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6月1日(土)短歌集(292)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版五味保義(13)近よりて肩もむときに吾わが股またに入りて小さし母の身体からだは日ごとに老い朽くつる母を守りつつ妹もいたく耳遠くなりぬ奥の間に心しづめむとする時し老いたる母が畳這はひて来る病む妻を伴ひて来し秋の山こころざす谷の方かたはしぐれつ笹山ささやまにてる月光つきかげの乱れつつ山の嵐あらしは夜もすがら疾とき (以上『此岸集』より) (つづく)
2024.06.01
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6月1日(土)昭和萬葉集(巻十三)(159)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発20行(昭和55年)Ⅱ(56)生活の周辺(20)生活の周辺(4)上村孫作村見えず柿一本の野道あり高田たがたの谷へ帰る老形らうぎやう幸田幸太郎絽ろの羽織りすずしく流しスクーターとばす僧あり背せなを丸めて大野展男製紙工場のすて水白き泡となりせめぎ合ひ河の早瀬にくだる安藤彦三郎蹴とばせし石を呑みこみ無表情におはぐろどぶはうす陽をかへす (つづく)
2024.06.01
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5月31日(金)近藤芳美『短歌と人生」語録』 作歌机辺私記(89年2月)「生」、内面世界(1)みなさんはどのような思いで短歌を作り出されたのであろうか。それぞれの理由でそれぞれの経緯があろうが、その初めに、きっとうたいたいもの、表現を求めたいものが心に鬱屈し、それが短歌などを作ろうと思い立たせたに違いない。しかし、しばらくそのようにして短歌を作り続けていって、間もなくうたうものがなくなってしまっていくのに気付かれるのも初心と呼ばれる人たちのあいだに共通する。そうした訴えを聞くことこともあり、そのときに、本当はそれから先に短歌を作るという、ないし制作という営みの意味が始まっていくものなのだとお答えしているが、それだけでみなさんの不安を除くわけにはいかない。制作とは何か。それは、制作すべきものを次から次へ求めていくことでもある。短歌もそうである。短歌を作るということは本当は、うたうべきものを次々に求め探していくことであるともいえる。うたうものは決してそのへんに満ちあふれ、むこうから集ってくるものではない。短歌一首作るごとにもううたうべき何ものもないという絶望に立ち、その絶望の彼方からなお次のものを求めて歩み出していくこと、ないしは分け入っていくことなのであろう。
2024.05.31
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5月31日(金)歌集「蝸牛節(まいまいぶし)」(藤岡武雄第十歌集)(95)平成28年発行:あるご短歌会 *:三島市在住。歌人。日大名誉教授。わたしが、静岡県歌人協会の役員の折、お世話になりました。(著者90歳の時出版した歌集、現在は98歳です。)死角(1)うしろめたさ棄て去りゆかむ満開の桜の空はどこまでも青焼きそばに焼きいか匂ふ桜花(はな)の下佐保姫なんかどこにいきしか見てるだけで同罪というものがある人間社会のしがらみ持ちて風荒(すさ)ぶ空間の中に一本の桜の花は春さき駈(か)ける (つづく)
2024.05.31
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5月31日(金)近藤芳美「土屋文明」より(83)岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…鑑賞篇」よりの転載です。第十歌集『青南集(せいなんしゅう)』より(1)慰めむ味噌汁を吾が煮たりしも口がかわくと歎きつづけき(昭和二十八年)慰めのため、その人に味噌汁を自分は煮た。だがその人は一夜、口が渇くと言ってかなしみ歎きつづけた…何があったのか。ただそれだけのことが追憶のようにうたい告げられている。しかもそこに孤独な思いがこもる。人の傍らに、味噌汁を煮たという事実だけがしだいに背後に繰りひろげていく心の世界である。「追悼斎藤茂吉」と題される。「死後のことなど語り合ひたる記憶なく漠々として相さかりゆく」「近づけぬ近づき難きありかたも或る日思へばしをしをとして」などという作品と並ぶ。斎藤茂吉の死は昭和二十八年二月二十五日。文明にとっては「アララギ」の同行者であるとともに眼前の巨嶺のようにそばだつ文学の先進であった。険しいリアリズムの世界を拓くことをみずからに課した彼の文学生涯は、茂吉の存在を併置せずしては考えられない。だが、ここにうたわれている悲しみは、同時に茂吉という人間自身の悲哀を伝える。白き人間まづ自らが滅びなば蝸牛幾億這ひゆくらむか(昭和二十九年)白き人間…白人が先ずみずから滅び、さらに、人類のすべてが死に絶えたあと、地上には幾億とも知れぬ蝸牛が生き残って這いはびこるのであろうか…殺しても殺しても庭に増え、草木と野菜を喰らい荒らすかたつむりを憎みながらも抱く空想である。そうして、その空想を作者に抱かせるものは何か。「庭草むら」と題される中の一首。昭和二十九年「短歌」七月号に掲載。その年三月、太平洋のビキニ環礁でアメリカは水爆実験を行う。それより先、二十八年夏、ソ連は水爆実験の成功を伝えている。人類の死滅への不安を余所に、核兵器の開発がしだいに競い合われようとする。「苔に降る雨の中には伸び々と角をふり行く蝸牛ども」「人間の恐るる雨の中にして見る見る殖えゆく蝸牛幾百」などの作品が先行する。人間の恐るる雨…ビキニ環礁の実験のあとその放射能を含む雨が日本をも降り覆うとも噂された。暗い憤怒の歌。 (つづく)
2024.05.31
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5月31日(金)短歌集(278)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版五味保義(12)散り果てし桜に雨を吹きつけて暗き一日(ひとひ)をただみだれ居り竹(たけ)煮(に)草(ぐさ)しらじらとして靡(なび)く道試歩する妻と踏切を越ゆほのぼのと紅(くれなゐ)ゆらぐばらの垣やうやく暗くわがふたりゆく限りなくゆかむ吾等にあらなくに漂(ただよ)ふ如(ごと)く萌(きざ)すあくがれ 病(やみ)あとの妻とこもれば草(くさ)土手(どて)をみだし吹きゆく暑き雨見ゆ (つづく)
2024.05.31
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5月31日(金)昭和萬葉集(巻十三)(159)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発20行(昭和55年)Ⅱ(55)生活の周辺(14)生活の周辺(3)阿部 太磯を荒み遊び場のなき島の児は神の鳥居に女(め)の子も登る高橋加寿男唐黍畑の向うに子供らの声とよむプールあり老(おい)いと隔(へだ)たる世界大野誠夫夕ぐれの青きプールにをとめ群れ雨寒しよと言ひつつ泳ぐ佐藤美知子混血児を愛する母なく、黒き手をさしのべさしのべ兎撫でゐる小林和民踏絵など踏みても神は許さむとふ少女の声の明かるきにあふ (つづく)
2024.05.31
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5月30日(木)近藤芳美『短歌と人生」語録』 作歌机辺私記(86年9月)「余剰なるもの」(2)理由は一つだけである。文芸がもしひとりの人間の「生」と呼ぶべきものの自己表現であるなら、短歌とはその最も直接であり端的である意味での自己表現の型式以外の何ものでもなかったということである。すなわち、そこにはその間に介在する余剰のものは何らない。むしろ、何らないことの上に成立する文芸である。そうして、わたし自身幾度か迷い選択をしようとした他の文芸型式には、それぞれにその何らかの余剰を交えなければならない。そうではないだろうか。たとえば小説という型式の場合、そこには物語ともいうべきどれほどかの設定が必ず入り込んで来なければならないのではないか。そうして、それらのすべての介在を余剰と思う年齢がわたしたち人間に至るのではないだろうか。それは老いの衰えということは別である。それにも拘わらずわたしは作歌と共に絶えず散文の仕事をも重ねてきた。ことに、『青春の碑』を書いたことの上に一つの仕事を通して重ねて来た。今度の『歌い来しかた』もそのひそかな継続と思っている。短歌を詩と言い替えるなら、わたしはわたしの散文を詩を作ることの中のものであるとも心の中に考えている。或いは、詩を作って生きることの上に、といってよい。一面議論めいた文章のむなしさをいつからか思って来た。歌論といってよい。それにも拘わらず求められては書かなければならなかったものがあり、いつかその切抜きが溜ったままとなった。整理して歌論集としたい気持があるが、つい後廻しとなって来ている。多分、三冊ぐらいあるだろうか。そのうち誰か手伝ってもらってと思っている。読み返せばそれぞれに何らかの愛惜がないわけではない。(86年9月) (つづく)
2024.05.30
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5月30日(木)歌集「蝸牛節まいまいぶし」(藤岡武雄第十歌集)(95)平成28年発行:あるご短歌会 *:三島市在住。歌人。日大名誉教授。わたしが、静岡県歌人協会の役員の折、お世話になりました。(著者90歳の時出版した歌集、現在は98歳です。)丸エンピツ(3)身をかはし身をかはしつつ生きたれどあざの如くに禍根を残す30度超えたる影の電線譜ふみつつドレドレソラシドードレドレ朝の陽は壁に判捺す梅花あり八十五歳の誕生日 ああ「鬱うつ」の漢字辞書を開きて閉ぢてなほ確認せむと開きて閉ぢる (つづく)
2024.05.30
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5月30日(木)近藤芳美「土屋文明」より(82)岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…鑑賞篇」よりの転載です。第九歌集『自流泉(じりゅうせん)』より(7)此のあした雲を抱ける青谷(あおたに)や行かば一日の息(いこ)ひあるべし(昭和二十五年)この朝、青葉の茂り合った山の谷間に、白い雲が沈んでいる。まるで谷が雲を抱きかかえているようである。そのはるかな谷まで登って行けば、きっと今日一日の静かな心の休息があるであろう。川原湯温泉での作という。川原湯温泉は作者の疎開地吾妻川渓谷のさらに上流にある。「雲抱ける青谷や」という擬人法の表現も巧みだが、それ以上に下句の「行かば一日の息ひあるべし」という淡々とした叙述に自然な、老練なものを感じる。「天を限る青き菅尾に次々に朝のしら雲あそぶ如しも」「谷の奥草原に黄なる朝日さし菅尾の雲はやうやく高し」「浴みつつ青葉に眠る夜々を何にうながし止まぬ瀬音ぞ」「燕(つばくら)の峠に見下ろす谷の道雲より遥かなりふるさとの方は」などが一連をなしている。六十二歳となった土屋文明の抒情作品の世界である。戦ひて敗れて飢ゑて苦しみて凌(しの)ぎて待ちし日と言はむかも(昭和二十六年)昭和二十六年九月八日、講和条約が結ばれ、同時に日米安保保障条約も調印された。戦争による占領はそれで形式的には終ったかもしれないが、日本は米国の従属国となる運命をも同じ日に選んだ。その時の作品である。「講和を迎へて」という題であるが、記念のため雑誌か何かに求められて作った一連と記憶する。「よろこびを知らざる国の八年にかにかくにして今日の日到る」「日本に帰らむと食を断つといふ島をこぞりて悲しみに居る」「ひよろひよろと立ち上りたる如くにていづ方に頼り行かむとすらむ」などが前後に連作風につづいている。講和条約の締結されたとき、土屋文明のこの一連の歌の暗い、重苦しい調子は、新しく結ばれた条約の正体と日本の運命とを静かに見詰めている眼を物語る。 (つづく)
2024.05.30
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5月30日(木)短歌集(291)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版五味保義(11)山霧の吹き来て暗き谷みれば病やみて国いでし君をしぞ念おもふ暮れゆくと思ふしばしにて川波のひびきは暗しこのしがらみにくらやみに眼まなこ覚めゐる二人ふたりにて苦しきことを言ひいづるなりしらじらと硝子がらす戸どとほる光あり夜よをとほし坐すわりゐる妻がみゆ私にあらぬ希ねがひを守り来しわが貧しさは妻が知るのみ (つづく)
2024.05.30
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5月30日(木) 昭和萬葉集(巻十三)(157)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発行(昭和55年) Ⅱ(74) 生活の周辺(13)生活の周辺(2)千頭 泰夜の荷役終りし船の燈に照りて岸にしばらく埃ただよふ脇 須美夜といふにはいまだ時ある港内に燈さぬものの影暗く揺る真鍋美恵子せまりたる朱の色の蛾の去りゆきてはげしく倉庫くらの扉が乾く榛はんの木の樹影の網目全身に浴びながらくる牧夫は半裸松本門次郎水にうく躑躅つつじの花をすくふ少女土には捨てず石のうへに並ぶ (つづく)
2024.05.30
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5月29日(水)近藤芳美『短歌と人生」語録』 作歌机辺私記(86年9月)「余剰なるもの」(1)このところ、いくつかの会で、感想を語らなければならないときに繰り返しわたし自身の思いがあった。それは、わたしが七十歳を過ぎる今日まで長く生き、長く短歌を作りつづけて来たことの上に、ようやく今、歌人であったことがよかったと知る意味であった。歌人である以外の生き方は、振り返ってみて考えられなかったのであろう。遠く少年の日に短歌を作り出して以来、わたしもまた周囲の少年と同様に短歌というこの古風で不自由な定型詩型を幾度となく疑い、或るときは近代詩を作ろうとし或るときは小説を書かなければならないものとした。否、少年の時期を過ぎ、わたしが歌人として生きなければならなかった長い日にも同じである。わたしが『青春の碑』その他の散文を書き続けたのもそうした気持ちが絶えず心のどこかにあったゆえとしなければならない。そうした上で結局短歌だけを最後に作り、歌人であることをみずからの生涯として生きた。寂しみもしたが、それでよかったという思いは老年と共に濃い。 (つづく)
2024.05.29
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5月29日(水)歌集「蝸牛節まいまいぶし」(藤岡武雄第十歌集)(94)平成28年発行:あるご短歌会 *:三島市在住。歌人。日大名誉教授。わたしが、静岡県歌人協会の役員の折、お世話になりました。(著者90歳の時出版した歌集、現在は98歳です。)丸エンピツ(2)這ひ出でしひきがへる弥生の陽をうけて土下座してをり庭の一隅今のわが思惟の如きか砂浜を掘っても掘っても形崩るる二千年の縄文杉によりかかり人の生命の謎ときをするしめりたる落葉の秋を行く心ふくらみてくる茸きのこにょきにょき (つづく)
2024.05.29
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5月29日(水)近藤芳美「土屋文明」より(81)岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…鑑賞篇」よりの転載です。第九歌集『自流泉(じりゅうせん)』より(6)草をつみ食(く)らひ堪へつついきにしを流氓(りゅうばう)何に懼(おそ)れむとす(昭和二十五年)流氓は他国に流離する民の意。ここでは無論長い疎開者の生活をつづけている土屋文明自身のことである。草をつみ、それを食って戦争と戦後の歳月を生き耐えて来た自分であるのに、今ふたたび何をひそかにおそれようとしているのであろうか、とこの作品は歌っているのであろう。しかし、何を懼れるというのか、それは具体的には語られていない。それは作品の背後に暗く包みかくされている。作者は何に重苦しい不安をいだき、その不安を暗示的な言葉で歌っているのであろうか。わたしたちは昭和二十五年六月、朝鮮戦争が発生したという歴史を思い出すことが出来る。それと同時に日本の戦後史が転換期に立った事をも思い浮かべ得る。この作品に「懼れ」という文字で表されている感情は、その歴史と重なり合うものではなかろうか。吾がために君が買ふ朝の海老五疋(ごひき)虹のごとくに手の上にあり(昭和二十五年)「再三河幡豆」と題された作品。幡豆は愛知県の渥美湾にのぞむ地である。作者は万葉集の安礼の崎や四極山などの地名をこの附近に想定しようとして昭和十九年にも旅行した事が『続万葉紀行』の中に記されている。一首の意味は説明を加えるまでもない。友人が自分のため買い求めた海辺の海老が、虹のように美しく輝きながら今手の上にある、ということである。「虹のごとくに」という形容がこの場合鮮明な印象となって作品を引き締めている。「朝の海老」という言葉の感覚もさわやかである。「此のあした老いしあふちに吹くあらしただ暫(しばし)なる吾がしづ心」「雨の中に散るははかなき楝の葉いにしへ人も見たりや否や」などという歌も同時につくられている。古典への傾倒を背後にした格調の作なのであろう。 (つづく)
2024.05.29
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5月29日(水)短歌集(38)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版五味保義(10)吾わがつまと二人住みたる跡見れば狭きに莧ひゆのたかだかと立つ吾わがふたり逢あひたる夜よはを松かぜはとよもし吹ききその夜もすがら老いし眼めが泪なみだになりてゆく母の幼子おさなごの如ごとき面おもてにむかふ厠かはやより這はひいで来きたる母を守もり炬燵こたつある室にわれかへりゆくいらいらともの思ふ吾を恐れゐる老いの姿は小さかりけり (つづく)
2024.05.29
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5月29日(土) 昭和萬葉集(巻十三)(155)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発行(昭和55年) Ⅱ(53) 生活の周辺(12)生活の周辺(1)四賀光子どこからか黒き貨物車あらはれて枯野の軌道重くとどろくたそがれの冬野を走る貨物車は戸口なくして只黒き箱真下清子はやて吹く街のにごりをつらぬきて屋根に雪ある貨車列過ぎぬ菰田康彦子らの待つ家路いそげば騒音の街に手錠のごと腕輪鳴る竹中皆二吹きわたる生臭き風日ぐれにて軽き廃船の上をも吹きつ (つづく)
2024.05.29
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5月28日(火)近藤芳美『短歌と人生」語録』 作歌机辺私記(85年2月)今日の「個」(3)そうして、そうはならなかった、と今ではいわなければならないのであろう。短歌も、否、文学全体も、かって一度担わなければならないと知ったものの意味を急速に見失っていくことにより今日に至る歩をたどってきた。今日、短歌でうたわれているのは相変わらず小さな周辺の世界の中での「わたくし」だけであり、その哀歓の範囲をうたい繰り返しているだけでは戦前の短歌とは何か一つ変わってはいないのであろう。否、もし何かが加わっているというのならそれは意匠だけであり、本質は、ひたすら過去への回帰をつづけているのではないのか。わたしはかって「実存的人間」と、「歴史的人間」ということをいい、その限りない内面葛藤を内にすることにおいてのみ逃れられない今日の「個」がある意味を繰り返し書いた。すなわち、短歌が今日の文学とするなら、うたう「個」とはその謂いだけであろう、四十年の歴史はそれを見失う過程であったというのである。では、「未来」はどうだったのか。その反省をだれかがじっと続けていて欲しい。そうでなければ、一体「未来」はそのあたりの結社雑誌とどう違うか。(85年2月) (つづく)
2024.05.28
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5月28日(火)歌集「蝸牛節(まいまいぶし)」(藤岡武雄第十歌集)(93)平成28年発行:あるご短歌会 *:三島市在住。歌人。日大名誉教授。わたしが、静岡県歌人協会の役員の折、お世話になりました。(著者90歳の時出版した歌集、現在は98歳です。)丸エンピツ(1)丸エンピツ机の上をころがり出す震度2にも反応もちてのど飴を三日しやぶれば何となくメタボ気になる如月の空索漠(さくばく)といふ空間に佇ちてをり弥生梅園の花咲かぬなか眼下は東海道線 五十年前の夜行列車の揺れがたちくる (つづく)
2024.05.28
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5月28日(火)近藤芳美「土屋文明」より(81)岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…鑑賞篇」よりの転載です。第九歌集『自流泉(じりゅうせん)』より(5)蚊帳(かや)の中に衰ふる我を襲ひたる虻(あぶ)を刺客(せきかく)の如くに憎む(昭和二十四年)疎開生活五年目の歌。蚊帳の中に衰えてこもる自分を刺しに来る虻がいる。その虻を、まるで刺客か何かのように今憎悪している。そう作者は言っている。刺客は暗殺者の意味。いくらか誇張したユーモアのある表現だが、作品の中に組み込まれたその言葉の効果は、ユーモアなどではなく、もっときびしい、険しい作者の感情の表白となっている。険しいまでの孤独感である。「鰌一疋つかみ静子が帰り来ぬ川人足を吾に代りして」「亡き母を言ひつつ食ふもあはれかな妻の買ひ来しなまり一節」「伐りし木の朽ちて木の子の生ふるまで此の山下に住みとどまりし」などという歌がこのころに作られている。彼の『万葉集私注』は二十四年から相次いで出版され始めた。文明は新しい万葉注釈の原稿を書きながら、なおしばらく不自由な山村の生活をつづけなければならなかったのであろう。子供等に遠き老妻の歎(なげ)かひの今日しも我の怒(いかり)をさそふ(昭和二十四年)子供らと遠く離れて住んでいることを妻がなげく。その老妻の愚痴に、今日だけなぜか激しい怒りが自分の心中に湧き立って来る…それだけの意味の、一見単純な述懐の作品であるが、「今日しも我の怒りをさそふ」という下句の表現に複雑な心情が、屈曲し、たたみこまれている事を感じる。単に妻の言葉に怒っただけではない意味を読み取らなければならない。不意に耐えられない怒りをいだく作者自身も、妻以上に孤独を心に感じているのであろう。「夜寒くなりまさるなり手づからも虎子を清めて冬をまつべし」「眉一つ落ちては何の徴標ぞ自嘲滑稽の域にはあらず」「敗戦を予期して我等より強かりき高島翁も今は世に無く」などの作品が同じ連作をなしている。二十四年の冬。疎開地の谷の村で土屋文明は六十歳を送ろうとしている。 (つづく)
2024.05.28
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5月28日(火)短歌集(282)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版五味保義(9) ひびかふはやさしきあきの虫にしてうつらふ季(とき)も吾にいたしも焼跡の土より雲母(きらら)ふきちらす風はあかざにひびきつつ吹く老(お)いかがむ母を背負ひて歩みゆく温泉(いでゆ)に下るあつき石道吾(われ)の背に仏の如(ごと)くかがまれり物言ふこゑは其(その)常(つね)の声ゆきめぐる舗道草なかに白く見え照る日こひしき高樹(たかぎ)町(ちやう)のあと (つづく)
2024.05.28
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5月28日(火) 昭和萬葉集(巻十三)(155)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発20行(昭和55年)Ⅱ(52) 生活の周辺(11)乗ものの歌(3)田中順二搭乗の人のさま見えて廟あはひをよぎりてさびしヘリコプターは宇井幸子踏みしめて登り来たりし鉄階段は軽々として引き上げられぬ伊吹高吉危うくて気流のままにゆるるとき隣り合ひしが初めてもの言ふ清水晴代雄大積雲あらはれてきぬ機上より手をさしのべむ錯覚におつ (つづく)
2024.05.28
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5月27日(月)近藤芳美『短歌と人生」語録』 作歌机辺私記(85年2月)今日の「個」(2)そのわたしたちは、第二次世界大戦というわたしたちのすべてを巻き込む戦争を歴史体験として生きて来た。戦後四十年とはそういう意味である。その体験の上に、人間は何かを知ったはずであり、すくなくとも内面の何かを否応なく変えていったものと思ったことがあった。戦後の廃墟の上に生きて立った日であった。同様に文学も変わると思った。否、変わらなければならない切迫の中に立ったと思った。何か。戦場の生死の極限に立たされて知った人間の「個」の孤絶世界の意味と共に、その「個」が、もはや人間ひとりの「個」ではあり得るはずはなく、それは組織とか国家とか政治とかないしは歴史という外部世界とのがんじがらめの関わりにある運命的なものであると逃れようもなく知ったことであった。戦後の文学はその地点から始まり、その意味でのみ戦前の文学と隔絶するはずであった、と、少なくともその日にだれしも思った。短歌もまた、もし第二芸術論などにいう如く滅亡する運命のものではないとしたら、同様な意味を担ってのみ戦後短歌としての歴史を歩むのであろうとひとしく人は考えたはずである。 (つづく)
2024.05.27
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5月27日(月)歌集「蝸牛節まいまいぶし」(藤岡武雄第十歌集)(92)平成28年発行:あるご短歌会 *:三島市在住。歌人。日大名誉教授。わたしが、静岡県歌人協会の役員の折、お世話になりました。(著者90歳の時出版した歌集、現在は98歳です。)ああ竹下通り(5)爆撃に逃げ生きのびし三叉路か自販機ひとつ灯りを照らす三十五度の灼けつく石の上走るトカゲ親子のつやつやとして赤紫の色で飾れるさるすべりたびたび地震に揺すらる魂天あま霧ぎらふ富士に向ひて飛びたちし小鳥追ひをり熱きまなざし「無理するな」とさとす声とも聞こえくるカナカナ二つリズム合はせてほろりんと落ちて死にたき 凌霄花のうぜんかづら垣根覆ひてシャンデリアなす (つづく)
2024.05.27
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5月27日(月)近藤芳美「土屋文明」より(80)岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…鑑賞篇」よりの転載です。第九歌集『自流泉(じりゅうせん)』より(4)はる山に相よろこべる鳥の声その世界にもはや入りがたきかな(昭和二十三年)春山に嬉々としてさえずり合っている小鳥らの世界にも、今は無心なよろこびで入り得ない自分の齢である…そういう気持ちを歌った作品なのであろう。老年の悲しみを呟く歌であるが、それが一種甘美な感情と重なり合っていることに気づく。「はる山に相よろこべる鳥の声」という上句の表現のためである。一歩あやまると甘く流れる表現を、わずかに支えているような技巧の老練と、その老練の上に立った放胆さを感じさせる。伊藤左千夫に「天地のなしのまにまに黙し居る山もはれては笑める色あり」という作があるが、その下句などと通うもののある表現といえよう。「こころひそかに求(と)め来りつつ再びの木の芽にたふるあはれなりけり」「ゆふ山に青葉くぐれるいかるがのするどき声は吾をおそれしむ」などの歌が並ぶ。いずれも悲哀感がほのかな明るい色彩の中に歌われている心境作品である。いかにありし我とその夜を思ふにもああをとめらの一人だになし(昭和二十三年)その夜、どのようにしていた自分だったのであろうかと思うにつけても、あゝ、その時の少女らの一人すら今いない…「或る追憶」という小連作の中の一首。「しらじらし月は出でむと夜ふけたる柵の上にはふるる露あり」「たれもたれも幼き声のたかぶりにとりとめのなき時のすぎにき」「絶えて見ぬ四十年なれば目につきて我に思ほゆにこ毛たつ手の」「すがすがと老い来りしにあらなくに顧るはあやふき細道なすよ」「玉かぎる風のたよりといふことも心にぞしむいまは亡きかも」「道の上のゑまひもとはと言ふならばわが目の前の山の間の霧」などという作品が互いに並んでいる。どのような事実がこの追憶の連作の背後にあるのだろうか。それはもはや作者だけが知っている事であり、心に固く秘めているだけのものなのであろう。四十年の過去の思いを歌うこの一連の作品の中に珍しく作者のたかぶりの感情が読みとれる。 (つづく)
2024.05.27
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5月27日(月)短歌集(287)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版五味保義(8)茂り立つ雑草あらくさなびけ来きたる風子規しきのみ墓にただざまに吹く七月のてる日吹く風あきらかに吾は来て立つ子規のおくつき君がみ骨しづまる地つちもただやきて焔は吾の家に及びき墓山をこえ来てここに草繁しげる吾家わがいへの跡もいたづらにすぐたぎつせと流るる雨は見附みつけにておち合ふときに白波を立つ (つづく)
2024.05.27
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5月27日(月)昭和萬葉集(巻十三)(154)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発20行(昭和55年)Ⅱ(51)生活の周辺(15)乗りものの歌(2)山本かね子一様に傾かしげる人を窓に見せ夜の坂を寂しきバス発ちゆけり千頭 泰橋畔に降ろししバスも降りし人もしぐれふり来る橋渡りゆく志連政三魚売りの若狭わかさ女が朝のバスに若狭の雪を負いて入りくる島田幸造手ぶらにてバスに乗り来しチンドン屋の化粧落さぬ顔に真向ふ (つづく)
2024.05.27
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5月26日(日)近藤芳美『短歌と人生」語録』 作歌机辺私記(85年2月)今日の「個」(1)例年のように、新聞の、新年詠などを作らなければならない日が来る。その新年詠を考えているうちに、四十年、ということばがふと心を占めた。戦後とよばれた日から四十年が過ぎたという思いである。あるいは、日本が、「大日本帝国」の滅亡ののち「日本国」と生まれ替ってからといえるのか。その間、わたしたちはこの国に生き、その時代を生きる時代とし、さらに、短歌作者であるために、その生きる時代の上に短歌を作って来た。歴史ともいえるし、短歌史ともいい得よう。 (つづく)
2024.05.26
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5月26日(日)歌集「蝸牛節(まいまいぶし)」(藤岡武雄第十歌集)(91)平成28年発行:あるご短歌会 *:三島市在住。歌人。日大名誉教授。わたしが、静岡県歌人協会の役員の折、お世話になりました。(著者90歳の時出版した歌集、現在は98歳です。)ああ竹下通り(4)描く夢すてる齢と思へども生ある限り背にへばりつく食べ物の数の豊かさに慣れし子よ父はたくあんにお茶漬けが好き消費税値上げの論議続くなか庭のつつじは色あせはじむ月末は古新聞を束ねつつわが日月をともにすて去る外灯にあかりともれば蝉ひとつまことしやかに鳴きはじめたり (つづく)
2024.05.26
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5月26日(日)近藤芳美「土屋文明」より(79)岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…鑑賞篇」よりの転載です。第九歌集『自流泉(じりゅうせん)』より(3)潮を煮る小屋掛も多く捨てられぬ集めし薪乾く午(ひる)ごろ(昭和二十二年)「土佐雑詠」と題されている。二十二年の秋、土屋文明は高知県に旅行した。そのときの作品であり、高知から室戸崎にむかう途中の土佐湾の情景によって作られたものなのであろう。海岸のなぎさには潮を煮る小屋掛けがいたるところ朽ち傾いて残っている。戦争末期から戦後にかけて、そのようにして塩を得ようとした貧しい営みのあとである。平明な叙景歌であるが、作者が歌おうとしているのは単なる風景だけではない筈である。荒涼とした世界にむかう寂寥感が、沈んだことばでうたわれている。「敗戦の話はここもあはれにて盗みて逃げし隊長にくむ」「若き兵死地にむけたる士官一人土橋にかくれ生き居りし話」などの歌も同時に作られている。日本のどこに行っても、敗戦の悲しみはまだなまなまとした現実として生きていたのであろう。そのような日を背景にした作品として味解すべき一首である。朝(あした)来て夕べ又来る泉の上月のあたりは白きうす雲(昭和二十二年)朝来た泉のそばに、夕方またたずねて来る。峡の空にいつか出ている月に、白いうすぐもが静かにひろがっている…疎開生活も足掛け四年に入る。「疎開人かへりつくしし春にして泉の芹を我独占す」などと歌われているように、狭い谷の村に幾人か住んでいた疎開者らも、いつか次々に立ち去り、残るのは自分たちだけになっている。「食ふなき韮を惜しみて分たざる村人を憎まむかはた肯ふべきか」と歌うように、今の生活が必ずしも満足なものではない。しかし、東京に帰るべきあてもない。そうした感慨が静かな述懐として歌われた作品である。どこといって目立ったところのない歌であるが、その表現技法に行きとどいた配慮がなされているのは他の場合と同様である。「おそれつつ冬すぎにきと登り立つ楚(しもと)光りてつばらなる芽ら」などの地味な秀歌がこの前後には多い。 (つづく)
2024.05.26
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5月26日(日)短歌集(273)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版五味保義(7)見下ろせば夜の潮のたゆたひのただゆたかなる光なりけり天あまつ日に貝がら光る草生くさふゆき立つかぎろひの中に息づく峡はざまよりかつこうひびく日暮れ時父亡なき家にけふはかへりぬ いくつか残りし硯すずりとり撫なでて今いま更さらに亡き父の恋しも (つづく)
2024.05.26
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5月26日(日)昭和萬葉集(巻十三)(154)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発20行(昭和55年)Ⅱ(50)生活の周辺(9)乗りものの歌(1)浅尾充子釣革に身を委せつつガラス戸の白きくもりを今日も見つむる赤間 昇小さき画布抱きし少女は電車よりはき出されまた群に揉まるる福田柳太郎東京にこもる煙霧の範疇はんちうを出でて明らかに床照る電車村崎凡人今日もまた銀座に人の群れてゐてわが乗る列車高架渡りゆくただつとめ務めたりにし父が生よを心たのみて生くべくぞ念おもふ (以上『島山』より) (つづく)
2024.05.26
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5月25日(土)近藤芳美『短歌と人生」語録』 作歌机辺私記(84年8月)『中国感傷』(2)『中国感傷』はわたしの中国紀行文であり、それを今更ながらと思わないわけではない。だが同時に、わたしにとり、中国は単なる異国の旅の地ではなかった。私はその地でかって「侵略者」であり、「侵略者」の兵のひとりであった。そうした過去を内面のものとしての旅であり、紀行の文でもあるはずであった。わたしとしては苦しんで書いた仕事の一つとだけは言って置きたい。高価なことだけが申し訳ないが、歌集、ないしは創作の類と同様に『未来』のみなさんには読んでいただきたいと思う。書き終えた後に一時血圧が高くなり、また、眼も弱って来た。やはり体を虐げたのであろう。眼の医者は若干白内障が来ているという。短歌制作に増して散文の仕事は体の負担となるが、それでもなお、いくつか書いておきたいことがある。その一つが、やはりヨーロッパ古代の紀行を通して、人間文明と、さらに人間自体とを考えてみる課題である。それと短歌とどう関わるのか。短歌が詩歌であるならわたしはやはり深く関わるものと思っている。(84年8月) (つづく)
2024.05.25
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5月25日(土)歌集「蝸牛節まいまいぶし」(藤岡武雄第十歌集)(90)平成28年発行:あるご短歌会 *:三島市在住。歌人。日大名誉教授。わたしが、静岡県歌人協会の役員の折、お世話になりました。(著者90歳の時出版した歌集、現在は98歳です。)ああ竹下通り(3)人生の道先案内を決めこみていしたたき一羽わが先をゆくブーメランのやうなつばめの現はれて子育て忙し駐車場の梁はり「遺言を用意せよ」と言ふ妻のお告げのやうな言葉 せかさる朝庭にしきり尾を振る鶺鴒の残像がたつ眠れぬ夜半に三等席の板の座席に揺られたる汽車がおもしろあこがれひそむ (つづく)
2024.05.25
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5月25日(土)近藤芳美「土屋文明」より(78)岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…鑑賞篇」よりの転載です。第九歌集『自流泉(じりゅうせん)』より(2)灯(ともし)赤く食ひものを売る春の夜も日本の雨のじめじめとふる(昭和二十二年)疎開地の村を出て、土屋文明は時々上京をした。そのようなときに作られた作品なのであろうか。空襲の廃墟のままの都会にはバラックが建ち、暗い灯をともした闇市が並んでいた。闇市には一袋十円の落花生とか、烏賊の煮付けとか、進駐軍の闇物資とか、貧しい食物ばかりが商われていた。そうした街に春の来る夜の雨が梅雨のように降りしきっていたのであろう。市民たちは放心したように雨の中をさまよい歩いていた。「夜の雨の上りし衢(ちまた)の春の泥蹴てゆく中に老いし吾あり」「ハルサメといふ日本語を喜べる時代にも階級にもなじみ難かりき」などという作品が同じ時に作られている。それと同じような感情の歌が、もっと早く『山谷集』の中に次のように歌われている。「ふりいでし雨の中には春雨とは吾にはうとき言葉と思ふ」。土屋文明はそのようなじめじめした、日本人の宿命的感性を嫌悪していたのであろう。泥の如き箱車(はこぐるま)の中は鯨肉(くぢらにく)橋にかかり馬の鈴の音ぞする(昭和二十二年)昭和二十二年の夏、土屋文明は妻を伴って北海道に旅立った。「さすらひて家なきことも安けしと吾ははやく寝る旅行まへ二三日」という歌が出発の前に作られている。彼にとって、三度の北海道旅行である。この歌は「網走にて」と題された作品の中の一首。箱車の中に泥のように鯨肉をつんだ馬車が、鈴を鳴らしながら橋を渡ろうとしているのであろうか。網走市中の情景なのであろう。北国のさびれた港町の旅情のようなものが、暗い色調で歌い出されている。「谷地だも防雪林監獄の煉瓦塀今日また見れば今日又かなし」「丘にかくれてゆくを見送る静かな水網走の湖に幾度もあふ」などの歌もこの時に作られている。北海道が文明にとって特別に印象の強い土地である事はすでに記した。昭和五年、および昭和九年の旅の歌に較べ、安らかな感傷が今回の作品全体に流れているといえる。 (つづく)
2024.05.25
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5月25日(土)短歌集(286)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版五味保義(6)雲低くすぐるを見れば雪やみし風かざ越山こしやまに月夜つくよ照りたる神港かんなとの磯波は高くかがやきて白くかたまる家と倉庫ときびしく海ゆそばだつ離れ島小島こじまといふに日は沈みつつ黒潮くろしほの瀬に立つ神をこゆる舟そのたゆたひはつばらにそ見しまぎれつつ飛べる千鳥かひかりなく波寄る磯いその隅くまぞかk (つづく)
2024.05.25
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5月25日(土) 昭和萬葉集(巻十三)(152)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発行(昭和55年) Ⅱ(69) 生活の周辺(8)夜の街(1)岡部桂一郎なぐさまず歩み来れば月下にて音なくもつれ人格闘す古屋茂次ドヤ街の夜は欲望の匂いあり屋台の女煙草吸いつつ磯江朝子傘の下に隔絶されし一人となりて夜の街に出づ集ひの果てて安藤彦三郎どの道をゆけども壁につきあたり月の明るき坂をくだり来し和田周三高層にともせる窓が一つありわが消して来し燈の色のまま大屋正吉窓の外はそこのみ音の無き幅に河流れをり夜の都市の中 (つづく)
2024.05.25
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5月24日(金)近藤芳美『短歌と人生」語録』 作歌机辺私記(84年8月)『中国感傷』(1)『中国感傷』という、わたしの新しい著書が多分、この号の出るころには出版されているはずである。昭和五十六年から五十七年にかけ『人民中国』という雑誌に「一歌人の中国紀行」と題し、十五回にわたって連載した文を加筆して一冊としたものである。「人民中国」は中華人民共和国の政府の対日宣伝誌である。昭和五十六年五月、その招待で中国各地を約半月にわたり旅行した。執筆の約束の上であった。雑誌の性格の上で書くことにある種の自己規制を考えなければならない場合もあったが、その部分はやや加筆によって補足し得た。本当はまだまだ書かなければならないことがあったような気がする。「造形センター」の藤山さんという人が一生懸命になって本にして下さり、そのため、贅沢な、高価なものとなってしまった。「造形センター」は本職の出版社ではなく、中国の近代画を日本に紹介する、一種の画商なのであろう。藤山さんはそうしたことを通しての日中友好を念願されている、長年の、中国理解者である。わたしの旅行も当初から尽力して下さった。その藤山さんと出会ったのは銀座のN画廊で開かれた丸木位里さん、俊さんのギリシャの旅の絵の個展のパーティの席であった。丸木夫妻の賛美者でもあったが、かって、戦争直後、「新読書」という読書雑誌があってそこの編集長をしていた。わたしも依頼され何か書いたことがあったらしいが、忘れていた。戦後共産党の情熱的な闘士であったが、早い時期に離党していた。ついでに記せば、わたしの旅に同行してくれた小林氏も、またそのN画廊の社長も同じ経歴を持つ。長く戦後を生きて来たわたしの周囲に同様な過去の人が多い。 (つづく)
2024.05.24
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5月24日(金)歌集「蝸牛節まいまいぶし」(藤岡武雄第十歌集)(89)平成28年発行:あるご短歌会 *:三島市在住。歌人。日大名誉教授。わたしが、静岡県歌人協会の役員の折、お世話になりました。(著者90歳の時出版した歌集、現在は98歳です。)ああ竹下通り(2)写真帳見れば見るほどすてられず結局自ら終うる日を待つ部屋の窓すべて開けるなと言ひあひて黄砂の予告信じる一日死者の声聞きし者なし いかにして死にたいものと話のはづむやることに失敗はつきもの傍観は失敗の無き賢者と言ふか退ひくことも進むことへのシグナルか送電線の風に鳴る音 (つづく)
2024.05.24
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5月24日(金)近藤芳美「土屋文明」より(77)岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…鑑賞篇」よりの転載です。第九歌集『自流泉(じりゅうせん)』より(1)前山をこえて白根の見ゆるまで上り来りぬ炭を負ふべく(昭和二十二年)炭を負うためにひとり山に登って行く。いつか山を越えてはるかな白根山が見えはじめる。白根山は群馬県と長野県との県境の山。雪に包まれて静かにそびえているのであろう。単純化された内容と表現の作品であるが、孤独な老年の感慨が作者の息づきを身近に感じさせるかのように歌い出されている。「炭を負ふべく」というのは山深い炭焼き小屋まで炭を求めにでも出掛けようとしているのであろうか。米も炭も乏しい敗戦後の日本であった事を思い出せばよい。その中でも、疎開者の生活は想像以上に苦しかったに違いない。「冬枯れし各々の樹は美しくその持前(もちまえ)の幹を立てたり」「春にならば楓の樹の水とらむなど思ふもあはれこの美しき木よ」「炭がまの前に炭木を積みかさね炭木のにほひしたしかりけり」「夕日おちし白根の山の紫の雲の光はわれにさし来る」などという作品が並んでいる。同時に味わうとよい。ゆふ闇は谷より上るごとくにて雉子(きぎし)につづくむささびのこゑ(昭和二十二年)前に記した歌につづく一連の中の作品である。あるいは同時の連作なのかもしれない。作者は山の上に立っている。山をめぐる谷々から、這い上がるように濃い藍色の夕やみが迫って来る。その夕闇の中にするどい雉子の声がきこえ、つづいてむささびの鳴く叫びが聞こえて来る。すべてのものの凍るような静寂の世界が今作者の四囲を包もうとする。そのようなひとときの作品なのであろう。むささびは齧歯目の小獣。股間の皮膜をひろげて木から木に滑空する。夜間活動する動物である。「浅間嶺は西の光に立ちたればその白雪を玉となげかむ」「浅間嶺のはれて匂へる夕空にいまだ見るべき月なかりけり」「この山に月てる夜をただに待つある夜なきたる狐こひしく」などの歌が相つづいている。疎開者の生活もすでに三年となった。その孤独感がしずかににじむ独詠である。 (つづく)
2024.05.24
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5月24日(金)短歌集(33)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版五味保義(5)ゆきめぐる町のいづくよりも見ゆるなる草山に白く風あたり居り灯ともしびのゆらぎかなしも幼子を抱きてなきがらにわが近づきぬわけゆけばもろくし折るる枯草の中にたまたま貝ふみ砕くだく暗くなりし木下こしたにひろふ椎しひの実に樫かしの実まじる手にたまる見れば(以上『清峡』より) 峠たうげよりあはれささやけき入江みゆ小土肥をどひの村に白波寄りて (つづく)
2024.05.24
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5月24日(金) 昭和萬葉集(巻十三)(150)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発行(昭和55年) Ⅱ(48) 生活の周辺(7)夕べの街(2)杉田えい子夏至すぎて夕ぐれながき銀座裏唐黍たうきびの皮をはぐ屋台あり野村米子枇杷いろの夕陽のなかに拾円だけ跳ねて木馬の眼はまたたかず辻下淑子子らの待つ家路いそげば騒音の街に手錠のごと腕輪鳴る山崎一郎雨の香の残る舗道の靄もやごもり暮れゆく街を酒恋ひて行く (つづく)
2024.05.24
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5月23日(木)近藤芳美『短歌と人生」語録』 作歌机辺私記(84年7月)憲吉の五十年忌(3)墓参を終え、河村君に伴われてやや離れた丘にある歌碑を訪れた。「満月は暮るる空より須臾に出てむかひの山を照りてあかるし」の歌が彫られている。わたしたちを見たのかひとりの老人がどこからか近付いて来て話しかける。広島からやはり憲吉研究の高校の先生かなにかが歌碑を訪れて来て、「須臾」とはどの山の名かと聞いたという。村人が碑を立てようとしたとき、未亡人はこの歌とするのをあまり賛成されなかったとも老人は告げた。五月の空の澄む新緑の山々に、おそい山桜がなお咲き残っていた。会では十分ほど、憲吉の思い出を語ったが、あとで、言い残したものがあるのが気になった。すなわち、憲吉にはもっと別な読み方があるのではないかということである。わたしの遠い文学の出発の日の師であり、わたし自身の文学のこととしてもさらに考えてみたい。(84年7月) (つづく)
2024.05.23
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5月23日(木)歌集「蝸牛節まいまいぶし」(藤岡武雄第十歌集)(88)平成28年発行:あるご短歌会 *:三島市在住。歌人。日大名誉教授。わたしが、静岡県歌人協会の役員の折、お世話になりました。(著者90歳の時出版した歌集、現在は98歳です。)ああ竹下通り(1)原宿の竹下通りの若きらをかきわけてゆくわが同窓会欲しき品食べたきものの一つなきウラシマタローがふらふらとゆく孫・曾孫さ迷ひ居らむ原宿の竹下通りに異邦人めくお互に関心は無し原宿駅ゆ東郷会館に向ふ近道若者の流れの中に只ひとり泳ぐでもなく息あへぎつつ (つづく)
2024.05.23
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5月23日(木)近藤芳美「土屋文明」より(76)岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…鑑賞篇」よりの転載です。第八歌集『山下水(やましたみず)』より(8)木ずゑ吹く朝の野分に目をあきてすぎし人すぎしこと残るいまの我(昭和二十一年)木ずえを吹いている朝の野分のかぜが見えている。目をあきて、とあるから、作者は目ざめた床の中から風にふきしなう冬枯れた木群の枝を見ているのかもしれない。野分は秋の末から冬のはじめにかけて吹く疾風のことである。死に去った人々のこと、過ぎてしまった遠い日々のこと。作者はおもうともなく思い出している。そうして、一人だけ今生き残っている自分の事をも…。「浅間温泉懐旧」と題する作品。浅間温泉は長野県松本市の北郊にある温泉場のことを指しているのだろうか。彼はかって松本で教師をしていた事もある。「衢にも面知る人の少なくなり安けくさびしく一日ゆけり」「相共にさらばふまでに老いぬれど語らひつぐはうれしくもあるか」などの歌がある。作者は五十七歳。敗戦の日の後まで生きて来たことの哀愁感が静かにただよう作品である。初々(うひうひ)しく立ち居(ゐ)するハル子さんに会ひましたよ佐保の山べの未亡人寄宿舎 (昭和二十一年)「再報樋口作太郎君」と題された作品の中の一首。ハル子さん、というのはその「再報」する相手の人の不幸な肉親の女性か、あるいは肉親である人の未亡人なのであろう。無論、この場合そのいずれであるかという事の詮索は作品の鑑賞とは関わりはない。「ハル子さん」と作者の呼ぶ女性は戦争未亡人であろう。作者は奈良の佐保山のふもとの寄宿舎にその女性を訪れる。「未亡人寄宿」である。不幸な今も、悲しみにけなげに耐えて、むかしと少しも変わらずういういしく立ち居する「ハル子さん」に会ってきましたよ、と土屋文明は告げようとする。呼びかける肉声のままの、感情にあふれた短歌である。「世の中の苦楽を超えて君ありとも君の涙がいくらか分る」「折あらば奈良にゆきハル子さんを見たまへな藷うゑ静かな寄宿舎なり」の二首がそのあとにつづいている。口から語り出される口語がそのまま自然に定型の中に生かされた、やさしい作品である。 (つづく)
2024.05.23
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5月23日(木)短歌集(277)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版五味保義(4)夕浪ゆふなみに来つる千鳥の居るが見ゆ時雨ながらふる浜のたひらに網走あばしりの海こえて山の雪見ゆる汽車にねむりて眼めをさましたり国のはて根室港ねむろみなとに来きたりけり海吹くかぜの秋づくらむか知床しれとこの岬みさきの山にかjたまりてのこれる雪は海の上に見ゆ白々しらじらと硫黄に曝されし石のあひだほとばしる湯をしばし見てゐつ (つづく)
2024.05.23
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5月23日(木) 昭和萬葉集(巻十三)(150)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発20行(昭和55年)Ⅱ(47) 生活の周辺(6)夕べの街(1)尾崎左永子花舗くわほ出でしとき急速に夕映えて夕街ゆふまちは炎もゆ樹々も硝子も高層の街に月明しことごとく窓は眼窩となりて犇めく昏れ早きビルの内部に入りしとき無人の階を声下りくる北沢郁子閉店の楽鳴らし絹を売る館螺旋の階より燈は消されゆく (つづく)
2024.05.23
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後藤瑞義入選歌・入選句(よみうり文芸) ユーラシア大陸のごと広がれる雲に山里光失う 下田市 後藤瑞義(読売新聞静岡版 よみうり文芸 五月二十二日 秀逸 花山多佳子 選)(評)雲のかたちはいろいろに喩えられるが「ユーラシア大陸」は新鮮。雲の広がりの大きさがわかる。山里は雲におおわれて「光失う」。空と地上の関係が大きくとらえられた。 地に落ちて地に咲くごとき椿かな 下田市 後藤瑞義(読売新聞静岡版 よみうり文芸 五月二十二日 入選 橋本榮治 選)
2024.05.22
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5月22日(水)近藤芳美『短歌と人生」語録』 作歌机辺私記(84年7月)憲吉の五十年忌(2)五月六日、会の翌日、河村盛明君の案内で、憲吉先生の墓参のためその生地である上布野を訪れた。河村君のかっての「フェニキス」の同志であった清水君も同行された。広島市中心にあるバスセンターから赤名峠を越えて松江に向かうバスに乗る。晴れわたった初夏を思わせる日射しとなった。道々、迫って来る中国山地の山の重なりの若葉が明るく、山藤のはながその間に淡く咲きさかっていた。憲吉の葬儀の日、わたしはひとりの高校浪人の少年として欝屈の感情を持てあましながら上布野の生家まで出掛けた記憶を持つ。そうして、その日に、同じように葬儀に参列した壮年の斎藤茂吉、土屋文明らに出会っている。わたしの自伝小説『青春の碑』にそのことは書いておいた。ひとりの生涯を決していくものは何なのか。ためらいためらい重ねていくそうした日常の小さな出来ごとの生起の間のものなのか。憲吉の生家も、生家につづく峡村の街道も、『しがらみ』の数々の作品を生んだ生家の裏の渓流も、そのころとあまり変わっていない。ただし、上布野には数年前、三次に講演に来たときに一度訪れている。(つづく)
2024.05.22
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5月22日(水)歌集「蝸牛節まいまいぶし」(藤岡武雄第十歌集)(87)平成28年発行:あるご短歌会 *:三島市在住。歌人。日大名誉教授。わたしが、静岡県歌人協会の役員の折、お世話になりました。(著者90歳の時出版した歌集、現在は98歳です。)虚空の中(3)三回も別荘住ひと友のいふ入院もまた楽しともいふ今生こんじやうにここだ詫びたき魂のあり線香花火のパチパチはぜるわが傍かたへ二人の少年が交互して会話するごといびきたてゐるすぐ上の兄九十歳となりてよりわれにハードルを置きて逝きたり (つづく)
2024.05.22
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