2006年05月20日
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
森 千春著  『「壁」が崩壊して  統一ドイツは何を裁いたか』  1995 丸善株式会社  p.109

この本はタイトルが示すとおり、東西ドイツが1989年にいわゆる「ベルリンの壁」の崩壊とともに東ドイツが消滅した後の行われた数々の裁判を紹介しつつ、それらのもつ政治的・社会的意義を問う形をとっている。
主に、壁を守っていた衛兵による殺人事件と、それらを指示していた首相に対しての裁判で構成されている。
その、最後の東ドイツの首相がホネッカーであるが、彼はドイツが統一されたとき、80を超える高齢であり、病魔にも襲われており、裁判が終了するまで生き延びることすら難しいと言われていた。

「医師の診断によれば、ホネッカー被告は、判決が下るまでに、おそらく死亡するだろう。裁判の目的とは、『起訴状に記された犯行を完全に解明し』、必要ならば罰を課すことだ。今回の裁判では、この目的は満たされないだろう。にもかかわらず裁判を続けることは、裁判の進行自体が、『自己目的化すること』を意味する。こうした自己目的化には、正当な理由がない。」

実際には当時の東側諸国に対しての警告としてこの裁判はそれなりにアピール材料とはなっていたと思う。
でもそれこそが、この裁判の自己目的化に他ならない。
その裁判を行うこと自体が目的化されるわけである。

ただ、このレベルであれば実際、自己目的化とはいえ、そこになんらかの目的が存在し、必要なシステムとして承認されうることではなる。

すなわち、形骸化してしまったときだ。

形骸化したイベントであれば、それはスケープゴートとして機能することが多い。
ターゲットにされた当事者としては大変なことではあるものの、大きな枠で見たときに必要なものであることも否めない。
もちろん、スケープゴートなど必要としないのが一番いいのではあるのだけれど。

一方で、形骸化してしまったシステムは、時として社会にとって大きな足かせとなる。
それが不条理な規律として社会を統治することが多い。
なぜそのシステムが導入されたのか、そのシステムのそもそもの目的とはなんなのか、それが議論されずに方法論だけが語られるようになると、社会の進歩・進化にシステムは取り残されていく。
にもかかわらず、そのシステムによって社会の価値観が決定されていく。

形骸化してしまったことが常識になったと勘違いをしている人は多い。
すなわち形骸化したシステムに何の疑問も抱くことができないのである。
形骸化したシステムが、価値観を形成すると仮定できるのであれば、形骸化したシステムに従順な人は自分の価値観を持っていないこととなる。

それには形骸化されたシステムに対して「なぜ」という問題意識を持つことが必要だ。
でもそれは、自己が試されるからそれなりに勇気が必要にはなるけどね。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2006年05月20日 10時37分55秒
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

コメント新着

Jeraldanact@ Проститутки метро Выборгская Брат замминистра инфраструктуры Украины…
Adamixp@ Свежие новости Где Вы ищите свежие новости? Лично я ч…
FLUR @ >alex99さん(2) alexさん、こんばんわ! >いいえ。 …
alex99 @ Re:>alex99さん(09/23) FLURさん >一休和尚がご乱交!? -----…
FLUR @ >alex99さん alexさん、こんにちわ! >万物はうつ…
FLUR @ >alex99さん alexさん、こんにちわ! 返事が遅くなっ…

© Rakuten Group, Inc.
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: