌の黒い民族)的特徴がみられると述べた。またセネガル出身の歴史家で人類学者のディオプは黄色人種が黒人と白人の混血であると主張した。 黒人のなかには、自分たちの歴史が外部の人間、とくに白人によって隠蔽・改竄されているのではないかという危機感を持つ者もいる。例えば、ジンバブエ遺跡は発見された当初、アフリカ南部に位置していたにもかかわらず欧米の学者は黒人がそれを建造したということを認めず、フェニキア人、アラブ人、またはヨーロッパ人が建造したものであると長年主張し続けた。一般的ではない田村麻呂の黒人説がリアリティーを帯びた背景には、白人中心主義の歴史観によって田村麻呂の正体が意図的に隠されていたのではないかとの猜疑心が存在していたである。中には、現代の日本人が白人と同様の黒人差別思想や、日本が単一民族国家であるという考えから、英雄である田村麻呂が黒人であることを「恥じている」と考える者も少なくないと思っている。また日本にいる黒人の中には、坂上田村麻呂の像がふだん一般に公開されていないことは、ヨーロッパの黒い聖母像が人目のつかないところに隠されていたという歴史を想起し、清水寺が意図的にその黒人的特徴を隠蔽しているのではないかとの疑念を持つ者も少なくない。 いずれにしても今でも日本では、『源義経は平泉で生き残り、蒙古に渡ってジンギスカンになった』などということを信じている人がいることを考えれば、やむを得ないことかも知れない。いずれこの文言は、ウィキペデア『田村麻呂黒人説』からの受け売りであることを告白しておく。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%B8%8A%E7%94%B0%E6%9D%91%E9%BA%BB%E5%91%82%E9%BB%92%E4%BA%BA%E8%AA%ACブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2015.07.26
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小 野 小 町 ハワイから訪ねてきた知人のトーマス カツヌマのお供をして、彼の曾祖父の出身地であるいわき市を案内した帰り道、私は旧道を通って小野町に入りました。その道は、彼の曾祖父が磐城平藩から三春藩へ移る際、通った道と思えたからです。駅前広場で車を停めて一休みした時、彼は駅の方に歩いて行ったのですが、間もなく息を切らせて戻って来ました。「橋本さん、ここは小野小町と関係があるのですか?」 彼は駅のホームに書いてあった標識のOno-niimachi が気になったのです。町村合併以前、小野町は小野新町と呼ばれていました。しかしJRの駅名は、小野新町のまま残されていたのです、私は、小野新町と小野小町を結びつけた彼の博識ぶりに驚かされました。彼は、ハワイ移民日系の3世にあたる人なのです。 小野小町は、『尊卑分脈』によれば、小野篁の息子である出羽郡司、小野良真の娘とされています。しかし、小野良真の名は『尊卑分脈』にしか記載が無く、彼女の生没年が天長2(825)年から 昌泰3(900)年の頃と考えられていることから、小野篁(延暦21・802)年〜仁寿2・863)年の生存年とは合わず、篁の孫とするには年代が合わないことになります。 小野小町は、仁明朝(833~850)から文徳朝(850~858)の頃、後宮に仕えていたようです。また『小町』の名から、姉と共に仁明天皇の更衣(または中臈女房)であったと見る説があります。 古今和歌集に小町姉(こまちあね)という人物がみられますがその存在は疑わしいとされ、また小野小町は本名ではなく、『町』という字があてられていることから、後宮に仕える女性だったのではとも考えられています。というのは、小町姉が実在するとすれば、姉妹揃って宮仕えする際に姉は小野町と名付けられたのに対し、妹は年若い方の『町』という意味で『小野小町』と名付けられたのではないかという説もあるのです。 小野小町は平安時代の歌人の1人で当時六歌仙・三十六歌仙の1人に数えられるほど、歌に関して秀でた人物でした。特に百人一首などで歌われた有名な歌に『花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに』などがあります。また古今集仮名序には「いにしへの衣通姫の流なり、あはれなるやうにて強からず、いはばよき女のなやめるところあるに似たり」と評されており、絶世の美女と謳われて深草の少将をはじめ多くの貴公子達からの求愛にもなびかず、宮仕えを辞した後は全国各地を渡り歩き、衰えた美を嘆きつつ亡くなったと言われます。 陸奥の 玉造江に こぐ舟の 帆にこそいでね 君を恋ふれど (小町) 通説では、女の盛りを過ぎた小野小町が失意のうちに故郷の出羽国に帰国する途中の玉造川(荒雄川)で詠んだ詩とされています。この君とは「伊勢物語」の主人公とされる在原業平(825〜888年)とも言われていますが、在原業平は陸奥国に赴任した史実はなく、小町が思いを寄せたとされる陸奥守安倍清行に対して詠ったと考えられています。安倍清行は奥州安倍氏の同族で、天長2年(825)年に大納言安仁の子として生まれ、貞観13(871)年から周防守・伊予守・播磨守などを歴任し、仁和2年(886)年に陸奥守、寛平6年(894)年に讃岐守を歴任、その翌年76歳で没しています。小野小町の生没は不詳なので、安倍清行との恋がいつ頃のことかは不明です。 生誕地については、福島県田村郡小野町をはじめとして。秋田県湯沢市雄勝町小野、山形県山辺町、山形県三川町、神奈川県厚木市泉町、福井県越前市、滋賀県鳥居本小野、熊本県植木町、宮崎県小林市など全国に点在しており、数多くの異説があります。ともあれ小野町のHPによれば、わが町こそ小野小町生誕の地と主張しています。 終焉の地についても同様で、秋田県湯沢市雄勝町、宮城県大崎市古川、福島県喜多方市高郷町、群馬県富岡市、栃木県岩船町小野寺、茨城県土浦市、茨城県石岡市、千葉県東金市、滋賀県大津市大谷の月心寺、京都府京丹後市大宮町五十河、京都府左京区静市市原町、京都府綴喜郡井手町、和歌山県和歌山市、鳥取県伯耆町小町、山口県下関市豊浦町川棚中小野など全国に点在しています。このため生誕と同様、どの墓が本物であるかは分かっていません。 私には、これらのことをトーマスに説明する英語力はありません。残念ながら、「ここには、小野小町が生まれたという伝説があります」と説明するのが精一杯でした。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2015.07.16
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隠 れ 切 支 丹 大 名 奥州三春の田村氏がその領地を失って会津領に編入されたのは、豊臣秀吉の『奥州仕置』によるものであった。そしてその会津九十二万石を受け継いだのは、蒲生飛騨守氏郷である。氏郷は受洗名をレオと称する切支丹大名であった。ところが寛永四(一六二七)年、氏郷の孫の下野守忠郷が、疱瘡のため二十五歳の若さで亡くなった。そのため幕府は出羽上ノ山四万石に封じられていた弟の中務大輔忠知に蒲生の名跡を継がせると同時に伊豫松山二十四万石に転じさせ、その松山城主であった加藤左馬頭嘉明に会津への国替えを命じた。 『賤ヶ岳七本槍』の一人として名を馳せておりながらすでに老齢となっていた加藤左馬頭嘉明は、松山城下近くの和気村にある四国第五十三番札所・真言宗智山派圓明寺に切支丹灯籠を匿名で寄進していた。しかしその切支丹灯籠のこともあってか、「整備が終わったばかりの松山城を手放したくない」との理由をつけて松山から離れることを拒んだが、それは許されなかった。 やむを得ず灯籠をそのままにして会津に入った嘉明は、三男の加藤民部大輔明利を新しく会津領となった三春三万石に、また娘婿で下野烏山(栃木県)二万石の城主であった松下石見守重綱を同じく会津領となった二本松五万石に任じた。当時すでに三春藩は参勤の礼を執っており、将軍家への公役を負うなどして会津とは別の一国と認められていた。ところが重綱は、下野烏山から二本松に移されて僅かに数ヶ月後、病気のため急死してしまったのである。そのため嘉明は三春に入れたばかりの明利を急遽二本松に移し、重綱の嫡子の松下佐助長綱を二本松から三春に入れ替えたのである。 寛永6(1629)年、キリスト教を禁じた幕府は、切支丹を見つけ出すため踏み絵を開始した。この踏み絵は切支丹独特の信仰への態度、つまり自分の命を棄ててでも自分の信仰を守っていくということを知っている、いわゆる転び切支丹よりの提案であったと考えられている。 長綱は、母方の祖父である嘉明から切支丹の信仰を引き継いだようで、幕府による禁制以後は、隠れ切支丹となっていたようである。(三春町史)そのためもあってか、長綱は、旧領である二本松にあった先代の廟所・州傳寺を三春へ移した。それには父・重綱の墓碑の戒名の上の切支丹の印を隠す意図があったものと思われる。そしてもう一つ、自分の墓所として常陸(いまの茨城県水海道市飯沼)の浄土宗の壽亀山弘経寺を本山として、新たに光岩寺を三春へ勧請した。このことにも、何らかの作為が感じられる。 寛永8年、会津藩主である嘉明は、病気のため江戸の屋敷で亡くなり、その長男であり、また長綱の義兄にあたる加藤式部少輔明成が、会津藩を継いだ。その明成が、会津で四十二人の切支丹を処刑した。また、白河の丹羽加賀守長重も十三人の切支丹の処刑をするなど、周辺の各藩でも切支丹の処刑が実施されていた。 寛永十二年、会津藩主の明成は再び切支丹の大弾圧を実行した。捕らえられた中心人物の横沢丹波と切支丹伴天連など信者の六十余名が拷問を受け、薬師堂河原で一斉に火あぶりの刑に処せられたのである。 寛永十七年、幕府は四千石の旗本、井上筑後守政重に六千石を与えて下総高岡藩(千葉県下総町)を立藩させ、その上で切支丹取締まりの総元締である大目付とした。宗門改めを兼ねることになった政重は、高岡藩下屋敷(文京区茗荷谷)に被疑者を収容し、過酷な取り調べをはじめた。江戸の人々はこの屋敷を切支丹屋敷と呼び、恐れていた。 寛永二十(一六四三)年、会津藩主となっていた明成は、ある問題で将軍家光から厳しく叱責され、会津領四十二万石が収公された。またそれと同時期に二本松五万石の明利が病没したため、それを機に嫡子孫三郎明勝も収公され、改めて三千石が与えられた。この間、長綱は加藤の姻戚でありながら、何の処分も受けることがなかった。 三春町史に、『陸奥国二本松城主松下岩見守重綱が嫡子左助長綱幼稚たれば』と『乱心』を示唆する記述がある。これは長綱十九歳の時であるから、決して幼稚などと言われる年ではなかったはずである。これは何を意味するものであろうか。ところが寛永二十一年三月七日、長綱は収公された明勝を江戸の屋敷に見舞ったのであるが、その帰りがけに、あろうことか加藤屋敷の門番を手討ちにしてしまったのである。 正保元(一六四四)年四月九日、幕府に対して加藤家より、『門番の斬殺』は乱心によるものとして届出られ、その結果、翌十日に長綱に対して領知返上の沙汰が下されたのである。この返上の沙汰にともない、この年の四月十四日、幕府は三春城請取の役を寺社奉行であり高崎藩主である安藤右京進重長に命じた。返上とは御家取潰、すなわち藩の解体を意味していた。乱心との理由で、長綱は四国・高知の山内家に預けられた。 その一方の三春では、州傳寺に葬られた松下家先代の墓地が荒らされ、墓碑に記された法名『州傳院長厳長洋大居士』の文字は、読むに耐えられないほど深く大きく削り取られていた。理由は何であれ、藩主であった人の墓碑が削り取られるということは、尋常なことではない。しかし後世、その墓石を削られたのは、この墓石の粉が精神病の特効薬であると領民に信じられたことによるとされているが、藩の解体により碌を失った者の恨みからではないか、とも噂されている。 ちなみに、いまは耕地整理の工事のため紛失したが、三春町齋藤字里山に隠れ切支丹の墓があったという。また岩手県一関市の山中に、ダビデの星のついた墓が数多くあると知らされた。彼によると、鉄鉱石を掘る人夫が不足したため、切支丹であることには目をつぶって重労働を課した結果だという。そうであるとすると、一関に行く途中のこのあたりで、「ここまで来れば、もういいか」と思った人たちが住んだ、とも考えられる。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2015.07.04
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ある神風特攻隊員の遺書 『僕はもう、お母さんの顔を見られなくなるかもしれない。お母さん、良く顔を見せて下さい。しかし、僕は何もカタミを残したくないんです。十年も二十年も過ぎてからカタミを見てお母さんを泣かせるからです。お母さん、僕が郡山を去る日、自分の家の上空を飛びます。それが、僕の別れの挨拶です。』 この遺書を書いた茂木三郎一飛曹は、その内容からみて郡山出身と思われます。 戦中、郡山の海軍金屋飛行場から特攻隊が出撃したという話を聞いたことがありました。しかし郡山から直接出撃したという記録はありませんから、恐らく郡山で、または原町飛行場(南相馬市原町区)で飛行訓練を終え、特攻基地へ送られる前に書いたものと想像できます。 昭和20年5月4日、茂木一飛曹は神風特攻隊第五神剣隊の一員として、鹿児島県鹿屋(かのや)基地より250キロの爆装零戦として出撃、沖縄周辺の艦船攻撃で戦死をしました。享年わずか、19歳でした。 このような消耗戦法は、当然ながら戦闘機の払底を招きました。そこで使用されたのは、海軍が偵察搭乗員を教育するため九〇式機上作業練習機の後継機として開発した練習機でした。その練習機に積載する爆弾の重量の見返りに外せるものは全部外し軽くする必要がありました。無線機、機銃、あげくには飛び上がると車輪まで落とさせられたそうです。飛び上がれば隣の飛行機とも連絡がとれず、故障などで引き返しても着陸も出来ず、その多くは空中戦の準備も無いまま丸腰で待ち構えている敵の戦闘機群に飛び込んでいったのです。いま残されている米軍側の映像の記録に、機銃を撃ちながら敵の艦船に体当たりしていく特攻機の姿は、まったく見当たらないようです。 このように青少年の命を無視しながらも敗れた対米戦争。70年後の今に至るも「現在の平和日本の礎は、国の為に散華した英霊のお陰によるものである」と主張するエライ人。彼らはこの主張の中に英霊を貶めている、つまり矛盾した論理であることに気付かないのであろうか。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2015.07.01
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