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しばらく前のことだが、妻の母が、自分からは動かず我が家を訪問した母親に湯茶の世話をさせようとした妻をさして、まったくタレカモノだと言っていた。これは仙台弁で、横着者の意味。三原良吉監修(仙台八十八選選定委員会編集)『仙台あのころこのころ八十八年』(宝文堂、1978年)の「仙台弁八十八選」によると、次のように説明されている。仙台人同士よく使うが他県人にはわからない。例えば、一緒に車を押しているとき、そのふりはするが力を入れない横着者。誰だか解らないように手を抜く。見つかれば互いににやりと笑い、このたれかものと言って片づく。軍隊用語のタレカから来ている新しいことば。身を隠して偵察にくる斥候を歩哨が見つけてタレカと誰何するタレカである。ダレガと濁らないところを見ても軍隊用語そのままである。こういう説明だ。なお、「かばねやみ」(骨惜しみ)の項では、かばねは骨のことから体を意味し、「やみ」は病みではなく休みであろう、とある。すると、「たれか」は単なる「かばねやみ」と違って、一見仕事をしたフリをする巧みさと、笑って許す軽さを伴っているもののようだ。(冒頭に記した妻の場合は、「かばねやみ」が相応しいのかも知れない。)たれか(者)の語は、他でも聞いたことはある。仙台出身の先輩が自分の親世代の言い方だとして語っていたような記憶がある。それにしても、上記のような由来とニュアンスがあるとは、興味深い。■関連する過去の記事 仙台弁「うざにはく」の語源(2016年1月17日) 「おしっこがつまる」は仙台弁か(09年11月13日) 仙台・宮城人怠け者論を考える(09年11月11日) 「んざねはぐ」の語源を考える(07年9月5日)
2016.01.18
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以前の記事で(「んざねはぐ」の語源を考える(2007年9月5日))で、浜荻の「うざね」とあった意味がわからないと書いたが、『浜荻』は仙台藩制時代の方言書のことだ。諸藩の交流の便宜として、各地で「(仙台)浜荻」の名で、方言を解説する書がつくられたもののようだ。浜荻の元の意味は浜辺の葦で、さしずめ「言海」や「大辞林」のようだ。さて、浜荻が方言書だというのは、三原良吉監修(仙台八十八選選定委員会編集)『仙台あのころこのころ八十八年』(宝文堂、1978年)の「仙台弁八十八選」に書いてあった。なお、この選集は、天江富弥氏が選定委員長で、言語学者の藤原勉氏が中心となって検討されたとある。語源として解説がある。うざねという田下駄があり、履きにくいことから、とされるが、田下駄をうざねというところはない。「身実(みざね)」で精魂出し尽くすの説もある。喉仏(骨)を吐き出すくらい苦しいとの説も。『浜荻』に喉仏を「うざね」とあるが、その「うざねはく」の項の解釈にはこの「うざね」を用いていないところを見ると怪しい。憂さ音はく、とするものも怪しい。秋田、青森では「うんざりはいた」「うんざり見た」という。仙台のうざね(に)も、うんざりと関係があるのではないか。というのだ。ところで、同書の「うざにはく」の前の語は「いんぴん」(発音はエンピン。ひねくれの意)だ。私も仙台に来てから知っているが、そのような人物をさして、インピンタカリというのだと思っていた。これは私の勘違いで、正しくは同書のとおりインピンカタリ(語り)だ。なお、「きずいたかり」(発音キズエタガリ)の項があり、強気の無愛想な女のことだという。「きずい」(気まま、気随)に、「たかり」が付いた。「たかり」は、人だかり、しらみたかり、などの「たかり」だが、仙台では憑依の意味に使い、「神経たかり」、「けんのんたかり」(潔癖家)、「気違いたかり」、「中風たかり」などという。「いんぴんかたり」の「語り」と、取り憑く意味の「たかり」を、混同してしまったというわけだ。
2016.01.17
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苗字について詳しく解説しておられる鈴木常夫氏の著作に、市町村別の統計データがある。身の回りの人の苗字と出身地などから、なるほどとうなずける場合もあるし、あの苗字はこういう由緒なのかと意外だったりする。仙台市の特徴を拾ってみたい。■鈴木常夫『みやぎの苗字 あなたはどこから来たか』本の森、1998年〔宮城県の多い姓〕1 佐藤 42,940世帯2 高橋 25,3903 鈴木 18,6604 阿部 16,8505 佐々木 14,1906 千葉 12,6107 伊藤 11,5508 斎藤 11,2209 菅原 9,60010 渡辺 9,36011遠藤 12三浦 13加藤 14小野寺 15菊地 16相沢 17木村 18今野 19及川 20熊谷21吉田 22後藤 23小野 24早坂 25村上 26菅野 27山田 28大友 29石川 30庄子 以下は、全国的な順位に比べて高いと思われる姓を記す。31桜井 34星 40鎌田 42畠山 48大場 51大沼 53大槻 54赤間 56内海 57我妻60山内 62芳賀 64千田 65平塚 72狩野 79門間 83遊佐 86岩渕 89相原 95沼田〔仙台市について〕佐藤(14,700世帯)がトップ、高橋(8,140)、鈴木(6,400)、佐々木(5,000)、阿部(4,250)、伊藤(4,100)などと続く。阿部(5位)、千葉(10位)などの順位が県全体より下がる。阿部は牡鹿郡、石巻市、千葉は栗原や登米に多い。頼朝の奥州攻めの後にこの地方に来た鎌倉武士は、伊沢氏(後の留守氏。岩切)、宮城氏(苦竹)、国分氏(郷六)、島津氏(長町、茂ヶ崎)、結城氏(島津のあと)、河村氏(のち茂庭氏。茂庭)、三浦氏(藤塚)、曽我氏(三浦氏のあと)、大河戸氏(のち高柳氏、朴沢氏。泉)など。留守氏と国分氏が勢力を持ち、南北朝期には国分氏が優勢となるが、伊達氏の勢力伸長、秀吉の奥州仕置きを経て、伊達氏が支配する。中世からの留守氏の家臣団には、佐藤、家部、宮城、村岡、芳賀、南宮、笠上、小畑、砂子、鈴木、高橋(多賀城)、花淵、余目、下飯坂、八幡(多賀城)、斎藤、内田、辺見、相原、太宰、志賀、堀籠、今野、蓬田、など。国分氏家臣は、朴沢、古内、白石(根白石)、福岡、萱場、横沢、松森、八乙女、郷六、六丁目、作並、大倉、馬場など。江戸後期の肝入りなどの役人では、嶺岸(市名坂、七北田)、佐藤(田子)、小松、石垣、庄司(以上、愛子)、結城、早坂、鈴木、新国(以上、大沢)、鷲尾(根白石)など。仙台市の特徴として、宮城県全体の多姓(100位まで)に入っていない姓を拾い上げてみると、若生(仙台市で62位。490世帯)奥山(65位。470世帯)林 (79位。420世帯)石垣(82位。400世帯)金子(89位。380世帯)荒井(90位。680世帯)というあたりだろうか。■関連する過去の記事 スーパーレアな名前(2015年9月24日) 変わった名前で珍問答(2015年2月10日) 東北の変わった苗字(2015年2月9日) 氏と姓と名字の成り立ち(2012年9月29日) 名字の都道府県別ランキング(2012年9月28日) 都道府県名と同じ名字(2011年12月19日) 各県の名字ベストテンと特色ある名字、珍しい名字(2011年12月18日) 宮城の代表的な苗字は(2006年9月13日) 宮城県の苗字ランキング(2006年9月12日) 姓と苗字の違い(2006年8月23日) 宮城県の由緒ある苗字(2006年8月1日) 苗字と名字の違い(2006年5月22日) やっぱり多い鈴木さん(2006年5月9日)
2016.01.11
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広瀬通に面したあるレンタカー会社の支店の前を通ることがある。去年のある時、ふと、店内のカウンターに、「無事故なん日」というカウンター的な掲示があって、ゼロが三桁並んでいたのが、歩道から見えた。おそらく店員さんが毎日カウンターをめくるのを忘れているのだ、ぐらいに思い、その後、何度か店の前を通ったが、おそらく3度か4度か、いつも「000」なので、なおさらそう決めつけていた。なぜなら、毎日事故が起こっているはずはないだろうから。ところが、だ。ある日、カウンターが、何と初めて「001」だった。えっ。今までのは、めくり忘れではなくて、本当にゼロだったか。急に背中が寒くなった。また、別の日、今度は「003」になっており、また別の日は「000」に戻った。やはり、毎日正確に数えていたのか。それにしても、そんなにも連日や隔日のように事故があるものだろうか。そもそも、目につきやすいところに無事故日数を掲示するということは、会社の何らかの方針や戦略があるのだろうが、連日ゼロを「誇示」するようでは逆効果ではないかとも思われる。子どものころ、小学校の学区全体で無事故運動を推進していた。無事故が何百日にまで続いて、達成記念の文字入りの鉛筆をもらった記憶がある。交通事故で亡くなった小学生もいたから、地域を挙げて事故をなくそうという取組だったのだろう。このレンタカー会社でも、一定の日数達成で料金割引とか、何かキャンペーンでも計画しているのかも知れない。道路交通事業を担う企業として、また、安全なクルマを提供するべきプロ集団として、自他ともに交通安全を推進しようとする姿勢なのだろうか、と思ったりもする。それにしても、本当にこんなに事故が多いのだろうか...
2016.01.06
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皆様新年おめでとうございます。本年も当ジャーナルをよろしくお願い申し上げます。まあ、とにかく年を越して正月を迎えることが出来ました。年末に家族で関東方面に出かけてきましたが、本当に暖かかったですね。戻った仙台も雪のない暖冬ですが。昨日(1日)は一人で仙台駅前を中心に街中をふらついてみました。実は床屋さんを探していたのですが、どこもお休み。車も人通りも少ないですが、道路や駐車場には県外ナンバーが目立ちました。関西からもずいぶん来ています。さて、私は昨日飲み過ぎてまだ頭が本調子ではありませんが、今年もつまらぬ記事を書いて参りたいと思っております。人生まだ半世紀。まだまだ知らない東北がたくさん有るはずです。今年はどんな出来事があるでしょうか。また、不勉強な私が温故知新でどんな発見をできるか、楽しみにしてまいりたいと思います。そう言えば、電車で車掌さんが、新年おめでとうございます、JR東日本は今年も安全運転に努めて参ります、とアナウンスしていた。毎日同じように運行している電車ですが、不思議に爽やかな気持ちになったものでした。
2016.01.02
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本日開業の地下鉄東西線。午前10時頃、乗ってみました。JR仙台駅地下のエスパル側(地下改札口のある方)から地下通路に出ると、突然新たに地下鉄駅へ降りるエスカレータが登場しています。これを降りていくと、地下1階(?)部分になるような感じになるが、従来の愛宕上杉通の地下自由通路(南北線上部)と同じ平面になるようだ。交通局の案内では、1階(改札階)とされるようです。つまり、従来の南北方向の自由通路にちょうどクロスする形で、東西方向の自由通路(改札階)ができたと理解すればいいのでしょう。LOFTのビルとバスプールの間、つまり「南町通・駅前通」の下の東西方向の空間になるようです。記念切符でしょうか、ずいぶん人が並んでいる。空いていると駅員が案内している西改札口まで、この新しい地下通路を歩いていくと、途中で見慣れた従来の地下通路とクロスしますが、一見しては位置関係がつかめない。とにかく、西改札口脇の自動切符売り場で、イクスカを購入。おそらく、南町通のマツモトキヨシとTSUTAYAの間あたりの地点の下にいるのでしょう。さっそく、改札を通って、地下4階の東西線ホームへ。すごい混雑。日曜なので家族連れや若者が多いかと思いきや、大半はシルバー世代。これも時代でしょうか。■関連する過去の記事 地下鉄南北線開業と私(2015年12月4日)八木山動物公園行きに乗ります。広瀬川でいったん外の光を浴びて、川内駅からは山登り。青葉山駅では東北大関係者でしょうか外国人の若い人たちがカメラ片手に乗り込んだり。八木山動物公園駅の手前では、渓谷をわたる橋で再び日の光を浴びます。終点の八木山動物公園駅。併設の駐車場はずいぶんと大規模。この画像ではあまり人がいないようにも見えますが、駅構内はかなりの混雑でした。ちなみに、駅の向かいには「八木山スカイパンション」(次の画像です)。むかし学生時代の友人がここに住んでいて、太平洋が見えると言っていた。真ん前に駅、それも地下鉄駅ができたと知れば、絶対驚くだろうな。八木山の風にしばらく吹かれてから、仙台駅まで戻り、南北線に乗り換えて帰った。ところで、やっぱり Namboku Line でした。ナンポ(po)クではないのですね。(写真は地下鉄仙台駅内)仙台駅の混雑の中で、おそらく40前後だろうか家族連れの人が、「ナンボク線」と言っていた。以前も記したが、私は宮城県人にはナンポ(po)クという人が一定程度いると思うのだが。(家に帰って試してみました。今日開業したのはトウザイ線、では今までの路線は? 平成生まれ15歳娘「ナンボク線」、なるほど。70年代地元生まれ妻「ナンボク線」、あれ意外。)■関連する過去の記事 福島も「けんぽ(po)く」です(2015年6月7日) 仙北・県北・南北の読み方 再論(2015年5月16日) 宮城県民は「県北」をやはりケンポクと読む(2013年2月6日) 南北線は Namboku Line(2012年11月22日) 宮城はやはり「せんぽく」(2011年2月8日) 仙北は「せんぼく」か「せんぽく」か(2010年7月26日)最後に記します。東西線に乗って、感じた小さいことや素人の疑問。(1) 広瀬川と龍ノ口渓谷で、いったん外に出て橋を渡る。トンネル部から開口部に近づくと、トンネル内の蛍光灯(LEDのようには見えなかった)の間隔が急に短くなる。これは、急に外が明るくなるショックを少しでも和らげる配慮だろうか。(2) リニアというが意外と揺れたし、直後に乗った南北線の方が比較すると乗り心地(走行時のショックの程度の意味で)はスムーズかも。(3) でも、車内表示や車いす対応などでは、かなり進化しています。(4) 川内駅から青葉山駅に向かっては、相当の斜度で登っているはず。市街地部と異なりトンネルは対向車線と同一空間になっているが、動物公園行きに乗っているときにすれ違った荒井行き電車はずいぶん下に見えた。段違いになっているのだろうか。とすると、トンネル断面が余分に必要になってコスト高になるだろうけど。(5) 八木山動物公園駅の巨大駐車場。4階建てだろうか。定期貸しは300台で、平日だけの定期は1月5千円、6月2万7千円。八木山一円の団地の方々などだろう。どれだけニーズが出るか興味がある。(6) 私はsuicaを持っていて、てっきり使えるものだと思っていた。イクスカを買ってsuicaと一緒にケースに入れていたら、出口で止められた。磁気カードが二重に反応したとかいうことだ。計算の間違いを防ぐため、機械の性能がいいということだが、それなら早く共通で使えるようにして欲しい。たぶん来年3月からお互いに使えるようになるのだろうから、そうなれば、どちらか一枚でOKということで良いんでしょうね。(だいたい、東京の地下鉄はもちろん、「西日本」の市営地下鉄やバスでさえ、SUICAが使えているのに、なぜに今でも...)
2015.12.06
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いよいよ6日は地下鉄東西線の開業です。まちづくりの論議や収支問題など、重要なことは多々ありますが、いずれにしても仙台のエポックであることは確かでしょう。30年近く前の、大きなエポックが、仙台発の地下鉄開業。1987年のたしか6月。あの日は水曜日だったでしょうか、とにかく平日でした。晴れた朝、私は4時台だと思いますが、早起きして歩いて八乙女駅に向かいました。思ったより時間がかかって、駅に着いたときには始発の電車の出発時間が迫っていました。そして、駅は始発電車に乗ろうとばかり、文字通り黒山の人だかり。切符を買う時間もなくて、駅員さんに整理券か入場券のような磁気の券をもらって、何とか最後尾のドアから滑り込む...出発。進行方向からみて最後尾なので、無人の運転席と曇りガラス越しのあたりで、すし詰めの状態。車速を示すメーターを見ながら乗っていました。どこかのオジさんが、「ワンマン運転というけどサ、運転士が倒れたらどうすんだ」などと、つぶやいていました。なんでそんなことこの場で言うのか、と20代前半の私は嫌悪感を抱いたのですが、そんなオヤジもわざわざ早起きして乗ってきたのですから、うれしさはあったのでしょう。喜びを素直に出せずにあえて毒づいたのでしょう。と、今の私は思い直しています。仙台駅で降りて吉野家で朝ご飯を食し、再び地下鉄で自宅へ戻りました。その後、ゆっくりとまた地下鉄で仕事に出かけました。定期券はたしか数日前に買っていたと思います。1987年は、未来の東北博覧会。大河ドラマで「独眼流政宗」。
2015.12.04
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これまで何度か記してきた。県北をどう読むか。宮城は「けんぽ(po)く」が主流。同様の読みをすると思われる「仙北」も「せんぽく」だ。しかし秋田の仙北は「せんぼ(bo)く」だし、全国的には、南北を「なんぼ(bo)く」が標準のように思われる。先日、仙台市内で見た。トラックに、堂々と、FUKUSHIMA KENPOKU と大書。福島県北運輸という会社で、車のナンバーは仙台だった。これで、福島県は「けんぽ(po)く」と決めつけて良いと思われる。■関連する過去の記事 仙北・県北・南北の読み方 再論(2015年5月16日) 宮城県民は「県北」をやはりケンポクと読む(2013年2月6日) 南北線は Namboku Line(2012年11月22日) 宮城はやはり「せんぽく」(2011年2月8日) 仙北は「せんぼく」か「せんぽく」か(2010年7月16日)
2015.11.24
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仙台でのエスカレーターの右立ち左立ちの混乱などについて何度か記した。JR仙台駅構内などでは東京同様の左立ち(右あけ)、地下鉄駅などでは大阪や国際標準の右立ちが主流というのだ。その理由は、諸説あるもいまだ確定せず、理由は不明だ。 仙台のエスカレータ 右立ちか左立ちか(2014年6月14日) 歩行者は左右どちらを通行するか 仙台のエスカレータ再論(2010年12月21日) 仙台のエスカレーター作法を考える(10年4月9日)以前も触れた点ではあるが、日本の鉄道駅構内では左側歩行が原則とされていた。このことが、実は大きく影響しているということはないだろうか。そもそも、日本は人も車も左側通行だった。明治33年(1900)の道路取締規則による。これには、武士同士が刀のぶつかり合いを避けて左側通行をしていた習慣が背景にあると、一応説明されている。戦後1947年(昭和22)に道路交通取締法が制定され、戦前のルールと同様に定めたのだが、GHQが交通安全の見地から人車の対面通行を提案。世界的には車が右側通行が圧倒的に多いが、日本側は、道路標識を作り直すコストに配慮して、車の左側通行はそのままに、歩行者の方を右側通行にした(1949年道路交通取締法改正。なお沖縄は1978年)。人が右側を歩くというのは、わが国において、実はまだ60数年たらずの歴史であって、それまでは左側がルールだったのである。鉄道構内も同様で、ずっと左側通行であった。線路配置や信号標識類も左側通行が原則だが、駅の構内も人が左側を通行する原則で設計されていた。電車を降りてホームや階段を乗客が移動する際に、左側通行を念頭に誘導路を構成しており、特に大都市部の混雑する駅などでは、どうしても変更がきかなかったのだろう。このため、GHQの提唱によって道路の歩行者が右側に改められたが、駅構内は引き続き左側通行が原則となったのである。今は無いかも知れないが、しばらく前までは、東京でも駅構内の随所に「構内左側通行」と書いてあったような気がする。さて、このことと仙台の左右混乱(併存とも)との関係を仮説として考えてみる。戦後一般に人は右側通行になったが、鉄道構内は左のまま。仙台市内のデパートに登場したエスカレーターには、(最初は並んで立ったと思われるが、急ぐ人が出現したりして)一般道路と同様に右に立つようになり、仙台駅では国鉄利用者が当然左立ちになった。その意味では仙台がむしろ当たり前。東京は電車通勤者が圧倒的に多いので、街場も左立ちが浸透。仙台はデパートに行く人は、市内の市電やバス利用者あるいはマイカーが主で、国鉄利用者はむしろ少数だったから。なお、地下鉄開業時には(市交通局自体は指導を否定しているので)市内派とJR派の一種の自然衝突状態だったが、乗り継ぎ族よりも市内派が優勢だったのだろう。なお、大阪では万博で国際標準を指導したとされることが(諸説あり)、東京との違いを生んだ。こんな仮説だが、どうだろうか。
2015.11.24
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朝早起きして、自転車で行ってきた。七北田川沿い右岸の自転車専用道を下る。5年前の初夏に、子ども達と走った。今回は一人で走る。■関連する過去の記事 七北田川の自転車道を楽しむ(2010年5月3日)仙石線、国道45号(福田大橋)を過ぎて、梅田川と合流した後、鶴巻ポンプ場付近から、自転車道は通行禁止。堤防を下りて、鶴巻小学校側に誘導される。仕方なく、高架の東部道路を上にする県道をやや南下して、コロナワールド付近で交差点を渡る。七北田川に戻ると、そこから下流は草道の自転車道を再び通行可能だ。しかし、数百メートル行くと、また通行止めで、仕方なく堤下のあぜ道に下りる。進んでいくと、右手に岡田小学校があり、左に折れて、港南グリーンパークの団地に至る。七北田川に近づこうと、団地の中に入って自転車を進めると、建設中の津波避難施設がある。工事の説明の看板を読むと、来年3月に完成のようだ。県道塩釜亘理線に出て、川筋に戻り、七北田川最後の橋である高砂橋に至るが、ここから河口に向けての自転車道も、封鎖されている。そこで、橋を左岸に渡り、中野・蒲生地区をめざす。この辺までくると、津波の痕跡がまだまだ生々しく残っている。(旧)中野小学校に出くわす。ここまで、かつては住宅が建ち並ぶ地域だったのに、様変わりだ。中野小跡地と津波高を示す看板だ。すぐそばの慰霊の碑で、しばらく佇んだ。じつは、先に自転車を進めてから戻って、碑の前に置かれた、ご自由にお持ち下さいと書かれた缶の中から、蒲生町内会の方が書かれた「仙台市立中野小学校へ避難した600人の人達と過ごした24時間」というペーパーを1部戴いた。路傍の石に腰掛けて、読んだ。読みふけった。本当に、事実なのだ。海の方に少し進むと、高砂神社、そして日和山だ。意外なことに、車が多数泊まっている。サーファーたちだ。日和山の「頂上」とほとんど変わらぬ高さの、干潟の堤防に腰掛けながら、しばらく穏やかな太平洋を眺めていた。北に目を移すと、牡鹿半島が青く見えた。中野や蒲生の街並みもすっかり消えてしまった。振り返ると、晩秋の高い空の下に、松の木が何本か、かすかに街の名残を訴えているようだ。■関連する過去の記事(ほかにもありますが...) 日本一低い山より低い山 大潟富士(2015年10月7日) 七北田川を考える(2007年10月3日) 仙台の地名 福田町と高砂について(05年11月10日)
2015.11.22
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北根というと今では大動脈の県道(旧国道4号)が走り、東に黒松団地、西には藤松や双葉ヶ丘団地などを従える、一大開発ゾーンだ。しかし、かつての北根村は、常住する村民の居ない特殊な無人村だった。北根村は、仙台領の宮城郡国分33か村のひとつ。旧仙台領時代の北根村は、古い黒松林と農耕地のある地域だったが、常住人口はゼロだった。人はいなくても歴とした公村であった。(公村は、領内限りの私村や端郷の場合(村は禁字で邑の字を代用した)と異なり、対外的に公式の村である。仙台領に1,011あったという。)このような無人村としては、登米郡に日野渡、小島邑、遠田郡に小塚、成沢、上郡、南高木邑などがあった。無人の北根村に人が定住しはじめたのは明治に入ってから。明治8年調べで戸数7、人口22人とされる(宮城郡誌)。明治22年の町村制施行の際に、北根村は、七北田村、市名坂村、松森村、古内村、上谷刈村、荒巻村、野村と合併して、七北田村となる。昭和6年には、荒巻とともに仙台市に編入されて現在に至る。旧国道4号の基礎となった交通路は、堤町-北根-市名坂-富谷-吉岡に至る道で、伊達政宗がはじめて開通させたのが元和9年(1623)。それ以前の道中は、北山-荒巻-丸田沢-長命-野村(元七北田)-朴沢-根白石-宮床-黒川と山根を辿っていた。北根の丘陵を開削した新道は、在来の中山道(古街道、野村道、秀衡街道)に取って代わって、仙台以北への幹線となった。松前、八戸、南部、一関の諸侯が参勤交代に上下したのもこの道である。■参考 仙台市民図書館/種部金蔵編『要説宮城の郷土誌』宝文堂、1980年■関連する過去の記事(北根、中山道(なかやまみち)など) 北根と七北田街道(2011年10月24日) 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2011年10月23日) 中山峠の狼(2011年10月6日) 中山道と狼石(2011年1月13日) 飛び地の多い上谷刈(2010年11月15日) 中山道を考える(再び)(09年11月23日) 忘れられた宿場町 根白石(09年11月4日) 朴沢の話(09年5月13日) 朴沢をめぐる(続・画像)(09年5月2日) 朴沢をめぐる(09年5月2日) 中山(なかやま)道を考える(09年3月25日) 中山道のむかし(09年3月23日)
2015.11.08
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仙台駅東口エリアは、もう30年にもなるだろうか、区画整理で立派な道路(宮城野通り)ができる前は、駅前(西口)に比べると雑然としていて、エンドーチェーンがあったように記憶しているが、実は昔の東口をよく知っているわけではない。代ゼミ仙台校は、1983年の開校だというから、意外と早い。私たちが東口をイメージするときに不可欠のランドマークだが、パルシティなどとともに、東口の「現代史」のさきがけとなった建物と言えるのではないだろうか。時代は流れて、今春、代ゼミ仙台校は閉鎖され、建物は東北福祉大学の仙台駅東口キャンパスとなった。それにしても「旧代ゼミ前」なるバス停の名前。よそから来た人には奇異に映るはず。だが、仙台人にとってはこれでないと困るだろう。このバス停の名前が変わる時が、いつか来るのだろう。(記事の続きは最後にあります。)■シリーズ 仙台百景(こんな企画で100まで続くでしょうか) ペデストリアンデッキのマーク(シリーズ仙台百景 38)(2015年6月2日) send i(シリーズ仙台百景 37)(2015年4月18日) 飲酒運転に、喝!(シリーズ仙台百景 36)(2011年9月24日) みんなのよい食プロジェクト(シリーズ仙台百景 35)(2011年5月14日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 耀け!!ベガルタ仙台(シリーズ仙台百景 33)(2010年12月26日) 太白トンネル(シリーズ仙台百景 32)(2010年11月23日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) フェンスのメッセージ(シリーズ仙台百景 30)(2010年2月28日) 宮城刑務所(シリーズ仙台百景 29)(08年10月12日) 松森焔硝蔵跡(シリーズ仙台百景 28)(08年8月31日) 十一面観音堂(シリーズ仙台百景 27)(07年10月23日) 陸奥国分寺薬師堂(シリーズ仙台百景 26)(07年10月17日) 県民の森 鶴ケ丘口(シリーズ仙台百景 25)(07年8月26日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 風の環(シリーズ仙台百景 23)(07年7月7日) 冷やし中華の龍亭(シリーズ仙台百景 22)(07年6月29日) 県民の森(シリーズ仙台百景 21)(07年4月8日) 数字の練習ボード?(シリーズ仙台百景 20)(07年3月25日) 半田屋一番町に進出!(シリーズ仙台百景 19)(07年3月1日) 仙台百景画像散歩(その18 撮影成功!霊気のトンネル)(07年2月6日) 仙台百景画像散歩(その17 変な漢字の看板)(07年1月28日) 仙台百景画像散歩(その16 駅前東宝ビル)(07年1月13日) 仙台百景画像散歩(その15 空から見た仙台)(06年12月29日) 仙台百景画像散歩(その14 光のページェント)(06年12月13日) 仙台百景画像散歩(その13 東京スター銀行)(06年11月30日) 仙台百景画像散歩(その12 建設ラッシュ再来?)(06年11月10日) 仙台百景画像散歩(その11 E721系電車)(06年7月25日) 仙台百景画像散歩(その10 ワンコイン端末)(06年7月7日) 仙台百景画像散歩(その9 ヤギさんの看板)(06年6月19日) 仙台百景画像散歩(その8 キック治療?)(06年6月18日) 仙台百景画像散歩(その7 ホテルモントレ)(06年6月4日) 仙台百景画像散歩(その6 佐々重ビル)(06年5月24日) 仙台百景画像散歩(その5 車止めポール)(06年4月29日) 仙台百景画像散歩(その4 オロナミンC)(06年4月4日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台百景画像散歩(その2 はんだや)(06年3月18日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)ところで、東口の歴史?をやや感傷的につづった上記の記事とは別に、ひとこと付け加えます。代ゼミのビルのあるあたりは、観光ツアーのバスの乗り場としても定着しているように思います。わが家族も何度か利用させていただきました。また、画像のように長距離バスの乗車の場として活用されています。バス停には5本ほどの時刻表が記載されていますが、私も今年の夏に神戸行きの高速バスを利用しました。(関連する記事 奈良散策(2015年9月5日))それと、全くどうでも良いことですが、英語表記が formerly Yozemi とあります。formerly は副詞なので、former で良いんじゃないか(以前の代ゼミ)と思ったりしますが、the building called Yozemi formerly のようなダイナミックな意味内容を端的に連想させる意味で(日本語で言うなら「以前は代ゼミ」のニュアンス)、このような場合の定番的な表現なのかも知れません。どうなのでしょうか。いずれにしても、(旧)代ゼミの名がいつまで残るのか、ですね。残って欲しい気もして...
2015.10.24
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と言っても、そこに選挙ポスターを掲示した候補者についてではありません。この写真よく見ると、直観的には「8」が上下逆さまのようにも見えます。掲示板の作成業者が、ボードに数字をスプレーで印字するときに、数字を切り抜いた型紙の天地を誤ったのでしょうか。ちょっと前から気になってはいましたが、今日の告示後にポスターが貼られてしまう可能性もあるので、今朝、撮影しました。しかし、よくよく見てみると、スプレー印字ではないのです。それぞれの区画の中心部に、ナンバーを印字したシールを貼り付けているのです。数字の字体も、以前の骨太のどっしりした数字ではなく、瀟洒な感じ。夏の市議選では、泉区で掲示板の番号そのものが間違っていたことがありました。区選管も設置確認で見落としたというのですが、何を見ているのかという感じでしたね。ひょっとしたら、その対応の意味もあって、ボードを設置してから番号シールを貼り付けるようにしたのでしょうか。いずれにしても、番号シールになっています。市議選の時は、まだこの方式ではなかったように思います。そして、問題の「8」ですが、よくよく見ると、上下逆にしても同じになるように作ったのだと思われます。つまり、通常我々がイメージするアラビア数字の「8」は、上のマルが下のマルよりやや小さい雪だるま型でしょう。天地を逆にしてやると頭でっかちに見えるはず。しかし、今回の「8」は上も下も同じサイズのようです。言い換えれば、無限大の「∞」のようなもの。これが、最初に書いたように、アレ上下逆ではないかとの錯視を起こさせたのです。これは想像ですが、シール方式にした際に考えられるミスとして、「6」と「9」の上下の間違いがありえます。これは十分注意するしかない(実際に両者のシールは同じものを使っているようです)。しかし、「8」の上下なんかに気を遣っては居られないから上下フリーに作ってしまおう、なにせ短時間で掲示板を多数設置しなければならないのだから注意点は最低限に(6と9だけ)にとどめよう、という考えに基づいたのではないか、と。いや、単に業者さんが8の字体をこう作ったというだけのことで、深い意味はないかも知れませんが。それよりも、問題は選挙そのものですね。復興、TPP、教育問題、産業振興。県政の進路を大いに議論して下さい。今日の市内では、安保や原発の話ばかり聞こえたような気が...■関連する過去の記事 数字の練習ボード?(シリーズ仙台百景20)(2007年3月25日)
2015.10.16
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昨日の新聞で、仙台市国分町三丁目の国道48号で事故、という小さな記事があった。国道48号というと北四番丁や大学病院、八幡あたりがパッと想起されるので、ちょっと戸惑う。国分町三丁目は市役所のあるブロックだから、おそらく勾当台通りで、それこそ市役所前バス停のあたりだろう。国道48号は起点が勾当台公園なので、地下鉄駅で言えば、勾当台公園駅から北四番町駅までの区間も、R48なのだ。ところで、記事を見てしばらく合点が行くまでの間、余計な事まで考えてしまった。R48というと、広瀬通のうちで晩翠通から仲の瀬橋の下層の部分を経由して西道路や愛子バイパスもR48だから、実はほかにも飛び地的にR48があるのか、などと...■関連する過去の記事 仙台西道路の謎を考える(2014年6月8日)ところで、山形側の終点は山形市の南の方まで行って、大学病院そばの飯田交差点。てっきり、天童あたりか、せいぜい国道13号の旧街道の関係で市内の駅前あたりだろう、と思っていたが、だいぶ南まで国道13号とのダブルトラックなのだ。意外。
2015.09.27
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昨日のこと。朝のTBCラジオのニュースクローズアップで、毎日新聞社仙台支局長が、「河北新聞」と呼んでいた。安保法案に関するコメントで、報道ぶりを見ても河北新聞や読売新聞など、国民の理解が進んでいないことを指摘している、などと発言していたように思う。(もし聞き違いだったら大変申し訳ありません。とすれば、以下の考察は空論ということで...)安保法案の行方は重要問題で、今記事を書いているこの時間も参院の委員会室は審議が始まらない。だが、ここでは小さな問題だけ取り上げる。これまで仙台・宮城の人が「河北新聞」と呼ぶのに何度も接してきて、それはなぜだろうと、当ジャーナルのテーマとして、役にも立たない考察を進めて(?)きた。しかし、ラジオを聴いていて、大きな盲点に気がついた。コメンテーターの方は、昨年4月から前任者の支局長に替わってこの曜日のコラムを担当していると記憶している。最初にこの番組に登場した時に、たしか中国勤務の経験などを紹介して地方都市としての仙台の魅力について話しておられたように思う。かなり曖昧な記憶で正確ではない失礼をお許しいただきたいが、少なくとも、仙台に長く在住している方ではないだろう。とすると、地元の人による地元紙の呼び方という視点ではなくて、東京から見た、あるいは全国視野から考えてみるとどうだろうか、との視点に気づかされたのだ。(実は下記の過去記事にも多少触れていますが。)想像になるが、同氏は、主要紙の論調を紹介する際に、全国紙と並べて地元で圧倒的に読まれている河北を例に挙げたのだろうが、「河北」の後に、全国紙と同様、つい「新聞」と続けてしまった。つまり、一般に人々は、朝日、読売、毎日、日経、産経などと単に呼び習わしている。全国紙はすべて「○○新聞」だ。普段特に「新聞」まで続けて呼ぶことはないが、すべて「新聞」の名が続くことは意識している。というより、当然のこととして無意識の世界に入り込んでいると言えるかも知れない。 そして、仙台に来ればこれに加えて河北という新聞があることを知るが、普段は、みんながカホク、カホクと呼んでいる。カホクばかり頭に入っていて、次の呼称は普段から気にしない。全国紙の場合に後に続くはずの無意識的な接尾辞である「新聞」がついつい出てしまって、「カホク新聞」と表現してしまった、ということではないだろうか。私自身は、河北新報という4文字7音節をもって不可分のワンワードと受け止めているから、「河北新聞」と呼ぶことはありえない(わざと言う場合は別として)。小さい頃から山田太郎君を知っている人が、かりに普段はヤマダと呼び習わしているとしても、山田の後にウッカリ「電機」と付け足すことが有り得ないように、地元に居て毎朝河北新報の実物に触れ、コマーシャルも聞いて、かほぴょんタオルも持っているから、カホク、カホクと略称で言うことはあっても、その後に「新報」が隠れていることはわかっている(無意識かも)。たぶん仙台・宮城の人の大部分はそうだと思う(それでもカホク新聞と呼んでしまう地元人の意識構造については、これまでの当ジャーナル記事をご覧下さい。下記参照。)しかるに、例えば東京の人や、東京から来た人からして見れば、この地でカホク、カホクという通称だけが飛び交っているから、正しい接尾辞が完全には頭に入っておらず、アサヒやマイニチと同様だろうとばかり、ついつい後に「新聞」と続けてしまう。こういうことではないだろうか。これには、河北新報という名称の特殊性も背景にあるように思う。河北新報のことを仙台の人はカホクの3音節だけで呼ぶことが多い。しかし、例えば、岩手日報をイワテ、イワテと呼ぶ人は絶対居ない。今朝のイワテに書いてあったんだけど...と言っても誰も新聞の話とは理解してくれない。今朝のニッポー(日報)に書いていた...ならば岩手県域では通じる。仙台では、カホクだ。カホクなら、それだけで新聞だとわかるのだ。もっと言うと、カホク(第1音節にアクセント)という人は、東京や全国の視点の人で、ついつい新聞と続ける可能性が高い。カホグ(第2音節にアクセント)なら本物だ。(何とも適当な説明)東京から来た人が、河北新報の4文字を友人の姓名のように固有名詞として受け止める可能性は、地元の人ほどは高くない。他方で、巷間いわれるカホクの語だけが印象に残り、下の言葉は気に留めていないから、他紙と並べて姓名全体で表現する場面を迫られると、最も通常の接尾辞である(或いは全国紙と同様にしておけば間違っても言い訳になりうる)「新聞」と付け足す。こんなところでないか。岩手県では有り得ない現象なのだ(ひょっとすると、ニッポーが印象深くて、「盛岡日報」という人がいるかも知れない)。いわば「全国視点仮説」だ。仙台・宮城のネイティブがカホク新聞と呼ぶ理由も、実はこの全国視点を持つ人々の言動から影響を受けたのかも知れない。ああ、奥が深い。(しょせんどうでも良いこと...)■関連する過去の記事 なぜ宮城県人は「河北新聞」と呼ぶのか 第4論(2014年6月4日) なぜ人は「河北新聞」と呼ぶのか(2012年1月25日) 再び考える なぜ仙台の人は「河北新聞」というのか(2011年5月20日) 仙台・宮城の人はなぜ「河北新聞」と呼ぶのか(09年7月17日)
2015.09.16
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最近、七北田川について考えていたが、しばらく前に訪れた朴沢の光明の滝を思い出した。七北田川の本流は、おそらく七北田ダムからさらに上の泉ヶ岳ふもとに遡る川筋を指すのだと思うので、その点では支川の位置づけになるだろう長谷倉川の、長閑なせせらぎを思い出したのである。朴沢は、静かで和らぎを感じる地域だった。せせらぎをさらに林間に遡ると、光明の滝が出迎えてくれた。大雨の際は滝もものすごい状態だったのだろう。荒れ狂うほどに、泉ヶ岳の雨を集めて、龍のように下流に吐き出していったのだろうか。■関連する過去の記事 朴沢の話(09年5月13日) 朴沢をめぐる(続・画像)(09年5月2日) 朴沢をめぐる(09年5月2日)(光明の滝の画像があります) 忘れられた宿場町 根白石(09年11月4日)■関連する過去の記事(七北田川) 今日の七北田川(2015年9月13日) 赤生津大橋が有名に(2015年9月11日) 仙台・泉区の赤生津を考える(2013年10月14日) 猿田という地名を何と読むか...(2013年10月15日) 飛び地の多い上谷刈(2010年11月15日) 七北田川の自転車道を楽しむ(2010年5月3日) 朝の七北田川 5月の桜(2010年5月1日) 七北田川を考える(2007年10月3日) 川の上の雲(07年2月8日)
2015.09.14
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今日の昼頃の七北田川です。避難指示が出た赤生津大橋の上流からみれば、だいぶ下流になります。水位は平常くらいに戻ったようです。増水で流されてきたのか、冷蔵庫のようなものが見えます。河川敷では、グラウンドの泥をかくなどの清掃作業をしている人たちが見えました。■関連する過去の記事 赤生津大橋が有名に(2015年9月11日) 仙台・泉区の赤生津を考える(2013年10月14日) 猿田という地名を何と読むか...(2013年10月15日) 飛び地の多い上谷刈(2010年11月15日) 七北田川の自転車道を楽しむ(2010年5月3日) 朝の七北田川 5月の桜(2010年5月1日) 七北田川を考える(2007年10月3日)
2015.09.13
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帰りの途中で、市営バスの営業所のそばを通りかかったので、一枚撮った。帰りもバスの姿をあまり見ないが、一応動いているようだ。今日は市バスも大変だったでしょうから、お疲れ様でした、と。とは書いたが、今日の市営バスには大いに不満がある。朝は5時過ぎに家を出て、車で市内まで。20分程度で着いた。確かに川の水位は上昇していたが、私の場合は経路は全く問題がなかった。冠水も周辺の出水のおそれも、何も無かった。実は、JRが止まっているのは早朝から解っていたが、市営バスに乗る選択肢も考えていた。結局は、バス停で待たないのが正解だった。全面ストップしていたと知ったのは、会社に出て同僚に話を聞いてからだった。泉区の一部や青葉区の西部の団地の人たちは、大変だったようだ。仙山線ストップ、西道路も不通、七北田川は渡れない、などなど。タクシーも全くつかまらなかったという。私のように思い切って車で来てパーキングを探すか、家の人に送ってもらうか、あるいはバイクや自転車ということになる。市営バスが全面的に運休していたのは、冠水箇所が随所にあること、道路の不通区間があること、異常出水の恐れなど、だろうか。しかし、おかしい。まず、冠水や不通はたしかにあったが、十分に走れる路線はいくらもあったはずだ。全面止める必然性はない。第2に、かりに冠水の路線があるとしても、そこを迂回するか(国土交通省の規制で迂回できないとしても)折り返せばいい。行けるところまでバスで運んで、あとは、「どこどこのバス停(地下鉄駅)まで何百メートル歩けば市内に行けるよ」とか運転手が説明すればいい。プロなのだから。第3に、情報提供体制の問題だが、運休の情報をサイト等で出さなかったという。ラジオでは伝えていたのかどうかわからないが、私は聴いていなかった。バス停に並んだけどあきらめたという話も何人からか聞いた。運行すべきだったと思うが、最悪でも、運休することを早めに知らせるべきだ。目処が立たない、状況がわからないというのは、非常に不安であり、迷惑なのだ。このことに気づけないのは、市民の立場に立っていないからだ。思うに、市営バスが市民の足で、運転手さんは誰より市内の道路を知っているのだから、安全に走れるところはしっかり走って、さらに次のバスや地下鉄への動き方を案内してくれればいいのだ。泉区の人が語るには、七北田川を渡れなかったという。しかし、地下鉄は動いていたから、泉中央駅まで上手に誘導されればいいいのだ。学校が臨時休校でも当然教職員は出勤して、施設の安全や生徒の無事を確認したりするはずだ。もちろん、広範囲に避難指示・勧告が出ていたから、人によってはまずは自分と家族の身を守る行動があっても当然だが、職員がみなそうであるはずはない。なぜ全面ストップか。まさか運転手や交通局職員が出勤しなかったわけではなかろう。むしろ、早めに出てきて、運行できるところを確認する、あるいは(運休するのなら)せめて少しでも早い情報提供をするべきだ。民間のバスは運行していたという。もっと言うなら、一番道路を知り尽くしているのだから、運転しながら、冠水場所や危ない場所を率先して道路局に伝えるなど、市役所として連携をとっても良いのじゃないか。写真を撮りながら思った。運転手さんがたも実は同じことを思っているのではないか。冠水がおこるべき場所、どこまでならピストンできるかなど、痛いほど解っている。乗客が困惑しているのも解っている。行けるところまで乗せて届けて、安全に目的地まで行く手助けをしたい。こんな時こそ頼りにされる。そう思っているのではないだろうか。運転手同士の情報交換などはバッチリできるはず。本部がそういう体制をとってくれれば...まさかとは思うが、運休すべき箇所と運行可能な路線のより分けなどが面倒だし、個別の苦情対応も困るから、ハイ全面休みにしましょうという本部輸送責任サイドの「英断」か。全面運休にした理由、そして交通局の皆さんは何をしていたのか。ぜひ説明をしていただきたいものだ。■関連する記事 赤生津大橋が有名に(2015年9月11日)
2015.09.11
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大雨特別警報もやっと解除。水害で被害を受けた方は大変だったろう。お見舞い申し上げたい。県内ではまだ避難所にいる方々もいる。家に帰ってPCをみてびっくり。一日あたりでいつもの5倍以上のアクセスがある。たぶん、下記の記事だと思う。■仙台・泉区の赤生津を考える(2013年10月14日)未明から、赤生津橋から上流の七北田川両岸300メートル程度は避難が指示されていたから。この橋はどこかというので、おそらく拙ブログがヒットした場合があったということだろう。泉区の方にはおなじみの橋のはずだが、名前を聞いてピンと来ない人も多かったのかもしれない。この記事では、赤生津の地名が七北田川の氾濫に由来することを書いた。くしくも、今回は記事内容が実現したようなものだと言えるか。そして、この橋から河口までの七北田川両岸にも避難「勧告」が出ていた。広瀬川の愛宕橋から下流(名取川合流地点まで)についても同様だ。都市部でこれだけの範囲の避難指示・勧告は異例だと思われる。幸いに越流はなかった(と思う)が、想像もしたくない。河川工事のおかげだ。しかし、吉田川では広い範囲に越流水が広がり、また大崎市古川では渋井川が決壊。栗原では三迫川の氾濫で亡くなった方もいた。50年に1度クラスの大雨だったというが、河川災害の恐ろしさが身にしみる。かつては北上川などの大河川を中心に中小の河道が暴れまくった我が県の平野部だ。長い治水の歴史は、終わったわけではないのだ。
2015.09.11
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朝刊の河北新報県内版に、「自動車学校の花壇で不審火」という小さな記事。見出しを一瞬みた印象で、広瀬河畔の花壇自動車学校が頭に思い浮かんだのは自分だけではあるまい。15日の午前3時。場所は、大野田の仙台自動車学校だという。名取川の近く。仙台南部道路脇の場所だ。■関連する過去の記事 自動車整備大学校?(2007年6月17日)(花壇自動車整備大学校の呼称について) 仙台藩の牢屋(2007年8月19日) 仙台藩の刑場(2007年9月3日)(花壇にあった) 愛宕下の発電所(2013年11月25日)(花壇対岸の追廻地区から取水)ところで、上記の07年の花壇の「大学校」の記事だが、現在は「花壇自動車大学校」と称している。私の記事では「花壇自動車整備大学校」と記した。平成21年4月に、「整備」の2字をはずした(同校サイトによります)。また、当時は財団法人と記したのだが、現在は設置者が学校法人角川学園となっている。ちなみに、仙台赤門の方は自動車整備大学校と称している。「自動車大学校」という表現は、整備だけではなく広く自動車に関して学ぶとの趣旨かも知れないが、専門学校をめざす学生さんは良いとして、普通に運転免許をめざす一般人の観点からすると、自動車学校の延長かワンランク上のもの(先生と大先生の関係?)、あるいは、総合的な自動車学校で当然免許も取れるのネ(単科の医院と総合病院の関係?)などと誤解されてしまうのではないか。呼称について、国土交通省の規制緩和があったのか。警察庁とは調整したのだろうか。少々、気になった。ついでに一言。今朝の記事の見出し「自動車学校の花壇」は、どうあるべきか。間違いではないが、花壇という自動車学校の固有名詞が市民県民に馴染んでいることからすれば、例えば○自動車学校の植栽で不審火○自動車学校内の花壇で不審火などとする配慮があっても良かったのではないか。河北新報の記事と言葉の使い方に関しては、「双子のハーフ」を取り上げたことがある。(a half of twins = a twin ?(2009年8月29日))。これは配信した共同の記者のセンスだったようだが、今回の花壇の件については、地元記者ならではの研ぎ澄まされた感性を発揮しても、良かったかなと。花壇地区の住民がびっくりしていないか。目くじら立てる話ではないだろうが。
2015.08.16
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朝の仙台駅ペデストリアンデッキで気づいた。タイルにこんなマークが!JRのマークと仙台市の市章だ。これまで気にも留めなかったのだが、最近できたのだろうか。そういえば、マークのあるタイルは周囲に比べて新しいようにも感じられる。この意味なのだが、たぶん仙台市管理分とJR管理区域の境目を示したのではないだろうか。西口のこのペデストリアンデッキは、道路法上の道路工作物だと聞いたことがある。青葉通りや南町通りは仙台市道だろうが、バスプール(この語は仙台方言らしい)やタクシー乗り場も、仙台市道の扱いなのだろうか。そうだとして、仙台駅1階に平面接続するところで、たぶんアスファルトとタイルの境目が、市道とJR管理区域との境界になるのではないか。そして、それをそのまま2階に鉛直に投影した境目が、デッキの管理区分の境目にもなっており(おそらくは建設時にもこの区分で費用を分担しただろう)、それに応じてこのマークを付した。これは全く当ジャーナルの推定です。わが仙台の誇る長寿番組OH!バンデスが夕方やっている例のコーナーは、この境目の両方に跨るだろうから、仙台市(道路管理者)と仙台駅と両方に許可を取っているのだろうか。などとどうでも良いことを疑問に思ったりする。■シリーズ 仙台百景(こんな企画で100まで続くでしょうか) send i(シリーズ仙台百景 37)(2015年4月18日) 飲酒運転に、喝!(シリーズ仙台百景 36)(2011年9月24日) みんなのよい食プロジェクト(シリーズ仙台百景 35)(2011年5月14日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 耀け!!ベガルタ仙台(シリーズ仙台百景 33)(2010年12月26日) 太白トンネル(シリーズ仙台百景 32)(2010年11月23日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) フェンスのメッセージ(シリーズ仙台百景 30)(2010年2月28日) 宮城刑務所(シリーズ仙台百景 29)(08年10月12日) 松森焔硝蔵跡(シリーズ仙台百景 28)(08年8月31日) 十一面観音堂(シリーズ仙台百景 27)(07年10月23日) 陸奥国分寺薬師堂(シリーズ仙台百景 26)(07年10月17日) 県民の森 鶴ケ丘口(シリーズ仙台百景 25)(07年8月26日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 風の環(シリーズ仙台百景 23)(07年7月7日) 冷やし中華の龍亭(シリーズ仙台百景 22)(07年6月29日) 県民の森(シリーズ仙台百景 21)(07年4月8日) 数字の練習ボード?(シリーズ仙台百景 20)(07年3月25日) 半田屋一番町に進出!(シリーズ仙台百景 19)(07年3月1日) 仙台百景画像散歩(その18 撮影成功!霊気のトンネル)(07年2月6日) 仙台百景画像散歩(その17 変な漢字の看板)(07年1月28日) 仙台百景画像散歩(その16 駅前東宝ビル)(07年1月13日) 仙台百景画像散歩(その15 空から見た仙台)(06年12月29日) 仙台百景画像散歩(その14 光のページェント)(06年12月13日) 仙台百景画像散歩(その13 東京スター銀行)(06年11月30日) 仙台百景画像散歩(その12 建設ラッシュ再来?)(06年11月10日) 仙台百景画像散歩(その11 E721系電車)(06年7月25日) 仙台百景画像散歩(その10 ワンコイン端末)(06年7月7日) 仙台百景画像散歩(その9 ヤギさんの看板)(06年6月19日) 仙台百景画像散歩(その8 キック治療?)(06年6月18日) 仙台百景画像散歩(その7 ホテルモントレ)(06年6月4日) 仙台百景画像散歩(その6 佐々重ビル)(06年5月24日) 仙台百景画像散歩(その5 車止めポール)(06年4月29日) 仙台百景画像散歩(その4 オロナミンC)(06年4月4日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台百景画像散歩(その2 はんだや)(06年3月18日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2015.06.02
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今朝の地元河北新報の社説や読者の声などのページに、元市選管事務局幹部の方の意見が載っていた。再発防止策は市などが取り組んでいるので、選挙適正執行のための仕組みとして改善策を提案するというものだ。第1に選管の組織強化。現在は区の選管職員は専従でなく(選挙の時だけ)、また区民部長が事務局長だから(同等の組織)、市選管の指導監督が行き渡らない。市選管が区選管に対する指揮監督権限を発揮するためには、市選管を局相当に格上げすべきだ。第2に区選管事務従事者の人事評価。選挙事務については人事評価が曖昧だから意欲がわかない。市と区の選管事務局に次長職を設けて、区の事務局長には区長か副区長を、次長には区民部長をそれぞれ充てて、選挙事務についての人事評価を徹底させる。第3に投票時間に繰り上げ。現在午後8時終了が基本だが、近年の期日前投票の定着からすれば、8時までのばす必要はない。実務的にも冬季は運搬の事故の危険や深夜作業のミス発生リスクが高まる。開票時間の短縮をいうなら職員がゆとりをもって事務に従事できるよう、午後6時に繰り上げるべきである。こんな持論だ。第1の点と第2の点は、仙台市や市選管の組織体制の問題であって、提案も検討の選択肢ではあろう。しかし、要するにこの人が言うのは、あまりに組織主義、内輪の論理、やらされ仕事感覚であって、職員としての主体性や公務としての感覚はどこに飛んでいるのか。今回の票水増しの問題の本質は、決して組織の論理ではないのだ。提案のように改められるならそうするのも一法ではあるが、増員に伴う人件費コストは冷静に考慮しなければならない。何よりおかしいのは、市選管のいうことを区選管がきかない、それは局長の格だとか専従でないなどの問題に帰着させていること。仙台市以外の県内の市町村選管は、専従職員はほとんどいないだろう。だが、彼らは通常業務の傍ら、選挙となると一斉に分担しながら従事する。たまにしかない選挙の実務をどう組織的に継承していくかを、真剣に考えているだろう。「専従」の組織である市選管の元幹部という投稿者は、市選管の監督が行き届いていたならこの事故は起きなかったといいたいようだ。そんな問題だっただろうか。あるいは、そこが本当に問題の所在なのだろうか。(本当に市選管が区選管を十全に指導できていたら、つまり、食い違いの場合の対処方法や区選管の上司の対応のあり方などを普段からしっかり指導連絡できていたら、未然に防げていた可能性はある。ただ、それにしても、格の問題で指導が事実上やりにくいとか、人事評価がないと仕事しないとか、組織のあり方として考えられない。かりに本音レベルでそういう風土が市役所にあるのだとしても、今回の(失礼ながら)極めて低次元のミスに関しては、公務を当たり前にしっかり果たしていく(というよりサラリーマンの最低限の責務といってもいい)ことで解決すべき話であって、組織論で改善されますという感覚が、一般には受け入れられないのでないか。)第3の点は、従来から問題視されており以前河北新報でも取り上げられた。午後8時の終了時間を午後5時とか6時に繰り下げる動きが出ているのだ。総務省はなるべく繰り上げするべきでないという方針のようだが、各市町村選管の実務的見地からすれば、後に控える開票作業を考えて前倒ししたい気持ちはわかる。投稿者のいうように、期日前がかなり浸透してきたことや、下火になったが電子投票(コンピュータ画面での投票)なども視野に入れた検討が求められるとは思う。だが、今日の氏の論理が独特なのは、開票時間の短縮を迫るからミスが出る、短縮を迫るなら終了時間を繰り上げよ、という短絡さ。たしかに、今回の問題でも開票の速さを求める風潮が背景として指摘されている。ごく一般論でいうなら、6時終了にすれば集計ミスが減る可能性はあるかもしれない。しかしながら、6時終了にしたら、今回の事故は起きなかったのか。どんなにタイトな作業でも、最低限の作業手順や倫理観まで薄れていては困る。それこそ「専従」の市選管がノウハウと配慮(気づき)をもって十分に指導すべきことではなかったのか。以上、この投稿を深読みすれば、刑事事件としては結論が出て(罰金の略式命令)、あとは内部的な再発防止体制をどう作るかに焦点が映るので、(皆が求める)現場の作業マニュアル的な部分は市当局が作るだろうが、さらに、(皆は求めていないが)実は市選管の宿願だった局長級昇格などの点を、これに乗じて「改善策」として今後の下敷きにさせる意図にも読めそうだ。ただ、あまりに独自なので、元幹部の全く私的な立場での見解だとは思われるが。これが市選管や市役所の内部に共有されている考えだとしたら、これも情けないことだ。いずれにしても、これが元幹部氏の改善提案と聞いて、早朝から非常に残念な思いを抱いたのは自分だけだろうか。市民県民のみなさんはどう思われるか。
2015.05.02
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市内の専門学校の建物。道路に面したガラスに Send i School of ... とある。朝の陽光に輝いているのが目にとまった。iが存在感を発揮しているからだ。愛を送信するという主義のもとの何とか学部(school)か、虚数の i か、はたまた、iPOD や iPS細胞のようにあえて小文字のiを使って何か世界に発信しようというのか。いや、単に sendai の a が、シールが剥がれただけのようだ。ちなみにここはペット専門学校で、ガラスの表記も、of Total Pets と続く。ペットたちの学校(メダカの学校みたい)、ペットたち総体の群れ? あるいは、完全な力をもつ(時代の)寵児を養成する学校と深読みされるかも。おそらく、school of(for) pet care とか、school of comprehensive(total) pet keeping とか言葉を補った方が良いように感じた。学校の教えている内容がわからないのだが。send i に話を戻すが、かなり以前に(1990年代か)、藤崎が、sendaiをもじって、send ai(愛を贈る)みたいなことで、ギフトのキャンペーンかロゴマークかをやっていたような気がする。面白い着眼をした人が居たのだなと感心したものだ。■シリーズ 仙台百景(こんな企画で100まで続くでしょうか) 何と4年ぶりに追加いたしました。ふと目にとまった不思議や、何かを象徴する光景などを探してまいりましたが(ほとんどくだらないものばかり)、100に達するのはいつやら。 飲酒運転に、喝!(シリーズ仙台百景 36)(2011年9月24日) みんなのよい食プロジェクト(シリーズ仙台百景 35)(2011年5月14日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 耀け!!ベガルタ仙台(シリーズ仙台百景 33)(2010年12月26日) 太白トンネル(シリーズ仙台百景 32)(2010年11月23日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) フェンスのメッセージ(シリーズ仙台百景 30)(2010年2月28日) 宮城刑務所(シリーズ仙台百景 29)(08年10月12日) 松森焔硝蔵跡(シリーズ仙台百景 28)(08年8月31日) 十一面観音堂(シリーズ仙台百景 27)(07年10月23日) 陸奥国分寺薬師堂(シリーズ仙台百景 26)(07年10月17日) 県民の森 鶴ケ丘口(シリーズ仙台百景 25)(07年8月26日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 風の環(シリーズ仙台百景 23)(07年7月7日) 冷やし中華の龍亭(シリーズ仙台百景 22)(07年6月29日) 県民の森(シリーズ仙台百景 21)(07年4月8日) 数字の練習ボード?(シリーズ仙台百景 20)(07年3月25日) 半田屋一番町に進出!(シリーズ仙台百景 19)(07年3月1日) 仙台百景画像散歩(その18 撮影成功!霊気のトンネル)(07年2月6日) 仙台百景画像散歩(その17 変な漢字の看板)(07年1月28日) 仙台百景画像散歩(その16 駅前東宝ビル)(07年1月13日) 仙台百景画像散歩(その15 空から見た仙台)(06年12月29日) 仙台百景画像散歩(その14 光のページェント)(06年12月13日) 仙台百景画像散歩(その13 東京スター銀行)(06年11月30日) 仙台百景画像散歩(その12 建設ラッシュ再来?)(06年11月10日) 仙台百景画像散歩(その11 E721系電車)(06年7月25日) 仙台百景画像散歩(その10 ワンコイン端末)(06年7月7日) 仙台百景画像散歩(その9 ヤギさんの看板)(06年6月19日) 仙台百景画像散歩(その8 キック治療?)(06年6月18日) 仙台百景画像散歩(その7 ホテルモントレ)(06年6月4日) 仙台百景画像散歩(その6 佐々重ビル)(06年5月24日) 仙台百景画像散歩(その5 車止めポール)(06年4月29日) 仙台百景画像散歩(その4 オロナミンC)(06年4月4日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台百景画像散歩(その2 はんだや)(06年3月18日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2015.04.18
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仙台市に127番目の小学校が開校。児童1400人とマンモス化した愛子小学校の学区を分ける形で、児童数は新1年生を入れて961人と、市内4番目とか。地域の方々には待ちに待った開校だろう。さて、重箱の隅をつついた話題で恐縮だが、かつて「ヶ」と「ケ」にこだわり、また、旭丘小、鶴谷小など仙台市の学校命名法を論じた当ジャーナルとしては、今日の報道で各メディアが「錦ケ丘小学校」と記していることに注意が及んだ。市教委のリリース通りなのだろうが、敢えてこれまでの慣例を離れてこうしたのは、団地名と合わせようという地域の声だったのだろうか。■関連する過去の記事(ほかにも何度か取り上げたような気がしますが...) 七ヶ浜のボッケ祭に行きました(09年11月8日)(全国市町村の「ケ」と「ヶ」について) 金ケ崎町は大きな「ケ」で決まり(07年9月29日) 旭ヶ丘などの表記「ケ」を考える(07年8月3日) 宮城・悩みの地名あれこれ(07年6月9日) やっぱりウ「オ」ークなのね(06年9月28日)
2015.04.06
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昨日に引き続き、この話題です。■関連する過去の記事 JR仙台駅売店の番号の謎(2015年3月26日)JR仙台駅ホームページというものから情報整理しました。どうも、駅弁売店とNEWDAYS&KIOSKと大別されているようです。(おみやげの店、本屋さんなどは除きます。)4階(新幹線ホーム階)〈駅弁売店〉 仙台駅1号売店 仙台駅2号売店 仙台駅3号売店 仙台駅4号売店 仙台駅5号売店 仙台駅9号売店〈NEWDAYS & KIOSK〉 KIOSK仙台26号売店 KIOSK仙台28号売店 KIOSK仙台29号売店 KIOSK仙台36号売店 KIOSK仙台37号売店 KIOSK仙台38号売店3階(新幹線コンコース)〈駅弁売店〉 仙台駅7号売店 仙台駅10号臨時売店〈NEWDAYS & KIOSK〉 KIOSK仙台22号売店 NEWDAYSミニ仙台34号店2階〈駅弁売店〉 仙台駅6号売店 仙台駅8号売店〈NEWDAYS & KIOSK〉 KIOSK仙台6号売店 KIOSK仙台7号売店 KIOSK仙台8号売店 KIOSK仙台45号売店 NEWDAYSミニ仙台10号店1階〈NEWDAYS & KIOSK〉 KIOSK仙台12号売店 KIOSK仙台13号売店 NEWDAYSミニ仙台5号店ただ、このサイトは、最近できた在来線中央改札ラチ内のNEWDAYSが反映されていないなど、最新ではないような気がします。それにしても、ナンバリングはどういうルールか、不思議ですね。
2015.03.27
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いつまで続くのか改修工事。エキナカガイドというパンフ(2015.03)によりますと、2016年春に完成予定。新しい東西自由通路のイメージ図があります。さて、改修の話は別として、このパンフは仙台駅の魅力を伝えているようです。まず、有名な牛たん通り、すし通り。牛たんは4店と駅弁店。すしは6店舗があるそうです。また、駅弁の50種類は全国屈指。なるほど。多少、「通」っぽいネタを拾ってみますと... 立ちそば処は、1階が「そば・うどん萩」で630-2100です。2階のは「立ちそば処 杜」で630-2300ですが、最近新しくなったやつですね。ラッチ内外の両方に対応できるようです。そして、売店についてです。パンフの駅弁のコーナーにある「売店リスト」は、1号売店から10号臨時売店まで。牛たん駅弁屋(2階中央改札左)を加えて11店舗が表示されています。なぜか、新幹線の方から数えるようで、1号から5号が新幹線ホーム(13/14番ホームが1から3号売店、11/12番ホームに4号と5号)です。6号と8号は、2階コンコース。7号はまた3階に行って、新幹線中央改札ラチ内。9号はホームに戻って13/14番ホーム東京方。最後の10号臨時売店も3階で、新幹線南改札ラチ内、ということです。ナンバリングの法則やいかに。それはともかく、これらは駅弁のコーナーに記載されているので、駅弁を扱っているものなのでしょう。フロアマップには、それ以外の売店も示されています。上記以外の売店を拾ってみます。まず、3階には、34号売店(NEWDAYS)があります。ラチ内で待合いスペースの中央にある、みんなが使う店舗ですね。でも、KIOSKと表示されているのは、上記の10号臨時だと思いきや、マップでは22号と書かれています。不思議。次いで2階。駅弁扱いリストでは6号8号とあるのですが、マップでは、6号のKIOSK(バスプール側出口あたり)があるほか、7号と8号がNEWDAYSと記されています。ほかに、NEWDAYS(緑)で「10号」と「仙台」が。10号はラチ外のびゅうプラザ近くのやつで、「仙台」はラチ内の最近再開した店舗のようです。もう、なんだかよくわかりません。在来線ホームでは、1番線(階段下)と、2/4番線に。最後に、1階では、5号(NEWDAYS)が表記されています。以上、どうやら駅弁リストの番号とフロアマップの売店番号は違うナンバリングのようではありますが、とにかく不可解。はじめに店舗番号があるのではなく、KIOSKやNEWDAYSのそれぞれのシリアルナンバーなのか。いつか解明して見せましょう。(詳しい方教えてください)
2015.03.26
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仙台市営バスの停留所の時刻表です。画像のとおり「2000円以上の紙幣は使用できません」との説明。オヤッ、2000円札なんて久しぶりに聞いた。沖縄サミットに関連して守礼の門がデザインされていたと思う。できたころは結構流通したが、いまは全く見ませんね。バス停のコメントは、要するに1000円紙幣しか使えません、ということなのだが、たぶん丁寧でマジメな方が書いたので2000円札を無視できなかったのでしょう。
2015.03.24
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今春のダイヤ改正では北陸新幹線の開業が目玉。最速達の「かがやき」は東京-金沢を2時間28分、東京-富山は2時間8分となる。仙台駅のダイヤ改正パンフをみてみると、仙台-金沢駅間を最短3時間26分で結ぶ、とある。2時間37分の短縮だ。こう考えると、たしかに衝撃的な短縮。昔は、上野乗り換えでまる一日がかり。今だと、夜行バスか。かくいう私も昨夏は北陸にバスで行きました。パンフレットによると、仙台を8時33分に出る「はやて」で大宮で「かがやき」に乗り換え、金沢には12時6分に着く。帰りは、金沢を17時36分に出て仙台駅には21時47分に到着。半日のビジネスならこれで十分だ。加賀金沢と仙台。昔でいう大藩どうしの交流が強まるか。北陸から仙台に大学生がもっと集まってくれればうれしい。首都圏経由の交通インフラというのはシャクだが(仕方ない)、北陸と仙台・宮城・東北が身近になることで、交流が強まっていけば。もちろん、仙台周辺についても、石巻線の全線再開(3月21日)、天童南駅の開業、仙山線のダイヤ利便性向上などもそれぞれにインパクトがある話題だ。■関連する過去の記事 直行新幹線 今度は長野へ!(2010年9月26日) 仙台新潟「直行」新幹線を考える(2009年10月10日) 高速バス富山-仙台が登場(2008年4月27日)
2015.03.12
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三原良吉氏の説明で仙台には行人塚が2つあるとされている、ということを書いた。■関連する過去の記事 秋保の木食知足上人(2015年2月20日) 行人塚の地名の由来(2008年9月12日) ガソリンカーと仙台(2012年11月5日)ところで、三原先生の同じ御著のなかに、川内のエノキ塚の話があって、「仙台市内に4箇所ある」行人塚の1つである、と書いている。う~ん、2か所ではなく、4か所もあるのか。古城神社(行人塚踏切)のほか、あと2つはどこになるのだろう。エノキ塚についての三原先生の解説は概ね次のとおり。仙台商業の扇坂プール前の筋違橋の北から、山屋敷に通じる坂道を登り詰めると右側に高台があって、綱村公の御茶屋の跡。その南向かいに行者塚と伝えられるエノキ塚がある。榎の老木があったのでそう称する。下は二之丸裏下馬から続く千貫沢である。二之丸がわの谷の斜面は今も大木の密林で昔は狐狸の類が多く、昔は仙台城の化け物話の中心だった。このような説明である。(三原良吉『郷土史仙臺耳ぶくろ』宝文堂、1982年)ここでエノキ塚とされているのは、東北大の川内キャンパスの西側の外縁あたりになるだろうか。千貫沢とされるのは植物園のあたりのことか。それとも教養部設置前の付近一帯を指しているのだろうか。さて、行人塚のほかの場所。他の文献で探してみたい。
2015.02.25
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力試し石と伝えられるものが各地にあるが、利府町の神谷沢にも有名な力試し石がある。664年前(原文ママ。おだずま注)の板碑で、2基がある。1つは高さ5尺幅3尺余りの安山岩で梵字は「ア」、紀年は延慶3年2月27日とあるが、これではない。もう1つが、高さ6尺幅2尺余りの砂岩で種子(しゅじ)は「アン」、紀年延慶3年8月26日、銘文が摩滅しているが、これが力試し石である。舟山万年「塩松勝譜」(文政6)にも、高六尺許、横之ニ半ス、記文剥落ス、延慶三年僅ニ読ムベシ、之ヲ土人試力石ト云フ、とあって持ち上げたのは平田五郎と書いてある。平田五郎は、会津四宿老の平田土佐守実範の次子周防の子で、政宗公に仕え、利府本郷で2百石を領した。身長7尺、豪勇で知られ、一回に2、3升の飯を食いだめして何日も食わない腹芸があった。ある夕方に神谷沢の浜街道にかかる神谷川の土橋を通ると、干上がった川に狐の群れが海老ざっこをむさぼり食って五郎に気づかない。五郎がおもしろ半分に大喝すると狐は逃散したが、見事に光る玉を落としていったので五郎は持ち帰ったところ、夜更けに玄関をたたく者がある。見ると若い女がしょんぼり立って、あの時の狐で逃げるときに大切な玉を置いてきた、あの玉がないと仲間入りできない、何とぞ返し願いたい、ご恩に怪力を身につけて進ぜる、と涙を流して歎願するので、もぞこくなり玉を返してやった。翌日、神谷沢に行って試しに延慶の碑を持ち上げると、軽いこと藁束のようで、狐の約束どおり。時は文禄4年7月14日、伏見城大広間。関白秀次が高野山で切腹に処せられた直後で、政宗公は秀次に党与した容疑で至急太閤から上洛を命ぜられた。世上の取沙汰は政宗公の切腹で持ち切りの土壇場。この日、片倉景綱が政宗公の刀を捧げ平田五郎は草履取りとして従った。太閤が政宗詮議の最中に地震のような屋鳴り振動を感じ、数人の侍臣が遠侍の玄関に出ると、柱と土間の間に草履が挟んである。そこへ雲突く巨漢の五郎があらわれ、閑所(トイレ)に行く間はさみ申した、どうれ、と片手で柱を持ち上げ片手で草履を取り出したから、一同舌を巻いた。太閤の耳にも入って、政宗佳士を得たり、と賞め公の疑いも晴れた。五郎から4代目の長右衛門茂直は2代藩主忠宗の恩遇厚く、万治元年忠宗他界の時殉死。子孫代々虎乃間番士。370石。神谷沢の東浜街道には、今も平田橋がある。原町二丁目、原ノ町小学校となりの平田神社は五郎が慶長8年に勧請した稲荷の社である。■三原良吉『郷土史仙臺耳ぶくろ』宝文堂、1982年 を参考にさせていただきました。■利府町観光協会のサイトに延慶の碑と平田五郎が解説されています。
2015.02.23
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仙台城跡の石垣の修復が完了して、見学会が開かれた。そのニュースがNHKでやっていた。仙台城「あと」と読んでいたので、昔は青葉城址(じょうし)と良く呼んだと思うが、国史跡上の名称は「せんだいじょうあと」なのだろうな、などと感心して聴いていた。しかし、そのうち、「4年前の震災の地震で石垣が崩れる被害を受け...」という。あれ、震災の地震、か。ちょっとおかしい気がする。震災は大地震と津波を含む全体を示すから、その部分である地震による被害、と丁寧に説明しているのだろうか。でも、やっぱりおかしい。「震災で被害を」か「震災の揺れで被害を」あたりで。震災の地震の件は、まあどうでも良いことですが。とりあえず、青葉城址と仙台城跡の関係を思い出したので。■関連する過去の記事(青葉城址、仙台城跡の呼び方、バス停の名称) 岩手公園の愛称が決定(06年9月17日)
2015.02.22
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仙台市長の岡崎栄松さんは戦後はじめての公選市長だ。栄松さんの父も祖父も秋保の佐藤家の出身。二口街道の宿場だった馬場部落を過ぎて、上ノ原から名取川の渓谷を対岸に越えて坂路を上ったところを深野といい、すぐ目の前に以前は茅葺き重層の大きな農家があった。ここが佐藤家で、秋保大滝不動堂の中興開山知足上人の生家である。知足上人は天明8年佐藤家の三代太兵衛の長男太作として生まれ、子どもの頃から親孝行。ある時、母親が眼病にかかった。深野から1キロばかりの秋保大滝に慈覚大師が貞観年中に不動明王をまつったところであるが、太作は大滝不動にこもって祈願を続け、この孝子の念力で母は失明を免れた。これが衆生済度に一生を掛ける動機となる。太作は家督を弟の太吉につがせ、馬場の大滝不動別当真言宗の西光寺住職順昌法印に決意をうちあけ、文化2年18歳の時、仙台城か八幡町の竜宝寺39世実阿上人について得度して、名を岳蓮(ママ。他では岳運とされる。おだずま注。)と改める。大滝の東南の沢股山の大岩で三七日断食修行を行い、さらに羽黒山の荒沢で千日の穀類断食を修すること2回、引き続き苦行14年、ついに木食となり、知足と号した。上人の脚力は当時有名で、秋保では空中を飛行したと言い伝え、石巻まで日帰りで往復したという。いつも通過した八幡町では、風のように早く足が地面に着かなかったと伝えている。石巻には帰依者が多かったと見え、寿福寺境内に碑が建っている。上人の宿願は大滝の道場たる不動堂の再興であった。この脚力で東北くまなく行脚して浄財をつのり、文政8年に地方まれに見る不動堂が成り、翌9年に本尊を安置したのが現存の大滝不動堂である。近世秋保奥地の観光開発に生涯をかけた別当大滝周名氏によって堂は完全に修理され、その傍らに知足上人の木像を安置する開山堂と講舎が建てられている。本尊の不動明王は銅造坐像で像高12尺、東北第一の巨像。作者は仙台城下北目町の大出屋八代四郎右衛門(津田甚四郎と同一か。おだずま注)。近くの滝ノ原、野尻、馬場には今も上人の話を語り伝えている。深野坂で上人の集めた浄財をねらった数人の山賊を、上人は呪文で金縛りにかけたという。また、上人は高徳をもって村民を感化し、加持祈祷で多くの人を救った。しかし修験道の究極は自ら現世の命を絶って魂と化し衆生を済度するを目的とし、その手段は多くの場合生き埋めであった。これを全国的に行人塚と称し、仙台市内にも2か所ある。知足上人は、文政11年9月5日、直下56メートルの秋保大滝の日天月天と称する瀑口の絶壁から身をおどらして飛びこみ示寂した。41歳。山や畑で働いていた人たちは、大滝の方向にただならぬ大きな音を聞いて、思わずその方角を見ると、不動堂の杉林の中空高く知足上人の姿をはっきり見たという。共同幻覚であろう。堂から滝見台に行く道の右側に五輪の墓がある。生家の佐藤氏宅に自作の上人木像がある。故岡崎市長は顔が木像そっくりであった。■以上は、三原良吉『郷土史仙臺耳ぶくろ』(宝文堂、1982年)によっています。知足上人と岡崎栄松市長について、秋保・里センターのサイト秋保の歴史的人物にあります。■関連する過去の記事 昭和30年仙台市長選挙の無効事件(2009年12月05日) 仙台市長選挙の無効判決とやり直し(2009年11月21日) 仙台と競馬の歴史(2006年10月1日)(ところで、岡崎さんが市長の地位を失う契機となった選挙無効事件。上記の記事に書きましたが、仙台市選管の対応ぶり、今回の衆院選の不手際と重ね合わせてしまいます。あまり言いたくないことですが。)また、文中で仙台市内に2か所あるという「行人塚」ですが、1つは若林区の行人塚踏切に名を残す古城神社がその場所でしょう。■関連する過去の記事 行人塚の地名の由来(2008年9月12日) ガソリンカーと仙台(2012年11月5日)すると、もう1か所とはどこなのでしょうか。
2015.02.20
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仙台と山形を結ぶ鉄道の路線のプランは3つあった。すなわち、仙台-愛子-作並-関山の案。仙台-秋保-二口-山寺(秋保電気鉄道の延長)。塩釜-七北田-関山の案。沿線では利害関係も絡み、代議士などを巻き込んで激しく論争された。結局昭和元年、現在の路線が決定し、昭和4年に仙台-愛子間が開通。翌年に作並に延長される。一方山形側では昭和8年に羽前千歳-山寺間が開業。しかし、作並-山寺間は面白山に阻まれて東西に路線が分かれたままだった。これが物資の交流を妨げ、軍事的にも不都合なことから、昭和10年春に隧道工事に着手、翌11年9月貫通し、12年11月に営業運転が行われている。5361メートルの面白山隧道は、当時、清水、丹那トンネルに次ぐ日本第3位の長大トンネルであった。標高1224メートル。■吉岡一男監修『新・仙台の散策 -歴史と風土をたずねて-』宝文堂、1990年 より■関連する過去の記事 幻の鉄道計画 改正鉄道敷設法の予定線(その2)(2013年4月20日) 堺すすむと仙山線(2012年9月23日) 山形の鉄道建設熱を考える(続)(07年1月3日) 山形の鉄道建設熱を考える(07年1月2日) 仙台・宮城と山形を結ぶ街道に思う(2005年11月29日)
2015.02.13
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さきほどOH!バンデスで長町のお菓子屋さん「蛸屋」の蛸さんが出演しておられた。お名前も蛸さんである。屋号がそのまま名字になったと話しておられた。先日も書いたが田村昭さんの文章にも、仙台の蛸さんが出ている。田村さんは直接会って話を聞くなどされているようだが、おそらく、長町の蛸屋さんのことではないだろうか。■ 東北の変わった苗字(2015年2月9日)蛸屋さんは「全勝餅」で有名で、TVでも映していた。ただ、お名前やその元となったという屋号が何に由来するかは、知り得なかった(私が画面をチラ見しただけなので前後で説明があったかも)。長町駅前だと、近くに蛸薬師堂がある。これに関係があるのだろうか。■関連する過去の記事 蛸薬師(長町4丁目)とイボのこと(2013年2月10日)奥州街道と笹谷街道の分岐点、長町三丁目の川熊商店前には笹谷道の道標が建っている。ここから100m入って小道を右折し50mのところに、舞台八幡神社と蛸薬師堂が並んで建っている。八幡神社は天喜年中に源頼義父子が安倍頼時と戦ったときに河内国平岡(東大阪市)から遷祀されたと伝えられている。その後荒廃したのを永禄中、北目城主粟野大膳が再興したという。明治5年、平岡村社となった。江戸に向かう一番目の宿駅であった旧長町宿は、根岸村の北長町宿と平岡村の南長町宿で一宿をなしていた。根岸村は経ケ峯、大年寺山、越路山などを含む広大な村域で、気候温和で百代の里といわれ、近世より茶園があった。南長町宿分は藩政時代平岡村に属し、明治7年、根岸村と平岡村が合併し宿名を取って長町村となった。明治11年郡制の編成により名取郡が成立し郡役所を長町村に設置。明治22年市町村制施行で、長町村と郡山村が合併し茂ヶ崎村が成立(長町と郡山は大字に)。村役場は長町南町に置いた。大正4年に茂ヶ崎村は町制施行、改称して長町に。昭和3年仙台市に編入された。舞台八幡神社の右隣に、蛸薬師といわれる二間四面の堂。由緒不詳だが、伝承では、昔津波によって町裏渕上に漂着した薬師如来像を祀ったもので、渕上薬師瑠璃光如来または蛸薬師と称し、村民から篤く信仰された。次のような伝説がある。長町南町で味噌醤油屋を営んでいる川熊の家の裏に池がある。いつの頃か、この辺一帯に洪水があって水が引いたあとを見ると、池の中島に薬師さんの像が蛸に吸い付かれて流れ着いていた。洪水のあったところから池まで、新しく堀ができていた。今もこれを薬師堀といっている。それ以来、中島に生えていた蘆はみな片葉になった。これを煎じて飲ます、またはこの布団の下に片葉の蘆を入れると、子どもの夜泣きは止まるという。その後川村家では薬師を池の西に堂を建てて祀った。これを蛸薬師といった。(仙台民俗誌)■以上は、木村孝文『太白の散歩手帖』(宝文堂、2001年)から全国的にも類を見ない蛸薬師は珍しい。味噌醤油醸造の川熊は長町の旧家の一つだが、いつのころからかこの一帯が洪水にあった水がひいたあと、家の裏の池の中の中島に薬師様の像が蛸に吸いついて流れ着いていた。(以下、薬師堀のこと、子ども夜泣きのことなど、上記と同趣旨。)川村家では薬師蔵を屋敷内に安置し祀り、赤飯をはじめ供物を供え、町内の守護神となっている。店頭歩道に秋保街道の道しるべが、人目に触れぬようひっそりと置かれているのが痛ましい。■以上は、吉岡一男監修『新・仙台の散策』(宝文堂、1990年)から
2015.02.11
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今回も、田村昭『東北お国ぶり』(宝文堂、1970年)に説明されている東北の変わったお名前に関して。大正年代の仙台警察所長に、吉村十七夜月という名の方がおられた。苗字はともかく、十七夜月を「かなぶ」とは、誰も尋常には読めそうにありません。こんな趣旨の文章がありました。まさしく風格のあるお名前ですが、読み方は、まったく想像もつかないですね。子孫の方が宮城県におられるのでしょうか。私自身も、吉村さんは知人に何人かおりますが、こんど尋ねてみようか。失礼ながら4代か5代前くらいの立派なご先祖様に、おられませんか...■関連する過去の記事(田村昭さんの解説される苗字に関して) 変わった名前で珍問答(2015年2月10日) 東北の変わった苗字(2015年2月9日) 尻屋の共産部落(2015年2月6日)
2015.02.11
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さいきん、田村昭『東北お国ぶり』(宝文堂、1970年)を読みながら何件か記事を書いた。珍しい苗字として、留守(るす)さんが紹介されている。鎌倉時代に奥州の留守職となった伊沢左近将監家景は留守を名乗るようになった。現在もこの姓はある。電話で「留守さんを(お願いします)」と言われて、「(ハイ)留守です」と答えると、相手は留守と思ってガチャリと切るなど、困ってしまう。また、生江(なまえ)さんが同じ職場にいて、「名前は?」と問われて「生江です」と返事をしても素直に受け取られなかった。むかしの仙台逓信局での実話だそうだ。田村さんのご勤務された経験から綴られているのだろうが、氏のウィットの利いた文章とともに、心あたたまる話だ。(当のご本人様方は、さぞかし苦労だったでしょう。)
2015.02.10
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年末だったと思うが、石川太郎さんのラジオの中で聞いたこと。リスナーの方の母はその昔、(今の)名取市から仙台市の山田に嫁に来た。さほど離れてはいないから習慣の違いなどはなかったはずだが、家の畳を普段は壁に立てかけて(つまり床は床板のままで)生活していたことに戸惑った、とかいう話だったように思う。時代を感じさせる深い話だと思ったが、もう一つ、そのご母堂は名取川を渡しで越えてきたということが印象的だった。太郎さんが、栗木橋もなかったのね、とか相槌をいれたように記憶しているが、本当に太郎さんは仙台をよく知っている。ところで、今では随所に立派な橋がかかって、車でスイスイ走っているが、戦後もしばらくは彼方此方で渡船がみられたはず。通学や買い物など、日常の足だった。名取川なのだが、七北田川や広瀬川に比べて、橋が少ないような気もしていた。下流から見ると(鉄道橋や水管橋をのぞく)、(1)県道塩釜亘理線の閖上大橋、(2)仙台東部道路の新名取川橋、(3)国道4号バイパスの名取大橋、(4)国道4号旧道の名取橋、(5)県道仙台館腰線の太白大橋、(6)仙台南部道路、(7)国道286号の名取1号橋、(8)栗木橋、(9)国道286名取2号橋、(10)県道仙台村田線の生出橋、などと続く。その後は赤石地区や秋保になる。これらのうち、かの昔日のお嫁さんが渡った頃と思われる昭和前期を想定すると、奥州街道のメインである(4)ぐらいしかなかったのではないか。木村孝文『太白の散歩手帖』(宝文堂、2001年)に記されている内容から、名取川の渡しに関するものを拾ってみた。------------(要約)中田宿を通る奥州街道は江戸時代に通じたもので、それ以前は、東街道が重要な交通路であった。高館から名取川をわたる地点によって2つの道があるという。一つは、栗木渡しから鈎取に入る。西多賀から茂ヶ崎山の麓を南から北に回り越路から鹿落坂を下り、広瀬川を渡り、米ヶ袋、田町を通って宮城野、多賀城へ通じたという。「仙台鹿の子」はじめ郷土史書はほとんどこの道が記される。(なお、奥州街道の広瀬川の渡りは、はじめ宮沢渡しで舟丁に連絡する道を通っていたが、慶長17年、長町渡しで渡ることとされ、さらに、寛文8年(1668)には長町渡しに橋が架設され、長(永)町橋と名付けられた。今の広瀬橋のやや上流にあり、渡ってから鈎の手に折れて長町の通りに出た。初めて橋を架けるとき通りかかった巡礼の女を人柱にしたといい、橋姫供養碑が建っている。木橋は、明治22年9月の洪水で流失したとき、鉄橋架設の庵のあったが、当時外国から伝わったばかりの鉄筋コンクリート造にし、明治42年11月竣工、広瀬橋とした。)栗木渡しから鈎取、鹿落坂、田町を経由するコースは回り道過ぎる。東街道の別コースは、高館から柳生を通り、上河原の相の瀬渡しで名取川を渡り、大野田の宿在家・王の壇を通り、広瀬川は宮沢渡しか、永町橋(広瀬橋)下流の瀬(俗称ネギ洗い瀬)を渡って宮城野に向かう道である。高館と陸奥国分寺を直線で結ぶと、相の瀬渡しが線上の最短コースになる。東街道の主幹道路だったと思われる。相の瀬渡しを渡ると大野田の宿在家である。宿在家には、荷屋(にや)という屋号を持つ郷内家がある。宿在家の地名とともに、東街道筋を証するものとして注目すべきだ(関根一郎「西多賀郷土史物語」)栗木渡しは今では栗木橋となり下流100メートルほどには名取1号橋。栗木渕を渡ると、北に太子堂に至る道に出る。この太子堂は耕田寺の400メートル西になる。栗木橋の北80メートルには大神宮等の3つの石碑がある。ここから国道を越えて東に800メートルほど歩くと、船渡前というところにつく。もとはここから熊野堂へ川を渡れたが、今は有料道路があって通行止めになっている。さらに東に約200メートル歩くと山田八幡神社(旅立八幡とも)。------------以上には、東街道ルート論を基礎に(他のルート説もあるようだ)栗木渡しと相の瀬渡しが登場する。ただ、藩政時代や明治、昭和前期の渡しポイントとは限らない。太白区まちづくり推進協議会のサイトによると、落合の渡しが解説されている。------------閖上から落合を通り、日辺から三橋の井土浜街道に繋がる閖上街道は、落合・日辺間で名取川で分断されるため渡し舟がありました。この落合の渡しは、初め私営で渡し守が名取川の落合岸に小屋を建てて住んでいましたが、後に落合地区の共同運営になり、渡し守りは落合の人が交代で務めるようになりました。また、渡し守りが船頭となって水棹を川底にさして舟を進めていたのが、後には両岸に渡した針金をたぐって進めるようになりました。最盛期には閖上からの魚の行商人などで日に百人以上の人が利用した渡し舟も、昭和三十年中頃には姿を消してしまいました。 ------------また、中田宿について、次のようにある。------------奥州街道が整備されたのは、伊達政宗以降。それ以前は、高館を通る東街道が主幹道だったという。東街道は、高館から栗木の渡しを通って西多賀へ、あるいは、高館から中田・長町・根岸を通り、宮沢渡しを越えて国分寺へ、などさまざまな説がある。最近ではそれらに加え、高館から増田を通り、郡山へ抜けたという説も取り上げられるようになった。中田地区柳生にある相の瀬は、川幅が約三十メートル。深さ四十~五十センチ程度で、歩いて渉れる。高館から当時の旅人は、このあたりで名取川を越え、中田を抜けて郡山方面へ向かったとも考えられる。いずれの説も、いまだ証明されてはいないが、郡山官衙の発見とともに、増田や中田から郡山へ向かうルートが、重視されるようになってきた。江戸時代に入り、伝馬制の採用とともに、主街道は東街道から奥州街道へと変わった。長町宿の開設とともに中田宿が誕生し、人や馬が中田の町を抜け、行き交うようになる。長町・中田間は、およそ一里(四キロメートル)。さほど遠い距離ではないが、名取川の氾濫などのために川止めになることも多く、宿場が欠かせなかったらしい。当時の中田宿は、長さ四町二十九間(約五百メートル)。街道に沿って宿屋や小間物屋が並ぶ小さな宿場だった。街道に面して間口がとられ、板戸を開けば、酒や醤油、小間物などが商えるようになっていたという。今でも町内には、そうした家屋のつくりがいくつか残り、宿場の面影を伝えている。------------なお、同サイトには、かなり上流になるが、人来田付近には義経主従が平泉に逃げたという「判官瀬」も紹介されている。他のサイトを巡ってみると、藤塚の渡しと篭の瀬の渡しが存在していたという。篭(籠)の瀬は、対岸の袋原と結ぶもので、昭和の時代まで使われた。船場からは、笊川にかかる北目橋をとおって、電力の施設の東を経由して、八本松に出た。閖上街道と呼ばれ、閖上の魚介類が仙台に届けられた。国道4号パイバスに、篭ノ瀬交差点の名がある。藤塚の渡しは、藤塚川の岸に記念碑がある。船は人がたまると出るのだが、一日に40往復もした。最後まで残っていたのは相沢さんという方の私設で、地域からの寄付もあった。閖上からは魚売りや通勤、藤塚からは野菜売りのほか町場の閖上で買い物などでにぎわった。後に県営の形式になり、昭和47年に県道閖上大橋の開通で、江戸時代からの渡船が幕を閉じた。
2015.01.24
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先日の記事に、東北大学の教養部がかつて三神峯にあったことを記した。■関連する過去の記事 三神峯と東北大学(2015年1月18日)別の文献から改めて記したい。木村孝文『太白の散歩手帖』(宝文堂、2001年)による。三神峯は多賀神社の社有地で、大正時代頃までは部落民の遊園地としても利用され茶屋まであったという。昭和10年には北側が陸軍省の用地となり、陸軍幼年学校が建設され、昭和12年復活開校、終戦まで陸軍将校となるための基礎的な教育をした。陸軍地方幼年学校の前身は、榴岡の現五輪一丁目の地に、明治30年開校された陸軍将校養成の学校で、大正13年軍縮で閉校になった。14歳の少年が入校し、3年間の教育を受け、上級の陸軍士官学校に進んだのだった。終戦後、三神峯の幼年学校の建物は文部省に移管され、北六番丁で戦災消失した旧制二高が移転してきた。昭和25年学制改革により旧制二高は東北大学に併合された。三神峯の校舎は、東北大学第一教養部の校舎となった。第一教養部は昭和30年頃から川内に移転したので、その跡に東北大学理学部の原子核理学研究施設が公園の北東に建てられた。旧制二高の明善寮にも使われた旧幼年学校の建物は全部壊された。三神峯には、幼年学校「雄大剛健」の碑、二高尚志の碑、明善寮懐旧の碑が建立されている。ほかに、多賀神社社有地の標識、聖徳光波の碑(明治天皇行幸記念)、造林記念の碑、大正天皇(東宮時代)行啓記念の松、造林記念の碑(重複に見えるが原文ママ)もある。三神峯には昭和2年から八木久兵衛氏の寄付により33種350本の桜が移植された。昭和42年からは三神峯公園となり、春には早咲き遅咲きの花が1か月あまり観客を楽しませる。■関連する過去の記事 西多賀を考える(07年5月23日)
2015.01.22
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昭和20年の仙台空襲で市内の主要施設は焼失した。旧制第二高校も北六番丁(現堤通雨宮町)の校舎を焦土と化した。二高はその後、西多賀の三神峰(おだずま注:峰は原文ママ)にあった旧仙台地方幼年学校(陸軍の教育施設)を利用して学んだ。学生たちは市電や秋保電鉄でここまで通った。その後、学制改革で二高は東北大学に合併し、ここに教養部が置かれて、20年前(おだずま注:後掲引用書は1990年発行)に川内へ移転するまでここで若き日を送った学生たちは数多い。かつて下宿を世話した家庭なども時折話題になるという。今は原子核研究施設があり、他方、一部は仙台市の三神峰公園となった。■参考 吉岡一男監修『新・仙台の散策 歴史と風土をたずねて』宝文堂、1990年三神峯というと東北大学の宿舎、核理研、そして桜の名所の公園のイメージだ。ところで、上記の説明だと、1970年頃まで東北大学の教養部が三神峯にあったということになりそうだ。しかし、東北大学のサイトなどからすると、昭和33年(1958)に分校第一教養部(旧制二高を全身とする)を川内に移転、39年に分校を廃止、教養部を設置、とある。吉岡先生監修の本の方は、編集時に原典の時点を直さなかったのだろう。
2015.01.18
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大雪で交通渋滞の今日、こんなニュースが。仙台で高速道路のSAなどで販売されるオリジナルの「どんぶり」を競うコンテストが、開かれた。この「どんぶり王座決定戦」は、2013年から開かれているもので、宮城県と福島県の10店舗が参加。仙台味噌のソースをかけたご飯に揚げた牛タンと笹かまをのせた、東北道下り線長者原SAの「牛タン華丼」が、紹介されていた。上位2品は、来春3月に東京で東日本一を決める決勝に進むという。NEXCOのホームページによると、仙台の大会は、宮城・福島ブロックということで、今日(18日)に市民会館で開催されたようだ。ただし、一般の客は入れない、と。良い企画だと思うが、そこだけ、ちょっと残念。
2014.12.18
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昼のニュースがあった。仙台市宮城野区のセブンイレブン仙台菖蒲沢店で、今朝の4時40分頃カッターナイフをもった犯人がレジの女性店員を脅迫。店の奥にいた男性店員が非常ボタンを押したら店内に警備会社に報知する放送が流れて(NHKの説明。他社では警察に通報、とするものあり。女性店員がボタンを押したのに気づき、とするものも。)、犯人は逃げ去ったという。画像が公開されている。自動で店内に流れる放送とは、どのようなものなのだろうか。さて、菖蒲沢とはどこのことだろうか。セブンイレブンのホームページで店舗検索したら、国道4号バイパス沿いだ。ああ、あそこか。住所は岩切三丁目になるようだ。たしかに、この店のある交差点から岩切方向に小さい道を行くと、菖蒲沢東公園というのがある。また、バイパスを挟んで市内側になる鶴ケ谷東三丁目には、鶴ヶ谷菖蒲沢公園なる名称も見える。昔の地図(昭和50年代)を広げてみると、鶴ヶ谷団地の鶴ケ谷六丁目から北のバイパスとの間は、はまだ開発が進まず、「菖蒲沢堤」という名の池がある。また、少し最近の地図(90年代前半)では、鶴ヶ谷東二丁目という町名になっており、池の形は地図上ははっきりしないが、鶴ヶ谷菖蒲沢公園の南に位置する池が、その名残か。だいぶ埋め立てられたようにも思える。一帯は「鶴ヶ谷南団地」と記されている。バイパスの外側の岩切二丁目あたりには「鶴ヶ谷東菖蒲園」の名が、また岩切三丁目には「鶴ヶ谷東団地」の名称が記されている。とすると、菖蒲沢とは、菖蒲沢堤から今のバイパスを横切って岩切方向に北に流れて、薄ヶ沢用水に流れ込む小さい川でもあって、その川を指していたのではないか。また、かつては鶴ヶ谷の小字名もあったのではないか。今の地図ではそんな河道は探すことができないのだが。
2014.11.26
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薬師堂と榴岡天満宮が国の名勝に指定されるというニュースです。仙台では昭和20年の磐司岩(国の指定名は磐司)いらいで、実に70年ぶりの指定ということです。これは、国の名勝としては「おくのほそ道の風景地」という括りになるようで、あくまで国の名勝の指定件数としては全体で1件と数えるようです(答申がそうなっている)。これまで、宮城県内では、・武隈の松(岩沼市)・壷碑(つぼの石ぶみ)、興井、末の松山(多賀城市)・籬が島(塩竈市)(まがきがしま)の5か所が指定されていました。じつは、武隈の松以外の5件は今年の10月に追加指定されたばかり。(仙台市では70年ぶりというのは正しいのでしょうが...)今回加わるのが、陸奥国分寺跡(史跡に指定)の一部「木の下及び薬師堂」と「榴岡天満宮」です。「薬師堂・天神の御社など拝みてその日は、暮れぬ」と芭蕉は記していますが、「天神の御社」とは榴岡天満宮のことです。及び天神の御社」として、新たに名勝に指定されました。なお、古代陸奥国分寺跡の範囲は、すでに国の史跡として指定されており、政宗が建立した建物のうち、薬師堂は国指定有形文化財、仁王門は宮城県指定有形文化財、他に鐘楼や准胝観音堂(じゅんていかんのんどう)は仙台市登録文化財となっているそうです(宮城県文化財保護課のサイトの説明)。正しくは次のようです。・つゝじが岡及び天神の御社(つつじがおかおよびてんじんのみやしろ)・木の下及び薬師堂(きのしたおよびやくしどう)記念に当ジャーナルの過去記事を。■関連する過去の記事 榴岡天満宮(08年12月7日) 陸奥国分寺薬師堂(シリーズ仙台百景 26)(07年10月17日)
2014.11.24
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昨夜11時頃に台原5丁目の市道を徒歩で帰宅途上の女性が、刃物を持った強盗に遭遇し現金を含むハンドバッグを奪われ、もみ合いの際に手首に傷を負ったという。逃走した犯人は20代の男、170cmほどのやせ型という。NHKだけが、JR北仙台駅から1キロほどと報じているが、TVでは地下鉄台原駅から帰宅途中、と説明するものもある。5丁目なら地下鉄が通常だろう。台原中学校や生協のあたりはバス通りでもあり多少明るいだろうが、それ以外は住宅地でアパートや社宅も多く、夜は暗い上に、狭い路地もあるから、おそらく強盗犯は物陰で手頃な相手を待ち伏せし、後をつけて適所に至って犯行に出たのではないか。何とも卑劣であるが、警察にはぜひ早期の検挙をお願いしたい。最近、塩竈市や木町通でも路上強盗があった。関係があるのかもしれない。
2014.11.16
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朝の9時頃。ぱらついた雨が上がったと思ったら、西の空に虹が弧を描いている。陽射しが出てきて、曇天を背にくっきりと七色が光っていた。写真ではうまく出ないのですが。
2014.11.03
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皆が立ち止まって空を観ている。そうか、月食だ。仙台駅前で撮ってみた。仙台駅舎とパルコの間に浮かぶ満月。みるみるうちに左下から欠けていくのだった。少し経ってから、路上でマンションの上に浮かんでいる月。皆既の状態なのだろう。赤銅色にぼんやり光っている。スマホでないので、あまり綺麗には写っていないが。壮大な天体ショー。
2014.10.08
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3 荒井広瀬遺跡(あらいひろせ遺跡、仙台市若林区)弥生時代中期の遺跡。復興公営住宅や集団移転先の荒井東土地区画整理事業地内の道路建設に伴い発掘調査が行われ、幅20m以上の河川と、幅1m程度の弥生時代の溝を検出した。場所は現在の海岸線から4km内陸。東隣には、津波堆積物に覆われて廃絶した弥生時代中期の水田がみつかった沓形(くつかた)遺跡がある。溝跡の底面で深さ50cm以上の地割れの跡を検出。遺構と河川跡には、沓形遺跡と同じ津波堆積物の砂層が非常に多く見つかっている。地割れ跡の内部からは、弥生時代の石器(長さ7cmの破片。流紋岩製)が出土。地震動で地割れ跡が開閉したため内部に入り込んだとみられる。今回発見の地割れ痕跡から、約2千年前に仙台平野を襲った津波は、東日本大震災と同じく日本海溝周辺で発生した地震とわかった。■基礎資料 文化庁編『発掘された日本列島2014 新発見考古速報』(朝日新聞出版、2014年)■仙台市教育委員会の遺跡見学会(25年6月)の資料(大変わかりやすいです)■関連する記事 復興のための発掘 その1 新井田館跡(南三陸町)(2014年6月29日) 復興のための発掘 その2 波怒棄館遺跡(気仙沼市)(2014年6月29日)
2014.06.29
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またまたこの話題です。ある本で取り上げていたもので。(都市生活研究プロジェクト[仙台チーム]『仙台ルール』中経出版、2013年)■関連する過去の記事 歩行者は左右どちらを通行するか 仙台のエスカレータ再論(2010年12月21日) 仙台のエスカレーター作法を考える(2010年4月9日)同書では、大阪式(右立ち。左側を歩行用に空ける。)と東京式(左立ち)の2大ルールが存在するが、大阪ルールは万博の際に世界的にメジャーな右立ちを定着させた、東京は遅れて1990年代に左立ちが定着した、としている。その上で、仙台では地下鉄は右立ち、JR(特に新幹線)では左立ちが多いが、統一されていない。むしろ、前の人に倣うことが仙台のルールと言えるのかも、との面白い解説だ。仙台がいまだに不統一なのは謎だが、それはさておき、気になったのは前段の部分。大阪の右立ちが、大阪万博の時に世界標準を取り入れたとするのは定説だ。しかし、東京は90年代に左立ちが定着、というのは初めて聞く。一体なぜだろう。俗説に江戸の侍が刀を抜きやすいように、という理由付けはともかくとしても、わが国では、大阪と仙台(地下鉄)ぐらいとされる右立ち以外には、基本的に左立ちの東京方式とされるのだから、それが90年代というのは、ちょっと意外だ。もっとも、混在していたのが徐々に統一されてきた時期が90年代ということなら、なんとなく理解もできる。もともとエスカレータは、静止して立つべきで歩いてはいけないとの教えもあったような気もするし、そうは言っても急ぐ人に道を開けてくださいというマナーも自然発生的に出てきたのだろう。不特定ならぬ特定の多数が毎朝利用するようなターミナル駅の場合は、おのずと左右どちらかに決まっていくだろう。気を利かせた駅員が誘導する場合もあったかもしれない。そうして、ローカルなルールが確立する。すると、いつしか新聞かTVが取り上げて首都圏でもあっちとこっちで違うね、という話題になって、それならヨリ都心のルールにあわせよう、という運動が起きたのではないか。それが90年代だったのではないだろうか。さて、話を本論の仙台に戻そう。私は20年近く朝晩JRを利用しているのだが、朝は確実に左立ち(右空け)になっている。東京式だ。ただし、一説には仙山線のホーム(7番とか8番とか)は右立ちというが、いくら利用集団がことなるとは言ってもそうではないだろう。仙台駅は東京ルールと言っていい。仙台駅でラッチを出て、駅建物内のエスカレータやペデストリアンデッキから地上に降りるエスカレータ(数年前にできたヤツ。ちょっと幅が狭いが。)も、左立ちだ。ロフトあたりは(高校生が並んで立っているのは別として)確かに左右混在、そして、地下鉄仙台駅は右立ち主流というぐあいだ。仙台では、地下鉄南北線開業時(1987年)に右立ちを指導したという説もある。JRが左立ちなのは、東北新幹線の影響が強いという説明も有力だ。いずれにしても、いまだに両ルールが(混在ならぬ)並立併存という、大変興味深い現象を抱える都市であることは間違いない。さて、両派併存状態を統一すべきかどうかも一応気にはなる。昨年4月に、仙台市が立ち位置を統一する条例を制定するなどとエイプリルフール記事を書いてバッシングを受けたA新聞があった。私自身は、現実には上記の書物がもう一つの仙台ルールというように、その場で前の人たちにあわせればいいだけのことで、統一の必要はないと思う。JR派と地下鉄派は、意外と毎日それぞれのルールだけを体験、実践していて、異文化理解をしていない場合が多数だという可能性もある。あるいは、地下鉄とJRを乗り継ぐ人は、すんなりと異文化を受け入れている。どっちにしても、統一の機運やタイミングは生じていないということでないか。(もっとも視覚の不自由な方への配慮の見地はあるかもしれない。ただし、そもそも安全をいうならエスカレータ上は歩くべきでないと思われるし、急ぐ人への配慮をどうすべきかというのは、本来的に、当該環境のもとで無理のない範囲での自然発生的なマナーなのではないだろうか。)東西線開通を来年に控えて、この話題、一層深まるだろうか。
2014.06.14
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今朝の新聞に広告されている。西道路が明日(6月10日)から夜間通行規制に入るという。夜10時から翌朝6時までの規制で、片側一車線にするようだ。来年3月末までと、ずいぶん長いが、安全のためだから止むを得まい。工事状況を知らせるサイトも設けているとのこと。ところで、この広告を眺めていて、いくつかの「謎」を抱いた。1 ひと口に青葉山トンネルと思っていたが、青葉山、川内、立町とそれぞれ固有名詞があったのか2 仲の瀬橋橋梁補修工事は仙台市と表示されているが、どこまで国直轄でどこから仙台市管理なのか3 国道48号とあるが、どの地点までが国道なのか4 仲の瀬橋は「仲ノ瀬」橋でないのか5 広告の発注者に「仙台河川国道事務局」とあるが、そんな組織あるのか最後のどうでもいい「謎の5」については、当然ながら仙台河川国道事務所が正しいのだろう。新聞広告で「・・・事務局」とは単なる誤字で、すべて業者任せだからこうなるのだ。広告では問い合わせ先が業者で、最後に、同事務所と仙台市(建設局道路部北道路建設課)が並列で「発注者」として出ていた。ということで、謎の1から4までを考えていきます。まず、謎の1点目から。青葉山トンネルとは、上記サイトによると一番長いトンネルを指す名称。仙台宮城IC側から市内に走る場合、長いトンネルを抜けると、川内住宅と広瀬川の間で一瞬外に出る(開削部)が、すぐにまた短いトンネルに入る。これが川内トンネル。そういえば、入り口上部に漢字で隧道名を記してたような気もする。川内トンネルは美術館や仙台二高の下を緩くカーブした後、広瀬川の上を仲の瀬橋(二層式の下部分)で越え、西公園(桜ケ岡公園)から(地上にも出られるが)再び地下トンネルに入り広瀬通で地上に出る。この最後のトンネルが立町トンネルということになる。次に、謎の2と3は、国管理と仙台市管理の分かれ目の問題だから、関連している。ちなみに国土交通省の地方組織は、東北地方整備局の下に仙台河川国道事務所がある。その傘下に、河川、国道、公園関係の事務所が38と、空港港湾関係が8事務所ある。宮城県関係の道路では、仙台河川国道事務所があり(あすと長町四丁目)、同事務所の出張所として、河川系、海岸系とならび、道路系では8つが置かれている。8つの出張所とはすなわち、仙台東国道維持出張所、仙台西(以下略)、気仙沼、石巻、岩沼、古川、鳴子、三陸道維持出張所。最後だけが名称がちょっと異なり(エリアではなく供用済みの三陸道の維持管理に特化しているようだ)、石巻に置かれている。(以上、国土交通省および地方組織のウェブサイトから)仙台西国道維持出張所は、宮城IC付近にある。同所の管理区間は、国道4号旧道の仙台市分、国道45号の苦竹ICから勾当台公園の間、国道48号勾当台公園前から山形県境(関山T)まで、仙台西道路が大町から折立まで自動車専用道路の5.4km、とある。このほか、共同溝や青葉通地下道も対象とのことだ。(同出張所のウェブサイトから)仙台市のウェブサイトで市道路線認定網図というので調べてみると、市道として路線番号「青葉1344」、路線名「仲の瀬橋路線」、延長591.1m、がある。これは、起点が西公園通り立町小学校の交差点で、終点が仙台二高・県美術館の交差点だ。他方で、広瀬通の立町小学校から晩翠通までの区間については市道や市管理国道の表示はない。つまり、国道48号で国管理である。以上を区間別で言い直すと、まず、広瀬通のうち晩翠通交差点から西公園・立町小学校交差点までの区間は、トンネル(立町T、仙台西道路)を含めて、R48で国管理。一方、立町小学校交差点から以西の仙台二高交差点までは、地上部分はすべて市道。地下のトンネル(立町T、川内T)と橋梁部分の下部層はR48(仙台西道路)で国管理。となっているようだ。また、仙台市の橋梁長寿命化修繕計画(平成25年度)によると、「仲の瀬橋」は橋長241.6mで37年経過とある。西道路は1983年供用開始とされているので、上層部の現橋はそれより前の昭和50年代前半に完成していたことになる。最後に、謎の4で、橋の名称だ。上記のように、市の橋梁名称も「仲の瀬橋」だ。ただし、橋のたもとに「川内中ノ瀬町」なる町名があるし、なんとなく「仲ノ瀬」だと思っていた。自分だけの感覚だったかもしれないが。意地になって昔の地図を開いてみるが(昭和56年1月昭文社、都市地図仙台)、橋は「中ノ瀬橋」、町は「川内仲ノ瀬町」、バス停は「仲の瀬橋」と三様だ。バス停は今も昔も「仲の瀬橋」のようだ。
2014.06.08
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本当にどうでもいいことだが、先週から今週にかけて、2人の方から話の中で「河北新聞」がスンナリと出てきたので、また気になった。以前にも、ずいぶんとこの理由を考えたのだが。■関連する過去の記事 なぜ人は「河北新聞」と呼ぶのか(2012年1月25日) 再び考える なぜ仙台の人は「河北新聞」というのか(2011年5月20日) 仙台・宮城の人はなぜ「河北新聞」と呼ぶのか(09年7月17日)ところで、固有名詞をどう略称するかについては、地域外の人にはわからないご当地ルールというものがある。たとえば、高校名の通称。学生の頃、栃木県から来た同級生たちは、ウタカ(宇都宮高校)、トチタカ(栃木高校)という当地の通称を教えてくれたが、東北ではあまりない用法ではないか。仙台でいえば、東北高校をナンコウとは、県外人にはわかるまい。マクドとマックの違いも地域差がある。ケンタ、ケンキチ、ドチキンの違いも。■関連する過去の記事 宮城はケンタか(2010年9月11日) そのほか、言語にまつわるくだらないことをあれこれ考えてきました。また、省略の作法には、地域差だけではなく、年代や職域などによっても違いがあるのだろう。言葉というのは、自分が自己表現やコミュニケーションに用いる際には、道具に過ぎないから気に留めないのだが、その道具じたいに光を当ててみると、使い手によって意味やニュアンスが違ったりもする。そこに、話し手の個性が見いだされ、また集団、地域、年代などでの違いをたどっていけば、意識や文化が反映されているのだろう。言葉は生きている。面白いものだ。「河北新聞」のことはすっかり離れてしまった。これはどうでもいいから。
2014.06.04
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一昨日(5月20日)の夜のことだが、子が言うには、夜空が異様に赤かったと。この日の天気は曇り空で、夜にかけて霧が掛かっていた。昨日の雨に繋がったわけだ。コボスタで交流戦の初戦だから、ナイターの灯りが霧に映ったのでないか、というと、違うと言う。そんなものではなくて、夕焼け空のように赤かった。そう言っているのは自分だけではないよ、とのことだ。ちょっと前には「火球」が話題になった。空の異変は何かの予兆か。関係ないが、今週は市の中心部に飛行船が浮かんでいる。広告目的だろうが、昨日も朝歩いていると、ゆっくり進んでいる巨大風船がちょうど私の真上に来たので、足を止めてぼんやりと眺めていた。突然落ちてきたらどうしようとか、くだらないことを考えた。実は、普段空を見上げることはあまり多くない。たまに空を見てアレコレ騒いでいる方が小さいだけなのかも知れない。
2014.05.22
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