★スーパーマン★好きだ★ 0
プロット「イケメン」 0
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★小説「恋は微笑む}(11) 金子みすずは帰ったふりをして、女子ロッカー室に忍んでいた。 おスギたちには、小さな同窓会があるから、もうしばらくしてから出ると言った。 本を読みながら、(ある時)が来るのを待っていた。 自分でも驚いている。こんなことをしでかすような女ではない。 おスギのようにはじける女ではないし、ミカのように清純でもない。 一番に、手を上げるタイプでもない。 しかしなぜ、ここにいるのだろう。ただの好奇心なのか、それとも魔がさしただけなのだろうか。 まるでアメーバがうごめいているような、居心地の悪い好奇心。 そんな得体の知れない生きものと戦いながら、みすずはひそんでいた。 午後七時を過ぎて、センターに戻ってきた男性営業員たちも帰り始めた。 話し声と靴音が、巨大倉庫にこだましている。 こうして耳をすましていると、まるでホラーの世界におかれているようだ。 もう三十分待っていると、まったく声がしなくなった。みんな帰宅してしまったのだ。 いたずらを企んで、ほくそ笑んでいる子供のような心境で、静かに待っていた。 ロッカー室を出て、オフィスに向かった。 今度は、彼女の足音だけが響いている。 自分の出す声を聞いて、自分で恐がっていた。 階段をゆっくりと上がってゆく。落ち着け、落ち着けと呪文をとなえた。 足音をたてないために、靴を脱いだ。それでも小さな音がしている。 真ん中にガラスがはめ込まれたドアが見えて、首をのばして中をのぞいた。 荻原と岸田の声だけが聞こえてくる。 いつも二人は、一番最後まで残っていた。その前は所長が一番最後まで残っていた。 岸田は電話をしているようだ。荻原はその横に立っている。 所長のデスクに座って、岸田の様子を眺めていた。 長身の二人は、まるで百貨店のマネキンのように、姿勢がよかった。 その長い手足を組んでいる。「うまくいっています。任せてください」「予定どおりです」「それより、縁談の方はすすめてくださっていますか? あ、はい、そうですか」「期待して下さい。三隅部長」「大丈夫ですよ。完璧です。順調ですよ。あと一ヵ月で、目標は達成です」「あと二人ですか? 一ヵ月ではムリですよ。準備が肝心なんですから。じゃ、あと二ヵ月下さい。それならご希望にそえるかもしれません」(縁談?)(やっぱり岸田さんって東京に恋人いるの?)(やっぱりミカのことは遊びだったの?)「はい、はい。では、一ヵ月後に東京で」 岸田は、電話をおいた。 カチャリという音も、こんな静かな場所では不気味に聞こえる。「岸田。部長はなんて?」「縁談のことは、万事オッケーだってさ。俺たちが、任務を果たせばすべてが手に入る」「まさか、あと二人っていうのは?」「それは時間がないっていっておいたよ。あと二ヵ月はないと無理だ。しかし延ばしたりしたら、怪しまれる可能性があるだろう」「いや、わからないさ。誰も俺たちのことを知らない」「そうだな。荻原、ビビンなよ。これからが本番だ。俺達が、どうしてこんな田舎にきたのかよく考えてみろよ」「わかってるさ」「お前は甘チャンだから、心配だよ。それはお前の家系か? お前のオヤジさんだって、いいところで出世コースから転落してしまった。もっと真剣にやれ。やる時やらなきゃ、同じだぞ」「頑張れば、五十代で取締役。そして社長だって夢じゃない。な、荻原。俺達は若い。トップにたつにふさわしい学歴だってある」「俺はお前とは違う」「荻原。一人だけイイコになるのはよせ。入社したときに誓ったじゃないか。頑張ろうぜ。二人で頂点をめざそう。本社のやつを見返そうぜ」(この二人っていったい?)「ここまで、順調にやってきたんだ。あと少しだ。あと一ヵ月で、任務を遂行できる。最後までやりぬこうぜ、荻原」「岸田。お前はすぐにやりすぎる。やりすぎは危険だ。本社に戻れなくなるぞ」「わかった。わかったよ。肝に命じておくよ。なら、お前ももっと徹底的にやれよ。やらないなら、負け犬になっちまうぞ」 みすずは鼻がむずがゆくなるのを我慢して、またそろそろと階段を降り始めた。 彼らはただ、ヘルプに来ただけではないようだ。 もっと早く気づくべきだった。わざわざ東京本社のエリートがこんな地方の営業所に、二人も来るわけがない。 何かもっともな理由があるはずだ。「ヤッホー。金子みすずよ。お元気ですか? お久しぶりだけど、ちょっと聞きたいことがあって、電話したの。ごめんね」 みすずは思うところあって、入社式で知合った斎藤宏美で電話をしてみた。時折、メールを交換してきた。一度東京に遊びにおいでと、気軽に誘ってくれたのも彼女だった。 たぶん、社交辞令だろうとは思っていた。東京娘らしい、ノリのよさで言ったのだろう。「本当、久しぶりじゃない。入社式で右隣に座ったときからの、メル友だったよね。電話をかけてくるなんて、一体どうしたの?」「それが、あたしにとって大事件で」「はー?」「ところで、斉藤さん、岸田っていう人知ってる? 東京の本社の人なんだけど」「岸田ね。どこかで聞いたことがあるわね。若い人? それともオジさん」「若い人よ。あなたオヤジ以外は詳しいって言ってたでしょ?」「そうね。岸田、岸田。思い出しそうなんだけど」「じゃあ、荻原っていう人は?」「あ、知ってる。国際事業部の人よね。結構いい男だってウワサがあったのよ。でも無愛想なんだって。仕事の話しかしないって聞いたけど」「その人結婚してる? それとも独身?」「どうかな。結婚したってウワサは聞かないけど。あたしが知らないだけかもしれない。最近特別チームにいるっていうのは聞いたわ」「特別チーム?」「よく知らないわ。もっとよく知りたいんなら、聞いておいてあげる」「お願いします。で、上原っていう人は?」「あ、そういえばその人女子社員が選ぶミスターオフィスに選ばれたんじゃなかったかな。あれ、違ったかな。いったいどうしたの? 岸田さんと荻原さんと上原さんって人が、どうかしたの?」「今、来てるのよ。うちの営業所に。地方の配送センターにね。だからどういう人かと思って。かっこいいから」「フーン、そうなんだ。つまみ食いされないように気をつけなよ。東京の男なんて、よく遊ぶからね。あたしも地方出身だからいうのよ」「別に、どうでもいいんだけど。岸田さんが婚約してるんじゃないかって聞いたから。岸田さんはあたしの親友とつき合ってるみたいなの。だから心配で」「ま、調べておいてあげるわよ」「ありがとう」「任せて」 繁忙期の営業所の応援に、なぜ人事部のエリートが来たのだろう? やはり不思議に思った。みすずは彼らに不審を抱いていた。 斉藤からの連絡が待遠しい。しかし、二人の真実を知りたくないような気もする。 これ以上失望させられないように、二人には早く東京に帰ってほしいと思った。
2006年04月11日
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「あの、岸田さん」 配送センターの商品の間をうろうろしている岸田を見つけた。相変わらずキザなしぐさで、髪をかきあげている。さりげなくブラウンに染めているのも、岸田の性格を表わしていた。たしかに今どきめずらしくはないが、スーツを着た会社員だと、妙に気になった。 みすずも、若い女としてルックスのいい男は嫌いではなかった。どちらかといえば好きだ。ここのオヤジたちをすべて、モデルのような男に代えてほしいと、本社に直訴したいくらいだ。 髪は染めてはいないが、荻原もどちらかといえば、身につけるものには気を使うようだが、キザな感じはしない。 みすずにとって、荻原の身なりは嫌悪感を感じるような雰囲気はない。ただ、クールなのだ。東京のエリートらしい男。いつも冷静で、タメ口もきかず、愛想笑いもしない。 それはエリートとして恥じない立場のための、彼独自の演出と思えた。スーツという戦闘服を着たときから、男は戦士となって社会という戦場へと旅立っていく。それが荻原だった。 しかしこの岸田という男には、妙に作った愛想を感じる。おスギはミカは気にならないらしいが、みすずは自分とは合わないと感じていた。 彼の持つ都会的な毒が、いちいち気に障る。「あれ、金子さん。なにかな?」「ミカのことをどう思っているんですか?」「ミカ?」「小谷美香さんのことですよ」「彼女とはいい関係だよ」「いい関係って恋人ってことですか?」「そこまではいってないよ、映画を二度、サッカーを観に一度会っただけだから」「婚約者の方が東京にいるんですか?」「まさか。いないよ」「本当に?」「本当だよ。それにこれは小谷さんと俺のプライベートなことで、君には関係ないことだろ」「でもあなたは友達をだましているなら、あたしにも関係あります。彼女は繊細な女の子ですから」「だから、女って困るんだよな。つきあってることとか、どういうところまでいっているかとか、みんな話すんだからな。知られたくないことだってあるさ」「男の人だって、影では話すんでしょ」「あー、もういい。これで終わりだ。小谷さんとももう終わりかな。君がぶち壊したんだよ」「そんな、あたしはミカのことを本気で心配して」「それがお節介だっていうんだよ」「友達のことを心配する前に、君も早く結婚退職でも考えたほうがいいんじゃないのか? 荻原は」「荻原さんが、なんて?」「いや、いい。あいつは俺の同志だ。裏切るわけはない」「裏切るって?」「じゃ、さよなら」 岸田は語気を強めて言った。みすずの存在を無視するように、行ってしまった。 荻原と岸田。突然やってきた東京の男たち。 本当に繁忙期のヘルプのために来たのだろうか?
2006年04月11日
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「あ、上原だ」荻原の声で、現実に引き戻されてしまった。 荻原の視線の先に目をやると、上原と聖山が食事をしていた。 同じランチセットを食べながら、話をしている。まるで何年もそうであったように、大声で笑い、楽しそうにしていた。話に夢中になり、こちらには気づいていないようだ。「ニアミスだな」「コンパがうまくいったんですね」「そうかな」 発展中の同僚を眺めながら、荻原はどう思っているのだろうとみすずは考えていた。 うらやましいと思っているのか、それとも俺の方はどうでもいいと思っているのか。「見つからないといいな。恥ずかしいから」 照れ臭そうにしている荻原を眺めてながら、みすずはグラタンをたいらげた。 誰も人の心をのぞくことはできない。できたとしても、どうにもならない。 運命だけが、二人の行く末を知っているのだから。 それでも、まだみすずは迷っていた。追いかけるのか、それともただの思い出にするのか。 その時、彼女には荻原の言った(そうかな)という意味がよくわからなかった。 少しも気にも止めず、やり過ごしてしまう。 無意識でこぼれた彼のその言葉には、大きな意味があったのだ。 夜になって、映画のパンフレットを眺めながら、みすずはまた映画の世界に浸っていた。 部屋のインテリアはまだ学生をひきずっていて、まだピンク系ばかりだ。 もう少し成熟した女になったら、イタリアンモダンか、モノトーンにしようか。 さすがに、天井や壁にアイドルのポスターを貼ったりはしていない。社会人になったときに、すべてはがしてしまった。 それからふえたのは部屋のアクセントになる、小さな額たちだ。 いま、憧れているのはリゾートスタイルだ。ハワイやグアムのホテルのような雰囲気がくつろげるので、気に入っている。 いずれそういうペールカラーでコーディネートするつもりだ。子供の時からある思い出のファニチャーも、ブラウンからアイボリーにしてみよう。 そうすれば、自分の部屋でリゾート気分でストレス発散ができるだろう。今は、百円ショップで買ってきたフェイクの熱帯植物を吊して楽しんでいる。気分はシーサイドビューのリゾートホテルだ。一年中、リゾートを楽しむために、少しずつ改造していこう。 荻原とはカフェで、そのまま別れた。 恋人同士ではない二人は、「じゃあ」と言っただけだった。 彼女は目を閉じた。荻原の顔が、荒野の男に重なってゆく。 「旅に出たい」 ため息をついたとき、携帯電話の着信音がした。シャランの「宿命の愛」だ。「おい、みすず! 今日来なかっただろ!」 「え、あ、何? たしかデートの約束したのは、来週の日曜よね」「ちがうだろ。今日だろ。今日の十時に名画座の前で、待ち合わせだっただろ。どうして待っていなかったんだ」 (待っていなかった)そう、こいつはいつも女を待たせる。待たせて、女を支配しているような錯覚を楽しんでいる。「女はいつも俺を待っている、俺を待つのが好きなんだ。だから待たせてやる」そういう男なのだ。どうして約束をしてしまったのか? いつも怒鳴っているような物言いに、ついつい従属してきてしまった。 ヤクザに怒鳴られれば、いうこときいてしまうように、これは小心者の悪いクセなのかもしれない。「待ってたけど、いつまでも来なかったから、何度も電話したのに、電話にもでやしない。そういえば、一時間待ったあとに、街を歩いていたら他の男と歩いているのを見たようなきがするぞ。すぐに見失ったけど長身の男と歩いていなかったか。俺と同じようなサラリーマン風だ」 荻原と歩いているところを見られていた。もしかすると、河村特有のはったりかもしれないが。 それに荻原と河村は同じサラリーマンでも、天と地ほどの差がある。荻原は大人の男だが、河村はまだオコチャマだ。姿勢のよさや言葉使いもまったく違う。 それは地方と東京の男の違いだというだけではない。持っている魂が違うのだ。「そ、そんなわけないでしょ。あたしすっかり勘違いしてたの。来週だと思ってて」「お前は、もう!じゃ、来週でいいから、来いよ。また朝の十時だぞ」 ぷつり。何かが切れた。おとなしいみすずの中の何かが、切れてしまった。「何よ! いつも、いつも命令形で話すんじゃないわよ。あんた、自分がもててるって思ってるけど、大きな勘違いよ。あんたなんか、あんたなんか、女が一番嫌いな男なんだから!」 電話が小さな音で切れた。(旅に出たい)(あたしだけの運命の男を探してみたい)(たとえその男が荒野に生きる男でも、どこまでもついていきたい) この夜から、みすずは(荒野の女)の夢を見るようになった。
2006年04月11日
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映画の余韻を壊さないように、みすずは何も話さなくなった。テロップが終わり他の観客が席を立っているのに、二人はまだ座っていた。 最後を締める壮大な音楽も、終ってしまった。すでに次の上演を待つ観客たちが、入り始めている。 若いカップルの女が、いい場所から離れない二人を、早く空けてといった視線でうながしていた。「泣いてるのか?」 荻原の低い声が聞こえて、飛び出しそうな心臓を押し戻した。「い、いえ」「そうです。ヒロインがステキで」「追いかけてくる女か。俺は静かに、待ってくれる女がいいけど。この場合は仕方がないか。作り物だし」「ヒロインは、地のはてに追われていく男を追いかける。男のこれからの運命は苛酷なのだとわかっていても、彼女の気持ちは変わらない。だから、彼を追っていった。あぁ、かっこいい」「これは映画だろ。現実はどうかな? やっぱり女性は経済的安定を(幸せになる)ことにの基準にするだろう。わざわざ不幸を背負うかな? 安定しているほうが、子供も安心して生めるし。老後も安心だ」「荻原さんって、現実的で夢がない人ですね」「男だから。夢はいつまでも追っていけないって知っているから。俺だって、夢はあった。けれど、あっけなく壊れたよ。だから今は給料をもらうために現実を受け入れて、それなりに任務を遂行している。生きるためにカネは必要だろ?」 そこで二人の会話は終ってしまった。どちらも何も言わないまま、劇場を出た。 みすずがはっと我にかえって、立ち止まった。「どうしたんだ?」「あっと、えっと。混んでるなって」 河村隆二がいるかもしれない。二人ここで出会ったら、トラブルになるかもしれない。 あの河村のことだ。何も起こらないはずはない。荻原と昔の男とのトラブルはさけたいと思った。「荻原さん、混んでるからエレベーターはやめて、階段にしましょう」「階段って、ここ四階だよ」「お願いします」 そういって、荻原を非常階段というシールを貼ってあるドアの方へひっぱっていった。 はずみで手を握ってしまった。まだ、ただの同僚なのにだ。シャツをひっぱればよかった。「あ、すいません」二十数年の年月を経てきた、武骨な手だった。あらゆる摩擦に耐え、マメを何度も作ってきたような感じだ。その感触に驚いて、ぱっと離す。「べつに、いいけど」荻原は鈍く反応した。 二人が顔を見合わせたとき、妙な気配がした。観察されている。「あれ、みすず?」 聞いたことのある声がした。振り返るとそこにミカと岸田がいた。「あー?」「まさか、そちらもデートだなんてな」岸田は皮肉っぽく笑って、手を握ったままのみすずと荻原を見ている。「金子さんが、一人で映画を観にきたって言ったから、それなら一緒に観ようかということになった」「へぇ、荻原にしちゃ進歩だな」「そういうわけじゃ。男が一人っていうのもな」「ま、いいじゃないか。俺たちはこれから観るよ。面白かったか?」「女性向きかな。男は現実的だから、よくわからないよ」「はは、そうだな」 岸田は面白がっている風で手を振りながら、そのままミカと劇場へと入っていった。もちろん二人も(愛と宿命の荒野)を観るらしい。 岸田はミカに合わせたのかもしれないし、女を落とすにはラブストーリーと思ったのかもしれない。 荻原とみすずは、強引な彼女の意志で四階から一階へと下りていった。ビルディングの脇に出るので、入り口付近をうろうろしているかもしれない河村には会わなかった。「!」携帯電話の着信音だ。自分のメロディだったので、慌てて探した。 こういうときは便利だ。昔なら、数人がいっせいに探したものだ。「河村?」「え?」 小さなディスプレイに現われた電話番号は、河村隆二のものだった。「誰だい? 出てもいいよ」「あ」 みすずは出ようか出まいか、迷っていた。きっと十時五分すぎに来ても、みすずがいないので何度もかけてきたのだろう。劇場内にいたので、今までかからなかったのだ。最近の劇場は電波を遮断している。 ここで出てしまえば、河村のたまりにたまっていた怒りが爆発するだろう。 いきなり怒鳴りだすに違いない。そうなると、せっかくのこのムードがだいなしだ。 あの男の声は、しばらく聞きたくはない。「あ、あの、きっとワンギリのアレです。悪名高い出会い系です。コンピューターで無作為にかけさせるっていうヤラシイのです」「そっか」「ランチにしましょう」「そういえば、昼だな」 腹をさすっている荻原を連れて、グルメガイドで選んでおいたカフェレストランへ向かって歩いた。 すると、近道だと荻原を連れていった道には、恋人たちのためのホテルが乱立していた。「このあたりは、ラブホテルばかりだな」 「え、そうですね」「普通に歩いていても、こうやってあるんだ」「今は、ブティックホテルとかおしゃれにいうんですよ」 なんて馬鹿な話をしているんだろうと思った。さっさと通り抜けて、ホテルから意識をそらそうと思っていたのに、どんどん深みにはまってゆく。 (恋人)ではない二人がやってきても、トキメキはない。ただの動悸息切れがするだけだ。それでも、奇妙な振動が胸の奥でしている。荻原の手を握っているからだろうか。「なるほどね。そういうことには疎いから。イタメシ並みに難解だな。俺なんて、ディズニーランドにシーとかいう、新しいパークができたことも最近まで知らなかった。東京に住んでいるのにな」「あ、あそこです。あのカフェレストランです。もうすぐですよ」 話をそらせることができたほっとした。「いらっしゃいませ」 入ってみてしまったと思った。ここは河村用だったのだ。少し高めだったが、どうせ河村が出すからいいかと選んでいた店だ。同僚の荻原と入るには、ちょっとバツが悪い。おごらせるわけにはいかないが、荻原の男としてのプライドで彼からは嫌だとは言えないだろう。「や、やっぱり、ファーストフード店にしましょうか。ここってちょっと高いみたい。たしか道路の向こう側にあったような」 みすずは席に案内しようとしたウエイトレスを無視するように、きびすを返した。「俺は別にいいよ。割勘でいいなら」「そうですね」助かった。 結局、荻原の許可が出てその店になった。うまくまとまり、二人とも嫌な思いをすることもない。 グルメガイドにデートにおすすめとあったので、同じようなカップルがたくさんいた。時間もちょうどランチタイムだ。 乾いたノドを癒すように、グラスの水を飲み干す荻原を眺めながら、みすずは白馬を駆る荒野の男を、思い出していた。 赤く乾いた大地。大地を切り裂くように突き抜ける岩盤。 荒れ狂う砂煙のなか、懸命に女を救出に向かう男。 負傷し濁流に飲まれながらも、男は女の元へと戻ってくる。 女の運命は、その男にゆだねられていた。 旅に出ようか。運命の男を探すために。
2006年04月11日
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小説「恋は微笑む」(7)しばらく更新しなくて申し訳ありません。「とうとう週末になったわ」 みすずはなんとなくがっかりしたような気分で、日曜日の朝を迎えた。 彼女を捨てた、あの河村隆二に再び会う午後十時が迫っている。 自分でもよくわからない。昔の男に、会いたいのか、会いたくないのか。 それでもそそくさとベッドから起き上がって、着ていく衣裳を探している。 去年買ったブランドのワンピースを取出し、シワを確認している。 夜のうちにやらないのが、みすずのクセだ。朝になって、勢いで決めるのが好きだった。 衣裳が決まったら、さっさと階下へ下りていって洗顔などの、朝の行事を始めた。 きれいに髪を洗い、ドライヤーで乾かす。朝のサラダを食べたら、戦闘準備は半分完了した。 二階に戻って、ワンピースを着ると、ほぼ(彼女)の完成だ。 ワゴンセールで買い貯めてきた小さな香水ボトルを眺めながら、今日の(仕上げ)を選んでいる。 学生だった頃は、甘みが強い(清純な乙女の香り)が好きだった。新入社員を経て最近は(キャリアの女)らしい、キリリとした柑橘系の香が気に入っている。 いずれ三十路の女になれば、(成熟した女の媚薬)でもつけるのだろうか。フェロモンのように振りまいて、男たちをくどこうとするのだろうか。 その前に、いやらしい香水をつける前に、結婚を決めたい。みすずは、迷わず(魔性の女)という香水を少しだけつけた。 こうして(女)は出来上がった。 記憶から消えかけている河村の顔を思い浮べながら、出陣の準備を始めた。 今度は靴を選ばなければ。 やはりおニューのミュールにしようか、それともラメ入りのパンプスにしようか。 ビューティフルサンデーの街は喧騒にあふれ、人々が蟻の行進ようにして歩いていた。 改札口を出れば、若者たちが待ち合わせをし、興奮していた。 ヒマな時は、通り過ぎる女や男の品定めをし、自分の恋人を比べている。 みすずはそんな駅に降り立って、恋人たちを眺めていた。 この市の中心で、一番大きな歓楽街のあるこの駅は、みすずの家から快速で十分だった。 衣裳は完璧、メイクも上々。靴もきれいに磨けている。 あとは恋人を待つだけだ。 こんな完璧な朝なのに、ひとつだけ気になることがあった。 電車の中で、あの(荻原)を見たことだ。東京から出張してきて、マンスリーマンションにいるというあの荻原が、一人でしかも日曜に歓楽街にまで来るのだろうか。 たしか、一人でうろつくのは恥ずかしいと言っていたはずだ。だからみすずに、街のガイドを頼んできた。けれども、あれはやはり宴席での戯言だったのか。酒の魔力で話す言葉は信じないのがみすずだった。 まぼろしだったのか、真実だったのか、名画座へと向かいながらみすずは思いをめぐらしていた。 これから待つ相手が河村でなく、荻原だったらよかったのに。 東京のエリートと一緒に映画を観て、貴重な(青春の一ページ)にしたかった。 これから結婚し、娘が思春期になったときに、母親の武勇伝として自慢してみたかった。 カフェでカプチーノを飲みながら、微笑んで娘に話すのだ。(お母さんだってね、東京のハンサムなエリートとデートしたことがあるんだから。たしか映画のタイトルは「恋に落ちた女たち」だったわ)(背が高くてハンサムで、声のいいひとだった。上質のスーツがとても似合っていて、ネクタイをしたVゾーンがりりしかったの) そこで、みすずの妄想はぷつりと終わった。 名画座の前に着いたのだ。あと十分で午前十時になる。 彼はかならず五分は遅れてきたはずだ。 あと十五分。昔の男、河村隆二がやってくる。 そうして時計を見ながら、また待ち合わせの恋人たちを品定めしはじめた。 美男美女でつりあっているカップル。美女と野獣の二人。 ときどきいて、美女でない女に夢と希望を与えてくれる美男と(ブ女)ではなくて、普通の女の子。それでも笑うとなかなかチャーミングなので、うまくいっているのだろう。 河村隆二のような男でなければ、普通の女だって捨てられることはないはず。 そうだ。女はハート。男は顔だ。美女でなくてもなんとかなるはずだ。 荻原と自分が、腕を組んで歩いているところを思い浮べてはっとした。 そしてまた気を落ち着けて、観察を始めた。ここに荻原はいないのだから。 (!)(いた!)(衝撃的な)男をみつけてしまった。 時計を見ながら、映画館へ入ろうかどうしようかと悩んでいるらしい。タイムテーブルを見ているのだろう。 荻原だった。 なぜか顔を伏せた。目が合わないようにして、昔の男を待っていよう。「金子さん?」「荻原、さん」 みつかってしまった。「奇遇ですね。あっと、映画鑑賞ですか?」 荻原は別人に見えた。スポーツシャツに、コットンのジーンズをはいていた。 しっかりとした長い腕がのびていて、スーツではよくわからなかった足がその体躯を支えている。 あらゆるスポーツを極めたような上半身が、その姿のよさをさらに引き立たせていた。 ただ荻原の無愛想な性格が、その容姿に似合わないだけだ。「家にいても、狭いしヒマだしで、出てきたんだ。近いしね。仕事は家には持ち込まない方だし」「君は? あ、そうか。忙しいって言ってたね。友達に会うのかな?」 荻原は酒の席での、話も覚えているらしい。「あ、あのう、それが変更になっちゃって、あたしもヒマだなーって、出てきたんです」「ヒマ?」「そうなんです。ヒマになったんです!」 ここまでの大ウソがつけるとは思わなかった。もうすぐ昔の男がやってくるというのに、なんてことを言っているのだ。わかっていても止められない。 みすずは、荻原が自分をデートに誘うように、誘導していることに気づいていた。 カタブツの荻原が、こんなところで誘って来るかどうかはわからない。 確率はかなり低く、勝算はない。「じゃあ、一緒に映画観ようか」 その瞬間に、目の前に一面のバラが咲き誇った。甘い香が漂ってくる。 東京のエリートを誘惑することに成功したのだ。 そのまま、二人は名画座へと入っていった。そのすぐあとに昔の男がやってきたことが、みすずにはどうでもいいことだった。いつも五分遅れてくるような男は願い下げだ。 世界は女のために回っている。女を粗末にする男は、もういらない。 名画座で公開されていた映画は三本。「ポリーとオモチャ箱の島」というオコチャマ系と「愛と宿命の荒野」という恋愛物。そして「銀河連合大戦」というSFだった。 もちろんみすずは、なかば強引に「愛と宿命の荒野」に荻原をひっぱっていった。 荻原はまだSFの方がいいといったが、西部開拓時代にタイムスリップできます、これからの時代は想像力ですと、わけのわからない理由で説得した。 彼が納得したかどうかはわからないが、それでもいい。 世界は女のために回っているのだから。 その作品はどこか現代を生きる自分との共通点を感じた。彼女は、いま運命の男を探している。 それが荻原かどうかはわからないが、旅に出なければ出会えないのかもしれない。 運命の男に。
2006年04月11日
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小説「恋は微笑む」6 毎日やってくるランチをすませると、OLたちが始業前にやることはたった一つだ。いつも女たちはトイレでメイクをなおしている。顔のアブラを紙で押さえて、ファンデを付け直す。こういう時、一番ときめく。 トイレの次にウワサ話をするのは、給湯室だ。女たちのいいところも悪いところも、知り尽くしているものだ。 ときどき腹いせに、ゴミを入れるOLもいるので、オヤジさまたちは要注意だ。「ねぇ、岸田さんからきいたここだけの話だけだけど。お聖がさ、中年のおっさん相手に売春してるんじゃないかってウワサ知ってる? 彼女がロマンスグレーのおじさんとホテルに入るのを彼が見たっていうの」「そういえば彼女、給料に合わないブランドもの日替わりで持ってくるもの」 そのときお聖が入ってきた。フルネームは武田聖美という。「誰よ、そんな根も葉もないウワサ流したのは? 売春なんてしてないわよ。言いがかりはやめてよね」「あたしおスギがホストクラブのホストにいれこんで自己破産寸前だって、聞いたけど」「あたしホストクラブに行ったことなんかないわよ。ホスト相手にするほど不自由してないわ。そんなところいくのはオバサンだけよ」「あたしだってオッサン相手にするほど不自由してないわ」 トイレから出る三人。「どうりで最近営業のオトコたいがあたしを避けてると思ってたわ。このウワサのせいだったんだわ。誰がそんなウワサ流したのかしら」「最近ろくなことがないわね」「ほんとあたしも」(東京からあの二人が来てから、あたしついてないような気がする)「あ、そうだ。そうだ。亀井さんたち、この前残されてたでしょ。あれって、転勤の話しだったんだって」「いつも人手不足の東京の営業所を助けてくれって。あなたたちの能力をいかんなく発揮してくれって」「辞令来たの?」「まだらしいけど、もうすぐらしいわ」「それって、嫌がらせ?」「かもね」「とうとううちもそうきたかって感じ。明日は我が身よね。あたしだった、東京行ってもいいのに。毎日、クラブ行って踊るの。御曹司とかつかまえて結婚したりしてね」「行きたい人には言わないの」「だろうね」 あの荻原がどういう顔で転勤の話をしたのかが、気になった。 あのポーカーフェイスでいいきったのだろうか、それとも微笑んで話したのだろうか。 どちらにしても、女の悲劇には違いない。 帰宅時に本屋に立ち寄り、雑誌を手にとるみすず。 表紙には(今、お見合いパーティがかっこいい)の見出しがあった。「ははは」「あたしも所長代理のアドバイスに従って、さっさと結婚退職したほうがいいのかもね」 突然気になり始めたパーティ特集にぞっとした。 本気でお見合いパーティに参加することを考え始めた夜にかかってきた電話は、まさにタイミングが良すぎた。「あ、俺だよ。河村、河村隆二。ひさしぶりだな」「どうして、急にかけてきたの?」「俺、最近こっちの営業所に転勤になってさ。彼女とは遠距離恋愛はできないって振られちゃってさ。だから淋しいんだよ」「淋しいなら次の彼女作れば。あたしとはもう終わったじゃない」「そうだけど。お前は優しかったし、今考えると一番気が合ってたような気がするんだ」(勝手なこと言わないで。また好みの女の子が現われたらまた乗り換えるんでしょ) そう言いかけて、言葉を飲み込んだ。(河村隆二) いままで三人の彼氏とつき合ったが、一番軽い男で、一番かっこよかった。一ヵ月で別れた男もいたが、河村とは半年続いた。みすずにとっては最長記録だった。 なぜかすぐに振られてしまう。もしかしたら、待ちすぎたせいかもしれない。 いつも、向こうから反応があるのをじっと待っていた。 今度は待たないで、追いかけてみようか。「来週の日曜、デートしようぜ。いいだろう? 名画座の前で、十時に待ってるから」「いいわ。いくから。今度こそ裏切らないでね」「当たり前だろ」 どうして約束などしたのだろう。結婚をあせっているのだろうか。荻原に追い詰められたせいなのだろうか。 簡単に違う女に転ぶ男だ。また裏切ることはわかっている。もう、女と去って行く河村が想像できた。 今度こそという思いも少しはある。河村は今淋しいのだ。知り合いのいない地方にやってきて、誰かと話したいはずだ。 逃げた男をまた追いかける、これも女の性なのだろうか。 (リリカ)がまたサンバを踊っている。 (みすず)はひっこんでしまった。(リリカ)にはついていけないらしい。 (幸せ指数)は最高値だ。 一人でお気にいりのカフェでランチをとっている。おスギたちは、バーゲンに行ってしまった。「相席してもいいですか?」「え」顔をあげると荻原がいた。「所長代理?」「シー、外でその肩書きはやめてくれ。なんたって、本人がまだ慣れてないんだ。荻原でいいよ」(うそ? もしかしてここまで怒りにきたの?)「あ、あたし、何かまたやりましたか?」「いや。何も。オフタイムまで、仕事の話はしないよ」 荻原らしくないことを言い出したので、みすずは驚いていた。東京の堅物は、よくわからない男だ。「ここってイタリア料理の店だよね」「えぇ、イタメシです」「イ、イタめし?」「女性は今そういうの?」「いまはだれでも言いますけど」「そ、か、ぼくは仕事人間の堅物だからな、流行語には疎い」「これからおぼえればいいじゃないですか?」「そ、そうだな」「いつも一人?」「いいえ、みんなバーゲンに見に行っちゃって?。あたしは今月ピンチだから、格安ランチを楽しむことに」(二人だけでランチだなんて、これって運命かもしれない)(荻原さんって、東京に恋人いるのかな。でもストレートにきけないし)「三ヵ月もこっちにいると東京の恋人が寂しがるんじゃないですか?」「あ、いや。いまはいないよ。大切な仕事にかかっているからね。会議会議で、連絡をいれなかったら、ふられちゃったよ」 荻原と二人っきりで話をすることになるなんて、これって運命かもとみすずは思い始めていた。怒られたこともすっかり忘れていた。 荻原はランチのラストに出てきたコーヒーを飲みながら、話を続けた。「金子さん。強く怒って悪かったよ。やりすぎた。女性にもプロ意識を持ってほしかっただけなんだ」「荻原さん」「父は、十年前までうちの重役だった。ぼくは養子だったけど、父は実の子供のようにかわいがってくれた。だから血のつながりのないぶん父のように立派な企業人になって、父の愛情に応えたかった。けれどぼくが大学を卒業する前に、父は心不全で死んだ。ぼくは父の保護のないままこの会社に入った。つらかったよ。元重役の付す子という目に見えぬ周囲の重圧と視線がやけに痛かった。誰の保護もなく、社内に強力なコネがあるやつがどんどん出世していくのを見送ってきて、一流大学出身というエリート意識や自信がいつのまにか消えてしまった」「今回の仕事も、ぼくの起死回生をかけたたった一度のチャンスだったんだ」「営業力の強化か何かですか?」「そう、そうだね」 荻原が少し視線をはずしたことが、気になった。それでもすぐに忘れてしまう。「ひさしぶりに女性を食事したせいかな。ちょっとしゃべりすぎた」「いいえ、あたしこれからもっと気を引き締めて頑張ります」(仕事が厳しいのもあたしだけじゃないんだ。この人も大変なんだな)(プライベートの荻原さんって人間くさくって好きかも)「今日はぼくにおごらせてくれ」「え」「グチをきいてくれたお礼だ。人にはグチを聞いてくれる人も必要だな」 まだ時間があったので、ベンチに座ることになった。カフェの隣には大きな公園がある。 大きいので、少し奥にいけば他人の目も気にならない。「この町は初めてだから、今度探険しようかな」「岸田さんとですか?」「あいつとはここだけの話だけど、仕事以外での付き合いはごめんだね。上原はまだずっと若いし。弟みたいなもんさ」(ふーん。仲が悪いんだ)「岸田とは、いい意味、同志ってカンジかな」「僕は方向オンチでね、ガイドブックがあっても、道に迷うんだ」「今度ヒマなときにこの町を案内してくれないか? 「ホントですか? あたしが?」(彼の本心はともかく、あたしみたいな平凡なOLが本社のエリートと話すチャンスなんてないわね)「ここってスポットなんです?」「え、何の?」「あ、ははは、散歩のです」 ホントはデートスポットだった。同僚の目を忍んで、恋人たちがやってくる場所だった。 ベンチに座って、肩を寄せあう男女を何度も見たことがあった。 言い出しそうになって、言葉を飲み込んだ。「荻原さんて、お名前はなんですか? 最近姓名判断にこっていて、占うのが趣味なんです」「ふーん。僕は荻原誠。まことさ。父親の陰謀どおり、マジメでつまらない男になった」 みすずは必死になって、(荻原誠)という名前を心に刻んでいた。通り過ぎるだけの男でも、一生覚えておく価値はあるだろう。「姓名判断はしてくれないんだ?」「え?」「ここじゃできないよな」「そう、ですね」 荻原が目を閉じてしまったので、ほっとした。 荻原は腕を組んで、風をうけて気持ちよさそうにしていた。袖口からセンスの良い腕時計が見え隠れしている。その手は筋肉に押し出された血管が浮き出ていた。 荻原は昼寝をするように、寝ころんだ。 (触ってみたい)みすずは恐る恐る手をのばすと彼の腕に触った。 そのはずみに荻原が目をあけて、腕時計を見ると、そのまま上半身を起こした「あ、始業に遅れる。戻ろうか」「は、はい」 エリートとのひとときも、こうしてあっけなくふき飛んでしまった。 現実は、恋する女には手厳しい。(誠さん)胸の奥で、荻原を呼んでみた。 幸せなはずなのに、(リリカ)はなぜか出てこない。(みすず)がずっと登場していて、なつかしいフォークダンスを一人で踊っている。 メロディを思い出すと、涙が出てきた。 目を閉じて、夢想のなかへ遊びに出かける。 女が彼を呼んでいる。そうしたら彼が振り返った。 行ってくるよと言って、手を振っている。 広い背中を、女はずっと眺めていた。 毎日戦場へと出てゆき、ここへ戻ってくる。 傷つき残酷な夜に、女のもとに戦士は戻ってくる。 離れてゆく足音も、戻ってくる足音も、女は男のものを聞き分けることができた。 ちょっと重い音がしたら、必ず走っていって男を待っていた。 もう離さない。こうして一生添い遂げる。 彼を抱きしめたら、笑ってくれた。 もっと甘い声で、抱きしめてほしい。 もっと誘惑してほしい。 いつも目の前にあなたはいる。 風のように愛して、いつまでも。 そうすれば、わたしも純白の聖母のように愛するから。 (シャラン)が「宿命の愛」を歌っている。 その歌を聞きながら眠ると、妙な夢を見るようになった。 聖母になりたい。聖母のように愛したい。傷ついた男に出会いたい。 追いかけていこうか。どこまで? 誰を?・・・続く
2006年02月26日
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小説「恋は微笑む」5 みすずたちは、アフターシックスやランチタイムに、いつものお気にいりのカフェにいりびたることがよくある。 こうして甘いクリームで装飾されたカプチーノを飲んでいると、仕事のストレスやオヤジたちの視線も忘れられる。 ストレス解消にカフェというのは、オヤジの帰りがけの一杯と同じだ。オヤジギャルという言葉が流行ったことがあるが、すでに特別な言葉をつかうこともなく、ギャルのパチンコも競馬も当たり前になっている。「やっぱり、荻原って最悪だよね。書類なくしたぐらいで、なんで結婚退職せまられにゃあかんのよ」 オスギはカツサンドをつまみながら、みすずを見た。「あれって、セクハラよね。セクハラ。たしかにうちの男たちも、パソコンの壁紙を巨乳アイドルに変えたりしてひどいセクハラするけど、荻原さんよりまマシよね」「たしかにあたしって最低なOLよ」「みすず暗いよ」「書類はさ、ディスクからすぐに作り直せるし、メールを送ればすむんだから。会社になんの損害も与えてないじゃん」 こうして彼女たちの命の洗濯は終わった。カプチーノはいつもグチのハキダメにされている。「ね、金谷さんたちに所長代理ってなんの用だったのかな?」 みすずは家に戻ってからも。釈然としない何かで、イライラしていた。 お気にいりのパジャマを着ていても、懸賞で当たったクッションを抱きしめていても、何かがひっかかっていた。「そうよ、ディスク、ディスク」彼女は突然思いついたように、自分の他のディスクを取り出した。電源を入れ、パソコンで文書を呼び出した。「あの時の誤字脱字の文書調べてみよう)文書が呼び出されてきた。「やっぱり誤字脱字してる」「あたしってやっぱり無能なOLなんだわ」 またも落ち込むみすず。 退職の二文字がちらついてきた。 亀井絹子は落ち着かなかった。六時を過ぎてやっと終業だというのに、残るように言われてしまった。横には同じように指示を受けた中曽根と小泉と金谷、それに石原と園部がいた。「荻原さんの話しって、何かしら?」「さぁ?」 母親の介護で、遅刻を三度もしたことが悪かったのだろうか。それとも、先月から早退したことが悪かったのだろうか。それでも、今の今まで、あまり休まずにまじめに勤めてきた。 ちょっとしたことでズル休みをする同僚たちと違い、風邪で動けなかった時以外はきちんと出勤してきた。旅行をするからと延長のために休みをとることはなかった。こんなに真面目な女がなぜ家族のことでちょっと遅刻しただけで、責められるのか。 亀井はいろいろなことを想像していた。 そして、どうして四人だけが残されたのだろうと思った。どうも東京のエリートの考えはよくわからない。それに繁忙期のヘルプに来たのなら、荻原はあくまでも部外者だ。話があるのなら副所長が話すべきなのだ。 そもそも、彼らが来たことが謎だった。荻原の方が権限があるが、しょせん東京本社の人間だ。それにヘルプなら、関西支社からでいいではないか。他のヒマな営業所から回せばいい。 なぜ、エリートが来たのだろう。何かマーケティングリサーチなどの、いっかいの事務員には想像もできない高度なことを調べに来たのだろうか。 そしてそこではっとした。残された六人。全員が既婚者と三十路の女たちだった。「お仕事ご苦労さまでした。ここに残っていただいた、みなさんには特別なお話があります」(特別?) 亀井ははっとした。荻原の話し方は、回りくどい所長や副所長に比べて、簡潔でわかりやすい。 だが、かえってその裏にこめられた真実があるように思えてしまう。「で、その話ですが、皆さんにはまもなく関西支社から、関東支社の営業所への転勤の辞令が来るでしょう」「転勤?」「そうです。ここに残っていただいたみなさんは、全員がベテランの事務社員の方々で、即戦力です。だから、いつも人手不足の東京本社管轄の営業所で、その能力をいかんなく発揮していただきたいのです」「そ、そんな。関西勤務しかないと言われて入社したのに」「今、東京本社では余分な採用を見送っています。しかし現実は人手不足で困っているのです。ですから、みなさんの能力を必要としています」 亀井はしまったと思った。これは転勤ではない。これは嫌がらせだ。既婚者と三十路の女に、東京への転勤を命じれば家族がいるので、断る者が出るだろう。 三十路の女たちは、結婚をして、どちらで住むのか迷うことになる。「て、転勤は絶対受けなければ行けませんか?」「転勤は、社命です。会社から給料をもらっているのですから、頼まれれば行くのがスジでしょう」「家族がいるんですよ。夫や、子供のいる人もいます」「わかっていますよ。しかしあなたも社員には違いありません。まだ正式な辞令は来ていませんが、すぐに来ると思っていてください。もちろんご家族と離れて生活するのですから、寮は手配させていただきます。女性だけの立派な寮があります。我が社は、優良企業ですから、福利厚生は完璧です。では、今日の話はこれだけです。解散して下さい。ご苦労さまでした」 そういうと荻原は出ていってしまった。口答えはさせないつもりらしい。 反論も許さないという姿勢なのだ。少なくとも、女たちにはそう見えた。 東京のエリートは、あくまでもクールで冷静だった。 キャリアウーマンを自認していた女たちは、すぐに集まった。「どうするの?」「転勤するの?」「できるわけないでしょ」「そうよね」「ダンナも東京へ転勤してくれないかしら?」「うちは東京の営業所なんかない、弱小会社だから絶対にないわ」「二人の子供は、もうこっちの小学校に入ってるのよ」「妻の都合で、転職なんて考えられないしね」「看護婦だったらよかったのに」 エリートを、羨望のまなざしで見ていた今までの自分たちを反省した。 いまさら、どうにもならない運命を呪うしかない。
2006年02月26日
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小説「恋は微笑む」4二十分待ち、やってきたバスに飛び乗って、家に向かった。 配送センターのような企業が多いので、終業時間を過ぎると、バスは減ってしまう。 あとは徒歩で駅へ向かうか、辛抱づよくバスを待つしかない。ときどきナンパのように、乗せてあげようかという車も通るが、最近はすっかり減ってしまった。 もっと足を見せるスカートにしたほうがいいらしい。「みすず、夕食は? 先にお風呂に入っちゃいなさい」「あとでいい」 まっすぐに部屋に向かい、パソコンの電源を入れた。すぐにディスクを入れて、仕事を始めた。お腹がすいたので、アメをなめた。(ワープロ検定二級のあたしの名誉のために今回絶対にミスはしないわ。でも変ね。あたし絶対ノーミスで作ったのに。いままで所長にも、いつも君の書類は完璧だねって言われていたのに) 校正ミスをしたのだろうか? なぜしたのだろう? まだ年のせいだとは思いたくはない。 気をつけよう。イタリアのブランドショップで、バッグを買えなくなってしまう。 みすずは、自分を励ました。 「あ~、遅刻!」 アメをなめながら深夜まで仕事をしたので、朝の目覚めが悪かった。 もよりの駅まで、ダッシュして走っていった。トロトロしているオヤジたちの間をすりぬけ、プラットホームへと飛び込んでいった。 階段をかけ下りることも、もはや陸上選手なみの猛ダッシュだ。「あ、フロッピー忘れちゃた。ま、プリントアウトしてるからいいか」 時間どおりにやってきた電車に乗り込んだ。脇には昨日作成した資料をはさんでいる。 折れないようにしっかりと、固定した。 目的地までの数分の通勤ラッシュを、オヤジたちと一緒に静かに耐えていた。 次の駅に着いて、またいっせいに人が動きだした。 降りる者と乗る者がぐちゃぐちゃにからまって、ドアの近くで渦潮を作っている。 すぐそばで眺めていたら、聞き覚えのある声がした。「金子さん」「荻原さん」 オヤジたちのゴマ塩頭の海の中に、いつもポーカーフェイスの荻原がいた。 ああいうエリートはいつも何を考えているのだろうか? 頭には、数字が飛びかっているのだろうかとみすずは思った。 機会があれば聞いてみたいが、自分のバカさがバレるだけだ。「お、おはようございます」「おはよう。本社へ提出する書類はできたかな?」「はい。大丈夫です」 マンスリーマンションを利用していると聞いたので、この沿線なのだと思った。「あ、あの」 何か訊いてみたい。本当は何かではなく、年齢や家族のこと、そしているかもしれない恋人のことを訊いてみたい。 東京のオフィスはどんな風なのかとか、そんなこともを訊くことも楽しいだろう。 彼にとっては、地方の配送センターへのヘルプは人生の一通過点なのだ。 この電車のように、あっというまに通り過ぎてゆく。あまり関わり合いにならないほうがいいのだ。 それでも、どこかで好奇心がうずいている。必死になって押し止めている。 高級なスーツに、趣味のいいネクタイ。 典型的なエリートである男との電車通勤は、妙な苦痛で満たされていた。 定刻どおりに着いた電車を降りると、一緒に歩くのが照れ臭かった。 仕事のこと以外の質問もできないし、かといって東京のことを聞くのもいやだった。「あたしちょっとパンを買っていきます。すいません」 ごまかして離れた。荻原はポーカーフェイスのまま、配送センターへと歩いていった。 それを見送りながら、想像してしまう。 毎日いってらっしゃいといって、出勤する荻原の背中を見ている主婦になった自分の姿を。 そういう景色もいいかもしれない。(バカみたい)と言って、無理やり打ち消した。 そうして電車を降りてから変わっていた、ある感覚に気づいた。「え、あ。書類、書類がない?!」 脇に抱えていた本社への報告書が消えている。 荻原の怒鳴り声を想像したら、血の気がひいていった。 とって返した。 急いで走っていって、自動改札へ戻った。 試しに、駅員に封筒が届けられていないかをきいてみたが、ひとごとのように「ないよ」と言われただけだった。 目を皿の用にして、コンクリートの床を見て歩いた。あまり首を振って見ているので、通り過ぎてゆく人々は彼女をあやしげな視線で見ていた。 (リリカ)は逃げてしまって、そこには(みすず)だけがいて泣いている。 かわいそうなみすず。みじめなみすず。誰も助けてはくれない。「コンタクトレンズでも落としたのかな?」「い、いえ。そうじゃなくって」 声のする方向へ向いたら、岸田が立っていた。 ブリーフケースを持っていて、姿勢がいい。いかにもエリートといった感じだ。「あの、落とし物をしてしまって、探してる最中です」「そうなんだ。一緒に探してあげようか」「いえ、いいです。もうすぐ始業時間ですから」「そうっか。たいしたものじゃないんだね。だったら、一緒に会社に行こうっか」「あー、ちょ、ちょっと。おトイレに。行ってから行きます。先に行ってください」「そう。じゃ」 岸田はそのまま改札を出ていった。荻原とは一緒に出社してこないのだ。 二人は仲が悪いのだろうかとみすずは思った。「そ、そんな場合じゃなかった」「えー、遅れる? ちょっとお腹を壊したって」「そ、そうなの。今まだ家の近くにいて、どうしても電車に乗れなくて。一時間遅れるって行っておいて」「わかったわ。荻原さんにそういっとくね」「あ、荻原さんには言わ・・・・・」 最寄りの駅まで電車で乗ってきた荻原が聞いたら、不審に思うだろう。 荻原を通さないようにおスギに注意しようとしたが、切られてしまった。 十時に出社したときの、荻原の激怒を想像したら、また寒気がしてきた。 あの整った顔を歪ませて、また嫌味を言うのだろうか。 それよりも資料をみつけることが先だった。書類だけはちゃんと見せなければ、彼女は一気に落ちこぼれOLの烙印を押されてしまう。「絶対に探すぞー!」 気合いを入れて、また歩きだした。行き交う人々を我感ぜずと、一心に足元を見ていた。ゴミ一つ、ほこり一つ見逃さぬといった執念だった。 階段を隅から隅まで見回してプラットホームに降りてきた。すでに二十分もたっている。今度はプラットホームの一番先まで来ると、そこからまた首を振りながら封筒を探した。どこにでもある定形外の茶封筒だ。落ちていればすぐにみつかるはずだった。 しかし電車が止まるたびに、人々の足が視界を行き交う。 まるで、みすずをじゃまするかのような状況だ。 始業時間までは人の波は終わらないだろう。自分の不幸な身を呪った。 この世は神も仏のないのだ。みすずは荻原に叱責され、そして地獄へと落とされる。 ダメOLの烙印を、これからずっと背負ってゆくのだ。 三十分経って、プラットホームを端から端まで、見ることができた。 しかし茶封筒はまったくどこにも見当らなかった。 すでに、出社すると約束した十時が迫っている。 電車の中で落としたのであれば、もう二度と戻ってこない。 可能性があるとすれば、封筒の会社名を見て、連絡をくれることだ。 それでも荻原に叱責を受けることからは、逃れることはできない。 悲壮感で、冷汗も出てきた。 試しに戻りの電車に飛び乗って、自宅近くの駅まで戻ってきた。 すでにラッシュは終わり、端から端まで見通せた。 やはり何も落ちていなかった。人間たちがポイ捨てたゴミだけが、淋しく転がっている。 主人たちに見捨てられた、廃棄物だ。 一服していた駅員にもきいてみたが、「届いてないよ」と言われた。 届いたら連絡してあげるよとも、言われなかった。強引にたのんでみた。 自動改札を走り抜けて、自宅へと戻ってきた。ここに書類のディスクがある。 しっかりと握りしめて、また駅まで全力で走った。 時刻はすでに十時半を過ぎ、十一時に迫っていた。 このまま出社しても、あと三十分はかかる。午後から出勤と同じではないか。 みすずは崖から突き落とされたような沈んだ気分だった。 このまま生理休暇でもとってしまおうか。失踪してしまいたい気持ちを、なんとか励ましながら会社へと向かい始めた。 荻原の激怒の声が、すでに鼓膜の中で響いていた。「書類をなくして、探していたって?」「申し訳ありません。戻りながら、ずっと探していましたがなくて、家までディスクを取りに帰りました」「あれほど言っただろう。これは今日の午後までに本社へと送るって。まず書面で俺が推敲し、そしてメールで送信する。これじゃ、俺が目を通す時間がないじゃないか」「申し訳ありませんでした。少し待ってもらって下さい」「プロ意識のない人にはやめてもらいたいね。君は給料をもらって働くということをなめてるんじゃやないのか。最近の事務員はみんなそうだ。自分を職場の花のように思って、コンパニオンのように色気を振りまくことばかり考えている。ミスをしても、笑っていれば許してもらえると思っているし、適当にやっていれば、給料がもらえると思ってる」 そこまで言わなくてもと、みすずは女子社員たちは怒っていた。それでも誰も口答えしないのは、相手が東京のエリートで、ため口が通用しないと思っているからだ。「金子さん。君は我が社の社員としての自覚があるのか。急ぎの重要書類を通勤途中でなくすなど、もし情報が他社に流れたらどうするつもりだ!」「きみみたいなプロ意識の薄い社員には、まかせる仕事はない!」 口からこぼれそうな怒りを押さえながら、みすずは頭を下げていた。 視界に入ってくるのは、自分の爪先だけだ。 荻原は所長のデスクの前に立って、みすずをにらみつけていた。「君ももう二十五を過ぎてるだろう。そろそろ結婚退職を考えたほうがいいんじゃないのかな? 給料ドロボウはうちにはいらないよ」「すいません」「すぐにディスクを出してくれ。僕が直接目を通して、本社へ報告しておく。プリントアウトはそれからやるように」「はい」 紛失した資料はそれで決着した。荻原は直接パソコンでチェックを入れて、本社へと報告している。 そして会議用にプリントアウトして、レジュメを作成しておくように命じられた。みすずはほっとした。荻原には怒られたが、失踪しないでよかったと思う。 東京のエリートとお友達になるという夢は、海のもくずのように荒海に消え去った。薄汚れた配送センターのOL金子みすずの光がさし始めた日常は、また灰色に染まっていった。「そうだ、金谷さん、中曽根さん、小泉さん、そして亀井さん、石原さんと園部さん。仕事が終わったら、私の所へ来てください」「あ、所長代理。亀井さんは、今朝も遅刻です。お母さんが入院されるそうです」「わかった。出勤してきたら、伝えてくれ」 荻原はそのままため息をつくと、座ってしまった。何もなかったかのように、コンピューターの画面に見入っている。 こうして、営業所の朝は、静かに過ぎていった。 残酷な朝だった。 みすずだけが不幸になっていた。
2006年02月19日
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小説「恋は微笑む」3 午後になっても、まだ女たちと荻原たちだけだった。 岸田と荻原はこの配送センターに何をしにきたのだろう。所長代理の肩書きで、手伝いに来たと言いながら、毎日センターの売り上げなどを分析している。営業には行かないらしい。「金子くん」「は、はい!」みすずはあの所長代理に呼ばれた。 荻原の一声で、オフィスの呼吸が止まった。キーボードをたたく音が止まり、パソコンもボールペンも、すべての備品たちが起立をして震えている。 みすずは初めて、そしていきなり呼ばれたので飛び上がった。跳ねるように立ち上がって、所長の席を見た。荻原はその視線で、こちらに来るように指示してきた。みすずは、居心地の悪さを感じながら、彼の方へと歩いていった。 かしましい女たちも声を止め、視線をこちらへ向けている。何が起こったのかと思っているようだ。「君のこの書類、ちょっと誤字、脱字が多いんじゃないのか?」「え、そんなことはないはずです。何度も確かめてまわしました」「そうか、何度も見たわりにはこの書類は最低だぞ。段落はずれているし、文法もおかしい。中学生以下だな」「君はこの仕事を何年やっているんだ!」「す、すいません」「やる気があるのか?」 その大きな声に、女たちすべてが息を止めた。 まるで巨人の足に踏み潰されたような、衝撃だった。「この営業所はぬるま湯だな。その体質をたださないと、業績があがらない。事務員だって無駄なことをすれば、この不況時に会社の足をひっぱることを認識してほしい」「うちの会社に君は必要ないかもな」「も、申し訳ありませんでした」 みすずは頭を下げた。「あー、気が重い。ストレスでつぶれそう。あたし自信あったのに」 東京のエリートがやってきたという一時の興奮や感嘆はふき飛んで、みすずは一気に突き落とされたような気分だった。入社以来、今まで積み上げてきた自信が、ただの汚らしいシミになってしまった。「みすず、あんなの気にすることないよ。あいつちょっときついよ。顔が良くても許さない。どうせ三ヵ月で東京に帰っちゃうから我慢しよ」「所長にだって、いつも君の作ってくれる資料は完璧だねって言われてたのよ」 みすずはずっとグチを言い続けていた。そう、こんな配送センターで働いていても彼女は優秀な事務員だった。ワープロ検定二級で、情報処理も二級の資格を持っている。 ブラインドタッチなどはお手のものだ。それなりに自分では優秀な社員だと思っていた。「ま、こんなこともあるって」 おスギが、みすずを励ましてくれる。「なによ、この前までいい男だなんてさんざん誉めてたくせに」「あのね、実はね。あたし、岸田くんに食事に誘われちゃった」「えーっ」「萩原さんて最悪だけど、岸田さんは人当たりもよくって、楽しい人よ。昨日営業と六人で飲んだの」「あたしも、岸田さんの方が楽しい人でいいの」 ミカも岸田のほうがお気にいりらしい。「なんだ。みんな発展中なのね」「今度、岸田さんが合コンしようって」「賛成!」おスギが手を上げた。「荻原さんは誘わないでね」「岸田さんが、連れていくって」「え? やだ」「あたしは楽しみ。荻原さんや岸田さんと、王様ゲームでキスなんて最高じゃない?」 おスギのテンションはますます上がってきた。「キスはいいけど、荻原さんはパス。恐いし」 口ではそういったが、まだ彼には未練があった。小さな未練が、合コンで大きく咲いてしまうことが恐い。 高嶺の花だが、一日ぐらいデートしてみたい。地方のOLだって、夢ぐらいはみていたい。それくらいは許されるはずだった。 荻原の叱責で、自信をみごとに打ち砕かれたが、それでもみすずは毎日仕事に励んでいた。 「金子みすず」という童謡詩人に似ていていい名前だと誉められたことも、すでにただの消えゆく思い出だ。 こうなると、荻原たちに早く東京へ帰ってほしいと願うこともある。自分でも理解できない複雑な思いに、胸がつまりそうになる。 このくらいで、落ち込んでいてはお盆休みのニューヨーク旅行の計画が台無しになる。 失業保険だけになるのは、まだごめんだった。 昼食時には、男性営業員たちも戻ってきて、ランチタイムになる。男性営業員たちのほとんどの者が愛妻による弁当持参だが、女性たちも手作り弁当を持ってくる。 弁当に飽きたら、近くのカフェにいってランチセットをとったり、ベーカリーでサンドウィッチを味わう。 とくにカフェのホイップクリームがのったコーヒーゼリーは、おいしいと思っていた。 たまに一人でこっそり食べにいくのも、みすずの楽しみだった。「コーヒー飲みにいこうか?」「賛成!」 そうして命の洗濯に向かった。女たちはいつも美味しいものを求めていた。「俺たちもいくぞ。たまにはいいよな」 そこへ男性営業員たちも加わった。「俺たちも入れてくれ」そういったのは岸田だ。 しかしその日は、みすずは胃の調子が悪かった。ランチセットを食べる気がしないし、ひんぱんにトイレに行きたくなるのも困る。「あたしは、ちょっと調子が悪いから、いかないわ」「そ、じゃね」 巨大な倉庫は人がいなくなると、急に淋しくなる。とり残された異性人のような気分になった。それでも五分もたつと、妙な居心地のよさを感じはじめた。 誰もいないオフィス。見張っているような所長の視線もなければ、彼女を急かすパソコンもいまは電源が落ちている。 うなるような動作音はなく、静寂がみすずにひとときの安らぎをくれる。 最近はISOという規格を取ることが、企業の間で流行っている。環境保全対策のための国際統一規格(ISO14000シリーズ)のことだ。 国際標準化機構(ISO)が制定に取り組んでいる。今では引っ越し屋まで競い合ってとている。 ヨーロッパを中心に企業または政府の間で、こうした環境規格の認証の取得を取引条件にすることが一般化しつつあった。これを取っていないと取引に関わるというぐらいで、この会社も社長自ら音頭をとって、社員が一丸となって取り組んでいた。 その中に使わないときはパソコンの電源を落とすとか、電気をこまめに消して、消エネを努力するとかの行為が含まれていた。だから、いまどきの昼休みのオフィスは、こうして森のように静かになっている。 Ryiiiiiiin!「何?」飛び上がった。 せっかく静かな世界を楽しんでいたのに、一気に壊された。 みすずは犯人の電話をにらみつけた。所長のデスクの上にある専用電話だ。 いつも本社や支社との連絡に使われていた。「荻原さんにかな。いないのに」 少し嫌いになった荻原の留守に腹をたてながら、受話器を取り上げた。「はい、こちら・・・・・・」「荻原くん、例の仕事はうまくいきそうかね。若くてハンサムな君たちにしかできない方法があるだろ」「常務取締役も乗り気だから、三ヵ月後を楽しみな」チャ!(せっかちな人。しゃべるだけしゃべって切っちゃった)(本社の人かしら) 女の世界にも、自分たちにしかわからない記号があるが、男たちの世界にもそんな暗号めいた言葉があるのだろう。 荻原の顔を思い浮べながら、首を傾げた。「金子さん」 いきなり背後から声がした。荻原が立っていた。いつも荻原と岸田は、二人だけで食事に行っているようだ。もちろん出張中だから、愛妻弁当はないだろう。 コンビニ弁当は彼らのようなエリートには似合わないから、オフィスで食べてほしくはなかった。「は、はい!」「さっきの電話は誰からだった?」「はい、あのう、用件だけおしゃって切ってしまわれて」「そう。いいよ。ぼくにしかわからないことだから。これから、ぼくがいないときに鳴っても出なくてもいいよ」「はい。わかりました」「あ、今朝たのんだ資料、やりなおしておいてくれ」「はい」 叱責されるまでは、荻原ともっと話したいと思っていた。彼の家族や恋人のことを訊いてみたいと思っていた。 けれども、今はただの男だ。クールで笑わないつまらない男だ。 心のすべてから追い出してしまおう。「もう、おスギもミカも手伝ってくれないんだから。みんなアフターファイブだけが楽しみなのよね」 また一人残された。うなる落とをあげているのは、みすずのパソコンだけだ。 時計を見ると、すでに七時半だった。 階下では音がしているので、配送センターは動いているらしい。 最近はいいことがないので、(リリカ)は出てこない。荻原を恐れているらしい。「やぁ、頑張ってるね」 その存在感のある声でいきなり現われたのは、岸田だった。 荻原の子分のような男だ。悪者に例えれば、腰ぎんちゃくだ。「い、急ぎの仕事なんです」「まだかかるのかな、ぼくで良かったら手伝うけど」「い、いいえ。結構です」 すると岸田はみすずの肩に手を乗せてきた。思わず、ぞっとした。「そう残念だな。けど仕事がおわるまで待ってるから、よかったら帰りに食事でもしない?」(この人は誰でも誘うの?)「君は、ぼくより荻原の方がタイプかな? それとも上原?」「そ、そういうわけでは。三人とも、東京の人ですから。すぐに帰ってしまうんでしょ?」「でも遠距離恋愛っていうのがあるよ。離れていても恋人たちは、愛し合えるものだ」 あまりのキザなセリフに、入力の指が止まった。「あの、荻原さんっておいくつですか? 下のお名前はなんですか?」 ドサクサまぎれにきいてしまった。本当は岸田には、貸しを作りたくないが。「やっぱり、君は荻原がタイプか。あいつは面白くないよ。カタブツだし、無口だし。東京のオフィスでも、オフタイムでも仕事の話しかしないので有名だった。下の名前は何だっけ。半蔵いや五之衛だっけ」 明らかにふざけていた。岸田はすぐになんでも、面白がる性格だた。「そ、そうですか」「今夜デートしてくれたら、教えてあげてもいいよ」「あ、あのいいです。仕事は、やっぱり家にかえって仕上げます。もう少しですから」「じゃあ、先に食事をしよう」「あ、あの、今夜母がいないのを忘れてました。あたしが帰らないと父と兄が飢え死にしますので。さようなら」 彼女は岸田のしつこい誘いをかわすために、作成中の資料を保存した。終るまでの時間がもどかしい。音が止まり保存完了を確認すると、ディスクをすばやく抜き取った。電源を落として、席を立った。「ちょっとだけだよ。そこのカフェでもいいよ。最近のカフェは食事もできるだろ?」「いえ、結構です!」 バッグを抱えて、ダッシュした。足早に歩いていって、オフィスを出る。 横目でちらりと見ると、岸田はポーカーフェイスで彼女を見送っていた。しずかなオフィスにみすずの靴音だけが、残された。(くわばら、くわばら。東京の男に摘み食いされるなんてごめんよ。地方のOLだと思っ てなめるんじゃないわよ) 岸田はくやしがってもいないし、腹もたてている様子もない。みすずの後ろ姿を、ただうで組をして見ていた。感情を表にださない男らしい。 荻原も岸田も上原も、東京の男はいつもポーカーフェイスだ。それが今どきの男なのだろうか。それとも、彼らが特別なのだろうか。
2006年02月19日
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小説「恋は微笑む」2「わたしは柿崎所長の留守をあずかるため、東京の本社からきました荻原です。これから繁忙期を迎えますので、岸田くんと上原くんにも来てもらいました。私たち三人で副所長をしっかりと、補佐していきたいと思います」 彼は東京研修のため留守の所長のかわりに本社の(人事部)から派遣されてきた所長代理の荻原と岸田だった。 のらりくらり回りくどく話す営業所長と違って、彼らのあいさつは簡潔ですっきりとしていた。そこがたたき上げのオヤジと、将来を約束されているエリートとの違いだと思った。 さすがは東京本社のエリートだと思って、みすずは三人を眺めていた。 女は男に点を付けるのが大好きだ。いつもオヤジたちを含めて、辛口の点数をつけている。若ければ少し偏差値は高いが、東京本社のエリートが現われた今、一気に偏差値は上がってしまった。 朝礼が終わると、営業員たちは配送のために、倉庫へと下りていった。 それぞれが、商品を積み込んで取引先のスーパーなどへ向かうのだ。新製品のプレゼンも、いい場所を確保することも彼らの手練手管次第だ。 そんな社の売り上げを担っている営業員たちも、女たちの品評会の中では、ただのくたびれた男だ。その商品価値は、東京のエリートにはかなわない。 岸田と荻原は、所長の席で打ち合せをしている。 その顔を寄せた男たちを見て、女たちはおしゃべりを始めた。 もちろん聞かれては困るので、そっと給湯室へ隠れた。「あの若さで所長代理なんてきっと我が社きってのエリートよ、いい男だし。薬指に指輪してないし。これはゲットすべし!」「地方のOLには、東京のエリートはちょっと高値の華かもしれないけど」「なによ。彼女の一人や二人、このあたしの魅力で捨てさせようじゃないの」「おスギったら、いつもながらすごい自信家ね」 おとなしいミカが、いつもやる気まんまんの杉山洋子のことをそういった。 ミカは小谷美香。おスギは杉山洋子。この二人とみすずは、とくに仲がいい。 コンパに行くのもこのメンバーだ。イケメンがいるというコンパを探して来るのは、いつもおスギだった。 今度は大企業の会社員とのコンパを探すわと、保険営業員のオバちゃんにねだっていた。 コネを探すのも、おスギは得意だった。 会場はいつもちょっとだけ高いレストランカフェだ。会費を男の方だけ高くすれば、うまくゆく。女はいい料理が食べられるし、王様ゲームだけ我慢すればいいだけだ。 みすずはというと、まだ二十五才だし、旅行にいって人生楽しみたいしで、いつも悠長にしている。コンパはライバルが多いときがあるし、悲しい結果にもなる。 だからいざとなれば、お見合いがあるわと気楽にやっていた。 女はフットワークが男よりは軽い。ダンナさまがリストラされれば、次の男に乗り換えると豪語する女たちも少なくない。 男は経済力、そして思いやり? 東京の男たちが来て、数日がたった。 仕事じたいは何も変わることなく、毎日入力作業に追われている。 男性社員が営業配送に出た後は、いつも女たちと所長だけなので、わきあいあいと楽しくやっていた。あまりのおしゃべりに所長がセキをして注意をしても、女たちは動じなかった。 さすがにオナラはしないが、鼻をかんだり、たまには化粧を直したりを平気でやってしまっていた。営業に出た男たちが四時に戻ってくるまで、ここは女たちの楽園だった。 しかし今は違う。所長はいないが、東京からの男たちがいた。 まだ若く、薬指に結婚指輪をしていない男が三人やってきた。 女たちが天下をとっていたオフィスに。 まるでハーレム状態なのだが、今回は違っていた。 奴隷にされているのはたしかに女。しかし、視線の奴隷にされているのは男たちだった。 洗練された都会の男たち。パソコンのキーボードをたたきながらも、ちらちらと気にしているのは若い女たちだけではなかった。 すでに年ごろを過ぎた、三十路の女でさえそうだった。 男たちが何かを見ながら議論をかわしているだけでも、耳をそばだてていた。 オフィスを出て倉庫の方へ下りてゆくと、しばらくはその方向に視線を向けていた。 いなくなると、時計のブランドがどうの、スーツはどこのとウワサをしあった。 そして三人の年齢当てが始まり、そしてそれぞれの私生活まで勝手に推理し合った。「女いると思う?」「当たり前じゃないの?」「どこの大学かな?」「有名私立か、国立じゃない?」「ここにいるあいだどこのホテルに泊まってるのかしら?」「さっき聞いたけど、マンスリーのマンションなんだって」「三ヵ月もいるって本当?」「所長の研修中はいるんじゃないの?」「岸田さんのスーツって、アルマーニかな?」「エリートはみんなアルマーニって思ってると、田舎者みたいよ」「じゃ、何よ」「グッチとかそういうのも着るんじゃないの?」「なによ、それじゃ知らないんじゃない。自分だけ田舎者じゃないフリしないでよね」「意外なところで、百貨店でのセミオーダーメイドなんじゃない。もっと意外なところで、一九八のスーツだったりして」「それはないんじゃないの?」「岸田さんって、髪型こだわる方よね。やっぱり東京の男は、カリスマ美容師とかのサロンへ行くのかしら」「岸田さんって、ちょっとキザな遊び人って感じだけど、荻原さんって、どう思う?」「そうね、典型的なエリートって感じ。落ち着きすぎていてくだけてなくって。意外に堅物かもね」「でも結婚するならそのほうがいいかもよ」「そんな堅物、すぐにあきるんじゃないの!」 オフィスで天下をとっている女たちのおしゃべりは止まらない。「上原さんは、どっちかっていうとまだ(君)って感じ。大学出たてって感じで、おぼこいわよね。大人の男なら岸田さんと荻原さんかしら」「でも意外に普通の男の方が、お気楽でいいかも」「あたしは、上原さんみたいな(おぼっちゃま)が好みなの」「金谷さんは、ダメですよね。だって結婚してるし」「何よ、見るくらいいいでしょ。こうして話のネタにするのも楽しいわ」 彼らは、女たちの鑑賞物だった。展覧会の絵画だった。 まるで時間のリターンを繰り返しているような、くたびれた日常のなかにみつけた、ささやかな魂の栄養剤だった。 しばらく、彼女たちの毎日は新しいカフェをみつけて飛び込んだときのような、トキメキで満たされるだろう。 そして、金子みすずもその中の一人だった。 最初に出会った荻原のことを、もっと知りたいと思っていた。 目を閉じると、日輪のなかで振り返る、荻原の横顔が浮かんできた。「おはようございます」 三十二才の亀井絹子が出勤してきた。すでに午前十一時四十分になっていて、もうすぐランチタイムになる時間だった。 みすずはすでにカフェランチに行くことにしていたので、心はもうランチタイムになっていた。今日のメニューはなんだろうと考えるのが、ささやかな楽しみだ。 近所の百貨店の配送センターには、大きな食堂があるらしい。うらやましいが、カフェに行くのも楽しい。「あ、亀井さん。おはようございます」「申し訳ありません。義母の具合がちょっと悪くて」 亀井は申し訳なさそうに、頭を何度も下げている。「そういえば、先週も遅れてきたね。お母さんはそんなに悪いのかな」 副所長の有村は、ポーカーフェイスで言った。その口調にはまったく哀れみも情もない。「はぁ、まだ五十二なんですけど、うちに引き取りましたものですから」「介護と仕事の両立は大変だね」「は、はい。でも頑張ります。今までもこういうことはありましたが、なんとか乗り越えてきましたから」「今は子供がいないけど、できたらもっと大変だね」「えぇ、まぁ」「ご主人は、どうですか?」「は、家事なんか手伝ってくれますか? お母さんの面倒は見てくれますか?」「いいえ、あたしよりも帰宅が遅いですから」「大変ですね」 そうしているうちに、ジーという午前の終業を報せる音が鳴った。 最近は在庫の管理はすべてコンピューターで管理している。それだけ人件費が浮いているわけだ。人間たちはほんの少しいればいい。ほんの少しだけ。 コンピューターや製造機械たちの面倒をみれるだけいればいのだ。 小谷美香は、午後からなぜか合わなくなった統計上の在庫と現物の個数との調査をしていた。「小谷さん」「あ、岸田さん」 巨大だが、在庫品を積み上げてある倉庫はとても息苦しい。トラックが出入りするたびに、排気ガスが入ってくるし、商品の箱のカスがほこりとなって、漂っている。 一生に一度くらいは丸ノ内のようなこぎれいなオフィスで働きたいというのが、ここの女たちの願いだった。「ここは大きいね」「はい、でも色気がなくって」「色気? そうだね。商品がまるで巨大なダムのように積まれているからね」「あたしたち、毎日こんなところで働いているんです。岸田さんは東京のきれいなオフィスで働いてるんですよね」「そうだね。たしかにあのビルは五十階建てで、ぼくたちのオフィスはその四十階から五十階まであるよ。眺めはサイコーだよ」「うらやましい。あたしたちもそんな所で働きたい。でも絶対ムリね」「研修かなにかの名目でもあれば、東京本社へ来られるのにね。もしかしたら叶えてあげられるかもしれないよ」「本当ですか? うれしい」 ミカは自分の声で驚いた。それほど、岸田の話は魅力的だった。 新入社員で入ったときもここだったし、新人研修は関西支社だった。そこのオフィスは高層ビルではなくて、十階建ての一部だった。入社式だけが、東京のホテルだっただけだ。 採用が分担されていたのだろうか。地方の人事は各支社がやっていたのだろうか。 支社は東京本社と比べれば、まったく見劣していた。 もちろん本社は会社からの、資料の写真でしか見たことがなかった。威風堂々としたウワサの摩天楼の中にあったが、彼女には遠い存在だった。近くにテレビ局が来るらしい。 日本国で、いつもあでやかなのは東京だけだ。「で、今度の日曜日にこの町を案内してくれないかな。せっかく来たんだから、観光してみたいよ」「は、はい。わたしでよければ」 ミカの声は弾んでいた。単純すぎる自分の気持ちに気づいていたが、それでもせっかくのチャンスを逃したくはなかった。「そうだ。今度、合コンしようか。独身の男女だけでさ。俺も荻原もまだ一人だし」「みんな、喜びます。合コンが好きな友達がいるし」「じゃ、決まりだな。五対五くらいでいいかな。カタブツ荻原もなんとか説得しとくよ」 東京のエリートとの、出会い。地方のOLを舞い上がらせるのには、十分な出来事だった。
2006年02月19日
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32pの投稿用マンガだったものを引き伸ばしました。 引き伸ばすのは得意なので、まあまあかな。 その辺の人は小説を自給自足するのが一番楽しいし、達成感があります。 安上がりだし、とられないし。 あたしたちは無敵。 いまどきの女は王子さまなんか待っていないの。 自分のお楽しみの分は、自分でかせぐ。 「腰掛け」っていう言葉があったけど、それは大昔の古代魚のようなもの。 今はお盆休みのヨーロッパ旅行のため、お正月のハワイ旅行のために、 それなりに働きます。 結婚退職したら、海外旅行にも行けないし、おしゃれな洋服も買えないじゃない。 頭のさびしいオジサマたちに、頭下げて、舌をだしたって、お金をもらうわ。 旅行のために、おしゃれな洋服のために。高級ブランドのスカーフのために。 あたしたちは今日もがんばります。それなりにね。 金子みすずの朝は、今日も快調だった。 何よりもお肌のハリもいいし、ファンデーションののりもいい。 家族とのトイレ争いも勝ったし、スクランブルエッグもちょうどいい柔らかさだった。 昨日買ったばかりの、ルージュもきれいにのびて、プルプルの唇ができあがった。「いまここに彼氏がいたら、キスしてみたいっていう?」 半年前に二マタかけられていた彼氏と別れたばかりの金子みすずは、 こうして毎朝メイクのできをたしかめていた。 自己満足でもいい。 女はそれでも何か一ついいことがあれば、それなりに一日を楽しめる。 水色の時間。水色の空。スキップして眺めていれば、何かいいことがありそうだった。 王子さまを待っていたような時代が、なつかしい。 金子みすずは、それを毎朝くりかえしてきて、今の職場に三年と二ヵ月勤めている。 女子大を卒業後、配属されたいまの職場は食品メーカーの配送センターだ。 関西地区の中心で、流通団地の中にあるが、かなり巨大な営業所も兼ねている。 周辺は同じような他業種の配送センターや倉庫があるが、開発された場所なので、カフェも小さなショッピングセンターもある。 焼きたてパンや、味にうるさいOLを満足させるサンドウィッチもあるベーカリーもあった。そこのベーグルサンドは彼女たちに人気だ。クリームチーズと食材とのサンドがいつも彼女たちを感動させている。 丸ノ内のようなかっこいいオフィス街ではないが、それなりにやりがいがあった。 新入社員だった頃は、ういういしくその若さを誇らしげにしていた。 コピーとりのような小さなことでも、わくわくした。 自動販売機があるので、お茶くみもないし、それなりに決められたことをやっていれば、誰も何も言わない。 仕事とはこんなにも楽なことなのねと、ちょっと甘くみている。 それでも給料はもらえるし、旅行も行けるし新しいカフェに走ってゆける。 こうして彼女は、女の天国を味わっていた。 しばらくはこうやって、美酒を味わっていよう。 今度の連休はバリで、のんびりとバラの風呂につかってこようか。 美しい瞳の美女に、香気に酔わされながらのマッサージを楽しもうか。 (女のために世界は回っている)ほとんどの女がそう思っている。 金子みすずもそう信じていた。 足りないのは、いい男だけ。それだけだった。 王子さまでなくてもいい。ただの男でも。 受けとめてくれる優しい胸が、あればいい。 そういうロマンチストでノー天気な自分と、小心者でいつも落ち込んでいる自分がいる。 ノー天気な方は、リリカと呼んでいる。 もちろん小心者の方は、みすずだ。 どちらがホントウの金子みすずなのか。 きっとどちらも(金子みすず)なのだろう。 今朝の電車通勤も快調だった。 イス取りゲームにも買ったし、バスは信号に二回つかまっただけだ。 (リリカ)が喜んでいる。いつも陽気なリリカ。 何もかもが順調で楽しいときは、頭のなかでフリフリのミニスカートをはいてサンバを踊っている。 リリカだけは、極彩色のなかから現われる。 (みすず)はスミに追いやられている。 こうして毎日電車とバスで、ホコリっぽく色気のない配送センターまで通勤していた。 倉庫のような営業所なので、ぽっかりと空いた入り口を入ると階段を上がっていって、そこに事務所があった。 倉庫の奥には、毎日やってくる長距離用のトラックがやってくるだけだ。 現在男が十八人、女が十人いる。島流しにあったベテラン女性経理島田玉子と営業補助の遠山美保以外は、新卒でここに入ってきてずっとここにいる。 男性社員たちは営業所長の宮永次郎以外ほ、ほとんどが営業で、製品を車に満載して配送している。昔は営業と配送が別々だったが、人件費の削減が進んで、今は兼業が普通だ。 スーパーへ配送しては、営業し交渉して、ライバルよりもいい場所に積み上げている。 事務の方は、コンピューター導入時はできるものが少なかったので、入力にとまどっていたが、今はほとんどの者が自分でできるようになっていた。 だから、補助のような人員はすでにあまりいらなくなっている。 それでも若い女たちは六人もいるので、職場は和気あいあいとしていた。 男たちが営業に出た後は、女たちの城になる。 所長のにらみなどまったく気にせずに、おしゃべりをしながらそれなりに働いていた。 いつも一番早く出社してくる営業所長が本社に研修に行っているので、オフィスには誰もいないはずだった。「はい、大丈夫です。うまくやりますよ。そのために私たちが来たのですから。はい。でも、あの約束は忘れないで下さい」「はい、任せて下さい。それが仕事です。では」 みすずは気持ちがよかったので、オフィスに誰かがいることに気づかなかった。(一番乗りのオフィス、気持ちいい。所長は四ヵ月間の本社研修。誰もいないから、大きな声だしちゃお) 一気に息を吐き出し、思いっきり吸い込んだ。「おはようございます!」「おはよう」「あ!」 窓に向かって男が一人立っていた。窓からの光が逆光になっていて、その姿がシルエットになっていた。 小太りで、典型的なオヤジだった所長とはまったく違うシルエット。 みすずは目を見開いた。 見たことのない、大きな男だということはわかった。 男だ。でも知らない男だった。 まさか、空き巣がこうして返事をするわけはないだろう。 しかもスーツを着ている。最近の倉庫あらしは、空き巣のようにスーツを着てやってくるのだろうか。「ど、どなたですか?」 その細く長い、灰色の男は振り向いた。 ゆっくりと余裕で。空き巣には似合わない落ち着きをもって。 若い男だった。 みすずは空き巣ではないと確認するために、はっきりと顔の表情を見てみたかった。 男の表情を少しも見逃さないようににらみながら、近づいていた。 スーツはそれなりの高級品だった。安物は、くたびれたように小さなシワができやすい。 しかし彼の背広は、縫製の腕にたがわぬように、そのシルエットを保っている。 彼はただの空き巣でもなければ、倉庫あらしでもなさそうだった。 それでも油断ができないので、にらみをきかせながらそばに歩いていった。 いざとなったら、大声をあげて叫ぶという覚悟も決めている。 男はそんな彼女の顔を、不審に眺めながら次の言葉を考えているようだった。「あのどなたでしょうか? お約束はおありでしょうか。副所長は今日は顧客訪問のため、午後から出社してまいります」「いや、ぼくは客じゃない。聞いてなかったかな。ぼくは所長の留守をあずかることになっている。所長の代理で東京の本社から来たんだ」(えー、こんなに若いのに! どーみたって、二十代後半じゃない) そんな感嘆の言葉を飲み込んで、新鮮な風景を見ていた。 この営業所にはいない垢抜けた男だった。「あ、あたしは金子みすずです。いらっしゃることを、お聞きしてなくて申し訳ありません」「知っているのは副所長だけだったんだがな。午後からか。困るな」 男は腕を組んだ。そでから見えた腕時計も、なんとなく垢抜けていた。 ロレックスではないが、品の良さがこの男の正体を表わしていた。 髪も会社員らしく、こざっぱりとしあげてあるが、まだ若々しさは残されていた。 大学を卒業してそう何年も経っていないのだろう。 そしてオヤジくささを感じない声の調子や、落ち着きからまだ妻子がいないのだろうと思った。そういうことには女は敏感だ。 彼女のオヤジ感知器は、警報を鳴らしてこない「もしかして、俺のことをドロボウか何かと思ってなかった? ずいぶんとにらみつけながらこっちに来たから、ぞっとしたよ」「す、すいません。最近この付近で、倉庫あらしが多いらしいんです」 まだ推理はできないが、本社から来たのなら、エリートなのかもしれない。 初めて目の前で見た(エリート)という男に、みすずは今まで感じたことのないときめきを覚えていた。 ここの男性社員はほとんど出社してきたら、すぐに会社の揃いの配送着に着替えてしまうので、その姿はあまりかっこよくは見えない。 だから、よけいにこの男がよく見えたのだ。言葉づかいも東京らしい冷めた物言いだが、それがかえってちょっぴり田舎者のみすずには新鮮だった。 都会的でクールな男は、かっこいいに決まっている。 話すのには勇気がいるが、眺めるだけでも十分に満足できた。「あ、君」「え?」「金子みすずさん。有名な童謡詩人と同性同名だね」「母が好きだったみたいで。あたしはよく知らないんですけど」「いいね。いい名前だよ。君のおかあさんは、センスいいね」「あ、ありがとうございます」「ぼくは、荻原だ。三ヵ月、ここにいるよ」「そ、そうなんですか?」 本当は、(金子みすず)という名前は、あたしに合っていますかと聞いてみなかった。 数少ない彼氏たちには、いつも(似合わない)と言われていたから。 女は確証がほしい。いつも幸せでいたい。 だから、いつも誰かに聞いてみる。あたしはきれいなの?「おい萩原、ずっとここを探険してきたけど、ずいぶん広いな。戻ってくるのに苦労したよ」 乱れた足音が、階段を上がってきて、若い男が二人事務所に入ってきた。 みすずと東京の男と、二人だけだった空間に、また新しい訪問者が加わった。 最初の男と同じような、高級ブランドのスーツを着た若い男たちだ。靴もピカピカで、ズボンの折り目も上から下まで、きっちりと通っている。 髪は、茶髪ではないが、垢抜けていたが、サラリーマンとして許される程度のヘアスタイルだった。ロレックスをした手で、何度もなでつけていることから、カットにこだわる男らしい。 年齢も最初の男と、同じくらいだった。そして同じような、東京のにおいがしていた。 そして遅れて入ってきたもう少し若い男は、他の二人よりは地味で平均的な若い会社員だった。時計も平均的なもので、身長も容姿も平均的だった。とりたてて目を引くようなタイプではない。「岸田、上原、紹介するよ。一番の働き者は彼女だよ」 数分後、つぎつぎと出勤してきた、女子社員が色めきだしたのもムリはない。 ちょっとお局になりかけている島田玉子と吉田美保さえ、仕事の準備をしながら、今朝やってきた男たちをちらちらと見ている。その正体が気になっているようだ。 早く誰かが飛び込んできて、男のことを教えてくれればいいのにと思った。 みすずの中で、極彩色の(リリカ)が踊っている。今度はサルサだ。 灰色で退屈な(OL)たちに(幸せ信号)が点灯している。 この東京から来た男たちの出現は、この地方の営業所に、小さな変化をもたらし始めた。 それはほんの小さなものだった。 しかし、彼らが運んできたものは、大都会東京の(におい)だけではなかった。
2006年02月19日
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