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三春さんと宇和島の鹿踊り 大分以前から、私は青森県八戸市に「三春屋」というデパートのあることに気がついていました。まぁ三春から移住した人でも経営しているのであろうくらいに思い、そのままになっていたのです。しかし最近になって気になり、HPで調べてみたところ、三春屋は永禄年間(1558〜1570)に「三春屋呉服店」として創業したのが始まりとあり、この会社の代表取締役会長及び代表取締役社長は藤井さんであって三春さんではなかったのです。この創業されたという永禄の次の元亀の3年間を挟んで天正となるのですが、その天正七(1579)年には、伊達政宗が十三歳、田村愛姫が十一歳で結婚したという古い年代になります。 「う〜ん。そんな500年も前の時代のことを三春屋さんに聞いても教えてもらえるだろうか? それに教えてもらえたにしても、それ以上の進展はないし・・・」私はそう勝手に思い込んで、そのことは取り止めにしてしまったのです。ところが近頃、愛媛県松山市に、今は使われなくなった町名に三春町(みはるちょう)があり、宇和島市には福島県の田村地方の地名が多いと書いてあるブログを見つけました。そこで郵便番号簿で松山市や宇和島市の字名を調べてみましたが、それらしきものを見つけ出すことができないでいました。さてそうなると、気になるものです。ところが調べているうちに、考えてもいなかった三春の姓に遭遇したのです。Webによりますと、この姓は全国でおよそ860人、その順位は9351位と出ていたのです。しかもそれが、全国的に散在していることが分かったのです。明細は、次の通りです。 福島県 1 北海道 31 青森県 5 岩手県 19 秋田県 7 宮城県 23 山形県 9 茨城県 2 栃木県 3 埼玉県 2 千葉県 3 東京都 7 神奈川県 9 岐阜県 2 愛知県 1 滋賀県 1 大阪府 4 兵庫県 1 広島県 2 山口県 19 福岡県 3 「へーえ。三春姓の人がこんなにもおり、各地へ広がっているんだ。恐らくこれは、三春出身の方々であろう」。そう思いましたが、どうも不思議なのです。もし三春姓の人たちが三春出身であったとすれば、古い時代から三春に三春さんが住んでいなければならないことになります。私は今までにも、いろいろな調査のために、三春町史には随分と厄介になってきました。ところが古い時代から、三春に三春さんが住んでいたという形跡がないのです。ですから三春さんそのものが、この地から散って行ったとは考え難いと思ったのです。そこで考えたのは、いつかの時点から、三春という姓を新しく使いはじめたのではないかということです。ではそれは、いつのことであったのか? それを想像させる事件が、 豊臣秀吉の奥州仕置にありました。 この奥州仕置により、三春領は田村宗顕の手から離され、会津領に編入されました。領主を失った田村の家臣の一族は離散し、ある者は伊達政宗の重臣・片倉小十郎景綱に、またある者は会津蒲生家に仕えたとされています。その人たちが故郷三春を思い、それぞれの地で三春姓を名乗ったのではあるまいか、と想像してみたのです。ところが調べてみると、三春から多くの人が行ったと思われる会津には,三春さんが一人も住んでいないことが分かったのです。そこで考えたのは、会津藩が戊辰戦争の後、青森 県むつ市に斗南藩として下北半島に移されたとき、かなりの数の三春出身者が斗南に 移住したとされていることです。するとその移住をした時、他の姓であった人たちが、三春の姓を名乗ったのではないかと思われるのです。そうすれば三春姓の人が会津にまったくいないという説明が、可能であるような気がするのです。その後明治の初めに行われた士族団体北海道移住計画により、 斗南藩から北海道の瀬棚、歌棄、山越郡に209人が入植しています。その時に三春の姓を付した人も、一緒に北海道へ渡ったのではないでしょうか。そして現在、三春姓の人が一番多いのは北海道です。ところがここにきて、不思議なことに気がつきました。関西、中国地方、特に山口県に三春さんが多いのです。これは一体、どういうことなのでしょうか。 私はひょんなことから、愛媛県松山市に三春町(ミハルチョウ)があり、そこには田村地方と同じ地名が多いということを知りました。そこで早速、愛媛県西予市に住んでいる息子に、調査を依頼しました。すると松山市役所にあった古い文書の中に、今は使われていない三春町が、確かにあったと知らせてきたのです。そこで確認のためさらに松山市役所に問い合わせたところ、三春町の名が入った古地図のコピーと現在の松山市の地図が送られてきました。それを見たところ、他にも八幡村、北町、弓之町、清水、新町、一本松、大越、中津川、富沢町、常磐町など、三春関連と思われる地名があったのです。しかし見つけたものの、これらのすべてが田村地方から愛媛県に移された地名であると断定する訳にはいきません。それら地名は、もともと、それぞれの地で、つまり全国的に普遍的に使われていた地名であるとも思えるからです。しかし宇和島に三春の地名のある理由が、歴史を見ると見えてくるように思われます。 慶長十九年(1614)、政宗の庶長子である伊達秀宗が徳川秀忠より伊予宇和島に十万石を与えられると、伊達家米沢時代からの家臣五十七人の他に、田村家臣団の多くが四国へ渡りました。はじめ秀宗は仙台領を継ぐ筈でしたが、政宗と三春生まれの正室愛姫との間に忠宗が生まれたこともあって、その立場が微妙になってしまっていたのです。このため政宗は、徳川家に秀宗の身が成り立つように嘆願した結果、政宗と秀宗が大坂冬の陣で徳川方として戦っていたことから、彼らの戦功と忠義に報いるとの理由で宇和島領を与えたといわれています。これらの関係から、宇和島市を中心に、田村地方の地名が残されたと言われる伝説? となったのではないでしょうか。なおこの時の五十七人は政宗直々の選出によるものといわれ、宇和島市では『伊達五十七騎』として有名な故事となり、今では武者行列など、町の大きなイベントの主役になっています。 この時、宇和島藩に入った田村家臣は、御代田氏、田母神氏、石沢氏、常葉氏、中津川氏、大越氏、橋本氏、村田氏、郡司氏、などの名が上げられています。このうち、御代田氏から大越氏までについては、田村地方の地名と一致しています。しかしここには、三春氏が出てきません。証拠はありませんが、三春にゆかりのある人たちが姓を三春に変えたのではないか、ということです。そう考えてみれば、三春姓の人たちが長い世代をかけて、近くの山口県やさらに離れた関西から全国へ移住して広がったのではないかと思えるのです。ここのところは、前述した斗南藩での事情と似ているのかも知れません。 そしてもう一つ、この三春姓が宇和島へ入ったことの傍証となるようなものが残されています。それは、三匹獅子踊りです。この地方には、この秀宗や仙台藩から宇和島藩に行った人たちが、仙台周辺の鹿踊・獅子踊を伝えたとされているのですが、福島県の三匹獅子の、歌詞などの面で類似する部分があるのです。太鼓を前に抱えて打ちながら踊る三匹獅子は宮城県や福島県各地に広く普及しており、その中で雄鹿たちが雌鹿をたずね探して遂に発見して喜ぶ「めじしかくし」という踊りが、宇和島に定着し現在に至ったようです。これらの移動が、三春姓の発祥と関係があるのではないかと思えるのです。 三匹獅子は、東日本に広く分布する一人立ちの三人一組からなる獅子舞です。篠笛とささらが伴奏につき、獅子は腹にくくりつけた太鼓を打ちながら舞いますが、中には、天狗 河童 猿 太夫 神主といった道化役がいるのもあるそうです。獅子舞は、地域の神社の祭礼などで、五穀豊穣 防災 雨乞いなどの祈願や感謝のために行われるものが多く、地元の人たちは「獅子」「ささら獅子舞」あるいは単に「ささら」などと呼んでいたりします。三匹獅子は、正月にみる獅子舞や神楽での獅子舞、いわゆる古代に外来からの影響を祖とする神楽系の獅子舞とは系統を異にするもので、中世から近世にかけて発達したといわれます。 これらの獅子舞は、四国や愛媛県の南予地方一円に古くから伝えられています。ここの鹿踊りは、宇和島の八ツ鹿が源流で、それが各地に拡がったものですが、鬼北町清水の五ツ鹿のように、古い形態が残され、写実的で原始的な力強いものがあるのに対して、宇和島のものには優美な様式化が見られるそうです。宇和島地方の八ツ鹿踊りは、かつて宇和島城下の総鎮守であった宇和津彦神社祭礼の練り物として、初代藩主伊達秀宗の時代にはじめられたもので、既に360年余の伝統を持っているという民俗芸能です。 この踊りは、踊り手の数によって「八ツ鹿」「七ツ鹿」「六ツ鹿」「五ツ鹿」「四ツ鹿」などの種類があり、振付唄の節回しなども、地域により少しずつ違いがあります。小学生たち八人で踊られる八ツ鹿踊りは、日本の音階、ド レ ミ ソ ラ ドで組立てられた美しく哀愁を帯びた旋律で、ゆったりと優雅に踊られるものです。宇和島での八ツ鹿踊りは、慶安二年(1649)頃にはじまり、その後五ツ鹿に縮小されていきました。嘉永二年(1849)、末広伊作筆の宇和津彦神社祭礼絵巻からは、五ツ鹿であったことが見られます。また、当時の宇和島 裡町の五ツ鹿の面の裏には、『安政四丁巳六月 当町森田屋磯右衛門源吉昌作』とあることから、この面が1857年の作であることが分かります。この裡町に伝来する八ツ鹿踊りは、雄鹿七体、雌鹿一体の計八体で演じられ、1974年、宇和島市の無形民俗文化財に指定されました。踊りの内容は、ある屋敷の庭に一頭の雌鹿が隠され、七頭の雄鹿がそれを探し求めるというもので、やがて、すすきの陰に隠れている雌鹿を見つけ、お互いに喜び合うという筋立てになっています。大正十一年(1922)、摂政の宮であった昭和天皇行幸の時に天覧に供してから八ツ鹿踊りが復元され、現在も旧裡町一丁目が保存伝承を受持っています。 戦国という荒々しい時代が終わり、三春という姓や三匹獅子という踊の文化が四国の宇和島に渡っていったということは、平和が戻ってきたという江戸時代を象徴する出来事であったのかも知れません。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.10.15
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支倉六右衛門常長 慶長六年(1601)、仙台藩主伊達政宗は米沢から岩出山(宮城県大崎市)を経て仙台に本拠地を移して城下町を整備し、新田開発に力を入れるなど、仙台藩62万石の基礎を築きました。そして慶長十八年(1613)、政宗の命により、サン・ファン・バウティスタ号が、現在の宮城県石巻市雄勝町水浜で建造されました。サン・ファン・バウティスタ号の建造日数45日、造船工のべ800人、鍛冶のべ700人、大工のべ3000人で、排水量は500トン、全長55メートル、最大幅は11メートルでした。進水後、『サン・ファン・バウティスタ号』は月浦(つきのうら、現・宮城県石巻市月浦)へ回航され、最終的な艤装が施されました。この船は、スペイン風ガレオン船(南蛮船)の様式を取っていました 政宗が遣欧使節を送った目的は、仙台領内でのキリスト教の布教容認と引き換えに、スペイン領であったメキシコとの直接貿易の他に、スペインとの軍事同盟があり、さらにはそれを利用しての倒幕の意思があったとの説もあるのです。しかし政宗は、メキシコとの貿易を望む幕府側とも連絡をとり合っていたことから、幕府も認めた正式な外交使節団であったことになります。『伊達貞山治家(じけ)記録』によれば、この船の建造に関して将軍秀忠付きの船手頭向井忠勝から公儀大工が派遣されており、『政宗君記録引証記』では向井忠勝から日本商品が二、三百個が託され、航海安全を祈る書状及び祈祷札が届けられています。さらに秀忠から政宗に種々の土産が送られ、船頭が添えられていました。 使節に支倉常長が選ばれたのは、文禄の役の際の外洋渡航や異国滞在の経験が尊重され、鉄砲組、足軽組頭としての経験から一行を統率する能力があると評価されたためと言われていますが、失敗したときの影響を考えて上級の家臣ではない常長が選ばれたとの説もあります。 慶長十八年(1613)十月二十八日、支倉常長の一行は、スペイン領メキシコのアカプルコを目指して、月浦から出航しました。乗員180名、侍十二名、日本人商人、水夫、家来あわせて120名、スペイン人、ポルトガル人が40名。ルイス・ソテロとセバスティアン・ビスカイノが便乗しています。航海は北太平洋海流に乗って東に進み、3ヶ月でアカプルコに到着しました。そこから支倉とソテロは、スペインへ向かいました。 支倉の一行は、世界最大の植民地帝国であり、ポルトガル王を兼任していたスペイン国王フェリペ3世にマドリードの王宮で謁見、さらにローマに入り教皇パウロ5世に拝謁しました。しかし、支倉が遣欧後に決定された幕府のキリスト教弾圧などがフェリペ3世などに知られたことから目的を達することが出来ず、支倉一行は窮地に立たされたのです。そこで支倉は、その劣勢を挽回するために、教皇パウロ5世と再び謁見することを計画しました。支倉一行は、すでにローマで、名誉ある「ローマ入市式」を行うなどの大歓迎を受け、支倉常長はローマ市民権を与えられ、さらに貴族に叙されていたのです。支倉らはパウロ5世と謁見し、スペインとの外交交渉の助力を頼みました。教皇パウロ5世の支持を得た支倉一行は再びスペインのマドリードを訪れ、フェリペ3世と外交交渉を行いました。しかし結果的に、この外交交渉は失敗に終わったのです。 一年三ヶ月の停泊後の慶長二十年(1615)四月二十八日、スペイン国王の使節ディエゴ・デ・サンタ・カタリーナ神父や仙台地域の鉱山産業の発展の為に約50人の鉱山業の専門家を乗せてアカプルコを出航しました。船はフィリピンの東方に達し、ここから黒潮に乗って北上、この年の閏六月二十一日、三ヶ月半の航海で浦賀に到着しました。 元和二年六月二十日、サン・ファン・バウティスタ号はルイス・ソテロの要求で、再びアカプルコを目指して浦賀を出航しました。しかしその航海中に、悪天候などで約100名の水夫が亡くなりましたが、元和三年(1617)一月十八日、カリフォルニアのロス・モリネスに到着し、その後、アカプルコへ向けて航行しました。 元和四年(1618)三月三日、支倉はソテロと日本へ帰るためメキシコで再会し、四月二日にアカプルコを出航、この年の八月十日、フィリピンのマニラに戻って来ました。ところがそこで、オランダとの戦いのため防衛を固めていたスペイン軍へ、サン・ファン・バウティスタ号の売却を余儀なくされ、スペイン戦艦としてミンダナオ島方面へ向かったとされるのですが、その後の消息は不明です。 支倉以下の使節団は、約二年間マニラに滞在した後、別の船で、元和六年(1620)8月下旬、長崎へ到着、丸7年振りに仙台へ帰国したのです。しかし支倉が帰還した日本では、大々的なキリシタン弾圧が始まっていました。これらの迫害により、仙台藩が進めていたスペイン、メキシコ、フィリピン、そして欧州諸国との貿易協定は、調印されることがありませんでした。支倉常長は、帰国の2年後に、失意のうちに病死しました。彼の墓は、仙台市の光明寺にあります。ところが常長の息子の家来がキリシタンであったため、それが原因となって支倉家は、一時お家断絶の憂き目を見ています。この事実から、常長はキリスト教の信仰を生涯守り続けた、と言われています。洗礼名は、ドン・フィリッポ・フランシスコでした この支倉常長の祖とみられる陸奥の小野氏の発祥地と考えられているのが、柴田郡小野郷(宮城県)です。この地域は、名取川の上流・碁石川及び支倉川の流域の川崎町からその南の村田町足立にかけての地、と比定されています。この地域には小野城の小野氏、仙台藩の重臣であった本砂金(ほんいさご)城の砂金(いさご)氏、上楯館(宮城県柴田郡川崎町支倉字宿)の支倉氏などの土豪が割拠していたのですが、戦国期後半にはいずれも伊達氏の勢力下に入っています。支倉氏は長谷倉とも書きますが、文治元年(1185)に伊達氏の祖の朝宗に仕え、奥州の藤原泰衡を討つため源頼朝の討伐軍に参陣し、信夫郡に攻め入って藤原氏の忠臣・佐藤基治を討ったとき、常久は先陣を務め、大いに戦功をあげたといわれます。この奥州攻めに軍功があって、支倉氏は宮城県柴田郡支倉村・福島県信夫郡山口村・そして伊達郡梁川村が与えられました。支倉常長は山口常成の子でしたが、伯父の支倉時正(常成の兄)の嗣子となりました。山口は信夫郡山口村(福島市東部の山口)に因む苗字です。いずれ、この輝かしくも哀しい経歴を持つ支倉常長が、福島県と縁があったということで、遠いところの人という感じが急に身近かな人になったという感じです。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.10.01
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