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最近は外国の指揮者を音楽監督や常任指揮者に招くケースが増えている。その中でも最もめざましい活躍をしているように見えるのがシルヴァン・カンブルラン。読響の常任になってから話題作、大作の公演を連発している。現代曲を得意にしている人だけに、またフランス人でもあることだし、ラヴェルの「マ・メール・ロワ」と「ダフニスとクロエ」は聞き逃せない。こうしたプログラムは地方巡業では絶対にありえないだけに注目した。サントリーホールで日本フィルをきいたばかりの耳には、格段と美しい響きにきこえる。東京芸術劇場がいいのか、読響のサウンドがきれいなのか、たぶん両方だろうが、オーケストラとしての洗練の度合いがまったくちがう。しかし音楽的感動はまた別の話だ。読響のサウンドはきれいで、ミスも少なく、大音響の部分でも濁らないのだが、どこか冷血動物のように感じる。人間味のない音というのか、無機的ではないのだが、ふくらみとか温かみがない。管楽器のソロのパッセージもファゴットなど一部をのぞいて個々の奏者のパーソナリティを感じることがない。結局、いちばん印象に残ったのは「ダフニス~」で合唱を担当した新国立劇場合唱団。合唱指揮の三澤洋史という人の名は初めて見たが、きわめて優れた指揮者のように思う。カンブルランは流れのよい音楽を作っていた。随所できかせた光彩陸離とした色彩感はフランス人ならではだろうと思う。しかしもう少し個々の音楽のキャラクターを誇張した方が(多少流れは犠牲になっても)長大なこの曲を面白く聴けるし、バレエ音楽とは本来そういうものではないだろうか。N響や読響が常任指揮者や名指揮者と繰り広げる定期演奏会の演奏は、日本のオーケストラ芸術の最高峰を表すものだろう。音が大きいだけで汚かった時代は過去のものになったようだ。録音できけば、世界の一流とさほど差は感じないはずだ。しかし、東京のオーケストラの多くには「自分の番が来たのでつつがなく演奏しました」といった守りの姿勢を感じる。指揮者のいうことをおとなしくきくだけでスタープレーヤーとして輝こうという気迫や意気を感じることがない。楽譜通りミスなく演奏して音楽になるかというと決してそんなことはないのに、年末の第九に端的な消化試合のように感じられてしまう部分がある。人間の熱が感じられない演奏や音楽は決して人を動かすことはない。とうぶん東京のオーケストラをきかなくてもいいかなとかすかに思いながら横須賀に向かった。10月20日、東京芸術劇場。
October 20, 2012
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首席指揮者アレクサンドル・ラザレフが取り組んだ「プロコフィエフ交響曲全曲演奏プロジェクト」は興味深い企画だった。プロコフィエフの交響曲といえば1番と5番の演奏頻度が圧倒的に高く、ほかの5曲はまず聴く機会がないからだ。特に4番や6番は5番と演奏時間も同じくらいの大曲であり編成も大きい。全部ききたかったがそうもいかない。第6回の「最終章」で第6番だけをきくことができた。前半はチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲でソリストは川久保賜紀。このヴァイオリニストは、もちろんうまいが音楽が硬く、もう一度ききたい演奏家ではない。こういう曲には「狂気」をききたい。端正な演奏も否定はしない。しかし彼女の演奏は官能性にも歌謡性にも不足して音楽にのびがない。オーケストラも凡ミスが散見されて興をそいだ。しかしプロコフィエフは圧巻。エキストラを大量動員(たぶん)したためか音が粗く、響きも濁ったりした部分があったが、ラザレフの豪快な音楽作りとそれに応える日フィルの奮闘はすさまじかった。ロマンティックな部分の高揚などにはこの曲の真価をこ教えられた思い。このシリーズの最高の出来だったのではと思う。このラザレフのような指揮者こそ日本のオーケストラが最も必要としている。オーケストラ・ビルダーとしてはどうかとは思うが、型にはまらず豪壮で雄大なスケールの音楽を作る。一方で細部にもきちんと血が通っている。やりすぎるとエンターテイメントになってしまう危険はあるが、この曲のこの部分でこういうことをつたえたいという気持ちはよく伝わるし、聴衆はそれを聴きたいのだ。ミスのない優等生なだけの演奏には音楽が不在であるケースが多いが、この演奏には音楽が満ちていた。日本フィルは経営難に陥っているということだが、ラザレフのような指揮者と独自の世界を作っていくなら10年後には日本を代表するオーケストラになっているかもしれない。10月20日、サントリーホール(マチネ)。
October 20, 2012
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日本では、目が見えない、あるいは聴力を失った難民出身のピアニストとか知恵遅れの作曲家が人気を集める。不幸な境遇に同情するあまり音楽まですばらしいと思いこむ優しい人が多い国なのだ。そうでなければブランド志向。個人的な判断を信用せず誰かが保証してくるものだけを選ぶ謙虚な人が多い国でもある。たしかに音楽会は星の数ほど開かれているし、音楽教師の発表会的なものも多い。うかつに出かけるとスカをつかむことは稀ではない。それでは、どうやっていい音楽、演奏家と出会えばいいのだろうか。諦めるしかないのか。最もいい方法は、それなりの人が評価する音楽や演奏家にアクセスすることである。たとえば、指揮者としての岩城宏之はあまり評価できなかったが、彼が「一流」と評価する指揮者は間違いがない。カラヤン、バーンスタイン、ミュンシュ、バルビローリ、シューリヒト。小澤征爾の音楽にはいろいろと欠点もあるが、彼が評価するものに間違いは少ない。カラヤン、バーンスタイン、ミュンシュ、シューリヒト、バックハウスやフィッシャー=ディスカウ、高橋悠治やピーター・ゼルキンから川本嘉子まで豊富なリストができるだろう。バッハの無伴奏チェロ組曲に凝っていろいろ聴き漁っていたころ、小耳にはさんだのが、武満徹がアルディッティ弦楽四重奏団のチェリストの録音を高く評価しているという話だった。調べてみるとスリランカ出身のロハン・デ・サラムという人であることがわかった。それ以来、いつかきいてみたいと思っていたが、今回やっとその希望がかなった。サラムは1939年生まれだから73歳。演奏家としてのピークは過ぎていて、シューマンの「5つの民謡風の小品」では不安定なところもあった。しかし、細川俊夫の「リート」、エリオット・カーターの「フィグメント」、クセナキスの「コトス」といった現代曲で見せた集中力は驚異的。特に難曲と思われるクセナキス作品の演奏は息を飲むほど鮮烈。グリッサンドと低音の雑音のような響きが交錯する、乾いた官能とでもいうべき不思議な魅力に満ちた音たちが目に見えるかのような鮮やかさでホールの空間に放たれていった。フォーレのエレジーとR・シュトラウスの「ソナタ」では、児玉桃がやや勝ち気ながら抜群のリズム感で胃もたれしない清潔な音楽でサラムを支えていた。NHKの収録が入っていたが、有料入場者は半分もいないと思われる。それでも熱心で集中した聴衆が多かったのはさすが東京というところだが、いくらコンサートが多いにしても、サラムのコンサートに空席があるというのは末期症状かもしれない。(10月19日、津田ホール)
October 19, 2012
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