全538件 (538件中 251-300件目)
この報には驚いた。昨夜は首都圏にいてTVの全国ニュースで見たが、知人の男2人が逮捕されたが、逮捕当日も被害者宅に出入りしていたとか。現段階では犯人と断定できないし、もっと気を付けるべきは、この段階はすべて警察サイドが管理した情報に基づく報道だろうから、真に受けてはいけない。容疑を認めている、などという報道はその典型だが、それにしても警察には真相解明をしっかりお願いしたい。4月の事件だったが、とりあえず被疑者逮捕という段階に漕ぎ着けたことは良かった。マスコミには、単なる大衆受けに堕さないこと、報道の真実さと公正さを、いつもながら願う。大衆ウケのネタ探しをするくらいなら、警察の対応を検証する角度で記事を集める方が、公共の電波を使って貴重な時間を費やす以上は(TVの場合)、よほど報道の意義に適うはずだが。ともかく、起訴や公判で明かされる真実を待ちたい。
2010.08.09
コメント(0)
仙台は今年初の猛暑日。何年か前に決められたもので、35度以上をいうコトバだが、大暑の暦通りに猛暑日となった。仙台はちょうど35度。最高は、名取の35.8度だった。熱中症で倒れる方が相次いでいる。今後1週間も暑いという。
2010.07.23
コメント(0)
伊達政宗は実に筆まめで、自筆の手紙は現存するだけで千通以上。秀吉で約80通、家康は25通である。当時の武将は右筆に代筆させるのが一般的で、自筆は家族や重臣などに宛てたものだが、秀吉は仮名書きが多く、心情をストレートに表現するものが多い。家康は漢字仮名混じりで、要点のみを記して無駄がない。それぞれ人柄を十分表している。これに対して政宗は、身内のみならず広い相手に自筆の手紙を書いた。表現も、大胆で繊細緻密。相手によって変幻自在。具体的で面白い。■読んだ本:佐藤憲一『伊達政宗の手紙』洋泉社(MC新書042)、2010年大志を抱いて南奥を平定し、戦国の晩期にあって秀吉や家康の覇権をかいくぐろうとする。自筆の手紙にかいま見える青年武将の本音や気遣いなど、実に面白い。後年は仙台城下の経営に心を砕いたが、3万人ともいわれる家臣を賄うには62万石も十分ではない。荒地開墾のため、荒れ地を家臣に与え耕作させる地方知行制に転換する。そして、荒れ地の知行は通常の2倍にする。このような細かいことも自ら指示しなければ気が済まないのが政宗の性格だったようだ。(茂庭石見綱元あて手紙)新田開発と河川整備を進め、石巻港から江戸に米を供給したのも、江戸の人口増加に着目した政宗の炯眼である。はじめは家臣等の余剰米が中心だが、次第に藩が農民から独占的に買い集める買米制に移行し、量も増加。江戸時代中期には江戸廻米高が年20万石にのぼり、仙台米が江戸の相場を支配するまでになる。自ら政策立案に知恵を絞り陣頭指揮に奮闘する政宗の苦労である。
2010.05.30
コメント(0)
おみやげに北上京だんごのずんだ大福をもらい、早速子どもたちと食べた。袋を眺めていて気がついたのだが、法務省の人権啓発のキャラクターの人権まもる君に雰囲気が似ている。法務省のサイトによると、正しくは「人権イメージキャラクター 人KENまもる君・人KENあゆみちゃん」なのだそうだ。そして、やなせたかしさんの作と説明がある。ということは...改めて北上京だんごのサイトを見ると、キャラクターのわきに、やなせたかしの印。そして、サイト内には「ずんだ」と「もちこ」の名前も紹介され、さらに、やなせたかしさんの作詞作曲「ずんだのワルツ」のCDまであるそうだ。おみやげの袋にも、よくみると、やなせさんの印がはっきり記されている。やなせさんのお墨付きのうまさ。郷土の味。■関連する過去の記事 北上京だんご 山形に進出(08年8月28日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日)(お昼の店が北上京だんご本店の近くでしたので)
2010.05.26
コメント(0)
泉区の住宅街で高校教員が亡くなった事件。昨日は、北仙台で男性が殺害されたようだ。泉区の事件は、進展の報道がない。北仙台の件は、先輩後輩の間柄の泉区の男性が血だらけで帰宅したことから、この人が逮捕される予定という報道だ。身近で、こんな事件が続く。
2010.05.19
コメント(0)
連休まっただ中。快晴のこの日。どこでも渋滞は必定とみて、秘策を繰り出した。七北田川添いの仙台亘理自転車道のサイクリングである。大きい車に、自転車3台をギリギリ詰め込んで、子ども達2人と出発。近くの自転車屋さんでまずは空気入れ。七北田川近くの駐車場から、自転車でイザ出発。東北新幹線をくぐってやや下流の七北田川緑地公園で、まずは休憩。宮城野大橋、福田町とどんどん下流へ。福室の自転車専用橋を越えると、見事なシダレザクラ。河の流れも広くなって、いよいよ一直線に海をめざす。下の子のペースに合わせるため、休みながらのサイクリング。帰りは、福田町郵便局からチョイと町に入り、モリヤスーパーでお客さんに教えてもらった年夜飯さんで、昼ご飯。私の下の子は、ラーメンで、上の子は天津飯。自転車道は、基本的に専用道で、交差も立体。信号も渋滞も関係なし。スイスイと楽しいレジャーだ。連休は、これに限る。良い一日だった。子ども達も、いつも車で移動するばかりではなく、自分の力で進むこと。そして、周りを眺めながら、何か発見をしてくれれば、良いと思う。次は、名取まで!?■関連する過去の記事 舟曳堀(鶴巻-苦竹)を探して(06年3月12日)
2010.05.03
コメント(0)
今日も晴れました。5月です。もう冬に逆戻りはないでしょう。朝の河畔の風景です。5月の桜というと、まるで弘前のようですが、仙台です。
2010.05.01
コメント(0)
私の住んでいる辺りはやっと雪も止んだ。東京では1969年以来41年ぶりに、最も遅い降雪日の記録に並んだという。横浜や千葉では史上最も遅い記録を更新した。さて、ならば東北はどうか。東京が4月17日なら、東北の晩雪はもっと遅いだろう。■雪の終日(平年値) 盛岡 4月16日 青森 4月13日 宮古 4月12日 八戸 4月11日 山形 4月10日 若松 4月9日 仙台 4月8日 大船渡 4月7日 深浦 4月7日 秋田 4月7日 福島 4月5日 酒田 4月4日 小名浜 3月21日(気象台のデータから)小名浜はやはり春が早い。気象台のデータを拾える範囲では、盛岡がもっとも雪が遅いようだ。今日は仙台でも積雪を記録した。13日に気象台が桜の開花を宣言したばかり。昨日は市内の公園でもきれいな桜を見ることができた。河北新報によると、史上3番目に遅い積雪という。仙台の積雪の最晩記録は4月23日(1947年)。積雪記録ではなく降雪の最晩記録だと、仙台は5月3日(1991年)となるようだ。画像は我が家の近く、紅白の梅が雪に囲まれている里の風景。
2010.04.17
コメント(0)
今日(9日)の読売新聞に出ていた。エスカレーターに乗るときに、急ぐ人に道を空けるのが通例だが、普通の人は東京では左に立ち(急ぐ人は右)、大阪では右に立つ。仙台の場合は、一定に定まっていない、という。デパートでの実際の写真が出ていて、たしかに混乱がみられるようだ。私の感覚では、10年くらい前までは、仙台でも大抵は右に立っていた(急ぐ人は左)ように思う。とにかく、東京と仙台で違う、と記憶していた。しかし、今ではJR仙台駅の朝の時間帯は、左に立っている。仙台駅だけのルールかとも思われるが、最近できた青葉通りからペデストリアンデッキに登るエスカレーターでも、みんな左側に立っているので、仙台でも、左に立つのが定着したと言えるのではないだろうか。東京人の影響か、それとも、地域性などもとより関係なくて、たまたま先頭の人に合わせたのが定着したのか。日本の西と東の固有の文化論があるが、おそらくそこまでは及ばない偶然の所産だと思われるが、一応気になることだ。
2010.04.09
コメント(0)
知らなかったが、車を用いた移動式店舗を今ではケータリングカーと呼ぶそうだ。さまざまな専門的な店があって人気を呼んでいるという。河北ウイークリーせんだい(vol.142)に出ていた。移動販売の開業支援をするクロールアップという会社があるが、現実は相当に厳しいと会社の方も話している。同社のサイトに紹介もされているが、実に多様な移動販売店がある。河北ウイークリーの表紙にも出ているドイツソーセージの「ノイマルクト」は、見ているだけで食べたくなった。仙台市内の居酒屋でも出しているそうで、是非今度寄ってみたい。
2010.03.13
コメント(0)
私一応定職を持っておりますが(おだずまジャーナル編集長とは別に、です)よく求人情報誌を手にします。経済の実態を知るために、というと聞こえは良いのですが、単にフリーペーパーに弱いだけ。R社の求人情報誌によると、フルキャスト社のKスタのバイト。ビールの売り子さんは、時給670円で、歩合給が一杯20円。奨励金が300円で、日収例として出ているのは、時給670円×4h + 歩合給20円×130杯 + 奨励金300円 = 5580円だそうです。そうか、歩合給があるのか。今シーズンもガンガン買ってあげないと!その他、売り子補助スタッフ(ビール樽交換など)が時給750円、売店スタッフが時給850円、とのこと。イーグルス関係では、東北ニッソーサービスが、野球場運営スタッフとして時給900円から750円の求人もあります。スタジアムの警備、誘導やチケット販売などのようです。食事支給もアリのようです。東北ニッソーではこのほか、Kスタ警備スタッフが時給900円だそうです。もう1つ。アイライン(フジスタッフホールディングス)のKスタ運営スタッフの求人。200名大募集、とあります。販売(ポップコーン)、ファンクラブ会員募集スタッフ、ファンクラブ向け接客スタッフで、時給750円です。ナイターの場合、14時から22時。イーグルスやKスタ関係は、結構求人も多様なようです。ほかには、コンビニ、飲食業などなど。最近目立つのは、介護、葬祭、教育関係など。やっぱり経済事情を反映しています。ちょっと面白そうなのが、宮城学院キャンパス内での教科書販売という短期アルバイト。4月中だけで、時給800円。宮城学院生協さんの求人です。オジサンが応募したら、一発アウトでしょうけど。
2010.03.02
コメント(3)
久しぶりに宮城野区の幸町付近を通った。ガス局交差点から、鶴ヶ谷に向かう道路。JT工場跡も、すっかり街並みに様変わり。その向かいの白いフェンスに何やら書いてある。みやぎの安全・安心を担う真の消防人をつくる...だそうで、鶴ヶ谷の消防学校がちょっと南に移転してくるようだ。それにしても、役所らしい文章。みやぎ どうして地名を平仮名にしたがるのか安全・安心 どうして「・」必要なのか真の どういう修飾?消防人 どんな人?つくる 人が目的語なら、育てる、とか当ジャーナルなら、例えばこう考える。走れ光のごとく まもれ命とくらし 輝け笑顔 燃えよ情熱やっぱり、燃える、はまずいだろうな。■シリーズ仙台百景 以前の記事です。こんな企画で100枚まで続けるのが目標です。 ○宮城刑務所(シリーズ仙台百景 29)(08年10月12日) ○松森焔硝蔵跡(シリーズ仙台百景 28)(08年8月31日) ○十一面観音堂(シリーズ仙台百景 27)(07年10月23日) ○陸奥国分寺薬師堂(シリーズ仙台百景 26)(07年10月17日) ○県民の森 鶴ケ丘口(シリーズ仙台百景 25)(07年8月26日) ○一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) ○風の環(シリーズ仙台百景 23)(07年7月7日) ○冷やし中華の龍亭(シリーズ仙台百景 22)(07年6月29日) ○県民の森(シリーズ仙台百景 21)(07年4月8日) ○数字の練習ボード?(シリーズ仙台百景 20)(07年3月25日) ○半田屋一番町に進出!(シリーズ仙台百景 19)(07年3月1日) ○仙台百景画像散歩(その18 撮影成功!霊気のトンネル)(07年2月6日) ○仙台百景画像散歩(その17 変な漢字の看板)(07年1月28日) ○仙台百景画像散歩(その16 駅前東宝ビル)(07年1月13日) ○仙台百景画像散歩(その15 空から見た仙台)(06年12月29日) ○仙台百景画像散歩(その14 光のページェント)(06年12月13日) ○仙台百景画像散歩(その13 東京スター銀行)(06年11月30日) ○仙台百景画像散歩(その12 建設ラッシュ再来?)(06年11月10日) ○仙台百景画像散歩(その11 E721系電車)(06年7月25日) ○仙台百景画像散歩(その10 ワンコイン端末)(06年7月7日) ○仙台百景画像散歩(その9 ヤギさんの看板)(06年6月19日) ○仙台百景画像散歩(その8 キック治療?)(06年6月18日) ○仙台百景画像散歩(その7 ホテルモントレ)(06年6月4日) ○仙台百景画像散歩(その6 佐々重ビル)(06年5月24日) ○仙台百景画像散歩(その5 車止めポール)(06年4月29日) ○仙台百景画像散歩(その4 オロナミンC)(06年4月4日) ○仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) ○仙台百景画像散歩(その2 はんだや)(06年3月18日) ○仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2010.02.28
コメント(0)
伊坂幸太郎さん原作の映画ゴールデンスランバーを観て来ました。たまたま市の図書館で下水道ロケ地を紹介するパンフレットをもらっていたので、帰宅してからジックリ読んでみました。パンフと同じ内容が市のホームページにも出ているようです。犯人に仕立てられて逃げる青柳が最初に下水に降りるシーンは、このパンフによると、長町南三丁目のロケのようで、その後、長町第一雨水幹線と第二雨水幹線の中を、青柳に扮する堺雅人さんが走ったようです。もっとも、実際のストーリーでは、青柳は病院(ロケ地は厚生年金病院のようです。)から逃げ出して、勾当台公園の近くに出ているという設定のようですから、長町はロケに相応しい場所として、新しい管路が選ばれたのでしょう。パンフには竹内結子さんが奮闘する勾当台公園駐車場脇のマンホールも紹介されています。大きな花火の後に、青柳が再び勾当台公園のステージ前のマンホールに潜り、早朝の広瀬川に抜け出ますが、これは設定通りの実際の下水道放流管でのロケのようです。明治33年(1900年)に完成したレンガ造りの下水道管、今でも現役で使われていますが、西公園北のSL汽車付近のマンホールから降りて、ロケを行ったそうです。オール仙台ロケの映画なので、ロケ地を調べる楽しみ方も、できるわけです。花火大会、仙台駅、そしてなぜか加茂団地、などなど、観ていて子ども達も楽しんだようでした。ところで...映画やドラマで警察が登場する場合、どのように描かれるか気になります。あさま山荘事件の映画などでもそうですが、警察庁と地元との関係なども、気になります。今回は当然宮城県警が登場します。記者会見をしていた警察本部長は、竜雷太さんでした。そして、会見の模様を流すテレビ画面のテロップでは、たしか大杉憲司本部長(記憶は不確か)とかいう名前だったようです。あれあれ、ちょっと、これは、昨年まで実際に本部長をしておられた方を借名したようです。了解は得ているのかも知れませんが、そこまでやるものか。かなり意外でありました。
2010.02.07
コメント(0)
仙台は夜が更けるに連れ、風が強くなってきた。アメダスを見ると、夜11時で、西北西の風15メートル。ちなみに、今日(21日)は、未明の1時が気温が最高で、13.9度。だんだん気温が下がり、正午で8.2度。夜11時で、1.1度。気温は下がって、風が強まってきた。明日朝は氷点下の冷え込みだそうだ。暖かさも一日だけで、急転直下の冷え込み。こんな天気もあるのか。帰りの車中では、仙台に暴風雪警報が発令された、とラジオで聞いた。そう言えば、自民党の参院選候補者は1人に決定したそうだが、発表はされていない。私でないことだけは確かだが、激戦だっただけに結果が注目される。民主党も、現職の桜井充氏の他もう1人を立てる方針だという。国会では、鳩山総理が、どう乗り切るか。今、あらためて仙台のアメダスを見たら、1時時点で、風は11メートル。明日(22日)は真冬に逆戻りか。
2010.01.21
コメント(0)
昨夜(14日)は帰りの車中で表示された外気温がマイナス6度だった。たぶんサーモの誤差で、本当はせいぜいマイナス3度くらいじゃないかと思うが、どっちにしても、暖冬続きの最近にしては、かなりの低温だ。今日(15日)も寒い一日。帰りの道路は雪化粧だった。週末にかけて、気温が下がるという。仙台でマイナス4度とか。九州でも積雪があったというが、不思議と昨日までは仙台は積雪がゼロだった。でも、寒波はやって来るらしい。暖房用の蓄熱レンガの電気は、入力も出力も最大にしておいた。子ども達がスムーズに起きて欲しいから。よく思い出すのだが、仙台に来て3年目の冬。寒い年で、雪も多く、また、毎朝氷点下の日が続いた。古いアパートだったから、風呂の水も凍るような部屋だった。朝の新聞配達に出かけるのが辛くて、コートをまとって、電気コタツで寝ていた。配達中にバイクで滑って転んだことも何度もあった。あれを思えば、今の生活は天国だ。最も昔。子供の頃は、今日のような氷点下の夜や朝は当然当たり前で、毎日雪をみて生活していたはずだが、人間楽な方にはすぐ慣れてしまい、厳しさはすぐ忘れてしまう。岩手県だから、たぶんマイナス10度近くの世界は経験していたはずだろうと思う。15日の宮城県はこの冬一番の寒さ。仙台で-4.6度、蔵王で-8.1度だったという。ところで、仙台が記録した最低気温は何度だろうか。仙台管区気象台のデータによると、最も低かったのは、-11.7度で1945年1月26日。また、月の平均気温で見ると、最も低いのは、やはり1945年の1月で、-3.0度。相当寒い新年だった。ベストテンは、1920年代、30年代がほとんどだが、唯一、7位に1977年1月の-1.5度がランクインしている。昭和52年だ。ちなみに、盛岡の最低気温は、昭和20年1月26日。仙台と同じ日だが、マイナス20.6度。すごい。
2010.01.15
コメント(0)
電車の広告に目を奪われた。ルー大柴が宣伝しているのだが、国分町に新しいカプセルホテルが出現したようだ。「サウナ&カプセル キュア国分町」というそうで、今なら、オープニング価格で、1900円で泊まれるそうだ。心が動かされる。さらに、1泊2食ビール付きのプランも、3780円だという。心が動かされる。ハッキリ言って、タクシーで帰るより、ずっと良い。貧乏性の私は、こう考えてしまう。ここ10年以上は、カプセルホテルにもサウナにも泊まったことはないが、独身時代は、仕事で遅い時などは帰宅するよりも経済合理的だから、カプセルをよく利用させていただいた。私は、決まって、国分町の交番脇の「リーブス」だ。一週間に3日か4日泊まったこともある。本当にお世話になった。今、改めてリーブスのサイトを見てみたら、料金は3300円。当時は確か、上段下段で差があって、3000円と2900円だったような記憶があるが。当時にないのが、ネット予約の200円割引。そして、面白いのが、チェックイン当日の宮城フルキャストスタジアム(表現が古いし、間違っていますが。)で行われたプロ野球チケット提示で、10%割引というもの。良い企画ですね。さて、仙台のカプセルホテルといえば、あとは「カプセルホテル本町」だろう。立地が抜群で、3150円。たぶん、仙台では、この3軒だと思う。
2010.01.13
コメント(0)
東北新幹線が新青森まで伸びたら、盛岡や八戸には全便停車するのかどうか、などと前回記した。その延長で、都市間鉄道の停車パターンはどうだろうかと思い、仙石線のダイヤを見た。快速は、ABの二種類に整理されているのだそうだ。恥ずかしいことだが、私は、今でも一日に1本は仙台石巻ノンストップ便があると思っていたので、随分様変わりしたものだと思う。様変わりと言えば、地下化する以前の記憶もだいぶ薄れてきた。仙台市(新しい杜の都づくり宮城野区協議会)のサイトで、仙石線の旧仙台駅(さらに昔は東七番丁駅)などの風景を見ることが出来る。仙石線沿線のトップの背景写真は、これまた懐かしい東九番丁踏切だ。社会人になりたての頃、車で迷い込んで、東西の方向感覚がゆがめられたような、不思議な気持ちに陥った記憶がある。小学校がそばにあって、また、とある代議士の看板が見えたことも覚えている。その後、近くに住んだこともあるし、今では宮城野原にプロ野球の歓声がこだまする時世になった。区画整理された広い道路を車で走ると、宮城野大通りと二十人町通り、さらに国道45号が、こんなに近かったのかと驚く。あの変則交差点の記憶も、せめてネット上で大事に温めていきたい。■関連する過去の日記 榴岡天満宮(08年12月7日) 五輪の思い出(05年12月27日)ところで、仙石線ダイヤに話を戻すが、石巻に住んでいた頃は、特別快速として仙台直通便が上下1本づつ。休日だけだったかも知れないが。そして、快速は停車駅の多いものと、少ないものの2パターンあったような気がする。例えば、本塩釜はいずれも停車するが、東塩釜や原町には停車しない快速もある、という感じで。石巻線とは別棟の仙石線ホームから、仙台に行くのに、どれに乗るか考えていたものだ。現在は、最も速達するものは、A快速で、あおば通、仙台、多賀城、本塩釜、東塩釜、海岸、高城町、野蒜、小野、矢本、石巻。B快速は、更に、仙台市側の部分を多賀城駅まで各駅に停車するパターン。朝夕の通勤通学はBパターンで、日中と夜は速達のAパターンで、組まれているようだ。昔から言われていることだが、仙石線のスピードアップが実現できれば、もっと便利になると思う。仙台に通勤する人が、9時前に着くためには、 (石巻 → あおば通) 普通 522 → 646 普通 605 → 737 快速 629 → 745 普通 650 → 812 普通 712 → 839となる。この次は、747→916 なので、皆さん7時前には家を出ていることになる。私立高校生は、沿線の学校なら7時12分発の電車で間に合うのかも知れないが、仙台市内なら、6時29分の電車になるのではないだろうか。仕方ないとは言え、できれば何とかしてやりたい気持ちになる。逆に仙台から石巻に通勤する場合。 (あおば通 → 石巻) 普通 502 → 624 普通 527 → 649 快速 631 → 740 普通 642 → 806 普通 709 → 835 普通 732 → 857のとおりで、あとは自宅から仙台駅までの距離次第だ。苦竹や福田町の人は割と楽かも知れないが、泉区や八木山などの団地から出てくるとなると、朝6時台前半にバスや地下鉄に乗り込むことになりそうだ。かくいう私も、短い期間ながら、仙台から石巻に仕事で通ったことがあるが、今でいう上記の6時42分発の電車に乗った。自宅アパートは6時過ぎに飛び出して、仙台駅から階段を下りて、仙石線ホームに。乗ってしまえば、のんびり松島湾の朝日を眺めていけばいいのだが、毎日となると結構大変だった。例えば、仙山線で山形駅から仙台駅まで来る場合、朝のダイヤは (山形駅 → 仙台駅) 普通 628 → 753 快速 715 → 829 普通 755 → 917となっており、石巻と同様の状況だ。ただし、山形仙台間なら、バスがある。 山交ビル700 → 仙台駅前811県庁前816 山交ビル800 → 仙台駅前911県庁前916など、仙台に9時前に到着する便だけで20本近くもある。7時台後半のバスでも良いと考えれば、石巻に比較すると、かなり楽だ。バスならもちろん石巻だってある。宮城交通の仙台石巻・女川線。 石巻駅前628 → 仙台駅前743県庁前752 石巻駅前648 → 仙台駅前808県庁前817 石巻駅前740 → 仙台駅前855県庁前904が朝のダイヤのようだ。頻度の点で、やはり山形には劣る感じがする。そもそも、スピード感がない。山形の場合、鉄道は朝の快速でも74分のところ、バスは71分で、しかも便が豊富で対抗力がある。石巻の場合、仙石線は快速で76分、バスは75分や80分で、物足りない。具体的に見ても、石巻駅650の電車と648のバスで、仙台市内への到着はさほど変わらない。おそらく、石巻と仙台の間の高速バスは、三陸道を利府塩釜ICで降りて、県道利府街道を仙台市中心部に向かうものと思われるが、渋滞にはまる事情があるのだろう。宮城県の場合、どの地域の県民も豊かに明るく暮らせるよう、産業や文化や生活の面での地域への目配りは必要だが、ハード面での整備を、均衡ある県土の発展という謳い文句の下に、県下一円に同質均等に行う必要はない。そして、投資の負担を県民が背負うことを考えれば、不要どころ、すべきでないと思っている。ごく単純に言えば、通勤も通学も交流も、文化面での一体性も含めて、全県を一極と考えて良いのだ。だからこそ、日常の移動や交流を支える大量輸送手段は、できる限り便利に、できれば多様に、整備したい。近年幸いにして本県では道路整備が進んだ。ハードのためのハード整備の段階はそろそろ脱して、高速バスに乗る時刻の観点など、生活者の視点から、渋滞対策や鉄道高速化などに重点を移していくべきだろう。
2009.12.20
コメント(0)
以前、昭和30年の仙台市長選挙が最高裁で無効と判断されたことを記した。当時としては、異例の事件として全国の話題となったようだ。■関連する過去の日記 仙台市長選挙の無効判決とやり直し(09年11月21日)『仙台市史 資料編8 近代現代4 政治・行政・財政』の別冊資料によると、歴代の仙台市長が掲載されているので、任期を確認する。抜粋すると------------15代 岡崎栄松 就任昭和21年6月17日 退職昭和22年4月5日16代 岡崎栄松 就任昭和22年4月5日 退職昭和26年4月4日17代 岡崎栄松 就任昭和26年4月25日 退職昭和30年4月12日18代 岡崎栄松 就任昭和30年5月2日 退職昭和32年12月17日19代 島野 武 就任昭和33年2月2日 退職昭和37年2月1日(「市勢要覧仙台1993」仙台市、1993年により作成 とある。)------------となっている。岡崎市長は昭和30年に再選されたが、32年12月17日、これは最高裁判決の日のようだが、岡崎は失職する。やり直し選挙で33年2月に島野武が市長となっている。そして、本編で詳しく読もうと考えたのだが、思わぬところに説明があった。『仙台市史のしおり Vol.23 資料編8 近代現代4 政治・行政・財政』(仙台市史編さん委員会、2006年9月)という、挟み込みの小冊子である。ちなみに、資料編ではなく通史編の方は、順次刊行されているが、第7巻の「近代2」(昭和の前半まで)が最新刊のようで、戦後については未刊行のため、既に刊行されている資料編を紐解いてみたのである。そこで、上記の小冊子に出会ったというわけだ。元河北新報社専務の京極昭さんが「戦後の仙台市長」と題して、書いている。戦後60年の市政を見渡して、3つのハプニングがあり、その第一として、7期27年の島野市政誕生の契機となった選挙無効事件を取り上げている。なお、第二のハプニングは島野市長急死と保守の奪還、第三は石井市長逮捕後の念願の市役所生え抜き市長誕生、だ。京極さんのいう第一のハプニングについて、『しおり』から、以下に要約してみた。------------三期目を狙う岡崎と、古里に帰って市長を志した島野の争い。現職有利との票は、蓋を開けると次点と僅か560差。敗れた島野の側は、選挙管理の不適正を理由に無効を申し立て。県選管は仔細に点検の結果、不在者投票に違法な管理があり、適正に行われていれば当落逆転の可能性ありとし、選挙そのものを無効とした。争いは法廷に移り、最高裁判断まで2年余を要したが、無効は変わらず、昭和33年2月やり直し選挙。なお、京極氏は新聞記者として県選管の無効裁決をスクープした、と回顧している。当時、岡崎市長は強い影響力を持っていた。旧秋保町生まれ、師範学校を出て、小学校長や郡視学など順調に歩んだが、上司と意見が合わず、東京市役所に転じ、区長を務めた後、仙台に返り初の公選市長に。戦災で焼け野原になった仙台を、一変させる区画整理を推進するなど、現在の仙台の姿を作った功労者である。しかし、無効裁決の頃から勢いに陰りが出始めた。市議会議長と力比べの反目、米国出張旅費問題、大倉ダム問題などが次々と噴出し、ついにやり直し選挙出馬を断念。保守陣営は、岡崎の代わりに松川金七(県会議員で県医師会長)を出したが、島野は保守層からも広範な支持を得た。------------資料編本体(p231)には、昭和30年執行仙台市長選挙最高裁判決(昭和32年12月17日)の要旨が記されている。事実関係と何が争点だったのかは、これだけでは、よくわからない。仙台市議会の古い議事録はネットでは読めないので、とりあえず、昭和30年代の宮城県議会の議事録をHPの検索システムで見てみた。昭和30年9月定例県議会で、平野博議員が一般質問を行っている。仙台市選管の対応をずいぶんと非難している。曰く、下記の通り。------------民主政治の基調は自由と公正なる選挙にあるが、去る4月の仙台市長選挙は極めて公明を欠くものであり、仙台市選管の責任は重大である。5月14日仙台市光禪寺通り佐藤輝雄氏外二名が仙台市選管に提起した仙台市長当選及び選挙の無効訴願に端を発し、5月16日の証拠保全申立、続いて5月23日証拠物件提出、6月30日市選管は、異議申立を棄却。7月13日県選管に再び訴願となつて現在審理中である。この問題は衆院公職選挙法調査特別委員会の取り上げるところとなり、調査委員会より島上その他の調査員が派遣され、また国会で警察庁当局者の吟味するところとなり、県警察本部に対してもそれぞれ捜査に対する指令があったはずだ。また、仙台地裁より仙台市選管に対し、5月16日に証拠保全のため関係書類一切の提出を3日間の期限で命ぜられたが、いかなる理由か3日を越えて一週間目にやっと仙台地裁に証拠書類が提出されている。公明選挙の本拠たるべき選挙管理委員会が、いささかなりとも疑念を持たれるような行為をあえてとることは、良識で判断できない不可解な問題だ。次に注目される点は、仙台市選管の異議申立である。申立人の請求を棄却したが、記者団が問題の幽霊票や、破損した投票用紙の梱包状態について質問したところ、答える必要なしと拒否までして、あえてこれを棄却したと報道される。また、審理中の県選管の心証いかんで、これが有効であるか無効であるか決定されるとも報道されている。質問(1)県選管として公明選挙への措置 (2)証拠保全命令に際し市選管は県選管に相談した内容 (3)選挙を管理した者の刑事責任(7月朝日新聞報道では、県警察本部が警察庁に内偵について報告したとするが、刑事部長は関係者に故意は認められず事件になりにくい、と談話を発表。) (4)県選管の裁決は重大であるが心証で左右されるのか (5)昨日配られた調査報告書について------------答弁の要点は、選挙管理員会高橋委員長から、仙台市から書類は何も到達していない、裁決はどこの干渉も受けずに調査して決定する、などと答弁。また、松本警察本部長から、不当であっても違法でなければ刑事事件として扱わない、取調中であるが刑事部長のとおり慎重に行う、など。平野議員から、本部長に対して、投票用紙の梱包がわずかの間に破損状態を示しているような選挙管理事務に対しては当然警察権を発動すべき、と再質疑がなされている。
2009.12.05
コメント(0)
来月25日にオープンだそうだ。今朝の河北新報によると、昨日(24日)に、王将フードサービス(京都市)が正式発表した。直営店で、一番町4丁目に2階建て座席数77。コーヒーショップ跡地を利用。ついに登場ですね。京都や大阪で友人達と王将に行ったのはもう、20年近くも昔のこと。ご当地で食べるのが味だ、とは言え、やはり仙台でも食べられるというなら言うことなし、ということでしょうか。心待ちにしていた人たちも多いはず。今後数年で仙台を中心に東北に数十店舗だそうです。地元はんだやも一番町4丁目に堂々復活していることですし、東西の庶民派グルメの一大対決! いや、食べ歩き堪能! といきましょうか。
2009.11.25
コメント(0)
中山道(なかやまみち)は、仙台城下と根白石を結ぶ街道で、根白石街道とも。ぬかるんだ急な坂道には、根白石の人々が地区に分けて道普請を割り当て、枕木を敷き、砂を入れて、大事に守り育ててきた。藩政中期頃までは、仙台方面には、現在の早坂下橋を渡り、東へ500メートルほどの戸平山(現在の北中山)を通っていた。これが急な坂で、「這い坂」と言ったのがいつしか「早坂」となったという。この周辺は切り立った断崖が続き、早坂峠も中世の山城の城郭の一部であった。昭和3年にバスが開通したときに早坂峠ではなく、七北田経由だったのも、中山道の険しさを示す。ところで、根白石から仙台に行くには、3つのルートがあった。1つは、中山道(根白石街道)としてよく知られる、実沢早坂下橋から中山峠、判場、菊田町、北山羽黒神社を経由して城下に出る道で、仙山線根白石踏切のあるルートである。第2に、新道と呼ばれるもの。蒜(ねぎ)屋敷前から七北田川を渡り、六堂屋敷を通る。早坂下橋を通らずに、現在の六堂屋敷橋のルートだと思われるが、この橋は何度も洪水で架け替えられた。主に実沢の人たちが使ったルート。現在の南中山と長命ヶ丘の両町堺あたりを通って、川平に出た辺りから北環状線沿いに南下して(おそらく現在の青葉区と泉区の境界線どおりでないか)、第一の中山道に合流する。第3には、古内道。根白石から、実沢古内(柳澤寺)、泉館山高校、明成高校、滝道、荒巻本沢から、旧来の道と合流して北仙台又は北山に入るルート。根白石や実沢など各村の人々が道路普請に従事して開拓した道路。粘土質で少々の雨でもぬかるんだため、天候に合わせて利用していたという。現在でもバス通りとして残っている道路が、おおよそそれなのだと思われる。■参考 『根白石』新しい杜の都づくり泉区協議会発行、1997年この本は、大正や昭和初年に生まれた地域の方々の経験談などをもとに書かれています。そのため、当ジャーナルの記事リストとしては、近現代の区分にも整理いたします。■関連する過去の記事(中山道、根白石) 忘れられた宿場町 根白石(09年11月4日)(奥州街道について) 中山(なかやま)道を考える(09年3月25日) 中山道のむかし(09年3月23日)
2009.11.23
コメント(0)
仙台市の歴代市長をみると(例えば仙台市公式サイト)、15代 岡崎栄松 昭和21年 6月17日~昭和22年 4月 5日 16代 岡崎栄松 昭和22年 4月 5日~昭和26年 4月 4日 17代 岡崎栄松 昭和26年 4月25日~昭和30年 4月12日 18代 岡崎栄松 昭和30年 5月 2日~昭和32年12月17日 19代 島野 武 昭和33年 2月 2日~昭和37年 2月 1日とある。戦後の公選市長としては岡崎栄松が昭和22年から務めているが、公選3期目(第18代)だけが、任期が2年半で途切れ、次の市長(島野)就任まで2か月弱の空白期間がある。ここが、最高裁による選挙無効判決とやり直し市長選挙の歴史を物語っている。昭和30年4月の仙台市長選挙は、4選を目指す岡崎栄松候補と新人の弁護士島野武候補の事実上の一騎打ち。この結果、550票あまりの僅差で岡松候補が上回ったのだが、島野派が開票事務に不正があったなどの異議を申し立て、昭和32年10月25日、仙台高裁は選挙無効の判決を下す。これによって、やり直し市長選挙が昭和33年に行われる。島野武候補が、松川金七候補に2828票の差をつけて当選した。
2009.11.21
コメント(0)
岩手県出身の三島駒治は、東三番丁に夜間の東北法律学校を設立して校主となる。郷土の振興と東北の発展を企図し、岩手益友会、東北青年会を組織して、志気高揚を図ったが、未だ東北帝国大学もなく、関東関西には法律学の学校が十指に余るに対して東北には法律の学校がないことを遺憾に思い、私財を投じ、多数の有力者の後援を得て、明治33年(1900年)10月に宮城県知事から設立の許可を受けた。また、駒治は妻よしと協力して、東北女子職業学校(三島学園の前身)も設立した。東北法律学校の校主三島駒治・よし夫妻は、明治36年(1906年)10月に、東三番丁に東北女子職業学校を設立。駒治は経営、よしは校長として校務を担当した。当初の生徒は本科11名、別科7名などわずか23名であったが、裁縫技術の習得とともに女子教育により近代的で高度の要素を取り入れようという独特の教育方針だった。1913年、清水小路に移転し、やがて三島学園女子高校と改称。大学、短大、高校、幼稚園を擁する総合学園となった。現在は、大学が東北生活文化大学、短大が同短期大学部、高校は共学で東北生活文化大学高等学校、ますみ幼稚園・保育園がある。高校のサイトには、学校法人と設置学校の変遷が、わかりやすく図で示されている。案外とこうした解説は少ないものだ。親切な配慮がすばらしい。
2009.11.15
コメント(0)
昨日のラジオでやっていた。東京の大学の寮に入った人が、トイレに行きたくなって、「おしっこつまった」と言ったら、トイレが詰まったと勘違いされたという逸話。私もこの年まで、おしっこがつまる、が方言だとは気づかなかった。全く自然な表現だと思っていたので、ちょっと意外。じゃあ、皆さんはどう言うのだろうか。トイレに行きたい。おしっこ出る。おしっこ漏れそうだ、とか。方言、というよりも、言葉の用法の地域差、という事かも知れないのだが、この話で思い出すのは、学生時代に関西方面から来た友人に指摘されたこと。仙台では「ゴミを投げる」というが、「投げる」というと勢いよく遠くへ飛ばす感じがする。「捨てる」でしょう、と。なるほど。ちなみに、「投げる」は関西では「放る」だ。また、物をなくすことを「落とす」と仙台は良く言う。これは友人の指摘ではなかったかも知れないが、落とすというと、例えばホームから線路に落としたように、空間的な上下関係を連想する。普通に置き忘れたときに「落とす」「落とし物」はちょっとおかしい、と。実は私もそう思っていて、これは仙台周辺の局地的な用法かも知れない。
2009.11.13
コメント(4)
9 養賢堂教育の充実指南役の間で儒学学説の対立があり、養賢堂不振の一因であった。仙台藩は、山崎闇斎の学統を引く学派が主流だったが、幕府の昌平坂学問所に学んだ大槻平泉は、寛政異学の禁に従い、朱子学に統一する。文化8年(1811年)、書学、算法、礼法の3学科を追加。商人や百姓の学ぶものとされた算術を藩校で教育したのは珍しい。勘定所の役人に商人や百姓の家の出身者が登用される例が多いのも、このためで、仙台藩でも宝暦5年(1755年)の大凶作で窮迫した藩財政を立て直すため、献金で武士の身分を取得した豪商安倍清右衛門を出入司に抜擢している。庶民出身の平泉は、財政再建のために算術に長けた人材の育成を重視したのであろう。文化9年には、兵学、槍術、剣術が設置された。ロシアに対する国防が急務となった背景があるのだろう。長崎遊学の経験もある平泉は、文政4年頃、蘭学方を新設し、蘭学教育を行わせた。蘭医の庄司玄琢に担当させた。平泉の後任として嘉永3年に学頭となった大槻習斎は、洋学の充実を図り、蘭学局を設け、また、小野寺丹元にロシア学を担当させた。この頃の養賢堂は、12の学科を備える総合学園となった。開国前後には、英語も洋学科に取り入れられる。これを基盤として、明治初期には官立宮城外国語学校(のち官立宮城英語学校)が開校する。幕末には、西洋式軍備にも関わる。学頭大槻習斎と兵学主任の小野寺鳳谷らが中心となり、西洋式軍艦の開成丸建造や大砲の鋳造を行っている。10 蔵書の充実文化9年には養賢堂の蔵書は1万353冊。天保6年には、1117部、1万7183冊に増加している。明治維新の混乱で多くが失われたが、一部は明治14年設立の宮城書籍館(しょじゃくかん)に移管されている。宮城県図書館の前身である。11 修業のしくみ学生に自由に選択履修させる方式。入学は8歳から許可され、修業期間は限定されないが、17歳までに素読試験に合格しないか、各学科の試験に3回落第すると退学させられる決まりであった。通学生と寄宿生があり、通学生は幕末期には千人以上いた。寄宿生は、定員はないが役員として入宿する者には二人扶持が支給され、一般の生徒は自費で二人扶持相当の米を納めた。教科書用の漢籍類は、養賢堂で出版した。教科書は自前で用意させたが、貧しい生徒には貸与した。学田経営や出版事業、有志の献金のため、生徒からの入学料や謝金は徴収していない。こうして、貧しい子弟にも配慮していたのである。12 医学館の創設養賢堂と称する以前から医学講師を置いていたが、大槻平泉の提案により、文化12年、百騎丁(東二番丁)に医学館の設置が決まり、文化14年完成。文政2年には末無掃部丁に御薬園を設けて、本草学を教えた。13 青柳館文庫医学館構内には、青柳文庫が設けられた。文政12年に青柳文蔵が蔵書を願い出て建設され、天保2年に完成したもの。文蔵は、宝暦11年、磐井郡東山の松川村の医家に生まれ、江戸で医学を学んだ経験もあり、2万冊の書籍を所蔵していた。文字文化が庶民にも浸透し、仙台でも出版が盛んとなり、国分町には多くの出版関係者が存在していた。こうした庶民層の文化的向上を背景に、青柳館文庫は、一般の人々にも公開され、我が国公共図書館の先駆と称されている。■大藤修『仙台藩の学問と教育 -江戸時代における仙台の学都化-』(国宝大崎八幡宮 仙台・江戸学叢書 13)大崎八幡宮、2009年■関連する過去の記事 仙台藩と学問(1)藩校の開設と芦東山(09年11月3日) 仙台藩と学問(その2)養賢堂(09年11月5日)
2009.11.12
コメント(0)
明治38年6月、長野の財閥片倉組による「仙台製糸場」が設立された。蒸気機械と300の従業員を抱える大工場で、東八番丁に設立された。現在の榴岡三丁目と思われる。明治41年10月に、皇太子(のち大正天皇)が盛岡行啓の途中に立ち寄り、品井沼干拓工事をご覧になり、仙台ではこの工場を見学。女工の多さを見て、この女性はみな宮城県人かと御質問された。工場長は、宮城県人はひとりもおりません。みな、山形県人と福島県人でございます、と答えた。さらに、なぜ本県人を採用せぬのか、との御下問に、「宮城県人は怠け者で採用すると損をします」と答えた。これが問題となり、この工場長は間もなく転任した。ちなみに、片倉財閥系のこの工場は第1次大戦後の世界不況の後も残り、戦後の昭和31年正月に閉鎖された。さて、工場長の発言は、明治末年に宮城県人が他県に比べて怠け者と見られていたことを伺わせるが、仙台・宮城人怠け者論は、根強く昔からあったようだ。幕末の肝付兼武については以前に記したが、兼武は、仙台藩はよい土地を有して貧乏している、自分なら3年で藩を豊かにしてみせる、と述べている。またある武士は、仙台の士風は嫉(ねたみ)、薩摩の士風は暴、金沢の士風は固、と三大藩の気風を評した。明治9年天皇行幸の際も、14年行幸の際も、知事の報告文には「近年怠惰の風もややあらたまり」との調子で、決して勤勉とは書けなかった。県庁三能吏に数えられ、土木事業に力を尽くした早川智寛が、第四代仙台市長の時、外米の無償交付を受けた人が酒屋に寄って酒に替えた話を聞いて、「どうも仙台藩は怠け者だ」と言ったと伝わり、旧仙台藩士に決闘を申し込まれたので、手をついて謝ったという。宮城県に企業が興らなかったのは、資本がないほかに、従業員が理屈が多くて実行の伴わないからかも知れない(後掲書で佐々さんがこう書いている)。■参考 佐々久『近代みやぎの歩み』宝文堂、1979年 仙台文化出版社『仙台きょうはなんの日』(せんだい新書2)仙台文化出版社、1988年■関連する過去の記事 仙台・宮城の気風を再び考える(06年7月3日) 肝付兼武のこと(06年6月13日) 見透かされた「大藩仙台」の空虚なる風土(06年4月2日)
2009.11.11
コメント(0)
本格的な登山には無縁のため、知らなかったのだが、登山の世界における仙台は、まさに世界をリードする都市だそうだ。まず、世界的な登山家の槇有恒。明治27年仙台生まれで、二中、慶應義塾へ。昭和31年、未踏のヒマラヤ第8峰、マナスル遠征隊の隊長として、5月9日と11日にマナスル登頂に成功する。ヒマラヤの8千メートル級の巨峰は13座あるが、最高のエベレストはじめ7峰は既に登頂され、他の6峰は人類を退けていた。8,125mのマナスル征服は東洋人として初めてであるとともに、日本の科学技術と精神力を世界に知らしめた。この業績で不朽の名を残した槇有恒は、仙台市名誉市民、文化功労者。マナスルというと、私は記念切手をまず思い浮かべる。カタログで見た記憶があるから。次いで、世界のピッケル王、山内東一郎について。登山の世界で「山内ピッケル」と言えば、命を守る信頼度の高い名品である。KS鋼に加えてニッケル・クローム鋼も合わせることで、優れた性能を示し、1936年立教大登山隊がナンダコット峰登頂に使用して世界に認められた。皇太子などにも献上されている。山内東一郎は、明治23年青森県生まれ。鍛冶屋の徒弟を経て、仙台高等工業学校に就職。学校が東北帝大に吸収されたため、本多光太郎が所長の鉄鋼研究所(現在の金属材料研究所)に勤務。ある時、外国製の登山用ピッケルを見せられて関心を持ち、大正15年大学を辞職して山内鉄工所を開設。優れたピッケルを作り出した。昭和40年暮れに自宅の火災で仕事場を失い、八木山に新しい仕事場ができる矢先の昭和41年4月4日、76歳の誕生日に生涯を閉じた。自らは名声を求めず、ひたすら鞴(ふいご)を吹き、ニッケル・クロームを打ち続ける名工であった。■参考 仙台文化出版社『仙台きょうはなんの日』(せんだい新書2)仙台文化出版社、1988年
2009.11.09
コメント(0)
朴沢三代治は仙台生まれで裁縫の名手といわれ、明治10年(1877年)8月、宮城師範学校に女子師範学科が設置されると、裁縫科教員となった。仕立業を営み、傍ら藩士の子女を集めて、将来裁縫を生業とする者に独特の教授を行い、明治12年(1879年)には、本荒町(現一番町)に松操裁縫塾(松操私塾)を創立して、日本の裁縫教育に革新的な一斉教授法を創始した。研究心が旺盛で、常に紙と鋏を持ち、寸暇を惜しんで考案と改良を重ねた。明治17年(1884年)には教授方法を摘記した「裁縫教授書」を編纂し、文部省が小学校裁縫科教科書に採用した。東北の福沢諭吉とも讃えられ、藍綬褒章を受ける。明治28年(1895年)亡くなる。学校は戦後、朴沢女子高校となり、昭和49年川平に移転。平成4年に明成高校と改称(平成14年共学化)。一方で、学校法人朴沢学園は昭和42年、仙台大学を開学した。■参考 仙台文化出版社『仙台きょうはなんの日』(せんだい新書2)仙台文化出版社、1988年■関連する過去の日記 朴沢の話(09年5月13日)
2009.11.08
コメント(0)
仙台生まれの志賀理和は長谷家に嫁いで病弱な夫を10年後に失う。幼い頃から養母に針仕事や行儀作法を習っていた理和は、明治3年(1870年)、北一番丁に長谷塾を開いて裁縫を教える。明治20年(1887年)、私立学校の認可を得て、私立長谷柳絮学校と改称。和裁の技術は東北一とされ、長物習わば長谷につけ、と言われた。長谷理和は1911年に教育功労者。大正7年(1918年)死去。柳絮とは、白い柳の綿毛のことで、それが四散して地に根をおろして柳の木を茂らせるように、女性ともしっかりと家庭を築いて欲しいという願いから名付けられたという。支倉町の長谷柳絮のことである。平成9年には長谷柳絮福祉専門学校設立、そして今年平成21年には「仙台青葉服飾・医療福祉専門学校」と校名を変更した。長谷柳絮の名は学校法人名に残っている。赤痢菌の発見者で仙台市名誉市民の志賀潔博士は、創立者の甥にあたり、教壇に立ったこともあったそうで、博士による校名の由来を示す書額が残っている(学校法人長谷柳絮学園サイト)。戊辰の敗戦と維新の混乱にあったはずの仙台で、和裁の技術と女子教育によって新しい時代を支えようとした遥かなる建学の心に、思いを致したい。■参考 仙台文化出版社『仙台きょうはなんの日』(せんだい新書2)仙台文化出版社、1988年 学校法人長谷柳絮学園サイト
2009.11.07
コメント(0)
5 重村の藩校改革学問所は、場所が城下の西北で通学に不便で、また小規模のため高橋玉斎が建議した礼法・弓術もできなかった。指南役の対立もあって講義がしばしば休止された。そこで、7代藩主重村は、宝暦10年(1760年)11月、通学の便を図るため、城下の中央部である北一番丁勾当台通東南角(現在の宮城県庁)に移転。重村はこれに先立ち布令を発し(5月)、近年学問所に出席する者が少なくなったのは家臣の学問への志が薄く、父兄も学問を奨励しないからであり、学問所を移転し、従来の素読・講釈では学問を究めるのが難しいから、討論会も開くことにするので、怠りなく出席するように、と説いている。重村はまた、藩校を凡下身分(足軽、小人など侍身分に入らない最下層の家臣)にも開く。庶民のためには家塾・寺子屋の開設を奨励。学業の向上した者を選んで江戸に遊学させ、私費による遊学も請願により許可するとした。宝暦5年は冷害で年貢が激減し藩財政は危機に陥った。翌年に藩主となった重村は、農村復興と藩立て直しには身分を問わず学問に励ませ人材を育成すべきと考えたのであろう。重村の学問奨励策で、身分序列にかかわらず能力によって人材が出入司や郡奉行に抜擢されることになった。また、重村は宝暦10年、藩医の別所玄李(実有)、翌年に常盤玄安(定軌)を医学講師に任命して学問所で医学書の講義を行わせた。それまでは藩医や町医者に入門して学んでいたが、藩の医員が増加し実力不足の医師も増えだし、また家中や民間の医師需要も高まったことに加えて、自然災害により生活や衛生の状態が悪化したため、藩として医学教育に乗り出したものであり、仙台藩の医学教育の始まりである。明和8年(1771年)には重村みずから養賢堂と書した扁額を学問所に下賜。明和9年7月より、学問所は養賢堂と称するようになる。安永9年(1790年)には、奉行芝田信憲が多額の私金で学寮と書庫を増築し、蔵書数千巻を寄贈。養賢堂には新たに学頭職が置かれ、同年6月、初代学頭に、高橋周斎(以仲)が任じられる。歴代学頭 高橋周斎 遊佐文治 高橋容斎 田辺楽斎 大槻平泉 大槻習斎 大槻磐渓 新井雨窓6 林子平の献策重村の養賢堂整備にもかかわらず出席者は少なかった。冷害による餓死病死者が出て、農村の疲弊と藩財政窮迫はますます深刻化し、特に天明(1780年代)の大飢饉は藩体制に打撃となった。人材育成が喫緊の課題となっていた。林子平は明和2年(1765年)に藩当局に藩政全般を建議した中で、学政にも論究した。(1)才能ある人材を得るために学問が重要だが、現在は儒学教典の講釈を受動的に聴講させるだけで、人材は育たない、(2)学問に学派は不要で、学校の敷地を広げ学生の読書部屋を設け、特定学派に偏らずさまざまな書物を備え自由に読書させればおのずと才智は生じる、(3)天文台を建て天文・算術教育をすべき、(4)学校拡充と書物購入の費用は、武士百姓町人に4、5銭ずつ上納させる、(5)家臣は学校に怠りなく出席するよう命じ、陪臣や凡下身分でも希望すれば出席を認める藩当局は聞き入れなかったが、子平は天明元年(1781年)と同5年にも建議し、養賢堂とは名ばかりでその実はお粗末と批判した。いずれも却下されたが、後に大槻平泉により何点かは実現されることとなる。7 大槻平泉の学制改革文化6年(1809年)、9代藩主政千代(周宗)は大槻平泉を学頭御用に命じる(同7年に正式に学頭)。大槻平泉は、磐井郡中里村の大肝煎の家に生まれ、博覧強記の志村東嶼に学び、次いで江戸に出て大学頭林術斎の門人となり、昌平坂学問所で朱子学を学ぶ。諸国遊歴の後、文化3年に仙台藩に儒官として召し抱えられ、同5年に仙台に下って養賢堂で講釈を行っていた。平泉は政千代から学制改革構想をまとめるよう命じられ、師の林述斎の意見を仰ぎ、文化7年に学制改革案を提出。その骨子は、次の通り。(1)学舎の拡充。医学部門を独立し医学官を設立。城下3、4カ所にも学校を設置(2)学問を社会に普及させるため、養賢堂で印刷出版事業(3)学校の財政基盤確立のため、一万石の新田開発(4)学頭による藩学政と教育の一元的な管理(養賢堂のみならず藩の教育全般を管理)(5)儒教教典と礼儀作法を中心としながら、歴史、詩文、地理、書道、算術など広く学ばせ、上達したものは右筆見習いや勘定方見習いとして研修(6)優秀な学生を毎年2、3人他国へ遊学させ、他国からも受け入れる(7)学習の進歩を試験して優秀な人材を藩に推薦。奉行や学校係が定期的に学校を見分。学頭が優秀な人材を直接藩主に推薦。(8)儒役の世襲制の廃止と他職との人事交流全体として実用的な人材の育成と人材抜擢のシステム確立が重視されている。儒役の世襲制廃止もこの目的のためである。8 養賢堂の充実大槻平泉は嘉永3年(1850年)まで40年近く学頭にあり、財政基盤確立や施設拡充に努めた。文化8年(1811年)に新田開発高1万2千石を学田とし、その年貢収入を運営費に組み入れた。学田は各地に設定され、仙台市内には荒井や根白石に養賢堂の字名が残っている。また、出版、硝石(火薬原料)、製造、機織りなどの事業も始めた。さらに有志の献金により養賢堂は独立採算を実現。生徒からの入学料や謝金はとらなかった。文化9年(1812年)、同11年には周辺の屋敷を召し上げて施設を順次増設。中心となる講堂は、敷地2町歩、25室からなる広壮な建物で、文化14年完成。表門はそれ以前に完成し、表小路に面した門構えは人々を驚かせた(維新後に南鍛冶町泰心院に移築)。最後に文政6年(1823年)孔子を祀る聖廟が落成。江戸に滞在する家臣の子弟の教育のため、文化7年(1810年)江戸上屋敷に、順造館という藩校を設けた。日銀総裁や東京府知事を務めた富田鉄之助も学んだ。平泉は教育を行き届けるため城下の3、4カ所にも学校を設けることを建議していたが、平泉の子の習斎(清格)が学頭を務めていた嘉永4年(1851年)に、二の丸に近い川内中ノ坂通に支校を開設したにとどまる。これは、小学校あるいは振徳館と呼ばれ、学頭添役(副学頭)が経営し、主に付近の大身武士の子弟を教育した。安政4年(1857年)には庶民教育のため養賢堂構内に日講所を開設した。江戸時代後期には庶民教育の寺子屋が普及していたのだが、困窮民が増大し一揆や打ち壊しが続発し治安が乱れていたため、庶民の教化と人心の安定をねらったものである。■大藤修『仙台藩の学問と教育 -江戸時代における仙台の学都化-』(国宝大崎八幡宮 仙台・江戸学叢書 13)大崎八幡宮、2009年■関連する過去の記事 仙台藩と学問(1)藩校の開設と芦東山(09年11月3日) 芦東山と江戸期の司法制度(08年10月2日) 岩手の生んだ大学者の芦東山(06年3月29日)仙台藩の人材育成にかけた藩の姿勢、またその内容はどうだったのか。勉強しようと思いました。大藤先生の一般向けの著書を読んでおります。3回か4回に分けて記す予定です。
2009.11.05
コメント(0)
河北新報の菅野正道さんの連載(11月4日)に、根白石が取り上げられていた。----------根白石は、仙台城下に存在した14の宿場町には含まれないが、町の出入り口と中程で直角に曲がる道路と両側に家が建ち並ぶ様は、宿場町そのもの。記録に宿場町とは現れないが、かつては仙台から宮床に通じる街道があったという伝承も残っている。また、幕府の法令を掲げる高札場が、仙台藩では宿場町以外にも例外的に根白石に存在した。根白石はある時期に、おそらく江戸時代のごく初期に宿場町であった可能性が高い。仙台城下以北の奥州街道は、富谷や七北田の宿場町が形成された元和期(1620年前後)に完成するが、それ以前の経緯ははっきりしない。そこで、奥州街道が根白石を通って宮床へ抜けていた可能性が考えられる。宿場町は、旅人を宿泊させるだけではなく、重要な機能として物資の輸送がある。すなわち江戸時代は宿場町ごとに荷物を積み替えるのが原則で、通過する物資の量を勘案して宿場町には輸送に携わる人が集住していた。直線道路の全長が600メートルに及ぶ根白石の町の規模は、七北田(推定500メートル弱)を上回る。おそらく、根白石が宿場町として機能したのは十数年程度の短期間だったのだろう。(当ジャーナルで要約と再構成)----------根白石は、奥州街道の宿場町として、短い期間だけ位置づけられたということになろう。ところで、以前朴沢について記したように、奥州街道は往古は朴沢を通って宮床に抜けていた、とされている。とすると、宿場町という制度自体が江戸期に始まったもので、街道が参勤交代の道路であるとともに、人の出入りや交易を把握し管理するための公的施設として明確に位置づけられたことと関連しているのだろうか。すなわち、街道じたいは戦国以前からあるのだけれども、本陣や高札場、馬の継立てなどが整備された宿場町の制度は江戸期のもので、根白石については、従来の奥州街道ルート(奥州山街道、秀衡街道)に沿って宿場町とされたが、その後、街道ルートが富谷とされてしまった、ということだろうか。■関連する過去の記事 朴沢の話(09年5月13日) 朴沢をめぐる(続・画像)(09年5月2日) 朴沢をめぐる(09年5月2日) 中山(なかやま)道を考える(09年3月25日) 中山道のむかし(09年3月23日)
2009.11.04
コメント(0)
2日の月曜は午後からどんどん寒くなった。私は早めに仕事を切り上げて帰宅を急いだが、車内に表示される外気は、ぐっと下がって6度。暖房の電気を今季はまだ入れていないこともあって、子供達が心配でもあり、内心急ぎながらラジオを聴いていた。NHKの6時台の、私も一言!夕方ニュース。もう終わりかけていたが、マイカー通勤を止められるか、という話題を取り上げたようで、エンディングでも触れていた。高校生リスナーからお便りで、自転車通学で定期代を浮かしていたというのがあって、伊藤博英アナが、私も高校の時は自転車通学でした、仙台なので寒かったです、と話していた。あれ、伊藤博英さんは、以前テレビの全国ニュースを読んでいたあの方でしょう。NHKサイトのプロフィールによると、岩手県遠野市出身、思い出の味としては、気仙沼のさんまに戻りがつお、花巻のわんこそば、遠野のひっつみ、とあります。岩手県なら、紅白の司会もした阿部渉さんも奥州市(水沢高校)だ。ちょっと昔だが、高橋圭三さん(花巻市)もおられる。伊藤さんの話に戻るが、NHKのプロフィールにはないが、高校は仙台二高だそうで、仙台市内を自転車で快走しておられたわけだ。私も学生の時分は、自転車で市内を走り回ったものだ。アルバイトで原付を買った事もあったが、故障したのだったろうか、最初は実家から取り寄せた自転車で、次いで先輩から借りたロードレース用の自転車で、北仙台から286まで、私の軽快な行動範囲だった。最近めっきり寒くなった。思い出すのはある年の冬だ。とりわけ低温が続いた冬だった。朝は新聞店のバイクで配達。夜は自転車で仙台市内を縦走して、これまたアルバイトの塾へ往復。昼間と夜中に、勉学と睡眠。アパートも寒いから、未明に起きるためにコートを着てコタツで寝ていた。単位もギリギリ取得できたが、あの生活を考えれば今は本当に安穏としたものだ。伊藤アナウンサーの仙台自転車生活で、ふと思い出した。
2009.11.04
コメント(0)
1 江戸期の教育をめぐる背景江戸時代に武士が文武を兼備する教育を施すため、藩校が設立された。背景には、(1)17世紀後半に泰平の世を迎え、武断政治から文治の政治に転換したこと、(2)17世紀末ころから、商品貨幣経済が発展してさまざまな社会経済問題が発生し、幕府諸藩はこれが対処を迫られたこと、(3)18世紀半ばから、幕藩体制が揺らぎ始め、体制立て直しのための人材が求められたこと、が理由としてあげられる。幕府では儒官林家の塾があったが、儒学を好んだ5代将軍綱吉が元禄3年(1690年)に移して湯島聖堂とし、諸藩士や浪人庶民を相手に公開講釈を行った。寛政改革で文教振興を図ろうとした老中松平定信が、寛政2年(1790年)に、学派争いをやめて教育の効率化をねらい、聖堂の教育研究を朱子学に一本化した(寛政異学の禁)。寛政9年には、林家の施設であった聖堂を幕府直轄とし、昌平坂学問所とする。昌平坂学問所は正規には幕臣と子弟を対象としたが、書生寮で諸藩の留学生も受け入れたので、郷里に戻って藩の儒官として藩校教育に当たることとなる。藩校は、大部分が18世紀になってから設けられた。従来から藩の役職は家格で決まっていたが、藩士と子弟に組織的な教育が行われるようになった江戸時代後期には、能力による人材抜擢が行われ、藩政改革や維新を推進することとなる。2 仙台の藩校開設前史5代藩主吉村の時代、商品貨幣経済の進展により出費が増大し、諸藩と同様仙台藩も財政難に陥っていた。特に、先代の綱村は豪壮な社寺の造営を行い、仙台城の改築、幕府から命じられた日光東照宮の普請などが重なり、凶作も頻発して財政難は深刻となった。その負担は家臣や領民に転化されて人心も離反した。吉村の時代は、藩財政の立て直しと人心刷新が課題となり、人材の育成が自覚されて藩校設立の建言が相次ぐこととなった。まず、奉行の遠藤文七郎守信が享保6年(1721年)に意見書の中で、文武の教育と人材抜擢が急務と訴えたが、吉村は出費を省いて家臣領民の負担軽減が先決で、無理に学ばせても実効は期し得ない、とこれを却下した。遠藤は享保13年にも意見書を出し、父兄が無学であるから子弟の教導もできず、大身小身とも学文をさせるべきと力説するが、容れられない。芦(蘆)東山は、享保6年(1721年)に26歳で藩の儒官に採用されると、早速吉村に7ヶ条の意見書を提出し、その中で、学校の設置と賢才の挙用を進言したが、取り入れられなかった。享保20年には具体的な学問所設立案を作成して再度進言。他方で、豪商の鈴木八郎右衛門は、息子が東山門下生であったことから、学問所建設費として1500両の献金を東山に申し出、東山はこれをもとに学問所を設立し、微禄の藩士嫡子には奨学金を支給して身分の別なく勉学できるよう具体案をつくって上申した。しかし、これも採用されなかった。享保20年には、同じく儒官の高橋玉斎(与右衛門以敬)も学問所開設を建言。これは、藩士旧宅を転用し、小規模で簡便な方法で、学問と礼法弓術を学ばせるという案で、財政窮迫の折からこの案が吉村に採用された。3 藩校の開設元文元年(1736年)11月、北三番丁細横丁西南角の藩士旧宅を修復して、藩校である学問所(学文所)が開設された。主立(学問所長)には高橋玉斎、講釈及び読書指南には、高橋玉斎、芦東山、遊佐毅斎(運蔵好篤)、佐藤吉之丞成信が任命される。午前7時から10時までは素読、その後が講釈で、儒教の教典を教材とした。また、学式により席次や礼儀作法も厳しく定められた。開設に際して、藩主吉村は次のように申し渡した。当世の学文の風として、自分の知識を鼻にかけて人の非才をあざけり、その身の行いはかえって不学の者よりよろしからざる者もいる。あるいは詩章文字を事として実学の意なき者が多い。このような学風であっては学問所設立の趣旨に反する。一章一段をもって、身を修め、心を正し、正意に向かい、専ら人倫を明らかにし、忠孝を励まし、士風をおこすことを勧めるよう教育すべし。4 芦東山の幽閉高橋玉斎の案に沿って設立された学問所だが、玉斎らと芦東山の対立という問題を当初から抱えていた。東山は元禄9年(1696年)に磐井郡渋民村の肝煎の家に生まれ、仙台城下に留学、やがて学才が見込まれて藩の代表的な儒学者田辺整斎(希賢)の門弟になる。整斎は、京都の生まれで、伊藤仁斎、山崎闇斎など江戸時代前期の代表的な儒学者に学び、綱村に招かれて仙台藩儒官となった人物である。東山は藩の費用で京都に遊学し、山崎闇斎門下の浅井義斎と三宅尚斎に学び、帰国後吉村から儒官に抜擢される。吉村の参勤交代に随行して江戸に登った際に、幕府儒官の朱子学者室鳩巣に高く評価される。一方の高橋玉斎は、仙台藩儒官遊佐木斎(好生)の門人。木斎は、田辺整斎と同様、山崎闇斎に師事した人物で、整斎とともに門人を多く育て、仙台藩の学問の基礎を築いた。このため、仙台藩の学問は、儒学と神道を合一した闇斎の学風の影響を強く受けていた。東山も闇斎の門人に学んだわけだが、鳩巣との交流を通じて朱子学に傾倒するようになり、学風の面で東山は玉斎ら他の儒官とは立場を異にすることとなった。一関市大東町の芦東山記念館所蔵文書によると、東山は、学問所の空き地に小屋を自身で建てて移り住み、読書指南も1人で行いたいと申し入れ、これに対して玉斎らは、御上の命による学問所であり指南も命によるものであるとして、東山の申し入れを拒否している。学問所設立前の構想の面でも前述のように対照的だった玉斎と東山だったが、玉斎の案が採用されたことに納得しない東山は、開設直前の元文元年10月、朱子学の祖を祀る朱子祀堂と義塾の建立を願い出、さらに翌元文2年にも佐藤成信と連名で願い出るが、いずれも却下。このため、東山と成信は、学式に定められた座列の問題を取り上げて藩首脳に意見書を出した。すなわち、学式には家の身分格式の序列、次いで長幼の順に従う、とされていたが、東山は身分格式にかかわらず長幼の順のみで着席すべしと主張。また、藩の重役が視察に来たときには役人が講師席の最上位に座っていたのを、当日の講釈を担当する講師が最上位で、役人はその背後に座ればよい、と主張した。東山は庶民の出身であり、上下の秩序にはこだわらない平等主義的な思想の持ち主であった。しかし、首脳部の怒りを買い、その思想が広まるのを恐れた藩によって、元文3年(1738年)に重臣石母田氏に預けられ、その知行の加美郡宮崎、後に栗原郡高清水に24年の長きにわたって幽閉される。この間、東山は室鳩巣から勧められていた刑法書の執筆に専念し、当時の主流である応報刑論に対して教育刑を唱えた大著「無刑録」を書き上げた。無刑録は、我が国の近代的な刑法論書の先駆として後に評価され、明治10年に元老院から官版として刊行されている。■大藤修『仙台藩の学問と教育 -江戸時代における仙台の学都化-』(国宝大崎八幡宮 仙台・江戸学叢書 13)大崎八幡宮、2009年■関連する過去の記事(芦東山) 芦東山と江戸期の司法制度(08年10月2日) 岩手の生んだ大学者の芦東山(06年3月29日)仙台藩の人材育成にかけた藩の姿勢、またその内容はどうだったのか。勉強しようと思いました。大藤先生の一般向けの著書を読んでおります。3回か4回に分けて記す予定です。
2009.11.03
コメント(0)
日本損害保険協会のサイトで、全国の交通事故多発交差点を紹介している。宮城のワースト5は、ワースト1 東二番丁定禅寺通交差点2 仙台バイパス六丁目交差点3 東二番丁広瀬通交差点4 仙台バイパス鹿又交差点5 利府街道岩切の洞ノ口交差点となっている。それぞれ、空撮写真とともに、どのような事故が多いか解説されている。安全運転に努めましょう。
2009.10.31
コメント(0)
伊達という言葉は、政宗にとっては派手・風雅ということ以外に、人生における冒険・投機をも意味した。武将としてのかれは、細心の注意をめぐらすとともに、人取橋にせよ、摺上原にせよ、また小田原参陣、豊臣秀次事件にせよ、一身を投じて局面を打開してきた。まことにかれの人生は、文字どおり、伊達であり、華麗であった。平重道『仙台藩の歴史1 伊達政宗・戊辰戦争』昭和44年、宝文堂 から(上記は原文ママ)政宗は京都に住んで桃山文化にふれ、華やかで派手に人生を享楽する側面があった。しかし、そうした外向的な面と同時に、一方では細心で注意深い。油断を戒め、また自分の生活を律し、他人に対して慈愛に富んだ。人の気心をはからないのは、政宗が最も嫌悪した心情であり、この内面の深さは、単なる武弁、単なる風雅の伊達男ではないゆえんだ。
2009.10.30
コメント(0)
昭和57年5月、仙台近郊の新興住宅地に住み化粧品のセールスをする主婦A子さんについて、近所の人たちが、盗癖がある、警察で調べているなどと陰口をたたいた。さらに、A子さんがセールス先で財布を盗んだなどと勤務先に電話して中傷。転居したA子さんは、近隣の主婦3人を相手取り慰謝料を請求する訴えを提起。昭和59年8月24日、仙台地裁は、悪口の内容は茶飲み話の域を越えた悪意の中傷であり、名誉を傷つけて精神ショックを与えたとして、1人20万円、合計60万円の慰謝料の支払いを命じた。仙台文化出版社『仙台きょうはなんの日 せんだい新書2』仙台文化出版社、1988年 から。昭和59年なら私も仙台にいたからこのニュースにも接したのだろうが、記憶がない。噂の伝播なら、ロジスティック曲線を思い出す。それはともかく、あの頃で「仙台近郊」なら泉市だろうか。近隣の主婦のトラブルは古今を問わないことだが、行きすぎは良くない。
2009.10.22
コメント(0)
現在のJR仙台駅ができたのは明治20年12月20日だが、これより先に、当時の鉄道会社は長町から宮城野原の東南を過ぎ、原町から案内に通す計画を立てていた。ところが、松平正直知事は、そのルートでは仙台区への交通が不便になるから、是非区内に線路を引き込むよう頼み、会社から大迂回になる余分の工事費用を出すならばとの条件をつけられて、3万円を仙台区民から寄附して、現在の位置になった。この時は自治制が敷かれる前だったので、仙台区医師会の有志者の他は、官僚のやることだからと誰も反対しなかった。仙台区医師会有志者は、衛生上と医学上、区の中央に停車場を置くのは不適当であると、5大要綱をあげて、仙台停車場を原町新屋敷方面に置くように要望したという。名掛丁では列車が通過するたびに遮断機を上げ下ろしし危険防止をしていたが間に合わず、木製の陸橋を設置したがかえって火の消えたように人が通らなくなり、商売に差し障りが出た。地元の有力者伊藤幾三郎氏が同乗し、上奏して停車場を他に移してもらうしかないと運動したが、既に宮城野橋(X橋)が構築されることになっていた。また、名掛丁から二十人町に抜ける地点で地下道も造られることになっていて、停車場移転はできなかった。設置が嫌われていた鉄道であったが、もし原町を通っていれば、原町は仙台圏の中心として現在とは違った発展をしていたことだろう。高砂敏夫『ふるさと仙台・原町』宝文堂、1990年 から。高砂さんは同書で述べている。政宗の仙台築城の第一候補地は榴岡であったというが、実現していれば平城を中心に発達し、原町は中心街として発達していたはずだ。これに続いて、明治期の鉄道敷設でも、発展のチャンスを失った、と。また、原町は昭和3年に仙台市に編入されるまでは宮城郡の中心で、かつては(大正15年まで)郡役所も置かれた。平成元年に政令指定都市となり、原町はほぼ全域が宮城野区となるが、区役所が陸前原町駅そばに設けられたことで、郡役所廃止以来、63年ぶりで原町が地域の行政の中心地となった、とも述べている。ふるさと原町に寄せる高砂さんの愛着を強く感じながら、拝読している。■関連する過去の日記(仙台駅の位置) 仙台駅の位置について(再び)(09年3月10日) 仙台駅の位置について(その4)(07年8月16日) 仙台駅の位置について・続々(06年7月15日) 仙台駅のはなし・続(06年7月11日) 仙台駅のはなし(06年7月10日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2009.10.21
コメント(2)
昨日の記事で昭和25年の宮城球場の事故を記したが(宮城球場の始まりと悲劇)、考えてみたら当時の原町はまだ進駐軍が闊歩していた頃だろう。当時の雰囲気を考えてみた。現在育英学園がある辺りから現在の東華中学校辺りまでは、戦時中までは広大な練兵場だったが、誰でも自由に通行ができた。苦竹には造兵廠があったが、戦後は進駐軍が入る。昭和25年6月の朝鮮動乱で大部分が移動し、その後に警察予備隊が入る。なお、市電の原町線が昭和23年に開通。高砂敏夫『ふるさと仙台・原町』宝文堂、1990年を読んで記した。著者の高砂さんは、昭和4年に原町に生まれ、地元で進駐軍の通訳の仕事をされたそうだ。当時の事情が詳しく記されていて、大変興味深い。
2009.10.20
コメント(0)
宮城野原の旧陸軍練兵場跡に宮城県は近代的な総合グランドを建設することとし、最初の施設として県営宮城球場が完成した。昭和25年5月5日、球場開き記念としてプロ野球毎日大映戦、毎日南海戦(ダブルヘッダー)が行われ、戦後初のプロ野球が完備した球場で行われるということで、早朝から2万人が集まったという。このため予定を早めて開場したが、観衆が先を争って一塁側内野席入口に押し寄せたため、入口の扉が倒れた。次いで外野スタンドに取り付けられた高さ1.5mの金網が、乗り越えようとした群衆のために30メートルにわたって倒れたため、多数の人が転倒。3人が死亡、33人が重軽傷という大惨事となった。仙台文化出版社『仙台きょうはなんの日 せんだい新書2』仙台文化出版社、1988年 から。当時の記事を捜せばいいのだが、取りあえず県議会の議事録をネットで検索してみた。昭和25年6月の議会で取り上げられている。県の突貫工事に遺漏がなかったのか、群衆の雑踏整理に手落ちがなかったか、などが論議されている。また、検索はできないものの問答の記録から伺えることとして、全員協議会が定例議会以前に開かれたようだ。群衆の行動は個人の意思や判断を遥かに超えて、荒れ狂う津波となってしまう。主催者の立案の適切さ、現場の警備の状況、また施設の施工や管理の内容なども議論されたのだろうが、それにしても、県民のプロ野球を見たいという願望に支えられた新球場のこけら落としが、一転惨事となってしまった形だ。
2009.10.19
コメント(0)
大物政治家を輩出できない宮城県だが、高橋是清を仙台藩が育てた史実は、意外と知られていないのではないだろうか。是清は維新を米国で迎えたが、渡米させたのも仙台藩である。幕末の混乱の最中にあって、多くの俊英を育てる度量を仙台藩は持っていた。高橋是清は生後すぐに仙台藩江戸詰の足軽高橋覚治の養子となる。子の無かった高橋家に大事に養育されたが、幼少の頃から大童信太夫の目にとまり、元治元年(1864年)13歳で横浜で英語を学んだ後、慶応3年(1867年)に外輪船コロラード号で渡米。このとき仙台藩は3人の少年を渡米させた。富田鉄之助、高木三郎と是清である。江戸詰の藩士子弟の教育係であった大童信太夫が、是清の恩人ということになるが、その信太夫は玉虫左太夫の門下である。左太夫は文政6年(1823年)下級武士の5男に生まれ、養賢堂に学び、江戸に出て林大学頭の塾に入門。万延元年(1860年)39歳で通商条約批准交換のために訪米する外国奉行新見豊前守の従者に選抜されて訪米。後に、養賢堂で教育にあたるが、もともと保守的な仙台藩に嫌気を抱いていた左太夫は、米国の議会制共和政治に強い関心を抱く一方、薩長の方策に対抗し藩の正使として会津を訪れるなど列藩同盟の立役者となり、議会制による北方政権を構想した。左太夫を育てたのは養賢堂の学頭大槻磐渓だ。磐渓は天皇を利用する薩長のやり方を批判し、民主国家に近い理念を語った。仙台藩は、先見の明を持ち、脈々と人材を育てていた。星亮一『東北謎とき散歩』(廣済堂出版、1998年)の「仙台藩が生んだ高橋是清」ほかの項を参考にさせて頂きました。
2009.10.17
コメント(0)
私と梅田川との関わりを考えてみた。学生の頃は、上杉山中の近くの梅田川のほとりに友人が住んでいた。とは言え、川の名前さえ気にすることもなかった。また、塾の教え子の中学生がよく口にしていたので、何ともローカルな響きだねえと感じたものだ。広瀬川のように有名でもなく、七北田川のように堂々とした流路でもなく、四ツ谷用水や七郷堀のように由緒があるネと褒められもせず。しかし名前は多分みんなが知っていて、実は気づかないけれども毎日のように橋を渡っている、そんな存在だ。名前の由来は、昔の湿地帯を埋めて田を作ったことから「埋め田」とも、また、堤町の天神社の梅の花が川に流れたことからとも。(田村昭編『仙台のバス停物語1』宝文堂、1996年による。)四ツ谷堰の下流に当たる桜川(北六番丁の暗渠)と福沢町付近で合流し、さらに与兵衛沼から藤川、安養寺大堤沼からの高野川を支流として飲み込んで、七北田川に至る。仙台城下に物資を運び込んだ、あの舟曳堀も梅田川の河口から引っ張ってきたのであり、仙台の繁栄に無くてはならない偉大な川だった。目立ちもせず由緒もない、などと書いたのは反省せねばならない。■関連する過去の記事 舟曳堀(鶴巻-苦竹)を探して(06年3月12日)「みやぎの水辺ものがたり」サイトから梅田川
2009.10.15
コメント(0)
南光台と言えば仙台を代表する郊外型大規模団地だ。旧地名では松森が大部分だが、市内から見ると東照宮や小松島を経由して入ることとなり、南光台入口にあたる地域は、南光沢(原町小田原字南光沢)と呼ばれた地域であることから、その背後の高台の団地という意味で、南光台と命名したと思われる。南光沢は現在の小松島二丁目、四丁目(住居表示は昭和47年)で、小松島沼(海老沼)、交番などのある一帯である。与兵衛沼にかけての範囲は、春にはツツジ、秋には鈴虫の鳴く風致地区であるが、昭和20年代に宅地造成が進み、さらに、旭ヶ丘や南光台が30年代に造成が始まった。当時はバス停も海老沼前(後に、小松島東北高校入口。現在は、東北薬科大・東北高校前)までだったという。東北高校が小松島(原町小田原字南光沢57番地)に移転したのは、昭和4年である。財団法人南光学園と称し、東北中学校と東北商業学校を設置した。昭和14年には財団法人東北薬学専門学校設置。戦後は学校法人南光学園に改組し、昭和35年に東北商業高校と東北高校を統合し、東北高校に。なお、薬科大は、学校法人東北薬科大学で別法人。仙台市内の某高校出身の友人は、東北高校のことをナンコウと呼んでいたという。南光台にあるから南光(高?)なのすかヤ、などとある日突然悟ったように語っていた。学校のホームページで沿革を見ると、昭和37年に帽章「南光」の文字を「東北」と改む、とあるが、昭和初期の移転と法人改称以来、自他共に「南光」で定着していたのだろう。帽章を変更したとわざわざ記しているのは、「東北高校」でアピールしたい学校側の意向か。東北高校は泉キャンパスへの統合移転構想(泉パークスクール構想。平成23年移転)を持っていたが、今年7月に断念したことがサイトで説明されている。一元化は延期し、泉と小松島の双方で今後も教育活動を行う。小松島の現一年生は三年次(平成23年度)の泉移籍はしない。なお、本年度から実施している4コース制(従来は9コース)は継続する、とのことだ。特別進学(創進コース、文理コース) 小松島 180名総合進学(文教コース)小松島・泉 400名総合進学(スポーツコース)泉 120名将来もし小松島を離れるとなれば、法人名も再改称されるのだろうか。私は一時近くに住んでいたことがある。小松島沼、瞑想の松、五城中から営林署付近の宅地を抜ける道路など散策したもので、懐かしい。その昔は仙台鉄道が、現在の東照宮駅から、小松島小学校の変則交差点、常盤台霊園をまわって、バス通りを横切り東北高校の西側に通じていたという。今は無くなったようだが、南光台に行く市営バスは宮町経由と通町経由(表記は違うかも)の2系統があって(どっちでも構わないのだが)、用事で南光台六丁目まで何度か出かけたこともあった。参考:田村昭編『仙台のバス停物語1』宝文堂、1996年
2009.10.12
コメント(4)
びゅう旅行企画商品のパンフを見て、一瞬驚いた。「乗り換えなし!!直行新幹線 仙台-新潟 秋の新潟・佐渡 満喫の旅」とある。新潟では、「うまさぎっしり新潟」と題して、デスティネーションキャンペーンを今月から実施しており、その特別企画ということらしい。10月24日(土)出発限定!!とも記されている。驚いたのは、仙台新潟「直行」新幹線。仙台と新潟はそれぞれ東京を向いているから、直行、と言ってもピンと来ない。乗り継ぎなしというが、団体列車が、上野か東京まで行って折り返すだけのことじゃないか、何もデカデカと「直行」と触れ込むような話じゃないだろう、と思った。が、直後に、そうか大宮で折り返すことに気が付いた。それなら、ある程度時間短縮のメリットもあるのだろう。パンフの行程表を読む。団体専用新幹線の時刻は、仙台駅756頃。白石蔵王、福島、郡山、新白河に停車。目的地は、越後湯沢1050頃、長岡1113頃、新潟1139頃とある。翌日の帰途は、新潟1608頃、仙台は1943頃とされている。仙台新潟間が3時間40分程度で結ばれているわけだ。仙台と新潟は、遠いわけではない。なのに、親和性が薄い。今ならETC1000円で、会津経由で高速道路で足を伸ばす人も多いだろうが、基本的にはやっぱり東京をハブにしたアクセスだろう。庄内地域や会津地方では新潟県内の地域と結びつきも強いと思うが、例えば、仙台-山形市-新潟市、のように横軸の滑らかなアクセスがあれば、と今地図を開きながら考えている。本当に「直行」新幹線があれば、仙台-盛岡と同程度だから、1時間もかからない。大宮折り返しの直行新幹線も、良いアイデアだ。これが定期便になるくらいに、仙台と新潟の結びつきが強まるなら面白いが、それにしても3時間40分という時間は、まだ「遠い」と感じる。
2009.10.10
コメント(0)
15日の午後1時半(報道によっては3時過ぎ)に、高森四丁目で突然道路が陥没したとの報道があった。深さ4メートルで、幸いに人的被害はなかったようだが、第1発見者は「背筋がぞっとした。あのまま通行していたら命はなかった」とのこと(KHBニュースから)。高森自然公園の東側だそうだ。穴の底には水がたまっていたとのニュースもある。さっそく警察が出動し、仙台市が周辺の住宅をまわって確認しているという。ご苦労様ですが、しっかり確認をお願いしたい。住民によると、近くの病院敷地内でも陥没が確認されているほか、百メートルほど離れたため池では11日から水位が急激に下がっているらしい。関係があるのだろう。ため池の水が地中に漏れだして、道路の下の土中に入って土を流した、との見方も伝えられている(仙台放送)。これはビックリ。映像でも、ハッキリとスポット的に陥没している。人や車が突然巻き込まれたら、大惨事に至るところだった。近くには幼稚園や小学校もあるし。
2009.09.15
コメント(0)
伊達政宗が自ら縄張りして築いた仙台城に入ったのは、慶長8年(1603年)の8月。政宗公は早速家臣を集めて移徙(わたまし)の式(新築移転の儀式)を行った。祝宴の最中に、城壁を築いた泉州堺の在から来た石工達が即興にスズメ踊りを舞うなど、次々に面白い踊りが続いた。興に乗った公も大黒舞を踊り出した。これを見ていた財政責任者の鈴木元信がさめざめと泣き出した。政宗公が、めでたい日なのにどうしたと元信を叱りつけると、元信は「殿に期待し、天下を握るまでの財政を立て、金山を開発し、金穀の貯蓄もなし、殿に金銭で心配をかけぬよう努めてきました。それなのに、こんな城一つで大黒舞を躍るとは、情けなくて」と言い放った。片倉小十郎景綱と、「城ができたとて殿一人の力ではない。景綱はじめ家臣一同が身命を的に、これまで粉骨砕身働いてできた城です」と言うと、刀を抜いて床柱に切りつけた。明治6年仙台城が陸軍により解体されたとき、床柱に刃の跡がしっかり残っていたそうだ。----------慶長18年(1613年)は政宗公48歳。12月15日に公は、大手門脇の茂庭氏仙台屋敷に入り、公の五番目の子卯松丸(うしょうまる)の元服式を迎えた。卯松丸の母は正夫人愛姫。2歳の時から茂庭綱元が後見人であった。儀式の後、公と綱元は昔の合戦を語り合って夜を明かした。翌日、公の機嫌を伺いに登城していた伊達成実が、茂庭邸でのことを尋ねると、公は、料理はどうも、と返事をした。どのような膳だったかと成実が聞くと、公は、大豆飯にイモノコ汁、それに生鰯の焼き物だったと答えた。あまりに粗末な膳に驚いた成実は、茂庭邸に寄り、失礼ではないかと綱元を叱りつけた。話を聞いた綱元は、刀を持つとすぐ登城し、政宗公に云った。「殿、お忘れになってしまいましたな。おごりが出ましたな。そのようなお心掛けでは百万石の政治もできませんな」と激しい口調で詰め寄った。「人取橋の合戦(天正13年、1585年)のとき、殿は一日も早く天下を泰平にして、大豆飯とイモノコ汁と生鰯を腹いっぱい食べたいと言いました。いまこそ泰平のとき、だから差し上げたのです。」19歳の合戦を思い出した公は、心から綱元に詫びた。戦国時代の武士は、平時は一日玄米5合を、朝夕2回に分けて食べ、それに塩汁か糠味噌汁だった。大豆は、騎馬一頭に一日3升、駄馬に2升を食わせるので、大豆も大豆味噌も食べられなかった。戦地では消化しやすい白米1升が支給され、塩が十人に1合、雑草や木の実のアクの中和に欠かせない大豆味噌は十人に2合が支給された。政宗公が食べたかった食事。大豆飯は、大豆を入れた白米の豆飯。里芋は戦国武士には珍重物で、その味噌汁がイモノコ汁。そして、生鰯。米沢生まれの公は赤鰯(塩蔵鰯)か干物しか食べられなかった。天正11年(1583年)17歳の公は父輝宗に連れられて亘理元宗の居城亘理城を訪れたが、その時食べた生鰯の味が忘れられなかったのだろう。■文献 逸見英夫、伊達泰宗『独眼竜政宗の素顔』宝文堂、1996年
2009.09.08
コメント(0)
朝は秋の気配すら感じる爽快な空気だった。駅に入ってオヤびっくり。随分賑やかに鳴いている声がする。気づくと、鈴虫たちがガラスケースの中で盛んに朝の歌。よく見ると、「仙台市の虫 すず虫」。そして、すず虫の里づくり実行委員会、と書いてあります。なるほど、こうして朝の通勤通学の人たちに、聴かせてくれているのか。有り難いことだ。ところで、仙台市の虫、というのは本当だろうか。仙台市公式サイトに出ている。本当だった。これまで20年以上仙台に暮らして、知らなかった。歌枕に有名な宮城野には、秋の鈴虫が風物詩だったのだろう。環境省選定残したい日本の音風景100選に選ばれている。
2009.08.26
コメント(0)
伊達政宗が来住する以前の仙台平野は、国分氏支配の下に名族が城館を構えていた。現在の国分町は、政宗開府以前に木ノ下の国分寺薬師堂周辺にいた家臣団(国分衆)を移住させたという。また、仙台城も、若林城ももとは国分氏の旧城を基にしているのであって、仙台は国分氏とその領民が基礎を形成したのである。木ノ下の白山神社は国分町移住後も国分衆によって流鏑馬などの儀式が運営され、国分氏滅亡後は遺臣(国分侍)が伝統に則り祭礼を執行している。国分氏は、鎌倉御家人の千葉介平常胤の五男胤通が、平泉征伐の戦功で国分荘33郷と名取郡を給与されて仙台平野に土着したという。胤通は、その前に鎌倉から下総国国分荘に移住して国分氏を称しており、国分氏の祖となっている。もっとも、国分氏の名は宮城郡の国分荘に由来するとの説もある。居城は、始め郷六城、次いで千代城、小泉城、松森城と当主により転々した。国分寺郷の名は南北朝期にも見え、国分寺周辺を指し、北は南目村、東は伊在、蒲町あたりで区切られていた。しかし、観応2年(1351年)の岩切城の合戦で吉良探題に味方し勝利した国分氏は、ライバル留守氏の勢力を削いで、仙台平野に君臨することとなる。十代盛忠は足利義持から宮城、名取、黒川の三郡の主政に任ぜられたとされ、北は泉区から旧宮城町一帯、東は岩切で留守氏と境を接し、南は増田付近まで、西は秋保峡から高館付近までを治めた。栄盛を誇った国分氏だが、室町中期以降南奥から北上する伊達氏と結んだ留守氏に、小鶴の合戦で敗れる(永正3年、1506年)。また、同年松森城主で国分氏の分家松森盛次の反乱があり、衰運に向かう。14代宗政が伊達家の後ろ盾を得て立て直すが、家中に意見の対立が続く。伊達家から入嗣した第十八代盛重が、政事宜しからずと政宗の怒りを買い、松森城を追われる。一説には、国分家老の堀江伊勢(掃部)が盛重の謀反の意と急襲の陰謀を政宗に通報したとされている。軍記には乱戦の中、盛重の身代わりに切腹させて自らは落ち延びた、とされるが、亡命先は常陸の佐竹氏。関ヶ原の後の出羽の左遷には同行し、横手城に一千石を充てられる。盛重には三男一女があり、三男の重広は姉の嫁いだ先の古内実綱の家督として、やがて岩沼に1万6千石を得る。なお、長男と次男は僧となり、盛重が横手城に移ってから、藩主佐竹義久の三男宣宗を養子とし、宣宗は国分(伊達)氏を称した。さらに、妾腹に伊賀重吉がおり、国分氏没落の際に、宮城郡桂島の馬場主殿をたより桂島(松島)に隠れ住み、やがて木ノ下に移り伊達家の安堵を受けて荒巻方面の開墾に従事したが、一族は国分姓をはばかり馬場、桂島を称したという。国分氏の家臣団としては、郷六、森田、八乙女、北目、南目、朴沢、鶴谷、松森、秋保、粟野、古内、坂元、白石、福岡、馬場、小泉、堀江、萱場、武田、横沢、小林、税所などの各氏があった。参考 紫桃正隆『みやぎの戦国時代 合戦と群雄』宝文堂、1993年
2009.08.09
コメント(2)
世の中あらゆる物が振動している。空気の振動である音、モーターや車輪の動き、地球も人の心臓もみな振動だ。麻生総理の心も揺れ動いてきた。鈴木浩平『振動する世界 -地球も心臓もゆれている-』ナツメ社、2009年この本を読んでいたら、酒井高男先生の名が登場していた。概ね次のような説明である。おもちゃ博士として知られていた元東北大学教授の酒井高男氏が、水の吸収と排出を繰り返す「水飲みおしっこ鳥」を考案した。スプーンを水飲み鳥に見立てて、柄の先でコップの水を飲むような形にして、皿部に近いあたりを支点に針金で支える。柄の先に取り付けた脱脂綿から、毛管現象によってコップの水が吸い上げられると、スプーンの柄を伝って皿部に流れ、水がたまっていく。水量が増えて鳥全体の重心が針金の脚で支えられた支点よりも皿部の側に移ると、スプーン(鳥)が傾いて水がこぼれて、おしっこをする。今度は頭(柄)が相対的に重くなるので、元に戻り脱脂綿のくちばしが水を飲み出す。言葉では説明が難しい。この本の絵を見れば一目瞭然なのだが。おもちゃ博士として有名な酒井先生ということだが、巻末の参考文献には『おもちゃの科学』(講談社)が引用されている。私は知らなかったのだが、ブルーバックスで1977年の刊行。物理や機械のしくみを楽しく知る名著だったようだ。何か楽しそうだし、そんな先生が仙台におられたことを(知らなかったことを恥じるが)嬉しく思う。夏休みでもてあましている子どもに、やらせてみようか。
2009.08.04
コメント(0)
読売の調査では(20日記事)奥山氏が先行し、岩崎氏が追う展開。しかし有権者の4割近くが態度を保留し、情勢は流動的としている。奥山氏 民主、社民支持層の4割近く、共産支持層の3割強、無党派層の2割 職業別には専業主婦岩崎氏 自民、公明支持層の3割近く、共産支持層の2割 地域別には、宮城野区で2割強と奥山氏と並ぶところで、市民の関心度は低くなく、投票に行く人は9割を超えている。新人の乱立も要因だが、医療、子育て、福祉、雇用対策などの課題解決を求める声が高い。という記事だが、実際に市長選挙に関心が高いのだろうか。実際に市井の雰囲気としては、あまり盛り上がりを感じないのだが、投票率はどうか。各候補が訴えるところの「市政の課題」認識が、改革姿勢などのイメージのレベルにとどまり、私にはどうも弱いように感じられるのだが、それでも新聞各紙が財政健全化や都市構造などの課題を有る程度えぐってくれているから、多少は市民の意識も高まっているのだろうか。15日の河北新報の記事では、奥山氏がかなり先行しているが、6割弱が態度未定で投票率によっては流動的とする報道だった。河北の中間情勢分析は明日の朝刊に出るのだろうか。(当ジャーナルは特定の候補や政治勢力を支援するものではありません。)■過去の記事 選挙の夏へ それにしても低調な市長選挙(7月14日)(仙台市長選挙の投票率について)
2009.07.21
コメント(0)
ずーっと気になっていた。同年代以上の人たちに多いように思う。人にも寄るが、ごく自然に「河北新聞」と言う人が、結構多い。今のところの私の推論は次の通り。例えば岩手日報や福島民報の場合は、通称として「日報」「民報」が定着している。何かのイベントについても、「日報○○大会」などと呼ぶのだと思う。岩手県で生まれた私だが、祖父は岩手日報をたしか「日報」と呼んでいたと思う。家で購読しているのは、日報のほかに、エリア紙もあったが、一応呼び分ける意味もあったのだろう。ちなみに、全国紙を購読している家は近所には少なく、たまに河北新報をとっている家があったが、「河北」と通称していたと思う。また、福島の場合は、県レベルの新聞に「民報」「民友」があるから、明示的に両者を呼び分ける事情があると思われる。仙台・宮城における河北新報の場合を考えると、例えば私などは自然に「河北」と呼ぶ。そして前提意識としては、全国紙とともに県内で購読されている一般紙を通称で呼び分ける一環として、「朝日」「日経」などと呼ぶのと同様に、「河北」と通呼する。実際に、学生時代は全国紙を読んでいたし、社会人になってからもしばらくは全国紙と併読していたものだ。だが、生まれながら河北新報が家の唯一の「新聞」という環境にあった仙台・宮城の人としては、新聞といえば河北、という意識が定着しているのではないか。つまり、新聞の一種としての「河北」ではなく、父親が日本中に何千万人といるのに「お父さん」とは間違いなく自分の父を指すというような感覚で、相対視することもない。自然な意識としては、あっ、あれね、「新聞」ね、という感覚なのだ。だが、あの「新聞」にあんな記事があったね、などと人に話すときには、さすがに相対視しなければならないから、「河北」と頭に付ける、ということになる。イベントや関連会社の呼び方も、「河北○○」とするのが一般的だ。「新報○○」とは決してやらない。先の岩手日報や福島両紙との対比で言えば、「日報」と呼び習わしているのなら、まさかそれを「新聞」とは呼び変えない。「河北」と呼び習わしているから、自然に、「新聞」とつなげることができる。以上が推論だ。どうでも良いことなのだが。
2009.07.17
コメント(0)
仙台市長選挙戦が始まり初めての月曜日。町の中心部は各陣営の声がこだましていた。そして衆院の解散が来週、総選挙は来月30日、と日程が明らかとなった。市長選挙は6人も立っている割には、どうも低調で、例によって投票率も悪いだろう。都議選の投票率が54%というのは驚いた。高い。仙台市長選挙は、藤井後継を争った前回(平成17年)が43.67%、その前は56.26%で、ちなみに市議会選挙は前回(平成19年)が46.39%である。市長選挙が平成13年に56%と高かったのは、参院通常選挙と同日だったから。その前は3回続けて30%台だ。市議会選挙は前々回(47.58%)で割り込むまでは50%台を続けていた。仙台市では市長選挙より市議会の方が、常に投票率が高い。知事と県議の選挙についてもそうだ。都会に一般的な現象なのだろうか。新潟市サイトに17の政令指定都市の投票率の比較表が出ているが、やっぱり一般に市長選挙より市議選の方が投票率は高いようだ。統一選となるためだろうか。そして、この比較表に出ている仙台市長選挙は、新人の戦いとなって投票率の高い前回(43.67%)なのだが、それでも全国6位。市議、知事、県議、国政など他の選挙では、13位とか16位とかの低調ぶりだ。概して東高西低だが、やっぱり仙台市は低いと言っていいように思う。投票率は時々の争点や現職出馬かどうか等によって相当左右されるから、一概には言えないが、以前にも当ジャーナルで何度か指摘したように、進学率、所得、投票率は、仙台・宮城の地域性を示す3低現象と言えるように感じる。(もう少しデータを広く集めて分析してみたいと思います。いずれ。)
2009.07.14
コメント(0)
全538件 (538件中 251-300件目)