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(車を売る姿勢がない営業担当者) 乗っている車が古くなり、買い換えようと思って、トヨタの販売店を3店くらい訪れたが、かつて「営業のトヨタ」と言われ、車を買う積りがない人にも買わせてしまうような、熱心な対応だったトヨタの系列販売店の従業員の対応があまりに、かつてと落差があり、営業らしからぬ対応に唖然とした。 筆者はいくつかのメーカーの車を買って乗った経験があるが、ここ20年くらいはトヨタの小型のセダンの車に乗っている。それは車の作りもしっかりしている上、販売店の営業担当者の対応も良く、嫌な思いをすることはほとんどなかったからだ。 ところが、筆者が使っていたセダンをトヨタが生産を止めてしまい、その結果、ずっと対応してもらっていた系列店には、セダンタイプの車がなくなってしまった。車に支障はないので、少し長く乗ってきていたが、タカタのエアバック騒動で、車が古くなるとエアバックなどにも支障が出やすくなるという話があったので、買い換えることにした。 買い換えるのは良いが、ずっと付き合ってきた店には、当方が望む車はない。仕方なく、トヨタの別の系列店を3店程訪ねたのだが、いずれの店も担当者に車を売ろうという営業マンらしい姿勢がほとんど見られなかったのだ。(カローラがないカローラ店) まず、トヨタカローラの店に行った。店名にカローラがついているくらいだから、当然、カローラを展示してあると思ったら、置いていない。常時、置いているのは、ボックス型の車やハッチバックタイプの車だけである。 「車を見ることはできないのか」と聞くと、しばらくお待ちくださいと言って、店内の椅子に座るように言ったまま、30分くらい戻って来ない。やっと帰って来たかと思ったら、「他店にある車を取り寄せますので、1時間くらい時間をください」と言う。 他の店から取り寄せるなら、時間がかかるのは当然で、それなら、それで、最初からそういう話をして、別の日に設定し直すということを言ってくれれば、無為に30分も待つこともなかった。何より、30分も待たせた上、更に1時間待てということを平気で言う感覚が理解できず、結構だと言って店を出たが、すみませんの一言もない。 帰る途中、トヨタの別の系列のトヨタ店があったので、そこに寄った。 この系列店でも小型のセダンを扱っているので、車を見たいと言うと、「実車は置いていません」というだけで、営業らしい会話はゼロである。 パンフレットが欲しいというと、パンフレットはくれたが、何の話をする様子もなく、まして、別の日に車を見るように設定するというような話はまったくなく、パンフレットを渡すと去って行った。(小型セダンを売る積りがない自動車会社) 車を運転してもう40年以上になる。ここ10年くらいは別として、日本で、普通のサラリーマンが車を買うというと、小型のセダンが中心で、トヨタのカローラ、スプリンター、日産のブルーバード、ホンダのシビックなどは町中で頻繁に見ることができた。 ところが、ここ10年くらい、自動車メーカーはかつて、一番買われていた1500から2000CCの小型のセダンに力を入れることを止めてしまい、1300CCの小さい車の他は、ボックスカーやハッチバックスタイルの車を中心に置き、セダンタイプの車は2500や3000CC以上の中型、大型クラスだけにしてしまった。 そして、トヨタは1500や1600,1800CCのカローラなどの車は作ってはいるが、熱心に売るつもりは全くなく、筆者が体験したように販売店に車すら置いていない対応なのである。 かつて、経済記者をしていて自動車業界を担当したこともあるので、自動車メーカーの人の本音の話を聞いたことがある。セダンタイプの車はエンジンルームと中央の座席部分、そして、トランクルームの3つの部分を別々に作って溶接をするので、その分、手間とコストがかかる。 これに対して、ハッチバックやボックス型の車は溶接が要らないので、手間がかからず、費用も安くて済む。だから、セダンは価格が高い大型や中型には残したが、小型は一応リストにはあるものの、利益が少ないので、本音では売る積りはほとんどなく、だから、店にも実車を置いていないのである。(質問しないで、15万円のオプションを入れる営業マン) そうは言っても、車を買い替えないといけない。予約しないと実車を見ることができないことがわかったので、別のカローラの店に電話をして、予約をして車を見ることにした。 車を見て、試乗した後、見積もりを出してもらった。担当者はスペアタイヤはいるか、リアワイパーはいるかなど質問をしてから、見積もりを出して来たが、それを見て驚いた。合計金額が当方が思っていたものよりも大分高いのだ。驚いてチェックすると、出して来た見積もりには、これに入ると、2年間の間の点検費用がかからないという10万円のパックと、車の塗装が長持ちする4万8千円のコーティングが黙って含まれていた。 15万円が乗れば、当方が考えていた価格よりも高くなるのは当然である。 見積もりを出してもらう話をした時、担当の営業マンは、5千円、1万円というような価格のスペアタイヤなどのオプションを詳しく尋ねていた。それでいて、この15万円相当のパックとコーティングは一言の話もなく、盛り込まれていた。 わずか3店の対応を体験しただけだが、世界一と言われるようになって、トヨタは何かが変わってしまったような気がする。何年か前に、東京新聞が「今、トヨタがおかしい」というような趣旨の企画のコラムを数十回にわたって連載した。とても良い記事だったが、それを読むと、トヨタが本当におかしいのが良く分かった。 そして、新聞で読んだだけだったことが、現実の体験となった。(消費不況はメーカーの姿勢が原因) 今回の経験だけでなく、中古車が展示してある店や、新車を扱う店などに立ち寄る機会に、店の人と話をすることがあるが、筆者がセダンタイプの小型車が欲しいのに、メーカーがほとんど作っていないというと、どの店でも、担当者は「お客さんから、小型セダンが欲しいという話はよく聞きますが、メーカーが作っていないので、どうしようもないのです」と異口同音に言う。 今の自動車メーカーの姿勢を見ていると、消費者のニーズに合わせて車を作り売るのではなく、自分たちの都合で車を作り売っているような感じる。 これはマンションの扉から入らない30万円もするような大型冷蔵庫を作って、売ろうとする電機メーカーの姿勢と同じで、日本は消費不況というが、顧客が望む物を製造販売しようとしなければ、物が売れないのは当然である。
2014.12.30
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(数列や約束記号を小学校で必須にする愚) 前回、今の学校教育での数学教育がいかに子供たちの負担、苦痛になっているかを指摘したが、現状を知る機会のない人のために、今の小学校の教育内容を少し説明しよう。 例えば、小学校で、今では数列を教えている。以前は高校で教えていた等差数列、等比数列などの考えを小学校で教えているのだ。また、「約束記号」という分野で、「3◎4=13、4◎5=17、6◎5=23の時、8◎6はいくつですか。また、(□◎4)◎3=96になるような、□を求めなさい」というような問題を理解させようとしている。 3づつ増えていくような等差数列や、4づつかけていくような等比数列は、数の不思議を感じさせるもので、数学が好きな生徒にとっては、面白い世界である。でも、それはほとんどの生徒にとって一生関係なく、興味もない世界の話で、それを小学校で全生徒に必修にするというのは違うのではないかと思う。 また、約束記号の話も、「3◎4=13」は誰かが勝手に、「3◎4の意味は3×3+4」と自分勝手な約束を作ったことを見つけ出す問題だが、こうした頭で考える概念のような問題、内容を小学生全員に教えて理解させようとしている文部科学省の担当者の頭の程度を疑いたい。(土台をしっかり勉強するのが一番の近道) 数学に限らず、国語でも社会でも何でもそうだが、物事の基礎の基礎、人が大人になって、普通の社会生活をしていく上での、必要最低限の知識や常識、倫理を徹底して身に着けさせるのが小学校の役割だと思うのだが、その基礎の土台のコンクリートをしっかり固めないといけない時期に、砂の上に5階建ての家を建てるような内容を教えて何の意味があるのだろうかと思う。 東京の公立の中学校で多くの生徒と接していると、計算の基礎の基礎、四則計算がほとんどの生徒があやふやである。少数、分数の概念をしっかり理解し、30問出して間違えなく計算でき、正解を書く生徒は、多分半分くらいしかいないだろう。 こうしたことになるのは、ほとんどの生徒にとって、一生無縁の数列や上記の「約束記号」などを教えるために時間がとられているからである。現状では、指導要領が改定される度に、こうした今までになかった概念、内容が教育内容に加わっている。 例えば、「図形の移動」だ。台形の周りを円や長方形を回転させたら、できる面積はいくらかというような内容が少し前の指導要領で入った。 数学が好きな生徒、将来、そうした知識が必要な分野の仕事をする人間にとっては、面白く興味があるかもしれない。しかし、ほとんどの生徒にとって、一生関係なく、そんな知識を持っていなくても、何の不都合もない。そんなことに時間を取られるなら、もっと、分数や少数の説明を丁寧にしてほしいと思う生徒が過半なのに、改定の度に、こうした新しい頭で考える、ほとんどの生徒にとって、どうでもよいような概念が入って来るのだ。(理解度に合わせた指導、教育を) 筆者は指導要領で、小学校1年ではこれだけの内容を理解させるというように、学年毎に理解しないといけない内容を定めている今の指導要領のあり方は、基本的に間違いだと思う。 数学は特にそうだが、個人によって理解に時間がかかる子と、さっと理解できる子の差が激しい。理解に時間がかかる子供には時間をかけ、すぐに理解できる子は先に進ませる。当然、同じ学年でも、勉強する内容が変わってくる。それが数学教育のあるべき姿だと思う。 国語や社会などは、前に習ったことがわからなくても、別の新しいことを覚えることはできる。しかし、数学、算数は習ったことの基礎の上に新しいことが乗ってくるので、前の基礎がわからないと、次に習うことはほとんど理解不能なのである。この数学の特徴を理解しないといけない。 それが、小学校4年ではここまで進まないといけないという義務があるので、教師は生徒の理解が進まなくても、先に進まないといけなくなってしまう。そうした教育の仕方ではなく、3年の内容を2年間かけて理解する生徒がいても問題ないというようにするのである。(時間をかけても理解できると、それからは理解が早い) では、3年の内容を2年かけた子がでは、ずっと他の生徒よりも遅れたままかというと、そうではない。筆者の体験だが、中学生に小学校の算数の基礎をやり直して説明し理解させると、半年くらいで中学の数学の問題も、理解が早くなり、短期間でキャッチアップしてくる。 今、個人的に頼まれて教えている高校生に、小学、中学の数学の内容を説明し直したら、数か月で中学の数学の内容の8割くらいが理解できるようになった。小学校高学年、中学、高校で、数学の成績がずっと「1」の生徒でそうなのだ。 数か月で、これくらいになったこの高校生は「グラフや文章題など、以前は見るのも嫌だったけど、やってみると、以外と簡単なのですね」と笑いながら言っている。 数学のできない子が躓くところは共通している。そして、それをどう説明すれば、彼らが理解ができるようになるかも、ほとんど共通の説明の仕方で良い。丁寧に意味を説明し、図を書き、具象から抽象をわかりやすく導くことだ。複雑な数字で頭が混乱したら、簡単な小さな数字に置き換えて考え直させると、理解できる。 問題なのは、こうした説明を学校で教師がしていないということである。でも、それは教師の責任ではない。高校レベルの知識を持つ生徒と、小学校の内容も理解できていない生徒を同じ時間に同じクラスで指導させようということ自体が間違いなのだ。(解決方法は3つのコースに分けての教育) 数学の7.5.3、落ちこぼれをほとんどなくす方法は簡単である。 まず、文部科学省の数学担当者や数学者だけでなく、他の教科の担当者や第三者を入れて、小学校、中学校、高校で基礎として、絶対理解しないといけない内容の「基礎コース」、できたら、これくらいは理解しておいてほしいという「発展コース」、そして、将来、理系に進む人のための「研究コース」の3つに分けた内容を作りあげ、学年ではなく、理解度でそのコースを選び、学ぶことである。 そして、どの段階の学校でも、基礎コースは必修で、これを理解できないと卒業できないようにする。 多分、半分近くの生徒がこれで終わるが、それで良いのである。筆者の推測では、基礎コースで終わる人が半分、発展コースまで進む人が3割、研究コースまで行く人が2割くらいだろう。これで、日本の理系教育に何の支障もないし、大学で文学部や法学部に進む人が、中学、高校で数学に無意味な時間を費やされることから解消されるのだ。 中には、初めは数学が嫌いや苦手だったが、基礎コースを徹底してやる内に、数学が好きになり、発展コースや研究コースに進んで来る生徒も出て来ると思う。基礎がわかれば、その上の内容も面白くなってくることは珍しくはない。(ひたすら無意味な計算を求める高校の数学教育) スペースの関係で、中学、高校での数学教育の内容の理不尽さを詳しく説明しないが、文系に進む人間に、高校で1問を解くのに、ノート1ページ分くらいのスペースが必要な膨大な計算をする、数列や三角関数などの問題を必修にすること自体、大きな間違いであり、時間の無駄以外の何物でもない。 小学校や中学校の算数、数学にはまだ、解く楽しさ、考える喜びがあったが、今の高校の数学の内容は、ひたすら計算を求め、方式を暗記し、膨大な時間を使って例題を解くということをしないと、入試で良い点が取れない制度になっている。 だから、筆者の知人、友人のお子さんで、小中学校時代は数学が好きで、得意だった人が、高校でこうした数学の授業に反発し、嫌いになったという人間が決して少なくない。 暗記力に優れ、自分をバカにできる人間でないと、高得点が取れない数学の指導内容など百害あって一利なしだと言いたい。数学の楽しさ、面白さを教えるのではなく、大量の数学嫌いを作っている、それが今の文科省の数学教育である。こんな指導要領を作っている人の顔が見たいものだ。(無意味な数学で高得点を取らないと国立大に入れない矛盾) 他の教科でどれだけ優れていても、数学が必修のセンター試験があるので、本当にバカのような問題のオンパレードの数学の問題で高得点をとらないと、国立の上位校に進学できない。 社会に出て、仕事ができる人間は、各科目平均的に万遍なく点数を取るタイプではなく、ある部門はからっきしダメだが、別の分野では他の人が関心するようなアイデアを出したりするタイプである。人事の世界でいう「とんがった人間」が社会で役に立つのだ。 でも、今の日本では、文部科学省の数学の指導方針で、こうした社会に出て役に立つタイプの生徒は、国立大学上位校に進むのはまず無理であり、日本全体の人材活用という意味でも大きな無駄をしているのだ。そういう意味でも、現在の文科省の数学の指導内容は早急に変えないといけない。
2014.12.26
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(高校で7割以上が落ちこぼれる日本の数学教育) 教育の世界で言われている、7.5.3という言葉をご存じだろうか。 数学、算数で、小学校で2割が落ちこぼれ、中学で5割が落ちこぼれ、高校で7割が落ちこぼれるという話である。7.5.3と言われて久しいが、数学、算数の教育内容は、どんどん詰め込み、概念の抽象化が進んでいて、現在ではこの比率が小学校で5割、中学校で7割、高校だと8、9割という感じではないかと、現在、小中学校の子供たちを教えていて感じる。 1970年代に数学の世界で有名な先生だった遠山啓さんが、「文部省の数学教育は間違っているし、改定の度に、どんどん悪くなっている」という文部省の数学の指導要領を批判する本を書き、関係者の間では少し話題になったが、彼がそう言って40年以上経ち、文科省による改悪は更に進んでいる。 中央官庁を記者として取材した経験から言うと、日本の役所は縦割りで、他の省庁が企画立案してものは、自分たちに大きな利害が関係なければ、他の省庁から意見は言わないようになっている。同様に、1つの省庁の中でも、他の局のことは多局は口を挟まないし、同じ局でも、担当課が違うと、他の課の人は意見を言えない仕組みなっている。 文部科学省の場合、同じ初頭教育担当でも、国語と数学担当者は担当が全く違うので、他の担当は専門外で、財務省や経済産業省の同じ課の中で、意見を出し合い、案を修正していくようなプロセスがほとんどない。その結果、1人、2人の専門家が自分の思うままに案を作り、それが文部科学省、ひいては日本全体の案になって、子供たちに押し付けられているのである。 (数学ができないで、人生、勉強に挫折) どんな決められ方をしようと、それが結果的に良いものであれば良いが、今の小中校の学校で行われている数学、算数教育の指導方針、指導内容は最悪である。 筆者にとって小中学生は孫のような年齢なのだが、ボランティアで東京の区立の中学校の放課後教室で多くの子供の勉強を見ているし、頼まれて、知人の小中校のお子さんの勉強を見る機会が多いので、今の教育がどういう内容になっていて、子供たちがその理不尽とも言える内容に苦しみ悶えているのを日々接している。 数学が理解できないので、授業が苦痛になり、授業中のお喋りをする生徒が増え、それが学級崩壊につながっているし、数学が嫌いになるだけでなく、与えられた課題をクリアできないという挫折感を味わう者が多くなり、精神的に落ちこぼれを多く生んでいくようになっているのである。 いち数学の問題ではなく、多くの生徒の心に傷をつけているのが、今の数学教育の実態なのである。 それだけに何とか改革をしないといけないと思うのだが、役人のシステムから言えば、文科省が自律的に変わることはまず期待できない。とすれば、政治が変えないといけないが、力のある政治家にとって、小中学校の教育は孫の世代の話で、どんなのひどいことが行われているか、知りようがないから、話題にもならないのである。(数学が好きな人は全体の2、3割を理解できない文科省の担当者) 何がどう悪いかと言うと、基本となる教育概念、姿勢、考え方が間違っているのである。 文科省で数学、算数を担当する人は数学が好きで、自分も学生時代に得意としてきた。だから、彼らにとって、数学は楽しいものであり、数学の世界の面白さ、数の不思議さを少しでも多くの人に知って欲しい、そうした考えで、企画立案されているとしか思えない内容である。 筆者も生徒、学生時代数学は好きだったし、数の不思議などにわくわくした人間なので、担当者のその気持ちはわからなくはないが、実際は多くの人にとって、数学は苦手だし、嫌いであり、数の世界の不思議さを聞かされても、「それがどうしたの」という世界なのである。 その嫌い、苦手な人、数学に感動しない人に、「ほら、数学はこんなに楽しく、面白いのだよ」という発想で、苦痛以外の何物でもない内容を押し付けているのである。 こういうと、「これから日本が生きていくには技術立国にしないといけないから、理系教育にはもっと力を入れないといけないのだ」という反論が返って来そうだが、これも、担当者の自己弁護の論理で、技術立国にするにせよ、それを担当する人間はせいぜい1、2割であり、それを10割全員に押し付けて良いということにはならない。(知らないといけない2.6.2の法則) どんな世界でも、どんな物事でも、2.6.2の法則というのがある。これは人事を少し担当したことがある人なら知っているが、物事を理解し、どんどん手際よくさばいて行き、全体をリードする人は2割、そのリーダーの指導の下で、与えられた仕事をとりあえずこなして行く人が6割、残りの2割はいわば落ちこぼれで、他の人のサポートでどうにか、他の人に迷惑をかけないようにしていくかというタイプである。 学校の成績で、相対評価だと昔から、5段階評価で5をもらえる人は全体の5%、4が15%、3が60%、2が15%、1が5%というようになっているが、これは、2.6.2の法則とも符合する話である。 だから、学校教育では、筆者が学生、生徒の時代は教師は真ん中の6割の人を授業の標準にし、上位2割の人には進んだ別の課題を与え、下のできない2割の人には補講をするなどして、どうにか落ちこぼれないように対応してきた。 ところが、今の文科省の数学、算数の教育の指導要領の基本スタンスは、上位2割の人対象にするような教育を行うような姿勢で全員に接しているのである。 だから、教科書も、それに対応する参考書、問題集も、できない子がどこで躓くか、どこをどう丁寧に説明しないといけないかという、やさしさ、親切さが微塵もない。 その結果、多くの子供が小学校3、4年から既に落ちこぼれとなり、そのまま、中学、高校と進むので、ますますわからなくなって行き、英語や国語、社会で早稲田、慶応のトップ私大を受かるレベルの文系の学生でも、「数学は大嫌い、大の苦手。高校2年でなくなって、せいせいした」という人がかなりの割合を占めるようになってしまっているのである。(「腑に落ちさせる」ことが大切。「この通り覚えろ」はダメ) 筆者が学校の授業に落ちこぼれている生徒、児童に数学を教える時、まず、することは小学校の基礎に返り、かつ、それを絵や図を使って、色々な角度から説明し、まず、「腑に落ちさせること」に努力をする。できない子、落ちこぼれ、自信を失っている子にとって、この「腑に落ちる」ということがとても大切なのである。 腑に落ちると、それまで苦悶に満ちていた子供顔がパッと明るくなり、見るのも嫌だった問題に自分から取組ようになってくる。だが、文科省の指導方針も、それに基づいて作らている教科書、問題集、参考書に、この「腑に落ちさせる」という発想が極めて乏しいのである。 また、数学、算数の教育で大切なことは、「具象から抽象へ」といかに丁寧に説明し、教えるかである。 数学が苦手な子でも、具体的なものを見せて、説明すれば、ほとんど全員が理解できる。この具体的なものを見せての説明から入り、次にそれを黒板に絵を書いて説明し、次第に数字だけにしていく。これが「具象から抽象へ」であるが、今の教科書、参考書にはこの部分でも、親切さが微塵もないのだ。 今、小学校でも、中学校でも数学、算数の授業で行われていることは、納得、腑に落ちさせることではなく、抽象的な説明のまま、「この通り覚えろ」というやり方である。 これは教師の能力や責任ではない。2割の生徒しか理解できず、ついてこれないような内容を詰め込み、教えないといけないとなれば、教師はそうするしかないのである。教師も文科省の指導要領の犠牲者だと言える。 現場の教師がもう1つ大変なのは、同じクラスの生徒の理解度が、1つのクラスでまとめて授業をするのが困難なくらい大きく開いていて、教師の努力ではいかんともしがたいレベルになっていることである。 また、今、今の現場の教師は自分たちが生徒の時に、「この通り覚える」と教わって来た人たちであり、しかも、自分が好きだから、数学の教師になっているので、できない子供の心理、納得がいかに大事かがわかっていないという面もある。 野球の名選手が必ずしも名監督、名コーチになれないということが言われている。 名選手と言われる人は子供の時から、野球をしているので、頭ではなく体で覚えている。だから、それを頭で整理し、理屈で他の人に説明することは苦手な人が多いのである。数学の教師に同じことが言えるのだ。数学が苦手で、自分の努力でそれを克服してきたような人に数学の教師をしてほしいと願う。 今の小学、中学の数学、算数の教育の内容の具体的な問題点はどんなことで、それをどう改革していくかは、長くなったので、次回、書くことにする。
2014.12.23
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(頭がおかしい東大教授) 昨夜、フジテレビBSの番組で、憲法学者3人が登場して、憲法そのものや改憲の議論をしていたが、あまりのバカバカしさに呆れた。その中でも、東大教授の話を聞いていて、こんな人が天下の東大の教授だと言っているから、日本はダメなのだと感じた。 彼の主張を一言で言えば、「憲法は崇高なもので、簡単に改正してはいけない」、「憲法や法律で認めらえた行為であっても、それが崇高な志に根差したものでないなら、それは政治家や政権が堕落することであり、やってはいけない」というようなものである。 冗談ではない。 法律にしろ、憲法にしろ、国を統治するために作ったもので、それは国民の上にあるものではなく、あくまで、過半の人が良いと思って決めたルールであり、道具である。だから、法律や憲法が時代に合わなくなってきたら、国民の賛成を経て、改正するのは当然であり、どこの国でも、憲法は何回も修正されて来た。 しかし、日本における憲法学者、法律家には、そうした発想は乏しく、時代に合わなくなっても、国に不利益になっても、「崇高な憲法は守らないといけない」というような発想の人が多いのだ。(最終的に現状のままでも良いから憲法議論を) 筆者は自民党の改憲議論に賛成をする者ではない。 そもそも、戦争に負けた日本が戦勝国のアメリカに押しつけられたのが今の憲法であり、原文が英語で、それを翻訳したものだから、日本語として本当におかしな表現がいくつもある。 また、アメリカの原案に対して、当時の日本人の政治家や法律家が異議を唱えて、議論をした上に修正がされたので、全体として矛盾する内容、整合性がとれない部分が存在する。 そして、何よりも多くの国民が議論に参加し、その議論の中からできたものではない。その上、環境権や地方自治など憲法を作った時代に概念としてほとんど存在しなかったことが出て来ていて、今の憲法では対応できない。 これだけの問題を抱えた今の憲法を9条の戦争放棄条項を何としても、守りたいがために、「一字一句いじってもだめ」というような社民党や共産党のような主張をしたり、昨夜の東大教授のように「憲法は崇高なものなので、簡単にいじるな」ということを言う人を見ると、憲法以外のことでも、まともに対応できない変な人だと、筆者は考える。 極端に言えば、国民の大議論の結果、過半の国民が現在の憲法のままで良いという結論になっても問題ないのである。憲法をどうするかという議論を封印するから、色々なことがおかしくなるのである。(憲法改正反対は非民主主義の人) そもそも、憲法改正が何回も叫ばれながら、それが具体的な作業にならないのは、社民党や共産党のように議論を封じる、非民主的な立場の人が多いことと、改正賛成論者の多くの人が、一度に問題点を修正しようと意気込むので、国民全体としての意見がまとまらないのだ。 欧米の他の国のように、憲法は必要に応じて何回も修正すれば、問題点が出たり、時代に合わなくなったものは、その都度、何回でも修正すれば良いのである。こうすれば、7、8割の人が合意できる部分から改正をし、2、3年に1回、時代と国民の意見で変えていくことにしたら、今のような国をひっくり返すような議論にならなくて済むのだ。 例えば、衆議院と参議院に選び方も選ばれた人の役割も、ほとんど差がないのを変えて、それぞれに意味と特徴を持たせようとしても、憲法が今のままではできない。また、1票の格差の問題も、国民的な議論を経て、どう決着するかルールを作ろうとすれば、憲法に明記せざるを得ない。 選挙が行われる度に、弁護士グループが違憲訴訟を起こすが、でも、どうしたら良いか、彼らは対案を示してはいない。人口に合わせて議員の定数を決めるとなれば、首都圏の議員が全体の3割になり、国会議員がいない県も出て来る。これだと、地方は賛成できない。 また、人口に合わせて議員を選んでも、格差は必ず出て来る。1対1.4はだめだが。1対1.2はOKというような線引きを誰がするのだ。1対1.2でも格差であり、格差解消を言うなら、1.2の格差でも解消しないといけないはずである。1票の平等を言う限り、例え0.2でも格差はあってはならないはずである。(票の格差は当然を憲法に明記) また、戦後の日本はお年寄りに極端に比重がかかった福祉政策をしてきたし、税制優遇などもしてきた。その1つの理由は若者は投票率が低いが、年寄りは投票率が高いということがある。選挙で落ちたら、国会議員でなくなるので、どうしても、投票率の高い年寄りに有利な施策にならざるを得なかったのである。 でも、現実に今の日本を支えている現役世代には1人2票の票を与え、引退世代には1人1票の投票権とするというような、ドラスチックな制度を取れば、福祉制度や子育て制度など抜本的に変わってくる。 でも、これも、憲法を改正して、1票に格差を与えるということを明記しないと、憲法違反になってしまう。 こうした話をする上でも、憲法論議をして、少しでも多くの国民が、こんなことを書き込んでほしいという意見を出せば、良いアイデアも出て来るし、より良い新しい憲法ができるのである。 今のマスコミや学者たちは、政府の批判はする。だが、ではどうしたら良いかという対案を出せというと、今回の選挙の民主党のように、対案を示せないのだ。だから、国民の支持が得られなかったのである。それと同じで、それでは、批判するだけのマスコミは、批判する資格がないと筆者は考える。 (似ている「憲法は崇高なもの」と「財政再建至上主義」) 昨夜の番組を見ていて、感じたのは、これだけ消費が冷え込んでいる中、財政再建が必要なので、何が何でも消費税を追加引き上げをしようとする財務省の姿勢と、「憲法は崇高なもの」という東大教授の発想が極めて似ているということである。 法律や施策は国民をより豊かにし、幸福にするための道具、手段である。それ自体が目的ではないのに、財政再建そのものが目的のようであったり、憲法を変えないことが大前提のような発想は、実際の国民生活を知らない人の考え方である。 日本ではほとんど報道されていないが、最近、ベルギーで大規模なゼネストが行われた。趣旨は「財政再建主体の政策はおかしい」として、不況な時には、財政規律を守ることよりも、国民にやさしい政策をとってほしいということを主張してのゼネストである。 これまでも、何回か書いてきたが、今、欧州では、高福祉高負担の制度が維持できなくなってきて、どうやっていくかが大問題なっている。そして、財政再建のための財政緊縮を少し緩めて、国民に手を差し伸べてほしいという意見が強くなってきている。 日本のマスコミや大学教授、エコノミストたちは財務省の財政再建PRのレクチャーの洗脳されている人がほとんどなので、財務省のいう通りの報道をして、それが繰り返されるので、国民も消費税引き上げは、今すぐはともかく、やがては避けられないものと考えるようになっている。 でも、憲法改正の議論と一緒で、その道の専門家の「哲学問答」が前面に出てきているのを止めて、普通の国民の目線で考え、議論をすれば、よりよい対案が出て来るのである。
2014.12.19
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(憲法改正は国民が判断するもの) 自民・公明与党で衆議院で3分の2を越えたことから、憲法改正の話が進むことを危惧するという論調が共産、社民党などだけでなく、マスコミにもあふれている。 前にも書いたが、こうしたマスコミの論調は国民を愚弄するものであることに気が付いていないところが、マスコミで働く人の驕りの姿勢そのものが見えるのである。 憲法改正は衆参両議院で3分の2の多数で発議し、国民投票で是非を判断することになっている。 つまり、最終判断は国会ではなく、国民がするのである。政府与党が何を考え、どう動こうが、国民が政府の考えに賛成しなければ、憲法改正は行われないのである。マスコミの論調はここの部分が欠落しているのだ。 マスコミは安倍政権の右傾化をやたら強調するが、「与党に3分の2の議席を与えれば、憲法改正となって、日本はまた戦争への道を進む」という共産党、社民党的な主張、朝日新聞や毎日新聞、東京新聞、テレビ局で言えば、TBSやテレ朝の論調もほぼ同様だが、それは、「国民はバカだから、国会で憲法改正案が通れば、国民はそれに賛成してしまう」と言っているのに等しいことを、言っている人間自体が気が付いていないのだから、笑ってしまう。 国民を信頼していれば、「政権が3分の2を取ったので、憲法改正が心配」などという論調は出て来ない。(重要課題の先送りはもう止めよう) 戦後の日本では、イデオロギーが大きく異なる自民党と社会党が二大政党である時代が長く続いたこともあり、真剣に議論をしないといけない、国の根幹にかかわる問題は意見の集約ができないという判断で、すべて先送りされ、議論をすること自体封印して来た。 でも、もう戦後70年である。主義主張が異なる政党の間でも、決断を避けて通れない問題については、議論を徹底的にして、最終判断は国民にゆだねるということで解決をしていく時期になっている。 スイスは少し重要な問題だと、国民投票をして、国民が判断をするシステムをとっている。日本も政治家に任せておいたら、いつまでも決められない問題は国民投票で結論を出すようにしたら、長年の懸案事項はすべて解決していく時期になっていると筆者は思う。 一票の格差問題でも、国会に解決しろということなど無理なのだ。各政党の意見がバラバラだから、統一案など出しようがない。それなら、各政党が対案を出し、それを国民に示して、国民に判断してもらえば、数か月で解決してしまう。 でも、そうするためには、憲法改正が必要である。筆者は憲法改正で、まず、いの一番にしないといけないのは、この国民投票法案の考えを憲法に取り入れることだと筆者は考える。(なぜ、沖縄は返還できたかを考えないといけない) 戦後の日本の大きな間違いは、自社対決の政治構造の中で、本音のことを言えず、嘘の建前論を政府与党は言わざるを得ず、嘘の建前が通説として、ずっと通って来たことにある。 例えば、沖縄問題だ。戦後、本土が独立した後も、沖縄はアメリカの統治下にあり、沖縄の日本への復帰は戦後の悲願の1つだった。だが、戦争で負けて取られた領土は平和裏には返って来ないのが、国際政治の常識である。 それを当時の佐藤政権は必死になって、沖縄を返してくれるように交渉した。それに対して、アメリカは返還するのは良いが、これまで通り米軍基地を使えることが返還の前提で、その中に、核の保有、使用も当然入っていた。 だが、日本では非核三原則があるので、それはできないだろうということで交渉は難航した。佐藤政権は沖縄を返還してもらうために、基地をこれまで通り使うこと、核の保有も使用も認めることを余儀なくされたのである。 だが、マスコミは非核三原則をうるさく言うので、沖縄にも非核三原則が適用されて返還されると、嘘、建前を言って、返還を発表したのである。 (嘘を言わざるを得なかった沖縄の核抜き返還) そもそも、沖縄に限らず、日本の本土の米軍基地や、日本に寄港する米軍の空母や潜水艦が核武装されているであろうことは、常識である。長く続いた冷戦時代の下で、日本防衛のために駐在する米軍が核武装していないと考える方が異常である。 しかし、戦後のドンキホーテ的な楽観論、建前論がまかり通っていた日本では、少し考えれば、わかる話を実際通りすれば、マスコミに袋叩きにされるのがわかっているから、あり得ない嘘で通さざるを得なかったのである。 沖縄の問題は、日本の安全保障に深くかかわった問題である。 だからこそ、国民的な議論をして、日本の安全保障をどうするか、国民投票で決めるべき課題なのである。それをしないから、あり得ないユートピア的な共産党の「話し合い外交で、外国の侵略は防げる」というお粗末な主張が存在し、その政党が議席を3倍増にもなるのである。 米軍に沖縄だけでなく、日本から出て行ってもらうなら、日本の安全保障をどうするか国を挙げて議論をし、国民皆兵制度である上、全国各地に核攻撃に対応するシェルターを備えて、国を守る永世中立型のスイスのような国を目指すのか、自衛隊を軍隊と認めた上で、核武装するのかなどのいくつかの選択肢から、国民に判断をしてもらうことが、実は沖縄問題の一番早い解決方法なのである。 でも、そうした議論をせずに、米軍が出ていけというだけだから、話が進まないのである。(対米追従を脱するなら、対案が必要) 戦後の自民党政治に批判的な人は、自民党は「米国追従外交」と言い続け、「米国の支配からの脱却」を言う。でも、今回の選挙の野党の主張と一緒で、アベノミクスを批判するなら、対案を出さないといけないのに、「米国追従」をいう人は、それを止めた時の対案を言わない。 米国追従を止めるなら、在日米軍は出て行ってもらわないと話にならない。自分の安全を他人に任せる国など、どこかに追従しないと、生きていけないのは世界の常識である。米軍が出て行った後、日本の国土防衛はどうするのか。その対案を示せない政党や人に、「米国追従」を批判する資格はない。 武力でクリミア半島を奪ったロシアや、ベトナムやフィリピンの島や環礁の領土を武力で奪い、尖閣列島も狙っている中国のような国に、米軍に頼らないで、どう対抗するか。「話し合いで」は解決にならない。これは対案でも何でもない。単なら、詭弁である。 こうした問題を議論をし、国論をまとめるためにも、筆者は国民投票が必要だと思うし、そのためには、憲法改正が不可欠なのである。
2014.12.18
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