2006年05月14日
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犀川 博正著  『警察官の現場 ノンキャリア警察官という生き方』  2002 (株)角川書店  p.112

この犀川という人はもともと警察官で、内部告発とまでは行かないまでも、その古い体制による捜査の不備や、現場の警察官のつらい事情などを客観的な視点で綴っている。
やや自画自賛的な内容ではあるが、ふだんなかなか触れることのできない世界なので、興味深い。

この本の中で、やはり交通違反の取締りについて言及しているのであるが、その中の一節に以下のような記述がある。

「そういえば多くの警察官は、捕まえた違反者のことを、なぜか『おたくさん』と呼んでいました。“獲物”には名前なんて必要ない、ということでしょうか。今思い出しても、不自然な呼び方です。」

まあ、「獲物」と言い切ってしまうことは少々行き過ぎという気もしないではないが、「おたくさん」と呼ぶのは、いわゆる「上から目線」ではあるだろう。
これはこの状況もそうであるが、先生と生徒、医者と患者など、1対多数の状況の場合起こりやすい。
特に、自分が多数に対し、なんらかの決定権を握っている場合、それは顕著になる。

ところがそういう場合、当たり前なのであるが、多数側の個人としては、その関係は非常に重要なものとなる。

SMAPじゃないけど、多数側はONLY ONEになるべく努力をする。
それが変な方向へと高じると、贈賄ということになりかねない。
そうなれば、暗に言葉で示されていた上下関係が顕著に表に現れてくる。

この1対多数という関係は、自己中心的な社会を持つ人にも当てはまる。
すなわち、「自分対その他みんな」という構図である。
この場合はその人が関係そのものに関心を抱いていない場合が多い。
自分のいる「世界」が大事であり、そこに「存在」する人(あるいはキャラ)だけが、彼と等位で重要となる。
それらがそろって彼はようやく自分の存在を認めることができるようになる。

いずれにしても、1対多数という関係は、きわめて絶対的・主観的である。
その対極にあるのが1対1の関係を重要視した上での社会的ネットワークへの関わりだと思う。
この場合、社会における人間関係はきわめて相対的・客観的となるはずである。

もちろん、その関係はすべての生徒に対して構築されるものであり、それを適切に処理していくには先生側にも高い能力が要求される。
逆に1対多数なら同じ授業をマニュアルどおり行えばよいのである。

今の時代、個人が尊重されてはいるが、「1対多数」の関係で個人の主張だけが強く叫ばれているような気がする。
そんな社会では、宗教や法律など、人間の関係を超越したなにかで人間の関係を決定していかなくてはならなくなる。
そうなれば自ずと個はルールの中に埋没していく。


ただ、できれば最低限であって欲しい。
だから本当の意味での個人が尊重される社会を構築したいのであれば、もっともっと個人が能力を高めるべく努力をし、「1対1」の人間関係を客観的に社会の網の目に縫いこんでいくことが必要なんだと思う。
まあ、そうは言っても「客観的な社会の網の目」というのを解明するのがほとんど不可能なんだけどね。
せめて客観的に「解釈」はしていきたいね。





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最終更新日  2012年04月15日 10時18分30秒
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