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子供が家で宿題をやっていると、どうしてもわからなくなるところがあります。そんな時「もう勉強するの嫌だ。遊びたい」などと言います。これは嫌だという気分に流されているのです。子供にありがちなことです。いつもこういう態度では、辛抱して耐えて頑張るという習慣を身につける事は出来ません。こんな場合、親はどんな対応をしているでしょうか。「だめだよ。できるまで頑張りなさい。簡単にあきらめてはいけません。取り残されてしまいますよ」などとハッパをかけているのではないでしょうか。森田理論でいう「かくあるべし」の押し付けです。これではますます子供は勉強に対する意欲をなくしてしまいます。こんな時、まずイヤだという子供の気持ちを汲んでやることが大切だと思います。わからないからやりたくないという気持ちを受け入れてあげるのです。決して子供を非難したり、叱責してはなりません。そして次のように聞いてみましょう。「分からないからもうやめてしまうのと、分かってできるようになるのかとどっちがいいと思う」ほとんどの子どもは、 「それはわかるようになったほうがいい」と答えるでしょう。つまり子供は、自分1人では乗り越えられないような問題に出会ったときに、すぐに諦めてしまうという面もありますが、また一方では、なんとか問題や課題を乗り越えたいという情熱も持っているということなのです。そういう相反する二つの気持ちのせめぎあいの中で生きているのです。人間は放っておけば、苦しい事は避けたい、楽をしたいという気持ちに流されてしまいます。子育てをしている親が、子供のそういう気持ちに同調するようでは、教育にはなりません。苦しい事は避けたいという気持ちは汲んでやる必要はありますが、 「嫌な事はやらない」という気持ちは、親としては受け入れてはならないと思います。気分本位な態度を助長するからです。子供自身も、本心で望んでいることではないと思います。忍耐力のない大人になったとき、親を逆恨みするようになるかもしれません。子供自身はできないことができるようになり、自信をつけて成長していきたいと考えているのと思うのです。ここで必要なのは、子供が簡単に気分本位に流されないようにすることです。そのためには、どうしたら勉強に取り組んでいけるのか、親が子供と一緒になって考えてみることです。例えば、1人では難しければ、親も一緒になって取り組んでみる。親が解いてみて、子供にやり方を教える。問題自体が難しければ、もっと易しい問題を出してみる。他の宿題などをして、気分転換を図ってみる。などなど。山本五十六の言葉に、「やってみせ、やらせて見せて、ほめてやらねば人は動かず」と言う言葉がありますが、子供がくじけそうになった時は、親が松葉杖となって、子供をサポートしてやるという気持ちが大切なのではないでしょうか。これは森田理論で言うと、子供に「かくあるべし」を押し付けずに、子供の現状に寄り添い、そこから一歩上の目標を目指していけるように、親が子供を援助していくということなのです。森田理論の事実本位の生き方は、子供のしつけや教育にとても役に立つ考え方なのです。
2018.10.12
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作家の故遠藤周作さんは、次のように書いています。「小学校も中学も不成績で、周囲の者や親戚の人たちから馬鹿にされるばかりか、学校の先生からも馬鹿あつかいを受けて、自分でも俺は本当に馬鹿ではないかという劣等感に悩まされた。そうしたときに、母は、 「お前には1つだけいいところがある。それは、文章を書いたり、話をするのが上手だから、小説家になったらいい」と、言ってくれた。とにかく、算術はからっきし出来ないし、他の教科も散々だったが、小説というのか童話と言うのか、そんなものを書いて母に見せると褒めてくれるので、それを真に受けて、大きくなったら小説家になろうという気持ちを、その頃から持つようになったのだが、 (略)もし、その当時、母が他の人たちと一緒になって、私を叱ったり馬鹿にしていたら、私と言う人間はきっとグレてしまって、現在どうなっていたか分からないという気がする。母は私の1点だけを認めて褒め、今は他の人たちはお前のこと馬鹿にしているけれど、やがては自分の好きなことで、人生に立ち向かえるだろうと言ってくれたことが、私にとっては強い頼りとなったといえる。実際、小説家となった今日、あの母はいなかったら、小説家にならなかったに違いないと思う」 (本当の私を求めて 遠藤周作 海竜社)遠藤周作さんは、勉強ができなかったようです。普通の教育ママなら勉強ができない子供を叱責するのではないでしょうか。そして最後には、あきらめて子供を放り投げてしまうのではないでしょうか。遠藤周作さんのお母さんは素晴らしい対応をされたと思います。どんなに勉強やスポーツができなくても、かけがえのない子供として、絶えず身近なところにいて見守る。子供の存在を認める。そして子供の可能性、興味や関心のあるものを見つけ出す。そこを評価し、褒めて意識付けをする。様々な経験を積ませる。遠藤周作さんは母親の励ましによって、自暴自棄にならず、小説家として自立することができたのです。私たちも、上から下目線で子供を価値評価するのではなく、子どもの現状に常に寄り添って、もともと備わっているものを見極めながら、子ども自身が人生を切り開くために協力したいものです。考えてみれば、これが森田の事実本位を子育てに活かすということだと思います。 「かくあるべし」を前面に押し出す人は、とてもこのような子育ては出来ないと思われます。
2018.10.10
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「家庭と学校に活かすアドラー心理学」 (古庄高 二瓶社)にこんな話が紹介されていた。5歳児の子供たちが箸を使って70個ほどの小豆をつまみ、別の皿に移しかえる練習をしました。箸を使うこと自体が、 5歳の子供にとってはやさしいことではありません。小豆は小さくて表面が滑りやすいですから、 1つ摘むだけでも大変です。手先があまり器用でないFくんは、何度も失敗した後、 1つ目の小豆をやっとつまめたときは、きょとんとした表情をして先生を見ました。先生は黙ってうなずくと、 2つ目の小豆に挑戦しました。ところがうまくいかず、また先生の顔を見ました。そこで先生はもう一度うなずきました。こうして成功したり失敗したりしながら、ペースは遅いものの、徐々にできるようになりました。他の子供よりかなり時間がかかりましたが、 70個の小豆を、別の皿に移し変えることができました。70個が終わったときには、得意そうにしていました。今度は70個の小豆を元の皿に戻す練習をして、とうとう、それもやり遂げました。手先の器用な子供は、その間に3回も移すことができました。Fくんは家に帰ってから、誰からも言われなかったのに、自分から練習したそうです。Fくんは、箸で小豆つまむことに最初から興味があったわけではありません。また、最初のうちはうまくいかず大変悪戦苦闘しました。それなのに、家に帰ると、自分から練習したのです。日ごろから努力家というわけではありません。それなのに自分からやろうとする気持ちになった事は、大変嬉しいことです。他の子供に比べて動作が遅いと、親はつい「何をもたもたしているの。もう○○ちゃんはとっくに終わっているのよ」ともどかしい気持ちになってしまいます。子供はまだ未熟ですから、大人のようにはできません。また、箸の使い方が不十分な子供は、上手な子供に比べて見劣りがします。そういう子供を否定、非難することは百害あって一利なしです。子供はすっかりやる気をなくし、小豆を放り投げてしまうかもしれません。こんな時は、子供が出来るまで近くにいて見守ってあげる。そして1つの小豆をなんとか移し替えたら、その成功を一緒に喜んであげる。そのような態度が、子供自身の成功体験に結びつき、満足感と自信でいっぱいになる。次第に意欲が高まり、粘り強く挑戦するようになる。これらの行為は子供の自立にとってとても大切なことだと思います。子供と接触する場合は、大人が「かくあるべし」を振りかざしたりしないで、今現在の子供の状態に寄り添って、子ども自身が一歩上を目指すように見守る態度が大切なのでしょう。そしてできたことをともに喜ぶ。失敗しても「誰でも最初からうまくはできないのよ」「頑張ればそのうちできるようになるかもね」と励ます。そうすれば子供はいろいろな能力を身につけて、次第に親から離れて自立していけるようになります。子育てに森田理論の事実本位の生き方をぜひとも応用したいものです。
2018.10.02
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小さい子供達がキャンプに行くと飯ごう炊飯をしたり、カレーを作ったりします。薪を集め、マッチで火をつけようとします。やったことのない子供たちは最初はうまくできません。火がついても、どうしたら木を燃やすことができるのか分かりません。カレーの材料を包丁で切り刻んでいくのも、とても危なっかしいものです。いろいろと挑戦をするのですが、モタモタして、時間ばかりが過ぎていきます。それを見ると親たちは、ヒヤヒヤハラハラし、とてもイライラするのではないでしょうか。その時子供たちは、なんとか目的を達成したいと思っているのです。でも、片方で 「どうしたらいいの」 「自分のやり方は間違ってないのか」と思っています。その時に、すぐに周りの親たちが、やり方を教えるのが普通だと思います。すぐに助け船を出すのです。こういう態度は大きな問題なのではないでしょうか。子供たちはみんな好奇心が旺盛です。すぐに答えを教えると、その時点で子どもの好奇心や意欲、また豊かな発想や考え方はできなくなってしまいます。さらに、困難なことがあるとすぐに親に甘えて依存し、自立心のある子供に成長することができません。子供たちのすることは、モタモタして、出来栄えもよくありません。子供たちは、自分から発言したり、絵を描いたり、歌を歌ったり、体を動かしたり、何か物を作ったりする時、子供なりに精一杯頑張っています。ただ手先がぎこちなく、経験がまだ不十分なのでうまくいかないのです。それは親から見ると、危なっかしく、もどかしくて、安心して見ていられないのです。だから親が自分の不快感を払しょくするために、すぐに子供に介入してしまうのです。森田で言う「かくあるべし」を全面的に打ち出して、結果として子供を批判していることになるのです。しかし、子供がやったことに対して、親が批判、否定すると子供達は大変傷つきます。このような子育てをしていると、思春期になると、一気にその反動が表面化し、親子の断絶を迎えるようになるのです。親は、子供が小さい時から、子供に寄り添って、目線を同じにして、励ましてあげることが必要です。森田理論で言うと、子供の今現在の事実に、親のほうから歩み寄ることです。「時間がかかってもいいから、ゆっくりやろうね」 「初めてやる事は、失敗するのが当たり前だよ」 「うまくできなくても、挑戦することが大切なんだよ」 「何回も挑戦しているうちに、きっとできるようになるよ」 「お父さんやお母さんは傍で見ててあげるからね」 せっかく森田理論を学習しているのですから、子育ての中で活かしていきたいものです。そのように心がけることで、次第に自分自身も事実本位の生き方を身に付けていくことができるようになるのです。
2018.09.29
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子供たちはよく兄弟喧嘩をします。喧嘩がエスカレートするとすぐにものを投げつけたりします。殴ったり蹴ったり力任せの喧嘩になることもしょっちゅうです。こんな時、親はどう対応しているでしょう。「どうして喧嘩なんかするの」 「喧嘩なんかしちゃだめでしょう」 「弟に優しくしてあげなさい」 「そんなことをして怪我でもしたらどうするの」「物を投げつけて家具などが壊れたらどうするの」これらの対応は、親のほうに、 「兄弟はいつも仲良く遊ばなければならない」 「兄弟喧嘩は止めに入らなければならない」「暴力は絶対に止めなければならない」などという「かくあるべし」を基にして対応しているように見えます。親が親自身の判断や解釈や結論を、子供たちに押し付けていることになります。喧嘩をしているのだから、 「子どもは正しくない」 「間違っている」と断定し、子供の感情や考えを頭から無視し、否定しています。しかし、子供の不適切な行為に対して、親が最初から説得したり説教したりすることは、かえって子供の心を頑なにしてしまいます。結果はいつも裏目に出てしまいます。子供の考えを変えさせたいのであれば、別の行動や態度の方がよいという事を、子供自身が納得できるようにしなければなりません。こんな時、森田療法理論を活用できないものでしょうか。森田では、すぐに自分の価値判断を押し付けるのではなく、目の前の出来事に注意を集中します。例えば次のような言い方になります。親 「どうして兄弟喧嘩をするの」 「何か理由があるの」兄 「だって、弟が僕の邪魔をするんだもの」親 「どうやって邪魔をするの」兄 「僕の作った積み木のお城を壊すんだ」親 「それで腹が立ったんだね。その気持ちは分かるよ」「どうしたら喧嘩しなくても、(弟は)壊さないようにしてくれると思う」これは、問題となる事実をあるがままに認めているのです。頭ごなしに子供の行動や考え方を否定しているのではありません。非難や否定の言葉は出てきません。親が問題行動の事実関係を正確に把握して、子供と一緒になって、この問題を検討し、子供とともに問題を解決しようとしているのです。兄の弟に対する怒りや憤りを認め、それをできるだけありのままに理解した上で、子供と一緒に解決方法を探るようにしているのです。森田理論で言うと、問題行動をしっかりと観察・認識し、そこから子ども自身が解決策を見つけるために親が援助をしているのです。こういう対応を森田では事実本位といいます。 「かくあるべし」の押し付けとは正反対の対応です。子供に問題行動が起きるたびに、親がその事実に寄り添い、その事実から解決策を考えるというように子供に接していると、その子供は事実本位の生き方を自然に身に付けてゆきます。反対に批判、叱責、否定、拒否、抑圧の対応を繰り返していると、子供自身も「かくあるべし」が肥大した人間に成長してしまいます。 「かくあるべし」が肥大してくると、辛い人生が待ち構えています。「かくあるべし」が強い人は、子育ての中で「かくあるべし」を乗り越えていくことを目指していくべきでしょう。(家庭と学校に活かすアドラー心理学 古庄高 二瓶社参照)
2018.09.27
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少年院で1000人以上の子供たちとの出会いを経験された魚住絹代さんのお話です。少年院にやってくる子供たちは、否定され、押さえつけられ、無視され続けてきた。そしてさらに複雑な傷を生み出し、行動を悪化させていった。こうして歪んだ方向に枝分かれして少年院にまできてしまったのである。彼らの立ち直りのプロセスは、文字通り育ち直しでもあった。だが、成長した彼らは、赤ん坊と同じようにはいかない。こちらの言う通りにさせようというやり方では、たとえうわべは従ったとしても、根本にある問題は改善しない。魚住さんは、そういう子供たちを3つのパターンに分けて対応を変えておられる。まず、グリーン・ゾーンの子供は、前向きな素直さと自己修正能力がある。ときには問題が起きるか、注意したり、教えられれば、それを受け入れて、問題点を正そうとする。グリーン・ゾーンの子供のは、居場所があるということだ。困ったことがあっても、 学校や家族など信頼できる身近な人に相談して解決する力を持ち合わせている。こういう子供は良い事は褒め、悪い事は叱るというスタンスをしっかり保持すれば、持ち前の力を発揮していける。次にイエロー・ゾーンの子供とは、素直でない反応が目立ち始めている一方で、まだ、親や教師の信頼を完全には失っていない。ただ、素直に自分の非を受け入れて正すよりも、周囲の非を責める傾向が見られる。自分の意思が曖昧にぼやけてきており、周囲の空気に流されがちで、状況次第でどちらにも転がる危うさがある。家族とは、まだ表面的にはつながっているが、本音の部分は話さなくなっている。居場所や安心感を失いかけているという状況もしばしば見られる。もう一つの特徴は、目標や意欲を失いかけていることである。それまで、頑張っていたことに積極性をなくしたり、やめたいと言ったりする。肝心なことよりも、どうでもいいことに、長い時間を使うことが目立ち、集中力や成績も低下してきている。イエロー・ゾーンにいる子供は、すでに通常の指導だけでは不十分である。特に、厳しく叱っかったり、否定的なことを言ったりすることは、事態の悪化に拍車をかけやすい。こうした子供たちには、少し接し方を変えて、本人の居場所や存在価値を取り戻すようにこころがけるだけで、安定を回復しやすい。レッド・ ゾーンの子供の最大の特徴は、家庭にも学校にも居場所がなくなっていることだ。どちらにも信頼できる存在がおらず、孤立したり、支配を受けたりしている。誰ともつながれなくなっているため、親や教師に対して、反抗的な態度が常態化したり、自室に引きこもったりなどの行動状の問題が強まっている。もう一つの特徴は、目標や前向きな意欲を完全に失い、投げやりになっていることだ。ネガティブな考え、感情が強まり、悪い点にしか目が向かない。反抗的な態度を示す一方で、自分に自信を失い、自己否定も強まっている。現実的な努力を放棄し、無気力で逃避的な行為にふけり、有害な存在や関係に居場所を見出そうとすることもある。致命的なことが、いつ何時起こりかねない危険な状態だといえる。この状態では、通常の指導は役に立たないどころか、逆に本人を追い詰めてしまう。叱咤激励などは、反発か嫌悪の材料にしかならない。このような観点で、今子供たちの状態がどの段階にあるかを把握することが大切である。グリーン・ゾーンならば、問題が起きたからといって、慌てる必要はない。むしろ過剰反応をしないことが大事だ。イエロー・ゾーンに入っている場合は、本人は対応次第で、どちらにでも転びうる大事な分岐点にいる。本人を支え、日々の対応を変えていくことで、問題は落ち着いていくことが多い。レッド・ゾーンのケースは、もはや歯止めが取れてしまった状態だ。何が起きても不思議では無い状況で、早急にチームを組んだ適切な介入が必要である。見極めの視点としてとても大事なことが2つある。 1つは子供たちに安心感と居場所が確保されているかどうか、ということである。さらに愛着障害を抱えていないかどうか。もう一つは、本人は存在価値が自己有用感を味わえているかどうかということだ。学業、部活などの課外活動、習い事など、それにどの程度主体的に取り組んでいるのか、やりがいや楽しさを味わえることがあるのか、成果や達成感が生まれているのか、それとも、無理強いされながら、いやいや取り組んでいないか、伸び悩みや挫折感を味わっていないか、といったことが重要になる。ここから突破口が開けてくる手がかりが見つかることが少なくない。(子どもの問題をいかに解決するか いじめ、不登校、発達障害、非行 魚住絹代 PHP新書参照)
2018.09.16
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集談会に参加していると、不登校や引きこもりの子供を抱えている方がおられる。これについて、 「森田療法で読む、社会不安障害とひきこもり」(北西憲二・中村敬編 白揚社)という本がある。参考になると思われるので、ぜひお勧めしたい。今日はこの本の中に書かれているポイントを紹介したい。不登校やひきこもりの子供の特徴は、負けず嫌い、頑固、誇り、プライド、人に認められたい、あるいは何もかも自分の思う通りにしたいという強い欲望を持っている。うぬぼれが強く、自己愛がとても強い。また白か黒か決めつけることが多く、何事も完璧でなければ気がすまないという特徴がある。森田理論で言うところの強力な「かくあるべし」の持ち主である。しかし現実は決して自分の思い通りに事は運ばない。理想と現実のギャップで葛藤を抱え苦しんでいる。それでは、不登校やひきこもりの人がどんな葛藤や苦しみを抱えているのか。ひきこもる人たちは、人間関係で過度に周囲を気にしてしまい、他者のささいな言動に傷ついてしまう人たちである。人に対し、繊細だったり拒絶されるのを恐れる傾向があり、いつもおどおどして周囲に気を遣っている。他者に受け入れられないことへの不安から、常に自分を抑えて、無理に人と合わせてしまう。そして、そのような自分に疲れはてて、またそのような自分が嫌で仕方がないのである。人との関係でつねに無条件に受け入れてもらいたいと望むがゆえに、逆に他人のささいな言動に傷ついてしまうのである。それに繊細で人前でびくびくしている自分が嫌で嫌で仕方がないのである。これをまとめてみると、ひきこもりの人は、普通の人と比べると「かくあるべし」が非常に強い。人にいつも無条件で受け入れられたい。いつも自分がその中心にいてちやほやされ、大切に扱ってもらいたい。最大限に評価され、いつも一目置かれる存在で在り続けたい。などという気持ちが強く、生きているということは、そのような人間にならなければ意味がないと考えているのである。しかし現実はその反対のことが、頻繁に繰り返されている。最初は抑うつで苦しんでいた。そのうちそのような予期不安で取り越し苦労をするようになってきた。しだいに人を避けるようになってきた。それが進行して、不登校やひきこもりに発展してきたのである。そういう意味では、ひきこもりは危険に対する1種の防衛反応とみることができる。しかし「かくあるべし」という欲望とその防衛反応のバランスが崩れている。一方的に防衛反応にばかり注意や意識が向いているので苦しいばかりである。親も「かくあるべし」が強いので、家族全体がその悪循環にはまり込んで、アリ地獄の底に落ちたようなものである。そういう意味では、不登校やひきこもりの問題は、単に子供だけの問題ではなく、家族の問題として取り上げることも必要である。家族の中で解決しようと思うわず、自助グループへの参加や専門家の協力を仰ぐことも必要である。ここで役に立つのは森田療法理論である。前提として1番大事な事は、森田では、他人の言動を過度に気にするということを、打ち消そうとしてはならないという。不安な感情を取り除いたり無くそうとするのではなく、そんな感情がわき起こった事を、是非善悪の価値批判なしに、受け入れていくことが大切である。家族が不登校やひきこもりの子供を叱咤激励してはならないのである。親はどうしてもそのような対応になりがちであるので、事態を悪化させることになる。第三者が悲観的でネガティブな感情は自然現象であり、どうすることもできない。自分を守る自然な反応として容認する。性格的に弱い傾向がある自分を素直に認める。決してそんな自分を虐めたり否定しないようにする。その感情から逃げたり、取り除こうとするのではなく、価値批判なしに持ちこたえることが大切なのだという事を分かってもらうようにする。ここまでくればかなりの改善である。この先は目の前の日常茶飯事や自分の好きなことに徐々に注意や意識を向けていく。森田理論で言うところの、不安や恐怖を抱えたまま、目の前のなすべき事に取り組んでいくのである。しかし、あまりにも性急にそのことを助言すると、不登校やひきこもりの人は回復の道筋から脱落してしまう。親がひきこもりの回復の道筋をよく学習し、よく理解しておくことが必要である。そして実際には専門家の協力のもとに実施することが大切である。不登校やひきこもりは、すぐに改善するようなものではない。また一歩前進しても、二歩後退という事はよくあることだ。他の支援者の協力を仰ぎながら、子供に寄り添い長期戦で取り組むことが必要である。その他の様々な問題や詳しい事は、ぜひともこの本を読んで参考にしていただきたい。
2018.06.29
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何かにつけて子供の前で母親が父親を否定することは極力避けた方がよいようだ。あるいは子供の前で父親が母親を軽蔑したり、非難し罵倒することも避けたほうがよい。例えば父親がイライラして大きな声を上げたとする。それに対して母親は、子供の前で、あわれっぽく涙ぐみながら、 「お父さんみたいな人は大嫌い。あんな人と暮らすくらいなら、お母さんは、もう死にたい」と言ったとしよう。子供は、父親が母親を苦しめていることに対して、激しい怒りと敵意を抱くだろう。父親を尊敬する気持ちが萎えて、父親なんかいらないと思うかもしれない。しかし、同じ状況でも、賢明で成熟した母親は、全く別の言い方をする。「お父さんは、いつもは優しい人なんだけれども、仕事で疲れていて、イライラしてたのよ。もっと優しくしてあげましょうね」こうした母親の反応は、子供が父親に憎しみや敵意を向けることを防ぎ、父親に対する尊敬や思いやりを守るだけではない。母親に対する信頼や、ひいては他者全般、世界全般に対する信頼を守ることになるのである。それだけではない。相手の気持ちを思いやる母親の受け止め方は、子供に表面的な反応だけではなく、その背後にある状況を考慮して物事を理解するという態度を身につけさせるだろう。それこそが真の共感性を、親の愛情を育む力を育てることになる。そして最終的には愛するものを守り、わが子を守ることになる。子どもの前で、父親を否定するような言い方をすることは極力避けた方がよい。むずかしいことだが、不幸にして離婚に至ったという場合にも心すべきだろう。子どもの中に作られる父親像を傷つける事は、父親との葛藤を深めるだけではなく、その子の将来の他者との関係、その子が将来持つことになる子供との関わりに影響したり、女の子の場合には、夫との関係を困難にしたりする危険があるということを肝に命じておきたい。(父という病 岡田尊司 ポプラ社 298ページより引用)現在アメリカでは3人1人が離婚しているという。日本でも10人1人は離婚していると言われている。しかし、実態はさらに深刻である。同じ屋根の下に住んでいても家庭内別居状態の人はそれ以上に多いものと思われる。どなたも自分の身の回りの人で離婚、あるいは家庭内別居している人が何人もおられることと思う。本人同士がにらみ合い、没交渉で気まずい思いをしているだけなら、それでよいのではないかと思う人もおられるかもしれないが、問題は子供に与える精神的な悪影響の方である。夫婦のやりとりを見て、子供は人間関係のあり方を学習していく。普通はいつも対立を繰り返し、夫婦喧嘩をしていても、決して相手の人格を否定するような言動はしない。夫婦が支配被支配の関係にはない。お互いが自分の主張をとことん相手にぶつけていく。そしてゆず譲ったり譲られたりしながら、なんとか妥協点を見つけ出していく。表面的にはいつも波風が立っているが、根本的なところではお互いに相手を信頼しあっているのである。そういう父親や母親を見て育った子供は、自己主張ができるようになり、また対立関係に陥った時、相手を否定するのではなく、妥協点を見つけて調和を目指すことができるようになる。根本的なところで相手を信頼することができず、相手を自分のコントロール下に置こうとしている夫婦関係では、将来子供に与える悪影響は計り知れない。森田理論学習では、 「かくあるべし」で他人を自分の意のままにコントロールしようとしてはならないという。これは手始めに夫婦の人間関係から始める必要がある。事実をよく見極めて、事実に基づいて妥協点を見つけ出していくというところから出発していく必要があるのである。
2018.04.24
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男の子は、父親をモデルとすることが多いため、父親というモデルの不在が、その後の男性や父親としての行動を困難にし、恋愛や子育てといった営みに支障を生じやすい事は容易に理解できる。では、女の子の場合はどうなのだろうか。女の子は、通常は母親をモデルとすることが多く、母親や母親との関係に問題がなければ、父親の不在はあまり影響しないのだろうか。どうやらその答えも否のようだ。スウェーデンで行われた研究の結果は驚くべきものだった。女性とパートナーや夫、息子との関係は、その女性の母親との関係よりも父親との関係がどうであったのかにに影響されていた。父親が児童期から青年期において、娘に程良い支えや励ましを与えている場合には、娘もまたパートナーや息子に対して、程良い世話や関わりをしやすいのだ。しかし、不幸にして父親が無関心だったり暴力的だったり、過干渉で支配的だったりすると、娘も極端でバランスの悪い関わりをしやすい。良好な人間関係作りを困難にする。過度に尽くすかと思うと、その一方で支配したり、見放したりと言う落差が大きくなりがちだ。また父親の不在は夫に対しても子供に対しても過度に理想化した存在を求めがちになる。それが裏切られると強い失望や怒りを生み、誰よりも求めているはずの安定した家庭を手に入れにくくする。(父という病 岡田尊司 ポプラ社 199ページより引用)父親の不在は男の子の場合、モデルがいないため同一化に支障をきたす。この発達過程を経験していないと、大人になったときに、困難でいばらの道を歩まざるを得なくなる。岡田氏は、それは男性の場合だけではなく、女性にも当てはまるといわれている。生まれて1歳6か月までに母親とのかかわり合いの中で愛着の形成が欠かせない。その後は父親と子供の適切なかかわり合いが、その後の人生を大きく左右することを忘れてはならない。私たちは、両親と子の関わり方が、子供のその後の人生に大きな影響を与えていることを学習して、認識する必要があると思う。家庭教育、学校教育、社会教育の中で、子供の発達心理学、森田理論学習などは必須科目に指定してもよいぐらいに思っている。人生の中でなるべく早く学習しなければならない必須科目なのである。
2018.04.23
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子供が社会に適応し、自立していくためには、身近に存在する親を参考にしている。特に男の子の場合は、父親を自分のモデルとして、師として、その1挙手1投足を、関心や価値観を、意識的無意識的に取り組んでいく。この事を心理学では同一化という。子供の発達過程では4歳の頃から始まるという。母子密着の次の段階である。子供は父親を自分の同一化する身近な存在として見ているのである。喋り方や感情的な反応の仕方、行動や考え方まで貪欲にコピーして取り込んでいくのである。実際子供は父親のしている事を真似ようとする。父親が車を洗い始めたら、自分も洗いたがる。父親がノコギリを挽くと、自分もノコギリを使いたがる。父親が美味そうにビールを飲んでいると、子供も牛乳を美味しそうに飲むように真似る。父親は子供の要求を十分に受け止め、満足してやることが、外に向かおうとする意欲を、現実的な力にすることができる。こうして母子密着の状態から離れ、社会という現実の仕組みの中に入っていくことができる。この同一化のプロセスは、まさにコピー・プロセスであり、良いところも悪いところも関係ない。同一化が起きると、父親の良い特徴だけではなく、悪い特徴も取りこまれ、似た特性を示すようになる。もともとその子が持っているものを越えて同一化の影響は及ぶとされている。(父と言う病 岡田尊司 ポプラ社 113ページより引用)この同一化を正常に切り抜けて成長していくということが、その後の子供の人生に多大な影響を与える。子供は父親をモデルにして、社会への適用の仕方、困難の乗り越え方、人付き合い、欲望の制御、交渉の仕方、職業選択、能力の高め方などを自然に身につけていく。そして自立した人間に成長していく。問題は、父親がその役割を果たしていない場合である。離婚や病気、ネグレクト、仕事の関係などで子どもと関わりを持てない場合である。こうなると、母子密着状態が続いてしまう。あるいは母親が父親の役割を果たすことになる。母親が父親の役割を肩代わりしようとすると、過度なしわ寄せがおきやすい。私の父親はアルコール中毒で肝臓を悪くして52歳で亡くなった。亡くなる前は30代後半から昼間っから酒を飲むような生活をしており、 1日中酔っぱらっていた。母親や祖父たちといつも言い争いをしていた。私はその影響からか、オヤジのような人間にはなりたくないといつも思っていた。つまり私の父親は、私にとって同一化の対象にはならなかったのである。その代役もいなかった。1人の人間の発達過程から見ると、身近なモデルはなかったために、社会性、職業選択、技術の習得、人間関係、挑戦性、意欲などが全く身に付かなかった。そのおかげで、社会の荒波の中で適応することがとても困難となった。他人は恐怖以外の何物でもなかったのである。注意や意識は内向化し、本来外に向かうエネルギーは、自分を傷つける道具となった。対人恐怖症となったのも、父親という模範となるべき存在を欠いていたことが、私の1番の原因ではないかと考えている。今では神経症は自分の人生を見つめ直すために大いに役立った。その原因は父親から受け継いだと思って感謝している。だがもし父親が自分の果たすべき役割を多少なりとも認識していてくれたならば、もう少し違った人生を歩んでいたかもしれないと思う。
2018.04.22
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父親の子育ての重要な役割は、子供にストップをかけることだ。それが、子供自身の中に、自己をコントロールする力として取り込まれていく。ストップをかけ、掟を守らせる存在としての父親は、子供がスムーズに社会に出ていく上に置いて重要な役割である。父親が子供のやりたいことをする権利を早くから認めてもいいと考える家庭と、あまり早く認めない方がよいと考える家庭で比べると、後者の父親の子供の方が、成績も良く、よく努力する傾向が見られ、また、非行に走ったり、性的な放縦に陥ったりするリスクも少なかった。一方、母親がどう考えているかは、あまり関係なかったという。この研究は、父親が子供にやりたい放題を許すのではなく、子供の行動に一定の制限をかけてコントロールすることが、子供の成長には望ましい影響を与えることを示している。そうしたブレーキをかける役割として、父親が一定の役割を果たしていると考えられる。父親が不在だったり、いても、抑止機能が働いていない場合には、子供が行動のコントロールを失い、無軌道で放縦な生活に陥ったり、学習面でも成果は出ない一因となると思われる。甘いだけの父親では、ダメなのだ。一方、別の研究では、父親に対して、子供が親近感を持ち、父親から受容されていると感じている子供の方が、自己肯定感が高く、身体的な不調が少なかった。父親が押さえつけるだけではなく、子供を受容することも、子供の安定には必要なのだろう。制限と受容のバランスは、父親が子どもに関わる上で、大事なポイントだと言えるだろう。(父という病 岡田尊司 ポプラ社 85頁より引用)現代の父親が子どもにどういうふうに関わっているのか。子供を過保護に育てている。過干渉ぎみに育てている。子供にかかわらず放任状態で育てている。このどちらかに偏っている場合が多いのではないだろうか。それでは思春期を迎え、成人を迎えた頃に大きな問題となって表面化してくる。子育ての場合、特に重要な事はバランスであると思われる。時にはバランスが崩れてもよいが、いつかバランスを取り戻すことは必須である。そのためには母親と話し合い、あるいは他の夫婦の子供の育て方を参考にしたり、子育ての本を読んだり、子育ての自助組織に参加して学んでいくことが大切だと思う。その際岡田尊司氏の著作は欠かせない。その時は大変だと思うが、後でその効果がじわじわとでてくるのではないだろうか。反対にそのことを怠っていると、とんでもないしっぺ返しを食らうことになる可能性が高まる。
2018.04.21
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常識で考えると、子供が小さい頃、父親が友達感覚で触れ合う事は、とてもよいことのように思われる。岡田尊司氏は、献身的な父親が必ずしも良い子育てができるわけではないと言われる。小さい頃から受容的に接しすぎ、子供にブレーキをかけるということをしていないと、子供は誇大な万能感を持ったまま大きくなってしまう。少なくとも4歳から5歳頃、父親の厳しい面を味わっていないと、後から歯止めをかけることは難しい。特に思春期になってしまってからでは手遅れになるといわれている。遅くできた子供だったり、養子の関係で遠慮があったりすると、本人に対する態度が腰が引けたものとなり、甘くなりがちだ。誰しも子供に嫌われたりすることを好まない。どうしても子供を甘やかされてしまうのが一般的である。特に核家族では問題点が隠れてしまう。しかし、子供を育てるということは、父親としては、父親の役割をきちんと果たすことが大切である。普通父親は仕事が忙しくて、母親のように四六時中子供のそばにいてやる事は難しい。それを理由にして、子育てのすべてを母親に任せてしまうのは大きな問題である。そうなると子供は依存的になって、母子密着状態になりやい。内向的で、行動力が鈍くなる。神経症の温床を作っているようなものだ。父親は、時には早く帰って子供と接する。また土曜日や日曜日などは意識して子供と過ごすようにする。その際、基本的には子供を暖かく見守りながらも、わがまま放題を許さないで、適度に制御することが大切なのである。バランスの問題である。欲望の暴走を適度に制御していると、子供が成長したときに大いに役に立つのである。そうした役割を父親が果たさないと、思春期以降、子ども自身、自分の様々な欲望を制御できなくなり、反社会的な行動をとるようになる。例えば本能的欲望を制御できないと大きな問題になる。そのうち社会から排除されて、生きていくことが難しくなっていく場合も出てくる。こういう役割は、母親ではなく主として父親が果たすべき役割なのである。また母親が父親に対して支配的な家庭では、父親が尊敬される存在と言うよりも、 一段低く扱われる。このような傾向のある家庭も子供に悪影響を与える。子供は母親の言葉や態度から、父親は尊敬に値しない存在だと思ってしまうようになる。特に男の子供がそのように思うようになると、アイデンティティの確立ができなくなってしまう。それは父親という身近な手本がないために、同一化という目標が持てないのである。一人前の男性として自立していくための、必要な教育の機会が持てなくなってしまうのだ。対人関係、社会関係、冒険心、チャレンジ精神、困難を乗り越えていく気力などを、父親から学ぶことができなくなってしまう。そのような状態で社会に放り出された場合、予期不安ばかりで適応不安を起こしてしまう。右往左往して戸惑うばかりで、社会に溶け込めないで、生きづらさを抱えやすくなってしまう。今までは、子供の教育やしつけについては、その大部分を母親に任せている家庭は多いと思う。岡田氏の本を読んでいると、それは論外であるということがよく分かる。子供を持とうとしている親は、まずは先人の子育てのコツを学習するべきであると考える。そのためには、岡田尊司氏の著作は大変参考になる。(父と言う病 岡田尊司 ポプラ社 84ページより引用)
2018.04.20
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デンマークで生活をされている千葉忠夫さんは次のように指摘されている。日本では高校生になっても、社会人になってもお弁当を作ってもらっている人がいます。これは過保護です。デンマークでは学校給食はありません。すると、 「お母さんがお弁当作ってあげないといけないんだろうな」と思う人は少なくないでしょう。デンマークでは、ほとんどの子供が自分で自分のお弁当を作ります。これが常識になっているのです。それは国民学校に入学する6歳の頃から教え始めているのです。もちろん、 6歳の子供が作るお弁当はサンドイッチぐらいです。親が具を用意して、子供はそれでサンドイッチを作って持っていく。2年生ぐらいになると、自分で全部用意できる子供もいます。もし、朝寝坊してお弁当作れずに学校に行った時はどうなるか。他の子供はお昼にお弁当を食べているけれど、自分は食べるものがありません。教師はその子供のお弁当をすぐに手配したり、何か食べるものをあげる事はありません。なぜなら、自分が朝寝坊したからです。自分が取った行動によって起こる結果、それは自分で責任を持たなくてはなりません。だから、すぐに手を差し伸べることはしないのです。自立心は、このようにして子供の頃から教えていかなくてはいけないという考え方があるのです。日本の常識はデンマークの非常識ということになります。今まで食べるものも着るものも、手取り足取りすべて面倒を見ていたというのに、社会人になった途端、自分の事は自分でやるようにと突き放したら、子ども同様、親も右往左往してしまうでしょう。失敗も繰り返すでしょう。立派な大人になってほしいのであれば、子供の頃から色々とやらせてみて、失敗も経験させ、自分でできることに責任と自信を持たせるとともに、達成感も持たせなくてはいけないのです。その結果、デンマークでは、国民学校を卒業する15歳から16歳の頃には自立心がある程度完成されているのです。なんでもやってもらえると思っている日本の高校生とは大きな差が出てきてしまうものです。(格差と貧困のないデンマーク 世界一幸福な国の人づくり 千葉忠夫 PHP新書720 163ページより引用)日本ではいつまでも親から自立できない人が多いように思います。それは親が自分がやってあげなければ子供は何もできないのだという気持ちが強いのだと思います。その結果、高校生、大学生なっても、食べる事は全部親任せ。掃除、洗濯もすべて親任せ。生活費のすべても親ががりになっています。アルバイトをしても、自分の友好費のためにだけ使ってしまいます。大学に通っている子供が生活費を自分で賄っているという話はほとんど聞いたことがありません。これでは将来親がいなくては子供が自分ひとりで生きていくということはできなくなります。依存体質の子供が出来上がってしまうのです。なかには仕事をしないで、親の年金や遺産をあてにして生きていこうとしている人もいます。この原因は子供の責任ではないと思います。親が子供が小さい時から、将来に備えて子供を自立させようとするきちんとした教育方針がないから起きている現象だと思います。キタキツネなどは子供が餌を自前で調達することができるようになると、むごいようですが、親が牙をむいて子供を自分たちの巣穴から追い出してしまいます。そうしないと、将来子供が自活できなくなって死んでしまうから、強気の態度に出ているのです。究極の親の愛なのです。森田では自分のしなければならないこと、自分のできることは安易に他人に依存しないで、自分で手をつけなければならないと言っています。生活のほとんどを親に依存していると、内向的、無気力、無関心、非活動的で消費一辺倒な子供たちが大量に作り出されてしまいます。日本の自立心のある子供の育て方はデンマークなどの外国から学ぶ必要があるようです。
2018.04.11
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世界的な経済大国のはずの日本が今や、格差社会、貧困率の上昇、高い自殺率、少子高齢化など、若者が将来に不安を感じる問題で溢れている。その解決のヒントを、デンマークの学校教育から見てみよう。日本では小学校6年、中学校3年である。デンマークでは、小中一貫教育を行っている。国民学校と言われている。期間は9年間である。予備として1年間延長できるようになっている。その後、高校に進む者と職業別専門学校に進むものに分かれる。約3年間である。高校に進んだものは、大学に進む人も多い。大学教育は19歳から27歳ぐらいまでである。どのコースに進んでも教育費はゼロである。学力があれば無試験で入れる。ただし卒業するときは試験がある。それに合格しないと資格は得られない。1クラスは19人である。教育内容は面白い。算数では足し算、引き算、割り算、かけ算、パーセントぐらいを学ぶ。微分や積分、三角関数などというものは日常生活には不要です。ですから、そういうことは教えていない。それらの数学を必要とする人は、将来測量士、エンジニア、建築士などです。そういう職業につきたい人が高校や大学で学べばよいという考え方です。英会話は必要なので、すべての人が卒業までには日常会話ができるようになります。教科としては国語の時間が1番多いようです。その次は算数です。デンマークでは教科ごとに教師が異なります。授業で日本と大きく異なるのは、美術と体育の時間です。美術の時間は、みんなで足並みをそろえて一定の技術を習得するといったことはなく、それぞれが表現をすることに時間を割いています。教師は質問されれば答えますが、絵の描き方を書いて指導することはなく、子供たちをただ見守ります。体育の授業では、何をやりたいかを子供たちで話し合い、好きなスポーツをします。あるグループは屋内でバスケットボールを、あるグループは野外でサッカーを楽しんだりするのです。個人競技で優劣を争い合うようなことはしていません。だから、運動が苦手な子供も、体育の時間は大好きです。国民学校を卒業する時には試験があります。一定のレベルに達しているかどうかを見るためです。高校に入るためには、試験はありませんが、一定の学力があることが求められます。教科は学校で教えますが、しつけは親の役割だと国民みんなが認識しています。デンマークはどんな仕事に就くにせよ資格が必要になります。大工さんや接客業も資格が要ります。「親は農業しているから」といっても、資格がなければ親の仕事を引き継いで農業することはできません。学校の先生になろうとすると、高校、大学で専門教育を受けて資格を得る必要があります。デンマークでは国民学校に在学している時から、将来自分がどんな仕事に向いているのかを見極めることが大切であると考えています。そのために、 14歳ぐらいになると、自分の友達の親の仕事を見にいきます。たった1日か2日ですが見学すると刺激を受けます。 15歳ぐらいになると、今度は自分がなりたい職業の職場実習に行きます。1週間から2週間程度全員が行くのです。どんな職業があるのか、収入はどれぐらいになるのか、そのための資格を得るためにはどのコースに進む必要があるのか。これらは国民学校の高学年になると、必修科目として学習する必要があるのです。そのための進路のためのガイドブックは充実したものを用意しています。子供たちはその本を見ながら、自分がなりたい職業に就くには、高等学校に進学する必要があるのか、職業別専門学校へ進学するのかといったこと調べます。例えば理学療法士になるには、高等学校を卒業して、さらに上級専門学校を卒業しなくてはいけないんだということを学ぶのです。日本でいう中学生の頃です。日本ではこういう事は全く考えられません。高校に行くにしても、 「とりあえず高校ぐらいは出ていておきなさい。その後のことはそのあとで考えればいい」という考え方です。高校では大学に入るための、数学、国語、漢文、古文、英語、日本史、世界史、地理、倫理、現代社会、物理、化学、生物、地学などの教科を無理矢理に暗記させられます。これでは途中で脱落してしまう生徒が多いのは無理からぬところです。またそれらの教科が将来大人になったときに実践的に役に立つということはほとんどありません。それなのに、様々な国の学力を比べてみた場合、日本の学力は今やデンマークの後塵を排しています。また、森田理論で言われているような対人関係のあり方、人生観などについてはまったく触れられません。とにかく、生徒同士を競争させて優劣をつけることに躍起になっています。社会に出ると、競争の中でいかに生き残っていくかという事を教え込んでいるのです。最後まで競争で勝ち残る人はごくわずかです。ほとんどの人は途中で脱落してしまうのです。自信をなくさせて、生きることは意味がないことだということを教えているようななのではないでしょうか。デンマークの教育を見ていると、国民学校を終えた時、ほとんどの人が社会的な基礎力、自立心、社会性を身につけているように思います。デンマークの子供たちは、学習することが楽しいといいます。日本の子どもたちは、テストの点数が悪いと自己嫌悪しますが、デンマークでは、テストの点が悪いと先生の教え方に問題があるというふうに受け止められています。デンマークではテストは理解の進捗を見るためであって、生徒の優劣を判定するものではないのです。時代は刻々と変化しているにもかかわらず、旧態依然とした教育を子供たちに押し付けている日本の教育制度に問題はないのでしょうか。(格差と貧困のないデンマーク 世界一幸福な国の人づくり 千葉忠夫 PHP新書720参照)
2018.04.10
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岡田尊司さんは、子供の特徴を3つに分けておられる。1つは、「視覚空間型」の子供である。このタイプの子供は、行動的で、手や体を動かした活動を好む。言葉で学ぶよりも、体で感覚的に覚える。じっと座って話を聞くのが苦手で、頭に入らない。理論や抽象的な事は苦手で、実践や応用に関心がある。講義型の授業には集中できない。 5教科では、成績不振に陥りやすい。2つ目は、「聴覚言語型」の子供である。このタイプの子供は、会話言語に強く、コミュニケーションが得意である。聞き取り能力に長けて、やりとりの機微を的確に把握できる。相手の気持ちや場の空気を察することに優れている。物事を論理ではなく、人間的な感情や物語で理解する。論理的な議論や記号を用いた抽象的な内容は苦手である。気分や感情に流されやすい。3つ目は、「視覚言語型」の子供である。文章言語や数字、記号を扱うのが得意である。具体的なものより抽象的な概念に強い。分析が得意で、物事を論理化、法則化、図式化して理解する。マイペースを好み、対人関係は不器用で消極的である。自分の趣味に熱中する一方で、それ以外のことには無関心である。細部へのこだわりや完璧志向が強い。理屈は得意だが、現実の問題解決や、身近な事は苦手である。社交性に乏しく、くだけた気のおけない会話ができない。感情的なニュアンスが読み取れず、無神経な発言をしてしまう。1度に2つのことができず、実践面では滞りやすい。道筋や理屈にこだわり、納得できないと頑なに抵抗する。このように分析した上で、今の学校教育に比較的適応できるのは3番目の「視覚言語型」の子供であると言われている。最も適応できにくいタイプが「視覚空間型」の子供であると指摘されている。こういう生徒は、学校教育になじめず、そのまま落ちこぼれとして放置される傾向が強い。現在の学校教育では、 753ということが言われている。小学校では、授業についていくことができる子供が7割、中学校では5割、高校では3割だと言われている。それは、タイプが違う子供が存在しているにもかかわらず、今の学校教育が、生徒を教室に集めて、先生が一方的に講義をするという教育制度にあると言われている。そして講義内容をペーパーテストで判定して優劣をつけてしまう。劣等と見なされた子供は、やる気を失い、そのはけ口を求めていじめや不登校・ひきこもりに陥ってしまう。これでは日本の子供たちの多くが自立できない。これは日本の教育がもともと日本を動かしていく官僚を養成するという目的のもとに推進されてきたことにあると言われる。そのために、子供たちを十把一絡げに分類し、その中から記憶力のよい子供、論理的、法則的、抽象的な思考に優れたトップクラスの学力のある子供を選抜することを目的としていたのである。こうした明治時代に作られた教育制度が、基本的には未だに踏襲されているのである。これは私たちは森田理論で学習している、「かくあるべし」を子供の教育に導入しているのではないでしょうか。子供にはいろんなタイプがいる。まずはそのタイプを見極めて、子供たちの特徴に合った教育をしていくべきではないのでしょうか。日本は今や学力の面ではかっての面影はない。他の国に大きく差を広げられている。岡田尊司さんは、オランダやフィンランド、ドイツ、イギリス、スイス、アメリカ、台湾、韓国などの教育制度のあり方を分析して、教育制度の改革を進めていく必要があると言われている。特にオランダやフィンランドのような、子供の特徴に見合った教育制度の改革をしなければ、日本の子供たちはますます不幸になるのではないかと警鐘を鳴らされている。(なぜ日本の若者は自立できないのか 岡田尊司 小学館 75頁より引用 )
2018.03.21
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先日クローズアップ現代プラスを見た。夫婦喧嘩が子供に与える影響についてだった。それによると、 DVと呼ばれる直接的な暴力行為よりも、口論による夫婦喧嘩が子供の扁桃体、海馬、一次視覚野の萎縮を起こすことがわかっているそうだ。それらの器官が正常な働きをしなくなっているのである。機能障害を起こしているのである。それらの器官が全く機能しなくなると、恐ろしいものを見ても、怖がるという感情が湧き起こっらなくなります。たとへば、蛇を恐れていた人が、平気で蛇をつかみに行くようなことが起こります。機能障害は、その1歩手前です。正常な働きが阻害されているのです。扁桃体は、 一時視覚野などから送られてくる感覚情報と海馬や大脳新皮質からの記憶情報を統合して、情動として出力していると考えられています。不快感、怒り、恐怖などを感じると、戦うかその場から離れるか瞬時に判断して、自分の身の安全と精神的安定を保っているのです。役割を果たすと、偏桃体などの興奮状態はすぐに収まります。そうした器官が正常な機能を果たさないと、一方では極度の緊張状態が持続することになります。それは成長したのちに様々な弊害となって表面化してきます。中学生ぐらいになると、イライラして、少しのことできれたりするようになります。他方では、無気力、無関心、無感動になって、意欲ややる気が失われてきます。それが、うつ病の発症などにつながっていきます。普段どこの家でも繰り返されている口喧嘩がひどくなったり、継続していると、自分たちが不快な思いをするだけではなく、子供の脳の機能に重大な損傷をひき起こしているということは由々しき問題です。最近は女性も外で働く機会が増えてきました。男性の収入だけで生活が成り立たなくなっているのです。そんな状況の中で、近所のつきあい、家事や育児などを女性が一手に引き受けるということになると、そのストレスは大変なものです。結婚当初は夫を立てて追随していた女性でも、つい「なんで私がここまでしなければならないの」という気持ちになります。これに対して、夫が家事や子育てはどこの家でも妻の役割だと思っていると、夫婦はすぐに対立関係に陥ります。その上、夫がつきあいだと称して夜遅くまで飲み歩いたり、日曜日にパチンコやゴルフや釣りに出かけていると、最悪の状況になります。これがひどくなると家庭内別居状態になります。夫は妻を思いやり、よく話し合いをして、仕事以外の諸問題は少なくても半々ぐらいには役割分担をする必要があります。亭主関白を押し通す人は、もはや結婚する資格がないといえるかもしれません。夫婦はもともとそれぞれの人格を持った他人です。性別、性格、趣味、好き嫌いも違います。だから常日頃対立するのはごく自然なことです。だから自分の意見を言い合うことは避けて通ることはできません。そうしないということは、夫婦関係が支配、被支配の関係になっているかもしれません。そういう姿を子供に見せるよりも、絶えず意見の衝突を子供に見せつけているほうがいいと思います。ただ不快感を払しょくするために感情的になって、相手の人格否定をすることはダメなのです。夫婦が話し合いによって妥協点を探して交渉しあっている姿は子供にとっともプラスになるはずです。夫婦は二人で協力して家計をやりくりし、親戚や近所付き合い、子育てをしなくてはなりません。お互いに意思の違いを認めたうえで、自分の意思を押し通すところは押し通し、妥協するところは妥協しながら生活していくしかないのです。森田理論では、決して相手を自分の思い通りにコントロールしようとしてはならない。自分の「かくあるべし」を相手に押し付けてはならないといいます。そのうえで、自分の意思は「純な心」「私メッセージ」などを応用してできるだけ相手に伝えていく。また配偶者の気持ちや意思も、先入観や決めつけで判断しないで、一旦はよく聞くようにする。二人の間に埋めがたい溝があれば、少しでも溝が埋まるように話し合いをしていく。最終的には不満足であっても妥協点を見つけて折り合いをつけていくしかないのである。その反対の道を歩むことは、知らず知らずに子供に悪影響を与えていることを忘れてはならない。
2018.01.09
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森田理論学習をしていると、 「まるごとの相手を受け入れる」という話を聞く。この点に関して、高垣忠一郎氏が次のように説明されている。まるごとの相手の存在を肯定するということは、 「相手のここがイヤだから」 「あそこが気に入らないから」という理由で、相手の丸ごとの存在や人格そのものを拒否しないことです。他者は自分とは異質な存在で、時に違和感を感じ、 「虫の好かない」ところがあるのが普通です。だからといって、それを拡大して相手の人格攻撃や存在否定をしないということなのです。考え方や性格の違いがあっても、そうだからといって相手のすべてを否定してはいけません。相手を丸ごと受け入れるということは、相手のすべてを好きになるということでもありません。それは凡人にはとても無理なことです。嫌いな部分がたくさんあっても全然構わない。相手に何か違和感や不満を感じるところがあっても、相手が今ここに生きて存在していることを受け入れる態度を維持していればよい。親子関係で言うならば、自分の期待通りに我が子が反応してくれるとは限りません。それは、我が子は自分とは異質な心や感受性を持って生きている「他者」だからです。高垣氏は、我が子に対して異質性や違和感を感じることはたくさんあるといわれます。でも私は、いつも丸ごとの我が子の存在そのものを肯定し、愛しているのです。それは私が「他者」である我が子の中にある異質性を受け入れる努力をしてきたからです。そういう努力なしに相手の丸ごとを受け入れるということは出来ません。子供を丸ごと受け入れるという事は、子供のすべてを好きになるということではありません。また、子供を丸ごと「よし」と評価することでもありません。いろいろと気に入らないところがあっても、子供の存在を拒否しないで「ゆるす」ということなのです。(生きづらい時代と自己肯定感 高垣忠一郎 新日本出版社 参照)子供の存在を拒否しないということは、基本的には生命体としての子供の存在を尊重していることです。子供の存在を尊重していると、イライラしたり不満なことがあるからといって、すぐに子供の人格否定するような言動はしなくなります。あるいは、子供を見放して放任してしまうこともありません。健やかな成長を願って、たとえいがみ合うことがあっても、基本的には温かく見守っているといってよいと思います。根本的なところで、親の大きな包容力を感じることのできる子供は信頼感と安心感があります。でも、時として危険な行動や他人様に迷惑になるような行動をとった場合は、親は毅然とした態度で注意する必要があります。子供の何でもなんでも許すということではないのだ。そうでないとただの過保護になってしまう。むしろ、子供を愛しているからこそ、止むに已まれぬ行動をとる必要がある場合がある。親が自分の意思を貫き通したからといって、子供の根本的な人格や存在を否定したことにはならない。これは「かくあるべし」の押し付けではない。子供の将来のことを考えての「しつけ」である。「しつけ」は親の不快な気分を子供にぶっつけるものであってはならない。でも立派な大人になるために必要不可欠なものである。そういう「しつけ」をされた子供は、大人になって親に感謝するようになると思う。親子の関係は、大きな波風が立っても、子供の人格や存在の肯定があれば大丈夫なのではなかろうか。これは森田でいうと子供の現実、現状をありのままに認めて許すということだと思う。
2017.10.31
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自民党が先日まで国会提出を目指していた「家庭教育支援法案」について考えてみたい。これは子育てについて、今の親に任せておくと大変なことになるという政府の危機感の現れである。確かに子供をめぐっては、虐待やいじめ、不登校、自殺、無気力無関心、非正規雇用の増加、職場の適応障害などが問題になっている。また国際的には世界各地で発生している若者によるテロなどが問題となっている。これらの問題は、未熟な親に子育てを全面的にまかせているのが問題であるという認識がある。とにかく今の親に子育てを任せておくと、日本はめちゃめちゃにされてしまう。国や地方公共団体が親になり代わって、子育てに積極的に参加していくことが僅々の課題である。それを法律として整備して積極的に推進していこうとしているのである。しかし子育ては本来親が行うものである。親が行う子育てに様々な問題があるとしても、そこに国家の意思が入るということに大きな違和感を感じる人も多いのではないか。それは戦時中の国家総動員法につながるような短絡的考え方である。安倍総理は愛国心を持った子供、日本の国のみならず、グローバル社会で活躍できる子供を数多く教育していく必要があると考えている。安倍総理が関わったとされている森友学園では、「愛国心の醸成」「天皇国日本を再認識」などの言葉か並ぶ。国や政府のやり方に対し一切疑問や疑いを持たず、素直に服従する子供たちを作り出したいのである。ましてや、平気で世界中でテロに手を染めるような子供たちを作ってはならないと考えている。そこにはどうしてその子たちがテロに手を染めるようになったのか、その原因を追求することはない。一方で、その日の食べ物にもありつけないような閉塞感のある貧困層を作り出しておきながら、テロを起こすような若者は対症療法で徹底的に排除しようとしているのである。これではいつまでたってもテロはなくならない。むしろ今後ますますエスカレートしていくのではないだろうか。また、日本の大企業が世界に打って出て、勝ち残っていくための人材を育てあげていくことが急務であると考えている。国家や多国籍企業群は、素直で従順で大企業の手先となって働くことのできる優秀な国民をできるだけ多く創り出すことが政府に課せられた大きな課題であると思っている。そこで落ちこぼれた人には救いの手は差し伸べない。少数精鋭でいくという考え方だ。つまり国民のすべての人の生活や幸せを考えたうえでのことではないのだ。むしろ多くの国民は切り捨てていく方向に向かっているのだ。この法案の中で、戦前は伝統的な子育ては行われていたと言う。3世代同居世帯や子供が幼いうちは母親が家にいて子育てをしていた。さらには、隣近所の人が子供の動向に目を配り、社会全体が子育てに関わってきた。そうした教育環境が理想だという。私もそれは異論はない。そうした子育ての仕組みを現代に蘇らせるようとしているのである。しかしいつの間にかそういう伝統的な子育ての仕組みがなくなり、核家族が増えて、しかも共働きが増えてきた。今や待機児童が収容しきれなくなった。それはなぜか。貨幣経済にどっぷりと漬かり、お金がなければ生活が成り立たなくなったからである。過労死を招くような長時間労働、社会保障がなく、賃金の安い非正規雇用などの問題で、国民生活は瀕死の状態であることをどのように考えているのだろう。これでは愛着の形成時期と言われる幼少時期に親が子供と接触することが少なくなり、まともな人間に成長しにくくなってしまうのは当然である。国や政府が、本当に子供たちの成長や自立を願うならば、親と子供の関わり方の問題、親の働き方の問題、普段の生活のしかたの問題、経済的に安定的な収入の保証などに国民の議論を高めてコンセンサスを得ていく方向に向かうべきではないのかと思う。
2017.06.24
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先日テレビを見ていたら、教育評論家の尾木ママが出ていた。勉強しない子供にどうしたらやる気を持たせることが出来るのかコメントをしていた。なるほどと思えることがあったので、私の意見を書いてみることにした。・お母さんが子供に「勉強しなさい」 「どうして勉強しないの」 「ダメじゃないの。早く宿題をしなさい」などという言葉を発しても子供は反発するばかりでその気にはならない。このことを尾木ママは、 「親が子供より前に出ない」ことが肝心だといわれていた。確かに子供が今から勉強しようと思っている時に、そのことを指摘されると、やる気や意欲は急速に衰えてしまう。でもつい親は自分の考えを子供に押し付けてしまう。子どものためと言いながら、親の「かくあるべし」 を知らず知らずのうちに子供に押し付けてしまう。宿題はしないで、テレビを見たり、ゲームを長時間しているのを見ると、親はイライラする。その腹立たしい不快な感情を子供に向かって発散しているようなものである。勉強を始めるということは、本人がその気にならなければ基本的には不可能なことです。こういった場合、 「私メッセージ」を使って、 「お母さんは勉強してくれると嬉しいんだけどな」と自分の気持ちを伝えることぐらいしかできないのではないかと思う。森田ではそれから先、子供が勉強をしようがしまいがそれは子供の選択の範囲であるといっています。・子供が勉強をするために褒美をあげることがある。これは一時的には効果がある場合がある。目標の点数を上げた場合に子どもの欲しいものを買ってあげる。小遣いをあげる。美味しいのを買ってあげる。外食に連れて行ってあげる。行きたいところに連れて行ってあげる。また、テストの点が良かった場合子どもを「よくやったね」と誉めてやるとかである。しかし、これは度をすぎると、報酬をもらうということが目的となる可能性がある。またうまくいかなかったとき容易に挫折してしまう。尾木ママは、結果の良し悪しに関わらず、努力した結果を評価してあげるということが大切だと言われていた。全くその通りだと思います。・子供が勉強しているときは、親が近くにいてあげる。そして、わからない問題について質問してきた時は教えてあげる。注意しなければいけないのは、親が近くにいても、自分がテレビを見たり、飲食をしていたりしてはあまり効果がない。子供が勉強しているとき、親も一緒になって、本を読むとか、家計簿をつけるとか、日記をつけるとか、資格試験の勉強するとかすることである。子供は親の言った事はしないが、親のやっていることはするものである。これは確かにそう思う。私は本を読む習慣があったが、それを見ていた娘も実によく本を読む子供になった。・子供は親に言われなくても自ら進んでやりたいものを持っているものである。例えば、サッカーやバトミントンなどのスポーツ、野球の観戦、釣りや楽器の演奏などである。だから興味を持ったものにどんどん挑戦させていくことである。どんな小さなことでもやる気を持ってやってみると、それが子供の成長につながり、自信となる。またやる気や意欲は一旦火がついてしまえば、勉強など他のものにまで波及してくる。勉強するということは誰でもしんどいものである。大人になって社会生活を営むにあたって必ず身に付けなければならない基礎的学習はある。しかし、それ以上の勉強はその子供が面白いと感じればどんどん発展させていけばよいものではないのか。どうしても机の上に座っての勉強になじまない子供もいる。あるいは講義形式の学習には耐えられない子供もいる。数学や物理や化学、語学、地理や歴史などの勉強についていけない子供もいる。そういう子供に一律に強制的に学習させる必要があるのか。そういう子供は、得てして例えばスポーツに優れていたり、音楽や絵画などの面で優れていたり、ものづくりの面で優れていたり、観察力に優れていたり、文章を書いたりまとめたりすることに優れていたり、人とのコミュニケーション作りが優れていたりする。そういう幅広い視点で子供の特徴や能力を発掘して、その方面の能力をさらに高めていく方がその子の将来にとって有益なことではないのかと思う。ヨーロッパなどでは、中学ぐらいからその子の能力や特徴に応じて、教育内容ややり方を変えているというがそのほうが実情に沿っているのではないか。
2017.06.14
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最近は勉強で子供を追い詰めてしまう親がいるという。代表的な言葉は、 「どうしてできないの」である。周りの子供たちができているのに、自分の子供ができないと「こんな問題ができないあなたはバカだ」に直結する。「この問題がこの子にとってどこが難しいのだろう。なぜこんな簡単な問題が解けないのだろう。どうやったらこの子にもこの問題の解き方がわかるようになるだろうか」という風には考えられないのである。子供の「今の段階ではできない」という子供の現状を受け入れることができないのだ。子供を今すぐに、この瞬間に変えてやろうと思ってしまう。森田理論学習をしていると、これは親が子供を自分の思い通りにコントロールしようとしていることがわかるようになる。つまり、親の「かくあるべし」を子供に押し付けて、子供を否定して無理やり子供を自分の考えに合わせようとしているのだ。子供にとっては、 「どうしてできないの」と言われてもどうすることもできない。それどころか、問い詰められれば問い詰められるほど頭の中は真っ白になる。そして投げやりになって親に反発をするようになる。これは、大人の私たちが、日常生活で他人を見て、 「どうしてこんな簡単なことができないの」と言って軽蔑し、批判することと同じことである。次に子供は、テストで悪い点に取ってしまったとき、親に約束をさせられる。その成績を見ながら親は、 「どうしてこうなったと思う」 「これからはどうするの」と詰問する。蛇に睨まれた蛙のような状態の子供は、今までの反省点と改善策を出す。例えば、 「これからはTVゲームをやる時間を減らして、毎日3時間勉強する」こうやって子供たちは無理やり約束させられるのである。その約束を破ると親は容赦なく子供叱りつける。「あなたは約束を破った」 「やるって言ったじゃない」「それは人間としてやってはいけないことなのよ」約束を破るのは、人の道に反することだと言って、親はそれを厳しく叱る。子供は言い逃れができない。追い詰められてしまう。親でも、いったん決めたことなのに三日坊主で終わることがよくある。毎日の運動が持続できない。つい間食をしてしまう。禁酒しようと思ってもすぐに破ってしまう。日記をつけようと決めたのに、すぐにやめてしまう。それなのに自分のことを棚に上げて、子供には完全、完璧を要求してしまうのだ。親になると、子供のために、こうなってもらいたい。ああなってもらいたいといろいろと手を尽くす。しかし現実は親の期待通りの成果をもたらす事は稀である。子供に親の期待通りの結果を望むのは親のエゴではないだろうか。子供は親のために生きているわけではないし、親の望む人生を生きるわけでもない。子供は自分の力で自分の人生を切り開いてこそ、生きている実感を味わえる。親が出来る事は、近くにいて子供を励まし、見守ることだけだ。親は子供を見ているとつい口や手を出してしまいやすい。求められていないのに、親が子供のやることに勝手に手を出すことは、子供に「あなたは私がいないと何もできない」というメッセージを伝えていることに他ならない。それではいつまでたっても精神的に自立できない。自分の人生を生きている実感を味わえない。代わりに生きづらさを感じながら生きることになる。自分ではない誰かのせいにしながら、誰の人生だかわからない人生を歩むことになる。こう考えると、森田理論学習は子育てに活かすためにもぜひ学習する必要があると思う。森田理論には、人間が生きるということは何か、自立することは何か、人間関係の持ち方はどうあるべきなのか等そのヒントが数多くちりばめられている。私は学校教育の中に、森田の考え方を取り入れるべきではないかと考えている。(追いつめる親 おおたとしまさ 毎日新聞出版より引用)
2017.06.11
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オランダは、 1970年には合計特殊出生率が2.5を超えていた。ところがその後、日本と同様に、急速に少子化が起き、 1985年には1.5まで低下した。しかし、そこから徐々に回復を遂げ、 2000年には1.7まで上昇し、 2010年もその水準を維持している。オランダは自殺死亡率も非常に低く、日本の3分の1程度であり、生活満足度も世界トップ水準である。オランダは、愛着障害についての研究が、世界的に最も盛んな国の1つである。オランダは、その成果を踏まえて、パートタイム革命を行った。パートタイム労働者は、賃金などの差別なしに正規雇用されるようになった。これにより、特に働く女性は出産や子育てと仕事のバランスをとることが可能になった。オランダの出産休暇は産後16週間で、ヨーロッパでは特別長いわけではないが、出勤日数や出勤時間を調整することが権利として認められているので、無理のない範囲で働くことができる。近年オランダでは、夫と妻が、例えば、週に3日ずつ働き、仕事や子育てや家事も平等に分担するといったスタイルが増えている。労働時間自体は世界で最も短く、オランダの労働者の年間労働時間は、アメリカと比べると500時間以上少なく、日本との差はさらに大きい。残業は原則禁止である。夏には3 ~4週間の夏休みを取るのが普通である。その分、プライベートや子育てにゆっくりと時間をかけることができる。午後6時には、家族揃って夕食をとるというのが一般的である。オランダは小さい頃はとても子供かわいがることで知られている。他の先進国に比べて保育所を利用する人の割合が低く、 1980年代初めまでは1割程度であった。その後もその傾向は続いている。デンマークでは1984年から20週間、さらに翌年からは24週間の有給の出産休暇がとれるようになった。出産後の2週間は、父親と母親の2人でとることができる。また、 8歳までに、両親は1人の子供に対して合計1年間までの育児休暇をとることができる。これを出産休暇と抱き合わせてとれば、子供が1歳半になるまで育児に専念することが可能となる。デンマークでは1週間の労働時間は37時間、年間5週間の有給休暇が法律で定められている。残業は原則としてない。オランダとデンマークは自分たちが物質的に豊かな生活を送るためよりも、子育ての視点から仕事漬けの生活のあり方を国レベルで改善していった。子育てのための時間を、お金を稼ぐために削ることがないような仕組みが作られた。日本は少子化と言われて久しいが、オランダやデンマークに学ぶべき点が多い。さて、人間の欲望にはキリがない。それは、働く側の欲望と言うだけではなく、企業という組織の欲望でもあるし、究極的には、資本の欲望でもある。資本はもっと増殖しようとする本源的な性質を持っている。そのためなら、労働者であれ、経営者であれ、投資家であれ貪り尽くそうとする。その子供たちや家族はどうなるか、社会や人類はどうなろうが意に解さないのである。それは資本が増殖のために増殖しようとする欲望を本源的に持っているからです。それは知らないうちに、時間を、命を、社会の絆を、地球をを貪り尽くす。放っておけば資本はすべてのものをその奴隷に変えてしまうのだ。自由な競争を野放図に許せば、社会は、増殖しようとする資本の猛威にさらされ、荒廃させられていく。人間はそのことを肝に銘じるべきだ。我々の命や絆を守るためには、その活動に一定の制限が必要である。市場経済や競争原理は我々の幸福とは相入れないものなのである。それが、我々の生存を支えるシステムにまで入り込み、それを都合よく変えてしまうことに、もっと厳しい目を注ぎ、聖域に入りこませないようにしなければならない。我々は人類を滅亡に追いやろうとしている資本主義の弊害を取り除く時代に突入している。時間はもうあまり残されてはいないと思う。でもその手がかりが見いだせないでいる。的外れかもしれないが、そのために愛着システムの構築は外すことができない。金儲けの都合ではなく、子育ての都合を優先しなければならないのだ。子供達が幸せに育つことを最優先しなければならないのだ。それが我々の社会の幸福にもつながるからである。そのためには、まず安心して子育てに取り組み、家族との時間をゆったりと使える仕組みを整える必要がある。(愛着崩壊 、岡田尊司 角川選書から引用)
2017.06.01
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エリクソンは子供を育てるとき、やさしさ一辺倒でも厳しさ一辺倒でも子供は順調に育たないということを述べている。1歳6か月までは母子密着で「基本的信頼感」を身に着けさせることが極めて重要ですが、それだけではだけでは不十分であるといっている。ときどきは母子密着とは反対の、つらい体験もさせることが大切であるといっている。「基本的信頼感」の獲得をペーストしつつも、逆の体験をさせることで、子供は「生きる活力」を獲得するという。ときどき厳しさも体験する中で、やさしさがより引き立てられ、子供は順調に育っていくという。子育てにおいても臨機応変、硬軟のバランスが必要なのである。特に1歳6か月を過ぎたころから、そのことを意識する必要がある。子どもを受け入れることが基本であるが、していけない事はいけないとあえて叱ることも必要だ。強く叱っても親子の信頼関係がしっかりしていれば、子供はなぜ叱られたかを理解し、受け入れられる。私は乳幼児期は愛情のみを注ぐことが重要であると考えていたが、エリクソンによるとそれはちょっと違うといっているのである。幼児期の子供はやりたい放題で、親を困らせることは日常茶飯事である。つい叱りつけたり、叩いたりすることは誰でも経験がある。子育てにおいてはそれが普通であり、そんな自分を悔いて否定する必要はない。それよりも、親が困るようなことをしても、注意しないでそのまま見逃してしまっていると、子供のいたずらはどんどんとエスカレートしていく。大きくなって、善悪の判断ができなくなって、人様に迷惑をかけるようなことを平気でする。また、耐えたり我慢する力がなくて、欲望が暴走して人間関係や生活が破綻しやすくなる。もし完璧志向で自分自身を苦しめていることがあったら、そちらのほうが問題である。「基本的信頼感」を身に着けて、過度の欲望が暴走しないような子供に育てるために必要なことは何か。母親と父親が強力なタッグを組んで子育てにあたることだと思う。片親だけでは心もとない。子どもが思春期になり問題行動を起こしたとき、父親が母親に向かって、「子育てはお前に任せていたのにどういう教育をしていたのだ」と叱責することがある。その父親は子育ては自分には無関係だといっているようなものだ。それはおかしいと思う。もし母親が父親が果たす役割も引き受けて、子育てを行っているとどうなるか。母親は元々「基本的信頼感」の形成にかかわる役割がある。その母親が同時に本来父親が果たすべき厳しさを身に着けさせる役割も果たしているとどうなるか。母親が一方では優しくして、もう一方では厳しくすると子供は混乱してくる。母親が正反対のかかわり方をしていると、子供が大人になったとき問題になるのである。一方、子育てにタッチしない父親には距離を置いてくるようになる。無関心になってくる。それは子どもにとっても母親と父親にとってもとても不幸なことである。
2017.04.15
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原田正文氏は、最近父親が妻と一緒になって、子育てをしていないと言われる。子供は子育て時代をどう生きるかで、その人の人生全体が決まるといわれているのに残念なことだ。子育て時代そのものは、長さとしては、人生のほんの一部分に過ぎない。だが、人生全体にとって子育て時代を夫婦で、また親子でどう生きるかは、そのあとに残された長い人生が実り多いものになるかどうかを決めるといっても過言ではない。子育て時代を夫婦で一生懸命に過ごす事は子育て後の人生を決めるのである。父親のほうにそのような認識があまりないのが問題である。原田正文氏が大阪と兵庫で行った調査によると、夫が育児に協力的でない母親は地域で孤立しているという。父親が育児に非協力的で、母親だけがその役割を引き受けている場合には、母親に近所の話し相手がいない傾向は極めてはっきりしているという。つまりそのような母親には子育て仲間がいない傾向が強い。そして子供にも一緒に遊ぶ同世代の子どもがいない傾向が強いということが分かっている。また夫が育児に非協力的な母親の場合、子供だけを生き甲斐にしている母親が多いともいわれている。さらに、夫が育児に非協力的な母親の場合、この子を産んでよかったという思いは少なく、子供と離れたいという欲求もかなり強くなる。子供と一緒にいると楽しいとか、子供が可愛いという感情も弱いことが分かっている。そして、矛盾した子どもへの拘りや、子供のしていることを黙って見ておられなく、干渉する傾向も強かった。父親が協力的な家庭では、子育ての役割分担がなされており、母親の精神的ストレスは少ない。父親と母親の会話があり、母親が子供に愛情を注ぎ、父親は子供を外に連れ出していろんな経験を積ませている。父親が主になってしつけの役割も果たしている。よく育児に参加している父親には、子供は喜んで近寄っていく。育児に非協力的な父親は、子供を叱りつけるばかりで、子供は父親を恐れて近づかなくなる。特に子供が思春期になると、父親の出番は大きい。ところが乳幼児期から子供と接触のない父親に「さあ、お父さん」と言われても、その役割を果たすことは難しい。父親が父親の役割を果たすためには、父親が子供が乳幼児期から日常的に接して、父親を「好ましいもの」として子供が認識できていることが必要なのである。母親は子供の日々の成長を夫にも知ってほしいし、一緒に喜んでほしい。子育てで私がこんなに努力していることも知ってほしいし、認めてほしい。ところがいろんな出来事を仕事から帰ってきた夫に話したところ、不機嫌になって「それで、結論はなに」と言われているというのだ。これでは一緒に子育てを頑張りたいという気にもならなくなるし、そのあたりのすれ違いが積み重なってくると、夫婦の亀裂が深まってくる。日本の男性は家庭で無能なのは、家庭を休息の場としか考えていないためではないか。そういえば自分にも身に覚えがある。耳の痛い言葉である。今子育て真っ最中の人はぜひ参考にしてほしい。(完璧志向が子どもをつぶす 原田正文 ちくま新書参照)
2017.04.14
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子供が3歳から5歳ぐらいになると、好奇心を発揮して自発的になり積極性が出てくる。幼児期後期の心の発達課題は、この積極性・自発性を育てることである。同時にきちんとしつけをすることも大切になる。しつけとは、 「していいこと、いけないことをわきまえる」ということである。なぜこの時期にしつけをするということが課題になるかと言うと、自分の意思をはっきりと表現し、積極的に行動ができるようになる時期であるからである。そのような時期であるからこそ、 「していいこと、いけないこと」を親や周囲の人は教えないといけないのである。言い換えれば欲望としつけのバランスをとりながら育てることが大切なのである。しつけとは、 「 ・ ・ ・すべきだ」という社会的要請を子供に受入れさせることである。この段階では子育ての中で父親の果たす役割は大きくなる。これについてこれまでに投稿してきた。しつけは厳しすぎても問題がある。しつけの適度さは、なんで測ればいいのだろうか。しつけの適度さは、 「 ・ ・ ・すべきだ」という社会的要請の強さと、 「 ・ ・ ・したい」という「子供自身の生の欲求」とのバランスを目安にするとよいのである。そのバランスの取り方は非常に難しい。それは子供が小さい時ほど親の力が圧倒的に強い。親が力ずくで子供の意思を押し込むということが重なると、子供は「自分の意志を出す事は悪いことだ」と思ってしまったり、恐ろしくて、自分の気持ちが表現できない子に育ってしまう。そして見かけ上「聞き分けの良い子、素直な子」を演じてしまう。それが思春期になって他人との人間関係でつまずくもとになる。子供の中には持って生まれた性格として「親や先生の期待に応えたい」 「親や先生に褒められたい」という気持ちが強い子がいる。このタイプの子を「いい子タイプ」とでも呼ぶことにする。このタイプの子供は、生まれ持った性格として「社会的要請へ」を受け入れることへの関心が高い。結果として、自分の個人的な「・・・したい」という要求にはあまり関心を向けないことが身についてしまい、自分の個人的な「生の欲求」を出すのは不得意である。というか、自分の個人的な「生の欲求」を自覚することさえなくなってしまうという子が多い。親と子は当然よく似ているので、 「いい子タイプ」の子供の親は真面目できっちりしていて、子供をちゃんとしつける傾向がある。そこで悪循環が起こってしまう。親や先生の意向にばかりに忠実で、自分が本当にしたいことや、自分の嫌いだと言う感情には無頓着な子供が出来上がってしまうのである。でも親や先生の意向に従って生きていけるのはせいぜい小学生までである。思春期に入ったとき、そのような良い子たちは、子供の集団の中で浮いてしまう。自分の意志を積極的に表現できる子に一方的に支配されるようになる。そして、神経症、不登校や家庭内暴力、思春期やせ症、心身症等、色々な不適応症状を出すことになる。(完璧志向が子供をつぶす 原田正文 ちくま新書参照)子供の発達過程では生まれてから1年6か月までの期間は、特に母親による愛着の形成が大切である。その間1歳から2歳までは、同時に歩けるようになったり、言葉で自分の意志を伝えられるようになったり、簡単な服は脱ぎ着できるようになる。これは身辺自立の時期であり、「自立心」という心が芽生えてくる。そういう土台の上に立って、3歳から5歳の好奇心を発揮して挑戦や冒険の時期を迎える。親はハラハラしながら子供の動きを見守る。それと同時に適切にしつけも教え込んでいかなければいけないのだと思う。ここでは特に父親の親としての役割の発揮が重要になる。そこには原田氏が言われるように、厳しすぎても優しすぎても将来弊害が起きてくるのだと思う。森田でいうバランス、調和が大切なのだと思う。難しいが肝に銘じておく必要がある。バランスのとり方としては、まず子供の自主性、積極性、好奇心の発揮を全面的に応援する。次に行き過ぎた行動に対しては、最低限の制御を加える。つまりしつけをしていく。そのようなな経験を積んでいくと、大人になって困難に対して立ち向かっていく力を獲得していくと同時に、場合によっては自ら暴走を抑えて我慢したり耐えたりできるようになる。つまり行動が臨機応変になり、傍から見るとバランスがとれており違和感がない状態となる。
2017.04.11
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精神科医の榎本稔さんの話です。引きこもりの治療では、 「アメ(母性原理)とムチ(父性原理)とモデル(自己原理) 」のほどよいバランスが必要だ、と言われています。ゆっくりと見守るだけという態度は、そのアメにあたるわけですが、しかし家族を含めて周りの人々がアメばかりでは、 「そのうちに、そのうちに」と、問題を先送りしているだけに過ぎません。私の経験では、引きこもりが3ヶ月ほど続いたら、誰かに「ムチ役」となってもらうことが必要だと思います。普通の家庭では、父親が仕事が忙しくて子供と接する機会があまりないのが現実です。子供の教育は母親任せになっていて、母親がアメとムチの両方の役割を担っているわけですが、それではいずれ子供は暴力に訴えるようになりますので、ムチ役には当然、父親こそがふさわしいと考えています。本来、子供には、成長発達に応じて、いろいろな目標や課題を与えるべきです。小学校の高学年ぐらいまでは、母親が温かく包んであげること(母性原理・アメ)が大切です。しかし、子供は10歳ぐらいから自我が目覚めてきますから、甘やかすばかりではいけません。この頃から父親の出番となります。課題達成のためには社会のルールを守り、困難に立ち向かって努力をさせることで、(父性原理・ムチ) 、自立していくために必要なこと学ばせていくわけです。そうしたことを通じて、子どもが自分の将来像(モデル・自己原理)を自ら描いていけるように仕向けることが必要です。中学2年生の男の子の例です。引きこもりが半年ほど続いているということで、両親が榎本さんのところに相談に来ました。父親は温厚な感じの人で、話を聞いてみると、ご多分にもれず仕事が忙しく、子供は妻にまかせきりだといいます。休日などは、それこそ「優しいパパ」として子供に接していました。そこでまず、父親の教育をする必要があると考え、 「アメとムチとモデル」の教育の理念を中心に説明しました。そして「まず、何よりも父親がしっかりしなければいけない」と伝えました。父親は、幸いにも私の言うことを理解してくれました。早速子供と積極的に向き合う生活を始めました。そして本人は少し登校する気になった頃合いを見計らって、毅然たる態度で学校に引っ張っていきました。子供は泣き喚きましたが、かまわず登校させました。その日から、父親は毎日、朝は一緒に学校へ行き、 1週間ほどすると、子供は1人で登校するようになったのです。この父親の場合は、子供の不登校は自分も含めて「家族全体の病気」だという点に気がつきました。しかしこのようにうまくいく例は、実はあまり多くはありません。なぜなら、引きこもりを生み出した土壌である「家族全体の病気」について、親はなかなか理解しようとしないのです。理解できても、 「わかりました」と答えるだけで、何も改めることができない人がほとんどです。(依存症がよくわかる本 榎本稔 主婦の友社 140ページ引用)このお話の中でわかる事は、子供を育て成長させ親離れさせていくためには、母親1人の力では心もとないということです。子供の成長段階に応じて、母親の役割が重要になる時期、あるいは父親の役割が重要になる時期があります。それぞれがポイントを外さないようにして子供とかかわっていくことがとても大切になってきます。私の場合を振り返ってみると、父親はアルコール依存症でしたので、子供の教育についてはほとんどノータッチでした。母親はとてもよく可愛がって育ててくれましたので、愛着障害は発症することはありませんでした。ところが、小学校高学年から以降については、父親が子供の教育に無関心であったためにいろいろと弊害が出てきました。たとえば、しなければいけないこと、やってはいけないことの区別がつかない。母親に過保護で育てられたため、我慢するということができなくて、わがまま放題に育ってしまった。また、社会のルールやしつけについても十分に身に付けたとは言い難い。父親が一緒になって遊んでくれると言う機会がなかったため、冒険心、困難を乗り越えていくという経験が全くない。外に連れ出して社会体験を積むという経験もなかったため、対人関係については、大人になって右往左往するばかりでどうして良いのか、ほとんど手探りの状態であった。父親と私の関係はそのようであったため、大人になってから大変苦労してきた。また、私が父親になったとき、私と子どもの関係が同じようになってきた。子供の成長にとっては、大変申し訳ないことをしたと思っています。今から子供を育てようと思っている夫婦、あるいは現在子育て中の夫婦、それから孫がちょうど成長途中にある祖父母の方は、是非ともこの事を学習して子育てに生かしてほしいものだと思います。
2017.02.25
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子供を育てる上において母親のみならず、父親の役割も大切である。子育てにおいては、まず愛着の形成が順調に行われることが極めて大切である。これは主として母親の役割である。期間としては主として1歳6ヶ月までの間である。この期間に愛着の形成に失敗するとその後何らかの不都合が生じる。この期間は母親が常に子供に寄り添い、身の回りの世話をする。母子密着が大切な期間である。そうすることで、子どもは人間に対する信頼感や安心感を得る。その期間を過ぎる次の段階として、母子分離が始まる。こころの母親の後ろ盾を得た子供は、安心して徐々に母親から離れていくのである。母子分離は子供が2歳のころから始まる。これはもちろん一足飛びに始まるのではなく、試行錯誤を繰り返す。たとえば3歳の頃、再び母親にべったりとなる時期を迎える。この時、子供は外界を探索したいという欲求と、母親の庇護に頼りたいという不安との間で葛藤している。でもこの葛藤を乗り越えられないと、母親と子供は共依存の関係になってしまう。この時期をうまく乗り越えられるかどうかが、子供が安定した自立・独立を獲得できるかを左右すると言われている。この段階を順調に経過するためには、父親の役割が重要である。父親が子供の不安を緩和し、安心して歩み出せるように手を引くことで、子供はスムーズに母親との分離不安を乗り越えていく。この時期に、父親がそうした役割を担えないと、子供は母親に執着し、融合したままの状態にとどまる。それは自立したアイデンティティーの獲得の失敗にもつながりやすい。子供は母親に執着し、依存する一方で、母親に対し支配的で攻撃的になる。依存と反発の入り混じった両極端な態度を示しやすい。その他に、父親には2つの役割がある。1つは、子供を外に連れだし、様々なことを経験させるということである。外界のことや未知のこと色々と経験させる。そうすることで、子供に好奇心、探究心、冒険心などが育つ。こうした経験や体験を持たないと子供の自立心は育たない。これらは大人になって様々な困難を乗り越えていく上で役に立つ。また、複雑な人間関係なども学んでいく。父親は子供を社会に適応させるためにきわめて重要な役割を担っているのである。もう一つは、父親は子供にやりたい放題を許すのではなく、子供の行動に一定の制限をかけてコントロールするという役割がある。父親が不在だったり、いても、抑止機能が働いていない場合には、子供は行動のコントロールを失い、無軌道で放縦な生活に陥ったり、我慢したり抑止力の働かない大人になっていく。また困難に対して立ち向かっていく勇気に欠けて、すぐに逃げまくるひ弱な子供になっていく。そうならないためには、甘いだけの父親ではダメなのだ。ましてや父親の育児放棄は許されない。こういう役割を母親に一方的に押し付けてしまうということは問題である。母親がその役割を果たそうとすると、一面では子供を保護しながら、もう一方では子供突き放すという相反する役割を担うことになる。こうしたアンビバレンスな役割を一人の人間が持つことは子供に混乱と反発をもたらす。母親は子供を庇護する役割、父親は子供を厳しくしつけると言う役割を果たすことが大切である。こうしてみると、子育てと言うのは母親と父親がそれぞれの役割を持っており、それぞれの役割を協力しながら果たしていくということが重要である。現在、父親は会社での仕事に追われ、子育てについてはほとんど母親に任せきりという家庭が多い。私の場合を考えてみても、父親はアルコール中毒でほとんど子供と関わりを持とうとしなかった。どこかへ連れて行ってもらったという記憶は全くない。いつも叱られてばかりで父親から逃げまくっていた。いくら思い出してもよい思い出がないのである。ただ父親から引き継いだ神経質性格は今になって思うと唯一よかったと思っている。母親には可愛がられて成長していたように思うが、次から次に兄弟が生まれたためと仕事で忙しかったため、手が回らなくなり、祖父母に預けられた。特に祖父が自分を甘やかされて育てたため、その後の人生がうまくいかなかった。衝動的な行動が目立ち、わがまま放題に育ち、良好な人間関係を築き、維持していくことができなかったのは、このような両親の子供に対する接し方にあったのではないか、と思うようになった。私は最近、生きていくうえにおいて、どうしても学習しなければならないこと、あるいは学習しておいた方が役に立つことが3つあると思う。生き方の指針を得るためには、森田理論学習である。子供を育てるにあたっては、親学の学習。仕事をするにあたっては、管理者としての教育である。これらの学習に取り組み、若い頃から勉強して、確固たる方向性を持つことができていたら、その後の人生は大きく変わっていたのではないかと思う。(続・親学のすすめ 高橋史朗編 モラロジー研究所参照)
2017.02.13
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若いお母さんで「授乳時間がいちばん楽しみ」という人がいるそうです。その理由は、「おっぱいを飲んでいると、子供が静かなので、メールができるから」と言うことでした。お母さんは赤ちゃんの顔を見ているのではなく、スマホやテレビに釘付けになっていると言うのです。赤ちゃんは目を上げても、お母さんの目が自分に注がれているのではなく、スマホやテレビ画面に向いていたら、信頼を裏切られ、拒絶されたことになるのではないでしょうか。そんなことが繰り返されたら、心は満たされる事はないのかもしれません。ある新聞の投稿欄に、 3歳になる息子が母親にいった言葉が紹介されていました。「僕、生まれてきていけなかったの? 」母親は驚き、 「えっ、どうしてそんなことを言うの? 」と聞きかえしました。すると、 「だってお母さんはいつも言っているよ。子供を育てるのは大変だって。友達といつも電話で話しているよ。子供がいて、自分の自由な時間がないって。僕、お母さんに迷惑をかけているの? 」高橋徹著「日本人の価値観・世界ランキング」 (中公新書ラクレ)という本があります。それによると、 「親は子犠牲になるのはやむを得ない」と答えた親は、世界の平均は73%ですが、日本人の親は38.5%で、 73カ国中、 72番目だったそうです。日本より下の国はリトアニアです。子供のことより、自分たちの生活を楽しみたいという気持ちの方が勝っているのでしょう。厚生労働省の調査によりますと、 「子育てを負担に思う」と答えた親が、 3年連続して8割を超えています。そして、なぜ子育てが不安かという理由を尋ねたら、第一位は、自分の自由時間を奪われるからということです。内閣府の世論調査を見ると、 「子供を育てていると、自分のやりたいことができなくて焦る」と答えた人が3分の2います。子供を育てているとイライラすると答えた人が4分の3います。いつごろからイライラする母親が出てきたのかと歴史的に振り返ってみると、昭和56年のアンケート調査では10%でした。平成12年では30.8%です。つまり、子育て負担感、子供を育てるのは大変という意識が急増しているということです。果たして平成29年度はどんな結果が出ているのでしょうか。(続・親学のすすめ モラロジー研究所 参照)こんな話を聞くとぞっとします。そして、動物行動学のケーニッヒという人の話を思い出します。この人はアオサギを買って実験をしていました。餌とかいろんなものを十分に与えて飼ってみると、最初はどんどん増えていくそうです。ある所まで増えていくと、そのうちどんどん減ってきて、そして最後には絶滅したそうです。同じような実験はネズミでも行われていて、環境を整えていくと、最初はどんどん増えていくのですが、やがては減ってしまう。どういうことが起きるかというと、卵を産んでもかえさないとか、子供ができても餌もやらないとか、つまり子育てをしなくなるのです。自分が楽しく生き延びることばかりを考えるようになるのです。自分が成長したら、今度は自分のことは横に置いて、子孫を残して育てるという本能が脆弱になってしまっているのです。この話から分かることは、親に十分な食料がある環境で生活していると、子供を産んで立派に育てようと言う意欲が減退してくるということです。さらに電気、ガス、下水道、冷暖房完備の環境の下で飽食三昧の満ち足りた生活を謳歌し、娯楽やレジャーに取り囲まれた生活をしていると、その傾向にさらに拍車がかかっています。自然界の稲などの植物で言うと、最初のうちは盛んに栄養成長を行っています。でもそのうち、しっかりと自分の体が出来上がってくると、栄養成長から生殖成長に切り替わってきます。つまり、子孫をいかにして残すか、という方向に切り替わってきます。例外はありません。しかしこの場合、人間が十分な肥料などをやって育てていると、植物そのものはどんどん大きくなっていきます。でも生殖成長に切り替わる時期が遅れたり、そのうち脆弱に育って、病害虫等にやられて植物そのものが本来の生殖成長の機能を果たさなくなります。人間の場合も、自分たちが何ひとつ不足ない生活の中に身を置いていると、楽しむことでいっぱいになり子孫のことを考えるゆとりがなくなってしまうのかもしれません。飽食三昧の生活や物質的に豊かな生活を求めるとことは、無制限に追い求め続けるというのは問題だと思います。ほどほどの生活を心がけて継続する必要がありそうです。 「腹八分目の食生活に医者はいらない」と言われます。欲望は野放しに放任するのではなく、ある程度の制限を加えるということが必要なのかもしれません。それが自然な人間の本来の生き方なのではないでしょうか。これは森田理論学習の「欲望と不安」の単元の中でとくに強調されている事です。
2017.02.11
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少年非行を専門にされている弁護士の高橋一郎さんのお話です。非行を犯す少年たちは我慢する心が不足している。我慢できる子供は母親と父親が躾の中で身につけさせる必要がある。3歳までの子供のしつけは特に母親の役目だと思います。子供の年齢と成長に応じ、日常の挨拶、身の回りの始末、歯磨き、洗顔をはじめ、子供にしなければならないこと、してはならないことをきちんと教え、それを守らないときは、しっかりと叱ることが必要です。しかし、母親のしつけは母性本能が強いため、どうしても甘やかす傾向になると思われます。母親は子供が3歳を過ぎたら、子供との距離を次第に置いていくべきです。子供を溺愛したり、甘やかしては絶対にダメです。ここからのしつけには父親が参加することが欠かせません。我慢する心を作るのは、母親の協力を得た上での父親の役目です。そのためには子どもにとって父親がえらくて恐ろしい存在であることが必要です。すなわち父親に権威がなければ歯止めがかからず、子供には我慢する心はできません。もちろん父親が、いくら自分で子供相手に威張っていてもダメです。だから母親は、 「お父さんはえらくて怖い」 「いつもは優しいが悪いことをすると怖い」ということを教えこむことです。子供に我慢することを教えるのに1番良い方法は、子供が欲しがるものをむやみに買ってやらないことです。親が子供に物を買ってやらなくても、子供はみじめではありません。子供は単にその時、そのものが欲しいだけで、子供がみじめというのは大人が勝手に考えることです。もちろん、夫婦で相談して、子供の成長に役立つものは、子供が5つ要求したら1つくらいは買ってあげてもよい思います。そして、買ってあげる時も、子どもが指折り数えて待つようにさせ、すぐに買い与えてはいけません。子供が欲しいと言えば、すぐに何でも買い与えてしまう親がいます。どういうことになるのでしょうか。子供はすぐにそれに飽きてしまい、またすぐ別のものを欲しがります。それを続けると、一回でも買ってやらないと、子供はお店の中でも泣いてバタバタと暴れ要求するようになってしまいます。つまり、自分の要求は何でも通る、両親の言うことなど聞かないで、我慢など全くしない子供に成長するだけです。がまんできる子どもは、父親がちょっとした小さいことを継続することで可能となるのです。次に父親は子供が小さい時ほど、必ずその場で叱らなければなりません。特に子供が幼い頃、子供が目の前で行った悪いことに対して叱るのです。後で母親から聞いて、昨日のことや前のことを叱っても無駄です。非行を犯した少年のほとんどが、親に叱られたこと、特に父親から叱られたり、さらには体罰を与えられたりした経験がないのです。父親がこどもから離れていて、母親任せになっているのです。子どもが言うことを聞かないことがあって、父親が子供を叱ったならば、母親は「だからダメと言ったでしょう」 「 2人で謝りましょうね」と言って、子供と一緒に父親に「お父さん、ごめんなさい。もうしません」と謝る形をとることです。そして、父親が「そうか。よし、わかったか」 「お前はやはり私の思った通り良い子だ」と子供を褒めてやればそれで決まりなのです。そのような繰り返しが、さらに父親をえらくて恐ろしい存在にするのです。ところが、現状は全く逆です。母親は子供に対し、父親をえらくて恐ろしいなどと教えるどころか、 「お父さんみたいにならないようにしなさい。お父さんは勉強もできなかったので、万年平社員で、また家庭も顧みず、酒ばかり飲んでいる」などと話し、父親の権威を否定してしまっています。これでは父親がえらくも恐ろしい存在ではなくなり、子供は我慢するどころか、何でも思い通りにやり、ついには非行に走ってしまうのです。よく、子どもが問題行動を起こすと、父親が母親に向かって、 「お前は今までどういう教育をしていたのだ。子供の教育は全部お前に任せていたのに」と叱責することがあります。的外れな発言です。こういう父親は子供の教育に関しては、仕事で忙しいのを理由にして放棄していたということです。本来子供のしつけや教育は、母親と父親が一体となって協力して取り組むべき課題です。特に我慢のできない子供は父親によって作り出されると言っても過言ではありません。考えてみると、私の場合も、父親は留守がちで、子供の教育については母親に任せきりでした。その結果として、社会的に迷惑をかけるような本能的な衝動的な欲望に対して、制御機能が働かない大人になってしまった。また、自分の思い通りにならないことや腹が立つときなど、我慢することができなくて、その気持ちをストレートに相手に爆発させてきた。そしてそれまでに積み上げてきた人間関係を簡単に壊してきた。今思う事は、 「やってはならないことは絶対にやらない。やらなければならないことは、どんなに辛い事でもやるという子供を育てるのだ」という信念を持って、親が子育てにのぞんでいるかどうかが、その後の子供の行く末を左右してしまうのだと思います。(続・親学のすすめ 、高橋一郎 、モラロジー研究所 244ページ参照)
2017.02.10
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先日紹介した宮崎県の精神科医水野昭夫医師は、引きこもりや不登校の子供は、そのままの状態がいつまでも続いたら、子供は精神的に参ってしまうと言われる。引きこもりは、吐いたり下痢をしたりするのと同じに一時的なもので、続けていたら自然体が弱ってしまいます。閉じこもりは防衛反応なのだけど、いつまでも閉じこもっていてはいけません。また引きこもりや不登校は、家族全体の問題であるので、そのまま家庭に居座った状態で改善することはほとんどない。水野医師は彼らを家庭から救出し、宮崎市にある「自立支援アパート」に収容しておられる。ここで、いきなり社会に出られないから、いろいろな体験をしたり訓練をするのだそうです。今までのしがらみを洗い落とすのだそうです。とはいえ、今まで家に閉じこもっていた子供たちを、家から連れ出して収容する事は困難を極める。水野医師は2回も3回も通って粘り強く子供を説得し、子供を連れ出すようにしている。東京など関東圏の病院では、収容のために消防庁や国土交通省の許可を受けた精神障害者移送のエキスパートを使うことがあるが、このような有無を言わせない強制収容は家族への恨みをさらに深め、心の歪みはさらに大きくなるばかりであるといわれる。水野医師は、何回も往診をして、患者さんに心の準備をさせたうえで、最終的には強制的に収容するようにしている。なかなか言うことを聞かなかったり、暴れる子供も多いが、いったん連れ出して収容し、治療が進んでいく段階で、たいていの子供が、 「あの時、ああしてもらっていなかったら、今の自分はない」と言ってくれる場合が多いという。痛みを伴うが事態は確実に好転してくるのである。「自立支援アパート」は宮崎市内に12箇所あり、年齢、性別、職業、病歴を問わず、多種多様な人間が住む場所となり、大きな1つの家族になっている。ここを拠点にして、フリースクール、職業訓練施設などが用意されており、活動を通じて同じような境遇の人たちとの交流を進めていく。水野医師は、ここで彼ら自身が両親に変わる人を探すことが大事だと考えています。また、患者の中に、本当の友人を見つけたり、 「あいつがよくなったのだから、おれもよくなろう」と尊敬できる同世代の仲間を見つけたりしたときによくなっていきますといわれている。これは森田先生が神経症で苦しんでいる人たちを、一般社会から隔離し入院森田療法で行われていたことと同じことです。森田先生のところへ入院される患者さんは、社会生活に行き詰まり、切羽詰まった人達でした。このような人たちを、いったん家族、職場、学校から切り離し、森田先生の目の届く範囲内に収容して直接指導していくことで神経症を乗り越えていくことができたのです。隔離療法は大変有効であったのだろうと思います。今は残念ながらほとんどなくなってしまいました。不登校や引きこもりの場合も、普通の生活に行き詰まり、本人はもとより、家族を巻き込んで大変大きな問題になっているわけです。そんな時、水野医師の行われているような往診家族療法と自立支援を組み合わせた治療方法が大いに役に立つものと思われます。まだ日本には数は多くはないのでしょうが、こういう施設があるということは心強い事だと思われます。(ひきこもり500人のドアを開けた 精神科医・水野昭夫の「往診家族療法」37年の記録 kADOKAWA)
2017.02.01
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集談会には時々 、不登校の子供を抱えた親子さんがお見えになる。私にとっては全くのお手上げである。多くの人はどう対応していいか戸惑っておられることと思う。何とか相談窓口だけでも教えてあげることができたらと思っている。その1つの手がかりが見つかった。「ひきこもり 500人の ドアを開けた! 」宮淑子著 KADOKAWAという本である。副題として、精神科医・水野昭夫の「往診家族療法」 37年の記録とある。この本によると、水野医師は、不登校や引きこもりの子供に対して、日本全国往診されているという。水野医師は本拠地は宮崎である。宮崎から飛行機などを使って往診をされているのである。これは極めて異例である。普通の精神科の病院では、不登校や引きこもりの相談に対して往診してくれるということは聞いたことがない。水野医師は往診すると言語的には伝えられない様々なことがいろいろと分かるという。夫婦の構造、親子の構造、そして家族と子供の歴史、その他家庭内の状況がよくわかる。これが診断の正確性を上げるために役立つという。水野医師は、不登校や引きこもりの原因を、家族全体の問題としてとらえ、家族全体を治療の対象とする治療方法とられている。従来のように、不登校や引きこもりの原因を、本人の問題や親のせいであるとは見ていないのである。不登校や引きこもりは家族のあり方に問題があると見ているのである。水野医師は、家族療法に必要な認識を5つに整理しておられる。1 、子供たちの症状の原因は、家族の中にある。子供たちの人格形成の8割から9割が家族の中で行われる。中でも父親と母親の関係が大きな比重を占める。2 、家族全体(父親・母親)が本質的に変わることは極めて難しい。3 、家族が少しでも変われば、子供は大きく変わる。4 、家族は第三者の介入がなければ変われない。5 、家族の外に心を割って話せる人を見つけて初めて、引きこもりから解放される道が見つかる。子供は家族という空間の中に、 「蜘蛛の糸に絡まれた塊」のようになって出られなくなっているが、このからまた糸をほぐすためには、両親と子供と第三者の共同作業が必要なのである。水野医師は、不登校や引きこもりの子供たちを一旦親から引き離すという方法とられている。引き離した子供たちは宮崎にある自立支援アパートで生活することになる。ここから勉強、就労訓練、様々な人との交流をすることになる。このような活動の中から、不登校や引きこもりから抜け出した若者は多い。詳しいことは先に紹介した本や水野昭夫医師のホームページがあるので参考にしてほしい。我々は直接相談に乗ることは難しいが、ある程度の情報は教えてあげるとよいと思う。
2017.01.30
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小学生の子供を持つ母親からの相談です。息子は「めんどくさい」が口癖です。勉強やらせようとすると、親子で言い合いになります。宿題などがあっても、 「めんどくさいから嫌だ」と言った挙句、外へ遊びに行って、なかなか帰ってきません。毎回こんなやりとりに疲れてしまい、今度は私の方が子供の勉強がめんどくさくなってしまいそうで恐ろしいです。これに対して、精神科医の和田秀樹さんは次のようにアドバイスされています。なぜ子供が勉強を面倒くさがるのでしょうか。その原因は2つあります。1つ目は、勉強を子供ひとりでさせていることです。小学生頃までは、親が付き添ってあげないと、嫌になってしまう子が多いと思います。親が見守っている方が子供は安心してはるかに集中でき、勉強がはかどります。親御さんも忙しいと思いますが、なるべく時間をとってあげてください。もう一つの原因は、基礎的な問題を繰り返し練習することが「めんどくさい」と感じられる場合です。基礎を身につけるには、読む、書く、計算するの反復学習が欠かせません。これらは確かに変化に富んだ内容ではありませんから、諦めてしまう気持ちもわかります。ここは親の工夫のしどころです。毎日の勉強を終えたら、カレンダーに好きなキャラクターのシールを貼るなど、やったことを可視化して「こんなに続けられたなんてすごいね」と褒めてあげるといいでしょう。(頑張れるこの育て方 和田秀樹 学研パブリッシング 192ページより引用)私は子供が小学生の頃、勉強見てやったことが全くありません。私の考えは、親が勉強好き、あるいは本が好きであれば、子供はその親の後ろ姿を見て勉強好きになるはずだ、と思っていました。子どもをよく観察し、寄り添うということが全くありませんでした。いい言葉で言えば、子どもの自由にさせていた。裏を返せば放任状態であったということです。親子の人間関係が希薄であったということです。和田秀樹氏によると、逆境にも強く、逆境に対して立ち向かってで乗り越えていく子どもと言うのは、子供が 12歳になるまでは、親が常に子供に寄り添い、子供をサポートしていくことが重要であると言われています。その契機となるのが、子どもの学習意欲を高めるために、親が学校の先生以上に子供の勉強に関わることです。子供が学習意欲をなくしてしまうのは、親が子供の勉強に関心がなく、無関心になってしまうことです。私の場合、今であれば、もっと良い子育てができるような気がするのですが後の祭りです。親の後ろ姿を見て子供は育つ。これは確かに真理だとは思いますが、これだけでは心もとない。しつけも含めて、積極的に子供の身近にいて観察して関わっていくこと。子育て、その他子供のことでわからない場合は、関わり方について詳しい人に聞いてみる。あるいは、自分でも本などを読んで研究してみる。などが必要なのではないかと思います。
2017.01.28
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わがままで自己中心的な子どもは放縦児といわれている。放縦児はどんなことをしているか。子どもたちが電車内やレストランなどで通路などを走り回っている。コンサートに来てお菓子をむしゃむしゃ食べながら、話をしている。普段お菓子をたくさん食べているので、食欲がなく、食べ物を突きまわして食卓や床にこぼす子ども。買い物に行くたびにお菓子をせがみ、買ってくれないと床に寝っ転がって手足をバタバタさせる子供。等など。親は子どもの人格を尊重し、注意をしたり、叱りつけたりすることを敬遠している。腫れものを触るような扱いなのである。子どもと親は対等であり、友だち同士のような人間関係を理想としている人もいる。私たち全共闘世代は、親や先生などの権威主義的、支配的な父親像を徹底して嫌っていました。その結果、親子というのは上下関係ではなく対等でありたいと考えました。親子といえども平等で、家庭のなかでも民主主義が貫かれました。その教育方針は、そのまま団塊の第二世代へと引き継がれていったのです。やがて親となった子どもたちは、家庭の中にあっても、子どものことを大事に思えば思うほど、厳しいことを言わなくなる。叱らなくなる。子どもにこびる態度を示すようになる。その結果我慢ができない、耐えることができない、欲望を抑えることができない。刹那的な快楽をひたすら求める人間に育ってしまったのです。これは子どもにとっては大変不幸なことではないのか。幼児期、小学校低学年までは、子どもは自己中心的でやりたい放題です。それは一面で好奇心の発露で、自主的、自立的な大人になっていくために最優先して身につけさせる教育です。ところが行き過ぎに対しては、見逃してはならないと思います。子どもは衝動に従って行動していますので、言葉で注意したぐらいでは分からないのです。怒鳴るか、お尻をひっぱたくぐらいにしないと効き目はありません。特に父親はそういう役割を果たすことが必要です。ここでの注意点を精神科医の高橋龍太郎氏は次のように指摘されています。子どもたちの衝動を封印するには、適切な年代というものがあります。中学生になり第二次反抗期に力を加えれば、親子関係は悪化してきます。それでは手遅れなのです。それ以前の平穏な幼児、学童期という時期に躾という力を加え、子どもたちの衝動を抑え、大人への道筋を歩まさせる。これが親の果たすべき役割なのです。子育ては、森田理論で言うように、まずは子どもの好奇心を発揮して何事にも挑戦的な子どもに育てることが重要です。でもそれだけでは放縦児を生みだします。子どもの暴走には制御を加えてバランスを意識することも重要であると考えます。これは1歳6カ月までの「愛着の形成」が問題なく完成されてからの次の課題となります。いづれにしても子どもを育てる親は、立派な子どもを育てるために、先人たちの知恵を学習することが大切だと考えます。(あなたの心が壊れるとき 高橋龍太郎 扶桑社文庫参照)
2016.08.24
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平成28年6月7日東京新聞社説より引用です。政府の自殺対策白書によると、2015年の自殺者数は24000人余と6年連続で減少した。とはいえ、自殺死亡率は欧米主要国と比べ、依然として高い水準だ。これは、交通事故死者数の約6倍、一日平均66人が自殺で亡くなっている計算だ。白書が特に「深刻な状況」と指摘するのは、若い世代の自殺だ。人口10万人当たりの自殺者数である自殺死亡率は、40歳代以上では低下傾向にあるが、若い世代ではおおむね横ばいとなっている。19~39歳の各年代の死因は「自殺」がトップ。同年代で死因のトップが自殺なのは、先進7カ国の中で日本だけで、残り6カ国の1位はすべて「事故」だ。自殺者の年齢構成比でみると、19歳以下の割合は2・3%と、この8年間で0・7ポイント増加している。19歳以下の自殺率は、他の年代と比べれば低いものの、1980年代や90年代に比べ、若干上がっている。若い世代への自殺対策は喫緊の課題だ。昨年、子どもの自殺が最も多い「9月1日」を前に、「学校がつらいなら、図書館においで」と呼び掛ける神奈川県の図書館司書のツイートが、多くの共感を呼んだのは記憶に新しい。子どもの電話相談は、文部科学省の「24時間子供SOSダイヤル」やNPO法人「チャイルドライン支援センター」などが受け付けている。多くの児童、生徒に知ってもらいたい。私は、4月に施行された改正自殺対策基本法には、学校に自殺予防教育に取り組む努力義務を課したというが、はたしてそんなことで自殺が減少するとは思えない。また、子どもには、強いストレスに直面した場合の対処法を知ってもらいたい。困った時に相談できる大人のいることも。それはそうだが、自殺に追い込まれている子どもたちにそんなことを教えたところで効果があるのだろうか。それよりも、私は早急に実施してもらいたいことがある。たとえば、子どもを育てる責任を持った親に対しては、子育ての基本を押さえた「親としての役割」を学習することを義務化するのはどうだろうか。これまで述べてきたように、親には子どもに対して愛着の形成の役割。自発性の発達、思いやりのある子どもに育てる役割がある。関心のある方は、5/27、28、29、30、31、6/4、6/5、6/6の投稿をご覧ください。そのために、1カ月に1回は子どもを育てている親は地域ごとに集まり、情報交換したり、子育ての基本を押さえたテキストで学習会を開催するのだ。それぞれの親に教育を任せるのではなく、みんなで協力しながら子育てをするのである。現在は、核家族で、地域の絆も薄れて子育てはとても難しい。だからこそ、子育ての基本方針を学ぶ必要がある。それらの学習なしに子育てをすることは、羅針盤のない船に乗って大海を航行するようなものだと思う。
2016.06.17
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子どものけんかの意味を考えてみましょう。けんかには友達とのけんか、兄弟姉妹とのけんかがあります。親との愛着の形成ができて、自発性が育ってきた3歳から4歳の子どもは、友達を求めて遊ぼうとする気持ちが強くなってきます。ですからこの間は幼稚園や保育園に入れて友達と遊ばせることが必要になります。家庭でも多くの人が訪れて、いろんな人と接触する機会を提供することが必要なのです。就学前に友達作りの能力が育たないと、その後になってからは、なかなか友達ができない状態になります。子どもは、いろいろな人と付き合うことによって、人を恐れなくなるものですが、その経験が少なかったことと、愛着の形成が不十分であったことや過保護・過干渉・放任などで自主性、自発性が抑圧されたこと等が組み合わさって、対人恐怖症の人が増えているのです。子どもは誰でも自己中心的ですから、友達遊ぶようになると必ずけんかを始めます。けんかは子どもの自発性に基づく自己主張のぶつかりあいですから、子どもの自立性が順調に成長している証です。もし、友達におもちゃを奪われるような時に、それに抵抗しない子どもは、自発性の発達が遅れているのです。深刻な問題だと言えます。また、けんかになると、すぐに泣いて、お母さんに助けを求めるような子どもは過保護に育てられて、自立心の成長が止まっていると判断でます。お母さんに訴えれば、お母さんが助けてくれて、自分の思い通りのことが実現できると思っているのです。大人になって依存性の強い子どもになってしまいます。子どものけんかは親が口を出さない限り、だんだんと仲良く遊ぶ方法を探るようになります。けんかばかりしていては、友達と楽しく遊ぶことができないからです。楽しく遊ぶには、友達に譲ったり、約束事を決めようとしたりすることが必要であることを、子ども自身で考えるようになります。子どものけんかは大人のけんかとは違います。尾を引くことはありません。子どもはけんかをしてもまた仲直りして楽しく遊ぶことができるのです。親が「けんかをするくらいなら一緒に遊ぶな」というのは、子どもの気持ちを無視した言葉です。子どもはけんかをしながら、だんだんと仲良く遊ぶ方法を学んでいるのです。だから親は、危険な行為以外のけんかは子どもにまかせて、決して口には出さないことです。ましてやどちらの子どもがいいとか悪いとかの価値判断をすることは決してしてはなりません。子どもがいじめられて帰って来た時は、「いじめられて悲しかったね」と言ってその気持ちを汲んでやればよいのです。「もっとしっかりしなくてはダメじゃないの」「だらしない子どもね」「もう一度言って仕返しをしてきなさい」等と言えば、劣等感を植え付けて卑屈になってしまいます。親がいじめた子どもの家に押し掛けたり、電話をして苦情を言う等ということは論外です。次に兄弟姉妹のけんかを考えてみましょう。子どもは4歳までは特に母親を独占したい気持ちが強いのです。下の子どもが生まれても、4歳までの子どもがいる時は、下の子の世話を中断して、上の子どもとのスキンシップを大切にした方がよさそうです。兄弟姉妹同士のけんかは大声を出し合ったり、泣きわめいたりするので、親にとってはイヤになるほどうるさいものです。ですから怒鳴りたくもなります。しかし、兄弟姉妹の仲はけんかをしながら育ちあっていく関係ですから、できるだけ叱らないようにしましょう。うるさければ「外でやって」と頼みましょう。兄弟姉妹にとって心の傷となるのは、親がけんかをさばくことです。お母さんの中には、「どっちが先に手を出したの」等と聞いて、どちらがよいとか、悪いとか判定をしてしまう人がいます。このやり方は兄弟のどちらかを罪人にしてしまうことです。罪人にされた子どもは大きな不満を残すようになります。兄弟喧嘩をしない子どもは問題です。子どもが兄弟喧嘩は悪いことにように思いこんだり、お母さんに叱られることを恐れて自分の怒りを押し殺してしまったりしているのです。多くは、上の子どもにそのような状態が見られます。つまり、幼いころからお兄ちゃん・お姉ちゃんの鋳型の中にはめ込まれて、気持ちを表現する自由を奪われてしまっているのです。しかも、そのような子どもは、行儀がよくて、おとなしい。つまり愛着障害をかかえ、さらに自発性の発達が抑圧を受けて、やる気や意欲が乏しい状態で成長してきたのです。お父さんお母さんは、兄弟姉妹が仲良く暮らしてほしいと願っておられることでしょう。それは大人になった時のことであって、それまではけんかを繰り返すことを当然のことと考え、決して裁かず、ひいきすることなく、比較をしないようにして、子どもが成長するのを待ってあげたいものです。(子どもの能力の見つけ方伸ばし方 平井信義 PHP参照)
2016.05.31
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昨日の引き続きです。子どもの反抗期は3つに分かれます。第1反抗期、中間反抗期、第2反抗期です。「第1反抗期」は2歳から3歳の頃です。そのような子どもは1歳台において「いたずら」が許容され自発性が順調に発達してきており、意欲的な子どもです。第1反抗期の特徴は「イヤ」という言葉が多くなることです。子どものイヤだという言葉を少なくするには、「お母さんは、○○をするとうれしいんだけどな」とか、「お母さんはそれをされるとイヤなの」などと私メッセージで対応することです。あとは子どもまかせるのです。すぐにいうことを聞いてくれないかもしれませんが、お母さんの気持ちは子どもに伝わります。そして、次からの行動が少しずつ変わってきます。思いやりの心が芽生えてくるからです。第1反抗期は「自分でする」と言って親たちの援助を拒否する言葉が多くなるものです。それは何もかも自分でやってみようという自発性・独立心の現れですから、子どもの言葉を尊重する必要があります。なかなか成功しないと、イライラして泣いたりします。悔し泣きです。「ほらごらんなさい」「できもしないくせに」と非難してはいけません。これらの言葉をあびせられた子どもは劣等感で卑屈になってしまいます。そんな時は「この次は頑張ろうね」と、再び挑戦してみようという意欲を刺激しておくことです。「中間反抗期」は7歳から9歳にかけてです。口答えが多くなります。理屈の多い言葉によって反抗する状態がはっきりと現れてきます。親にとってはなんでも反抗されては腹が立ちます。なんでうちの子は素直でないのだろうと思ってしまいます。しかし子どもの発達過程から見ると反抗するというのは、自己主張のできる子どもに育っているということです。普通親は子どもが自分たちの言ったことに素直に従ってくれることを望んでしまいます。これは子どもを親に服従させ、屈服させている状態です。登校拒否や神経症、心身症等で悩んでいる子どもたちの過去は、親に服従する形での素直であって、自分の気持ちに素直になっているわけではないのです。「第2反抗期」は思春期です。中学生の頃です。この頃はアイデンティティの確立。自我同一性、性同一性の確立時期です。つまり自分は何者か。自分はどう生きていけばよいのかを考え始める時期です。精神的に親から離脱していく時期を迎えているのです。それまでに親や教師から教えられたことが本当に人間として正しいことなのか。それらを疑い始め、自分なりの考えを持とうとします。その過程で、親や先生に言われて自分に取り入れてきた価値観を全面的に否定することから始めます。親たちに何か言われても、明らかに不快感を現し、黙秘したり、「うるさい」と言ったりして、反抗するようになります。親はどうしてこんな悪い子になってしまったのだろうと右往左往するかもしれません。心配は無用です。独立心があり、自発的で責任感のある大人に成長するためにどうしても通過しなければならない関所のようなものなのです。ここで慌てて、子どものいいなりになって甘えさせたり、命令、干渉、支配を前面に出して子どもをコントロールしようとしてはなりません。最近、無気力、無関心、無感動、無責任、不作法の五無主義の子どもが増加しています。これらは第2反抗期を乗り越えていなくて、自分が混乱している状態なのです。このように見てくると年齢に応じた反抗期は、子どもの発達にとって必要不可欠なものです。親は子どもの反抗期の持つ意味をよく理解する必要があります。親は子どもに「かくあるべし」を押し付けるのではなく、子どもの成長を見守っていくことが大切なのではないでしょうか。(子どもの能力の見つけ方伸ばし方 平井信義 PHP参照)
2016.05.30
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子どもは成長するにつれて、いたずら、冒険、反抗、けんか、ふざけ・おどけなどの行動が増えてきます。これらについて子どもたちが親の干渉を受けることなく経験を蓄積していくことが大切です。ところが親は自分の「かくあるべし」を前面に出して、間違った対応をしていることが多いものです。今回は冒険するということを見てみましょう。冒険というのは危険のあるものに挑戦するということです。困難と思えるものに挑戦するというのは、意識を内向きから外向きにしてくれます。冒険して、何かを達成したり、乗り越える体験は子どもに自信をつけます。そして自分の存在意義を確かなものにして、自分を肯定することができるようになります。今はいたるところにアスレチックがあります。どこでも家族ずれで子どもたちは活き活きと遊んでいます。なかには大人でも恐怖を感じる遊び道具があります。高いところにロープを張り、板の上を歩かせるもの。ワイヤーロープに滑車とロープをつけて谷の上を移動させるもの。30mの塔の天辺まで登らせるもの。巨大滑り台を滑り降ろさせるものなどいろいろとあります。最初は子どもたちは他の子が挑戦しているのをじっと見ています。そのうち恐る恐る出発点までゆきます。でもなかなか踏ん切りがつきません。でもなにかの憑き物がとれたように思い切って挑戦します。仮に手を離したり、間違った動きをすると大けがにつながります。親は下で見ていて気が気ではありません。もし落ちてケガをしたらどうしようか。真下まで来て落ちたときに抱えるように準備をしています。でもほとんど子どもたちはケガはしません。反対にできたという満足感で得意げです。自信がついて次からは自由自在に楽しむことができるようになっています。もし挑戦をあきらめていたら、悔いが残り、いつまでも自己嫌悪で苦しむようになるのではないでしょうか。これが神経症発症のもとになります。なかには親がそれは危ないからといって、子どもを引きずり降ろそうとしている光景も見られます。これは過保護であり、子どもの成長にとって害になるのではないでしょうか。子どもがせっかく挑戦しようと思っているのに、「やめなさい」等といって禁止をしてしまうのは、子どもの自発性を育てようという教育方針がないのだと思われます。たまにケガをして泣き叫ぶ子どももいます。でもそのケガのおかげで注意力が増し、行動が慎重になるのだと思います。かえってかすり傷を作るくらいの遊びの方がスリルがあります。冒険をしていて失敗すると、すぐに親が駆け寄り、抱き起したりするのは如何なものでしょうか。子どもにとっては困った時はすぐに誰かが助け起こしてくれるものだという気持ちが作られ、転んだ時はわあわあと泣き叫ぶようになります。そうなると依存心が強くなり独立心の発達が遅れます。青年期になってもいつまでも親に経済的、精神的な面で依存するひ弱な子どもになってしまいます。平井さんの夏季合宿で崖登りをさせるそうです。普通は面白そうだと果敢に挑戦する子どもが多いのですが、最近はすぐに「疲れた」「なんでこんなことをしなければならないんだ」と意欲が乏しく、大人を非難する子どももいるそうです。子育ての面では実に嘆かわしいと言わざるをえません。(子どもの能力の見つけ方伸ばし方 平井信義 PHP)
2016.05.29
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子育てがうまくいかずに悩みを抱えている親は多い。集談会でもそういう人がお見えになる。特に不登校、いじめ、引きこもり、家庭内暴力などで相談に見える方も多い。私は子育てにあたっては、信頼できる人に子育ての基本を学ぶことが大切だと思う。できれば子育ての勉強会に参加すること。できなければ下記に紹介することを学習すること。何を学ぶことが必要か。1、 まず愛着の形成です。1歳6カ月までの事です。遅くても3歳までです。これ以降愛着が形成されることはありません。愛着障害は精神的に不安定になり、神経症の原因となります。これを言いだしたのはボウルビィ・Jですが、日本では岡田尊司さんが第一人者です。岡田さんの愛着障害の本で学習することです。2、 次に本格的に子育てが始まります。どんな子供に育てたいのがしっかりとした目標を持つことだと思います。この段階の子育てには平井信義さんの子育て方針をしっかりと学習することです。平井さんの提唱されている目標は大きく分けて2つあります。3、 一つ目の目標は、精力的で自発的な子に育てることです。これは森田理論でいうと「生の欲望の発揮」に邁進している子どもに育てるということです。将来親離れしたとき、他人と協力し合いながらも、経済的にも精神的にも自立して生きていけるような子どもに育てるということです。4、 次に「生の欲望の発揮」が暴走してはなりません。欲望の暴走に自ら制御をかけられる人間に育てるということです。これは森田理論でいうと、人間にはもともと、あくなき欲望を追い求めていくと、それにブレーキがかかるように作られています。車でいえばブレーキが標準装備されているようなものです。アクセルをふかさないと前に進むことはできませんが、ブレーキがないと事故を起こして、最悪命を落としてしまいます。つまり欲望の追求はほどほどのところに抑えて、調和を図ることが必要なのです。これは他人を思いやる心に通じます。以上のことを学習して子育てを進めてゆけば問題児は起こらないと思われます。現状は親が子育ての学習をしないで、無意識に自分を育てた親のやり方を踏襲している場合が多いのではないでしょうか。基準がないので自分の子育てのどこが間違っているのか気がつかない。その結果子どもに深い傷を負わせ、親は子どもの動向にビクビクしながら息をひそめて生活しなければならなくなっている。たとえば、3で述べた「精力的で自発的な子」に育てることは大変に重要です。子どもはもともと好奇心旺盛、精力的、活動的、遊び心いっぱいです。もともと自主的、自発的な芽を持っているのです。それを順調に育てているかどうか。どこの子どもも幼児期はいたずら好きです。くずかごをひっくり返してグチャグチャにします。ティッシュペーパーを引っ張り出して散乱させます。あるいは障子をつついて穴だらけにします。お母さんの化粧道具をとりだして、顔に塗りたくったり、鏡にクリームをつけたりします。親の大事なものをいじくったり、落して壊したりします。つまり、子供のいたずらは親にとっては困ったことが多いのです。物をグチャグチャに散乱させる。いろんなものを壊す。部屋を汚す。着ている服を汚す。言ったことをしない。グズグスしてもたもたとする。そのうち「嫌だ」を連発し、口答えをする。これらに対してあんまりではないか。こんなことを許容していたらわがままで勝手で自己中心の子どもに育ってしまう。ろくな大人にはならない。人に迷惑をかけて大事件を起こすようなことにならないか。自分の不快な気持ちがふつふつと沸いて、そのやりきれない気持ちを子どもにぶっつけないと精神的な病気になりそうだ。そこでしつけと称して、子どもを叱りつける。叩く。命令して、子どもを親の言うとおりにコントロールしようとする。子どもの人格否定をする。子どもがいうことを聞かなくなると、「もうかってにしろ」と子育てを放り投げてしまう。なかには育児放棄をする親もいる。ネグレクトである。こんな悪循環に陥っていることはないだろうか。これは子どもを「精力的で自発的な子」に育てるという目標を放棄している状態です。その目標を放棄してしまえば、将来何らかの問題が発生します。その時に気がついたのではもう遅いのです。その目標がしっかりしていれば、基本的には子どもの自由にさせてあげる。子どものすることは大目に見てあげる。ゆっくりやらせるために時間を長くとってやる。できもしないのに自分でするといった時は、じっと待ってあげる。壊されるとどうしても困るものは片づけておく。そういう意味では、子どもが親に反抗しなくなり、借りてきた猫のようになっている方が問題です。また素直で親や先生の言うことをよく聞く、おとなしくて、礼儀正しい子どもは体力的、精神的に成長してきたときに反抗して、必ずと言ってよいほど深刻な問題を突きつけます。平井先生は、親に「早くしなさい」といわれて、早くするような子どもは、本来の子どもの生き方を廃業している子どもだといわれています。(子どもの能力の見つけ方伸ばし方 平井信義 PHP参照)
2016.05.28
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森田理論学習の「純な心」でいつも例に出されるのが皿を割った時の話です。「しまった、おしいことをした」驚いて思わず繋ぎ合せてみる。ここから出発すればよいが、「こんなところへ皿を置いておくのが悪い」「いまさら繋ぎ合せても仕方がない」「どう言い訳をしようか」等と考えて対応策を考えていると状況は悪化していくということでした。平井信義さんが、子どもがお母さんの食器の収納の手伝いをしていた時、持っていた皿を割った時の対応について説明されています。皿を割ったことにこだわっているお母さんはこんなことを言います。「なにやってるのよ」「あんたがちゃんと持たないからこんなことになるのよ」「不注意な態度のあんたが悪い」「もう手伝わなくていいから、あっちに行ってらっしゃい」言葉だけではなく、なかには叩いたりして体罰をあたえる親もいます。そのうち、「あなたは普段から落ち着きがないからこんなことになるのよ」などと、皿が割れたこととは関係のないことを持ちだして、子どもを非難します。人格否定です。子どもは親から叱られるのをじっと聞いていると嫌になりますから、手遊びなどを始めるでしょう。そうしますと、「人の話をちゃんと聞いていない」などと言って、さらに叱ったり叩いたりします。子どもは皿を割った瞬間「しまった」と思っています。だから親はそれに輪をかけて叱りつける必要はないのです。皿は壊されたけれども、これを機会に、それを子どもの人格形成に役立たせるにはどうしたらよいのか考えてみることです。それには、失敗の体験を成功の体験に変えてあげることが大切です。そのためには「この次には頑張って上手に持ってね」と励ますことが必要です。こうした励ましの言葉によって、子どもは「この次にはこわさないで運ぶんだ」という決意とともに、困難に挑戦しようという意欲が盛んになります。そして子どもが次に挑戦してくる機会を待つことです。次に挑戦してうまくいくと、「ヤッタア」という気持ちになります。親は両手をあげて喜んであげましょう。こういう態度でいると、子どもは小さい成功体験を積み重ねて自信をつけて、自己の存在意義を確かなものにしていくのです。後始末はどうしたらよいでしょう。「自分でしたんだから、自分で片付けなさい」あるいは、「じゃまだからあっちに行ってらっしゃい」と命令し、自分でさっさと片付けてしまうのはいただけません。子どもの人格を伸ばそうとしているお母さんは、こわれた破片がどのように飛び散っているか、それをどのようにすればきれいに後始末できるかを、子どもに教えるために、子どもといっしょに後始末をするものです。大きな破片を取り除いた後、小さな破片は、新聞紙を水でぬらしてそれをちぎってばらまき、それらをほうきで掃くとか、ガムテープを使ってそれに貼りつかせるとか、いろいろな方法がありますから、それらを子どもに教えることは、次に失敗をしたときの後始末を自分できちっとすることのできる子どもを作っていくわけです。つまり子どもは、親がいなくても、壊したものを適切に処理することができるようになるのです。(子どもの能力の見つけ方伸ばし方 平井信義 PHP参照)
2016.05.27
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5月5日は子どもの日だ。朝日、読売、毎日新聞は社説で一斉に子どもの貧困、虐待家族について報じていた。たとえば、毎日新聞。親から虐待されている子、生活苦で子の養育ができない親たち……。貧困だけでなくアルコール依存や障害などさまざまな要因が複雑に絡み合って、子供たちを傷つけている。子供はこうした困窮が自覚できず、なかなかSOSを言わないだけで、実態は深刻だ。親のアルコール依存や精神障害、虐待、近親者の自殺、触法などが何重にも絡み合うケースが多い。母の内縁の夫に暴力を振るわれている子、母がうつでゴミ屋敷の中で生活している子もいるが、これが普通の家庭だと子供は思っている。「暴力があってもお父さん、お母さんが好きで、貧しいのは自分のせいだと思ってしまうのです」幼少期に虐待やネグレクトに遭うと、自分自身や社会に関心が持てなくなり、生活習慣を身に着けたり学習したりする意欲が阻害される。ひどい虐待を受けた子の中には、脳が萎縮する例があるとの研究報告もある。努力するために必要な土台がない子に努力を求める理不尽さを認識すべきである。たしかに親によるネグレクト、虐待は日常茶飯事となった。アルコール依存症、過保護、過干渉、放任によるアダルトチルドレンの出現。いじめや不登校、自殺の増加。目を覆いたくなる現状がある。今の子どもたちの多くが自分たちの将来に希望が持てなくなっているのではないか。新聞の社説では2日に「児童扶養手当法」が成立したので、貧困が原因で学校に行けない子どもたちには福音になるようなことが書いてあった。そういう表面的な解決だけではもうどうにもならないところに追い込まれているのではなかろうか。私は親たちが本来の人間の生き方を見失っていることが子どもたちに暗い影を落としていると思う。今の親たちは物質的な豊かさをどこまでも追求していく生き方が唯一絶対的な生き方だと思っているのではなかろうか。その結果働き蜂のように働き続ける。本来家庭は協力しながら家事、育児、教育しながら家族の絆を深めていく場である。そちらがまず優先されるべきである。手をかけることを怠り、日常生活そのものを楽しむことはどうでもよくなってしまっている。ミイラ取りがミイラになり、金儲けに必死になっているうちに、気がついてみたら家族がバラバラになっていた。そして子どもたちにもそんな生き方を限りなく押し付けている。こういう生活の仕方、考え方が閉塞社会を作りだしているのではないか。動物行動学やっているケーニッヒという人が、青サギをたくさん飼っていました。餌とかいろんなものを十分に与えて飼ってみると、最初はどんどん増えてゆくそうです。あるところまで増えていくと、そのうちだんだん減ってきて、そして最後には絶滅したそうです。同じような実験はネズミでもおこなわれていて、環境を整えていくと最初は増えるのですが、やがては減ってしまう。どうゆうことが起きるかというと、卵を産んでもかえさないとか、子供ができても餌をやらないとか、子育てをしなくなるのです。その結果としてサギが減ってしまうということです。つまり自分たちの欲望がある程度叶えられてくると、さらに加速がついてくるのです。その結果子孫の繁栄には気が回らなくなり、社会が保てなくなり、やがてその種は絶滅していくのです。日本社会も少子化といわれて久しい。結婚しない人、結婚しても子どもを作らない人、生んでもせいぜい1人か2人。それは教育費がかかり過ぎる。養育費がかかり過ぎる。子どもをたくさん作ると親子共倒れになるという不安がある。自分たちが出来るだけ物質的に豊かな生活をしたい。無理をして仕事をしてゆけば、ある程度それが可能な社会だと認識するようになると、そのエネルギーは子育てには向かわなくなる。この世に生きている自分さえ楽しく愉快に過ごせればよい。不足分を次世代を担う子どもたちに期待しようという気持ちは無くなる。そうしてあくなき欲望の充足に浸っていくうちに子どもたちは少なくなり、子どもたちは将来に希望を見出すことはできなくなっているというのが実態ではなかろうか。欲望のあくなき追求は宮崎駿の「千と千尋の神隠し」のシーンを思い出す。グルメ三昧でムシャムシャと夫婦で美味しいものをむさぼっているうちに、ブクブクと肥り最後には姿かたちも豚になってしまうという話である。とても見にくいシーンであったが、人間そのものを風刺しているようであった。
2016.05.07
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20数年にわたり家庭裁判所で非行少年の事件を担当してきた経験を持つ赤羽忠之氏は、日本の親子関係のなかには対等で健全な葛藤(要求のぶっつけあい)が欠落していることを指摘されている。「親たちは子どもが幼少のころから親子関係のコミュニケーションを省略し、金や物を与えることによって、その代替えをさせようとする傾向が強い。親子げんかを上手にすることは親子の要求がぶつかり合う格好の機会であり、相互理解を促す場面であるが、子どもたちはそのような貴重な経験を保障されていない。子どもたちは発達途上にある存在であるが、一人の人間としては親たちとは対等の関係にあり、相互に言い分を出し合い、一方が屈服させられたり、泣き寝入りをするといった間柄であってはならず、いわば親子がむきあって生活することが重要なのであるが、日本の子どもたちにこのような親子関係が存在していないことが多いように思われる」「教育」誌 1989年6月号親に柔順だった子供も中学生ぐらいになると、何かと反発するようになる。第2次反抗期の到来である。親としては反抗的な態度に驚きを隠せない。どう対応していったらよいのか戸惑う。反抗的な態度を見て、なんとか抑えつけて、以前の柔順な子どもに戻そうとする。でもこれから大人になり、自立していくためにどんな人にでも訪れる通過点である。なんとか無難に通過させることが重要である。この時期、親の対応としてはどんなものがあるだろうか。一つには、親に対して反抗的な言動は決して許さないという「かくあるべし」で、子どもを抑圧する。こうなると絶えず争いが絶えなくなる。子どもも親も家にいることが苦痛になる。もう一つは、子どもの要求をそのまま飲んでしまう。子どもが欲しいというものはなんでも買い与えてしまう。子どもと対立することを極力避けようとする態度である。わがままし放題である。でも限界がある。その限界での親子の対立は悲惨な結果となることが多い。こうならないためにはどうすればよいのか。まずは子どもの第2反抗期は子どもが成長するために必ず訪れるものであり、冷静に対応するという覚悟を持つことだ。次にそのような場面では、子どもの言い分をよく聞いてみる。最初から頭ごなしに否定してはならない。子どもの言葉、行動から子どもの気持ちや要望をよく聞いてみる。でもそのまま子どものいいなりになってはならない。次に親としての自分の気持ち、要望を整理してみる。そしてそれを「私メッセージ」で伝える。子どもと親の思いや意見の違いをはっきりさせて、あぶり出していくことだ。そして妥協点を見つけていく対話を積み重ねていくことである。するとある時は子どもの意見を通す。また別の時は親の意見を通す。というふうに臨機応変に対応できるようになるのではないか。これは子どもが大人になって、他の人との衝突や葛藤が生じたとき、この親子の対話、問題解決力が生きてくるのだと思う。そういう経験を積んでいないと、対人折衝力は身についてこない。このような親子の対話、けんかを避けているとすると、子どもは対人関係の距離の持ち方が分からず、容易に対人恐怖症に陥ってしまうだろう。
2016.03.10
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岸見一郎氏は子どもを「叱る」ことについて次のように言われています。私の息子が2歳だったある日、息子はミルクの入ったマグカップを持って、おぼつかない足取りで部屋の中を歩きはじめました。案の定、途中でつまずいてミルクをこぼしてしまった息子に私はこう声をかけてみました。「どうすればいいと思う」息子はしばらく考えて、「ぞうきんで拭く」と答えました。そして息子は自分で床をふきました。拭き終えた息子に対して、私は「ありがとう」と声をかけました。さらに私は息子に、「これからミルクをこぼさないためには、どうしたらいいと思う」とたずねました。息子は再び少し考えて、「これからはすわって飲む」と答えました。人は誰でも失敗をするものですし、失敗したときにこそ多くのことを学ぶことができます。しかし失敗は一度は許されても、何度も同じ失敗を繰り返すことがあってはいけません。私は息子と次の機会にどうしたら失敗をしないですむかを話あったのです。失敗やミスの場合、まず、可能な限りの現状回復をします。次に、もしも失敗やミスによって感情的に傷ついた人がいれば謝罪することが必要です。さらに、今後同じ失敗やミスをしないための話し合いをすればいいのです。普通は「こぼしていいけません」ときつく叱ります。カーペットが汚れたりすることを心配しているのです。こんな場合、叱る必要などまったくありません。小さい子どもの場合、自分のしたことの意味を知らないということがあります。その場合はその結果どういう事態になるかを説明しなければなりません。叱られて育つと、人の顔色ばかり窺うスケールの小さな人間になってしまいます。人間というのは本来、ごつごつした尖った部分をそれぞれが持っています。この尖った部分が個性です。それを短所や欠点と見なし、矯正しようとすると、また、時には何も起こらないうちから叱って子どもの失敗を未然に防ぐようなことばかりしていると、尖った部分を取り除かれることで、たしかにいい子にはなるかもしれませんが、自分で創意工夫をして何かをやろうという子どもには育たなくなります。(人生の意味の心理学アドラー 岸見一郎 NHK出版 91ページ引用)普通しつけと称して子供を叱りつけることが多い。怒りという感情を利用して子どもをしつけようとしているのである。それが子どもの将来によい影響をもたらすはずだと思っているのです。でもこれは対症療法的なしつけだと思う。対症療法的なしつけは、即効性はあるが、その場限りということが多い。親が見ていなければ元の木阿弥になる。ではしつけはどのように行われるべきなのだろうか。森田先生は子どもの正一郎君に交通ルールを教えるときこんなふうに言っている。道路では決して走ってはいけない。常に歩くこと。特に道路を横切って電車に乗る時は、ゆっくりと歩いて電停に行くこと。急いで走って乗ろうとするときに事故に巻き込まれる。その結果、正一郎君は決して道路では走りまわらなくなったそうである。森田先生のしつけは極めて具体的である。こうするとこうなるという経験に基づいた事実を話している。これは叱っているというよりも、こうするとどういう結果になるのかという事実を説明して教え込んでいるのだと思う。あとどう行動するかは子供に任せている。しつけの基本は世の中の事実を教え込んでいくということかもしれない。その視点に立てば子どもを叱りしけることは少なくなっていくと思う。
2016.02.05
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人間に生れてどう生きていったらよいのかについて考えてみました。自分の気持ちや意思を尊重して、自分の一人の力で生きていくこと。これは自立とかアイデンティティの確立とか言われます。まずこれがとても大切だと思います。でもどんなに頑張っても自分ひとりで生きていくことはできません。親の助けがないと生きていけません。また大人になると周囲の人と協力しながら生きていくしか生きるすべはありません。それでは最初に自立できる子どもに育てるにはどうしたらよいのでしょうか。親がどのように子どもを育てていけばよいのでしょうか。一つは、子どもといえども一人の別の人格であるということを認めて、自立支援を目的にして育てていくことだと思います。そのためにはいくらイライラしてもすぐに口に出したり、叩いたりしないこと。叱責、脅迫、押し付け、指示、命令をしないこと。「かくあるべし」を子どもに押し付けないこと。親が「勉強しなさい」と勉強だけを強制していると、勉強で躓いた時容易に挫折してしまいます。少年犯罪を犯す子どもの中に、親の言うことをよく聞いて生活していた手のかからない子どもがいるそうです。これは小さいうちは、親の言うなりになっていても、心の中には不平不満がどんどん蓄積されていっているのだと思います。例えば、風呂に入ってもらいたいとき。問答無用で嫌がる子どもを風呂に連れていくのではなく、そんなに急ぐ必要もないのであれば、私メッセージで自分の気持ちを伝えて、後は子どもの主体性を尊重して待つという気持ちが大切なのではないでしょうか。その上でシャロン伴野さんは、子育てに、「どっちいいですか?」の活用を提案されています。これは、子供に二つの選択肢を示し、そのうちのどちらかを選ばせるというものです。例えば、大切なお客さんが来ているのに、子供がぐずって泣き出したとします。シャロン伴野さんは子どもにこう言います。「お母さんは今、お客様と大事なお話をしているの。もし、泣きたいのなら、玄関のところにいって泣きなさい。もし、お母さんたちと一緒にいたいのだったら、泣き止みなさい。どっちがいいですか?」子どもに選択権を与えているのです。これは大人になっても是非応用してみたいものです。2014年10月11日、12日に投稿していますので参照してみてください。子どもの意思を尊重するといっても、全く子どもから離れてしまうのではなく、いつも子どもに寄り添って見ていることが必要です。つまり自由放任、無視してはいけない。親に見捨てられると思いきって新しいことに挑戦することができなくなってしまいます。もう一つ大事なことは、親がなんでもかんでも先回りをして本来子どもが自分でやるべきことをとってしまわないということです。つまり過保護に育ててはいけないということです。もたもたして遅い、たとえ間違ったことをしている場合でも一応やらせてみる方がよいようです。ケガをしそうなときでも、言葉で注意をして、それでも止めないときは見ているゆとりが欲しいものです。小さなケガを経験すると次に活きてきます。小さな擦り傷や痛みを経験することはとても貴重なことです。そんな子どもは、大人になって、自分で考えたり、判断することができるようになります。親がなんでもかんでも子どもになり代わってやっていると、子どもは自分の気持ちや欲望が分からなくなってしまいます。そしてそれらを出せなくなってしまいます。さらに自分の意思で決断したり、何かを選びとるということができない人間になってしまいます。対人関係の教育ですが、まず他の子どもと一緒になって泥んこになって遊ばせることです。そして小さなけんかを数多く経験させることです。砂を相手に投げつけたりすることは、注意しなければなりません。「目に入ったら目が見えなくなるのよ」と言葉で説明しなくてはなりません。でもおもちゃを奪い合ったり、ひっかかれたりすることは大目に見なければなりません。泣かされたり、泣かせたりする経験もとても大事なものです。人間関係のコツを雑多な経験の中から体得しているからです。お母さんによっては自分の子どもがよその子どもにいじめられたといって相手の家に抗議に行くこともあるそうです。お母さん同士は子どものけんかについては、よく話し合って共通認識を持っていることが大切だと思います。大人になると他人は自分の思い通りには動いてくれません。そのときに小さい頃に会得した対人関係の折り合いの付け方は役に立ってくるのです。まず自分の気持ちや希望をはっきりさせる。次に相手の気持ちや希望を理解する努力をする。その上でどう歩み寄っていのかを考えていく。譲る時は譲り、主張するときは主張する。その阿吽の呼吸は子ども時代に培われるのです。(今日を生きる 大平光代 中公新書参照)
2016.02.02
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我慢できる子どもに育てることは大事なことである。それは大人になっても我慢ができずに、欲望の暴走が止まらないからである。社会に迷惑をかけ、自分の将来がめちゃくちゃになるからです。我慢できない子は、窃盗、薬物、性犯罪、暴力等で補導され、「もう決してやりません」といっても、何度でも非行を繰り返すという。歯止めが効かないから自分でもどうしようもないのです。その子のせいではありません。親の育て方の問題です。我慢のできない大人になった時点ではほぼ修正は不可能です。出来ることは、欲望の暴走が起きそうな場所、他人とは一線をおくしかないのです。でもそれはとても不自由なことです。出来ればなんとか幼児、子ども時代にきちんと我慢できる子に育てることが大切です。泣けばすぐにミルクを与える。抱っこをする。呼ばれればすぐに飛んでいく。何でも子どもの言うとおりにしている。子どもが駄々をこねればすぐに応えてあげる。あれが欲しいといえば、欲しい理由を考えることもなくすぐに買い与える。かわいい子どもだからといって、甘やかせて過保護に育てたつけは、遅かれ早かれ必ずやってきます。どうすれば我慢できる子どもに育てられるのか。大平光代さんの本から紹介してみよう。おなかがすいて泣いた時、あわててミルクは作りません。「ミルクを作ってくるからちょっと待っててね」と声をかけて、台所に引っ込みます。激しく泣き続けてもそのままにしておき、ころあいを見はからって「お待たせ」とミルクを持っていくのです。そしてその待たせる時間を少しずつ長くしていきました。抱っこをせがまれた時も同じ。「お母さんは今、お片づけをしているからちょっと待っててね」と声をかけてから、台所に入ってしまいます。泣けどわめけどそのままにして、10分ほどたってから出て行って「はるちゃん、お待たせ」と両手を差し出します。でも敵もさるもの、すねて寄ってこない。「じゃあ、いいのね」私が台所に戻りかけると、ギャーギャー大泣き。そこで手を差し伸べると、飛びついてきました。こうしたことを繰返していくうちに「待っててね」と声をかけると、ちゃんと待っていられるようになりました。長時間ワーワーギャーギャー泣き叫ぶのを聞いていると、抱いてやるほうがどんなに楽かと、何度思ったかしれません。でも負けてしまうと、「泣いたり、ごねたりすれば、なんでもいうことを聞いてもらえる」と親をなめるようになってしまいます。スーパーへ買い物に行った時もそうです。買い物中に「ジュースが欲しい」と泣き叫ぶことがあります。その場で買い与えれば泣きやむわけですが、私は「お買い物がすんでからね」と言い聞かせるだけで、泣かせぱなしにしていました。とにかく、「あなたのいいなりにはなりません」ということを教えないといけないのですから。すると子どもはしだいに、泣いても言うことを聞いてもらえないということを自覚するようになりました。ミルクを飲まないときは、「次はお昼まで飲めないよ、それでいいの」と言い聞かせ、間で「おなかがすいた」といっても飲ませません。はじめは目に涙をいっぱいためて抗議をしていましたが、泣いても無駄だと分かってから、口元に少し力を入れてモグモグ。ミルクを吸うまねなんです。そうやって、けなげに耐えている様子を見ていると、子供心にも我慢することを理解してくれたようで、嬉しくなります。私はダメという場合は、ちゃんとその理由を言葉で説明するようにしています。そして約束したことはどんな小さなことでもきちんと守ります。「ミルクを作ってくるから少し待っててね」と事前に説明し、その通りにすることで、最初泣き叫んでいた子どもも「お母さんはミルクを持って必ず私のところに来てくれる」ことを学習します。我慢することと同時に、人を信頼する基礎が培われるわけです。自分の思い通りにならないことがあるということを自覚できることは大変重要なことです。我慢することができるようになった子どもは、一つの能力を獲得したのだと思います。この能力を持って大人になった子どもは柔軟性があります。人との調和、調整能力としていきてきます。こういう人がリーダーとして活躍できるのだと思います。そして現実、現状、事実を受け入れることにつながります。それは神経症とは無縁の世界に身をおくことにつながります。(今日を生きる 大平光代 中公文庫より引用)
2016.02.01
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先生はA君が教室から出て行ったあと、クラスメイトに、なんとかA君と仲よくしてほしいと思って話し合いをしました。先生 誰か、A君を迎えに行ってあげてよ。B君 いやだよ。いつものことなんだもの。それより早く授業を始めようよ。先生 A君は何か思ったんだと思うよ。自分のことを、軽蔑した目で見るとか。B君はA君の気持ちは理解できた。B君 分かんないけど、でもどうすればいいの。自分から出て行ったんだから。先生 それでいいの。B君 それでいいよ。言っても分からない人だから。先生 本当にそれでいいの。A君が抜けて、それでも6年1組と言えるのかな。みんなそれでいい。だれかA君のことは私に任せてという人はいないの。B君 だって、何か教えてあげようとするとすぐに怒っちゃうんだよ。いつもそうなんだ。自分たちはちゃんとやっているのに。だからみんなもう関わりたくないんだ。先生 でもA君出ていっちゃってそれでいいの。C君 一生懸命やってきたよ。今までもずっと。かってにすればいいんだよ。B君 先生はどちらの味方なんですか。A君の味方なんですか。それってひいきじゃないんですか。全員 先生はA君をひいきしていると思います。クラスは収拾がつかなくなりました。先生はみんながA君を受け入れてくれてなんとかクラスをまとめあげようとしましたが、火に油を注ぐようになりました。子どもたちは家に帰って母親に不平不満をぶちまけました。母親たちはお互いに連絡をとって臨時保護者会を開き担任と学校を糾弾するということにまで発展しました。先生の真面目で真摯な態度は敬服ものです。でもやり方は問題がありました。ではどう対応すればよかったのでしょうか。うまく展開した例です。B君 僕はなにも悪いことはしていない。担任 そうだよね。B君はなにも悪いことはしていないよ。B君 僕たちはA君が暴れてもいつも我慢してきたんだ。担任 ありがうね。我慢してきてくれたよね。どんなふうに我慢してくれたの。B君 殴られても殴られっぱなしになったしさ。こっちも殴りたくても抑えてさ。言いたいことも我慢してきたんだ。担任 言い返したいことや、殴り返したいときに我慢してくれていたんだね。ありがとう。B君以外にも多くの人の気持ちを聞いて、その気持ちを肯定して受け入れました。担任はみんなにA君を受け入れて欲しいとは言っていません。クラスメイトのA君に対する気持ちを吐き出させています。Cさんは「もうこれ以上我慢できません」と訴えました。担任は「どんなふうに我慢させられているか教えてくれる」とCさんの不満を引き出しました。それぞれの子どもが、言いたいことを言っても、担任にネガティブな感情は否定されません。かつ、自分たちの努力や工夫が承認されたことで、満足し、落ち着きを取り戻しました。このような対話がなされると、発言しない子どもも、同じように自分の感情を承認された気持ちを体験することができるので、クラス全体が、担任への信頼を深めていくことになるのです。担任はA君に対しても、クラスメイトに対してもそれぞれの思いや気持ちを吐き出させて、その思いや気持ちに沿った言葉を投げかけて受容するということが大変大きな意味を持っています。私たちは「かくあるべし」的思考が強い。また、先入観や決めつけ、ネガティブな行動をとりやすい特徴があります。傾聴、共感、受容が大切だと集談会では言われます。どんなに相手に非があると思っても、まずは相手の思いや気持ち、湧きあがってきた感情を思いやってみる。そんな気持ちで相手の話を聴いてみる。十分に吐き出させる。相手になり代わってその感情を表現してみる。そして相手の感情を受け入れていく。このことを実践するだけで自分の不安のとらわれに対する取り組みはかなり変わってくるものと思います。つまり自分の不安もある程度受け入れることができるようになるのです。(怒りをコントロールできない子の理解と援助 大河原美以 金子書房参照して一部引用)
2015.08.24
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もしあなたが小学6年生の担任だったとします。A君という問題児がいます。A君は、教室で自分のできないことにぶつかったり、注意されたりすると、ささいなことでパニックになり、きれてしまいます。きれると目つきも悪くなり、あたりかまわず物を投げたり、隣の子を殴ったりします。暴力を使うことは絶対にいけないことだと言ってきましたが全く効き目がありません。こういう子どもが一人でもいると、授業の進行の妨げになります。放っておくと、学級崩壊になりかねません。校長先生や同僚から担任の責任として冷ややかな目で見られます。また父兄からの学級運営のやり方に対する批判もあります。こんな子供がいたとしたらどう対応すればよいのでしょうか。「怒りをコントロールできない子の理解と援助」という本の中にこんな話が紹介されていました。まず一般的な先生の例です。A君が、突然きれて授業中に友達のノートを破りました。先生 どうして友達のノートを破ったりしたの。いつも少しくらいイライラしても、乱暴はいけないっていつも教えてるよね。友達に謝らないといけませんよ。謝りなさい。A君 知らないよ。そんなこと。(といって激しく抵抗する)これは普通一般的な対応でしょう。この先生は「どうして、こんなことをしたの」とA君に尋ねて、自分が納得する答えを求めます。A君は先生を満足させる応答をすることができません。だからさらに自分を責められます。先生は被害に遭った子どもの気持ちを訴えることを通して、A君が自分のしたことを反省するように求めています。しかし、自分で処理しきれないネガティブな感情でいっぱいの状態にあるA君にとって、友達の感情についての話はほとんど意味をなしません。A君が興奮すると、先生もA君の態度に巻き込まれて、共に興奮してしまいます。言葉で「落ち着きなさい」といっても、態度で先生の興奮が伝わるために、A君は落ち着くことができません。先生の指導は、A君を心配している思いが伝わらないいらだちから、「このままでは、みんなにもっと嫌われちゃうでしょ」といって、A君の不安状態を強化してしまう対応をしてしまっているのです。これに対してスクールカウンセラー(SC)がこう対応しました。SC 教室でイヤなことがあったんだって。身体がドキドキしちゃってるね。A君 わかんない、わかんない。SC そういうとき覚えてないことってよくあることなんだよ。覚えてなくても大丈夫だよ。A君 え! いいの。(不思議そうにSCの顔を見る)SC うん。覚えてないもんだよ。どこまで覚えているか教えてくれる。A君 友達がジロジロ自分を見てた。俺が答えようとしてたのに、どうせできないじゃんって目で見てた。「お前バカじゃないの」って誰かが言った。後は真っ白。覚えてない。SC そうか。「お前バカじゃないの」って聞こえたんだ。A君 オレ、バカじゃない。それなのに。(しだいに興奮してくる)SC そうだよね。それなのに、そう言われるから、すごく腹が立ったんだよね。すごく悲しかったんだよね。A君 うん。そんなんだ。SCはA君の行動の奥にあるネガティブな感情を見つけて言葉に置き換えて返しています。A君は冷静に返答していることに注意してください。A君は、きれるときは「むかつく」としか表現しないけれども、その下には「不安」「悲しみ」の感情がふつふつと湧きあがっていたのです。A君が身体で安心を感じることが大切なのであり、そして、怒りのもとにある感情を、身体感覚を通して言葉にして共感してあげることが重要な援助になるのです。(怒りをコントロールできない子の理解と援助 大河原美以 金子書房参照して引用)
2015.08.23
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小学1年生の先生の話です。30人以上のクラスになると、もう大変で、こっちのけんかを仲裁している間にあっちでけんかが始まります。ところが、授業参観とか運動会とか、保護者が参観においでになるときは、見違えるほどに、立派になるんですよ。どうしてこんなにちゃんとできるのに、保護者がいないときには、できないんだろうと不思議に思っています。また、家庭訪問をしたときに、おうちでまだまだ甘えん坊で、学校でちゃんとやれているか心配ですと、おっしゃるお母さんのお子さんは、私から見ると、学校ではちゃんとやっているお子さんだったりするのです。逆に、お子さんのことを、うちの子はしっかりしているので全く心配していないんです。とお話になるご家庭のお子さんが、学校で養護教諭にべったり甘えたり、すぐにかっとしたり、赤ちゃんみたいになっちゃったりするということがあります。この現象をどうとらえるのか。学校ではやりたい放題。家では親に柔順に従うペットのような子どもの姿です。これは反対ではないではないか。本来は親の前ではやりたい放題。学校ではちゃんとしているのが子どもの心の発達から見ると正常なのではないでしょうか。どうしてこんなちぐはぐな子どもが増えてきたのでしょうか。これは親の接し方に問題があると思います。親が子どものネガティブ行動に対してどう対応しているのか。その原因となるネガティブな感情に対してどう対応しているのか。普通は叱責、否定、強制、脅迫、人格否定等が多いのではないかと思います。子どもは親の力の前にはとても弱い存在です。もし親から見捨てられると生きては行けなくなります。だから自分の身体から湧き出る強い生のエネルギーを知らず知らずのうちに抑え込んでいくようになります。親の指示、命令に合わせることを学んでいくのです。そう対応していかないと生きていけないのだと感じてしまうからです。そうなると自分のほとばしるエネルギーの発揮は抑えつけられて、消化不良になります。本来家庭はいろんなストレスを解消して癒される場所です。家庭で心身をリフレッシュして、エネルギーをため込んで再スタートをきる前線基地のようなところです。家庭が基地の役目を果たしていないと大変なことになります。心も体も休まることがない。家庭にいてもいつも不安で怯えているような状態です。たとえれば、自分が戦争に行って前線で戦っています。自分の方が不利な戦況で、一旦撤退した方がよいような場面があったとします。少しずつ後退を余儀なくされました。ところが後ろから上官がさがってはいけない。もっと前に出て闘えと叱咤激励しているようなものです。それでも、後退する人に、その後ろから鉄砲を撃ち放して威嚇しているようなものです。自分の味方、分身を脅しているのです。そのような状況におかれるとたまったものではありません。心のよりどころを無くした人間は弱いものです。生きていく力が急にしぼんでしまいます。体調不良に陥ります。心身症のような状態になります。神経伝達物質のバランスが崩れます。容易に精神状態が不安定になります。最悪神経症や精神疾患で苦しむようになります。そうならないためには、子どものネガティブな感情をしっかりと受け入れて、安心感を持たせなければならないのだと思います。(ちゃんと泣ける子に育てよう 大河原美以 河出書房出版社参照)
2015.08.10
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幼児虐待をする人がいます。逮捕された親が言うことはいじめるつもりはなかった。しつけのつもりだった。しつけのつもりで暴力を加えたり、食事を与えなかったり、監禁したというのです。それが行き過ぎたので反省しているというのです。子どもをしつけるとは何でしょうか。子供が健康で社会に適応してすくすくと育つために、いろんな必要事項を教えて習慣化させていくことを言うのではないでしょうか。例えば、睡眠時間、食事、歯磨き、排泄、生活リズムを教え込む。体を清潔にすること。衣類、おもちゃ、絵本等の整理整頓を教える。交通ルールを教える。社会習慣、社会のルールを教える。約束を守る。ものを大切にする。お金の使い方を教える。家庭の中での役割について教える。やってはいけないことを教える。命にかかわる危険について教える。やさしく思いやりのある子に育てる。好奇心があり意欲的な子どもに育てる。等でしょうか。親が子供をしつけるときに、子どもの反発にあいます。自分の今やりたい事としつけが衝突すると必ず駄々をこねてきます。ネガティブな感情を表出させてしまうことが多々あります。子どもはもともと我慢できない子、耐えることができない子なのですが、それが親としては許せないのです。叱責したり、叩いたりして親に従わせようとします。それは親が不快な気分を味わうことになるからです。また子どもが大人になってもわがままになってしまうのではないかと思ってしまうのです。さらに学校の先生に「お宅の子どもさんだけですよ。きちんと出来ないのは」といわれると自分が否定されたように感じるのです。またおじいちゃんおばあちゃんに「もっときちんとしつけなければ。私たちはきちんとしつけてましたよ」といわれるとプレッシャを感じるのです。その結果、わが子につい腹が立ってしまい叱責したり人格否定してしまうのです。ここで大事なことは子どもが駄々をこねている時に子どもの気持ちを思いやるということです。腹が立つ、悔しい、憎らしい、嫉妬した、不安だ、恐ろしい、むしゃくしゃする、イライラする、寂しい、どうしても欲しい等の感情を受けとめてやるということです。子どもの気持ちを子どもになり代わって言葉に出すということです。通常低学年の子どもは、自分の感情がなんなのかを学んでいる最中なので、すごく腹が立つ、悔しい等の言葉かけをしてもらわないと、自分の体の中を流れている不快な感情を安全に抱えることが習得できなくなってしまうのです。通常しつけにはこのことが抜け落ちてしまうのが大問題です。子どもの感情を受け入れることができて、しつけの段階に進みます。子どもがいくら駄々をこねても親は安易に妥協しないでしつけをしていくということです。ここで子どもを甘やかせて過保護にさせてはいけません。断固としてしつけをしていかなくてはなりません。前段階がきちんとできていれば、そんなに子育ては難しくありません。その時は反発していても親が自分のことを理解してくれているという感覚はとても得難いことなのです。(ちゃんと泣ける子に育てよう 大河原美以 河出書房出版社参照)
2015.08.07
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赤ちゃんは身体が不快な状態にさらされると泣き叫びます。すると親が飛んできてミルクを与えたりおむつを替えたりしてくれます。赤ちゃんは不快な状態が解消されて安心します。その繰り返しの中で、赤ちゃんは人間の心が成長していく上で最も重要な感情を獲得してゆきます。それは「安心感・安全感」という感情です。親の大きな包容力のなかで「自分は生きていていいのだ」という感覚を身につけていくのです。未熟で生まれてきた人間は多かれ少なかれそういう過程を経ているのです。ところが幼児期になると様相が一変します。子どもが自分の不快な感情に基づいて、怒ったり、泣いたり、ふくれたり、すねたり、暴れたり、暴言を吐いたりするようになるからです。するとほとんどの親は叱ります。たたいたりする親もします。「いい加減に我慢しなさい」と言い含める親もいます。この対応は乳児期の包容力のある対応とは全く異なります。子どものネガティブな行動や現象を見て、しつけと称して批判をしたり、修正させようとしています。元々子どものネガティブな行動には、その原因となる感情が湧き起ったはずです。腹が立つ、悔しい、憎らしい、嫉妬した、不安だ、恐ろしい、むしゃくしゃする、イライラする、寂しい、どうしても欲しい等です。子どもの体の中を突き抜けていくこの不快な感情を受け止めていくということは、その後の子どもの心の成長にとってとても大切です。ネガティブな行動面を見て我慢強い子に育てよう。きちんとしつけをしようと考えることは極めて短絡的な考え方です。例えば、自分の遊んでいるおもちゃを友達が勝手に横取りしたとします。普通の子は泣き叫びます。そして親に取り返してくれとせがみます。その時親がどういう態度で子どもに接するか。「そんなことでわんわん泣かないの」「少し我慢してれば、また遊べるようになるから」「こっちのおもちゃも面白いよ」このような対応はどうでしょうか。別になんの問題もないようです。実はこの対応は大いに問題があります。この時の子どもの感情は、悔しい、腹が立つ、憎らしいといったものです。なんともいえない不快感が体の中を駆け巡っています。その感情を親が認めて受け入れるということが大切なのです。「おもちゃをとられて悔しかったんだね。怒っているんだね」これは泣き叫ぶ子どもから、どんな感情が湧いているのかを推察して、子どもにこれは悔しさ、怒りという強い感情が自分の体の中に流れているんだよ。この感情は台風などの自然現象だからどうすることもできないんだよ。こういう気持ちは誰でも経験している事なんだよ。と暗に教えていることになるのです。これが積み重なると子どもは健やかに成長してゆけると思います。この不快な感情を親に受け止めてもらうと子どもは「安心感・安全感」を獲得することになります。神経症のように一つの不安や恐怖にとらわれ続けるということはありません。子どもの体の中を流れている不快な感情をきちんと受け止めるということは、感情と言葉が一致するということです。悔しい、腹が立つという身体感覚と言葉が一致するということです。子どもは自分の身体感覚にあった言葉がけを養育者にしてもらうと、不快な感情はぱたっとおさまったり落ち着きを取り戻すというものなのです。ここで例えば、叱りつけられるということは、自分の身体感覚のなんともいえないイライラはおいてきぼりになるということです。親に言われれば小さいうちは素直に従うでしょうが、不快な感情が行き場を無くして放置されてしまうのです。その感情が絶えず徘徊を始めるのです。不快な感覚と言葉が不一致のままに取り残されるので、モヤモヤ、イライラはいつまでも解消することはできないのです。その感情はいつまでも心の中に残るということになるのです。そういうふうに育てられた子供が精神的に疾患を起こして苦しむようになるということは容易に想像できます。
2015.08.05
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幼い子供はたいてい海水浴に行っても水が怖いと言います。だから最初は泳ぎを覚えるどころではない。でも親が近くにいることで安心して浮き輪から出て泳ごうとします。溺れそうになると親が助けてくれるからです。つまり最初は親のサポートが必要なのです。親に見守られているということで、安心して泳ぎを覚えることができるのです。何回も挑戦していくうちに泳ぎを覚えてしまいます。もし親が近くにいなかったとしたらどうでしょうか。おぼれて死んでしまうかもしれないという不安や恐れが出てくるのではないでしょうか。親が海岸にいて口でいろいろと指導する。あるいは子どものぎこちない動作を見てくすくすと笑っているとするとどうでしょうか。多分足がつかない沖合では浮き輪から出ることができなくなるのではないでしょうか。安心、安全、信頼という後ろ盾がないので、不安や恐怖心がなくならないからです。その結果行動が停滞し、泳ぐ能力を獲得して自信をつけることがなくなります。頭の中では不安や恐怖心の悪循環が始まります。幼い子供は不安、恐怖、怒り、悔しさ、憎しみ、悲しみ、嫉妬心などのネガティブな感情から、すぐに泣きわめいたり、暴力的になったり、自暴自棄になります。そんな時の親の対応は、子供の心の成長に大きな影響を与えます。どうすればよいのか。泳ぎの例で見てきたように、まず親は子供の近くにいて見守っていることが大切です。次に、そういうネガティブな感情に対して共感して受容してあげることです。否定しないで、見守っていてくれるおかげで、安心感、安全感、信頼感が生まれてくるのです。そういう後ろ盾を信頼して、思い切って挑戦できるのです。たとえ失敗しても親が温かい気持ちで見守っていることが大きな安心感につながっているのです。不安や恐怖に翻弄されて怯えたままではありません。反対に親が近くにいない。あるいはいても、ネガティブな感情や行動を見て、叱ったり、否定したり、批判したりされているとどうでしょうか。ネガティブな感情をずっと抱えたままになります。そしていつまでも自分で受け入れることができなくなってしまうのです。閉塞的で苦しい状態です。そのうちネガティブな感情を異物視してなんとか取り除こうとします。つまり不安や恐怖心に翻弄され続けていくことになるのです。これは神経症発症の原因となります。さらに悪いことに、こういう人が大人になって、子供を育てることになった時、子供がネガティブな感情を表出したとき、親と同じような対応をとってしまうのです。世代を超えて悪循環が始まるのです。どこかで断ち切らないと子供も親も苦しくなります。現在子育て中の人、これから子育てをする人と、それにかかわる人は是非頭に入れておいてほしいところです。また、不幸にしてそういう大人になってしまった人は、自覚を深めて、対人関係の改善に役立てていただきたいと思います。つまり、他人のネガティブな感情に寄り添い、受け入れていくということです。試行錯誤するでしょうが、意識して取り組めばできないことはありません。すると、自己嫌悪、自己否定する度合いが低下してくるものと思われます。
2015.07.24
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幼い子供ががけっぷちで鬼ごっこをして遊んでいるとします。崖に柵がなければ子どもたちが落ちてしまうかもしれません。そこで柵を作ります。普通の親は「柵の向こうは危ないから超えてはだめ」と注意します。子どもは「イヤだ」と言いました。そこで親はどう振る舞うか。例えば、1、 そんな自分勝手なことをしてはいけません。わがままな子供を厳しく叱ります。2、 分かったよ。じゃ柵を1m向こうにずらしてあげる。これだったらいいでしょ。3、 柵の向こうで遊びたいんだね。残念。がっかりだね。柵の向こうに行かれないのよ。子供が泣きやむまで泣かせておく。そして泣きやんだ時「よく我慢できたね」とほめる。1の対応は、子供のネガティブな対応を否定する対応ですが、一般的にしつけとはこのように理解されています。2の対応は、子供との葛藤に耐えられない場合にとられる妥協策です。一見民主的な親子関係に見えますが、子供のことよりも自分の不快感を収めることを重視している関わり方です。3の対応は、子供のネガティブな感情を大事にしながら、しつけの枠をくずさない対応です。本当のしつけとは、枠をまげないでいられる落ち着きのある安定した強さと、子供のぐずぐずをよしできるゆとりのあるやさしさで、成り立っています。つまりしつけとは安定した大人が子供を愛することなのです。普通しつけとは、一般的な生活習慣、社会習慣を子供に教えて子どもの健康や安全を守っていくための教育です。そのために間違った行動に対して、叱りつけて強制していくということが前面に出てきます。この例を見るとしつけに当たってはまず子どものネガティブな気持ちを受け入れてあげることが大切です。でも大人の意向を冷静になってしっかりと子供に伝えていくことだと思います。ここは首尾一貫していないとまずいところです。一度約束したのに、後でなし崩し的に子供の要求を叶えてあげることはあってはならないことです。(怒りをコントロールできない子の理解と援助 大河原美以 金子書房参照)
2015.07.23
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