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ハワイの新聞で紹介されました。
2017.12.28
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昔の店 昭和も三十年代、私の店は蓑や笠、それに背中当・縄・ムシロなどの藁工品、さらには竹のザルやカゴなどの竹製品なども扱う、いわゆる荒物雑貨の卸売業でした。これらの商品は我が家のみではなく、当時、荒物雑貨店と言われた多くの卸売業や小売店で売られていたのです。その頃の我が店の場合、県内はもとより、南は埼玉県や千葉県、北は宮城県や岩手県にまでその販路を広げていました。しかしこの品物は我が店の独占ではなく、三春町や郡山市、そして須賀川市の業者が競争相手でした。その競争は、生産農家からの買い入れからはじまります。我が家のケースで話しましょう。 買い入れは、稲刈り後の秋にはじまります。担当する店員が、去年も売ってくれた生産農家に対して「今年もよろしく」と重点的に挨拶をして回ります。それからしばらくして再び生産農家を訪れ、半額程度の前渡金を渡し、より確実なものとする訳なのですが、ここで前渡金の多寡という競争があるのです。払ったからと言っても、うかうかできません。ひっくり返される恐れがあるので、何度か回って必要に応じて前渡金の積み増しをするのです。そして出来上がった時に、最終清算金の競争の結果として、購入に成功することになります。いずれにしても、卸売り先の店からは、毎年同じくらいの量の受注がありましたから、数量の確保は至上命令でした。 品物の引き取りは、トラックなどで生産農家まで行きます。昔は馬車でした、集荷した品物を鉄道で遠くまで送るのですが、蓑や背中当、それに縄・ムシロの荷造りは難しいことはありません。問題は、丸い笠です。その笠にも大きさに三種類があったように思います。一番小さなものは、タマゴと呼んでいたような気がしますが、これを100枚単位で、4人がかりで荷造りをするのです。 まず十文字にした荒縄を床に置き、その上に半分に切ったムシロを敷き、一人が10枚単位で笠を整え、重ねていきます。しかし高くなるにつれ、ぐらぐらしますから、後の二人がそれを押さえながら100枚にします。最後の一人がムシロをかぶせ、てっぺんに藁で作った小さな輪を乗せ、その上に、十文字にした荒縄を交互に回し、四人で笠のヘリを押さえ、「それ〜」の掛け声で均一に力を加えて引いて落ち着かせます。それから全員で「やっしょ、やっしょ」と声を掛けて締め付け、縄をてっぺんの輪の上でチョンマゲのようにして止めます。最後に笠の筒を寝かせ、ムシロを巻いて出来上がり、それを駅に運んで出荷しました。 ところで、養老四年(720)に完成した日本書記に、四道将軍の話が出てきます。そして郡山市歴史資料館の平成29年度企画展、『江戸時代の危機管理』のパンフレットの中に、舞木村の『直昆神社縁起』についての記述がありました。それによりますと、『古代四道将軍が派遣されて、舞木村の直昆神社で越冬の折、滞陣のつれづれに大和笠縫邑より従ってきた兵士たちが、付近の山野に自生していた藺草(いぐさ)で笠編みの方法を住民に教えたと伝えられている』というのです。なおこの大和笠縫邑は、正確な位置は不詳とされながらも、現在の奈良県田原本町新木(にき)、桜井市笠、桜井市三輪などの幾つかが、その候補地とされていますから、これもまた神話と現実の接点かと思われます。 このように蓑や笠作りの伝承が古い歴史を持っているのですが、近世初期までは自給自足程度でした。しかし中期よりは、徐々に商品取引の対象となってきます。元禄十四年(1701)の三城目村、いまの西田町三町目ですが、ここの『反別差出明細帳』によりますと、農閑期に作り、商品として現金獲得の方法となっていたことがわかります。 寛延二年(1749)の資料『筆の草』によりますと、蓑笠集荷の中心地として三城目村が出ており、三春商人による集荷と別にすでに大量買付けのために仙台商人の出張集荷が行われていました。この他にも守山・三春・二本松領内への出張販売もあり、行商が古くからおこなわれていたことがわかります。そして仙台商人などの定宿が次第に中継店となり、地元仲買商人発生へと移っていきました。しかしその一方で、三城目村では地元商人の仲買による買占めと買叩きを共同して防止し、仙台まで持参しても買い叩かれるのを村落が共同で防いでいます。宝暦八年(1758)、守山藩『御用留帳』には、菅笠生産の村々が、商人たちの集荷方法としての前渡金による方法が、大きな問題となってきたと記載されています。これは生産者と商人による直接取引によって発生したもので、金銭貸借や約束不履行による問題が表面化し、その結果として、生産不振や価格低下の原因となってきたのです。 守山藩の場合も、領内の産業として無関心ではあり得ず、各村々の経済安定策として領内産業保護の立場を打ち出し、前金の貸付の制度をはじめました。それは、領内農家の農閑期の作業によって、貨幣獲得ができる産業として育成しようとしたものです。しかし農家を保護し、奨励しようとした制度ではあったのですが、その反面、守山藩としては債権の確保が必要だったのです。その安全性を考慮して前金の貸付は個人ではなく村単位としたのですが、結局は藩財政のために利子を徴収するのが目的だったのです。しかしこれらの貸付金も、天明以降になるに従って、村によっては返済できない状態になったため、年賦償還願いが出されるようになりましたが、藩への返済を急ぐあまり、他領商人や豪農より借金する人が出てきたのです。いわゆる商業資本の流入です。守山藩は、藩の成立当初より須賀川商人の市原・太田などの豪商を御用達とするなど、藩財政そのものは須賀川商業資本の支配下にあったのですが、藩は領内の村々まで須賀川の資本が流入するのを恐れて、享和三年(1803)前金返済として借金することを禁じたのです。藩は貸付金による利子収入を、ひとつの財源としていたのです。 蓑笠の他にも、農家の冬の農閑期の仕事として、この他にも多くの種類の物を作っていました。その原料は、農家の手に入れやすい藁や竹などでした。藁工品としては、養蚕用の『わらだ』というものがありましたが、藺草でも作らせていました。作らせていたということは、卸屋が仕入れた藺草を農家に売り、それで作った『わらだ』を買い戻し域外に販売したからです。恐らく持ちがよかったか、それとも高値で売れたからかと思っています。その他にも、縄・ムシロ・背中当て・藁草履・藁靴などがありました。雪の多く積もり踏み固められた昔の道では、暖かくて結構使用されたのです。その他にも商品としては、移(田村市)や葛尾村方面では麻・麻布などを、またその他の地区でも、生糸・羽二重・竹細工などを作らせたので、三春は守山藩や他領の製品も含めてそれらの集配機構を持つようになり、商業が発達していったのです。 特に蓑や笠は、戦後もしばらくは昔からの流通経路に乗って、南は埼玉県や千葉県、北は宮城県や岩手県のその販路を広げていました。昭和に入ってからですが、ムシロは西田町木村・三町目・太田・李田・山田で、菅笠は西田町の白岩・根木屋・山田・三町目・下白岩、富久山町の舞木・南小泉・北小泉、三春町の芦沢で、笠の輪は阿久津で、背中当・藁草履・馬ワラジは三春町の鷹巣・沼沢・斉藤で、蓑は中田町の牛縊本郷・下枝・高倉で、唐傘は小原田・三春の要田で、和紙は中田町海老根・三町目・二本松市上川崎で、竹ホーキ・ザル・目かごは西田町の木村・鬼生田・日和田町の梅沢・三春町柴原で、作られていました。そしてこれらの販売先は広がり、宮城県・山形県・岩手県・茨城県・千葉県・埼玉県にまで及んでいたのです。 この農家の貴重な現金収入であるこれらの地物産がダメになっていったのは、ビニールなどの工業製品の出現でした。蓑笠はビニールのフードの付いた雨合羽が、縄はビニール紐やロープが、ムシロは生活の変化にともなう需要の減少とビニールシートが大量にしかも安価に市場に出回るに連れ、ダメになっていったのです。その後も、各種のビニールの商品の普及や大型チェーン店の発展に阻害され、いつの間にかそれらの製品が消えていったのです。 また農家が作るもの以外にも、職人たちが作る品物がありました。例えば三春春慶塗によるお膳やお椀、畳の職人によるウスベリなどがありました。私の店では広島県から仕入れた備後表を畳職人に売ったり、安価な畳表にムシロを裏に付けた『ウスベリ』という上敷きを作らせ、これを卸売りしていました。特に売れたのは小名浜方面でした。漁船が出漁するときに、漁師のために新しいウスベリを購入したからです。また私の店では、仕入れた四角の蚕座紙の角を取り、丸い蚕座紙に加工することもしていました、 これら卸商業の発達は、必然的に家族以外の労働力を必要としました。そこでそれらの商家には、旦那を頂点として、番頭や丁稚を置いたのです。これらの商家では、十歳前後で丁稚として住み込ませ、使い走りや雑役に従事させた後に、経験を積ませて番頭としました。番頭になると商業経営のみならず、その家の家政にもあたっており、勤務時の着る物も丁稚とは違って、羽織を着用することが許されました。また住み込みの丁稚は、番頭になると住み込みから解放され、通い、つまり自宅からの通勤が許されるといったケースが多くありました。さらに、結婚も番頭になるまでは許されないことが多かったのですが、番頭を終えると暖簾分けを受け、独立することもできました。このことは、教育とも関係がありました。そもそも寺の僧侶や神社の禰宜による寺子屋という制度がありましたが、小さな子を丁稚や小僧に出すような家では、子どもの教育までには手が回りませんでした。そこで彼らを受け入れた店側では、夕飯後の就寝時までの間に、番頭が教師となって『読み書き算盤』を教えました。つまり各々の商家が、商業実務の教育機関であったということになります。 昭和五十八年(1983)、我が社でもいわゆる丁稚ではなく社員と名を変えてですが、最後の番頭さんを二人受け入れました。彼らは我が社の石油部門に入って、実地研修を受け、それぞれが実家に戻ってガソリンスタンドの経営を始めた人たちでした。そのうちの一人の本田仁一氏は、船引町西向にガソリンスタンドを開業したものの何年か後に廃業、田村郡船引町の町会議員を経て福島県会議員となり、今年、2017年、田村市長に当選しました。その折私は、下手ですが、次の句を贈って祝意を表しました。 現職を 破りて成りし 田村市長 町議県議の 轍(わだち)の先に もう一人の松枝健二氏も双葉郡葛尾村にガソリンスタンドを開業しましたが、東京電力福島原子力発電所の事故による放射能被害を受け、全村避難となりました。しかし彼はボランティアで『ふるさと見回り隊』に参加、空になった村の家からの空巣盗難防止に活躍していましたが、2016年6月12日、葛尾村に出されていた避難指示が帰還困難区域以外の区域について解除されるや直ちに帰還、旧村民の帰村を願ってガソリンスタンドを再開、村再生の一翼を担っています。形こそ違い、この二人が、それぞれの『ふるさと』に尽くしていることに、敬意を表し、また私自身、彼らを誇りに思っています。 今回は蓑笠が、この地方の特産物として地域外に売れる最大量の商品であったことから、これに重きを置いた内容になりました。それにしても、神話の時代から作られていたと言われる品物を、私の代でも扱っていたのかと思うと、不思議な気がします。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt="バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2017.12.15
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一本足の案山子 山田の中の 一本足の案山子 天氣のよいのに 蓑笠着けて 朝から晩まで ただ立ちどほし 歩けないのか 山田の案山子 山田の中の 一本足の案山子 弓矢で威して 力んで居れど 山では烏が かあかと笑ふ 耳が無いのか 山田の案山子 子どもの頃、こんな歌を歌った記憶がありませんか? 今でこそ見ることが少なくなったと思いますが、私たちが子どもの頃、田んぼなどでよく見かけたものです。通常カカシは、竹や藁で造られた人形でした。人間が農作業をおこなっているときには、鳥獣は近づかないので、『人間がいる』ように見せかけることを目的としたのです。また最近では、カラスの死体をつり下げた状態を模した(ビニール製などの)案山子も考案され、実際に使用されています。仲間の死体を見せることで、「そこには罠があり危険である」と思わせるためです。実際にカラスの死体を吊り下げることもありましたが、いずれもカラスの慣れによって効果がなくなる場合が多いそうです。 それにしても、なぜカカシと言うのでしょうか。案山子の語源は、『嗅がし(かがし)』ではないかとも言われます。案山子は害鳥や害獣を避けるため、古くは髪の毛や魚の頭などを焼いて串にさして田畑に立てたそうですが、後には獣肉を焼き焦がして串に通し、その悪臭で、鳥獣を追い払っていたと言われます。これは嗅覚による方法で、これが本来の案山子の形であったと考えられています。この『嗅がし』と呼ばれていたものが清音化されて、『案山子』になったとされています。ただし、竹や藁で作った人形が使われるようになってからも、しばらくは『かがし』が用いられていたようです。『案山子』という清音形は、関東地方からはじまり、江戸時代後半に関西地方でも使われるようになりました。漢字の案山子は、元々中国の僧侶が用いた言葉で、『案山』は山の中でも平らな所を意味し、『子』は人や人形のことです。 案山子は、田の神の依代(山の神の権現とも言われる)であり、「春、山から山の神が田に降りてきて田の神となり、田を守り、稲作の生育を守り、秋、稲の収穫が終わるとまた山に帰り山の神になる」という伝承がほぼ日本全域に分布しています。また案山子には、悪霊を祓う効用が期待されていました。というのも、鳥獣害には悪い霊が関係していると考えられていたためです。ちなみに、見かけだけは立派なのですが、ただ突っ立っているだけで何もしない無能な人物のことを、案山子と評することもあります。 古事記にこんな話があります。大国主命の元に海の向こうから小さな神がやって来たので名を尋ねたのですが答えず、誰もこの神の名を知りませんでした。すると傍にいた、ヒキガエルが「久延毘古(くえひこ)なら、きっと知っているでしょう」と言うので、久延毘古を呼んで尋ねました。久延毘古に尋ねると「そのお方は高御産巣日神(タカミムスビノカミ)の御子の少彦名命(スクナヒコナノミコト)です」と答えました。そこでその真偽を高御産巣日神に確かめたところ、確かに自分の子であることを認め、大国主に共に国造りをするよう命じました。こうして大国主の国造りは始まるのですが、ここから国造りと国造りの大元となる稲作に関係して、案山子が現れてきたのかも知れません。 さらに古事記では、「久延毘古とは山田の『そほど』のことである」と説明しています。『そほど』とは案山子の古い名のことです。そこから久延毘古は、『そほど』つまり案山子を神格化したもの、すなわち田の神、農業の神、土地の神とされたのでしょう。案山子は一日中田の中に立って世の中を見ていることから、天下のことは何でも知っているとされるようになりました。このことは、田畑の経営に生活を託した古代人が、田畑の守り神にとしての案山子に、信頼を寄せていたのかも知れません。案山子が天下のことをよく知っているということは、田畑の経営に生活を託した古代人の、田畑の守り神に対して信頼を寄せていたということかも知れません。そのため久延毘古は田の神としてはもとより、学業・知恵の神として信仰されるようになりました。足のない姿は、今日の案山子とすでに同じ姿であったと考えられています。 ちなみに江戸時代から続くとされる、お人形様という風習が田村市船引町屋形、朴橋、堀越の集落に残されています。身長約四メートル、刀を差し、なぎなたを持って両手を広げ、悪者の侵入を防ぐ魔除けの神とされています。現在その風習が廃れはしましたが、この他にも船引町芦沢字光大寺、大越町牧野、三春町芹ヶ沢字横台道にもありました。この『お人形様』は、久延毘古を祀ったとされ、案山子を神格化したものとされていますから、案山子の原型であったのかも知れません。これらは、『磐城街道の五人形』または『七里ヶ沢の五人形』と呼ばれていました。しかしこれらを数えてみると、6ヶ所あったことになります。しかし何故五人形と言ったのかは分かりません。恐らく案山子は、日本に稲作が伝わったと同じ時期に渡来したものと思われます。ついに案山子は、神話の世界にまでさかのぼる古い神でした。 ところで案山子は日本だけにあるものではなく、世界中にその存在が認められています。西洋諸国では畑が多いのですが、それでも案山子はあります。呼び名もそれぞれの国の言葉で呼ばれていることは当然ですが、その意味するところは、カラスなどを追い払うことで、英語では scarecrow(スケアクロウ)と呼びます。これを言いかえれば、『カラスおどし』という意味になります。人の形を作って、作物を食べに来る害鳥を驚かす目的で作られるのですから、まさに日本の案山子と同じ使用目的です。 ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.12.01
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