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生類憐みの令 江戸幕府第五代将軍の徳川綱吉は、貞享四(1687)年、殺生を禁止する法令を制定した。『生類憐みの令』です。この法令は、「綱吉に子がないのは、前世における殺生がため」とする僧 隆光の勧めによるものでした。『生類憐みの令』は最初からこのような名前の成文法として存在したものではなく、複数のお触れを総称してこのように呼ばれたものです。犬が対象とされていたかのように思われていますが、実際には犬だけではなく、猫や鳥、魚類 貝類 虫類などの生き物、さらには人間の幼児や老人にまで及んでいたのです。ただ綱吉が戌年生まれであったため、特に犬が保護されたと一般には言われています。その後もこの法令は徐々にエスカレートし、野生動物に襲われた場合でも抵抗すれば罰され、蚊や蝿を殺傷した場合においても適用されたため「苛烈な悪法」「天下の悪法」として人々に認識されていったのです。 『生類憐みの令』が出された理由については、従来、綱吉に跡継ぎがないことを憂い、母桂昌院が寵愛していた隆光僧正の勧めで出したとされています。『生類憐みの令』が出された理由については、長寿祈祷のためという説もありました。 当初は『殺生を慎め』という意味だけの精神論的法令であったのですが、違反者が減らないため、御犬毛付帳(おいぬけつけちょう)をつけて犬を登録制度にし、犬目付職を設けて犬への虐待が取り締まられ、元禄九(1896)年には犬虐待への密告者に賞金が支払われることとなったのです。このため単なる精神論を越えた監視社会と化してしまい、その結果、『悪法』として不満が高まったものと見られています。 元禄十二(一六九九)年閏九月、守山藩の抱屋敷に幕府御徒目付の三宅権七が訪れ、もし首縄が付いていながら主のない犬が通りかかったら縄を解いて養育した上、近辺で飼い主を探して御目付まで申し上げるようにと申し渡し、その旨の承諾書を差し出すように申し入れたのです。 屋敷守の有馬三太夫はさっそく承諾書をしたため、辻番に持たせて権七方に届けさせました。これでなんの落ち度もない筈なのに、翌日クレームがつきました。「公儀へ差し上げる承諾書を貧相な紙に書いた上、辻番のような軽輩に持参させたのが『不調法』だ」、というのです。この叱責に、守山藩は戦慄したのです。「藩主は上屋敷に居て三太夫の「不調法」な振る舞いを知らなかったこと、三太夫には『急度(きっと)叱り申付』けること」を使者をもって改めて権七に伝え、合わせて陳謝の口上を延べさせてようやく落着したと言われます。 ところで三春藩の支藩での事件は、こんな程度ものではありませんでした。八丁堀に屋敷があった秋田淡路守季久は、五千石の旗本でした。ここの家老の只越甚大夫が、五才の息子の竹之丞と屋敷内の庭で遊んでいて、誤ってツバメを吹き矢で射落としてしまったのです。無論、家老とて、『生類憐みの令』を知らなかった筈はありません。しかし高速で飛び回るツバメには当たらない積りが当たってしまったのです。それでもこのツバメ、屋敷内に落ちれば事を穏便に済ますことができたと思われるのですが、なんと落ちた所が、隣に住んでいた綱吉の側用人で武蔵国喜多見藩主 喜多見若狭守重政の屋敷だったのです。若狭守は、綱吉の寵愛を受けて大名に取り立てられていた人物だったのです。ツバメの死骸を見つけて騒ぎ出した家人を見て自分に嫌疑がかかるのを恐れた若狭守は、役所に届け出ました。役人が調べると、矢は反故紙を固く巻き付けて作られており、ほどいてみると、秋田という姓があったというのです。どうにも手の打ちようがなくなった甚大夫は、自首して出たのです。そしてその結果、この家老親子は小塚原で斬罪、傍で見ていた山本兵助は遠島とされてしまったのです。ツバメ一羽の命が、これだけの犠牲者を生んでしまったのです。 この冷酷な『生類憐みの令』違反に対する刑の施行は、江戸の町を震撼させました。全国の一般民衆はもとより、大名たちも、「例え屋敷内であっても、くれぐれも殺傷をしないように」と諭すとともに、親たちに対しても、この旨を厳しく申し渡さざるを得なかったのです。この刑の実行は、「子どもがやったことだから」とか「間違いであったから」と言い訳をしても幕府は決して容赦はしないという『見せしめ』とし、この法令の周知徹底を計ったのです。 ところで綱吉本人は生き物を殺したということはないでしょうが、自分の頭の上に糞を落としたカラスに激怒し、それを捕えるよう命じます。しかし自分が法令を出した手前、カラスを死罪にすることができず、捕らえたカラスを八丈島に遠島に処しています。八丈島に着いたカラスは籠から出されたのですが、そのカラスは江戸へ向けて飛び去ってしまったそうです。本当にマヌケな話ですが、これには、『これは史実です』との注が加えられています。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2015.09.26
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ミイラ 即身仏は東北に多く、明治期まで受け継がれて来ました。新潟県村上市 大悲山観音寺の仏海上人(文政十年・1828〜明治三十六年・1903)が最後の人とされています。木喰行 五穀断ちをして数年、さらに十轂断ちを数年、最終的にはかやの実など木の実を食べ、漆を飲みました。体の内部からの腐食を避ける意味があったといわれます。そして3年後、明治の新法により禁止されることとなったのです。 江戸時代後期の文書によると、『度重なる凶作、不漁、疫病などへの祈祷は、即修行僧を必要とした。即身仏は、世に長く御利益(ごりやく)を伝えることができる』と考えていたのです。つまり即身仏は、身を捨てて広い世の中の人々を救うとともに、反面それらの人々によって支えられてきたのです。仏教に自利利他円満という言葉があります。自利とは自分の利益のことを、利他とは他人の利益のことをいいます。つまり自分にとって善いことは、他人にとっても善いことにつながるという意味です。 日本ミイラ研究グループの松本氏の調査によりますと、エジプトや中南米のミイラと違い、なぜ湿気の多い日本で作られたのか、またそれは何故座しているのか、よく分からないといわれます。それに何故、ミイラになりたかったのか? その起源は空海上人の言われる、「そのままの姿で仏になれる」という考え方によるものだそうです。真言宗を中心に生まれたのですが、時とともに東北以外は少なくなりました。しかしその半数が、山形県だったのです。 福島県内で唯一現存する即身仏が、石川郡浅川町貫秀寺の薬師堂に祀られています。この即身仏となったのは、宥貞法印です。即身仏とは、入定ミイラ、つまり本来は悟りを開くことですが、死を死ではなく永遠の生命の獲得とするという考え方です。入定した者は、肉体も永遠性を得られるとされたのです。 宥貞法印は出雲国松江村の郷士・近松右衞門入道安利の長子に生まれ、幼名を貞作と云い元服して宗右衞門治久と称しました。慶長19(1614)年に讃岐国那珂郡小松荘の松尾寺住職宥昌師の弟子となり、名を宥貞と改めています。 27歳の時、師・宥昌が亡くなったので諸国行脚を志ざし、出羽国を経て北陸道高野山(富山県南砺市)に登り、さらには金剛三昧院(和歌山県・高野山)に於いて真言密教を学んで少僧都となりました。その後江戸深川の永代寺住職となって権大僧都に進級、寛永8(1631)年には赤井岳(いわき市)に登り、さらに観音寺(棚倉町)に脚を留め、大草(浅川町)の堀川観音堂に移って23年間勤めました。 その後も小貫村(浅川町)の真言宗東永山観音寺に移って村人のため加持祈祷を行っていましたが天和3年(1683年)12月8日、弟子の宥林に後を嗣がせて薬師如来大祭を設け、流行病、悪病で苦しむ人々を救済するため村人を集めて薬師如来十二大願の説法を行ったのです。その夜半、衣を整え、浄髪沐浴、「我将に三七、二十一日に入滅するなり」との遺書を残して自ら石棺に入り、92歳で入定し、即身仏となったのです。 尋枝摘葉存宗門 九十二年残夢翻 調入臘月弾白雪 唯知長日示魂源 当時日本はたびたびの不作に襲われ、悪性の伝染病が流行して人々は苦しませていました。宥貞法印は我が身を後世に留めて人々の病気を治し寿命を長くしようと願をこめ、薬師如来たらんとして石棺に入ったとも言われています。 このような即身仏となることを志した行者は、米、麦などの五穀断ちからはじめ、山草、木の実だけを食べて命をつなぎながら体脂肪や水分を極限まで落とします。その後、地下に穴を掘り、石室を築いてそこに入りますが、その直前に漆の樹液を飲むと言われます。汗をかき、嘔吐を繰り返し、最後まで身体に残された水分を絞り出すというわけです。漆の樹液には細菌や蛆などの繁殖を抑える効果もあるそうなので、これも防腐剤として機能していたとみられます。こうした段取りを踏んで土中の室に入ると竹筒で空気穴を設けて埋められた行者は鈴を鳴らし、経を読み上げながら断食をし、息が絶えるのです。この土中から行者の鈴の音が聞こえなくなると入定したとされ、一度掘り起こされたのち再び埋められます。それから三年三カ月後に再び掘り起こされ、即身仏とされるのです。 宥貞法印のミイラは、国内では 類のない珍しいものであるとされています。 また当時の棺桶も発掘されて復元されています。300年前の棺桶の発掘は国内では珍しく、貴重な文化財とされています。 なお福島民友社の福島県民百科によれば、『義観(1692〜1775)矢祭町内川に住んだ僧。棚倉藩主・松平武元(まつだいらたけちか)の帰依があつく、常に城中への出入りを許され、また地元では子弟の教育にあたっていた。入定後ミイラになった』との記載があります。ということは、県内にはもう一体のミイラがあるということなのでしょうか。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2015.09.16
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田村御前 愛姫(めごひめ)は、奥州三春の田村清顕とその正室・於北の一人娘でした。愛姫と伊達政宗との縁談が起きた頃の田村家は近隣を強豪に囲まれた小国であったため、伊達家と結んでその安泰を図ったのです。政宗の父の伊達輝宗はこの縁談を大いに喜び、これを諸臣に問いかけたそうです。ところが、「田村家は周囲を皆敵としている。今、田村家と縁を結べば、伊達の敵を新たに作ることなる」と主張し、また政宗の母の義姫も反対したのです。それには、政宗の嫁は最上、大崎、葛西などの名家からもらいたいと考えたからでしょう。しかし将来、伊達家が奥州を制覇するためには、会津の芦名、常陸の佐竹という強豪と決戦をしなければならず、そのとき三春城は根城として必要であるとの輝宗の一言によって婚約は成立したとされます。そして天正七(1579)年十一月、十三歳の政宗と十一歳の愛姫は米沢城で祝言を挙げたのです。政宗の正室となった愛姫は、田村御前と呼ばれました。 田村清顕の正室・於北は、伊達家と敵対関係にあった相馬顕胤の娘でした。その於北の娘の愛姫が伊達家に嫁いで幾ばくもしない時に、愛姫付きの侍女が相馬に内通したとして、政宗に成敗されたことにより夫婦仲が悪化するという事件がありました。そのために於北は、政宗を恨んでいたと言われます。 天正十四年、清顕は死に臨んで、「政宗に嫁いだ愛姫に男子が生まれたら、田村家の養子に迎えて継がせよ。それまでは於北を助け、田村月斎、田村梅雪、田村清康、橋本顕徳の四人で相談し、政宗の意見を聞いて政務をとるようにせよ」という遺言を残したとされます。ところがこの遺言が仇となり、田村家中を分裂させる契機となったのです。遺言にある「於北を助ける」に重きを置いた田村梅雪、田村清康は於北の実家である相馬を頼ろうとし、「政宗の意見を聞いて」に重きを置いた田村月斎、橋本顕徳らは伊達に従おうとしたのです。そこで両派は、話し合いがつくまで三春を中立とし、伊達も相馬も城中に入れないことを取り決めたのです。ところが於北は、天正十六年三月、兄の相馬盛胤に、自分の病気見舞いに三春城に来るようにと依頼したのです。 5月11日、その依頼に応じた相馬の新館山城・中村助右衛門・杉左衛門ら三人が使者となって三春城に入り、「盛胤の代わりに子の義胤が築山館(二本松市東和町)に在陣しているので、明日対面に来られる」という事情を於北に伝えました。使者の三人は三春の町屋に泊まり、翌朝相馬派の手引きで入城して義胤の来るのを待ちました。しかし三春城でなされていた「城内で結論が出るまでは伊達、相馬共に城内に入れず」の約束に違反になるとして、城内では合戦の仕度に取り掛かりました。しかし義胤は、すでに城の北東300メートルの所まで来ていたのです。しかし供回りはわずかに十五騎、しかも非武装です。そのため城中からの発砲で三名が戦死、二名が負傷し、しかも義胤の乗馬の首にも弾が当たったので俵口吉左衛門の馬に乗換えて船引城まで退いたのです。 ところが田村家の家臣石川弾正が相馬側に転じたので、業を煮やした政宗は相馬派を一掃するため三春城に入り、於北を船引城に追い出して三春仕置きをしたのです。これにより三春は伊達の傘下に入ったことになるのですが、その後、豊臣秀吉の奥州仕置により、三春領は会津に与えられたため、田村家は旧臣ともども散ることになります。そのため旧臣の多くは、仙台と会津領に分散したとされます。 於北は仙台に住むようにとの政宗と愛姫の誘いを断り、出家はしたものの大方様として権力を持ち、愛姫の嫁ぎ先の伊達家と組もうと苦心したのですが政宗毒殺未遂事件が起こって愛姫の乳母が殺されたため不仲になり、実家である甥の相馬義胤を頼りにします。そこで相馬領・小高町堤谷の里に身を隠したと伝えられますが、その後、仙台に移り住みました。その後於北は老齢のため亡くなりますが、墓碑には『密乗院殿王室性金大姉・元和五(一六一九)年一月二十一日没』とあります。墓地は政宗と愛姫の三男・竹松丸や殉死した家臣とともに眠る金剛宝山輪王寺(仙台市青葉区北山)です。なお愛姫は、一時キリシタンになったという説もあるそうです。これは、伊達政宗による支倉常長の慶長遣欧使節団との兼ね合いで伝えられた話かも知れません。 ところでこの於北のものと伝えられる墓が、この他にもあと二ヶ所あります。一ヶ所は摺上川ダム(飯坂町茂庭字黒沢)の傍にあるというのです。地元の観光パンフレット(Fukushimashi iizakamati 茂庭散歩)を頼りに行ってみたところ、その墓碑には、『天室清大禅定尼・寛永八辛未(一六三一年)正月初七日』とありました。この黒沢での言い伝えによると、その昔、出羽との国境(くにざかい)に近いこの山奥に、ある老尼が草庵を結んで隠棲していたが、里人たちには三春の田村家から来たと伝えられ、田村御前と呼んで慕っていたと言われます。仙台の墓碑の戒名・没年とは異なりますが、なぜ茂庭にこのような墓が祀られているのかは、不明です。場所はダムサイトの見える右側、JAの裏のそう遠くない場所に、田村御前の墓があります。 もう一ヶ所も、田村御前の墓として元和五(1619)年に建立されて飯坂町茂庭にあるとされていますが、これは大分山深い所にあるそうでが、まだ私は確認していません。ただしここでの没年は元和五年とあり、輪王寺の墓碑のものと一致します。これらの墓にまつわる説では、於北は最後にこの地に移り住んだと伝えられているのですが、それもさることながら、田村御前の墓が、何故茂庭に二つもあるのかは分かりません。それに田村御前の名は愛姫にも使われていますので、そこにも疑問が残ります。 現在仙台七坂の一つで,元寺小路から花京院通に上る坂は、藩政時代,坂の両側と坂下から元寺小路東部は職人町でした。ここにあった白百合学園跡地は,愛姫の母の於北が建立し弁財天を本尊とした真言宗密乗院の跡地であったと伝えられています。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2015.09.06
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安積派の人々 安積親王は聖武天皇の嬪(ひん・そばめ)の子であったのですが、聖武天皇に男児が一人しかおりませんでしたので、天皇の座に一番近い位置にありました。ところで当時権勢を振るっていた藤原氏に対して反対する勢力、つまり安積親王を次の天皇に擁立しようとする人々がいました。その代表的な人物が、郡山と関わりのあったとされる葛城王でした。 その葛城王が橘諸兄と名を改めたのは、52歳の頃でした。人生の経験を豊かに積んだ老齢と言ってもおかしくない年齢であったにも関わらず王の位を捨て、わざわざ橘の姓を授かるという一見不可思議な行為は、安積親王を天皇にという考え方から来たのかも知れません。しかし安積親王を擁立しようとすると、反藤原の運動とも重なるのですが、この運動は葛城王を中心にして、皇族方の協力も多かったとされます。 そのような人々に、安積親王の実姉である井上内親王や不破内親王がいたのは当然としても、その他にも白壁王(井上内親王の夫)や塩焼王(不破内親王の夫)、市原王(天智天皇の曾孫。天智天皇の次子・川島皇子の曾孫との説もあります)や長屋王(天武天皇の孫)などがあげられます。 これらの皇族以外でも大伴旅人と家持親子がありますが、この二人は歌人として有名でした。しかし大伴氏は物部氏と共に朝廷の軍事を管掌しており、むしろ武人としての家系にあったのです。 この他にも、安積親王と親交のあった藤原真楯は藤原房前(ふささき)の第三子で母は美努王の娘・牟漏女王(むろのおおきみ)で、橘諸兄の甥にあたります。真楯は藤原氏の出身でありながら安積派についたのは、葛城王との関係があったからかも知れません。 またその他にも、遣唐使となった僧・玄ぼうや吉備真備(きびのまきび)がいました。彼らは菅原道真と並んで、史上最高の天才とされた人たちです。しかし藤原の血を引く安倍内親王(女性)を孝謙天皇にしながら、藤原の血を引かない安積親王は藤原氏に暗殺されたらしく、天皇になれなかったのです。もし天皇になっていたら今ごろ安積は…。 なお安積派とは、安積親王擁護派に対する私の造語です。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2015.09.01
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