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2015年04月21日
(続)歌人碇登志雄(いかりとしお)の歌碑
『佐賀新聞』(四月二日版)には「四阿屋の登志雄歌碑」「金文字50年前の耀き」という見出しで、次の様に書かれています。そのまま転載させていただきます。
「鳥栖市牛原町の四阿屋遊泳場近くにある歌碑が、50年前の耀きを取り戻した。長年の風雨で表面に刻まれた短歌が読みづらくなっていることに気付いた地元のまちづくりグループ・四阿屋会(志藤会長)と歌碑設置者の短歌文学会(碇弘毅代表)が協力。周辺の雑木を払い、歌碑を磨き上げて金色の文字を施している。
文学会によると、歌碑は1964年に建立され、「からからと 桐の実鳴らむ日も近く 涼しきいろに 満てる大空」と刻まれている。会の創立者で県内歌壇をリードし、94に86歳で亡くなった碇登志雄氏の作品で、夏から秋に向かう自然美を詠んでいるという。
今回の整備は、遊泳場の清掃を担っている四阿屋会から呼び掛けた。昨年12月に周囲の雑木を払った際、かずらに覆われた歌碑を見つけ、文学会に連絡した。
登志雄氏は1933年に歌誌「姫由理」を創刊。会は戦時中を除き、月1回の発行を続けており、長男の弘毅代表(81)は、「みなさんの協力で歌碑は見違えるほどきれいになった。父も喜んでいることでしょう」と語る。
遊泳場近くには戦国時代の城下町跡で国史跡に指定されている勝尾城筑紫氏遺跡などがあり、四阿屋会の志藤会長(68)は「史跡めぐりと合わせ、新たな市の観光スポットになれば」と期待していた。(杉原孝幸)」
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「鳥栖市牛原町の四阿屋遊泳場近くにある歌碑が、50年前の耀きを取り戻した。長年の風雨で表面に刻まれた短歌が読みづらくなっていることに気付いた地元のまちづくりグループ・四阿屋会(志藤会長)と歌碑設置者の短歌文学会(碇弘毅代表)が協力。周辺の雑木を払い、歌碑を磨き上げて金色の文字を施している。
文学会によると、歌碑は1964年に建立され、「からからと 桐の実鳴らむ日も近く 涼しきいろに 満てる大空」と刻まれている。会の創立者で県内歌壇をリードし、94に86歳で亡くなった碇登志雄氏の作品で、夏から秋に向かう自然美を詠んでいるという。
今回の整備は、遊泳場の清掃を担っている四阿屋会から呼び掛けた。昨年12月に周囲の雑木を払った際、かずらに覆われた歌碑を見つけ、文学会に連絡した。
登志雄氏は1933年に歌誌「姫由理」を創刊。会は戦時中を除き、月1回の発行を続けており、長男の弘毅代表(81)は、「みなさんの協力で歌碑は見違えるほどきれいになった。父も喜んでいることでしょう」と語る。
遊泳場近くには戦国時代の城下町跡で国史跡に指定されている勝尾城筑紫氏遺跡などがあり、四阿屋会の志藤会長(68)は「史跡めぐりと合わせ、新たな市の観光スポットになれば」と期待していた。(杉原孝幸)」
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2015年04月20日
歌人碇登志雄(いかりとしお)の歌碑
『佐賀新聞』(4月2日版)に登志雄の歌碑についての記事が出たと事務局から写真とともにその新聞が届きました。
背振山頂の登志雄歌碑については、昨年5月にこのブログに取り上げましたが、今回は、その前に建立された鳥栖市、四阿屋(あづまや)神社にある歌碑についてです。その碑歌は、
からからと桐の実鳴らむ日も近く涼しきいろに満てる大空
登志雄
除幕は、昭和39年(1964年)4月に行われています。
この作品について作者自身は、次の様に述べています。
四阿屋歌碑の歌について:
からからと桐の実鳴らむ日も近く涼しきいろに満てる大空
この歌は、昭和三十四年九月二十七日の作であります。日曜日、彼岸明けの日、書斎にあって、太田水穂全集や茶道太平記、日本茶道などを読み、求心的な日々の間においてこの歌が生まれています。
この一首の意味は、ささやかな花、しかし、気高い思いを彩りにした花、桐の花は、目にもつかないつつましい音を立てて、その終末を結ぼうとしています。けだし、この姿は真実を愛する人間の姿として、慕われるのでございます。そこにはにごりない大自然が、涼しい色の大空が、あたたかく人間を、私を、私の思いを、いただいてくれるというような思念のもとに、この一首が形成されたのです。仏典を読み、儒書に親しみ、求道の人生五十の齢にあって、ささやかなその諦念を、具象化したものが、この一首であります。
(登志雄師の謝辞から抄出、『姫由理』六月号1964)
歌碑の写真を掲げておきます。
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からからと桐の実鳴らむ日も近く涼しきいろに満てる大空
登志雄
除幕は、昭和39年(1964年)4月に行われています。
この作品について作者自身は、次の様に述べています。
四阿屋歌碑の歌について:
からからと桐の実鳴らむ日も近く涼しきいろに満てる大空
この歌は、昭和三十四年九月二十七日の作であります。日曜日、彼岸明けの日、書斎にあって、太田水穂全集や茶道太平記、日本茶道などを読み、求心的な日々の間においてこの歌が生まれています。
この一首の意味は、ささやかな花、しかし、気高い思いを彩りにした花、桐の花は、目にもつかないつつましい音を立てて、その終末を結ぼうとしています。けだし、この姿は真実を愛する人間の姿として、慕われるのでございます。そこにはにごりない大自然が、涼しい色の大空が、あたたかく人間を、私を、私の思いを、いただいてくれるというような思念のもとに、この一首が形成されたのです。仏典を読み、儒書に親しみ、求道の人生五十の齢にあって、ささやかなその諦念を、具象化したものが、この一首であります。
(登志雄師の謝辞から抄出、『姫由理』六月号1964)
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2014年07月30日
夕立雲
2014年07月14日
いちじく
いちじく が、広い葉を広げ、すくすくと、上へ上へと伸びてきました。
いちじくは、クワ科イチジク属の落葉高木で、アラビア半島南部、地中海沿岸地方の原産。
いちじくは漢字で 「無花果」 と書きますが、花は実の中で見えないだけ。無いわけではありませんね。
果実を食べる時に、中に赤いつぶつぶがたくさんつまっています。あれが花 なのです。ちなみに、呼び名としては、南蛮柿(なんばんがき)、唐柿(とうがき)、蓬莱柿(ほうらいがき)と書かれていることもあります。
いちじくと人間の付き合いは古く、古代エジプトの壁画にもブドウとともに描かれており、さらには旧約聖書にも登場する歴史ある果物です。あのアダムとイブが裸を隠すのに使ったのもいちじくの葉ですね。
では青葉の季節の無花果の短歌を二首あげておきます。
碇 登志雄の歌 ( 歌集『神幸』より)
無花果の青葉日にけに広がりてワイシャツながら事務をとる朝
無花果の広葉に雨の音ぞする転任辞令机におけば
(碇弘毅記)
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2014年07月05日
茶の香り
2014年07月02日
竹の歌(その2)
「短歌文学会」事務局に遠くはない 大昭寺の竹林に出かけた。
この春の筍は大きく丈を伸ばし空にそよいでいた。
真竹(マダケ)で、1日で121センチも成長したという記録があるという。猛烈な成長速度である。
植物は先端を伸ばし、成長するが、竹は、すべての節の間が一斉に細胞分裂を行って節ごとに背を伸ばす仕組みだという。丁度、写真用の三脚の各段をするすると伸ばして高くするように、竹は六十程の節の間が一斉に伸びるというのである
古代から竹は神の依代(よりしろ)である、と同時に呪力を持つと考えられていた。七夕の竹もそうだろう。
そういえば、「今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに使ひけり。」で始まる 竹取物語 。かぐや姫も「三月ばかりになるほどによきほどなる人になりぬれば…」と、成長が速い。
「なよ竹のかぐや姫」の美しさ、しなやかさ、など目に浮かぶようである。竹林の神秘さの中に佇んでいた。
碇登志雄『夕光』 から
老僧が教へ指すみ墓べは風ありて竹のそよげるが見ゆ
碇登志雄『神幸』 から
竹林をまなかひにして塵をだにとどめぬ寺の一庵に座す
竹林の秀に風ありて夕雲の閑けき窓と凉にをるなり
(写真は、鳥栖市、大昭寺竹林にて)
(碇弘毅記)
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2014年06月26日
睡蓮の歌
モネの絵画?と見間違えてしまいました。事務局より送られてきた睡蓮の写真です。
石橋文化センター(福岡県久留米市)の広い池に植えられている睡蓮。
水面に葉と花を浮かべて、鮮やかな花の色が美しいですね。
睡蓮は、スイレン科の淡水生植物の総称で、その中で、特に蓮(はす)を除いたものを指しているんだそうです。
『睡蓮』 というと、フランスの画家クロード・モネが描いた一連の絵画を思い出す人も多いのではないでしょうか?
モネは沢山の睡蓮の絵を描いており、東京京橋のブリヂストン美術館にもそのひとつ『睡蓮』1907年、が所蔵されています。
今日は、 睡蓮の歌 を紹介します。
祖父碇登志雄と祖母章枝が北海道に二人連れで旅行した時の作品で、亡き紫村順枝叔母が 『姫由理』 誌上に紹介したもの。前後の歌も併せ挙げておきます。
碇 登志雄の歌 (『姫由理』より)
睡蓮の浮葉平らに人もなき沼べりのみちを妻と歩めり
憩ふにはよろしき草生ひとときの安らぎ誘ふ沼のさやけさ
あした未だ露けき草に光りある公園の中の径を歩めり
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2014年06月24日
竹のうた
久留米市の石橋文化センターの庭園に出かけてみました。
天気予報で午後は雨というので、降り出す前にというわけです。
移築された故坂本繁二郎画伯のアトリエから少し下った所に竹林があります。美しい新緑です。
今日は、竹を詠んだ歌をいくつかみてみましょう。
大伴家持 (万葉集一九4291)
わがやどのいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも
碇登志雄 (『夕光』より)
降りやまず一日はくれぬ五月雨に竹林の竹たわみたる見ゆ
同 (『神幸』より)
碁の勝負きほへる友は聞かざらむ竹林の雨の音のかそけき
(碇弘毅 記)
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大伴家持 (万葉集一九4291)
わがやどのいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも
碇登志雄 (『夕光』より)
降りやまず一日はくれぬ五月雨に竹林の竹たわみたる見ゆ
同 (『神幸』より)
碁の勝負きほへる友は聞かざらむ竹林の雨の音のかそけき
(碇弘毅 記)
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2014年06月23日
かへるでの歌
本部の庭にも樹齢七、八十年から四、五年生の若木まである。カエデ科の落葉高木。
秋の紅葉・黄色が美しいが、春の芽立ちから新?高フ葉色や姿が美しい。
カエデの歴史的仮名遣いではカヘデ。語源的には、葉が蛙の手に似ているからカへルデ。略してカヘデとも。(参考『語源辞典』東京堂出版)
今回は、季節柄若木を詠んだ歌をあげておこう。
作者未詳 万葉集十四.3494
子持山(こもちやま)若(わか)かへるでのもみつまで寝もと我(わ)は思(も)ふ汝(な)はあどか思ふ
碇登志雄 歌集『夕光』 から
楓(かへるで)のしもとは垂りてさみどりの雫するなりこの朝明けを
碇登志雄 歌集『神幸』 から
かへるでの深き下べを語りゆくホワイトシャツに匂ふさみどり
吹きそよぐ楓の若葉の下べにてつつじは咲けりそのま白さを
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2014年06月20日
アガパンサスの花
アガパンサスの花
が、当本部に隣接する公園の濠周囲沿いに、咲き始めました。
可愛いうす青の小花をたくさん咲かせていますね。
この花は南アフリカ原産で、明治中期に渡来。英名はアフリカン・リリーで、和名では 紫君子蘭 (むらさきくんしらん)と。
碇登志雄の歌集『神幸』 に一首、転任で事務所を去る時の作です。その前後の作も併せ載せます。
今生にこの椅子につくことなけむ埃払ひに撫でゐたりけり
所長室を出で行く時に見返ればアガパンサスの花のうすいろ
したしみて通ひ馴れたるこの路よ小草みどりに雨のやまなく
(碇弘毅 記)
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この花は南アフリカ原産で、明治中期に渡来。英名はアフリカン・リリーで、和名では 紫君子蘭 (むらさきくんしらん)と。
碇登志雄の歌集『神幸』 に一首、転任で事務所を去る時の作です。その前後の作も併せ載せます。
今生にこの椅子につくことなけむ埃払ひに撫でゐたりけり
所長室を出で行く時に見返ればアガパンサスの花のうすいろ
したしみて通ひ馴れたるこの路よ小草みどりに雨のやまなく
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