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仙台人でこれを知らないとモグリ。半田「屋」と半田「家」の違いを答えよ。さらに、「めしのはんだや」と漢字の違いと、それぞれの登場順番や店舗展開の経緯なども答えられれば、すばらしい模範答案でしょう。(1)めしのはんだや(2)大衆食堂半田屋(店舗によってデザイン違うようですが)(3)半田家(駅前できらら寿しと一緒のところ。「めしのはんだや」が最近改装されました。)わざわざこの写真を撮るために、帰り道に大回りして帰った編集長、かなりのヒマ人です。なお、「仙台ミステリー?風景」というタイトルを改めました。(長期連載の決意? いや、たぶん3回くらいでネタ切れでしょう。)■以前の日記 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2006.03.18
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燕沢の名前の由来は「チバネ」沢、つまり血が跳ね飛んだ沢のある所、という説があるそうです。今日知りました。蒙古の碑に関連する伝説です。13世紀、弘安の蒙古襲来で、台風で海に沈んだ蒙古の残兵が陸奥に落ち延び、ここで倒れていた。哀れに思った僧が寺にかくまったところ、幕府の役人がやってきて首をはねたら、血が沢一面に飛び散った、というのです。すごい名の由来です。(『仙台漫歩』昭和59年、仙台漫歩編集委員会編集、宝文堂、から)この辺には、4代藩主綱村ゆかりの善応寺もあります。また、市営バスの営業所のあたりから旧道に入ると、緩やかに坂を登り、今市橋方面へ至る道があります。かつては塩釜や石巻への往来がさかんだったのでしょう。一度ゆっくりと散策したい所です。
2006.03.17
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以前から気になっていたこと。仙台藩の城下に物資を運び入れるため、「舟曳堀」が鶴巻(梅田川口)から苦竹まで通っていたが後に埋められ宅地になった、というのだが、一体どういうルートだったのだろう。ちょっと整理すると、南部では阿武隈川河口(納屋)から名取川河口(閖上)まで「木曳堀」がある。すでに政宗の時代に川村孫兵衛により掘削され、仙台城の建材もこの運河を利用して運ばれた。名取川・広瀬川をのぼり、その名も舟丁に蔵(若林御蔵)があった。そして北部。塩釜港から城下までの陸送に悪路や急坂があるため、2代忠宗の命で塩釜(牛生)と七北田川(大代)の間に運河を開削。さらに大代から、七北田川の流路付替え工事(岩切-福田町間)で新たに河口となった蒲生まで延長した。これが「舟入堀」である。現在は仙台港(新港)の区域に沈んだ。そして、あわせて「舟曳堀」を鶴巻と苦竹の間(5km)に完成させた。実は政宗は仙台開府の当初から、宮城野原五輪下から塩釜に向けて運河工事を始めたが、隠密によって幕府に知られ中止したという。(なお、のちに命名される「貞山堀」を構成するもう1本の大運河で「新堀」(蒲生-閖上)は明治新政府によって開削された(明治5年完成)。幅5mほどだった新堀と木曳堀も、県が大改修を施し拡幅。さらに、北上川と結ぶための北上運河(石巻-野蒜)、東名運河(野蒜-松島湾)を合わせ、政宗の気宇を今に伝える仙台湾に沿った壮大な水運ネットワークである。)蒲生(蒲生御蔵)、鶴巻(御蔵場)、苦竹(御蔵前)は米蔵が建ってにぎわったという。特に蒲生(町蒲生)は塩釜をしのぐ隆盛だったという。仙台港建設前の航空写真をみると、蒲生の町に舟入堀の舟だまりの地形が残り、密集する人家のようすがよくわかる。大崎や登米のコメが北上川を下り石巻から塩釜港に運ばれ、舟入堀で蒲生まで来る。一度蒲生で積み替え、七北田川を上って鶴巻で再度積み替える。今度は船曳堀に入るが、鶴巻では七北田川と堀は直接つながらず、藤川(地図では、幸町、東仙台を経て苦竹駅付近、国道45号の日産プリンスの北で梅田川に合流。)の水を注入した。落差があり城下への進水を防ぐためである。また、いわゆる「落し堀」とし、補修や浚渫のため、「辰の口」という地点で水を落とした。舟曳堀は幅5~8間、深さ4尺ほど。底の浅い高瀬舟で曳夫2名で米48俵など諸物資を運んだ。曳夫などの住んだ町は福田町一丁目の旧45号線北側で当時「新町」と呼ばれた。さらに、堀はわざと蛇行させて、敵の侵入や横流しを監視したという。そのため、鶴巻から苦竹まで何度か積み替えをする。舟曳堀(お舟堀)は狭い運河で、その名の通り綱で舟を曳いた。そして苦竹から原町の米倉までは、小田原牛小屋町から出てきた何十頭の牛が、原町の宿場町を通って運んだ。原町御蔵は、現在の榴岡の気象台のある場所。明治中期まで校倉造りの蔵が6棟残っていたという。さて、その舟曳堀のルートである。鶴巻御蔵から福田町南西方を経て苦竹御蔵まで、大まかに言えば、現在の国道45号線の南側で、梅田川と並行する形で、その南側を通っていたようだ。まず鶴巻。七北田川の船だまりは現在の鶴巻1丁目(鶴巻小学校のある町)で、舟曳堀の始点でもある。御米蔵3棟、御塩蔵1棟があった。鶴巻御蔵場跡地は、鶴巻小学校や仙台市ポンプ上のやや北側、梅田川と七北田川の合流する地点の南側。地図では今工場になっているようだ。そして、梅田川の南側に沿って舟曳堀が進み、運河の水を落とした「辰の口」は、45号線が梅田川を越える福田橋のたもと、ちょっと南側である。扇町六丁目、現在の仙台市動物管理センターの北のあたりだ。付近に(福住町)船小屋という地名もある。この辺から、舟曳堀は梅田川とはやや離れ、現在の45号線の南側を城下へ進んだのだろう。苦竹の御蔵だが、地図では現在の自衛隊のあたりのようだ。今朝は歴史の整理に終わってしまって時間がないが、具体的ルートの特定は、もう少し色々な資料で調べればわかるだろう。詳しく調べてネットで紹介している方もいるようだ。できれば私の地図に鉛筆でオーバーレイして、ヒマなとき(何時だろう)に自分で歩いてみたい。往事に思いをめぐらしながら。(仙台市高砂市民センター『高砂をあるく』第10集、平成10年、ほか各種資料からODAZUMA Journal編集局整理)
2006.03.12
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仙台城下の火事鐘は3カ所、北は亀岡八幡、南は向山虚空蔵堂、そして中心部は北一の勾当台角、旧養賢堂(現在の県庁)西北隅にあった。この火の見櫓界隈を「櫓下」と通称したが、明治維新のちょっと前に、鉄砲屋方職人に生まれたのが明治の名物男の福の神「櫓下の四郎」である。市長の名を知らずとも、四郎なら誰でも知っていた。発する言葉は「バアヤン」だけ、年中ドテラに縞のハンテン、いつも両手を組んで懐に入れ、座ると前を合わせないから膝カブを丸出しにする。もらい物を入れる袋を首にかけて毎日市中を徘徊する。人には絶対仇をすることなく愛嬌がある。欲も得もないから、勘が働く。四郎が舞い込んだ店は必ず繁盛。そのため市中どこでも四郎は無料。いくら呼んでも四郎が見向きもしない店は遠からず左前。郷土史の研究で有名な三原良吉さんの著作をみると、仙台四郎にまつわる面白い話が載っている。明治31年の春、三原さんが明治30年1月生まれだから満1歳を過ぎて歩き出した頃なのだろう。自宅の前、国分町の道路で遊んでいるうちに行方不明になった。みなで探したが見つからない。そのうちに、四郎が幼児を抱いて歩いているという通報があり、芭蕉の辻の交番に届け出た。やがてお菓子をいっぱい手にした三原さんを抱いた四郎が、例の「バアヤン」と言って、笑顔で店(三原さんの家。あの有名な時計屋さんですね。)に戻ってきた、のだそうだ。おそらく四郎と三原さん、愛嬌たっぷりに、市中の方々でお菓子をもらって回ったのでしょう。以上、三原良吉『郷土史仙臺耳ぶくろ』、宝文堂、昭和57年、を読んで記しました。この本を見ると、昭和40年前後のことなのだろう、米ヶ袋の自宅にリスが訪ねてきたことが書いてある。また、中山や越路山(八木山)にオオカミやキツネが出たことなど、自然あふれる仙台の情景が記されて、面白いです。
2006.03.10
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荒川選手金メダルの仙台で残念な課題です。県や仙台市の調整能力も重要だが、何といっても経済界の実力と本気度が問われます。勝山スケート場はホッケーでいっぱいというが、何とかならないのか。或いは建設や資金提供する企業は名乗り出ないのか。コストがかかるというのなら、既存施設をうまく転用できないか。青森のカーリング施設はあまり金がかかっていないように見える。仙台市体育館やグランディ体育館でもディズニー・オン・アイスやっていたし。低コストで実現できそうにも思えるが、手頃な施設はないだろうか。仙台の伝統というなら、口だけに終わらせないで。仙台経済界の実力が試されているように思う。(写真は県議会の建物にかけられた「金メダルおめでとう荒川静香さん」という幕です。言葉遣いが柔らかくていいと思いました。)
2006.03.06
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仙台の某所、ミステリアスな情景? この写真の木、よく見るとオバケのように見えます。ユーモアたっぷりの人が上手に刈り込んだのだと思います。毎日通っているのに、ずーっと気づかず、つい最近になって知りました。結構みんなは知っているのかな。良く晴れた3月3日ひな祭りの日の朝の撮影です。めったに使わない携帯のカメラ機能で、今後も仙台のさりげない1コマを発掘してみます。(などとシリーズ化の予告しましたが、多分ネタが続かないでしょう。)
2006.03.04
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伊達文化とは、決して既存の発想にとらわれず、中央の模倣をせず、気宇壮大で誇り高い。そんな伊達の文化や気風の真骨頂ともいうべき歴史上のエピソードが長崎の対馬にあり、対馬の人々は伊達に恩義を感じているというのだが、実は仙台ではあまり知られていない。秀吉の朝鮮出兵に際して、全国の大名が忠義立てのため、前線基地の名護屋(佐賀県)に着陣し、半島に渡った。半島攻めは元来無理な戦で、朝鮮側に三十万とも五十万とも言われる犠牲者を出し、また十万の半島住民が日本に連行される悲劇を生んだ。また渡海した日本側も飢餓や病死で数万の死者を出し、帰途の対馬で命を終えた者も多かった。東北からは26歳の伊達政宗だけが渡海している。途中、壱岐を経て、対馬に寄港する。伊達政宗の出兵は文禄の役の五ヶ月間だけだが、血気盛んな青年武将も、当地にあっては、老太閤の明国征服なる誇大妄想を内心で恨みながら、水が合わずに多くの者が死んでいく様を目の当たりにし、無益の戦を嘆き、また望郷の念を募らせていたようだ。ところでその40年後の寛永10年(1633年)、対馬藩の国書偽造事件が発覚した。この事件の経緯はこうである。関ヶ原に勝利した家康が、秀吉の侵略で断絶した朝鮮王朝との国交を回復しようと、対馬の宗氏を交渉に立てた。朝鮮側は条件として日本が二度と侵略戦争を行わないことを誓約するよう求めたが、宗氏の口から家康に戦争放棄を誓えとは言えず、窮した対馬藩は国書偽造を計ったのである。これが家光の時代になって、対馬藩の内紛もあって表沙汰になったのである。このとき、政宗は、宗家当主の義成を、「朝鮮の役で父上の義智公に危機を救って頂いた。今こそ恩義に報いたい」と励まし、死の前年、69歳の老体に鞭うって、三大将軍家光に諫言をした。いわく、昔から親しい朝鮮に向けて秀吉は理由もなく兵を動かし、天の報いで豊臣は程なく滅びた、その過ちを正された家康様に、将軍殿は合わせる顔があるのですか、と。かりに諫言に失敗し、強気に出がちな家光により戦いが勃発すれば、秀吉の二の舞になり内外に大きな混乱と犠牲が生じる...果たして、政宗の言葉に家光は諭された。政宗の他に家光にものを言える者はいなかった。政宗が大陸との和平を説き、朝鮮との友好をもたらした。また、幕府を欺く国書の露見で取りつぶしの危機に瀕した対馬藩を、伊達政宗が救ったのである。なぜ政宗は老体にむち打ってこのような行動に出たのか。対馬藩十万石は古代から半島を窓口に中国大陸とを結ぶ文明の回廊でもある。古くから朝鮮王朝とも親しく、半島貿易で藩を立ててきた宗氏は、秀吉の理不尽な要求に苦しんでいた。「朝鮮に討つべき罪などない」と漏らした宗義智の声を、若き政宗は深く受け止めていたのだ。朝鮮出兵を経験した自分が、今こそ動かねばならない、歴史を誤った方向に導いてはならない、そう直感したに違いない。この一件は、雄壮な武将政宗あるいは気宇壮大で豪華絢爛の伊達文化とはちょっと違う側面かも知れない。しかし、無益な戦争の反省にたち、歴史の対局を見誤らず行動し、そして恩義を大事にした、これも伊達の誇りだと思う。国際的視野をもった偉大なる政治家、伊達政宗の本領といえるのでないだろうか。(『仙台藩ものがたり』河北新報社編集局、2002年、第1章 を参考にしました。)
2006.03.01
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梅原仙台市長について河北新報は就任早々からだいぶ手厳しく評しています。村井宮城県知事評と合わせ見ると、従来の浅野知事・藤井市長の時代とは形勢逆転の状況とも。私自身も梅原市政について意見もありますが、極力抑えて、まずは河北新報の「梅原評」を客観的にみてみます。私見の方は具体的テーマごとに整理でき次第に。ところで、訪問頂いた方で「河北新報」をご存じでない方のために、編集長の私見ながら同紙を簡単にご紹介します。(よくご存じの方には、編集長の独断の河北評の紹介、ということで。)「河北新報」は宮城県内で圧倒的購読率を誇る地方紙ですが、さらに一歩飛び出して東北ブロック紙と位置付けられることも。社としても、道新、中日、西日本(ブロック紙3社連合)に比肩するプライドを持つ。仙台の政界・経済界との馴れ合いから脱しきれない面もあったが、最近は、90年代以降の行政の不祥事や従来型でない政治リーダーの言動に対処する中で、単に官との距離の加減で書いてきた(失礼!)のを卒業して、客観的に定点を探り出し、そこに腰を据えて独自の論評スタンスを決めようとする、是々非々というか成熟した大人げある論調になってきているように思われます。また、東京での独自取材力の表れでしょうか、司法関係などでは時に全国紙を上回る水準の記事が提供され、感心することも多い。さらに、不羈独立、地方からの発信を一貫して重視してきた点は、その姿勢自体が仙台伊達文化の良い面を継承していると評価しています。私自身これまで河北ネタを何件か書きましたが、同紙には、何事におもねることなく、高い志を持ち続けて欲しいです。さて、戻ります。その河北新報が、月曜日(27日)まで5日間の連載記事で梅原市長の6ヶ月を検証してみせた。第4回と第5回の見出しが、河北の「梅原評」を見事に要約している。見出しの後半部分が、河北の評価ということになろう。 ○第4回(連携) 村井県政と「蜜月」 摩擦生む発言波紋呼ぶ ○第5回(哲学) 伝統的価値を尊重 周囲に気配る度量を期待第4回(連携)では2つのトピックが取り上げられている。宮城陸上競技場サブトラック問題では、仙台が断念した構図の決着だが、市長の直接交渉がなかったと指摘。私は、この問題はそもそも仙台市の主張に無理というか限界があると考えていたが(過去の最終の日記:政令指定都市制度、仙台市、そして再びサブトラック問題について(05年11月01日))、河北の検証記事は、市民や市役所内部の声を受けて政治的対処を期待されたのに、その過程があまりにもアッサリしすぎたと指摘しているようだ。もう1つの県立高校一律共学化「汚点」発言。私もだいぶ書きました(過去の最終の日記:宮城県立高校の共学化について(4)真に学校を思うなら(05年12月11日))。いま冷静に見ると、県教委で決着後も主義主張は変わらないと公言するなど、ご自身では首尾一貫しているつもりのようで、つまりはそういう人だ、という事実がわかる。第5回(哲学)では、「伝統的価値」を尊重する市長の姿勢をかなり批判的に評している。冒頭に「茶髪の選手は来訪しても市長室に入れない」との市長発言を載せているあたりが、市長の哲学たる「伝統的価値」の突出ぶりと底の浅さを暗に批判しているわけだ。もう少し理性的な検証の視点としては、「政治家として哲学、信念、信条に基づき発言するのは当然だが、市長選の時自らの主義主張まで十分に説明したのか」という在仙企業社長の疑問を引用しているが、これも一社長発言に仮託した河北の批判の1つだろう。私は政治リーダーはいかなる成果を残すかこそが重要で、聖人君子たる必要はないし、その有する歴史認識や哲学が異端であっても構わないと思う。また、政治ダイナミズムの中で一見して「突出」とみられても、それで敢えて市民の議論を喚起するリーダーシップの手法もあり得るし、極論すれば、今の大衆に迎合するより100年後の市民に評価される施策だってあり得ないではない。だから一般論としては、政治リーダーの突出が当節の目から見て際だって見えるとしても、その突出ぶりが一過性の挙動に終わるのでなく、若干の摩擦や誤解を克服して後々に評価されるべき結実を得るのなら、良いのだ。(初期の浅野県政には結果的客観的にそのような成果があった。当人が意図したかどうかはともかく。政治評価は主観主義であってはならない。)仙台の経済界が一致して推薦した経緯からは、梅原市長の突出ぶりに当惑する向きも多いと思うが、たしかに期待を大きく上回る(?)独自性発揮ぶりだ。私としては、いかにも通産官僚の発想という印象です。ラベリングは良くないと思いながら言いますが、個別利害よりもマクロな流れに乗る或いは流れを制御するという観点から発想し、啓蒙主義的で、闊達身軽で洒脱な言動を持ち味として、積み上げや地道な調整は重視しない、政策を見直すよりは対応できない社会が悪いと考えるからあきらめも良い、というのが通産官僚タイプ。いずれにしても個人の特性は二の次で、問題は成果を残せるかどうかだ。その問題の成果なのだが、ハッキリ言ってこれまでの半年の間に、生じた梅原市長の突出ぶりが、今後に「ああそういう事だったのか」とある種の納得をもって理解されるような(その成否の評価は別としても)予感は、今のところない。今のところというよりも、宮城県沖地震より高い確率で、そうなるだろう。つまりは、底の浅い突出さ、突出だけに終わる突出、なのだ。そのために市民が選んだ市長ではない。河北もそう言いたいのだ。無色透明の藤井市政の後で、目に見える活力を求める市民の声なき声を聞いて、独自性を出すのに奮闘している、と梅原氏の立場に立って理解してやりたい気もするが、それならそれで周りの声を聞く謙虚さがあって然るべき、という河北の指摘も、今のところまったく当然だ。颯爽と登場した異端児を度量広く見守りながら、他方で河北新報の理性にせめてもの安心感を抱いている。多くの市民の感想はそんなところか。新聞も市民も成熟して来た、ということだろうか。※ なお、梅原市政の論評ではないのですが、市長発言に象徴されるちょっと歪んだ「仙台伝統文化論」について書いた日記です。時間に余裕あればお読み下さい → 仙台文化を理論的に解明?(06年2月17日)朝から冗長な長文。最後まで読んで頂いた方には深く御礼いたします。
2006.02.28
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今朝の荒川選手の堂々の金メダルの余韻が残っています。編集長も朝から眠さが抜けません。写真は繁華街で見つけた風景。ドコモショップのようでした。喜びに沸く関係各団体のHPを紹介いたします。 ■仙台市HP(日本のフィギュア発祥の地というコピーにも改めて注目!) ■利府町HP(小中高時代を過ごした町。役場の横断幕がいいぞ!) ■わかくさ幼稚園HP(TVニュースにも登場。子どもたち早朝から頑張ったね。と思ったら、午前10時にDVD録画を見せたのだそうです。夜のラジオニュースで言っていた。) ■東北高校HP(こういう私学が仙台にあることを地元も誇りにしていこう。) ■宮城県HP(このHPにはないですが村井知事が県議会で「県民栄誉賞」授与の意向を表明。大魔神佐々木、ノーベル賞田中さんに次いで3人目。)
2006.02.24
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もう1週間くらい前になりましたが、JR仙台駅で「HOTEKARAGO!仙台」創刊号を手にしました。なつかしい藤井市長が出ているというくらいの興味で手にしたのですが、よく見ると、「仙台ビジターズ産業ネットワーク支援事業」の一環として、河北新報社とACクリエイティブが発行(河北ウイークリーの別冊の位置付け)とのことです。写真を付けようと思っていたのですが、いつの間にかゴミ箱に入ってしまったようです。 ■仙台ビジターズ産業ネットワークのサイト(仙台観光コンベンション) ■参考 仙台市記者発表(05年12月14日) ■参考 仙台市ビジターズ産業振興プラン(仙台市HP、04年7月)簡単に言えば観光産業ですね。いうなれば商都仙台じたいが内外の来客相手の交流都市みたいなものだし、交流に着目して新しいビジネスを生み出す観点は、重要だと思います。仙台バスさんの「伊達の歳時記バスツアー」もこの認定事業だったのですね。
2006.02.18
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今日は神戸空港の開港。同時に仙台-神戸便も就航です。神戸には行けないので、藤崎デパートの「神戸フェア」を訪ねました。何でも、昼間だとアイドルタレント?とのジャンケン大会があったとか。私が行ったのは夕方6時前。すっかり物売り場となっていました。エスカレータを昇りきった7階に、所狭しとお店のブースが並んでいます。7階催事場は別のイベントも行われているため、通路もかなり狭くなっており、通るのもやっとのにぎわいです。こういう商業イベントは、結構楽しいものです。仙台初登場だよ~!の声に誘われて、本高砂屋の「きんつばanフィーユ」(ショコラカラメル味)というお菓子を買いました。anは「餡」をかけたコトバのようです。味を表現する能力がないので、包装の説明をそのまま転記しますと、「きんつば餡と香ばしいカラメル風味のガナッシュクリームをサクサクのパイ生地ではさみました。」ということ。1個150円くらいで、4個買いました。家では好評で、娘たちがもっと食べたいというので、お父さんの分を半分ずつにして、食べさせました。私は、試食したから、まあいいです。今私の傍らにいる娘(小3)に感想を聞きましたら、「中にあんこが入っておいしかった。虫歯になりそう」と。父「歯みがきしろよ」さて、神戸便ですが、1日2便。私は結構需要があると思っていますが、しばらく見守りたいです。とりあえず、仙台のコネクションの多様化は、歓迎ですね。
2006.02.16
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仙台近郊に住む70歳代の伯母から電話があり、テレビで見たそうですが、前輪が2輪あり段差があっても楽な自転車が評判になっている、社長がKさんで、ベンチャーのようだが、最近NHKの「てれまさむね」で見たんだ、というような内容。調べてくれないか、という電話でした。仙台をとりあげる当ジャーナル編集長としても、知らないでは済まされません。早速調べましたら、株式会社アバンテクさんの「トライク」という製品のようです。 ■「いいものテクノフェア2005」(宮城県の「みやぎものづくり大賞」受賞) ■読売新聞の記事(宮城県内版) ■日経BPの記事 ■Buisiness i(フジサンケイグループ)の記事この製品なら何かで聞いたこともあります。確かに、HPを見るとTVで随分紹介もされているようです。そこで、案内されている会社のアドレスに、事情を書いてパンフレットを郵送いただけるようにメールを入れました。おばさんにHP見てくれとも言えないので、まずはパンフの現物を入手して渡そうと思ったのです。そうしたら、その日の夜11時前に我が家に電話をいただきました。早寝早起きの編集長(私)は当然寝ていましたが、編集長特別秘書(妻です。)が受けました。私は、翌朝に聞いたのですが、特別秘書によると、デモ機で実際に使用してもらった方が良い、例えば杖を収納する仕様にするかなど色々なことがあるので、試乗してもらうのがよい、日程が合えば持っていくことも可能、などという電話だったそうです。さらに特別秘書によれば、最近しらかし台(利府町)に工場を設けた、TVで紹介もされて注文が多いんだとか、Kさんとか名乗っていたとか...エッそれって社長さんじゃないの。メール見てわざわざ電話もらうなんて、恐縮です(編集長)。履歴に残った電話番号もたしかに会社の電話番号でした。というわけで、随分話題の商品のようです。伯母は、ちょっと足が悪いのですが、まだまだ元気。しかし、毎日タクシーで出かけるわけにも行かず、この自転車があれば自力で外出できるから、是非購入したいと思っているようです。それで元気な老人が長く元気を保てるなら、大変いいこと。ユーザーにあわせて、まず試乗してもらうという姿勢も、共感できます。ちょっと検索したところでは、社長さんは大手自動車メーカーの技術者とともに、21世紀の乗り物を開発しようと一念発起して起業したとのこと。海外でも評価されているようで、おもしろい製品と企業だと思います。習志野の工場から、なぜ仙台を選んだのかについては、上記読売の記事には、「創業当初は千葉で開発、生産をしていたが、昨年(2004年)、福祉先進県として福祉に役立つ産業を求めていた宮城県に誘致され、仙台に移転。11月からは利府町の工場で生産を始め...」とあります。それ以上は今はわかりません。ただ、仙台・宮城を選んだことに大いに拍手を送りたい。
2006.02.15
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トリノ五輪で盛り上がっていますが、我が家もチョイとスキーに。(写真は将来の上村愛子こと、我が家の娘たち+その母親。市街地と太平洋がうっすらと見えたのですが、写真ではちょっとわからないですね。)8時前に出てスプリングバレーを目指したのですが、青年の家を過ぎたあたりで車が詰まっている。だから嫌なんですよね、ココは。あの一本道が。たぶん前方でスリップや往生している方がいらっしゃるのでしょう、Uターンするタイミングも簡単なうちに、意を決して戻りました。いつもは決断の遅い編集長ですが。ここは即決。そして、10年ぶり以上に泉ケ岳スキー場へ。同様の転身組も多かったようでした。天気は、たまに風雪が舞いますが、まずまず。市内一望とまでは行きません。例年雪の付きの悪いココですが、さすがに積雪はOK。混まないのが良いですね。回数券2枚(大人1枚、子どもシニア兼用1枚)、それぞれ11回分なので端数調整のため一回券を2枚(大人1、子ども1)買いました。つまり、1人6回リフトに乗ったことになります。モギリのお兄さんの手違いで、子供用の1回分にハサミが入らなかったので、残った子供用1回券は人にあげました。これと駐車場500円とで、合計6千円弱の仕上がり。昼メシは、当然自宅に帰ってから。昼寝して、いま写真の整理をしているところです。考えてみれば、半日は他に使えるから、これもお手軽。泉ケ岳だと一日じっくり滑ることも、どうせないのだし。
2006.02.12
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低温が続きますが今朝(10日金曜日の朝)は快晴。朝8時の仙台駅前ペデストリアンデッキから、アエルを写しました。特に意味はありませんが、青空と一体化して見えるため、不思議な印象を受けることがあります。夏などは特に。今日は快晴ですが、適当に雲があるときに、その適当な雲がビルに映って結局一体化して見えるときも、あります。たしかに、風とか空とかいう意味だそうだから。aeroplane や aerobics も関係あるのでしょう。それだけの話題ですが。
2006.02.10
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新宿中村屋の創業者で女主人で、文化人の後援活動もした相馬黒光は、仙台の出身なのだそうです。私、パン屋の中村屋は知っていても、創業者の名前も出身地も知りませんでした。相馬黒光は、明治9年仙台市立町の星家に6番目の子として生まれた。幼名は星良。星家は仙台藩の有力武家だったが維新後に父や兄弟の病死も重なり、職を求めて、片平丁尋常小学校の後、裁縫学校に通う。しかし向学心やみがたく、東二番丁高等小学校、宮城女学校に進むが、上級生のストライキ事件に連座して自主退学。上京してフェリス女学校(横浜)を経て、明治女学校に転学。不遇の少女時代を経て、没落と暗黒の故郷と評した仙台をきっぱりと後にしたのは、彼女の強い野心もですが、叔母の影響があったのだそうです。黒光の母は星家の跡取りとして婿養子を迎えて家を守る生涯を強いられたのに対して、その妹である叔母の豊寿(佐々城豊寿)は、対照的にフェリス女学校の前身に学び、やがて男女同権を唱える社会改良運動(東京矯風会、婦人白標倶楽部)を推進する女性運動家の最先端だったという。(これも私は全く知りませんでした。)やがて、信州穂高の相馬愛蔵と結婚。このとき、すでに叔母の影響で文化人たちとの交わりがあり、作家志望であった黒光が、信州の名もない男と結婚したことに周囲は驚いたという。信州で病床に伏した後、娘を婚家に置く条件で上京し、中村屋を開業し成功。中村屋の名は、東京での生活の糧を得るために借金して買い取ったパン屋を、そのままの屋号にしたもの。エロシェンコ(ロシアの詩人)やボース(インドの独立運動家)の亡命を助けるなど、派手な生涯を送っています。著作多数(『広瀬川の畔』など)。(参考:難波・大石編『街道の日本史8仙台・松島と陸前諸街道』吉川弘文館、2004年、柳谷慶子さん執筆部分。ほか)良(黒光)の仙台時代は、東北線が仙台・塩釜まで開通し(明治20年)、三居沢発電所により市内に電灯がついた(明治27年)という頃でしょう。そんな時代に、地方を出て時代の最先端を歩んだ、まさに明治の先進的知的女性です。私の不勉強を棚にあげますが、仙台でなぜ彼女を顕彰する気風がないのでしょうか。黒光は相当に気性が激しく冷酷な一面もあったようです。そして、故郷を顧みることもない。さらに、派手な交友は、田舎の純朴な観念からは誉められたものではないのでしょう。原阿佐緒に対する仙台の従来の評価と共通するのかも知れません。関係ありませんが、今4時、外は雪が降っており、10センチ程度でしょうか、積もっています。静かな銀世界を、黄色い回転灯の除雪車が練り歩くのが、我が家の2階から見えます。降り方も徐々に強まっているよう。降る雪や 明治は遠く なりにけり
2006.02.07
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余もいずれの年寄りか 片雲の風に誘はれて 漂泊の思ひやまず 海浜にさすらへ 去年の秋 江上の破屋にくもの古巣を払ひて やや年も暮れ 春立てる霞の空に 白河の関越えんと...芭蕉の奥の細道に向けた旅だちは46歳という。編集長もあと数年です。月日は百代の過客、日々旅をすみかとする芭蕉の旅への思いは計り知れないが、古来の歌枕をめぐりたい、行きかふ年に去来した古人の心をその土地に偲びたいという、熱い思いが旅情をかき立てたのでしょう。(高橋克彦の芭蕉隠密説も良いのですけど...)ところで紀行文の題名(奥の細道)にもなった「おくのほそ道」が岩切から多賀城にかけての小道であることは、われわれ仙台・宮城は、何と光栄なことでしょう。題名にするほど、芭蕉も賛辞したわけです。「おくのほそ道」とは岩切今市橋付近から多賀城の壺の碑に至る2.7キロ程度の道を指しています。5月8日雨上がりの朝に歩いたそうですが。塩釜、多賀城の歌枕を経て、松島、石巻に至ります。岩切の東光寺入り口に石碑が建っています。表面は「おくのほそ道」と、THE NARROW ROAD TO THE DEEP NORTH EASTの字句。裏面には「かの画図にまかせてたどり行けば、奥の細道の山際に、十符の菅有」、この付近から東へ続く古道を示唆している。平成元年11月23日「おくのほそ道三百年」記念事業実行委員会・仙台市・仙台市文化事業団・河北新報社・宮城県俳句協会建立、とあります。
2006.01.25
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グタ~ッと廃棄物のように寝ていたら下の娘が起き出したので、かいけつゾロリを見ていたら、突然画面が切り替わって、アナウンサーが映った。赤ちゃんが国立仙台病院の裏手から発見されたとか。犯人から解放するとの連絡があったのだという。東日本放送では身代金目的のため、報道を控えていたとか何とか、よく聞こえなかったが、犯人から身代金要求があったのだろうか。犯人の逮捕と事件の解明が待たれる。いずれにしても、無事保護ということは、まずは良かった。
2006.01.08
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今日(3日)は朝7時過ぎに、岩切の東光寺を八坂神社を訪れました。先月だと思うのですがが、東光寺裏の横穴遺跡が仙台市の文化財審議会から指定すべしとの答申があったとの新聞記事がありました(ちょっとあいまいな記憶)。政宗の仙台開府以前は、現在の仙台市内では岩切が最も栄えた場所だったという。2年前に青麻神社に初詣した際に、妻の数えの厄年でもあり(30代の方のです。)家族でおはらいをしてもらったのですが、その際に地域の歴史に関する書籍が置いてあったので読みました。宮司さんが何かの委員をされていたのでしょうか。青麻神社も千年以上の歴史があると知りました。関心を持ちながらも、調べもせずにいましたが、先月の新聞記事に促されて、すこし調べました。青麻神社は、伝によれば852年に穂積保昌が山城国から来たりて、里人に麻の栽培を教え、また一族の尊崇する三光神を清水湧く山峡の岩窟中に奉納したのが創始。中世には義経家臣の清悦仙人が霊験を顕したため祀られている。古来より中風病と海上安全の信仰があり、各地青麻神社の総本山。(青麻神社HPから)岩切地区の歴史概観(仙台市の関係資料から思い切り圧縮)。------------○平安まで 岩切周辺は縄文時代から人が住み着き(燕沢遺跡など)、弥生時代後半には豪族が成立(入生沢横穴式古墳、千人塚古墳など)、大和朝廷の確立の頃には開拓が始められ、大化の改新の後に陸奥国は中央政府の支配下に入る。8世紀には多賀城が国府・蝦夷鎮守府として東北の中心都市となるが、岩切周辺の住民も築城の労力として使われたと思われる。 また、聖武天皇の命で国ごとに国分寺が建立されたが、仙台市木ノ下の国分寺の土台の石が岩切の石とされる(「岩切」という地名の由来についての一説)。 平安時代になり征夷大将軍坂上田村麻呂は蝦夷を岩手県胆沢まで征服し、蝦夷鎮守府は胆沢に移された。この際、田村麻呂は利府の阿久玉姫の間に千熊丸をもうけた。千熊丸が沢乙の奥を歩き朝日を拝んだとされる「天拝坂」の地名が残る。なお、もともと京の人であった阿久玉が多賀城に旅立つ際に、悪人に逢ったら醜女に、善人に逢ったら美女に見えるよう観音様に祈願した。残り1里のあたりで池の水を鏡にし旅の汚れを落とし化粧をしたという(鏡ヶ池、化粧坂の伝説)。 また、この時期,「途絶(緒絶)の橋」と「十符の菅」が歌に詠まれている。十符の菅薦は後に松尾芭蕉も触れている。○鎌倉・室町 頼朝の鎌倉幕府が開かれ平泉藤原氏が滅亡すると、御家人の伊沢家影を留守職に任命(後に留守と改名)。その後の多賀城一帯は,朝廷への配慮と貧弱のためか、岩切城(高森山)を本拠地とする。 家影は京の八坂神社を分霊したが(祇園牛頭天王社)、鎮座場所が変遷、これを戦国時代伊達政宗がもともと志波彦神社のあった場所に移したのが現在の八坂神社。志波彦神社は塩釜神社に移され、その社を八坂神社境内に冠川神社として祀っている(冠川は七北田川の別名)。 仏教も陸奥国まで伝わり、現在に石仏や石碑(板碑)が多数残されている。東光寺比丘尼の板碑。また慈覚大師が夜中に作ったとされる磨崖石仏など。 南北朝の争乱の影響で、岩切城を舞台に吉良貞家と畠山高国の抗争が繰り広げました。岩切城の前衛である東光寺城(余目城)が吉良に攻撃されると、岩切城の四方の絶壁に残り少ない蕎や米を撒いて富裕を装い敵を欺いたと言う(「蕎米坂」の由来)。 室町時代には、新田開発など豊かになると冠川(七北田川)流域に市が開かれた。○戦国以降 4世紀にわたる守護大名留守氏は水沢に移る。古くは留守の家臣であった兵藤大隅俊信は、今市に移住し、新道開設と新田開墾に励み、町を宿にして献上したいと申し出たところ、伊達政宗が大いに感心し、新町取立免状を下付した。これが岩切新町(今市=新しい市場の意)であり、新田開発に携わった足軽を供養するのが耕田寺である。また支配人頭として尽力した鎌田九郎の墓が東光寺山門にあり、百文も褒美を高くした功績から「百文囲」の地名が残る。 江戸時代、岩切は塩釜・石巻に通ずる街道筋で茶店や宿で繁栄した。湯豆腐(うどんのような物)、比丘尼坂の甘酒、燕沢のはねこうさぎの民芸品、今市おこし、台ヶ原のてんのこにぎり、などが特産品だったという。------------今日の私は1人で、まず誰もいない東光寺へ。日陰には踏み固められた氷雪が残り、土も黄土色のまま凍っている。気温はマイナス2度か3度くらいだろうが、風はなく朝陽も当たるので、澄み切った冬の朝という感じ。境内から、幼稚園の遊具や鐘堂のある方の坂を歩いて登っていくと、奥は墓地になっているが、坂の途中に石仏がある。慈覚大師の石仏か。審議会が答申したという横穴群は見えなかったが、本堂の裏手で見えないのだろうか。坂から眺める七北田川の風景は意外と美しかったです。なお山門の手前の階段のところには、最近建てた石碑があり、芭蕉の「奥の細道」の名の由来として、十符の菅薦に至る道がどうとか書いている、との説明がありました。その後、八坂神社へ。どこかのおじさんが1人高級な車で参拝しに来ており、ご挨拶しました。私も、参拝。家族の安全を願う。たしかに、勉強したとおり、脇に冠川神社がありました。江戸時代なら、塩釜さまの参拝の道すがら、岩切で宿泊し大いに遊んだ人も多かったろう。参拝や旅行なんてのは一生一代の大娯楽だったのだろうし。八坂神社も東光寺も、道路を通行するときに車中から眺めるだけでしたが、地域の歴史をかみしめながら訪れるのも、また良いものだと思います。ちなみに、この付近では今市橋たもとの和洋菓子「いとうや」が有名ですね。
2006.01.03
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私がブログを始めたばかりの頃、尊敬すべきイタリア料理シェフのSさんのことを記しました。そして、45号線沿い中野栄駅前の、あの店が閉店してしまったことも。■以前の日記 トラットリア・ポモドリーノを礼賛する(8月31日)ところが、です。昨日(28日)仕事にて『仙台経済界』を読んでいたら、あのSさん(齋藤さんです。)の顔写真が目に飛び込んできました(2006年1・2月号p.84)。先月下旬に国分町に開店した店の紹介、その店長ということで。ヤッタ~! 小躍りして喜び、早速かつて一緒に齋藤さんと懇談した仲間にも連絡しました。その人も、仕事上で齋藤さんと話したがっていたから、大喜び。本当に良かった、良かった。記事(ちなみに「せんだい味浪漫~接待に使える店~」という名のコーナーにあるのが面白い。)によると、鳥小屋をイメージした店。料理はイタリアンをベースに、旬の食材を使った創作料理。大河原や志津川など宮城県の新鮮な食材も使っているようです。「すべての料理はオーダーを受けてから手作りします」とのコメントが載っています。さすがは齋藤さんだ。ああ、本当に良かった。■店の紹介→ぐるなび→HP
2005.12.29
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仙台で越路(こえじ)といえば、今は市内から愛宕橋を渡ったところの町名ですが、元来は、そこから霊屋下に至る街道、つまり今でいう向山のバス通りを指したのだそうです。 昨夜、以前住んでいた宮城野区五輪のことを考えながら寝ましたら、今朝の夢で、向山のバス通りが浮かんで、昔を思い出していました。 越路は、古くは東街道と呼ばれた江戸と奥州を結ぶ街道筋として活用されたそうで、長町からこの向山バス通りを通って鹿落を経由して広瀬川を渡るというルートだったのだそうです。仙台開府の後に、清水小路などのルートが主流になったそうです。 また、八木山は八木久兵衛さんの山だったからですが、八木家の所有となる前は、八木山一帯は仙台藩士の共有財産で、「越路山」と呼ばれていたそうです。 あの辺一帯は、旧町名も「長町越路」ですね。昭和40年代の住居表示導入前に建てたと思われる家の表札に長町越路の住所を記した家を何軒か見かけました。 実は私、学生時代は向山三丁目に住んでいました。 その「越路」(向山バス通り)は、私の新聞配達ルートでもありました。 あの年の12月は例年になく寒い冬だったと記憶していますが、コートにくるまって電気コタツで寝て、朝4時に起きたら、向山高校下のアパートから、八木山入口の新聞販売店まで、暗い中、坂を走って下りるのです。K新聞のようにメジャーじゃない、M新聞なものですから、配達軒数の割には配達区域が広く、上は八木山香澄町の県警住宅から、下は霊屋・米ヶ袋まで、という具合です。6時過ぎに配達を一通り終えて、鹿落の坂をスパイクタイヤのバイクでグィーンと登ってくる頃には、東の空がほのかな紫に明けてきて、販売店から今度はトボトボ歩いてアパートへ。ゴソゴソと石油ストーブをつけて... 咳がなかなか抜けなくて辛い冬でした。1月2日(新聞休刊日)の朝はものすご~く安楽な気分に浸った記憶がある。 八木山入口の角のF酒店でよく酒やツマミを買い、また灯油も配達してもらいましたが、ある時、おばさんが「あんだもガンバらいよ」といって、梅干しの詰まった太いビンをくれました。朝起きたら、1粒口に入れて、しばらくは噛むのを我慢、坂を下ってちょうど酒店のあたり、販売店の直前で噛みつぶしたものでした。すっぱ~い。 ありがとう、おばさん。なぜか南高校の新任の先生だネと間違われていたけど。 酒や灯油代のツケも完済していたかな。ちょっと大げさかも知れないが、あの梅干しで頑張れたような気もする。 「越路」には本当にたくさんの思い出があります。(編集部注:今回も『忘れかけの街・仙台』(河北新報出版センター)を一部に参考にしました。)
2005.12.28
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これまで10回以上引っ越ししました。仙台市内では5カ所ほどに住みました。それぞれに思い出が深いですが、あえて住んでみたい一番を挙げれば、五輪一丁目です。仙石線の宮城野原駅から歩いて帰るのが好きでした。さりげない駅と小さいスーパー、決して新しくない住宅に挟まれた細い路地を通って帰る、という雰囲気が良かったのです。あまり東北にはない風景だし、かといって首都圏の私鉄沿線ともちょっと違って洗練されてもギラつてもいない、さりげない感じ。住まいは高層マンション(古くて狭くて安い賃貸なのですが、一度火災があって、TVで「マンション火災」と報じていたから、堂々と書かせてもらいヤス。)の11階で、部屋から望む風景も好きでした。遠くに太平洋、また仙台駅に滑り込む新幹線も見え、夜には大年寺山のアンテナの天気予報を眺めたり。そう言えば、宮城球場でオールスターが開催され、大魔神佐々木が登板しましたが、熱狂の球場を窓から見ていました。五輪という町名は、東京オリンピックにでもちなんでつけた安易なネーミングだろうと思っていましたが、いやいや由緒があって、地・水・火・風・空の五輪(仏教でいう元素ですね)を示す仏塔が今の育英学園のあたりに有ったのだそうです。旧町名にも、原町南目字五輪、というのがあって、他の小字とともに、統合、地番を整理して、五輪一丁目・二丁目となったというわけです。昭和40年4月に仙台市で初めて住居表示制度を導入したのは、なぜか旭ヶ丘ですが、その次が五輪だったそうです。部屋からは朝夕を問わず仙石線の電車の音と、踏切を通る車がレールの上を渡るガクンという音が聞こえていました。慣れてしまったらしく、転居した泉区では夜が静かすぎて眠れない(静寂が耳を襲う感覚)ほどでした。住んでみたい一番、と書きましたが、今では仙石線も見えなくなりましたね。9月には、家族で宮城野原駅からフルキャストスタジアム宮城にイーグルス応援に行きましたが、もう全然変わっています。あそこがお父さんの住んでいた家だよ、と子供には言ったけど...(編集部注:一部に『忘れかけの街・仙台』(河北新報出版センター)を参考にしました。)
2005.12.27
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私は実はサッカーについては戦術面もあまり知らず、ましてやプレースタイルなどの違いや監督の個性などに基づいたチーム形成方針などは、聞いてうなずく位で、よくわかっていないのが実情です。ただ、ベガルタ仙台について、一言だけ。今日(24日)の河北新報の報道では東北ハンドレッドは、累積債務約17億円、減資による債務解消などの経営改革を進める、という。梅原市長はプロスポーツはビジネスで、公的助成なしに経営が成り立つことが基本、とコメント。サッカーは組織プレーであり、戦術とチーム形成方針に明確な方向なり戦略があるのが望ましいのでしょう。とすれば運営会社の経営方針も、これと同様に戦略性が必要なはず。しかし、これまでの10年間、場当たりだったように感じる。今季は大型補強(完全移籍)に補強費を追加したが、必ず効果は出る、との社長のコメントもあった(一昨日の河北新報記事)。球団経営とはそういうものなのか、ちょっと評価もできないのですが。そして主要株主である仙台市長の「公的助成なしが基本」コメントに至っては、そりゃそうだろうけど、それなら今までの関与は何だったのか、これから「ビジネスとしての」経営成立を考えていくのか(命名権もそれ?)、失礼ながら、場当たりの象徴のように感じる。一番すばらしいのはサポーターではないか。一昨日のシーズン終了報告の新聞広告にJ2全チームのホーム動員数が表で出ていたが、仙台はダントツの1位。集客力が安定経営を支えているというが、客が来るから経営できる、という論理は逆だ。
2005.12.24
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1週間ほど前に、子供の遊び歌「光るはオヤジのハゲ頭...」について記しましたが、その際に思い出したことです。上の娘が小一の頃ですから2年ほど前、ジャンケンをするときに、急に立ち上がって、勇ましく「戦争っ!軍艦、軍艦、朝鮮。朝鮮、朝鮮、ハワイ。」とやっていました(それぞれグー、チョキ、パーの意味)。同級生の男子A君がやっていたので覚えたらしいですが、これは私は知りません。初めて聞きました。祖父(妻の父。宮城県出身。昭和10年代半ば生まれ。)は懐かしいと言っていました。A君もおじいさんに教わったのでしょう。当時の時勢を反映した全国的なものかも知れません。ところで、ジャンケンの呼び方やかけ声には、地域による多様性があることを、大学時代に各地から来た友人に聞いて知りました。さらに、世界に目を向けてみても、「三すくみ」状態を何で示すかで、各民族の文化の違いが出たりして、面白いようです。我が家では日曜日の7時前に、毎週、5歳の下の娘がテレビのサザエさんとジャンケンをします。そして、どういう訳か、勝つと私(父親)に「お金ちょうだい」というのです。「紙のお金でいいんだヨ」というので、絵に描いてやればいいんならと安心して「いいよ」と言っています。ところがいつか姉(上の娘)が「お札の事じゃないの」と言ったのでギクッとしてしまい、それ以来、お父さんはこの時間は静か~にしています。なお、まだ請求はございません。最後に、全然関係ないですが、ジャンケンでどうしても思い出すことがあります。学生の頃、学院大近くの五橋通りに面した北目町に、その名も「じゃん軒」というラーメン屋さんに行きました。友人に教えられたのですが、食べた後に、店主とジャンケンをして勝つと50円引きになるという店でした。「はい、お客さん、ジャンケン」、という店のお兄さんの低く渋い声が忘れられません。もう20年も前です。思い立ったら確認したくなる単純なわが編集長、手元のハローページ(掲載内容2004年6月現在)で見ますと、確かにある! また、ネットでチョイと見ますと、国分町「味よし」の分店とのコメントも出ています。あっ、そうそう、昔も友達にそう聞いた覚えがあります。だからうまいんだ、と。今でもジャンケン割引あるのかな...また行きますよ。今度は、ジャンケンに強いわが子を連れて、ね。
2005.12.18
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昨日(土曜日)に「世界・ふしぎ発見!」でアインシュタインの大正11年の訪日について放映されました。これは、仙台とアインシュタインの関わりを研究してきた当「おだずまジャーナル」とTBSの共同企画によるものです。もちろんウソでして、先ほど(午前4時)録画で見ましたが、仙台も松島も一言も出ていませんでした。ああ残念。仙台について言えば、博士の講演は長くなるのでパンを持参されたし、というビラの紹介(これがクエスチョンの答えでした。)に、石原純博士の名前がチラッと見えたくらい。それはともかく、博士が日本滞在の様子、博士の印象、また当時の日本の雰囲気がわかって大変面白かったです。空前の科学ブーム、また相対性理論がわかるわからないで大論争になったなどという話(わかったフリなのでしょうが)や川柳(相対性ぶし)など、日本人の特徴は変わらないですね。■過去の日記 ○ アインシュタインと仙台(その2)(12月17日) ○ アインシュタインと仙台(12月14日)
2005.12.18
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大正11年(1922年)12月3日のアインシュタインの仙台での具体的な日程や様子を調べようと思ったのですが、仙台市史などの記録にはあまり触れられていないようです。関係者の著作を読めばいいのでしょうが、手っ取り早く、東北大学の史料にはあるのかも知れないと思って、同大学のHPを見ていたら、東北大学百年史編纂室ニュース第2号(1998年8月)8ページに関係する記載があります。内容から若干紹介させていただくと、------------東北帝国大学の初代総長の澤柳政太郎がミュンヘン留学中の石原純助教授に宛てた手紙(明治45年、1912年)には、初代の外国人教師にアインシュタイン氏を迎えてはどうかとの内容がある。当時のアインシュタイン博士は学界の注目を浴びていたものの、まだ世界的な名声を得る段階ではない。にもかかわらず、氏について着実な情報収集と招聘に動いたことは注目される。------------この文章には、また、東北大学での講演の責任者的な立場となった愛知敬一の友人の小野平八郎が人脈を活かして講演実現に奔走したことなども書かれています。小野平八郎さんの随筆集『お笑止しいなぁ』(仙台金港堂、1959年)がこの記事の最後に参考文献として紹介されていますが、この本をぜひ読んでみたいと思いました。アインシュタインと仙台・宮城について、続報できる内容があれば、またお伝えします(編集長)。■以前の日記 ○ アインシュタインと仙台(12月14日)
2005.12.17
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ある資料を見ていたら、今年2005年はアインシュタインが相対性理論を発表した1905年からちょうど100年で、世界物理年だそうです。アインシュタイン夫妻は大正11年(1922年)11月17日神戸港に上陸、12月上旬には、仙台・松島を訪問しています。このとき、アインシュタインは、自らの理論が政治的思惑と絡みついてしまった欧米から逃れ、日本を訪問することを楽しもうと考えていた様であり、また来航途上の船中でノーベル賞受賞の報を受けるなど、印象深い旅となったに違いありません。12月2日に東京を離れ、仙台に向かう。東北大学で熱狂的な歓迎を受ける。12月3日、仙台市公会堂で、午前9時から午後2時半まで、相対性理論に関する一般講演。当日は、仙台市内はもちろん近県や東京からも詰めかけた聴衆は超満員で、講演会は非常な盛会だったそうです。通訳は愛知敬一教授(愛知揆一元蔵相の父)です。講演後アインシュタイン夫妻は午後3時仙台発の列車で松島に向かい、松島を遊覧。実際に海岸を散歩したそうです。仙台に戻って、その日は仙台ホテルで土井晩翠らと夕食の後、宿泊。翌12月4日の朝8時半に仙台を出発し、日光で来日以来はじめて2日間の静養の時間をとったそうです。12月29日に門司港から離日するまで、名古屋、京都、大阪、神戸、博多での講演と、奈良と宮島を観光しています。アインシュタインの来日日程の一環に仙台が組み込まれ、講演が行われたこと、そして松島を観光したことを、仙台人として大変誇りに思います。氏は帰国後、「仙台は学術研究に最も向いた都市であり、東北大学は恐るべき競争相手だ」と述べたのだそうです。アインシュタインが来日したのは、京都帝国大学の西田幾多郎と東北帝国大学の理論物理学者石原純の両氏の功績によるものです。石原博士は、日本における相対性理論研究の第一人者で、大物の理論物理学者でした。そして、このとき石原博士とともにアインシュタインに同行したのが、宮城の生んだ女流歌人として有名な原阿佐緒です。阿佐緒が道中でアインシュタインと直接話を交わすこともあったそうです。(物理学者は生活を乱してはいけない、とか言われたらしい。)アインシュタインが具体的に仙台でどのような行動をしたのか、詳しく市史や新聞を調べてみようと思います。
2005.12.14
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NNN24の「ふるさとニュース」が「ウォッチ・ザ・にっぽん列島」に衣替えして、放送局数も増加、さては仙台の「OH!バンデス」も出るか、と期待しておりました。頑張って2時30分まで起きて、再放送の時間帯を見届けましたが...その結果は、というと、冒頭に本日の紹介する放送局を示しておりました。確かに5局になっておりましたが、従来の準キー局4局の他には、福島中央テレビ、でした。おそらく、従来の4局プラスで、話題性によってローカル局1局を巡回的に付け加えるというのだと思います。「OH!バンデス」を出そう、という運動?をして来ましたわが ODAZUMA Journal としてはちょっぴり残念でした。(再びカゲの声:勝手に騒いだのでしょう。自業自得。)皆さん、お騒がせしました。NTVさん、次の機会に是非お願いしま~す。以前の日記 10月26日 11月26日 11月28日
2005.11.28
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ウォッチ・ザ・日本列島を夜10時に見るつもりでした。「世界まる見えテレビ特捜部」を見た後、娘たちと9時に就寝。妻に起こされたのが10時30分。あ~、10時に起こしてくれと言ったのに...あわててTVを見ると、中京テレビのニュース(小学生向けロボット教育)をやっています。その後は、大阪(関市長インタビュー)、最後に福岡(マンション問題)で10時55分になり、終わってしまいました。残念!でも、ここで、わかること。以前の順序(福岡→大阪→中京→札幌)と逆に北からやっているようだ。そして、10時30分頃に流れていた中京テレビの後は、だいたい10分程度づつ各局を流している。この配分だと、(しかも、NNN24のHPで局数を増やしていると明言しているのだから)中京テレビの前に2局か3局はあったはず。従来からある札幌は入っているはず(おそらく冒頭)だから、とすると、ミヤギテレビが入っている確率が大! ヒャッホー!NNN24に仙台の「OH!バンデス」を出そう、と提唱して来ました?(単にブログに書いただけ)わが ODAZUMA Journal としては、大いに期待が高まりました。しかも(ここがポイント)、従来の準キー局4局に加えて、他を押しのけて仙台が選ばれたという、光栄さ!(カゲの声:勝手に妄想するより、早く見ろ。いつまで待たせるんか、コラ。)以前の日記 10月26日 11月26日
2005.11.28
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以前NNN24の「ふるさとニュース」に仙台のOH!バンデスを出そう、と書きました。実は最近見ていなかったので、今週久しぶりに、午前0時台の「ふるさとニュース」を見ようとしたら、火曜日も木曜日も、別番組(全国ニュース)やっている。アレッと思って、NNN24のHPを訪ねますと、(HP自体が新しい!)11月7日から番組を一新、とのこと。そして、次のように書いています。------------深夜に放送していた「ふるさとニュース」も夜10時からに放送時間を変更。「ウオッチ・ザ・日本列島」と番組名も改め、〔注〕放送局数を増やして、その名の通り日本列島各地のスタジオで放送した、その地方ならではのニュースを放送します(注:下線部は ODAZUMA Journal編集局)------------フムフム。ということは、従来は準キー局4局だけのニュースを紹介していたのが、遂に我がミヤギテレビも入っているのか...私の要望活動?の成果が出た! 頑張れ宗さん!とワクワクしながら、子どもを寝かしたら布団からコソコソ這い出してTVをつけてみようと決意。妻に10時に起こしてくれ、と言っておいたのですが...何とも爆睡してしまい、目を覚ましたらもう6時。妻に呼ばれた記憶だけはかすかにアリ。ダメだコリャ。お楽しみは、来週月曜日に持ち越しです。
2005.11.26
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愛用の腕時計が電池切れで針が止まりました。この時計、広瀬通のジャスコ仙台店の閉店セール(フォーラスに改装する前)、たしか昭和59年の初夏ですが、その際に1万円弱で買った物です。まだ学生でした。以来21年間この時計だけでやっています。バンド交換も10回以上やったはず。本体の横やウラの一部が汗や水分のため錆びも見えます。また表面ガラス部が外れること何度か有りましたが、自分でハメ直してきました。 こうなると愛着が沸きまして、リタイアまでこれで頑張ろうなどと考えたりしています。(時計より先にこっちがアウト・オブ・オーダーかも!) 当時のジャスコと言えば、一番町の中心部分、また国分町の入り口でもあり、学生の飲み会と言えば、「6時ジャスコ前」というのが集合場所の定番でした。 学生の頃は、一番町を南北に流すと誰か友達に会う、と誰かが言っていた様に、結構みんな町に出ていました。車など持っていないし、書店、飲み屋、深夜までやっている喫茶店などが限られており、これらの店との往来に一番町を歩くことになることから、昼夜を問わず、自然と一番町で出会ったのでしょう。今でいうコンパクトシティです。 ジャスコは、その一番町のちょうど中心、人の通りの交錯するポイントでもあり、まさに集合場所に恰好でした。 今は、一番町を歩くことも月に1度か2度。郊外に住んでいることもありますが、一番町に出てくること自体が結構大変だったりします。 ちなみに国分町で飲むことも以前に比べてメッキリと減りました(よく言えば家庭第一主義とも!)。 そこで、今日の仕事の帰り道に一番町を通りました。そして、午後6時に旧ジャスコ(フォーラス)前の風景を撮ってみました。 「6時ジャスコ前」の風景、です。 多湖輝さんの『頭の体操』の第1集(?)にあったクイズ。灼熱の非文明社会に入った文明人が手みやげに持ち込んだ時計2個のうち、1個は一日に5分づつ遅れ、1個は全く止まってしまった。さて、非文明社会の現地人はどちらを選ぶか。正解は、全く止まった時計。理由は、少なくとも1日に2回は正確な時刻を指すから、というものでした。(記憶が不正確ですが、概ねこんなクイズでした。第1集でないかも。何せ小学校の頃で。) そこで、私も文明の波に逆らって、今からは一日二回正確に時間を指す止まった時計にしようかとも思いましたが、12時13分で止まった時計を見ても仕方ないです。 「ジャスコ前」からずーっと仙台駅まで歩き、仙台駅東口のヨドバシカメラで電池交換いたしました。
2005.11.14
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福田町の名は、福室と田子の両地名から合成した地名です。 と知ったふりをして書きましたが、仙台での生活が通算20年の私、実はこのことを今日になって知りました。まだまだ不勉強。たしかに、大字で田子と福室はありますが、福田はないですね。それにしても古くにつけた名前なのでしょう、すっかり定着しているように思います。 では、市役所の行政サービスセンター(支所)名や小学校名になっている「高砂」という地名はどうでしょう。 明治期に宮城郡の蒲生村、福室村、岡田村、田子村、中野村の5村が合併して高砂村が誕生しています。おそらく縁起の良い名前を命名したのだと思います。仙台市史を確認していないので想像ですが。そして、昭和16年の合併で、中田村、岩切村、六郷村、七郷村などと一緒に仙台市に編入されたようです。 現在のサービスセンター(支所)は基本的に昭和16年合併時の旧村単位をエリアにしているので、その名も高砂支所(現在の高砂サービスセンター)となったと思われます。また、小学校や仙石線の駅名(陸前高砂駅)も、この高砂村に関係しているのでしょう。
2005.11.10
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面白い座談会記事でした。「仙台のここはOKここはダメ!」(「仙台経済界」2005年11・12月号pp112-116)。県内外から仙台に転入した6人の女性のざっくばらんな声。我々は住みよい杜の都なんて自慢げに言っていますが、実態はいかに。 生活に根ざした視点で、かつ他都市との比較という観点から、我々が気づかない点を指摘してくれていると思うので、ちょっとご紹介いたしますと...(要約は当ODAZUMA Journal)〔仙台の印象〕△ 気温の割に体感温度が低い気がする(冬に曇りがちで風が強い)(静岡出身の方)△ ほどよく都会ほどよく田舎と思って来たが、実際に住んでみると田舎の部分のほうが多い。冬の寒さも秋田より厳しい。家の前まで除雪車が来る秋田と違い、除雪車が入らないので不便で、歩行者に不親切。雪かきする人もあまり見かけない(秋田市出身の方)△ 歩道の狭さ。ベビーカーを押して歩く幅が無い。自転車、バイク、路肩停車などで、買い物に行くにも緊張する。道路整備のギャップ大きい。次第に、狭い通り沿いの店を避けて車で大型店に乗り付けるようになる(盛岡市出身の方)○ 周りに公園があり子育てには良い環境。県外出身者多いので孤立せず仲良しになれ住みやすい(島根出身の方)△ 免許がないとどこにも行けない不便さ。地下鉄は高いし。車が必要になる(東京都出身の方)△ 自転車に乗る人の多いまち。車がないとどこに行くのも不便。アクセスが悪い(栗原市出身の方)〔お店〕△ 東京資本の店が増えてきたが、マニュアルのせいか接客で不快な思いはしない。でも地元のカラーがあってもいい。中央通りや一番町の地元店が減ったのが寂しい(静岡出身の方)△ 古い街がマンションに変わって、おばあちゃんたちは中心部のデパート地下へ、小さい子供のいるお母さんたちはマイカーで郊外のスーパーへ。地元商店街でなるべく買い物するが、いつ仕入れたか分からない商品を出され、やはりスーパーに行きたくなる。商店街がなくなる寂しさも感じるけれど(秋田市出身の方)△ 平気で長い時間待たせる(秋田市出身の方)△ 車で町中に出ると、土日は駐車場満杯、やっと入れても1500円から2000円の駐車料金。そのため、遠くても郊外の大型店に行くのが現実。(盛岡市出身の方)△ 仙台の百貨店で「こちら東京でとても売れていますヨ」と言われるのが嫌。もっと仙台のカラーを(東京都出身の方)△ ポイントカード、駐車場無料化などの覚悟でやらないと地元商店街はなくなるのでは。大資本に吸収されて何の色もない東京コピーの町になってしまう。誰しも便利で安いサービスを求めるが、真剣に考えないと存続は厳しい(栗原市出身の方)〔文化・医療・育児〕△ 文化的施設少ない。近くに子供だけで行ける図書館とか(静岡出身の方)△ 中心部のため移動図書館が来ない。一番近いメディアテークも駐車料金かかるから、バスで行く。バスも100円パックエリア外は歩く。秋田では買い物回数券や学生回数券があるが、仙台でも女性や子供の視点に立ったシステムを考えて欲しい(秋田市出身の方)△ 泉区には雨の日にも遊べる施設多いが町中にもあると良い(島根県出身の方)△ 医療相談施設を増やしてもらうと子供を持っても安心。東京では個人病院にも24時間電話FAXで相談できる窓口ある(東京都出身の方)△ 町中には託児・保育施設が少なく、キャンセル待ちと聞くので厳しい。安心して預けて働ければ経済活性化にもなる(栗原市出身の方)〔食文化〕△ 食べ物の当たりはずれが大きい。東北の他県はどの店に行っても美味しいのに(盛岡市出身の方)△ 魚屋で買った筋子が生臭い。店の人は「みなさん美味しいって言うよ」というが、向かいのおばあちゃんからは「仙台の味だからダメ。筋子やタラコはデパ地下で買うべき」とアドバイス。仙台の味だけに頑なにこだわり他を受け入れないところがある(秋田市出身の方)△ 他県から流入多いのに方言が残っているの点は良いが、見方を変えると排他的かも(盛岡市出身の方)△ 牛タン以外の仙台ならではのものがあるのかな(秋田市出身の方)△ 地元のものでも安くは提供しない。魚も捕れる割には高い。庶民の魚が比較的高くて美味しくない。静岡ならサバが安い(静岡出身の方)〔その他〕△ コンビニにATMがない△ 同じ名前のバス停が多くて困る。行き先が違うこと分かっていないとダメ。「何とか経由」の文字も小さい。また具体的な案内がない△ 働く能力の有るママが数多く眠っている。理由は子育てに父親の協力得られないことで、学童保育、それも家庭的・グループ的な雰囲気で、託児時間の融通が利くものがあると安心以上、本当に参考になりますよね。最後に、当ODAZUMA Journal編集長も県外からの転入者なので、1つだけ言わせて頂きます。△ 車のマナーが悪い。横断歩道で歩行者が立っていてもほぼ絶対に停車しない。先日、停車したら、後続の車が無理矢理追い越して、歩行者が危なかった。歩行者を守る気持ちがアダになった私、やっぱり田舎者なのでしょうか...(岩手県出身の方)
2005.11.08
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今日(11月3日)河北新報の記事にあり。左半身不自由 パキスタン出身男性 「市バスが乗車拒否」 150万円賠償請求 仙台市を提訴。2年前の一件だというから、提訴までの相談や対応でも相当に、もめたのだろう。事情がわからないから、どうこう論評はできない。一方的に役所側のサービス精神がなっていないとも、交通局よ頑張れとも、判断の基礎材料がない。ただ、一般論として次のようなことを思う。民間優良企業であれば、裁判までにはしないだろう。その前に手を結ぶ。大手企業で長年クレーム処理をして来た人の「正しいクレーム対応」なるものを雑誌で読んだことがある。カメラの使い方を客の側で間違えた場合でも、会社の経費で新品に取り替えてやる、などの対応をすべきだ、というような趣旨の記述があった。そうすれば客は長く企業を信頼してくれる、というのだ。そんなものかな、とは思う。しかし、全面的に民間企業の優良経営なるものを信奉して、役所にあてはめるべしという意見があるとすれば、反対である。民間企業や篤志の個人が、自らの経費で、社会的に「善い」あり方を求めていくことは、自由だし、もちろん尊敬も受けるべきだろう。ただ、役所は自己目的的に存在しているのではなく、国民の権利自由の擁護とサービス向上のためにあるので(社会的には大いなるワキ役)、役所自身が社会的に「いかに在るべきか」は住民の総意に見合うレベルにしなければならない。具体的にいうと、特定の人に手厚いサービスをすることの是非は、役所自身ではなく終局的には自治権の主体であり納税者(公営企業なら料金支払者)たる住民が決めるということだ。(いつも感じるのだが、私は、根っこの部分になると、英米流のコモンロー的発想ではなく、ドイツ国法学や公法理論的な発想(さほど勉強したとも言えないが。)をしがちである。民間と質的に全く異なる純粋に「公的なるもの」があるはず、と。例えば、知事多選禁止法(条例)の論議で、職業選択の自由に反するとの反対論があるが、知事は住民の権利自由を守るべき立場にこそあるのであって、憲法が自由を保障する「職業」とはそもそも言えない(他方で自治の沈滞防止という利益の方が重要だからこの点は合憲。もっとも団体自治の観点から国法と条例の関係問題の方が重要)、というのが私見である。)別な観点でいう。最近雑誌で読んだ某著名人のコラム。事情あって新幹線で進行方向に後ろ向きの座席に乗せられた人が、めまいなどを覚えたので、確か500万円をJRに求めて提訴したが、東京地裁(確か)は否定した。利用者は新幹線なら当然前向きに座ると思うはずで、かかる利益の重要性を地裁が理解していないので、おかしい判決だ。JRも500万円?くらいは払えばいいだろうに、という論旨だった。私の意見。JRが賠償するのは勝手だ。しかしもし公営企業でこれをやったら、住民は納得しますか。例えば地下鉄で座れなかった乗客は半額にする。もし住民の総意でそう思うのであれば、収支計算を示した上で、早速運送約款?を改定すべし。しかし、ルール改正論議ならともかく、特定の者に全体の費用で個別にルール外に便益を供することはあってはならない。(ちなみに某有名人の「後ろ向きも同額は不当」論議について、私個人は全然不当とは思わないが。乗れただけ良いと思うしかない。ま、ここは個人の価値判断だろうが。)もちろん、何もサービスが低レベルで良いとか、職員が威張っていて良いという意見ではない。運転士も交通局も相手が納得するまで説明に努めることは必要だ。交通局としての考え(ルール)を明確にして、最終的に納得できなれば訴訟は仕方がない、ということ。ここでルール外に手を結ぶようなことは、大手企業と違ってやるべきでないでしょう、ということだ。そして、ルールやサービス水準のありかたは、一般行政であれ公営企業であれ、収支の状況に関する情報を示しつつ住民や受益者の総意にあうように決めるべし。この前提には徹底した情報公開がなされることが必要である。バス運行のルールはどうか、収支はどうか、客からのクレームと対応状況はどうか。包み隠さず、こうやっています、と示すことが信頼になる。今回の一件で言えば、バス停が工事中だったから、正規のバス停とは離れた場所に停車したというが、本来のルールはどうなっているのか。仮停留所などの何らかのサインがあって然るべきなのだろう。道路や沿線の工事があるときは道路管理者を通じて何らかの連絡がバス事業者にはないのだろうか。また、調べていないが、おそらくバス停以外で停車するのはルールに反するのだろう。けれど結構やっているようだ。形骸化しているのであれば、正規化することが、運転士にとっても安心だと思う。ルールがふらついたり形骸化していては、いけない。対応も乱れるし、なにより住民・受益者に対して説明が付かない。例えば、バスに関するトラブルやクレームの内容と対応・経費を毎月1回公表し、さらに、現行のルール(利用約款、料金規定、運送事業上のルールなど)をこう改善しました、とか示すようなシステムにすれば、信頼度も上がると考える。(公営企業のみならず、行政何でも言えることだろうが。教育や警察もネ。)という訳で、今回の一件も裁判になるのでしたら、市バス側の「ルール」と適正で公正なサービス、願わくは情報公開を通じた公正と信頼の維持ということを考えて頂きたいと思います。これを飛び越した訴えならば、原告の人には受忍してもらうしかない。よく裁判所は和解を勧告するでしょうが、私は上記の基本思想から、役所の場合は、ルールを明確に再確認すべきで、個別柔軟な処理は反対です。仮に応じるなら、内容を住民・受益者に積極的に示して欲しい。最後に気になる点を1つ。外国出身男性だということが見出しに出ているけれど、ご本人は29年前から仙台に住み日本国籍も取得しているというから、ちょっと「煽り」に過ぎる見出しじゃないかと思う。もっとも本人が外国人・障害者差別で乗車を拒んだ、と取材に対して話したのだとは思われるが。それでも敢えて言えば、提訴者の主張はこうだ(カギ括弧)、というのならともかく、客観的な属性として外国出身と書き出しているのは、あまり意味がない、というより誘導的だ。れっきとした日本人で仙台人なのだから(仙台人としては私よりずっと先輩です)。おそらく日本語コミュニケーションも十分なはずだから、運転手としても、外国人だからどうという対応ではなかったと思われる。見出しにしてまで騒ぎ立てるべきでなく、記事の中身で客観的に記せばいい、と思うのだが。私はこういう点には、普通の人以上と思うが、敏感である。報道としてはこんなものだろうが、仙台文化の排外性を裏付けるような感覚、また当地最大の新聞メディアの洗練度についていつもながらに疑問をおぼえるから、だ。
2005.11.03
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堺市が来春政令指定都市になる政令が先月閣議決定・公布されました。新潟市も日本海側初指定を目指していると聞いていましたが、遅れましたか。 そもそも現行の指定都市制度は妥協の産物。府県からの独立を定める特別市制度が府県の反発で画餅に終わったので、中二階的な制度として導入されたものです。 法令によって指定都市が道府県に代わって担う事務(その意味で道府県と同格・並列。「移譲事務」と呼ばれる)が定められています。中には不合意・不明確で紛争のもとになる規定や運用もありますが(義務教育教職員の任命権と給与負担、また都市計画関係助成など典型例。関係省庁の無理解な運用も問題)、まあこれらは良しとしましょう。大まかに言えば、道府県が調整以上の立場に立つことがないから、誰がやるやらないの問題がさほど深刻になりません。 問題は、例えば公立高校や養護学校。これは厳密には指定都市の問題ではないのですが(指定都市でなくとも設立できる。その点石巻市は立派!)、大都市ほど問題が顕在化します。都市側は設置が義務ではないので、理論上は一切設置しないことも可能です。仙台市の場合は養護学校は鶴谷1校だけ、盲学校聾学校はありません。市立大学・短大がないのは実は指定都市では珍しい方です。 大学とはともかくとして、公立高校や養護学校は都市が設けなければ道府県が対応しなければならない構図なので、上記の「同格・並列」とは異なります。「任意事務」と呼ばれます。 このような「任意事務」は、場合によって大都市と道府県の調整課題になります。 学校はまだ良い方です。無駄に作ることがあまりないから(もっとも仙台市内の学校だって県立市立通じて共学化・統合進めるべきとも思うが、それは別論に)。 より深刻なのは、いわゆる公の施設、それもグレードの高い施設とか、大規模プロジェクトです。大都市の行うこれら事業は当然に又は結果的に郡部の利用者を伴います。その意味で、道府県の行う事業と差がなく、そもそもどちらが事業主体になるか截然と決まるものではありません。だから時として争いとなります。 そもそも、大都市の実体は、その行政区域だけで成立しているわけではありません。ヒンターの郡部があってこそ。物流も労働も市税収入も、郡部あっての拠点都市仙台なわけです。なのでそもそも、コレは仙台市、コレは宮城県と截然と分けられない面があります。特に宮城県はそもそも「仙台藩」だったもので、仙台一極の地域システム、端的に言えば「仙台市(縁辺を含む)=宮城県」です。もっと言えば、二重行政で混乱するくらいなら、仙台市と宮城県がいっそタテの自治体合併をして統一的に意思決定する方が合理的とさえ思います。 まあ空想はやめて、現実には事務組合や協議会を組織することは可能でしょう(確か福岡県で県と指定都市の事務組合があったように記憶)。組織でなくても、個別によく話し合って協定を結んでいくことはもっと可能です(賛否あるが「仙台文学館」「仙台港背後地都市整備事業」などの先例あり)。 ただ、首長が別個しかも公選だから、どうしても難しいところです。バブルの頃は「こっちが作る」、今時ですと「そっちでやれ」、てな具合で... 今サブトラックで話題の宮城野原総合運動公園。直接はサブトラックをめぐる陳情攻勢です。本日(11月1日)の河北新報朝刊では、「仙台市が存続を断念した」という記事がありますが、「断念した」という他動詞の目的語は一体何なのか考えると(存続を断念というがそもそも存続させる主体は仙台市ではない)、曖昧さが浮き彫りになると思うのですが。私はこの問題は最初から訳のわからない構図だと思っていました。 いずれも県の施設だから県が決めることと言えばそれまでのこと。ただし、そう言わないで仙台市も積極的に関わって議論すべきだと、私は思っているのですが、どうも仙台市のこれまでの対応は、議論を混乱させているだけです。 つまり、本来広域的視点で考えるべき拠点的施設整備や大規模プロジェクトの議論に、時折、行政区域としての仙台市(民)の都合だけの論理を持ち込んで、議論を混乱させてしまうということです。 サブトラック問題で言えば、なくなったら仙台市民が困る?、と。それはそうでしょう。誰でも反対して当然。でもそれはどこの自治体でもそう。広域的施設の議論とは全く関係のない話です。 他方で、県全体のことは仙台市の知った事じゃない?。それもそうかも知れない。でも、そう言うならやっぱり県の判断をまずは認めなければならない。知事も公選なのだから。 そうじゃなくて、県全体を視野に考えて議論しましょう。でないと、どこまで行っても議論噛み合わずです。ああ話を聞いてくれない、とか不満を言うけれど、客観的には極めて当然でしょう。 また、最近よくある論調ですが、仙台市民も県民だ、俺たちも県税払っている、とか、市議会で馬鹿な議論が始まる。もう目も当てられません。(ちなみに仙台市選出の県議会議員も政治的立場上からか応援する、というより、ハッキリ言って使われているようです。この人たちの存在意義って何、を自ら体現しています。(更にちなみに言うと、「行政権能差を考慮して指定都市区域の道府県議員の定数を他区域の2分の1と定める地方自治法改正案(想定)の憲法上の問題を論ぜよ」、という問題を考えたことがあります。平等原則違反で違憲とするのがオーソドックスな解答でしょうが。脇道にそれました。)) これでは何にも議論が進まないわけです。本当に解決するには、広域的議論、つまり実体としての仙台市(郡部で成り立つ仙台市)の視野での議論をするしかないのです。県民だ、県税払っているんだ、というなら、なおさらなのですが。 県の側としては、この問題の奥には、利府の宮城県総合運動公園(グランディ21)と宮城野原総合運動公園の重複の問題があるのでしょう。ならば、同一平面で議論しなければなりません。 県だ市だではなくて、同じ視野で。それを県の責任だと言うなら、市の責任放棄になってしまいます。本当はそれでいい、陳情の範疇を出る気はもともとないんじゃないの、とまで勘ぐってしまう。有るモノ無くすなという陳情なら誰しも反対しないが、本気で議論したら、新しい施設(利府)で競技させたい、という声だってあるはずです。 宮城野原をどうするのか、仙台市にも構想がある、必要なら負担もすると言うのですから、それを示して議論進めるべきではないのか。確かに都市中央部の貴重な公園として意義は大きいとは思う。でも、ところで市民はその構想とやらの中身を知らされていませんよ。 東北の拠点作りのため果敢に指定都市を目指した石井市長が聞いたら、泣くに泣けないでしょう。(ゼネコン事件やハコモノ市長と悪いイメージですが、指定都市実現は間違いなく石井市長と後押しした山本知事の功績。) 制度論に戻りますが、全国で2千万人が、このような「任意事務」の争いの起こりがちな政令指定都市制度の上に暮らしていることになる。以前は私は制度論でスッキリ決めるべき、つまり旧特別市のような制度にしてしまうのが良いと思っていました。二重行政の弊害というなら、面倒だからスッキリさせよ、と。道州制議論の際に盛り込むとか。 しかし、現在は少々違います。制度論より実質的調整を重んじるしかないと思っています。かりに特別市にすれば、一層調整が難しくなります。もちろんリードすべきは道府県ですが、大都市側も主体的に広域的視点で関わるべきだと思っています。 大都市行政は、難しいです。本当に。制度デザインも生半可には決められず、地方制度調査会にも抜本的な提言は期待できないでしょう。永遠の課題、か。 でも、制度論議は休めても行政は休めません。忘れてはいけないのは、自治体は二重でも市民は同じです。その辺を忘れずに、先輩指定都市の仙台市も、変な論理の使い分けしないで欲しいと思うのです。
2005.11.01
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今日(12日)の帰りに車中のラジオで聞きました。全国のコンビニ大手3社(711、ローソン、ファミマ)はいずれも売上げを伸ばしたが、これは店舗数増加によるもの。ドラッグストアや100円ショップに押されて、1店あたりの収益は落ちている、ということです。なるほど、庶民の経済感覚に合っていると思いました。私が大学生として仙台に移住したのは市電が廃止された数年後。まだ勾当台に141ビルもなく、道路も変則でした。仙台駅を降りると東北大飯店があったなあ... それはともかく、コンビニは、当時は確か全国大手は仙台には来ていなかったと思います。その代わりに地元のチェーンまたは独立店舗のコンビニがありました。(ちょっとアヤフヤな記憶なのですが)、チェーン店で「サンチェーン」、また「コスモス」というのもあったと思いますが、その後で「ニコマート」(緑のスペードのようなマーク?)になったように記憶していますが。仙台育ちの妻ですが、「コスモス」も「ニコマート」も知らないと言います。何でだろう。誰か教えていただけないでしょうか!前後はあやふやですが、他には「パンプキン」というのもあったはず。単独店か。米ヶ袋の角にあったように記憶。「サンクス」は少し後でしょうか。今の市内はサンクスが強いように思います。「セブンイレブン」は大学2年くらい時に初めて仙台に出店したと思います。破竹の勢いであっちこっちにできました。当時私は、八木山の独立コンビニ(1店だけ)で早朝バイトもしましたが(時給400円だったか)、そこだけは繁盛していませんでした。「ローソン」は社会人になってから、地下鉄開通の頃からだったと思います。「ファミリーマート」はもっと後、平成になってからでしょうか。昭和60年代、石巻市に2年間住んでいましたが、知る人ぞ知る「エイトテン」は確かにありましたね。でも住んでいるうちに、急速になくなって、大手に取って代わったように思います。ああ懐かしい。当時は、コンビニ、特に大手コンビニ店が廃業するなんて考えもしませんでしたが、今や仙台市内でもコンビニだった店が、オフィスに変わったり、入居者もなく空き店舗のままだったり。時代も変わるものです。いかにもセブンイレブンだったな、という「空き店舗」を結構見かけます。あの頃は、時代の先端だったのに、今となっては何となく懐かしくなるもので、不思議。地元系チェーンや単独店舗が懐かしいです。
2005.10.12
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26日仙台市議会の決算審査特別委員会で、仙台市企画局は、市営の公認競技場は必要と認識しているが財政上の問題で当面は宮城陸上競技場を活用するのが望ましい、との見解を示したとのことです(27日河北新報記事)。 前にも書きましたが、この問題に改めて一言。 今ある施設を無くされては困るというのは、単純にわかる話。しかし、宮城県は方針として県の拠点的陸上競技場は利府に建設したのだから、それを前提とした議論として進めなければならないと思います。つまり、県に2つの陸上競技場が必要なのか、を県民全体の利便の視点、県財政の視点、陸上競技者の視点、などから議論すべきことということです。(サブトラックとメイントラックと問題が混同していますが、県はメイントラックもいずれは廃止するとし、仙台市もこれを前提に動いていると思われるので、本稿ではメイントラックも視野に入れています。) まず、県民の視点です。県北部の人たちや、仙台市でも泉区や岩切の人たちは、かえって利府の方が便利が良いと言えます。距離だけで言えば、県南部の人たちも仙台市と一緒に廃止反対というべきですが、声は聞きません。たしかにグランディ21は岩切駅や利府駅から歩いては行けないという欠点がありますが、現実問題として生徒や父兄がバスや車で移動するとすれば、駐車場を確保できる方が良いとも言えます。さらには、陸上以外の競技(体育館、プール、テニスなど)と同時開催する場合や、合宿所があること(総合性)も考慮すべきです。 次に、県財政の視点です。そもそも県に2つの拠点的競技場は必要だとは言えないでしょうから、先生や警察官の給料もカットする事態を考えれば、ハッキリ言って宮城陸上競技場は廃止するのが、合理的です。 最後に、競技者にとってはどうなのでしょうか。生徒にとってもグランディの方がおそらく良いのではないか。施設の規模や芝の具合などを考えれば、グランディの方が喜ばれるのではないか。この辺、専門でないのですが。良い環境で好記録をめざし集中することこそ一番大事でないでしょうか。 なお、県自身が方針をどれだけ説明する努力を払ったかの点も、もちろん重要な問題になると思います。そもそも利府町に建設する際に、仙台市をはじめ各界各層に十分な理解を得たか、という問題は重要です。また、仙台市と県の連絡不十分とかいう点も指摘されます。これももちろん重要です。 ただし、(サブ)トラック問題をちゃんと解決しようと言う目で考えたときに、問題の所在地はそこではないのです。県の耳を傾けない姿勢が原因だと言っても、そうした姿勢が事実だとしても、この問題の解決になりません。なぜなら、ともかくも県の出している方針の内容そのものに直結した話だからです。 従って、ハッキリ言って議論がかみ合わないのです。少々悪く言いますが、反射的利益にしがみつく構図でしかないのです。いま現にある施設がなくなるのは困る、というだけの議論なら、シンプルな話で皆そうだそうだ、というけれど、そんな問題ではないのです。市民としても、競技場が仙台市にも独自に有り続けることの必要性、言い換えればグランディではどうしてもダメな理由、市が別に作るか或いは県から譲受する場合の財政見通し、などの議論を欲しているのではないでしょうか。 こう考えてくると、やはり仙台市は、せっかく今ある施設を廃止されたくない、ということに尽きるのだと思います。そして、仙台市域内に公認競技場がない、もちろん市設置では持っていない、という事情もあって、何としても残して欲しいという雰囲気になっているのでしょう。かといって本質的議論を正面から展開するまでには、財政見通しなどを含めて市民に説明できるほどの整理はできていないのでしょう。市民が困るという心情論でシンプルに何とか引き留めたい、その金がかかる議論は避けたい、議論されても困る、というのが本音ではないでしょうか。 それはそれで恥ずかしい話ではありません。引き留めに成功すれば、市の財政は痛まないのですから、戦略としては上策と言えなくもありません。 ただ、それだけで進めても、解決しないのです。一時は楽天球団の拡張工事の建築許可申請の不受理というカードを切りましたが、かえって市民の反対を浴びました。これは戦略上失敗でした(前に書きました)。 仙台市として管理権を受けることを視野に入れていると言う報道もありました。仙台市としても無いものねだりではなく具体的に提案する用意がある、という構えを見せたのでしょう。ならばどれだけの経費を覚悟しているのか。協議すれば県は有償譲渡を言うでしょう。そのような具体的な説明も市民にとって必要です。さらには、貨物駅も含めた仙台市としての宮城野原全体の構想をどう考えているのか、市民には全くわかりません。更に言えば、市民も県民ですから、県財政に無関心ではいられず訳はなく、この意味でも本質の議論は不可避なのです。 無くなっては困る、県に要望しています、だけの議論は行政として極めて無責任ではないか、と思っています。本質的議論にどこまで仙台市が切り込むつもりがあるのか、市議会でも、市自身の問題と捉えてまっとうな議論があって欲しいと思います。
2005.09.27
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楽天をめぐるホットな話題として、2軍施設は昨日書きました。もう1つが、これです。 今日(16日)の河北新報朝刊県内面には「仙台市は休戦ムード、県の廃止方針変わらず、新知事誕生後が好機」などと書かれている。 ちょっと長いですが、この問題を新聞報道や議会での質疑答弁などから、私なりに整理すると次のようになります。------------1 昨年、楽天のプロ野球パリーグ参加に際して、楽天は自らの費用約30億円で県営宮城球場を改修、本年4月1日の本拠地開幕にこぎ着けた。楽天側は05年のシーズンオフにはさらに第二期工事を行うことで宮城県と合意していた。(なおこの4月1日の試合は一番に起用された不振磯部のシーズン初ヒットが先制ホームラン、当時の主砲ロペスにも一発、投げては岩隈で快勝の試合だった。国分町のM中華料理店で見ていました。東北に球春を呼ぶ歴史的一日でしたね。)2 本年7月下旬になって、宮城県は楽天球団にフルスタ隣接のテニスコート用地を室内練習場用地として有償貸与し、テニスコートは陸上競技場のサブトラック(条例上の位置づけを失っているので、正確には旧サブトラック)に移設する方針を決めた。球団側は2006年10月までの期限で東仙台球場施設を使用しているが、期限後は未定のため、フルスタ隣接地を利用したいとして県に用地確保を要請していたもの。 これを受け、仙台市は消滅するサブトラック機能の維持を県に要請。市内の小中学校が陸上記録会や中総体で旧サブトラックを利用している実態を踏まえて必要だ、というもの。陸協などからも不満の声が上がる。(以上、7月23日河北新報、7月26日日本経済新聞、同日河北新報) 仙台市は、サブトラック機能の存続を強く求める方針。県とのトップ級会談による決着も視野に入れ、英断を求める構え。市の内部には、サブトラックに続き陸上競技場も廃止されるのではないかとの危機感があり、移転費を9月補正予算に計上予定の県に対し、何とか要望活動で実行をストップさせたい考え。(以上、8月10日河北新報)3 8月18日楽天野球団は本拠地フルスタ宮城の改修費が参入時の計画の倍にあたる60億円に達するとの見通しを表明。計画では、フルスタ隣接地に大規模な室内練習場を設置、スタジアム改修に際しては展望レストラン、クラブシートなども設け、1期工事の30億円弱と同規模の費用を投じる計画。(8月19日日本経済新聞) 8月30日、県と楽天球団は用地貸与の協定。これに先立ち8月26日に県は市に説明し一定の理解を得たとしている。4 9月2日、仙台市は楽天のフルスタ拡張工事の建築許可申請を受理しなかった。理由は、室内練習場建設に伴い旧サブトラックが廃止される問題が解決されていない、というもの。しかし、この市の対応に市民から批判も多かった。 9月9日、市は桜井副市長(助役)が加藤副知事と会談、サブトラック機能の存続を求める申入書を提出した。テニスコート移転先をサブトラックでなく近隣市有地3カ所を提供すること、など5項目だったが、副知事は、利府町の宮城スタジアムの施設との重複や楽天との合意などを理由に、移転先についてはサブトラック以外にないと、市の要請を拒否。ただし、サブトラック機能存続のための代替施設の検討、また宮城野原公園の将来構想についての協議再開については受け入れた。この将来構想とは、昨年まで県・市政策課題協議会で話題にされたが中断していたもの。 仙台市は、建築許可申請について不受理の方針を転換し、14日に申請を受理。改修工事は予定通り9月下旬に着工の見通し。市は、状況変化があったと判断。(9月10日河北新報)5 仙台市議会では、宮城野原公園総合運動場について施設の市移管も含め県と話し合っていく、と市の方針が強調された(9月13日桜井副市長答弁)。また、テニスコートを公園内の宮城自転車競技場に移転する可能性も視野に県と協議する(14日企画局長答弁)。 他方で、旧サブトラック廃止に反対する立場から、仙台市最大のスポーツ振興団体が14日要望書を県に提出。県はテニスコート移転先は旧サブトラックとの方針を改めて強調。(9月15日河北新報) そして、冒頭の本日(9月16日)付け「休戦ムード」報道になる。------------ 宮城県の姿勢の背景には、利府に総合運動公園を建設したこととの関連で、陸上競技場(本トラック)はいずれ廃止するという方針があり、これはどうしても譲れないものとみられる。 他方で、県は陸上競技場の公認申請を来年度行うことで少なくとも今後5年間は陸上競技場を公認施設として利用できるようにすると表明しており、また宮城野原全体の構想について協議に応じるとすることで、建築許可申請の不受理というカードを切ってしまった仙台市に対し、方針変換の環境作りに一定の配慮をみせた形だ。いわば大人の対応と言えようか。 これに対して仙台市役所の対応はどうだろうか。 仙台市の対応の基本は、節目節目に市民世論に訴えるという手法に見える。県と楽天の協定の前、また県議会・市議会の前に、市民世論に「火を付ける」戦略と言えるのではないだろうか。宮城野原の施設管理権は県にあるから、それが精一杯だという事情も確かにあろう。そして、権限という意味で唯一のリソースであった「建築許可権」を振りかざして、不受理という選択をした、というより、してしまった。これは戦略的に仙台市役所にとってマイナスだったと思う。一定程度の抵抗をしてソフトに(非公然と)誘導するという範疇を越えて、刀を抜いてしまったからである。簡単に言えば、楽天イーグルスの定着発展よりも「サブトラック」の価値が高い、と判定した自らの公然たる行政姿勢に、今度は自分が縛られたからである。 もっとも、入り口の不受理だからまだ軌道修正ができた。受理した上で実体審理を長引かせて工事を遅らせたり、不許可としたのでは、もっと深みにはまってしまうところだった。ここはある程度計算していたのかも知れない。しかし、不受理でも、市民の非難は市役所幹部の予想以上だっただろう。 ところで、この仙台市のソフトな誘導戦略は、これまでも随分多用しているように思われる。そういう意味ではパブリシティが上手い。市議会や県議会の前に陳情攻勢や新聞記事を出して、有利な答弁を引き出す。特に県議会では仙台市選出県議はどうしてもレゾン・デートルをかけて、市民の立場に立って県執行部に迫ろうとするから、動かす価値がある。 今日の朝刊の記事などは、知事選候補者に意識させようという意図かとも思われる。仙台市のPTA票は怖いよ、ということだ。 しかし、県からすれば、仙台市さん、非公然手法もいいけどこの問題は正々堂々と議論してもらわないと困るよ、ということではないだろうか。 はっきり言えば、「仙台市民が困った、仙台市役所は熱心に要望、でも相手(この場合県)が動かないから市民が困っているのよ」という図式つくりは、もうやめてくれ。正々堂々とやるべきだという意味は、互いに財政難だし(特に県職員は先生や警察官まで給与カットしているのだ)、無理なことをいうのでなく、何ができるか詰めるべきだ、 今回の一連の市役所の対応は、戦略を過ったと思う。先ほどの不受理もだが、得意のソフト戦略にしても、戦略性があるようで実は長期的視点ないし市民的利益の視点に欠ける対応だと思う。挙げ句の果ては、知事選の争点にさせようとか、何とも人頼みで、本当に市民の立場を考えた対応とは思えず、市民もちょっとウンザリという感じではないか。 市長交代期特有の、リーダーシップがないままに、組織的出力として従来の手法が出てしまった、というところか。不受理という選択も幹部間で十分練った対応ではないように思う。 なんだか、学生時代の行政学や政治過程論のレポートのようになってしまった。意思決定モデルを用いて分析してみたくもなるような話だ。(このへん、得意?分野です。) 問題の根本は宮城野原公園の在り方をどうするか、真剣に議論してきていないことにある、といえる。県としては、県総合運動公園(利府町)を建設したという大きな方向はあるものの、宮城野原をどうするか、施設管理者として主体的に調整していく立場にある。 また、仙台市はまちづくりの責任をもつ立場から、スポーツ施設についての考え、宮城野原の将来構想、事業主体、財政負担など自ら考えて市民に提示すべきではないか。市は、貨物駅のJR宮城野駅の跡地活用も視野に入れているという報道も以前にあった。そもそも、宮城野原の将来構想を県・市政策課題研究会で議論しようと動いたのは仙台市側だと聞いている。 市民の長期的利益を考えて欲しい。また、もっと真摯な議論を深めたい。例えば、市教委やPTAが困るというが、実態はいかほどなのか。サブトラック機能としてウォームアップ機能が必要らしいが、それなら公園内の競技場周辺のスペースを使うことで何とかなると体育関係者と調整している、と今日の県議会では答弁されているそうだ(報道)。 体育大会はほとんどの場合バスや車で移動すると思うのだが、とすれば、グランディ21(県総合運動公園)も遠いわけではない。特に北部の住民は利府の方が時間的に近い。また施設の水準を考えれば、どっちが子供のためなのか、という点もある。 だから、困る困るだけではなく、どれだけ困っていて、どう対応方法があるかないか、整理するのが、市民の欲しているところなのだ。 あるいは、県から管理権を受けるとかも提案されているが、具体的検討はされていないだろう。県としては管理権だけでなく、施設の譲渡(当然有償)なら応じるという可能性もあるから、市は財源にも責任を持たねばならない。 いま仙台市役所は、みずから主体的に市民に考え方を示す説明責任があると思う。
2005.09.16
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去る8月16日の宮城沖地震(宮城県では「8.16宮城地震」と呼称)では、マグニチュード7.2、最大震度6弱という規模の割には、幸いにして犠牲者が出なかった。しかしながら、天井板がほとんど崩落した仙台市泉区の「スポパーク松森」では、約30名の負傷者を出した。7月オープンの最新施設で、プール部分の天井がほとんど落ちたという意外性も手伝って、テレビ映像や翌日の新聞記事の写真は、どれを見てもこの施設だった。 かくいう私も7月に家族で利用したことがある。プール自体は他にない特徴があるとは感じなかったが、プールの後のマッサージチェア、ラウンジでの休憩、ちょっとしたパソコン利用など、結構おもしろい施設だと感じた。仙台市初のPFI導入施設ということで、良い面が出ているのかな、と何とはなしに感じていた。 そこにきて、今回の事故である。事故の意外性と、犠牲者がなかったことにホッとするのだが、それ以上に今の今まで疑問を持っているのは、事故についての仙台市の対応である。一言で言えば、「市には責任はない。PFIで市の施設ではないのだから。」ということだ。事故直後から一貫して姿勢を協調しているように感じる。 しかし、これはないだろう。市民は置き去りだ。以下に、私見を整理してみたい。 確かに、PFI方式とは、設計、建設や運営を特定目的会社(固有名詞で言えば松森PFI)に任せて、行政の硬直的な縛りのない世界で、サービス向上と効率性とをねらう趣旨だ。導入が進んでいる「公の施設の指定管理者制度」とも根っこは共通である。行政の方向として適当だと思う。 しかし、PFIも、あくまで市の施設であることに変わりはない。PFIとは施設の整備運営の代替手法に過ぎないのだ。PFIを導入したからといって、その施設が市の施設でなくなる、というものではない。市内部の実務担当者は、PFIとは行政が関与しないことにこそ意味があるのだ、という論を主張するようだが、そんな定義論や法律上の位置づけの議論ではない。施設設置の必要性などはそもそも市が検討したはずで、手法としてPFIというだけ。れっきとした市の施設である。 私の主張をわかりやすくするために、仮に、PFIを導入した小学校で事故が起きたと考えてみよう。もちろん、現行法制上は、公立学校にPFIを導入するとはいっても、運営までは認められないのだろうから(詳細は不勉強)、建設段階ということになろう。市内の学校ないし学区の適正配置をはじめ、学校の設置について市と市教委が責任をもつのは、従来の学校と変わるところはないはず。ただ、建設手法として違いがあるだけ。中に入る児童や教職員の安全確保に違いはないし、これに対する市の責任も違いはない。「償還が終わるまでは市に所有権はないですから...」は通らない。 どうも、今回の市の対応は、建築部門あるいは環境部門の実務者レベルの意見がそのまま上層部あるいは広報セクションに出てしまった、という印象を受けている。事故直後から、さっそく予防線を張ったような形だ。その後8月22日に初登庁した梅原新市長は、「市の行政責任を感じる。きちんとした対応をしたい」と、市としての責任を意識しているようにも思える。けれども、最近の市の対応は、市と会社との間の契約不履行だから、償還費用を補正予算で相当分減額することを検討する、とか。どうも責任の内容の議論よりも、とにかく「責任はない」ことを強調している感じ。契約不履行の論議などは、むしろ「市役所も被害者」というトーンを出したいようにも勘ぐる。 これは、自分に非はない、という実務者レベルの立場なり見解なりがそのまま表に出てしまっていると思う。たしかに建築法規上や契約上は、そうなのかも知れない。行き過ぎた関与は民間の独自性を失わせると言うことも解る。建築部門からすれば、「PFI施設までいちいち検査せよとは言われていないよ」、環境部門からすれば、「PFIでプールを作ると決めたのは自分たちではない、そもそも環境局所管というのもゴミ焼却場との関係で決まったのであって、スポーツ施設については管理ノウハウもない」(このへんは筆者も事実を調べず予想で申し訳ないですが)、という感じか。 しかし、事の本質はそこではないのだ。一施設をめぐる実務者の庁内的立場が問題ではない、公共施設についての市として市民に向き合う姿勢そのものが問われているのだ。実務レベルの議論がイノ一番に出てくるような状況でいいのだろうか。どこまで確認すべきか、確認できたか、の議論とか、契約不履行に当たるかどうか、とか、それらの議論はもちろん大事で、究明すべきではある。ハード面で言えば会社側に非があるのは当然だ。 けれども、もっと重要なことは、こうした議論だけが初動対応時期から強調されてしまって、市の施設であるということがスッポリ置き去り(というより意識的に無視)にされているという市役所の体制なのではないか。市民の常識というモノサシを持てば、こういうゆがんだ対応にはならないと思うのだが。今回はいいとしても、仮に大惨事になっていれば看過できない「人災を」生んだかも知れない。現に、2年前の地震でも天井落下が起きた根白石と今泉の各温水プールで、今回もけが人がないものの、落下が生じている。これら全体をみれば、「市の施設」についての冷静で常識的な対応が求められている。PFIだから、という抗弁は松森だけの一時しのぎにしかならないのである。 実務的に言えば、このことに気がつく(はずの)上層部がキッチリと統率すべきである。末端職員レベルの「言い訳」が市の公式見解になるようでは困る。担当職員だって、仕事の立場上はそう思っても、一市民として果たしてどう思っているだろうか。 市では今週に対策検討委員会を設置するという(8月27日付け読売県内版)。責任回避の印象が強かった初動対応だったが、新市長発言も受けて冷静に常識的になって欲しい。そして、松森PFIにどう指導するか、という観点だけではなく、望むらくは、組織内の実務的抗弁が表出するような残念な体制についても検証を行って欲しい。 PFIの制度に問題があるとする仙台市の現在の姿勢は、一時的な組織防衛には奏功しそうにも見えるが、「PFI導入」イコール「安全性保障されず」という無益な定式を歴史に残してしまい、PFIの正しい議論をゆがめ、結局はPFI導入によって市政を活性化するという目標も自ら失ってしまうのではないだろうか。(この件では、私の仙台市政に対する想いと期待が先行して、事実関係を確認しないで記述している部分もあります。事実認識が誤っているなどの場合、改めて記します。)
2005.08.29
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