デフレの正体 0
原発 0
体罰 0
糖質制限食 0
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私:正月三が日のテレビは箱根駅伝はチョコチョコ見たね。 他はバラエティが多かったね。 確か、さんまと木村拓哉の「話したことを実現・即実行!!」という バラエティだと思うが、その中でさんまが「一度、ドラム缶風呂に入りたい」という夢があるという。 そこで即実現・実行ということでドラム缶風呂が用意される。 これは軽井沢かなんかの夜のロケだから、寒い。 トランク姿でさんまはドラム缶風呂にはいる。 それを見ているうちに、俺は学生時代にドラム缶風呂に入ったことを思い出したんだよ。A氏:昔もドラム缶風呂は一般的ではなかったがね。私:それが富士山の富士宮口の確か2合目の山小屋で入ったんだよ。 俺が、学生時代に夏休みでブラブラしていたら、ちょっと、ノイローゼ気味で休学していた同級生にバッタリ会った。 いろいろ話して彼のうちに行ったら、彼の母親に「内にこもってばかりいるのでよろしく」と言われた。A氏:今でいううつ病なのかね。私:そこで、富士山に行こうとなった。 俺は山登りは好きだったが、富士山は登ったことはない。 混んでいる富士山は嫌なので8月初めは避け、8月20日前後を選んだ。 夜、富士吉田口駅を下りて馬返しから登り出した。A氏:当時は、5合目までの自動車道路なんかない頃だね。私:意外に時間がかかり、ご来光は頂上で拝めなかった。 しかし、天気には恵まれたね。 ところで、うつ病の彼は8合目あたりの急な坂になると、苦しいと言い出したんだ。 頑張れと言って、励まして登っていたら、いつの間にかいない。 下を見るとのびている。 下山してくる人に頼んで登ってくるように言ってもらったほどだ。 9合目あたりからは背中を押すようにして登らせたよ。A氏:大分、疲れていたんだね。私:それが愉快なんだ。 頂上の平なところについたら、平気な顔でスタスタと歩き出すんだね。 逆にこっちが背中を押したりして疲れたね。A氏:精神的なものがあったんだね。私:下山は富士宮口にむかって降りた。 頂上に着いたのが遅れたので、下山は午後になってしまった。 2合目あたりまで降りたが、夕方になった。 予定を変えて山小屋に泊まるしかなくなった。 しかし、その予定をしていなかったから金に余裕はない。 幸い、すでにシーズンオフなので小屋は空いている。 手持ちの米や缶詰を提供してなんとかとめてもらうことにした。A氏:当時はのんびりしたもんだね。私:そこで夕方、まだ、明るいうちにそこのドラム缶風呂に入ったんだよ。 だから、ドラム缶風呂はなつかしい思いであるんだね。A氏:どういう印象だった?私:さんまのように別に異常な体験をしたという印象ないね。 自然に普通の野天風呂にはいる感じだったよ。 なんだか、水は雨水だというようなことは聞いた。 翌朝、また、あるいて富士宮駅に向かった。 ところが運のいいことに、カラのタクシーの運転手が歩いている我々に「学生さん、富士宮駅に行くんかね。今、客を乗せて帰るところでクルマはカラだから、タダで富士宮まで乗せてやるよ」という。 もちろん、乗せてもらった。A氏:当時のシーズンオフの富士登山はのんびりしていたんだね。私:しかし、当時から山はゴミだらけだった記憶があるね。A氏:うつ病の彼はどうなったの?私:富士宮駅に着いたら、彼は東京の友だちに会いたいと急に言い出した。 俺は長野方面に行くことを予定していたから、駅で別れたよ。 それから、1週間くらい後に彼の家であったような気がするが、母親から感謝されたが、学校も忙しくなり、それきり彼とは会っていないね。 どういう人生をたどったかね。A氏:人生いろいろだね。私:ドラム缶風呂はそのときだけだね。 富士登山はそれだけで終わりで、二度登る気もしなかったが、ドラム缶風呂はなつかしい思い出だね。
2007.01.04
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私の若いときのスポーツは、野球、水泳、登山がおもなものであった。 その中で、登山が一番、人生にいろいろな教訓を与えてくれるようだ。 登山で、遭難しそうになった経験がある。それは大学生時代に浅間山に登ったときである。 5月のはじめ、上田の信州大学寮にいた高校時代の友人を誘い浅間山に登ることにした。そのとき、寮にいる彼の後輩が同行したいと言ったので、3人で登った。 たしか、大学寮に前泊し、翌早朝、汽車で追分に行き、そこから浅間の頂上を目指した。 追分口は直線的に頂上に行けそうなので、若気の至りで、この経路を選んだが、実は急坂で、最後ははって道なき道を登るようになってしまった。 天気はよくなく、頂上に近くづくに従い、霧で囲まれ出した。 しかし、なんとか頂上についた。しかし、あたりは霧で数メートル先しか見えない。 そのうちにヒョウが降り出し、白く積もりだした。 火口に近づいたとき、突然、雷光が走った。ギザギザでなく、直線的に柱のように音もなく次から次に光が垂直に立つように走った。 友人の帽子からはみ出した髪の毛が上にむかって立ち出した。それを指摘すると「お前の髪もそうだ。」と言われた。 あわてて、髪に指を触れるとパチンと火花が走った。3人、顔を見合わせた。もう、体が帯電している。お互い、恐怖で顔が真っ青になるのを見た。 「下に向かって走れ」となった。しかし、頂上は平坦でかくれるところもない。たまたま、大きな岩があった。これに隠れたが、ここはかえって雷が落ちやすいのではないかと思い直し、また走って、平らなところに伏したが、これもまた、危ない不安になる。 どうしようもない。 ついに、「これで死ぬな」と覚悟し出した。 そのとき、私の口から出たのは「南無阿弥陀仏」でなく「南無八幡大菩薩」であった。これは戦争のときに弾に当たらないように前進するときの念仏であるというのが頭のどこかにあったからだ。 20分くらい走ったり、伏したりして下に向けて走ったり、ようやく危機を脱した。 九死に一生を得た。 後から考えると、3人とも登山靴でなく、ゴムの運動靴であり、ピッケルもなかった。リックも金具がなく、紐で結ぶタイプであった。 浅間山は、芭蕉の「更級日記」に出てくる。当時はさかんに噴火していたので、俳句は「吹とばす石はあさまの野分哉」である。激しい山であったようだ。 私には「春雷や、われを走らすあさま哉」となった。 この無茶な登山は、計画の重要性、リスク管理の必要性を死の危険をもって教えてくれた。 今は、新幹線となった信越線の窓から見える浅間山を見ると、このときの教訓を思い出す。
2006.07.17
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