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金座と銀座 いま使われている銀行という名前の由来は、明治五年(1872)に制定された国立銀行条例によりますが、その論拠となったのは、アメリカの国立銀行法の「Bank」を銀行と翻訳したことにはじまります。翻訳に当たり、高名な学者達が協議を重ね、お金、つまり金銀を扱う店との発想から中国語で「店」を意味する「行」を用い、「金行」あるいは「銀行」という案が有力になりましたが、結局語呂のよい「銀行」の採用が決まったといわれています。また信用金庫がありますが、当時の舟山正吉銀行局長から、「金は銀よりも上」として、政府機関だけしか使っていなかった金庫という名称の使用が許され、「信用金庫」という名称となったといわれます。現在の日本で使われている「金庫」や「銀行」という名称の萌芽となるものに、金座や銀座というものがありました。 金座は徳川家康が、文禄四年(1595)に京都の金工(キンコウ)金属細工師の後藤庄三郎光次に命じ、江戸で小判を鋳造させた時に始まりました。その後の慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、翌年の五月、京都の伏見城下に貨幣鋳造所、いわゆる伏見銀座を設立しました。極印方とされた湯浅作兵衛は、徳川家より大黒常是(だいこくじょうぜ)という姓名を与えられました。これ以降、大黒常是家は鋳造された銀貨に、「宝」の字と大黒天の他に「常是」の略号を刻印し、包装も担当していました。 江戸時代以前、東京の地形は現在の丸の内から日比谷にかけて、日比谷入江と呼ばれる海になっており、その東には隅田川の運んできた砂の堆積によって、江戸前島という砂州の半島が形成され、日本橋台地と呼ばれる微高地になっていました。 徳川家康が江戸に入ったのは慶長八年(1603)十一月でしたが、その三年後の慶長十一年(1606)、第一次天下普請、つまり幕府が全国の諸大名に命令して、日比谷入江と京橋地区を埋め立て、日本橋台地を町人地とする整備が進められました。さらに六年後の慶長十七年(1612)頃に行われた第二次天下普請において、江戸は京間十間とした今で言う銀座通りを中心に格子状に設計され、それぞれの街区の中央には会所地が設けられたのです。 これらの町割りは、家康の側近であった後藤庄三郎を中心として行われました。後藤庄三郎は、京都において、金座の当主、すなわち御金改役(ごきんあらためやく)でしたが、留守居、ついで勘定奉行の支配下に置かれていました。江戸での後藤庄三郎は、本石町の御金改役宅において、金貨の鑑定と検印のみを行い、実際の鋳造は小判師(こばんし)などと呼ばれる職人達が行っていました。小判師達は小判座(こばんざ)と総称され、後藤家が居住していた本石町の御金改役宅の周辺に施設を構えてその支配下に置かれていました。このため、御金改役を世襲した後藤家を小判師職人の元締という意味を込めて特に大判座とも呼んだのです。御金改役は、初代の後藤庄三郎光次に始まり、以後世襲制の役職となりました。しかし伏見銀座は、そのまま伏見に置かれていました。慶長十三年(1608)になって、伏見銀座は、伏見より京都の室町と烏丸の中間に移転したので、京都銀座と呼ばれるようになり、この地を両替町と称するようになりました。 年代がちょっと戻りますが、徳川家康が慶長十一年(1606)に、自己の隠居の地である駿府(現・静岡市)に駿府城築城と同時進行で設立したのが駿府銀座です。場所は、現在の静岡市葵区両替町一丁目になります。貨幣制度の確立していなかった当時、何ヶ所もの貨幣鋳造所があっても、おかしくはなかったのかも知れません。京都銀座は、駿府銀座、そして後には江戸の銀座とともに貨幣鋳造を担いましたが、その内の京都銀座は、寛政十二年(1800)の銀座改革によって、廃止されました。 整備が行われた江戸には駿府銀座役所が移転し、ここで銀貨の鋳造が行われました。場所は江戸通町京橋付近を拝領して両替町と称し、金座は本両替町と称するようになりました。現在の、日本銀座本店のある所です。江戸の銀座へは京都銀座より座人が一年毎に勤番で交代をしていました。場所は現在の東京都中央区銀座二丁目にあたります。この新両替町二丁目東側南角に常是(銀座役人の世襲名)役所、この北隣に銀座役所が設けられたのです。常是役所は現在の第一三共ビル付近、銀座役所は現在のティファニー銀座ビルの位置に相当します。 寛政十二年(1800)六月、江戸の銀座において、上納銀の滞納など不正行為が発覚したことを機に、銀改役の大黒長左衛門常房は家職放免の上、永蟄居を命じられ、その後京都銀座から大黒作右衛門常明が江戸へ招致され、京都および江戸両座の銀改役を兼任することとなりました。この銀座粛正の後、50人を越えていた座人は15人に縮小され、同年十一月に蛎殻町(現在の日本橋人形町)に移転させられました。移転は、翌 享和元年(1801)七月に完了しました。いわゆる蛎殻町銀座です。これ以降、京都および京橋で行われていた貨幣鋳造は蛎殻町銀座に集約され、幕府による統制が強化され、御用達町人による請負事業から事実上幕府の直轄事業となっていったのです。しかし銀座という名称は、通称としてそのまま残りました。幕府は、金銀管理の厳格化と小判師たちの分散化を防止するため、元禄十一年(1698)に邸外にあった鋳造施設を廃止して後藤家邸の敷地内に鋳造施設を設置し、以後江戸での金貨鋳造は、ここでのみ行うことになりました。更に明和二年(1765)以後には、小額の銅銭鋳造の業務を銀座と分担して行うようになりました。 元和元年(1715)年には大判座、つまり大判金の鋳造を司った役所の後藤屋敷が移転しました。これらの場所は現在の銀座一丁目から四丁目にあたります。明和二年(1765)以降は、金座および銀座が鋳銭事業を兼任することになり、それまで主に民間の商人による請負事業であった銭座が金座の統制下に置かれる事となりました。特に天保六年(1635)に、御金改役の後藤庄三郎光亨(みつみち)の建策により発行された天保通寳は、金座主導により鋳造されたものです。この天保通寳の裏側には金座の後藤庄三郎光次の花押が鋳出されています。江戸時代の銀座は、御用達町人地として発展したものの「職人の町」としての側面が強く、江戸研究家の三田村鳶魚(えんぎょ)も、京橋や日本橋よりも街の賑わいは劣っていたと、自著『銀座』内で語っています。 このように銀座は、駿府、京都、大坂、佐渡(後には甲府)にも置かれましたが、後に江戸に一本化されました。ただし京都の姉小路車屋町にあった金座は、その後も廃止されず、禁裏御用の金細工及び上方における金職人統制などを後藤家の支配に従って幕末まで行っていました。また、佐渡と甲府の金座も、文政年間までは鋳造が行われていたようです。 慶応四年(1868)五月九日、新政府軍によって江戸の金座や銀座が占領された時にこれらは廃止されました。ただし実際には、接収された金座は明治政府貨幣司の統制下となり、政府の軍費支払に充てるために翌年二月まで金貨を鋳造していました。しかし約定違反の悪質な金貨を鋳造していた事実が明らかとなり諸外国からの抗議を受けたのです。そこで政府は、太政官札への全面切り替えと新しい造幣施設建設を決め、金・銀座が廃止されたのです。 銀座に転機が訪れたのは、明治維新後の明治二年(1869)と明治五年(1872)に起こった2度の大火でした。特に、明治五年の銀座大火は、和田倉門内の兵部省添屋敷から出火し、銀座一帯が焼失するという大規模なものでした。そこで、東京府知事・由利公正(きみまさ)の主導により、大規模な区画整理と、トーマス・ウォートルス設計によるイギリス特有のスタイルであるジョージアン様式の銀座煉瓦街の建設が行われました。この政策は、火事の多かった東京を不燃都市化すること、また同年秋に開業予定だった横浜〜東京間を結ぶ鉄道の終点である新橋駅と、当時の東日本経済の中心地であった日本橋の間に位置する銀座を文明開化の象徴的な街にしたい、との思惑があったとされます。ロンドンのリージェント・ストリートに倣って、街路樹(当初は松・桜・もみじ)やガス燈、アーケードなどが造られました。煉瓦街はまず明治六年(1873)、銀座通り沿いに完成し、明治十年(1877)に全街区の建設が完了したのです。 ところがその一方で、それまでの住民たちは、自らの居住地へ帰ることができなくなりました。煉瓦街の完成後も煉瓦家屋の払下げ価格が高価なうえに支払い条件が厳しく、多くの住民たちは銀座を後にせざるを得なかったのです。しかしその代わりに、他の地区で成功を収め、煉瓦街に進出してきた商人たちが銀座の表通りで商売を始めたのです。現在、「銀座の老舗」とされている店の多くは、完成後に進出してきた店です。 こうして新しく出発した銀座には2つの特色がありました。まず、実用品の小売を中心とした町であったこと。そして、京橋区という下町にありながら、顧客は主に山の手と言われる番町、市谷、赤坂、麻布などに住む華族や財閥といった上流特権階級や、中産階級、ホワイトカラーの人々だったといわれます。当時の下町の人々の盛り場は、古くから栄えた浅草・上野だったのです。一方、明治維新後に東京へ出てきた人々は、急速な発展を遂げた銀座に集うようになり、こうした地方出身者と中産階級の増加に伴って、銀座も発展をしていったのです。銀座の地名の由来には、以上のような理由があったのです。 大正十二年(1923)九月一日に発生した関東大震災で、銀座は町の大半を焼失し、壊滅的な被害を受けました。東京市は国の援助を受けて、大規模な帝都復興計画を実施し、都市機能の拡充を行いました。銀座でも煉瓦家屋のほとんどを取り壊し、昭和通りの整備、晴海通りや外堀通りの拡幅が行われたものの、街区そのものの整備に手をつけられることはなく、明治五年の区画整理時の町並みが残されてしまいました。しかし銀座は、繁華街の代名詞となり、銀座四丁目交差点周辺は商業地として日本一地価の高い場所としても知られます。銀座は東京を、いや日本を代表する街となったのです。 金座の跡地である東京都中央区日本橋本石町の日本銀行本店の周辺には、「金座通り」という道路が存在します。また静岡市には、現在も小判が鋳造された場所が金座町という町名として残っていますし、同様に、銭座町という町名も存在しているのです。なお東京都品川区の戸越の商店街は、大震災後の排水処理に困っていたため、銀座から撤去されたレンガを貰いうけて排水処理に利用しました。この由来から『戸越銀座』と名乗るようになって、全国初の「○○銀座」となったのです。その後これに習い、全国各地に「○○銀座」と名付けられた商店街が数多く形成されていったのです。 全国商店街振興組合連合会が47都道府県の商店街振興組合を対象に行った調査によると、名称に『銀座』の名が入る商店街の数は345ヶ所あったそうです。ただし平成十六年六月に行った調査結果なので、今は数が前後しているかも知れません。(広報担当者)しかし今は、この銀座の名に負けぬ賑わいを見せている商店街もあれば、時代とともにシャッターを下ろす店が増えつつある商店街もあり、地域によって「○○銀座」の表情も様々です。でも、きっとどの○○銀座商店街にも、知る人ぞ知る絶品グルメや名物が潜んでいるのかも知れません。私は、福島県にも銀座の名を冠した商店街があったと記憶しているのですが、ひょっとしたら、あなたの街にもあったかも知れませんね。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.09.21
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福島県に残る歌舞伎 歌舞伎という名称の由来は、「傾く」(かたむく)の古語にあたる「傾く」(かぶく)を名詞化して「かぶき」になったといわれています。戦国時代の終わり頃から江戸時代の初頭にかけて、京や江戸で流行しました、派手な衣装や一風変った異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることを指した言葉で、特にそうした者たちのことを「かぶき者」とも言われたのです。 そうした「かぶき者」の斬新な動きや派手な装いを取り入れた独特な「かぶき踊り」で、慶長年間(1596〜1615)に京・江戸で一世を風靡したのが出雲の阿国でした。慶長八年(1603)に、京都で始めたと言われます。その後阿国を模倣したさまざまな踊りが世に出たのですが、その多くが「かぶき踊り」という範疇受け取られました。これが今日に連なる伝統芸能「かぶき」の語源となっているのです。 この「かぶき」に「歌い舞う芸妓」という意味から「歌舞妓」と当て字とされたのはその後のことです。しかし寛永六年(1629)「かぶき踊り」が人気を博すと、それをまねた遊女や女性芸人の一座が次々と現れました。これらを「女歌舞妓」といい、京だけではなく江戸やその他の地方でも興行され流行しました。しかし「女歌舞妓」は、風俗を乱すという理由で寛永六年(1629)前後から禁令が出され、次第にその姿を消していきました。この「女歌舞妓」の禁令により、前髪のある成人前の少年が演じる「若衆歌舞妓」に人気が集まります。これは少年の美貌を売物としたもので、エロティックな歌詞による踊りなどを見せていたようです。しかしこれも風俗を乱すという理由で、承応元年(1652)に禁止されました。そしてその直後に現れたのが野郎歌舞伎です。男性だけで演じられる現代の歌舞伎に連なるものとされています。 女性や若衆が演じる歌舞伎が禁止されると、芸妓に連なる「妓」の字に代わって「伎」の字を用いた「歌舞伎」の表記が見られるようになります。このような歌舞伎は、流行の最先端を行く奇抜な衣装や髪型、錦絵のような美しい舞台で人々を熱狂させました。江戸や大阪から地方へ公演に来るプロの旅役者に憧れた地方の人々は、彼らに芝居を習い、やがて自分たちで芝居小屋や神社の祭礼時に演じ、楽しむようになったのです。このように農村で行なわれた歌舞伎には地芝居、都市などで曳山、つまり祭り屋台の上で演じられる曳山祭りなどがあります。 地芝居とは、アマチュアの人々が行う歌舞伎のことです。しかもそれは演じるだけではなく、舞台作りから何から何まで地元の人たちが中心になって作り上げたものです。地芝居における演目の多くは、専門の役者による公演の他、地域住民が祭礼の奉納行事などで行われたもので、歌舞伎の影響が強く見られます。しかし中にはその地域独自の演目を備えるなど、個性的な発展を見せている公演も存在します。そして江戸時代以来の伝統に則った地芝居が現在でも、日本各地で上演されているのです。江戸時代を通じてこの「歌舞妓」と「歌舞伎」は混用されていました。これが現在のように「歌舞伎」に落ち着いたのは明治になってからのことです。歌舞伎は日本固有の演劇であり、ユネスコの無形文化遺産に登録されました。 この歌舞伎が全国的に普及したのには、いわゆる「お陰参り」または「抜け参り」と言われた「お伊勢参り」が強く関係していたと言われます。この「お蔭参り」の特徴は、奉公人などが主人に、また子供が親に無断で参詣したことにあります。これが、「お蔭参り」や「抜け参り」とも呼ばれた理由です。大金を持たなくても、信心の旅ということで、沿道の施しを受けることができた時期でもありました。しかし当時の庶民にとって、伊勢までの旅費は相当な負担でした。そこで生み出されたのが「お伊勢講」という仕組みでした。「講」の所属者は定期的に集まってお金を出し合い、それらを合計して代表者の旅費とするというもので、誰が代表者になるかは「くじ引き」で決められました。当たった者は次回からくじを引く権利を失うため、「講」の所属者全員がいつかは当たるようになっていたようです。くじ引きの結果、選ばれた者は「講」の代表者として伊勢へ旅立ちました。旅の時期は農閑期が利用され、「講」の代表者は道中の安全のために二、三人程度の組で行くのが普通でした。出発にあたっては盛大な見送りの儀式が行われ、道中の安全が祈願されました。そして無事に帰ると、帰還の祝いが行われたのです。ちなみにこの「講」は無尽講や、頼母子講となっていったのですが、昭和二十六年、これらの講は転換して相互銀行となり、その後の平成五年に普通銀行となりました。県内では、大東銀行や福島銀行があります。 明治時代の記録によりますと、福島県内の歌舞伎舞台は47ヶ所、歌舞伎一座は52ヶ所とあり、そのうち南会津地方には歌舞伎舞台が37ヶ所、一座35ヶ所とそれらの約半数以上が集中しており、競い合うようにして歌舞伎が演じられていました。現在、福島県では、柳橋、檜枝岐、金山町山入、田島町、南会津町などに歌舞伎が残されています。 柳橋歌舞伎。 柳橋歌舞伎保存会のパンフレットによりますと、保存会所蔵の長持ちタンスに、文化七年(1810)十月、中村代之丞が、菅布禰大明神に歌舞伎奉納したという記述があるそうです。このことは、文化期より、農民が秋の収穫に感謝するために、菅布禰神社の祭りに村人により芝居が上演され、奉納していたと思われます。江戸の中期より、昭和四十年(1965)までは、地元の住民が中心となって菅布禰神社の拝殿などに造られた舞台や野舞台などで演じられてきました。 そして昭和五十五年(1980)、『柳橋歌舞伎保存会』が発足したのを機に、上演が復活したのです。毎年九月十五日、柳橋地区内の郡山市農村生活中核施設『黒石荘』の中にある舞台で、それは披露されてきました。そして昭和五十八年(1983)三月、郡山市指定重要無形文化財に指定されたのです。この公演復活後、保存会の会員の間には「いつか、野外で上演し、かつての素朴で開放的な野舞台を再現したい」との思いが強くあり、 平成十一年に、保存会発足二十周年を記念して、35年ぶりに黒石荘広場に保存会会員や地元の方の手作りで『野舞台』を造り、公演を実施しました。平成十三年からは、常設の柳橋歌舞伎伝承館において公演をしています。外題(げだい)、つまり歌舞伎の題名は、『義経千本桜(よしつね・せんぼん・ざくら)、伏見稲荷鳥居前の場(ふしみいなり・とりいまえ・のば)』など15の外題があります。 (柳橋歌舞伎保存会HPより) 檜枝岐歌舞伎 檜枝岐歌舞伎は、村人がお伊勢参りの際に見た歌舞伎を、見よう見まねで村に伝えたのが始まりと言われており、江戸時代より伝承されて連綿と続き、春と秋の祭りに奉納歌舞伎として演じられてきました。現在残っている資料の中に270年前に購入された浄瑠璃本が残っていることから、それ以上の歴史を持っていると言われています。上演される舞台は村の鎮守神である檜枝岐神社の境内にあり、国の重要有形民俗文化財に指定されております。観客席は露天で、神社への坂がそのまま自然の観覧席になっており、夕方より上演されます。座の名称は『千葉之家花駒座』、座長は現在10代目の星長一さん、座員は裏方さんも含め30名ほどです。また檜枝岐歌舞伎は平成十一年に、福島県の重要無形民俗文化財に指定されました。檜枝岐の歌舞伎は、元来鎮守の神の祭礼に歌舞伎を奉納するという形で上演され、村民もこれを楽しむというものでした。したがって建物は神社に向かって建てられ、拝殿のような形態をとっています。 明治二十六年の大火で消失しましたが、明治三十年に再建されました。平成十六年三月に国立劇場公演を行なわれた際には、檜枝岐の舞台そっくりの舞台装置を作り、そこで上演されました。 (尾瀬檜枝岐温泉観光協会HPより引用抜粋) 山入歌舞伎 大沼郡金山町の山入(やまいり)歌舞伎は、地元の青年たちによって長く受継がれてきたのですが、昭和二十年代後半には途絶えてしまいました。しかし地区の人が芝居の復活をめざし、平成二年、住民の交流と親睦のために組織された山入近隣会(やまいり・きんりんかい)という組織を母体として約40年ぶりに復活しました。以来、毎年九月五日のお祭りの日に歌舞伎が演じられます。平成十四年には伝統芸能の保存と伝承、近隣地域との交流などを目的とする『金山町芸能伝承館(ふるさとむかし館)』が建設され、本格的な舞台設備が完成しました。 (民俗芸能資料展「ふくしまの農村歌舞伎と衣裳」より) 田島子供歌舞伎 田島地方は、長柄庄(ながえのしょう)、または「会津南山御蔵入領(あいづ・みなみやま・おくらいりりょう)と呼ばれていました。ここで行われる田島祇園祭では、江戸時代末から明治初期にかけて屋台の上で子供歌舞伎が上演されていましたが『学制』の制定などにより禁止されました。そのため、昭和二十五年から約10年ほどは、地元青年会によって演じられていたのですが、その後はしばらく途絶えてしまいました。しかし屋台歌舞伎の伝統と子供歌舞伎という希少性から復活させようという機運が高まり、平成六年に約120年振りに復活したものです。今は4演目『時津風日の出の松』、『絵本太功記十段目』、『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』、『南山(みなみやま)義民の碑』を上演しています。現在は、屋台上での上演にとどまらず、県内外で公演をしています。 (会津田島祇園祭公式HPより引用抜粋) 南会津町大桃の歌舞伎 旧南郷村の角田藤左衛門(つのだとうざえもん)が記した「萬事覚書帳(よろずごとおぼえがきちょう)」によりますと、元禄元年(1658)に、南郷村山口、伊南村青柳で狂言が演じられたとあり、文化・文政年間(1804〜1823)には京都から衣装を買い集め、小道具と共に貸し出すこともあったと記されています。大桃の地芝居は、明治四十年(1907)に上演されたのが最後で、それ以降は呼び寄せ芝居を上演していました。 また会津地区に現存する歌舞伎舞台も、昭和51年に国の重要有形民俗文化財に指定された檜枝岐村と大桃地区の舞台、そして舘岩地区湯ノ花の二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)境内に残る舞台のみとなっています。なお大桃にある駒嶽神社の境内の歌舞伎舞台は、明治28年の再建です。 このように、現在でも歌舞伎が演じられている場所を考えてみると、福島県の場合、この他にもあったのかも知れませんが、全てが幕領内でした。幕領には、このような芸能を行うについて、幕府の規制がゆるやかであったのかも知れません。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.09.11
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京都の伏見屋敷 聚楽第とは、関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として天正十四年(1586)二月に着工され、翌天正十五年の九月に完成したものを指します。ところが天正十九年(1591)、秀吉は、関白の位と京都における政庁・聚楽第を甥の豊臣秀次に譲った場合を想定し、自らの隠居所として伏見の地( 現在の京都市伏見区桃山町周辺)に屋敷を築きました。 一方で、秀吉の朝鮮出兵の後始末として、文禄二年(1593)、明との講和交渉が動きはじめました。秀吉は、明の使節に日本の国威を見せつけるという目的と、同年八月三日に実子の秀頼が産まれたことから、隠居屋敷としていた指月に大規模な改修を加え、指月伏見城を築きました。ところが慶長元年(1596)の大地震でこの城が倒壊すると、早くも翌年には、指月伏見城の北東に位置する木幡山に天守を完成させ、木幡山伏見城を聚楽第に替わる新しい政庁としたのです。 木幡山伏見城の城下には、全国の大名や商工業者が集められました。大名の屋敷は城の周辺に、商工業者はその西側を中心に集めて城下町を形成したのです。多くの産物は京都から舟で伏見へ下り、三十石船に積み替えて終着点、現在の大阪市北部の土佐堀通り辺りへと運ばれることから、京都と大坂を結ぶ港町として賑わい、さらに大坂、奈良を結ぶ物資の集積拠点となりました。しかし徳川幕府の時代になってから、徳川家康は公卿と各大名との接近を抑制するため、洛中を参勤交代のルートから外し、伏見をそのルートにしため、伏見は、水陸交通の要衝として発展していったのです。そのため今も、伏見には大名に関わる町名が多く残されています。 参勤は江戸時代特有のもののように思われていますが、秀吉の時代にも参覲(さんかん)の型がありました。参観とは、例えば、家康は小牧・長久手の戦いで秀吉に一時的に勝利するのですが政治的な圧力を受け、結局、秀吉に『まみえ』に大坂まで行かなければなりませんでした。家康は戦闘で秀吉に負けたわけではなかったので、その後独自の地位を築くのですが、わざわざ自分の領地を出て大坂まで行き、秀吉の前で「御礼」をする、つまり、徳川家が豊臣家に従うという儀礼を尽くすことが必要だったのです。当時は、この「御礼」という行為が非常に重視されていました。例えば、秀吉は慶長二年(1597)に、再び朝鮮に兵を送りましたが、この時の理由を、朝鮮国王に対して、秀吉の元に御礼に来るように要求したのにかかわらず、礼に来なかったからだとしているのです。これは国内でも同じで、後北条氏を攻めるときには、後北条がやはり上洛して来ないというので攻めていく。つまり自分に従うと言う確認を形に表す行為が参覲であったのです。 文禄年間(1590頃)に作られた「豊公伏見城の図」よると、大名によっては城に近い所に上屋敷、郊外に下屋敷を構えるなど200邸以上の屋敷が描かれており、仙台・伊達家も伏見に屋敷があったことが分かります。例えば現在使われている「正宗」という名の住居表示や「伊達街道」と名づけられた道などに、伊達家との縁(えにし)が感じられます。京都での政宗の屋敷は、上屋敷の南西にほど近い場所と深草の地に下屋敷があり、計3箇所であったとされます。深草の下屋敷付近には現在も「深草東伊達町」「深草西伊達町」の地名があり、その名残を留めているのです。なお政宗は1年以上をここで過ごしたとされており、また政宗の正室の愛姫はもっと長い間京都に在り、長女の五郎八(いろは)姫(徳川家康の六男・松平忠輝の正室)をここで出産しています。この時代、少数とは言え、福島県関係でも次の幾つかの藩が伏見に屋敷を構えていました。 伊達正宗の下屋敷跡 伏見区深草東伊達町。西伊達町。京阪藤森駅の東。 伊達正宗の下屋敷跡 伏見区桃山長岡越中北町。西町。南町。京都教育大付 桃山中学校の東。 会津藩屋敷跡四ヶ所のうち、 加藤嘉明の屋敷跡 伏見区桃山町遠山、桃山東小学校の北東。 加藤嘉明の屋敷跡 伏見区桃山羽柴長吉中町、近鉄丹波橋駅の南。 蒲生秀行の屋敷跡 伏見区桃山町泰長老、簡易裁判所付近。 棚倉藩屋敷跡 伏見区桃山町伊賀、京都橘高校付近。 相馬藩屋敷跡 伏見区治部町、西丹波橋の東付近。 三春藩屋敷跡 伏見区深草大亀谷(古名・狼谷)、JR藤森駅の北東。 江戸屋敷は、徳川幕府が参勤交代などを通じて各藩の忠誠を確認するための施設であったと考えられていますが、案外、伏見屋敷が原点であったのかも知れません。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.09.01
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