明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
正月は中途半端な長さの休みでしたので、寝正月でした。たまにテレビを観て、食ってねるという生活。私は5日から仕事始めです。
正月のときにみていたドラマの一つを今回紹介したいと思います。「真田丸」という大河ドラマです。
・ 1.はじめに
・ 2.真田丸というドラマについて
・ 3.YouTubeの真田丸
このドラマが流行っていることは、以前から知っていました。しかし、日曜日のその時間帯は、「世界の果てまでイッテQ!」という番組をみているため、「真田丸」を録画してまでみる気にはなれませんでした。
年末に総集編を行っていましたので、我が家のHDDレコーダーに録画していました。それを年始にゴロゴロしながら、観ていました。
正直のところ、私は大河ドラマは余り観る派ではありません。今回少しだけみるかというつもりで録画していたものを観ました。
観た感想ですが、「大変面白く、心にぐっとくるドラマ」でした。
この主人公の真田信繁(さなだのぶしげ)という人物は凄い人です。歴史では教えてくれません。戦国時代から江戸時代初期に活躍していた人です。
この人の人生の大まかな流れを以下に示します。
・永禄10年(1567年)または元亀元年(1570年)に真田昌幸の次男として生まれた。兄は信幸。
・最初は甲斐国武田氏の帰属。
・織田・徳川連合軍の侵攻により、武田氏は滅亡。
・このため、真田氏は織田信長に恭順することに。
・しかし、織田信長はすぐに本能寺の変にて横死。
・これにより、武田遺領は空白域化となる。
・上杉氏・北条氏・三河国の徳川家康の三者で武田遺領を巡る争いが発生。
・そこで、真田氏は上杉氏に帰属して自立し、天正13年(1585年)に第一次上田合戦において徳川氏と戦闘(真田氏の勝利)。
・後に、明智光秀を討った羽柴(豊臣)秀吉が台頭する。
・豊臣秀吉が台頭すると、真田昌幸はこれに服属し、独立した大名となる。
・主人公の信繁は人質として大坂に移り、そのうち豊臣家臣(馬廻衆:今でいう超エリート)となる。
・見どころは信繁と秀吉や石田光成、ねねとのやり取りです。
・豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは、兄の「信之」は東軍側、父「昌幸」、「信繁」は西軍側に分かれることになる。
・「昌幸」と「信繁」は関ヶ原で合戦することはなく、居城上田城に籠り、38,000の徳川軍(徳川秀忠)を城に立て籠もって迎え撃った。
・関ヶ原の戦いは西軍は東軍に敗北。「昌幸」、「信繁」は本来であれば敗軍の将として死罪を命じられるが、兄「信之」と「本多忠勝」の取り成しにて、高野山配流となる。
・高野山の麓の九度山というところに、1600年から1614年まで14年間閉じ込められました。
→ 和歌山県九度山町のサイトです。
・慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化。
・このため、豊臣家は浪人を集める策を採り、九度山の信繁の元にも使者を派遣し、父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して嫡男大助幸昌と共に大坂城に入っています。
・見どころは、「大坂冬の陣」における「真田丸の戦い」、「大坂夏の陣」における真田隊の奮闘ぶりです。
・ドラマは戦場近くの寺社で休んでいたときに、自害したときで終わっています。
※ドラマに出てこないのですが、その後の真田一族の後世が凄いです。
・兄(信之):9万5千石の上田藩主→その後10万石松代藩
・正室(竹林院):京都で生涯を全うする
・真田守信(信繁の次男):伊達家(仙台藩)に召し抱えられ、真田四郎兵衛守信を称した。のちに(片倉久米之介守信)と改名。仙台真田家は現在も続いています。
・三好幸信(信繁の三男):出羽亀田藩主となった岩城宣隆のもとに引き取られた。元服すると三好左馬之介幸信と称し、扶持380石を与えられた。
・顕性院(なほ)(信繁の三男):出羽亀田藩2代藩主岩城宣隆の継室
YouTubeでNHKが配信している動画に「5分で分かる真田丸」というものがありました。これ全てみれば、各回の話しの内容は全て分かります。
↓Blu-rayも販売されていました。
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