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仙台駅の改修工事が行われている。東口はぽっかり空いたところにクレーンが立って、ホテルや新しい自由通路を造るということのようだ。駅のホームも仮設の足場が組まれて、所々で足元が狭くなっている。最近になると、中央改札の附近(ラッチ内)にも足場が登場していて、朝夕の混雑時には流れの支障になっている。それに合わせた措置だと思うが、中央改札を入ってすぐのコンビニ(NEWDAY)が閉鎖された。隣のそば屋さんも閉まった。先週のことだった。私はその前日の夜遅くに電車に乗る直前に買い物をしたのだが、翌朝に改札を出ようとしたら、店が閉まっていて、ガラス戸には12月まで休業しますとの告知があって、ビックリした。今週になっても、朝には必ず誰かがガラス戸の前に立ちつくしている風景が見られた。それもそうだろう。毎日ここで買い物をするのではないとしても、動線のすぐわきに明るい店舗が見えて、人が出入りしているという、体で覚えた光景が突然に消えたのだから。そう言えば、しばらく前からはコンビニ脇のパン屋さんも閉店している。窯を持っていた関係で早めに解体工事が必要だったのだろうか(勝手な推測)。
2014.05.13
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寛永4年(1627)若林に平城の若林城を建設した際に、新たに、荒町、南鍛冶町、穀町、南材木町、河原町が取り立てられ、その東部に足軽町が配置された。柴田町、成田町、三百人町、五十人町、六十人町である。これらの足軽町には、それぞれの出身地にあった氏神の分霊を勧請して祀った。柴田町は、柴田郡より召し出された足軽が居るゆえに柴田町というと、「仙台鹿の子」にある。表柴田町の東、旧東街道沿いに、白鳥神社がある。柴田郡平村(現大河原町金ヶ瀬)の鎮守大高山神社すなわち白鳥神社の分霊を勧請して祀ったもの。柴田町の南に平行する成田町は、慶長18年(1613)に桃生郡成田村(石巻市旧河北町飯野川の一部落)から召し出された旧葛西氏家臣の足軽84人が居住した町。旧東街道から100m西に入ると箱石神社がある。故郷成田村の氏神の分霊を勧請したものである。境内には集会所。旧東街道の東には冷源寺がある。浄土真宗京都本願寺末で宝永山と号する。慶安2年(1649)常法和尚が開山。境内には日本バレエ界の先駆者東勇作記念碑がある。三百人町は鉄砲足軽300人が居住した町。かつて伊達家家臣だったが、伊達家米沢移住の時に伊達郡に残留した者たちである。慶長5年(1600)政宗が上杉領の白石城を攻めたとき、説得によって参戦し再び伊達氏に貴族、寛永7年(1630)からこの地に居住したという。信夫神社があり、伊達氏発祥の地、いにしえの信夫郡(現在の福島市と伊達郡)の出身者であったので故郷の地名を冠した神社を祀ったと思われる。神社の隣の常林寺は、浄土宗で若林山と号する。明治5年にこの寺が仙台の一番小学校に充用された。現在の荒町小学校の発祥地である。五十人町は三百人町に平行しさらに南にある。旧東街道の交差点に伊達八幡神社があるが、15世晴宗の守本尊で、はじめ米沢に鎮座したのを慶長5年(1600)遷座したという。六十人町は、五十人町の南、畳屋丁に接しその東になる。旧東街道の東に城取神社がある。城下と旧南小泉村の村堺に祀ったもの。これら五つの町の足軽達は、微禄を補うため野菜類を耕作して河原町にあった市場に売りに出た。士分なので腰には一刀をさし、編笠で面部を押し隠して天秤棒を担いで野菜を運んだという。これら足軽を檀方(だんぽう)といい、足軽町を檀方町と呼んだという。■木村孝文『若林の散歩手帖』宝文堂、2000年 から
2014.03.25
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六丁の目は国道4号仙台バイパスの東側、伊在の北側に位置し、規模は東西3キロ、南北1キロ広大なエリアであるが、形状は複雑で不規則である。地図では、「六丁の目元町」など、「六丁の目」の後に続けて、元町、西町、北町、南町、東町、中町の地名があるほか、「六丁目」の大字もある。奇妙なことに、附近には四丁目や五丁目は存在しない。代わりに、南目館(みなみのめたて)、霞目(かすみのめ)がすぐ南方にある。この地名分布を知るには、古代から1千年間続いた条里制を知る必要がある。六丁の目は、郡山遺跡と多賀城遺跡に挟まれており、少なくとも7世紀から開発されてきた水田地帯と考えることが可能だ。また遠見塚古墳もあり、古墳時代(3世紀末から7世紀)をも視野に入れなければならないほどこの一体の水田開発は古いと考えられる。そして、高度な農地管理法として条里制が求められた。中国では古くから阡陌(せんぱく)法による農地管理が行われたという。農地を縦横の通路で直行させて生まれたマス目に地番を付けて管理するもので、日本に本格的に水田が伝わると同様に管理されたと考えられる。やがて日本ではそれを条里制と言うようになった。縦横のいずれかが条で他方を里としたものだ。(古墳時代に生まれた言葉とする説もある。)条と里はそれぞれ6町(60間×6=654m)づつのマス目で仕切られ、この六町四方格36町歩をもって一里とした。読み方は、「いちり」だと長さの単位と紛れるため、「いちのさと」又は「ひとつさと」だったと推定される。この「里(さと)」は行政区画として重要な基本単位に使われた。大化改新以降、「国郡里」制を敷いていたのだが、715年には新たに「郷」が加わり「国郡郷里」制(単に郷里制と呼ぶ)になった結果、従来の六町四方格=一里は、一郷に改められ、「里」は郷の中に2~3組み込まれて使用されるようになる。また、郷はさらに36の一町方格のマス目に仕切られ、ひとつひとつに坪名(一ノ坪、二ノ坪...)が付けられた。しかし、1つの坪=1町歩の面積が現在とかけ離れている。(現在の1坪=1間四方は、当時は1歩であり、これが1「町歩」の由来でもある。田地については、現在でも、反、畝、の下に「歩」が最小単位として使われている。)郷里制は25年後の天平12年(740)に廃止され、国郡郷制になった。なぜ「里」が消えたかは次のように解されている。長さの単位である一里=36町=3927mと、面積を示す一里=36町歩は、同じ表記からしばしば混乱を招いていたと思われ、郷里制下でも収まらなかったため、里を廃止し「郷」を里の代わりに「さと」と呼称することで混乱を回避したと思われる。この時点で公称の「里=さと」は完全に消えたが、俗称としてその後も使われ続けている。条里制下の長さと面積の呼称単位は同じ文字が使われ混乱が多かったと思われる。長さの「1町=60間=108m」と、面積の「1町=60間×60間=3600歩」は収穫量の把握など計算上問題が多かったろう。天正10年(1582)に実施された太閤検地では、面積計算上の端数は切り落とされ簡明なものになった。 1反歩 360歩 → 300歩 1町歩 3600歩 → 3000歩この結果、これまで1郷、1里を表現していた六町方格は、36町歩ではなく、新単位を使うことで2割増しの「43町歩と2反歩」になってしまった。こうして、「六丁の目」はいつのまにか意味不明の言葉に姿を変えていった。「六丁の目」とは、古代や中世における1つの里、郷を表す「六町方格の目」であり、極めて一般的な呼称単位だったと推測できる。条里制が衰退すると、「町」の面積単位や「坪」の意味が変化してしまった。そして中世以降の惣村制や太閤検地以降の郷村制への移行を考えるとき、六丁の目は呼称だけが残りその本質的意味合いは誰もわからないものになってしまったのだろう。この意味不明の言葉が、固有、特有の表現とみなされ、公式に地名として認められるようになったと考えられる。■勝又秀夫「条里制と地名「六丁の目」」(宮城県地名研究会「地名」第31号、2010年から)
2014.03.22
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何気なく古い地図を眺めたとき、柏木三丁目に見つけた。市立女子高(定時制)とある。北八番丁通りの北、今では市民センターになっているようだ。古い地図と言ったが、昭和50年代後半で、大昔ではない。高校を出て仙台に来た時分に買った地図だ。中学や高校を仙台で過ごしていたら知っていたのだろうが、あるいは柏木の周辺に住んでいれば気づいたのだろう。しかし、当時にそんな高校があるという意識はなかった。市立女子高校は昭和58年(1983年)まで存在した。この年には五輪に仙台図南萩陵高等学校が、いずれも定時制高校だった仙台図南高(男子校)と仙台市立女子高を統合し、共学の定時制高校として開校した。この時、女子高の校章であった「萩」の字を校名に加えたのだそうだ。なお、今では、その図南萩陵高に代わり、平成24年に仙台大志高校が昼夜の定時制として開校している。
2014.03.18
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広瀬川の名前は、政宗が伊達家のかつての本拠である伊達郡の美しい川の面影を重ねて名づけたという考え方がある。伊達郡川俣町の人たちはそう信じて誇りに思っている、という。しかし事実は異なる。広瀬川という川の名は、川俣だけでなく全国各地にある。前橋市利根川の支流、奈良盆地の葛城川、鹿児島県出水川など。川の中流域に水が深くよどむ淵と、浅く速く流れる瀬が交互に現れることが多いが、各地の広瀬川はいずれも深い瀬があったことから起こったという。歴史的には正平6年(1351)、当時官軍に属した伊達、田村両氏が足利方探題吉良貞家と戦い、11月22日広瀬川の戦いに勝利したことが記録されている。また、鎌倉幕府の史書「吾妻鏡」の奥州合戦にも名取川と並んで広瀬川の名が出てくることから、少なくとも鎌倉以前に名づけられたのは間違いない。ところで、広瀬川はかつて上流では愛子川、郷六川、仙台付近では仙台川、大川、大橋川などとも呼ばれ、雅名として青葉川、水無瀬川ともいった。これが一般に広瀬川と広く用いられるようになったのは、明治以後と言われる。また、昭和30年の宮城町誕生(大沢村、広瀬村、新川村)まで存在した広瀬村は明治22年4月に誕生したが、それまで、熊ヶ根、作並、上愛子、下愛子、郷六の5村に分かれていた広瀬川右岸一帯を合併する際に、どれか一つの名を残すのでは収まらず、川の名を冠したのだという。冒頭の広瀬川政宗命名説は崩れたが、それでも伊達郡の広瀬川に政宗が深い愛着を持っていたと信じている人もいる。政宗は、岩出山から出る際に、居城候補地として、青葉山、榴ヶ岡、日和山(石巻市)、大年寺山の4つを考えていた。本当に望んだのは水利に恵まれた日和山とか、都市経営に利のある榴ヶ岡だったが、築城の許しを家康に求める際に第一候補は許されまいと考えて第一に青葉山を挙げたという話が伝えられている。しかし、伊達ゆかりの地をしのんだからこそ、同名の川が流れる青葉山を選んだのだ、というのだ。今のところ、この説にはっきりした根拠はない。■朝日新聞仙台支局編『宮城風土記1』(宝文堂、1984年)から■関連する過去の記事(上掲書から広瀬川に関して) 愛宕下の発電所(2013年11月25日) 鹿落旅館のこと(2013年11月24日)
2013.11.30
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前回の記事に続いて、広瀬川に関する30年ほど前の新聞連載を読んで記します。■前回の記事 鹿落旅館のこと(2013年11月24日)■朝日新聞仙台支局編『宮城風土記1』(宝文堂、1984年)から------------川内追廻の広瀬川河原に、高さ4メートルほどのコンクリートの塊が残っている。気づく人は少ないが、大正末頃、約2キロくだった向山の愛宕下で仙台電気工事会社が行った水力発電の貯水用堰堤の残がい。川床の堰はその後大水で流されて跡形もない。しかし当時は堰を越えて落ちる水がナイアガラの滝のように壮観だった、と「大橋茶屋」の主人奥山さんは言う。堰堤の上流は、3、4メートルの深さがあり、格好の水泳やボートの遊び場になった。発電用水は追廻側の取水口から地下に入り、一度地上に顔を出したあと、竜ノ沢口を越えたところで再び地下に潜り、直径2メートルほどのトンネルを通って、約1.5キロ地中を流れ、愛宕山の下で顔を出した。発電所は大正9年から何年か続いたが、高低差が小さくうまく行かずにしばらくしてやめたという(奥山さん)。しかし、水の流れがもったいないので、昭和の初めに河原を掘ってプールを作った。「愛宕プール」と呼ばれ結構評判だった(奥山さん)。逸見英夫さんによると、仙台のプールで最初は一番丁に昭和2年7月オープンの「仙台プール」で、愛宕はその少し後の2番目。通水用トンネルは後に東北大で実験に使ったりしたが、今では経緯を知る人は少ない。------------思うに、広瀬川が大橋の下流で大きく蛇行することに着眼し、竜ノ口付近から愛宕下に直結するトンネルで導水すれば、本流が評定河原方面に迂回して戻ってくる分だけ効率的に高低差を得ることができるという発想なのだろう。確かに、地図で見れば、大橋の下流は、花壇で回折し、また霊屋下でも屈曲し、愛宕下まで見事にS字を描いていく。資料によると、取水口は追廻の河畔。私の地図には、東北電力の施設という表示がある場所が関係があるのだろう。川を挟んだ対岸の花壇には、銭形不動尊との記載がある。そこから川沿いにトンネルとなるが、青葉山公園テニスコートに並行する頃には開渠となる。そして、竜ノ口橋付近で経ヶ峰崖下からトンネル部に入る。トンネルは向山のバス通り沿いに長徳寺下まで進み、そこから広瀬川沿いに愛宕神社北側で発電所に至るという経路のようだ。長さ1375メートル、高低差0.985メートル。内部の高さは2から3メートル程度。また、この地下トンネルには、広瀬川の段丘崖に出る横坑が計5本ほどあった。私が仙台に来た最初は向山に住んだ。その頃、広瀬川の南側のこのあたりは地下にトンネルだらけだ、などと誰かに聞かされた。亜炭の坑道のことかも知れないし、この発電所のことだったのかも知れない。いずれにしても、仙台の中心部に、こんな天然の断崖と蛇行する川があって、歴史と自然豊かでまた近代産業遺跡の雰囲気もある、こんな土地も間違いなく珍しいことだろう。
2013.11.25
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霊屋橋を渡って広瀬川沿いに向山にのぼる鹿落の坂。狭くて急な坂だが、バス通りでもあり交通は頻繁だ。坂の途中に鹿落旅館がある。朝日新聞仙台支局編『宮城風土記1』(宝文堂、1984年)に鹿落旅館のことが出ている。以下に要約する。------------鹿落坂大断層は10メートル以上の逆断層で地殻変動の貴重な記録だが、ここには、地中深く流れ出す冷泉があり、古くから傷病の薬効で知られる。遠藤宗吉さんが経営する鹿落旅館の内湯に引かれている温泉がそれで歴史は古い。遠藤さんの妻の話す由来。昔身ごもった鹿が広瀬川を渡って米ヶ袋に水を飲みに行く途中、誤って崖から滑り落ちた。この時、温泉を見つけて傷の治療と安産のためにつかったという。鹿落のシカは、カモシカともシカとも、イノシシとも言われるが。遠藤宗吉さんが旅館を経営し始めたのは昭和14年。前の経営者は琵琶の師匠さんで、遠藤さんに譲るまで47年間湯治下宿を開いていた。その湯治のトタンの説明板に詳しい由来が書いてあったが終戦直前の大空襲で焼けた。温泉の歴史を知る手がかりは、旅館裏の氏神様だけ。三ザルを彫り込んだ石彫には延宝8年の文字が見える。冷泉と関係あるとすれば少なくとも300年の歴史があることになる。冷泉の温度は15度前後。温泉法の定める25度に達しないため正式に温泉とは言えないが、仙台市街地にある鉱泉としては唯一だ。源泉は旅館の裏の地下深くにある。東北大学の鈴木励子助手が53年に調査した。鉄とカルシウム分が多い「鉄鉱泉」。調査後の宮城県沖地震で水量はさらに増え、大半を未利用のまま広瀬川に放流している。若主人の直美さんに案内してもらい旅館裏の洞穴に入り、約100メートル奥の源泉を訪ねた。真っ暗闇の穴の中をわき水が地中の川となって流れている。水中の鉄分がサビとなって穴の中に1メートル以上も堆積。若主人がスコップで掘り流して源泉に辿り着く。高さ5メートルから勢いよく水が流れ落ちていた。旅館の温泉は源泉から直接パイプで引いている。そのままが薬効はあるのだろうが、鉄の匂いがきついのと、念のためという保健所の指導で鉄分を濾過して使っている。源泉をそのまま沸かしてくれと言う客の希望に応えて、もう一つ湯船を作ろうと思っている、と若主人。鉄分の多さは相当のもので、源泉にもぐった日に掘り起こしたサビ泥で、下流一帯が赤濁し県や仙台市に公害だと電話が殺到したほど。旅館には常連客も多く、大相撲仙台巡業で3つの部屋が常宿にする。------------かつて若い頃、鹿落の坂は、私もよく通っていた。登り切ると料亭の東洋館だが、その下の、坂の中途に鹿落旅館の看板があり、バスの窓から眺めたものだ。仙台の中心部に歴史をたたえる鉱泉だ。鹿落旅館は、その上の東洋館もそうだが、2年前の大震災で大きな被害を受けたと報じれられていた。今はどうなっているのだろう。
2013.11.24
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以前田村昭さんの著作を読んで、花街の概史を記した。■関連する過去の記事 仙台の花街(07年2月10日)『目で見る仙台の歴史』(宝文堂、1980年増補改訂版)には、何枚かの絵や写真が紹介されている。南幸楼錦絵明治2年針生庄之助なる者が官許を得て国分町の西側に貸座敷を開き、4年にその東側に移り、中正楼と称して繁盛を極めた。新盛楼、舞鶴楼、南幸楼など約20軒の吉原風の妓楼が軒を並べていた。(画は宮城国分町南幸楼三階之図。)常盤町の妓楼国分町の妓楼は10年続いた。県令宮城時亮は明治12年片平丁支倉寄りの広瀬河畔に移させ常盤町と称した。今の元常盤町一帯はこの花街の跡である。当時今の市民会館のところに吉原まがいの大門と見返り柳があり、西側は大見世、東側が小見世であった。(画は常盤町遊郭之景。上田文斎、日本名所図絵)新常盤丁遊廓(丁は原文ママ)常盤丁にあった遊郭は川内兵営の向かいにあったので、明治27年陸軍の反対で小田原に移り、新常盤丁と称した。2階、3階の楼廓造りが軒を連ねた。維新後さびれた宮町は活気づき、日清日露の戦後好況時代には弦歌のさざめきが絶えなかった。終戦後の廃娼法により、建物は旅館となり、旅籠町と改名した。(写真は、新常盤丁全景、妓楼)
2013.11.16
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泉区の七北田公園は地図では、その北半分が泉区七北田字赤生津とされている。また、泉中央から七北田公園西口を経て北環状道路方面に抜けようとすると、七北田川を越えるが、この橋は「赤生津大橋」である。宮城県の地名研究で高名な太宰幸子先生によれば、赤生津(あこうづ)は、阿久戸、阿久津などとともに、アクタ(川沿いの低湿地で水はけの悪い地)の転訛という。(太宰幸子『地名に込められた伝言 災害・崩壊・津波地名解』彩流社、2013年)雨や豪雨の水がなかなか抜けにくい地に多くある地名だが、その大雨や洪水で肥沃な土が運ばれることが多いので昔から稲作が行われ、決してその地を捨てるようなことはなかったようだ。栗原市志波姫の一迫川流域に「阿久戸」(あくと)があるが、アイオン台風で土手が切れた。大崎市鹿島台の「阿久戸」(あくど)は鳴瀬川が蛇行する氾濫原で古くから大雨などで水はけが悪い。「赤生津」の地名は、登米市豊里町(旧北上川)、奥州市前沢区(北上川)にある。前沢の赤生津は北上川が大きく蛇行し一関遊水地のすぐ上流。昭和30年には豪雨で赤生津橋が流失したほか、平成14年、19年にも浸水被害が発生した。泉区の赤生津は、古くから七北田川の氾濫原で、開発の際にもこれを認識して公園とした(上掲の太宰先生の書による)。仙台市建設局の資料(橋梁長寿命化修繕計画。平成23年)によると、赤生津(アコウヅ)大橋(112.2m)は経過年数22年。下流の「かむり大橋」28年に比べると意外と新しい。■関連する過去の記事 飛び地の多い上谷刈(2010年11月15日) 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2011年10月23日) 七北田川を考える(07年10月3日)
2013.10.14
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日本経済新聞に記事があった。ロータリー型の交差点についての話題だ。交差点に差しかかった車は、時計回りに周回して、目的の道に左折して出て行く。ラウンドアバウトと呼ばれる方式だが、皆が速度を緩めて交差点に入るので、事故がない。また、信号を設けないので維持費も要らない、ということだ。おそらく、信号待ちがないため、交通の流れもスムーズになると思われる(もっとも、直進車は青信号に比べれば若干遅くなるかも)。日経の記事では、日本では飯田市に例がある、と出ていた。飯田市の例は、ネットで見ると、最近交差点をラウンドアバウトにしたもののようだ。信号を廃止してラウンドアバウトにしたのは日本では初めて、という説明もある。たしかに、この方式の利点は、皆が緩速で走ることで事故が減ること、信号がないこと、だろう。逆にデメリットを考えてみると、(1)円周部のスペース(用地買収)が必要になる(2)自転車や歩行者は最短経路を封じられるという辺りだろうか。当ジャーナルでは、仙台のロータリー交差点をコレクションしたことがある。■関連する過去の記事(仙台のロータリー交差点) 仙台のロータリー(その12)中山吉成(その2)(2011年1月11日) 仙台のロータリー(その11)中山吉成(その1)(2011年1月10日) 仙台のロータリー(その10)桜ヶ丘ロータリー(2011年1月9日) 仙台のロータリー(その9)葛岡墓園正門前(2011年1月2日) 仙台のロータリー(その8)名取市相互台東(桜坂)(2010年12月4日) 仙台のロータリー(その7)名取市相互台(2010年12月3日) 仙台のロータリー(その6)日本平(2010年12月2日) 仙台のロータリー(その5)ひより台(2010年11月27日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 仙台のロータリー(その3)永和台(2010年11月22日) 仙台のロータリー(続)(2010年11月22日) 仙台のロータリー交差点を考える(2010年11月21日)(向陽台ロータリー)■調査成果の地図です。どちらかというと団地内の生活道路の交差点が多く、大量の交通量を制御するという趣旨よりは、事故防止や景観ないしデザインのためという気がする。もし、飯田市のように市街地の交通制御と事故防止、また維持費の低減、という観点から効果がありそうなスポットを、仙台で考えるとどうだろうか。たとえば、錦町交差点はどうだろうか。信号はごく近接して2セットあって、実は2つの交差点なのだが、合わせてみれば5差路の交差点ということもできる。現に、信号制御は連動していて、3パターンを繰り返している(愛宕上杉通の直行、定禅寺通の直行、花京院通と愛宕上杉通、の3パターン)。2交差点全体を包摂するように、やや広めに円を描けば、都心部のシンボルともなるラウンドアバウトができる。...と一応考えてみたが、実際にはケーブルテレビの建物や交番などを移転させることになるだろうから、やはり非現実。
2013.09.05
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日曜の夜はすっかりダウンしていたので、月曜(12日)早朝のニュースで聞いていた。仙台市長選挙の結果。現職が181,735票、新人が62,178票。ここまで聞いて、結構票が入っている、合計25万弱だから投票率も30%台後半まで「持ち直した」と私は直感で思ってしまった。しかし、このあとニュースは続けた。投票率は30.11%で過去最低と。アレレ。私の観念的な誤りの原因は、仙台の未成年人口が3割という昔の感覚があったからだ。検証してみよう。今回の選挙。当日有権者総数840,667人。投票総数253,097(2人の得票のほかに無効票7,184を含む)なので、投票率は30.11%だ。過去の仙台市の人口構成を見ると、次の通りだ。1975 15才未満23.9% 65歳以上5.6%1980 23.6 6.32005 14.1 15.9粗い把握だが、選挙権を持たない20才未満は、1975年頃だと概ね3割と言える。これが最近ではほぼ半減したのだ。さて、投票率は過去最低。それでも何とか30%を切らなかったことは、仙台市民全体でも内心ほっとしているのではないか。やはり20%台というのは大自治体として、はずかしい。当ジャーナルでは宮城の政治意識をしばしば取り上げたが、仙台市や仙台市民がいずれにしても牽引している県だ。皆さん、投票ご苦労様でした、今後も一票を是非行使しよう。投票は 行かないことには 意味がない(小田島駄作)
2013.08.13
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仙台市市民文化事業団のプロジェクト。亜炭や埋木のツアーや投句募集など、数十年前の亜炭の暮らしを「掘り起こす」動きのようで、大変面白そうだ。パンフレットには次のような説明が。亜炭は戦後の仙台市内で風呂用としてごく一般的な燃料であった。燃えると微妙な匂いが漂い、たそがれ時ともなると路地に紫煙がたなびいた。その匂いと煙で夕方になったことを知り、一家だんらんのぬくもりを教えてくれた。(市史せんだいvol.12より)仙台は足元から生活燃料が採れる街でした。また同じ地層からは、地元の工芸特産品「埋木細工」の原木も産出され、一家にひとつはアルトもいわれるほど普及していました。しかし時は流れ、かつて大人達を手伝って風呂の焚きつけをした子どもたち(今や還暦越え)の記憶からも亜炭は消えつつあり、埋木細工もまた、現在では最後の工人ひとりを残すのみとなってしまいました。地下鉄東西線工事が青葉山の亜炭層を掘り抜いて奇しくも時代の地層が開かれつつある今、ひとむかし前の仙台のくらしの風景を、当時を知る方々の証言とともに再発見してみたいと思います。現在、メディアテークで亜炭や埋木などについての展示をしているという。
2013.07.26
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クマには何の責任もないのだけれど、最近あちこちで出没して人間様の世界で話題になっている。こんどは仙台の中心部にほど近いところだ。昨日(22日)には仙台の川内亀岡北裏丁で1メートルの子グマが、出た。朝の6時40分で、新聞配達の人が110番通報したのだそうだ。警察はパトカーで周辺を巡回し、注意を呼び掛けたというのだが、管轄は何と仙台中央警察署だ。報道では、亀岡北裏丁の山林、という。北裏丁とは、亀岡の公務員住宅と牛越橋の間のバス通り沿いだ。成田山の方から山を下りてきたのか。人間様は騒いでいるだろうが、もともと青葉山は豊かな森で、国分氏や政宗が後から天然の要害と目をつけたのだ。西の郷六に伊達家が自然と親しむための御殿があったと聞くが、今ではもっとの西の郷六折立や栗生まで団地開発して人間様のすみかとなってしまった。そもそも仙台は自然豊かな町だったのだ。書物を見ても、昭和の頃まで中山や向山で狼や鹿が鳴いていた。宮城野では鈴虫。もっとも、クマにとっても人にとっても、事故がないことが大事。クマたちも、いや~クマったと思っているはずだろう。
2013.07.23
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アイリスオーヤマが家電に本格的に参入するため、今月7日に、大阪は梅田の大阪駅前第四ビルに商品の研究開発拠点となる大阪R&Dセンターを開設した。関西の大手電機メーカーが不況でリストラした退職者を採用したという。大山社長は、家電発祥の地の大阪には、同社が目指すものづくりのスキルを持つ人が多いと述べたと報じられている。大阪は家電発祥の地、と言われればパナソニックやシャープなど、なるほどと思う。一般に使われる言葉かどうかわからないが。宮城の企業が分厚い関西経済界に入り込み、不況の我が国家電業界に旋風を、となるか。
2013.07.11
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午後から用事で市営バスに乗った。新しい車体のようで、停車すると少し全体が沈むようだった。そもそも床がフラットなのだが、一層乗りやすくしたのだと思う。さて、車中には、県外からの観光客と思われる方々、校外学習だろうかこれも県外の中学生の一団などが乗っていた。青葉通りを過ぎて博物館国際センター前のバス停。乗客の大部分はここで降りたのだが、その際の一コマ。私は運転席のすぐ後に座っていたから、一部始終はよく見えた。ご夫婦とみえる方が運転席越しに見える国際センターを見て、あれが博物館だね、と。運転手は、イヤイヤ、降りて行けば看板あるから、と。今度は、中学生の一団の一人がが200円を料金箱に入れてしまう。本来運賃は180円なのだが、彼女はおつりが出ないことを知らないのだ。運転手にそう言われて彼女は仕方ないと思ったのかそのまま降りたが、運転手は、あらかじめ両替と言っているんだ、と言葉を吐きながら次の男子中学生には、指で催促するように両替の挿入口を指し示すなどしていた。さすがにこの運転手も、女子中学生には20円を返そうと機械から出したのだが、返すに際しても、単にオウオウと言って中学生を呼び戻す有様だった。一体、この運転手は何なんだろう。道ですれ違う一般人だって、博物館は国際センターとは反対側で信号を左に行けばいいと、普通は教えるだろう。人を呼び返すのなら、せめて、スミマセン今の学生さん、ぐらいは言うだろう。何たることか。悲しい現実だった。GWも後半、DC効果もあってか仙台駅は人がたくさん。リュック姿の人も多く見かけた。震災もひとつの旅情を提供しているのだろう。何気なく駅2階の観光案内所に入ってパンフ類をながめていたら、ある初老の女性が、石巻に行くんだけど列車直通がないのですか、などと聞いていた。これに対しても、カウンターの人の説明はイマイチだった。聞き耳を立てたわけではないから正確にはわからないが、どうも全体像を示すことなく端的に、行ける行けない式の返答だったように聞こえた。できれば、どの交通手段、何時何分にどこから乗って、と教えて欲しいものだ。仙石線は途中で代替運行、小牛田から石巻線なら行ける。仙台から一番早いのはバスになる、ということだが、地元の我々と違い遠来の方には、石巻線と仙石線も混同しそうだし、丁寧な説明がないと解りにくいのだろう。そもそも、2年経っても鉄道が寸断されていること自体が、この御婦人には驚きだったようだ。一人旅のようだったが、おそらく、被災地を訪れようと思い立ったのではないか。旅慣れない人にも、何かが足を運ばせるのだろう。私は一県民として、内心で御礼を言いたい気持だった。DCとは、実は受け入れる側の質の改革運動なのだ、と聞いたことがある。実感、だ。
2013.05.02
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霊場金華山の異次元の偉容。寒慄を覚えるほどの存在感。石川善助が詩「空観」に金華山をうたった。詩集『亜寒帯』に収められているもの。仙台・宮城と関わる文学の断片を集めたアンソロジーで、出会った。この詩はもちろんのこと、石川善助の名も初めて知った。■仙台文学館監修『ふるさと文学さんぽ 宮城』大和書房、2012年石川善助。寒々とした風の中で、金華山に立っていたのか。高村光太郎は、寒さが充満していたとこの詩人の詩を評したという。1901年仙台に生まれ、1932年に飲酒後に線路脇の側溝に転落。31歳の若さで生涯を終えた詩人。幼少期より歩行の困難を抱えた。仙台商業学校在学中から詩作をはじめ、呉服店、出版社など様々な職に就きながら、1932年東京の草野心平宅の2階に移る。その年の6月に生涯を終えた。なお、この本に収められている作家名を書き出してみる。島崎藤村太宰治井上ひさし相馬国光木俣修いがらしみきお魯迅水上不二石川善助スズキヘキ与謝野晶子斎藤茂吉田山花袋白鳥省吾土井晩翠松尾芭蕉ブルーノ・タウト榛葉英治新田次郎河東碧梧桐菊池寛遠藤周作
2013.04.22
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朝からみぞれ混じり。そのうち本格的に雪になった。午前中のニュースでは平成11年以来の降雪と伝えていた。家にいる下の子が生まれる前のことだなどと教えていたら、今度は昼のニュースでは、仙台は昭和22年以来66年ぶりとなるこの時期の積雪だという。さっきのニュースとの違いは何。と子に聞かれ、降雪と積雪の違いだと教える。昭和22年なんて昔のことだと、「この時期」といっても旧暦とかになって比較できないんじゃないの、と子どもが心配をする。いやいや、明治以前じゃないから太陽暦で大丈夫。しかし、子どもの人生のスパンからすれば、相当昔の感覚なのだろう。ところで、「この時期」とは4月20日を過ぎてからの積雪ということのようだ。以前にも記したが、仙台の降雪の最晩記録は5月3日(1991年)。積雪の最晩記録だと、4月23日(1947年)。つまり昭和22年のことだ。■関連する過去の記事 四月の雪を考える(2010年4月17日) 花と雪(同じ日)
2013.04.21
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今回も下記文献からのお勉強。アイヌ語で読み解けるとされる仙台の地名について。■太宰幸子『仙台城下の地名』(国宝大崎八幡宮 仙台・江戸学叢書14)大崎八幡宮 仙台・江戸学実行委員会、2008年■関連する過去の記事(同文献からの記事) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 縄文海進海退の跡を示す地名(2013年4月15日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日)(県内の災害崩壊地名)アイヌ語で解ける地名は青森県、秋田県、岩手県に多いが宮城県内でも仙台以北に確認される。多くは、古代城柵のあった地点を結んだ直線の前後から北に分布。仙台市内では次の3つの地名などが、アイヌ語で解けるとされる。(1)案内燕沢と東仙台に統合されて消えたが、案内住宅やバス会社の案内車庫の呼び方が残る。案内は ara-nay で、もう一つの川の意味。燕沢エリアには、北に高野(こうや)川、南の東仙台エリアには藤川が流れ、藤川のそばの高台(東仙台5丁目)に案内公園がある。このあたりが案内住宅とよばれたようだ。高野川は与平沼(ママ)から流れ出るが、昭和4年に井戸を掘った際に湧き出た案内温泉(案内荘)がある。(2)日辺名取川と広瀬川の合流地点に開けた場所。洪水が度々あったのではないか。アイヌ語では nit-pet で、流木がたくさんある川の意味。アイヌ語を話した人が住んだ頃は上流からたくさんの気が流れ着く土地だったろう。(3)茂庭北海道の藻岩と同じ。mo-iwa 小さい山だが、どちらかというと霊山のような所を言ったようだ。太白山がそれかも知れない。■関連する過去の記事(案内について) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日)
2013.04.18
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いやしかし今日の風は強かった。朝はJRが不通と聞いて、全然風がないじゃないかと思ったが、昼から夕方にかけては猛烈だった。今日のアメダスを見ると、仙台の最大瞬間風速は13:13で30.8m/sと。県内の最高は名取の33.4のようだ。ちなみに仙台の記録は41.2で、1997年3月11日とのこと。他地点でも、最大記録は3月や4月が多い。仙台の今日の最大瞬間風速の秒速30.8メートルは、時速に換算すると111キロになるだろう。また、97年の最高記録の秒速41.2メートルは、時速148キロにあたる。プロ野球のストレートの早さだ。いま、Kスタではロッテ戦をやっている。0-4でリードを許す苦しい展開。風に乗りたいイーグルスだが、荒れ狂う春の嵐にとまどっているか。こんな時こそ、AJや牧田の一発で流れを引き寄せて欲しい。(またロッテが満塁... 今から車で出かけますので。)
2013.04.08
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伊達氏の先祖は常陸の伊佐庄中村とされる。ただし、伊佐は伊佐城跡のある茨城県下館市中館に比定されるが、中村は北に8キロほどの栃木県真岡市中(旧芳賀郡中村)を中心とする地域である。伊達氏の先祖はこの常陸国と下野国の両地域を領有していた。旧芳賀郡の中村の庄は12の郷からなり、明治以降も芳賀郡内の自治体として中村が存続した。保元元年(1165)に中村朝宗が築いたと郷土史は伝える。中村の庄の総鎮守中村八幡宮のすぐ東南の位置にある。もともとこの地方は下野守源義朝の管轄だったが、保元・平治の乱により高松院蔵人朝宗が中村に下向して、八幡宮社壇の巽に保塁を構え、中村の荘を管領して中村太郎藤原朝宗と称した。その男(子)が、下野国中村荘と常陸国伊佐荘を管領し、常陸介に任ぜられ、中村常陸介宗村と称し、剃髪して中村常陸入道念西と号したと伝えられている。この念西が、頼朝の妾の父であり、また伊達氏の先祖である。(念西が伊達氏の始祖であるが、この念西の実名が朝宗なのか宗村なのか、或いは2人は同一人物なのか、など諸説がある。中村では、朝宗が保塁を築き、宗村が伊達郡に行ったので、宗村が始祖としているという。)中村宗村はよく牧民治水に精通し、勝瓜口用水の始祖を築くなど水利を開拓したという。現在の中村城はほとんどが真言宗遍照寺の領域になっている。中村(真岡市)と伊達氏のつながりはきわめて深く、中村八幡宮にある品々は伊達氏とのつながりを示し、また文書にも記されている。それにもかかわらず多くの人に知られていないのは、伊達家において先祖崇拝の儒教精神が強くて藩主の絶対化をしようとしたこと、また、中村が歴史的に常州下館藩領となった経緯などから常州中村(明治期に中村も実在)と混同されてしまったこと、によるのだろう。■土生慶子『伊達氏の源流の地』宝文堂、1994年 から中村では伊達氏のための祈願や法華三昧が継続されてきた。土生氏の現地訪問を機に、仙台藩志会がこのことを知り、真岡市では市を上げて歓迎をすることとなり下館市とともに明治以来の交流が実現したという。
2013.04.06
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以前記事にした。福田町二丁目の十一面観音堂だ。■過去の記事 十一面観音堂(シリーズ仙台百景 27)木村孝文『宮城野の散歩手帖』(宝文堂、1999年)を久々に読んでいて、あるページに四野山観音堂とある写真をみて、もう6年前にブログ記事にした際の写真を思い出したのだ。以下は上記文献の説明だ。------------四野山観音堂は、延暦年間坂上田村麻呂の創建、あるいは天平宝字元年の勧請とも伝えられている。木ノ下の国分寺より宮城野原を通り、旧四野ヶ原(現卸町・扇町)から四野山観音堂に至り、雲洞院に北上する道を古街道といい、原町、苦竹を経て福田町に至る道は新道街道といっている。宮城野原から続く地帯は、新田開墾のはじめ頃には、四軒の家すなわち四家(よつや)があったとのことで、同音文字の四野(よつや)によって、四野(よつや)ヶ原といわれたという。(菊地勝之助『みやぎ郷土小辞典』)四野山観音堂の本尊は十一面観音で、もと高さ一寸八分(約5.4cm)の黄金仏だったとのことであるが、一時紛失したが後堂前の柳の樹の空洞で発見したが、再び紛失したという。現在のは木像である。このいわれによって、当観音を柳の観音ともいっている。安永3年の風土記には、観音堂の別当は羽黒派修験四野山不動院で、繁応が慶長3年に開院したこと、またこの観音堂は奥州三十三番札所の七番と書出されている。しかし他の文献では奥州三十三観音の中には入っていない。境内には十五基の石仏が造立されている。弘安9年の板碑は裏面は庚申塔に利用されている。彫りくぼめに一面六臂の青面金剛を浮き彫りにし、邪鬼を踏み、下には三猿、上には日月瑞雲が刻まれている。------------
2013.04.02
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センバツでは今日仙台育英が惜敗した。昨秋の神宮で優勝して期待も高かったが、まずは善戦をたたえたい。ところで今年のセンバツのTV中継で、試合と試合の合間に過去の名場面を見せる。その中に大逆転勝ちというテーマの一コマがあって、逆転サヨナラ本塁打が従来2回しかない(?)という説明のもとで、あの04年(平成16年)第76回大会の準々決勝、済美×東北が取り上げられた。8回まで6-2で東北のリード。9回裏に大逆転を喫するのだが、マウンドにいたのはダルビッシュではなくマカベッシュだった。ああ、そうだった、と思い出した。あの年、宮城県民は東北高に全国制覇の夢を本気で託していた。仙台を選んでくれた超高校級の天才ダルビッシュ有と、地元宮城出身の実力派で黒メガネの真壁賢守の2人が投手として人気だった。それに加えて、投手では采尾もいて層があつく、打撃では加藤、横田、大沼、森などがいたと思う。頂点を十分ねらえる布陣だった。ダルビッシュが1年生の年、東北高校は秋の東北大会で優勝。03年(平成15年)第75回センバツでは3回戦で惜敗。その年の夏第85回選手権は、ダルビッシュと真壁を中心に勝ち進む。初戦の筑陽学園戦はダルビッシュが2回で降板するも真壁がロングリリーフした。3回戦の平安戦はダルビッシュが延長11回154球で勝利。続く準々決勝光星学院戦は先発真壁が6回追いつかれるとダルビッシュを投入して逃げ切る。準決勝江の川戦は采尾と真壁で見事に勝利。そして迎えた初の決勝では、炎症をかかえたダルビッシュを先発に立て、常総学院に4-2で敗れる。そして、県民の期待を受けた04年春のセンバツは、初戦の熊本工業を相手にダルビッシュが見事にノーヒットノーラン達成。2回戦の大阪桐蔭は真壁のリリーフで逃げ切る。迎えた準々決勝は、真壁がマウンドを任されていた。9回裏の大逆転劇に、ダルビッシュをなぜ送らなかったのかとの意見も、たしかにあった。しかし、当時の若生監督はこう説明している。(若生正廣『日本最強右腕の原点 東北の名将が授けた「大投手への10ヵ条」』ベースボール・マガジン社、2012年)------------2回戦は優勝候補と言われた大阪桐蔭との対戦である。だが、めいっぱいの投球だった1回戦の後、ダルビッシュはやや肩に来ていたらしい。(中略)ただ、桐蔭の強力打線に対してはダルビッシュが頼りだ。真壁にしても、腰に痛みがあって本調子ではない。ダルビッシュで行けるところまで行って、真壁につなごうとハラをくくった。(中略)2回以降は球速が140キロにも達しない。6回にもふたたび中村君にホームランを打たれ、7回からは真壁にスイッチした。試合は結局2対2と同点の8回裏に大沼が決勝2塁打を放ち、ベスト進出。(中略)ただ、どうも、ダルビッシュの肩の具合が思わしくない。(中略)登板すれば中2日となる済美戦前にはとことん話し合った。「行けるか?」「(中略)ダメですね」(中略)投げたいという自分のエゴを押し通すとチームに迷惑がかかると考えたのだろう。そこで私はダルビッシュを投げさせるわけにはいかない。よしっ、先発は真壁。済美との準々決勝は東北のペースで進んだ。序盤に4点を奪い、6、8回にも加点して、真壁が好投する。9回の守備についたとき、6対2と4点リードである。(中略)9回裏、済美の反撃で2点差に迫られたが、2死走者なしまでこぎつけた。(中略)真壁は腰痛を抱えながら、ここまですばらしい投球を見せていた。8回に146キロを計測するなど気迫もあふれていた。一番打者が(略)右翼ファウルグランドに飛球を打ち上げる。(略)風に押し戻されて二塁手がグラブに触れながら落球。次のタマを右前に運ばれる。さらに次打者が左前ヒットで2死1、2塁。三番打者を簡単に2ストライクに追い込む。ここからはまるで狐につままれたようだった。私の目論見は(略)2-2からシンカーで勝負だ。(略。ファウルで粘られてカウント2ストライクからの5球目で)サインは当然「はずせ」。だがシュート回転して内側に入った真壁のボールが完璧に捉えられる。逆転3ランをレフトの守備位置で見送ったのはダルビッシュだった。この試合に関しては、なぜダルビッシュを投げさせなかったのかという疑問の声をよく聞く。確かにこの時ダルビッシュは6回頃から「肩は大丈夫です。行けます。」といっていたし、9回にはレフトの守備位置で肩をぐるぐる回しリリーフ登板をアピールしていたのだ。だが、なぜダルビッシュをというのは、私に言わせれば何も知らない外野の無責任発言である。まず、真壁の調子が尻上がりに良くなっていたこと。ボールも走っていたし、6回から8回は三者凡退だった。また、リリーフをアピールはしても、ダルビッシュの肩はかなり深刻だったと思う。ベンチ前でのキャッチボールを見ても、ボールは山なりだったのだから。真壁の9回の投球を見てチラッとかすめたとすれば、ダルビッシュよりも采尾への継投だった。それよりなにより、ダルビッシュは日本の野球を背負う大投手になる可能性を秘めているのだ。その宝を高校野球で終わらせてもいいのなら、いくらでも投げさせた。(略)この大会は優勝できる自信があった。もし済美戦に勝つことを優先し、東北に初大旗を...という野望に目がくらむ監督だったら、有を投げさせていただろう。でも、私は違うのだ。そのことは、強調しておきたい。------------そしてその年の春季大会は真壁が中心となってダルビッシュを休ませる。夏の甲子園は満を持してダルビッシュが活躍する。初戦は北大津と続く遊学館戦をダルビッシュが連続完封。3回戦は初出場の千葉経大付。ダルビッシュは9回2死まで無得点に抑える。あと1人。しかし雨でぬかるんだグランドに内野手横田が足を取られて1-1と同点を許す。大会初失点のダルビッシュは、10回表にあっさり勝ち越しを喫してしまう。そしてその裏の最後の打者として三振をしたのも、ダルビッシュだった。
2013.04.01
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かなり以前の話だが、英検受験で(ですからかなり前です。)常盤木学園高校の建物を訪れた時に、試験監督の人が会場名を記入するようにとか促していて、ここはトキワギですからジョウバンに木と書いて下さいなどと言っていた。いや、常盤はジョウバン(常磐)ではない。この人は常磐と常盤の表記を区別できないのか一緒だと思っているのか、ともかく常盤を常磐線と同じようにジョウバンと読むと信じているのだろう。まさかこの学校の人ではなかろうが... などと思った記憶がある。「常磐」は言うまでもなく、常陸と磐城の両国名から取った言葉で、それ自体が広域的な概念のはずだ。交通体系では常磐線、常磐自動車道などで馴染みだ。ところで、14市町村の大同合併で昭和41年いわき市が成立したが、この際に市は5つあった。平市、常磐市、磐城市、勿来市、内郷市。常磐市は、常磐湯本温泉と常磐炭鉱のまちだ。もともと広域概念の「常磐」の語が炭鉱や温泉に冠されたのは、両国の境目に近い地点であったことによるのだと思う。なお同じように広域概念の合成語に「常総」がある。常陸国と下総国(もしくは総国)の合成だが、平成の大合併では茨城県に常総市が誕生した。そもそも茨城県の西部は旧下総国であって、合併した水海道市と石下町もそうだ。当初の合併の枠組ではさらに旧常陸国に属する町を含んでいたことから、常総市という新市名を想定していたのだという。(浅井建爾『超雑学 読んだら話したくなる 日本の地名』日本実業出版社、2010年)もともと「常総」の語が広域事務組合の名称(取手市、守谷市、常総市、つくばみらい市で、旧両国にまたがる)に使われるなど、茨城県西部の地域総称として馴染んでいたという背景があるのだと思われる。「常盤」はトキワだが、語源は永久不変(トコシエ)の岩とでも言う意味なのだろう。地名の常磐とは無縁なのだが、ややこしいのは、トキワの漢字として、常「盤」のほかに常「岩」や常「磐」もありうることだ。盤石なる大岩ということで、常「盤」が主流となったようで、各地の地名や人名にもなっているが、いずれにしても常陸プラス磐城ではない。以上をとりあえず整理すると、(1) 常磐 → ジョウバン、(トキワ)(2) ジョウバン → 常磐(3) 常盤 → トキワ(4) トキワ → 常盤、(常磐)とでもなろうか。話を戻すが、常盤木学園での係の人の認識は、「常盤」をジョウバンと読むと思っていたのだから、やっぱり間違い。しかし、ひょっとするとそうではないのかも知れない。つまり、あの人は、トキワギ学園を漢字で「常磐木学園」と書くのだと確信していたかも知れないのだ。だとすれば、頭の中でこう考えたのだろう。トコシエの岩(磐)のトキワギ(常磐)なのだが、一般のピープルに教えるには、たまたま漢字表記だと常磐線と同じだから、ジョウバンと書けと教えれば判りやすいだろう、という配慮をしたのだ、と。だとしたら、ますます学校の関係者であるはずはないが。
2013.03.17
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大崎市岩出山で池月を過ぎて鳴子方面に国道47号を進むと、道の左手に小黒崎観光センターという建物がある。随分以前からあると思うが、鬼首に行く途中などに目にしていた。最近、なぜか「おくのほそ道」を読んでいて、尿前の関の段で、小黒崎の語に出会って思い出した。南部道遙かにみやりて、岩手の里に泊まる。小黒崎、みづの小嶋を過ぎて、なるこの湯より尿前の関にかかりて、出羽の国に越んとす。(以下略)小黒崎とは、小黒ヶ崎山のことで、歌枕。また、みづ(美豆)の小嶋は、小黒崎の南西の江合川中にある岩山のことだという。(鈴木健一ほか編『おくのほそ道』三弥井書店、2007年 から)大崎市の公式サイト(観光案内)にも解説が出ていた。
2013.03.14
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蛸薬師は長町駅、長町病院の近く。舞台八幡神社と並んでいる。その昔、この一帯は海だったらしく、祠にあった御本尊は蛸が薬師瑠璃光如来像に付着してこの地に漂着したものという言い伝えから、この如来像は蛸薬師とよばれてきた。境内の説明板によれば1334年(建武元年)に権中納言藤原朝臣藤房が京都西洞院蛸薬師如来に祈願をかけ、仏像を勧請して淵上蛸薬師としたのが始まりとある。この蛸薬師はイボ取り薬師とも呼ばれ、イボ取りの願掛けの絵馬が表戸にいくつもかけられている。隣接して舞台成功の祈願成就に御利益があるとされる舞台八幡社が並んでいる。■仙台歴史探見倶楽部『宮城 歴史探訪ウォーキング』メイツ出版、2010年仙台平野の津波の歴史研究で高名な飯沼勇義先生によれば、「蛸薬師伝説」は津波伝説の1つであり、具体的には、長町3丁目まで到達し蛸が打ち上げられたというもの。伝説ではあるが、不動の歴史的真実を語り継ごうとしたものである。長い信仰の歴史と、災害から子孫を守ろうとした叡知。これに対して卑近な話題で恐縮だが、イボ取りの御利益というと、若い頃イボで悩まされた私としても思い当たることがある。石巻に住んでいた頃だ。別会社の先輩に、イボとり地蔵なら○○○にあるから、行きなさい。その代わり治ったら必ず御礼に再訪すること、と。従順な私は、後日オンボロ車を駆ってお参りに行った。その場所なのだが、たしか神取橋の旧桃生町側で、橋のたもとのT字路に車を停めた記憶がある。いま地図を開いてみると、神取山に山神社という記載があるが、しっかりした建物ではなくて路傍のお地蔵さんだったように思うし、ひょっとしたらそれさえも想定したイメージであって実際には見つけられずに帰ったのかも知れない。とにかく橋のたもとだった。程なくして仙台に引っ越し、増殖する一方のイボに悩まされて治療にも努めたが、体中にあんなにあったイボがある時点から潮が引くように見事に消えてしまった。神取のお地蔵さんのおかげなら、御礼のお参りに行かねばならない。もう四半世紀も経ったのだが、いま思い出した。私の歴史探訪でもあるのだが、御礼ついでに、足にウオノメができたとまた騒いでいる我が家の娘たちを連れて、いま一度の祈願に。■関連する過去の記事 イボコロリのこと(2007年8月23日)
2013.02.10
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昨日スタートの「八重の桜」は21.4%(関東地区)だったそうだ。昨年の「平清盛」初回が17.3なので上回っている。地元福島では30.4%とのこと。復興にかける福島を舞台にした期待の作品。そして会津の心を描いた作品に違いないから、われら東北人でおおいに鑑賞したい。とは言え、昨夜は子どもの冬休み宿題が優先してしまい、再放送で親子で必ず観たい。さて、大河ドラマの視聴率といえば、どうしても昭和62年の「独眼竜政宗」が思い浮かぶ。やはり、NHK大河の平均視聴率(初回から最終回)では「独眼竜政宗」が39.7%で最高のようだ。ちなみに「樅の木は残った」は21.0である。「政宗」は最終回が47.8とすごい。あの頃、宮城県内では視聴率6割とも7割とも言われていたような気がする。
2013.01.07
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■逸見英夫『明治・大正・昭和 仙台じけん帳』(河北新報社、2002年)から明治9年6月、天皇巡幸に随従した岸田吟香(劉生の父)は、大橋わきで開催された宮城博覧会を見物し、展示されていた支倉六右衛門の肖像画を「もっとも奇とすべき」と東京日日新聞に執筆している。支倉常長がローマから持ち帰った物品や支倉の肖像画は、現在は仙台市博物館所蔵。以前は藩の評定所内の切支丹改所(現在の片平市民センターの地)に保管されていた。藩主の所蔵品のう貴重品はその場所の「御物置」に保管され、その他は「御勝手方」という倉庫におかれ、いずれも年に一度の虫干し以外は人の目に触れることはなかった。明治4年の廃藩の際に、御物置に保管されていた物品は、窪田敬輔の父親によって運び出され県庁に収められたという。明治5年9月18日付の耶蘇教探索太政官「諜者報告書」第57号では、窪田敬輔が9月13日東京の教会で次のように語った。(おだずまジャーナル要約)政宗は支倉をローマに派遣し、後に支倉は教師2人を伴い帰国したが、政宗死後は家光の邪教禁止により2人は囚われる。由来記や十字架の画像などは倉に秘めて代々相伝えてきた。また、支倉、大和田などの同志6家従前から切支丹を伝えるが、廃藩の際に由来記を桐箱に納めて県庁に渡す。窪田敬輔の父これに従事したと敬輔自ら語った。慶応4年3月太政官定書「切支丹・邪宗門之儀堅ク御制禁」の高札を撤去し、キリスト教布教活動が黙認されるのは、明治6年2月。その半年前に窪田が語ったことが諜者により報告されていたものである。窪田は切支丹を相伝する家柄の出で、明治6年に洗礼。後に原敬の代父を務める。弁護士となり、仙台市議会副議長にもなった。常長の肖像画が再び公開されたのは明治12年6月で、大蔵卿大隈重信とヘンネッシ香港太守(総督)がら来仙したとき。機業試験場(現在の宮城県医師会館あたり)の養蚕室に支倉の肖像油絵とローマより帰朝の歳の古器物を陳列したと、音楽家四釜納治が記している。ところが、常長の肖像画とともに「南蛮王」や「血ダルマ」といわれたローマ法王パウロ5世の油絵もあったはずだ、と旧仙台藩士たちが騒ぎ出した。評定所の倉庫を調べたが見つからない。県庁の倉庫にもない。捜索が市中の評判となり、民間人も血眼で探し始めた。当時、国分町元鍛治町西北角(現在の千鳥屋ビルあたり)に伏見屋長兵衛という荒物屋があり、城の払い下げ品を買い求めては蔵に納め、儲けになると見ると売る商人だった。しかし明治10年代はじめには売り尽くして蔵は空っぽだった。その時蔵の隅から古ぼけた巻物が出てきて、わけの分からぬものだと思いながらも茶の間に持ってきておいた。ある古道具屋が巻物を見て、近頃騒がれている法王肖像画だとピンと来て5円で買うと申し出た。5円とは、当時の第七十七銀行支配人月給が20円なのでかなり高額である。伏見屋は内心びっくりし売れないとはねつけて、改めて不思議な絵だと首をひねった。他方で、古道具屋は帰宅途中に国分町山崎平五郎(現在の阿部写真館あたり)に立ち寄り、伏見屋で法王肖像画を発見したと告げる。山崎は金上侍で明治15年には東北自由党連合会会場を自宅に設けた顔役。さっそく伏見屋に行き交渉。値段はせり上がり、ついに600円で購入したという。山崎は親類の大町一丁目藤崎治右衛門から資金を借り、横浜でイタリア人に売りつけた。イタリア人は3千円の値を付けたが、もっと値を上げようと頑張り、仙台と横浜を再三往復するうちに、家屋敷に二重三重の抵当がかかるまで散財してしまう。この動きを察知した自由民権派の東北新聞(社長兼主筆高瀬眞卿)が明治14年3月31日の紙上で宮城の宝物たらしめよと訴えた。そのせいか、8月13日の2度目の天皇仙台巡幸のとき、このローマ法王の像を展覧に供したが、その時はまだ山崎の所蔵であった。その後、政宗時代に明から渡来した王翼将軍の子孫で5代目七十七銀行頭取となった旧藩士でカトリック教徒の大野清敬が、山崎から購入してようやく伊達家に献上された。なぜ絵は荒物の伏見屋にあったのか。大槻文彦は、何代目かの藩主が法王の肖像画を見て、精彩生きるがごとしと嫌な顔をしたので絵は御勝手方に移されのだ、と言っている。安永3年(1774)の高野統兼(蔵王平沢館主)日記には、御物置の風入(虫干し)の記述があり、常長帰朝の持参品について触れているが、その中には法王肖像画は記載されていない。大槻玄沢が文化9年(1812)に記した「帰朝常長道具考略」でも触れられていない。明治になると、御勝手方の品物諸道具は民間に払い下げられ、河原町の紙屑屋の手に渡った。その払い下げ品の中に、妙な絵があるので、国分町の金持ちに買ってもらったのだろう、と清水東四郎(東北学院大学教授)が語っている。評定所では法王像を「血達磨」と呼んでいたという。伊達家所蔵のこのパウロ5世画像、支倉常長画像など慶長遣欧使節関連資料は、昭和39年仙台市博物館に収められる。平成13年には国宝に指定されている。
2012.12.08
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今朝の新聞に市内の学習塾が出した広告。来週、上杉五丁目に教室を新規に開設することの告知なのだが、藩政時代は武家屋敷、今は文教エリアで知の聖域、などと謳って、自校の進学実績を絡めて、子女の進学に力を入れようとする親たちの市内一等地ブランド意識をくすぐろうというものだろう。そもそも、上杉なる町名は、上・杉山通から来るのだろう。杉山(台原あたり)に向かう筋道のうち、上の通りだったはずだ。しかし町名は地域として上杉という名をかぶせているので、県庁から宮町、台原に近接するまですべて地図上はそうなっている。最近都心回帰ともいわれるが、新たにマンションなどに入った方々は、附属中があるなど上杉というブランドを意識しているということだろうか。別にそれで構わないのだが、個人的には、北六(番丁)校だと面白かったなと思う。どうでも良いのだが。
2012.12.02
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明治15年9月7日午前11時過ぎ。仙台城二の丸から黒煙が上がる。鎮台本営に使っていた建物が倒壊すると火の粉と煙が空高く舞い上がった。火元は台所の萱葺きの建物で当時は軍隊の鉄工場であった。武器庫所属の兵士2人が9月9日の榴岡兵営の軍旗祭で揚げる花火を製造中に火薬に引火させてしまったのが原因。市中の消防組、警察署、工兵隊などが懸命に消火に当たるが、付近の池はたちまち干上がった。営倉から解放された囚人18人も消火作業を手伝った。火薬庫が危険との声が上がり、川内地区の住民は逃げ惑った。12時30分頃には鎮火。この火事での焼失建物は17か18棟。旧二の丸の9割が灰になった。二の丸の建物は二代藩主忠宗が寛永16年に築いた。文化元年(1804)の落雷で炎上したため再建している。これで本丸と二の丸が姿を消してしまった。慶長年間に政宗が築いた本丸の建物と石垣の一部は、明治6年、陸軍によって取り壊されている。壊された本丸大広間は、聚楽第を範とする壮麗なもので、本丸門内は藩士も自由に出入りできなかった。この本丸と二の丸は戊辰戦争で仙台藩が降伏後、明治4年10月までは仙台藩、その後は仙台県の所有だった。11月に東北鎮台本営により、鎮台すなわち兵部省(陸軍省の前身)の所有となる。さらに、明治6年1月、陸軍省達で諸国存城調書記載の城郭は改めて陸軍省所管となった。この調書では、仙台城は現今城郭ナシとされていないから、明治5年に本丸はあったのだ。伊勢斉助『奥羽観蹟聞老志補修編』に引用されている大槻文彦『仙台城本丸御殿記』によると、明治7年陸軍省にて悉階(ママ)(ことごとく)撤去されたと記す。明治9年に天皇が天主(ママ)台から仙台市街を一望したとき、仙台城を破壊した経緯を聞き、失錯(あやまち)ナリと嘆いたという(前出大槻)。明治7年3月5日付けで、元公儀使(他藩では留守居役)の大童信太夫が富田鉄之助(当時ニューヨーク在勤副領事)に宛てた手紙の下書きでは、大童は仙台に10日間居て1月東京に戻ったが、青葉(城)は枯落感慨ただならず、鎮台兵営となり、榴岡松木壇に新たに建築中の鎮台兵営に兵卒引移りの後は古城跡は狐狸猛獣の営となろう、三百年前の復古無し、と。これらの文献から、本丸は明治6年から7年にかけて陸軍により取り壊されたとわかる。既に本丸が失われたことに加えて、二の丸の炎上である。旧藩士で仙台の大久保彦左衛門を自称する沼澤与三郎が堤通(上杉一丁目)の自宅から駆けつけて、伊達家累代の居住した仙台城が一片の煙と化すか、残念、心魂ともに焼かれる思いなりと泣き叫びながら地面をのたうち回り、吹き出した野次馬を蹴倒する気迫に周囲は圧倒されたという。本丸、二の丸を失った仙台城は、大手門などごく一部を残すだけとなった。その大手門も、昭和20年7月10日の空襲で焼失するのである。■逸見英夫『明治・大正・昭和 仙台じけん帳』(河北新報社、2002年)から
2012.12.01
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〔前回(明治11年仙台日日新聞事件(社主の獄中自殺)(その1)(2012年11月18日)に続く〕逸見英夫『明治・大正・昭和 仙台じけん帳』(河北新報社、2002年)から当ジャーナル要約(同書第4話「社主、獄中で謎の切腹~新聞記者筆禍事件」)。■関連する過去の記事 仙台・宮城県の新聞概史(2012年11月10日)(続き)高瀬は水戸藩士で24歳の時仙台に来る。涌谷出身で後に仙台区長、宮城郡長を務めた十文字信介の招聘に応じて、仙台日日新聞社に入社したという。湯治、同社には、社長須田、副社長立花(但木)良治、主筆怡土信吉(福岡出身)のほか、記者2人、探訪記者1人。須田と高瀬が最初にあった晩、高瀬が酔って議論を吹き掛けたが、須田が高瀬という男は使いようが悪いと役に立たないが任せれば仕事を成す人物と、立花に語ったという。入社3日目、高瀬は新聞改良論を述べ、新聞に傍訓を付ける、用紙は西洋紙に刷る、活版職工を上京させ技術習得させる、記者も外に出て取材させる、などの改革案を提案。須田も喜んで早速実行した。高瀬も翌朝から県令、師範学校長、裁判官、武官などを訪問。怡土主筆と相談して、雑報という欄を設け、戯文を加えたのも高瀬の意見による。新参の高瀬の改革が断行されたので、怡土以下3人が出社を拒否。そこで、高瀬は一人で新聞を編集したので、スト組もおどろいて3日もしないうちに出社したというエピソードも。そんな高瀬に期待しての編集長抜擢だったが、4月23日、高瀬は獄中の須田に編集長の任に堪えられないとの文を提出。須田は24日高瀬を元の印刷長にもどし、15歳の少年、雲野香右衛門を仮編集長に任命した。しかし5月14日、こんどは雲野が宮城上等裁判所検事局より呼び出され、5月1日に掲載の記事について咎められた。23日再び呼び出されて5日間の禁獄と罰金5円を言い渡される。問題の記事とは、社長の須田らが刑に処せられたのを揶揄して仙台裁判所官吏を誹謗した、というのである。雲野が収監されたのは、禁獄30日の伊藤欽一郎が出獄した日でもあった。旧藩時代の牢が使用されていて成年も未成年も一緒の牢獄では、あと10日入牢しなければならない須田は寂しそうだった、と後に語っている。入獄と言っても昼間は外出が許されていた。雲野が午後4時頃牢舎に帰ると、渡辺という老獄丁(刑務官)が牢の前で腰を抜かしている。雲野が急いで牢の中に飛び込むと、須田が剃刀で腹を切り、立ち上がって腸をつかみ出してちぎろうとしていた。驚いて飛びかかると恐ろしい力で突き飛ばされた。その時、村上獄丁が背後に回り剃刀を須田の手から取り上げた。すぐに医師の中目斉が呼ばれ、須田は運び出されたが、雲野の布団の上で切腹したので雲野は血生臭い布団でその一夜を過ごすこととなる。後で聞くと、渡辺が須田の牢前に来て雑談をして、渡辺が「少し顔でも剃ったらさっぱりするでしょう」というと、須田が剃刀を貸してくれと言ったので、渡辺が差し入れたという。仙台日日新聞はこの年明治11年5月26日午前3時30分に須田平左衛門が死去したと報じている。享年38歳。なぜ切腹したかは、当時から多くの人々が推測しているが、真相は不明である。
2012.11.19
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明治時代の仙台の3つの有力新聞紙の1つ「奥羽日々新聞」が「仙台日々」と称した頃の明治11年、三面記事で某商家の嫁を揶揄したため訴えられ、社長は出張中と偽って出頭しなかったことから投獄されて自殺したことを、以前記した。■仙台・宮城県の新聞概史(2012年11月10日)逸見英夫『明治・大正・昭和 仙台じけん帳』(河北新報社、2002年)にこの一件が詳しく紹介されている(同書第4話「社主、獄中で謎の切腹~新聞記者筆禍事件」)。当ジャーナルで以下に要約させていただく。仙台日日新聞は表小路東北角の「相愛社」が発行。社主は須田平左衛門。明治11年4月1日付け仙台日日新聞は、国分町の男の家庭の内輪を記事にした(亭主が摘み食いをやりそこなって山の神が暴れ出した話)が、これが讒毀とされ仙台裁判所検事局から呼び出しがかかった。4月5日の同新聞は、「本社前の仮編集長下飯坂秀治儀、去る3日飯坂の温泉に当時に参りし跡へ、仙台裁判所検事局よりお呼び出になりましたが、すでに発足の後ゆえ...」との記事。しかし、下飯坂不在は事実でなかった。事実は、下飯坂は3日に県外の飯坂温泉に湯治に行くため30日以内の旅行を戸長役場に申し出、戸長から宮城県庶務課に届け出て許可の印鑑を入手していたところ、旅立ちが2日間遅延していたところに、4日に召喚状が届いたのである。召喚状を受け、下飯坂と須田は相談し、紋切り方の告訴に関わっては肝要の社用が留守になる、誹毀事件はわずかの罰金で済む、不在として出頭しない方針として平気の平で出立することとした。すぐに社員伊藤欽一郎が社長名で、既に3日から下飯坂は湯治に行っており召喚を2週間延期してほしいと不在届を提出。当の下飯坂は明後日出立するつもりで新聞社を出たが、間が悪く張り込んでいた密行巡査によって仙台警察署に拘引される。須田のいう肝要の社用とは、湯治ではなかったようだ。明治33年に下飯坂が回想記に語ったところでは、相愛社は明治10年の西南戦争で政府の布告類の印刷販売の収益が激減していたが、回復策として福島県の地券状の印刷を引き受ける契約の成立目前で、下飯坂は須田の委任でこの契約を成立さる目的で福島に行こうとしたのである。湯治を偽った理由はわからない。4月23日、早くも判決が下る。下飯坂は足に障害があり罰金5円で放免。須田が禁獄40日、伊藤は禁獄30日。2人は仙台裁判所(現在のタワービル)から片平丁の監獄署(現在の片平市民センター)に連行。須田平左衛門は天保12年(1841)に75石の大番組士丹野官治の子に生まれ、文久3年(1863)に88石の大番組士の須田家を継ぐ。平素は寡黙だが事を議するに雄弁。戊辰戦争では国老但木土佐の指揮下ではたらき、戦後は五ッ橋須平と改名して潜伏。牡鹿半島の海産物を改良し、仙台や東京で販路の拡張に奔走したが事業に失敗。明治5年に、水科正左衛門、横尾養鶏と相愛社を起こす。6年に郵便報知新聞社長小西敬義の援助で、印刷を改良、明治7年から東北新聞を発行。のち、仙台新聞、11年1月からは仙台日日新聞として県内最初の日刊紙となった。平民主義を唱え、品井沼干拓を企画したが断念。銀行創立を企てて七十七銀行創立にも寄与した。筆禍事件で下飯坂は仮編集長の職を辞した。後継は高瀬茂顕(眞卿)で社内改革を断行したが社内のごたごたが続き、すぐに編集長を辞任することになる。〔以下次回に〕
2012.11.18
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福岡空港でいつも思うことが2つある。ひとつは、よど号ハイジャック事件の時になぜここを平壌空港と偽装しようとしたのかという素朴な疑問で、それはさておき、もう1つが大事。空港が街の真ん中にあるのでアクセスがきわめて軽快だ。地下鉄で数分なのだから。高度規制や騒音などの都市行政上の課題は地元ではもちろん少なくないだろうが、いつも感心する。そして、思うのだ。仙台も霞目を民間利用させていれば、都市づくりとしてもベストだったのではないか。東西線を活かしたまちづくりを今さかんにやっているが、都市構造も重層的となり、地下鉄を引くのならもっと早かったろう。インフラ投資も軽減でき、なにより国内外の交流基盤充実により仙台・東北の経済産業の振興に寄与すること大きいかと思われる。市街地に近いことで有名なのが、福岡、松山、宮崎の3空港だそうだ。松山の知人から聞いた話だ(3つめは那覇だったかも)。長短両面で話題になるというところだろうか。ところで、この霞目飛行場は、陸上自衛隊の所管。郵便物輸送とその乗員養成のため昭和8年に建設された。しかし日中戦争のため養成された乗員は卒業すると陸軍の実戦部隊へと配属されていった。さらに飛行場も飛行機も所管が逓信省から陸軍省に変わった。(白萩町の国分尼寺には、戦死した乗員養成所出身者の慰霊碑がある。逓信省航空局仙台航空機乗員養成所と刻まれ、昭和56年建立。)昭和20年終戦により10月に飛行場は米軍に接収された。昭和26年の講和条約で返還されることになり、仙台市は民間飛行場への誘致を図ったが、昭和28年には霞目をやめ、岩沼の矢ノ目飛行場を民間飛行場とするよう動き出した。昭和31年領飛行場は米軍より返還され、霞目は防衛庁が使用し、矢ノ目飛行場は運輸省と防衛庁が共同使用することとなった。霞目には陸上自衛隊霞目駐屯地がおかれ、矢ノ目飛行場はのち仙台空港と命名され運輸省単独の所管となる。■木村孝文『若林の散歩手帖 新寺から藤塚までの史跡を訪ねて』宝文堂、2000年戦後の一時期、県や仙台市が民間利用を企て、また仙台空港の国際化や滑走路3000m延長などが叫ばれ官民共同でプロジェクトを推進していた昭和50年代あたりでも、なお霞の目の空港拡張と民間利用論が経済界の一部に根強くあったように記憶(伝承的なものも含めてですが)している。
2012.11.11
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安永3年(1774)の「風土記御用書出」の田子村の部に、宮城郡陸方田子村の村名の由来がある。これによると、往古は海辺で多湖の浦と称した。読人しらずの古歌として紹介されているものがある。あまた度君か(が)こゝろをみちのくの多湖のうらしま恨てそ(ぞ)ふるまたもとは池や湖が多く「多湖」で、文治5年頼朝が平泉攻略に来た折、多湖明神に詣でて西方を望んだところ、多湖の満々と水を湛えている様子を見て、駿河の田子の浦に似ていたところから、多湖を田子と改称したという。仙台藩士佐藤信要の「封内名蹟志」には多湖浦島と記され、よく芋を産す、味美にして名物と伝えている。なお、よみ人知らずの古歌の下の句が異なっている。あまたたび君か心をみちのくのた湖の浦島うち見てぞゆく村の鎮守の多湖明神社は明治6年に二木神社と改称し村社となった。田子は現在七北田川沿いは住宅地となり、西側は広い田園地帯。往古の多湖の浦を偲ぶことは難しい。■参考 木村孝文『宮城野の散歩手帖 榴岡から蒲生までの史跡を訪ねて』宝文堂、1999年
2012.11.08
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ガソリンカーなる言葉は久々に目にした。私には、刑法各論の往来危険罪の解釈で「汽車」にはガソリンカーを含むという判例(大審院昭和15年)が頭に残り、これは許される拡張解釈の事例としてもしばしば挙げられたと思うのだが、そのガソリンカーとは如何なるものか、たぶん軌道を走るものだろうが通常の鉄道とは違う路面電車的なものか、などよくわからないままでいた。木村孝文『若林の散歩手帖 新寺から藤塚までの史跡を訪ねて』(宝文堂、2000年)を読んでいて、「行人塚」の項に出てきた。広瀬川の洪水を防ぐため人柱になった行人の恩を忘れないために、七郷の村人たちが塚を築いて弔った。その行人塚が町名となり、昭和13年刊の仙台市地図には、東北本線に「行人塚」というガソリンカー駅の記載がある。ガソリンカーは昭和8年から長町と塩釜の間を運行したが、戦後廃止されている。こんな内容だ(上掲書pp126-127)。ところで仙台市若林区のサイト「ことば一覧」に、ガソリンカーの解説がある。転載させていただく。------------昭和4年(1929)、仙台塩竈間の東北本線の線路を使ってガソリンカーの営業が始まった。しかし故障続きでわずか三日で廃止となったという。その後、昭和7年8月に再開され、塩竈長町間まで路線が広がった。山王、東仙台、小田原東丁、仙台、そして三百人町、行人塚にも駅が置かれた。ガソリンエンジンを積んだ車両で、一両43名定員、全長10メートル、最高50キロのスピードが出たという。戦時色が強まると燃料不足のため運行本数が徐々に減り、戦後に廃止されて駅も取り壊された。年配の市民にとってはなつかしい乗り物である。------------戦前は仙台一高や河原町にも便利な駅があったと、よく聞くが、それが三百人町駅、行人塚駅なのだろうか。するとガソリンカーとは、軽便や路面電車ではなく、東北本線の軌道の上を走る動力車ということか。「汽車」の拡張解釈にあるように、蒸気機関車のかわりに油の内燃機関で走る動力車。つまり、ディーセルカーの兄弟という位置づけなのだ、と一応理解しておきたい。■関連する過去の記事 行人塚の地名の由来(2008年9月12日)
2012.11.05
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面積3万平方メートル、貯水量2万トンの大きな沼だ。(仙台市サイトの緑の名所百選から与兵衛沼・大堤公園周辺)寛文11年(1671)仙台藩士鈴木与兵衛が水田の水不足を解消するため自費で造った人工の沼である。鈴木与兵衛について『仙台人名大辞書』(菊田定郷著)は次のように記す。------------鈴木与兵衛公益家。〔中略〕宮城郡向小田原後山の渓谷(小泉邑分)を闢きて用水池となす。南北45町、東西156町、清水常に満ち、盛夏と雖も涸れず、以て小田原、南目、苦竹、燕沢等数百町歩の耕田に潅漑す。綱村公其の功を賞して池名を与兵衛堤と命じ、邸宅を同所万寿寺の東に賜ふ。延宝4年(1676)5月11日歿す。享年54、仙台新寺小路愚鈍院に葬る。------------沼の東端に水神の碑と改修記念の碑2基が建つ。昭和4年2月15日夜、堤が崩壊して水が小田原一帯に流れ出し大きな被害を受けたので、村民が総出で改修工事にあたった。その改修記念の碑と、その後昭和54年の仙台市の本格的な改修工事をしたときの完成記念碑の2基がある。水神の碑の東、道路を隔てると枡江小学校。学校建築に先立って昭和52年に発掘調査が行われて半地下式登窯跡、竪穴住居跡などが確認されている(枡江遺跡)。■参考 木村孝文『宮城野の散歩手帖 榴岡から蒲生までの史跡を訪ねて』宝文堂、1999年■関連する過去の記事 枡江小学校の地下道を考える(2011年5月5日)
2012.11.04
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なんでかフラメンコを初めて聞いたのは学生の頃だ。ラジオの真打ち競演だったように思う。ダジャレを連発するだけといえばそれまでだが、実際に会場にいるならば、客を惹き付ける巧みな話芸が盛り上がるのだろう。そして、こんなに時代が変わっても素晴らしくも生きている。紙に書いてみればただのダジャレだが、なんでか心に残り、今でも聞いてみたくなる。日本人の感性と笑いのツボをしっかり抑えているのだろうか。笑い文化論はともかくとして、私は何故かふと思いたち、堺すすむさんのホームページを見てみた。「なんでか村」の汽車をクリックすると、「旅で出会った風景」が紹介される。それが、なんと仙山線の風景なのだ。乗車の際にボタンを押すとの案内に心が安らぐ思いがするとの感想。山寺や面白山も紹介されている。また、山形駅ホームだと思われるが、「かもしか」や「485」の画像がある。いつの時代なのだろうか。なぜ仙山線なのか、説明はない。しかし、おそらく堺さん御自身が仙山線に乗って大いに惹かれるものがあったのではないだろうか。仙台から山形に移動する日程の中でふと目にしたのか、あるいはカメラを携えた休日の旅だったのか。何にしても、われらが仙山線を取り上げていることに、うれしさを感じる。師匠に敬意を表して拙いナンデカをひとつ。仙山線のトンネルの中でカモシカの親子が遊んでいた。その時、山形行きの快速列車が時速100キロでトンネルに突入してきた。脇によける隙間などないのに、カモシカの親子は助かった。♪ナ~ンデカ。それはね、カモシカたちは101キロで反対側の出口から走って逃げたから。もちろん堺さんのネタのパクリでした。
2012.09.23
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志茂田景樹は読んだことがなかった。直木賞作家でタレントのイメージなどは強いが、恥ずかしながら小生は、氏の本業であろう小説には接したことがない。政宗の天下取りの野望にむけた行跡を、人取橋合戦から始めて、秀吉の前での鶺鴒の花押を示して許されるまでの間について淡々と描く。秀吉に減封されたものの奥州は覇した。夢は全国の統一だ。辺境の東北で満足してはならぬ、藤原三代の黄金王国を乗り越えて国の覇者になる。それがために東北の大名達を震え上がらせ、中央や西に名を轟かせようとするプランニングを、着実に実行していく、そんな青年政宗の姿だ。■志茂田景樹「われ奥州をとれり-伊達政宗」(童門冬二ほか『時代小説傑作選7 戦国武将国盗り物語』新人物往来社、2008年(同社「時代小説セレクト」1995年11月を新装校訂)より)
2012.08.12
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明治14年(1881)2月10日の朝野新聞に記事が掲載された。「宮城県士族非職陸軍少佐木村信卿氏が陸軍裁判所に拘留された。フランスの地図へ漢字の地名を訳しあてるため、支那公使館の黄遵憲と交わりを結んだ。また黄氏は「日本国誌」を帰国後に発刊するため、その巻頭にぜひ日本全図を挿入したく、この作成を信卿に依頼した。このことを聞き込んだその筋の人々は、秘密な図など洩らしはせぬかとの疑いによって信卿を逮捕した。しかし世間普通の地図によってつくったので、重い罪にはなるまいとのことであった。」このように好意的に報道しているが、しかし朝野新聞の予測はあたらなかった。同年5月3日、信卿非職前の部下であった軍参謀本部地図課八等出仕川上冬崖は、強力な政府の権力に抗しきれず熱海で自殺。つづいて18日、同じく地図課十一等出仕渋江信夫(横山大観の叔父)は獄中で首をくくった。8月31日、陸軍裁判長堀尾晴義によって、木村信卿閉門半年後停官の判決があった。木村信卿は、現在の国土地理院の基礎をつくりあげた仙台藩異色の人物である。当時、薩長士族の闊歩する参謀局の中で、歩兵少佐として第五課(地図、地誌の編纂)の課長として、豊かな学識を背景に敏腕をふるった。おなじ参謀局の第一課に長州出身の諜報堤理桂太郎がいたことは、この事件の結末を暗示していた。桂はフランス学を基盤とする知識文化人グループに対抗するため、身銭を切ってドイツに留学、帰国後、反山県(桂)体制の粛正をした。明治以前にも仙台藩は地図編纂では多くの受難者を出している。「海国兵談」の林子平、シーボルト事件と蕃社の獄の高野長英など。この黄遵憲事件も、シーボルト事件の明治版といえよう。また、この事件がしばらく避けられたとしても、急激にタカ派が主導権を握っていく明治10年代後半の政府路線の中で、ハト派の知識人グループは結局野に下るほかなかったであろう。■佐々久『郷土史事典 宮城県』(昌平社出版、1977年)から「タカ派に参謀本部を追われた木村信卿」
2012.07.26
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新聞の私立高校紹介で校名を初めて見た。全体を見わたすと、工大高校の名がないから、校名変更かと想像しつつ確認してみた。既に城南高等学校サイトがあるが、平成25年度からの新校名であり、現在は東北工業大学高等学校である。同高校の沿革をみると、昭和36年4月に東北電子工業高等学校が開設。初代校長は宮城音五郎。ちなみに第2代が宇野量介校長で、県教育委員会と縁が深いようだ。39年に大学開設。41年普通科新設。平成6年に現校名に改称。11年普通科男女共学。16年電子科共学。17年特別進学コース設置。18年電気工事士コース設置(従来の養成課程を解消)。場所はご存じの八木山東北放送の近くだが、東北工大(八木山香澄町)がベニーランドのバス通り向かいであるのに対して、高校はやや東南に離れているので、八木山バス通りの賑わいの地である八木山神社(俗に八木山銀座)前を少し過ぎたあたりから降りていく。ちなみに、東北工業大学の長町(二ツ沢)キャンパスは2008年開設のライフデザイン学部が主。もちろん単なる名称変更ではなく、教育内容を一新し、特進、探究、科学技術の3学科構成で、大学と接続した新しい学びの創造を掲げている。グローバル社会や知的基盤社会を生き抜き、持続可能な社会に貢献する人材を育成する県内随一の私立高校をめざすとしているが、当ジャーナルなりの理解としては、視野の広い主体的な施策や実践のできる素養を育て上げるという意気込みだろう。同一学校法人が設置している兄貴分の東北工業大学は、建築や電気、電子分野などで優れた研究と教育の成果を誇っている。学生は熱心で、教育側も厳しく指導すると聞く。私自身も、卒業生で研究や仕事に活躍する数人を知っているが、仙台・東北の誇る質の高い大学だと言えるだろう。その東北工大との連携で高校生人材の育成を強化しようと言うのだから、大いに期待したい。
2012.06.30
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昨日の記事に難解地名として、仙台市青葉区の「定義」をあげたが、読み方は出典によると「じょうげ」だった。やっぱりと思いながらも、「じょうぎ(さん)」と呼ぶ人が多いのじゃないかと感じた。■関連する過去の記事 東北の難読地名(2012年6月16日) 定義森林鉄道(2011年9月11日) 定義如来西方寺(08年4月12日)定義観光協会というのがあって、URL名もふりがなも「じょうぎ」だ。おそらくは、昔からの読みは「じょうげ」なのだろうが、現代化というか標準化されてしまった発音が定着しつつあるのだろう。ちなみに私はいつも定義(ていぎ、definition)で変換しており、本当の読みを実はさほど意識していないでいるのだが。
2012.06.17
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最近東京の人たちにも言われる。仙台は賑わっているね、と。私の実感としてもそうだが、具体的に言うと、国分町はたしかに人数は多い。しかし、若者や女性などは少ない。スーツ姿の男が多いのだ。つまり、仕事で来ている人が多いのだ。地元の学生や一般サラリーマンなどの客足が回復したわけではない。今日は金曜日だから、最寄り駅から帰宅のためタクシーを待つ客が列を作っても良さそうなのだが、私が帰る夜10時台にはまったく待ち行列が無かった。つまりは、従来のように地元サラリーマンが仙台で飲んでいるという風景ではないのだ。しかし、復興の経済動向もあり、それはそれで良いのではないか。仕事に、あるいはある種の観光に、とにかく仙台に人が来てくれることはありがたい。もともと、仙台は交流で成り立っている都市という側面がある。(その割りには伝統エスタブリッシュメントが幅を聞かそうと言う閉鎖的な悪い伝統が残るが。)外から来てくれる人たちを大いに受け入れて、大いに活性化してもらいましょう。
2012.06.15
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寛永13年(1636)、38歳の忠宗公は2代藩主となった。襲封後間もない頃、牡鹿半島の遠島に舟遊びにでかけた。ところが、晴天が一転し嵐となった。驚いた近習頭の上田帯刀良膳は舟を脱出するため公に裸になるよう進言した。しかし、忠宗公は、大名たるもの人前で裸になれぬ、舟が岸に着けぬとあらば予は腹を切って死ぬ、と答えた。このとき、側に仕えていた17歳の御小姓中尾覚之進は、恐れながら拙者が岸辺に泳いで参りますので皆様の帯をお解き下さいと申し出、集まった帯を固く結び合わせて、一方を舳先に、他方を口にくわえて荒海に飛び込み、背の立つところまで抜き手を切って泳いでいった。そして、心配して海岸に集まった人たちと力を合わせて無事舟を岸に引っ張り戻すことができた。一命を取り留めた忠宗公は喜び、覚乃進に300石加増が申し渡された。時の幕府は事あらば大名家を取り潰そうと虎視眈々と目を光らせており、もしこの時忠宗公が亡くなった場合、御家断絶となったかも知れないのである(仙台人名大辞典より)。仙台藩志会の会員にこの覚乃進の子孫がおられる。千葉県在住の中尾庄二郎さん。武士の子孫にふさわしく剣道六段、小野派一刀流の達人で中尾道場の主である。■伊達泰宗、白石宗靖『伊達家の秘話 独眼竜一族の知られざる素顔』2010年、PHP研究所(白石宗靖さん執筆部分)
2012.06.02
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渡辺萬次郎『わが町仙台』(宝文堂、1977年)の中から、西北地区(荒巻方面)団地群の名称。同著から既に何度か記事にしましたが、西北地区の団地状況をスケッチしたページ(p256)も貴重なので、個別団地名は以前の記事と重複するでしょうが、当該ページの情報を記します。(できれば、団地名(愛称)、業者名などの情報を整理した仙台団地造成史マップを作成したいです。)■関連する過去の記事 昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その2)(2012年5月22日) 昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その1)(2012年5月22日) 仙台の団地名を考える(再び)(2012年5月20日) 仙台の「団地名」を考える(後編)(2011年12月11日) 仙台の「団地名」を考える(前編)(2011年12月11日) 仙台圏の宅地開発史を考える(2011年1月5日)------------西北地区(荒巻方面)の団地群(著者は地図に略号に付し、欄外で略号に対応する団地名を記載しておられる。)団地名(略号(町名)、団地名の順。・主要建物) 中山1-9丁目 中山ニュータウン(1-9丁目) ・電力研究所、尚絅大、中山中、中山不動 西勝山+川平2(新町名) 第三勝山 瀧道 泉ヶ丘(?この対応関係で良いか) 本沢3 川平 ・電話分室 桜1 春日 ・NHK運動場 桜2-3北半 公苑 桜2-3南半+4-5,6+7東半 桜ヶ丘 ・望岳荘(桜3) 桜7西半 青葉台 A 国鉄荒巻 B 平和台 C 希望ヶ丘 D ひばりヶ丘 E 北仙台グリーン F 幸福ヶ丘 J 大山 K 渡辺 L さぎの森 M 勝山(東勝山1丁目) N 双葉ヶ丘 O 黒松 P 双葉ヶ丘グリーン Q 半沢 R 千鳥ヶ丘 S 菊丘------------
2012.05.27
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渡辺萬次郎『わが町仙台』(宝文堂、1977年)の中から、明治の仙台駅の位置に関する記載がある。------------先輩達の話によれば北は名掛丁から南、西は東五番丁から東は東七番丁までの地域は、始めは一面の低湿地で今の駅前通はもちろんなく、宮町の南端から清水小路までまっすぐに通った東六番丁がこの荒れ地を南北に貫き、これを横切るものとしては、柳町通と南町通の中間から、東に延びた野干(やげん)小路があっただけ。野干すなわち狼の声を聞くほどの淋しさに人もめったに通らぬ所であったという。ところが明治19年(1886)東北鉄道会社が今の宮城野貨物線に沿って東北本線を敷く計画を知った当時の市民が、市心に近いこの広大な低湿地を利用し仙台駅をここに設ける運動に成功し、会社は始めこの全区域を買収したが、その後市民にその西北部(現在の中央一丁目)を解(ママ)放し、これを機として急にこの地に進出したのが前記の旅館商店群で〔おだずま註:仙台ホテル、青木ホテル、丹六、玉沢支店、針久別館、陸奥ホテル、針久支店、中村旅館など〕、その翌明治20年仙台駅の開通を機会に駅前通をその正面に南北に進め、北は名掛町を横切って元寺小路に通じ、南は途中で西に曲がり南町通に直通し、市の中央部との連絡を便にした。------------これによると、やはり、当初会社は後の宮城野貨物線ルートを計画したが、市民が運動して市中央部に近い現在地に移した、ことになる。■関連する過去の記事 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) 仙台駅の予定地(その8)(2011年9月26日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 仙台駅の予定地(その7)(10年9月6日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 仙台駅の位置について(その6)(09年10月21日) 仙台駅の位置について(再び)(09年3月10日) 仙台駅の位置について(その4)(07年8月16日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 仙台駅の位置について・続々(06年7月15日) 仙台駅のはなし・続(06年7月11日) 仙台駅のはなし(06年7月10日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2012.05.23
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渡辺萬次郎『わが町仙台』(宝文堂、1977年)の記述から、昭和30年、40年代の仙台近郊団地造成の概要。(前回 昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その1)(2012年5月22日) から続く)■関連する過去の記事 仙台の団地名を考える(再び)(2012年5月20日) 仙台の「団地名」を考える(後編)(2011年12月11日) 仙台の「団地名」を考える(前編)(2011年12月11日) 仙台圏の宅地開発史を考える(2011年1月5日)(e)西南地区向山、長町方面を門戸とする西南地区中、中心に近い長町分では、緑ヶ丘、茂ヶ崎など、八木山及び大年寺山の東斜面に位するもの、八木山団地、松が丘等山頂に近いもの、長町・越路両恵通苑、青葉苑等、それらの中間に位するものも数多く、そのうち八木山土地区画整備(ママ)組合に属する八木山団地には8千人の収容を予定し、既に中学、小学校を備え、その周囲には東北放送、東北工大、動物公園等があり、また西部には郵政研修所の高層をみるが、集団住宅等は含まぬ。以上の西南に当たる西多賀地区では、山腹中段に早期に造成された西の平、萩の台、大谷地等の小団地の外、近年その奥の金剛沢に造成された八木山南ニュータウンが著しく、その周辺には第2羽黒台、城南荘、信販鈎取等数が多い。更にその西の鈎取沢上流の西岸には、月ヶ丘、ひより台、県営太白団地等、次々に団地が造られ、その西南には山田住宅、山田自由ヶ丘が開かれ、更にその西南で旧生出村とを堺する旗立台地では、東に羽黒台、西に日本平、その更に西に南仙台ニュータウンが次々開かれたほか、その一部には農学短大、さわらび学園等がある。更に生出地区の中心茂庭の一部には、仙台市営茂庭団地が造成中であり、それから峠を北に越した折立地区の折立団地も、行政的には生出に属するが、その位置広瀬川に近く、むしろ西方地区に属する。これから更に西方には熊ヶ根の南にゴルフ場付き住宅団地西仙台ハイランドがある。(f)南方地区名取川を南に越えた名取山地には、各地に住宅団地の造成を計画されながら自然保存地区に編入され実現に至らず、その東麓の丘陵地帯に県の造成した名取ニュータウンが7千人の収容を予定し、その西方には名取工業専門学校、成人病センター等を見るに過ぎぬ。古代史上最も早く人の集まったこの方面が、最も長く旧態を保存するのも皮肉である。(g)山地造成の問題点以上各方面の山地造成団地中、昭和30年代のものは山地の原形をそのままにしてこれを階段状に削り、崖を玉石積で被うたに過ぎぬ。緑ヶ丘の東斜面の如きその代表的なもので、さながら古城の塁壁のごとく、道路は弓の字形に上る。従って冬季積雪が凍結すれば車の昇降は不可能となり、その上雨期には斜面崩壊の危険がある。昭和40年代に入り、かつ造成が大規模となればブルドーザーの利用によって山を削り谷を埋めて平地をなるべく広くしたが、削った部分の周壁や埋めた部分の前端に大断崖を列ねやすい。特に団地のあるものは地辷(すべ)りの跡をそのまま利用したため、例えば茂ヶ崎団地の如きは崩壊しやすい玉石層を露わに示した大きな崖に三方面から囲まれる。昭和44年緑ヶ丘の北側に起こった山崩のごときもその例で、この内側に計画中の第2松ヶ丘団地の未着手だったことが幸いであった。大年寺山の北側につくられた野草園の如きも昭和22年新たに起こった地辷(すべ)りによる急斜面で当時はその下を流れる米研(こめとぎ)沢を埋めて沼沢と化した。県はその下流への脱出を恐れて砂防ダムを築いたがそれさえその後崩壊に瀕して再建を余儀なくせられた。この種の地辷(すべ)り可能地帯は山中に多く、例えば八木山-日本楢道の通じる金剛沢の北斜面では昭和40年代に入ってこれを起し、営林署による防止工事が行われたがなお緩慢な動揺が続きその後に植えた杉の立木が一本ごとに傾いている。これを防止する方法としては崖を階段状にすること、防壁に水脱き孔を多くし内部滞水を無くすること、崖下に家屋の建築を避け、小公園等の空き地にすること等で、現に実行せられつつあるが、多量の降雨に会すればたといこの種の崩壊がなくとも裸になった地表の土砂を急激に流し、下流に氾濫する危険がある。昭和41年6月中山不動を襲った山津波はその例であり、その後社務所をやや東方に移している。山地造成の第2の問題は交通にある。現在は改まったが、はじめは無統制に行われたため、市中心部との交通に不便多く、かつ隣接団地間に障壁の多いことで、団地の境界が断崖になったり谷で隔てられる場合が多く、遥かに迂回しなければ隣の団地に買い物にも行けぬのが実状である。特に開発の途中においては、埋木の末端が谷に臨んで崩崖をなし、各所に一時的沼沢を生ずるからその下流では降雨の際の決潰流失に注意を要する。
2012.05.22
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渡辺萬次郎『わが町仙台』(宝文堂、1977年)の記述から、昭和30年、40年代の仙台近郊団地造成の概要。■関連する過去の記事 仙台の団地名を考える(再び)(2012年5月20日) 仙台の「団地名」を考える(後編)(2011年12月11日) 仙台の「団地名」を考える(前編)(2011年12月11日)(1)田園の市街化昭和30年代は米産奨励の時代。水田の宅地化は嫌われた。それ故人口が膨張しても、市の東方の水田市街化はおくれ、大戦中に軍需工場の置かれた苦竹、小田原方面と、それらの従業員を含めた案内、中原、燕沢、小鶴等の東仙台方面を除けば、長く水田のままであり、昭和35年以降、市がこの方面の団地建設を初めても、七北田河畔の高砂、広瀬河畔の飯田、袋原、四郎丸等、それらの河川の氾濫による砂礫の多い畑地に限られた。水田地帯に多くの道路を縦横に通じ、鉄工団地、自動車団地、卸町団地、印刷団地等を開いたのは、主として昭和40年代、経済高度成長に伴う産業の地方分散、新産都市の運動以来で、昭和40年には中央卸売市場をもここに移し、その他の地域もそれぞれの地域の土地区画整理委員会によって市街化し、国道45号に沿っては、新興市街が七北田河畔の福田町まで連なった。一方、小田原方面に於いては、東洋製罐、凸版印刷等、軍需工場の跡地に生まれた工場のほか、農事試験場、専売局工場、ガス局等の進出に加え、中江および幸町を中心とする集団住宅街に加え、国鉄、専売局等の集団住宅も加わり、着々高層住宅街と変わりつつあるが、昭和51年なおその一部に水田を残している。芭蕉の「奥の細道」にある玉田横野の跡であろう。大正の末まで、その中央を南北に貫く射撃場を挟んで、その表面を全部畠と水田に被われ、その北側の山裾で煉瓦や瓦を焼いていた台の原も、今は全く住宅で被われ、射撃場両側の土手の外側にあった松並木の一部と瓦山の地名に昔を偲ぶのみとなり、高山樗牛の瞑想の末は薬科大学の敷地内に保たれ、展望台を設置したが、眼下は家屋の波であり、戦後の開拓時代を語る五本松奥のトタン屋根も、森林公園の一部と化した。(2)新町名の制定(抄)昭和40年 小田原一年圃を「旭ヶ丘1から4丁目」昭和42年 八幡国見方面、次いで、八木山方面、桜ヶ丘方面。それは必ずしも団地名と一致せず。例えば春日団地は「桜ヶ丘1丁目」、長町恵通苑は「恵和町」、越路恵通苑は「桜木町」、国鉄根岸は「青山1丁目」と変わった。昭和45年には市の中心部も新町名に変更し、肴町、元鍛冶町等伝統を伝える町名が大部分消えた。(3)郊外進出(略)(4)山地の造成近郊山地の住宅化は、戦後急速に加わった。中にも向山一帯、北山の背側、台の原等には、個人あるいは市営住宅が急増したが、それらの多くは個別あるいは少数戸数の集団に過ぎなかった。これを多くの戸数を含んだ集団住宅すなわち団地として造成を開始したのは、主として昭和35年、県の住宅公団(ママ)による黒松団地の開発以来で、市役所職員組合(ママ)による荒巻の共済団地、東南商事会社の緑ヶ丘等、また時を大体一にして、その前にできた三和商事の小松島住宅また名称を旭ヶ丘としてこれに加わった。少し需要が多かったので、民間企業でこれに加わるもの続出し、関兵精麦の南光台、双葉建設の中山ニュータウン、東北建設機動の桜ヶ丘等、次第に大規模のものが加わり、県は黒松団地に次いで七北田西方に将監団地、名取市の名取ニュータウン、市は小田原の北東方に鶴ヶ谷団地の大造成を敢行し、昭和40年代には南は名取市北は泉市を越えて富谷町、東は塩竈市の東部、西は宮城町に及ぶ近郊の山地は、次々に緑を失って仙台のベッドタウンと化した。以下、方面別に概述。(a)東北地区宮町、原町方面を入り口とする東北地区には、旭ヶ丘、南光台、鶴ヶ谷の3大団地のほかに、東黒松、第1から3自由が丘、若葉ハイツ、東光台等の団地がある。さらに七北田川の低地を越え、利府、多賀城、塩竈の団地群がある。旭ヶ丘団地は、昭和31年の発足にかかる小松島住宅を南端とし、その北方の小田原一年圃から泉市八乙女の真美沢沼に達する大団地で、面積430ha、南から1から4丁目、堤1から2丁目に分かち、南部は初期の造成にかかって起伏激しいが北部は大体平坦。南北の幹線を中軸に規則正しく格子状の道路に貫かれる。南光台は旭ヶ丘の東に接して泉市松森に属するが、交通の上ではかえって仙台に直結し、造成以前は小松島から浦田に通ずる山道を軸に、その西側の天(あま)ヶ沢と東側の前沢の谷に分かれたが、まず西側の谷の上流から市街化し、続いてその東側の浦田山道を東に突破し、はじめはこの部分を牧場としたが今はそれらも市街化し、2万人以上を収容の予定であるが、多くは独立家屋から成り、学校以外に特別に大きな施設は少ない。鶴ヶ谷団地は南光台の東にあり、昭和42年以来仙台市の造成にかかり、鶴ヶ池大堤に注ぐ藤倉沢の本支流に刻まれた海抜80m内外の丘陵を削り、谷を埋め立てて緩傾斜とした住宅地で、その南斜面の県立三高以外には住宅一戸のみ山林緑地であったが、次々に住宅街を造り、これを1から8丁目に分かち、そのうち2丁目、5丁目および6丁目には、最高11階に達する高層集団住宅を列ね、東仙台方面から走る大道を新たに開き、それから入った中心部には市民センター、ショッピングプラザ、銀行支店等を備え、他に1中学校2小学校のほか病院、老人ホームを有し、23千人を収容の予定である。自由ヶ丘はその西北の天ヶ沢団地とともに、鶴ヶ谷と南光台との中間南部にあり、前者に先立って造成せられ、若葉ハイツは小松島からそれらに達する中間東側にある。第2から第3自由ヶ丘は、若葉の東、鶴ヶ谷一丁目の南にあって、安養寺堤群に隔てられる。東光台は鶴ヶ谷団地の東斜面に位し、鶴ヶ谷以前の造成にかかる。鶴ヶ谷団地の北方には七北田川の谷を隔てれば、松森城一名鶴ヶ城の遺跡を北から囲んで、住友商事の鶴ヶ丘団地が、大計画の一部をもって分譲を開始し、その遙か東には、歴史に名高い多賀城趾の南麓に、トーメン多賀城ニュータウンが開かれ、さらに塩竈市の東北隅に、西に松陽台、東に藤倉団地が松島湾を眼下にしてその眺望を誇り、他にも若干の団地がある。(b)北方地区国道4号を入り口とする北部地区では、昭和35年以来県の造成にかかる黒松団地があり、県営第1から第2アパート群、公団住宅アパート群を有し、人口7千を数うるうち、西側は仙台市に東側の大部分は泉市に属する。北仙台から黒松に向かえば、その東側山中に千鳥ヶ丘、その東に森林公園、西側の斜面に鷺ヶ丘、常磐団地、勝山団地、双葉ヶ丘等の諸団地あり、勝山から西に谷を越えれば、第2勝山団地があって、北仙台小学校および中学校を有し、東から、渡辺、幸福(さち)ヶ丘、南から、ひよりヶ丘、平和台、国鉄荒巻等の小団地群に囲まれる。これから北に七北田川を越えれば、西に県営将監団地が、1丁目から13丁目に23千人の人口を予定し、その北部と南部とに多数の高層集団住宅を配するほか、中央に公設市場、銀行支店等を備え、1中学校、2小学校、消防署等を有し、独立の一小都市をなすが、これまた仙台市の遊星に過ぎぬ。今からわずか10年前、大洋漁業の7万羽養鶏所が鋭い三角点峰を負った所も、今はただ紅青の鉄板屋根を列ねる平地となり、将監沼がわずかに当時の趣を留める。これと斜めに要害川の谷を隔てた東側には、名勝洞雲寺通称山の寺の谷を挟んで、南に共栄泉および泉ニュータウン、北に泉向陽台があり、後者は人口1万を予定し、かつて稜線上に並んだ東北電力の高圧送電塔がその基脚のみを残した円塔上に峙っている。これらの間を北に進めば、泉市と富谷町の界を跨ぎ、国道の西に泉ヶ丘ニュータウン、その北西の富谷町南端に、藩主の鷹狩りで名高い亀杉を擁した鷹の杜団地、さらに富谷の市街地の北方東側に、富谷グリーンパーク一名河北平和ランドの遊園地およびゴルフ場、富谷ニュータウンなどがある。(c)西北地区荒巻本沢を門戸とする西北地区では、その入り口の荒巻温泉に近い共済団地、川平団地、泉ヶ丘、春日団地等、昭和30年代後半の諸団地の後ろに、桜ヶ丘、中山ニュータウンの2大団地がある。それぞれ、人口5千人、3万人を予定する。中にも中山ニュータウンは丸田沢の支流平沢と梅田川との水稜線をなし、長く北山根白石間の本道をいただいた稜線の両側を削り、その東南麓から西北に登り、昭和41年早くもその頂上三角点に達し、その翌年にはそのすぐ下に尚絅短大、東北電力総合研究所等を誘致する一方、さらにその西方に造成の歩を進めて、丸田沢の支流を埋め、泉市実沢の南端との境に達し、2カ所の公務員住宅群、三井、藤崎、東芝等の高層住宅群を加える。中山ニュータウンの造成初期、その北側には行楽園団地の造成が行われ、その一角には小遊園地も造られたが、その後放棄の運命にあった。ところが昭和46年、第1、第2勝山団地の造成を終わった勝山企業がこれを接収するとともに、その頂上背後にある中山西部の北斜面をも造成し、第3勝山団地と称し、その東斜面に朴沢高校を迎えるとともに、その北隣には同じ朴沢学園に属し現在柴田町船岡にある仙台大学転入のための用地を建設し終わっている。この東下に位するのが桜ヶ丘で、東と北に範囲を広げる一方東側の山地を削って小学校を建て、さらに東には公苑団地、西北には東急青葉台を加えた。最近ここも新町制を施行し、桜ヶ丘1から9丁目、中山1から9丁目、西勝山、滝道、川平1から2丁目などとした。これらの北には丸田沢を隔て、泉市大谷刈の丘陵があり、東に県営加茂団地、西に大和長命ヶ丘が並んで、最近その造成を終わり更に七北田川の北には、三菱地所の超大団地パークタウンがその第1期の造成を終わり、公園を整え、小学校を建設し一部を住宅街化しているが、これを貫く計画道路北四番町丁大和町線が、未だ市内に達せぬため、市の郊外とするにはやや遠すぎる。さらにそれより西方に位する西田中、住吉台等の造成地についても同様。中山ニュータウンの西方に位する中山ゴルフ場、その西北に造成中の第2中山ニュータウン、ゴルフ場の南に接する中山吉成、その南の伊勢吉成の両団地はいずれも仙台に外接するが、前の両者は泉市実沢、後の両者は宮城町吉成に属し、いずれも仙台市外にあり、国見峠の東麓に位する半子町恵通苑のみ市の辺境に孤立する。(d)西方地区川内を門戸とする西方地区は、主として青葉山で、その大部分は東北大学、宮城教育大学、青葉山ゴルフ場に占有せられ、住宅団地としては東北突端の亀岡、武田南団地と、西方頂上部の青葉台のみである。■昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その2)(2012年5月22日)につづく
2012.05.22
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仙台近郊の造成団地の名称などを、渡辺萬次郎『わが町仙台』(宝文堂、1977年)から集めてみた。著書の冒頭部分の略図に従い拾い出す。■関連する過去の記事 仙台の「団地名」を考える(後編)(2011年12月11日) 仙台の「団地名」を考える(前編)(2011年12月11日)------------(1)仙台近郊造成地分布(*印は昭和30年代を示す。おだずま注:著書の表を正確に再現できず。)市内北半 中山ニュータウン *川平 *泉ヶ丘 第3勝山 桜ヶ丘 *公苑 第2勝山+共済、平和台、ひばりヶ丘等(*?) *黒松 *旭ヶ丘 *双葉丘、常磐 自由ヶ丘 鶴ヶ谷、東光台 *高砂 半子町市内南半 東北大 教育大 ゴルフ場 *亀岡 *八木山 *松ヶ丘+恵通苑 *緑ヶ丘 茂ヶ崎 八木山南 太白 ひより台 山田自由ヶ丘 仙台南 日本平 羽黒台 *飯田 *袋原 *四郎丸 四郎丸東泉市 三菱パーク 将監 *向陽台+泉ニュータウン 永和台 松森 鶴ヶ丘 東黒松 南光台 西田中 住吉台 中山第2 中山ゴルフ場 長命ヶ丘 加茂宮城町 中山吉成 伊勢吉成 落合・大竹利府町 神谷沢 県民の森(2)仙台北部造成地泉市 将監団地 泉向陽台 共栄泉 泉ニュータウン 泉永和台 松森団地 鶴ヶ丘ニュータウン 加茂団地 長命ヶ丘 大平西 第2中山 中山ゴルフ場 南光台 泉黒松宮城町 中山吉成 伊勢吉成 葛岡霊園仙台市 中山ニュータウン 第3勝山 桜ヶ丘 公苑団地 春日団地 泉ヶ丘 共済団地 平和台・国鉄荒巻 大和ネオポリス 第2勝山 ひばりヶ丘・幸福ヶ丘 サギヶ森(鷺ヶ森のことか) 常磐団地 勝山 双葉ヶ丘 黒松 旭ヶ丘 森林公園 自由ヶ丘 第2自由ヶ丘 ?葉ハイツ 鶴ヶ谷 東光台 北仙台グリーンプラザ 東急青葉台(3)仙台南西部造成地東北大学 青葉山ゴルフ場 青葉荘 八木山 松ヶ丘 越路恵通苑 長町恵通苑 緑ヶ丘 茂ヶ崎 西ノ平 大谷地 八光台 第2羽黒台 八木山南 国鉄鈎取 城南荘 信賑鈎取 太白団地 ひより台 月ヶ丘 山田自由ヶ丘 仙台南ニュー 日本平 羽黒台 山田住宅(4)八木山方面造成地(主要建築)上野原小 電磁気研究所 郵政研修所 八木山中 八木山小 東北工大 東北放送 電子高 向山高 向山小 愛宕中 西多賀中 東北大電子研 朝鮮人学校 恵和町(長町恵通苑) 東北電通学園------------著書では丁寧に地図に団地の分布状況を示している。おだずまジャーナルの前回記事でも出ていない団地名称もあり、何だかワクワクする。今は時間がないが、著書の図や詳細な団地造成の記述などをたよりに、現在のどの町名を指しているかなど、後日よく調べてみたい。
2012.05.20
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河北新報の記事で、与兵衛沼の底から、奈良時代の焼き窯の後が見つかったというのがあった。古代を考える貴重な資料なのだろうが、気になったのは、発見のキッカケとなった昨年4月の地下道の漏水事故。枡江小学校の校庭と与兵衛沼南東部を結ぶ地下道で起きた水漏れで、この原因調査のために、沼の水を抜いたのだ。あんなところに地下道があったのか、というのが驚きだった。仙台人として知らぬは恥。さっそく手許の地図を開いてみる。東照宮から二の森を経て東仙台に至るバス通り(地元の人なら通称がありそう)のガソリンスタンドの信号を北に折れると、枡江小に登る道だ。昔はそのまま北進すると、南光台の南端の峰づたいの道に出て、その道は、稜線沿いに自由ヶ丘を経て鶴ヶ谷に出る道で、旭ヶ丘に住んでいた20年以上前の私は、よく抜け道で走っていた。いまでは県道(旧国道4号)台原から一気に環状の都市計画道が旧青年の家まで開通し、雰囲気も変わった。話を戻して、地下道だ。新聞にあるように、校庭と沼の南東部を結ぶというと、小学生の安全のために掘ったのだろうか。手許の地図帳にはなく、ネットのマップでもハッキリ出ていないが、検索するとステンドグラスの美しい地下道の画像があった。車で移動しかしないと、併走する旧道の良さや路地裏に残る歴史などに気付かないものだが、立体交差にも気が回らないもののようだ。例えば、名取以南の国道4号では、大河原あたりまでスイスイと走れるが、実は要所要所に地下式の歩行者用通路が結構多い。枡江小の例のように、仙台でも学校などの周辺には、小さな地下道が数多くあるのだろう。以前、当おだずま研究所の総力を挙げて、仙台のロータリー式交差点をコレクトしてみたが(ご参照下さい)、こんな地下道コレクションも良いなと思う。そんな時間は、たぶんないのだが。
2012.05.05
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仙台は3日午後10時でこの記録。気象庁サイトによる過去データでは、歴代8位のようだ。ひと月の降水量を軽く超えた。5日や6日にまた崩れるそうだ。雨多い5月になるか。■関連する過去の記事 記録的な、また...(2012年5月2日)
2012.05.03
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関東や北日本で今日から明日にかけて大雨。時間雨量で40とか50ミリ。降り終わりまでに5月一月分の雨になるとも予報されている。記録的な... という言葉が氾濫しているような気がする。大震災の後しばらくは、地球がどうにかなってしまったかと疑ったが。やっぱりそうだろうか。こんどは雨か。仙台の時間最大降水量の記録は、94.3mmで、1948年9月16日。この日は日降水量も最高記録で312.7mmである。ちなみに、5月ひと月の降水量平年値は109.9mmだ。
2012.05.02
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