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新国立劇場 14:00〜 4階左手 ハンス・ザックス:トーマス・ヨハネス・マイヤー ファイト・ポーグナー:ギド・イェンティンス ジクストゥス・ベックメッサー:アドリアン・エレート ヴァルター・フォン・シュトルツィング:シュテファン・フィンケ ダーヴィット:伊藤達人 エーファ:林正子 マグダレーネ:山下牧子 新国立劇場合唱団・二期会合唱団 東京都交響楽団 指揮:大野和士 演出:イェンス=ダニエル・ヘルツォーク 去年やるつもりでお流れになっていた公演であります。元々オリンピックと連携した公演として、夏には東京文化会館でやる筈が流れてしまったので、この新国の公演だけという。それもあってか、それ以上にコロナが落ち着いて11月に人が戻って来ての公演というのもあって、ほぼ満席の大盛況。 下馬評が色々なので、色々警戒して観に行きましたが.......まぁ、結論から言うと、止まりはしなかったですね。救いようもないということにもならなかったし。 ただ、まぁ、退屈でした。マイスタージンガーというオペラは、よく考えると、音楽的には殆ど聞きどころ的なところがありません。「アリア」と言えそうなところは精々が第三幕のヴァルターの歌くらいだし、第一幕だって楚王言えなくもないけれど、と言ったところ。そして例によって話は長い。ドラマはあまりない。だから、淡々とやられちゃうと退屈なんですよね。 それを退屈にしないのには、何某か優れたものが必要だと思うのですが、そういう意味では、今日は、全滅だったと思います。 オケは、まぁ、止まらなかったのは確かです。ですが、まぁ、それだけ、かなぁ。特別なことはなかったように思います。むしろ、前奏曲からもうつんのめっていたり。よく最後までもったものです。 合唱は......というか、日本人歌手は合唱も含めて、ドイツ語が聞こえなかった..... 歌手は全般に力不足だったと思います。唯一歌えているなぁと思ったのは、まぁ、ハンス・ザックス暗いですが、それも、第三幕後半にはへろってしまい。 こういうと、「いや、よくやっていた」的なことを言われそうな気がするんですけれどね。でも、思うのですが、これ、高校野球じゃないんですよね。興業なんですよね。あくまで。頑張りに意味はないのですよ。ただのエンターテインメントではないのだ、というのはわからないではないけれど、それは決して言い訳にはならないと思うんですよね...... まぁ、演奏は、予想通り。むしろ、相当酷いのでは?と思っていたので、まだしもマシだったということになるのかも。 しかし、改めて今回思ったのですが、マイスタージンガーって、ある意味ワーグナー自作の自分のパロディというか同人誌みたいな作品だったんじゃないでしょうかね。いや、大作ですよ?ちゃんと歌劇場で初演して、ルードヴィッヒ2世臨席でとかなんとかかんとか。でも、ねぇ。第三幕、ザックスが自分をトリスタンとイゾルデのマルケ王に準えるところで、「トリスタンとイゾルデ」が引用されるんですよね。あれを聞いた時、これはある意味「真面目」に作ってないんじゃないかなと。 そう思って聞くと、確かにヴァルターはワーグナー自身に身も蓋もなく擬えていそうだし。ベックメッサーは当時ワーグナーの天敵だった音楽評論家を模して書いたとも言われているし。例のザックスの最後の方のドイツ芸術の危機と外国の脅威ってな演説も、ワーグナー自身が別途ものしていた論説に通ずるところもありますし。そこまで直截的に書いている割に、聞きどころがあるようでないような作品なのも、なんというか、真面目にやってないんじゃないかな、というね....... 演出。ある意味これが問題という気もするのですが。 マイスタージンガーは、何度か観ている筈なのですが、あんまり覚えていません。ただ、強烈に覚えている公演がありまして。15年くらい前に、ハンブルクで観たことがあるのですが、まぁまぁそれほど中世っぽくはないものの、割と普通っぽい演出だったのですが、最後、ザックスがドイツ芸術と外国の脅威を語ったところで、「ちょっと待て。いいのかそんなこと言っていて?」という論議が始まり、数分の論議の末、「まぁ取り敢えず」みたいな感じで大団円に向かうという。今でもよく覚えてるのですが、その時、隣だったかに座っていた現地人が強烈にブーイングを掛けていて、後で、聞いたところ「だっておかしいじゃないかあんなの」と、まぁ極めてシンプルに言っていたのが印象に残っています。エリートっぽいビジネスマンというか弁護士みたいな感じの人でしたけどね。奥さんらしき人がもうやめときなさいよみたいなこと言ってましたが..... なんでそうなるのか。やはり、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」というオペラが辿ってきた歴史というものがあるのだと思います。ワーグナーがナチスに利用された時代、ニュルンベルクはナチスの党大会の都市として存在感を持っていましたし、このオペラもそうした流れの中で利用された訳で、その意味ではワーグナーのオペラの中でもとりわけ「ナチス色」の強い作品になってしまったというのはあったと思います。それでなくても前述の通りの演説がありますしね。 15年ほど前、2005年か6年くらいだったと思います。その頃のドイツは、ECが経済的に軌道に乗った頃の中核国家として台頭していた頃で(リーマン前だった筈です)、ドイツという国を全面に出して行っていいのかまだ議論されていた頃だったと思います。同時に、いわば新右翼主義が台頭しつつあった頃でもあったと思います。 いわゆる現代演出、あるいはムジークテアターでもいいけれど、あれが勃興していったのがまずドイツであったというのは、勿論諸々の音楽的事情というものもあったにせよ、やはり「どうやってワーグナーをもう一度やるか」という問題と切り離せなかった問題だろうと思います。新バイロイト様式というやつはやはりそこから出たのだと思いますし、それが今の現代演出の潮流につながっているのだと。 話をマイスタージンガーに戻すと、つまり、そうした事情もあって、ザックスの演説と大団円をそのまま提示するのには躊躇いがある訳です。それは少なくとも15年くらい前にはそうだった。そんな昔のことで?15年前には、精々60年ほど前の話に起因するものでしかなかったのですよ。今だって高々75年前の話。そんなに昔のことではないです。それを「歪められている」と思うのかどうかはそれぞれだとは思います。でも、歴史はなかったことには出来ない。マイスタージンガーとは、そういうオペラでもあるのです。 今回の舞台は、いつだか分からないが恐らくは少し前の現代社会の歌劇場に置かれたものなのだと思います。率直に言うと、私には、細かいところでそれにどんな意味があるのか、はっきり言って分かりませんでした。あとでプログラムに書かれている演出家の話も読みましたが、そもそもこの人自分で何言ってるのか分かってないんじゃないか、というような内容でしたので、まぁ、どうでもいいかなと。むしろ、現代演出としてはほぼプロットを書き換えないタイプの、読み替えの殆ど無い演出と言っていいと思います。 ただ、最後の幕切れの場面で、その前まで現代的な格好をしていた合唱やエキストラが、歌劇場の舞台衣装なのか、それとも本当にそれを象徴してか、中世から近世のような格好をして出ていたのは、やはり、あの演説と関係があるのでしょう。幕切れで、ヴァルターとエーファが、渡された権威の象徴でもあるだろうヴァルターの肖像画を破って出ていく、というのは、その前の歌合戦でのエーファの表情から、女性を賞品扱いする事への嫌悪、というように読まれているようだけれど、それもあるかも知れないけれど、やはり権威に対する拒否、というよりむしろ逃走と見ていいように思うのです。 問題は、しかし、そういう意味ではむしろ凡庸ですらあるこの演出の意味と背景が、殆ど理解されていない、あるいは礼儀正しくスルーされていることにあるのではないかと思うのですけれどね。
2021年11月29日
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オーチャードホール 15:00〜 3階左手 シューベルト:ピアノソナタ第19番 ハ短調 D.958 ベートーヴェン:ピアノソナタ第32番 ハ短調 op.111 <アンコール> バッハ:平均律クラヴィーア曲集第1巻第1番 BWV846 〜前奏曲 シューベルト:即興曲 op.90-3 D.899-3 ピアノ:小山実稚恵 小山実稚恵のシリーズ「ベートーヴェン、そして...」の第6回、「異次元へ」と題されたリサイタル。 2016年から12年に亘ってのリサイタル、その補遺のような2019年からの3年6回のリサイタルシリーズの掉尾を飾る公演、なのですが........あんまりネガティヴなこと書くのもなんなんですが、ね..... 演奏前に本人の説明というか、MCがあったのですが、うーん。いまいちよくわからなかった.....まぁ、同じハ短調のソナタを揃えたというのはわかるし、シューベルトの休符とベートーヴェンの休符との違い、ベートーヴェンのそれが前に進もうとするものであるのに対して.....という趣旨は、まぁ、わかったんですが...... なんていうんでしょうね。そういう意味では小山実稚恵ももう長いこと聞き続けていることになるのだけれど、近年、特に今のシリーズに入って思うのだけれど、小山実稚恵の演奏そのものは決して悪くはないと思うのですが、ですね。今回のような、ピアノソナタのような曲での、音楽としての構成が、よく分からないんですよね。 シューベルト。確かに各々の楽章は、それぞれあれど、それなりにちゃんと演奏はされているとは思うのですね。ただ、全体としてこの曲がどういう音楽として捉えられているのか、見えないんですよね。 ベートーヴェン。第2楽章の変奏曲。中程の変奏のテンポが、凄く速い。いや、速過ぎて弾けてないということではなく、弾けてはいるのですけれども、そこまで速くてじゃぁそれがどう繋がるかというと、ちょっとどうなのかなと。唐突過ぎるというか。 シューベルトも、ベートーヴェンのこの辺のソナタもそうなのですが、あまり構成ということを重視されないきらいがあるのですけれども、シューベルトは実の所楽曲形式というものに拘っていた人であるし、ベートーヴェンも構成こそ中期のそれと違ったもので自由なものに見えるけれど、むしろだからこそ前例の無い構成をどう形作るか、というのは重要になるのだと思います。 もう一つ。変奏という問題。一度提示された主題を様々に変奏していく、というのは、いわば基本的な音楽の展開方法です。ただ、変奏曲という形式になると、ソナタ形式に於ける主題の展開というよりは、変奏し移ろっていくことそのもの、その移ろい方に主眼があったりします。たとえば、バッハのゴールドベルク変奏曲の場合、変奏一つ一つは様々な性格を有していて、目まぐるしく、とは言わないけれど、各々の変奏のヴァリエーションの多彩さにこそ魅力があって、ちょっと端的な言い方をするなら、その分、各々の変奏の連関性はそれほど比重は高くないようにも思います。異論もあるでしょうけれど。翻って、op.111の第2楽章。この楽章は確かに変奏曲ではあるけれど、15分は掛かる長さの割に変奏自体は確か第5変奏くらいまでだった筈。比較的変奏が長い。なので、どうしても変奏の間の関係性を見てしまうのですね。そう考えると、主題から前半の変奏に掛けての、静謐な部分から、リズムが細分化され激しく動く変奏を経て、また静謐な音楽へと戻っていく、といった流れが、この変奏曲自体を構成していると思うのですが、どうも、聞いていると、そうした連関性が感じられないのですね。 この楽章は Arietta と題されて、 Adagio molto, semplice e cantabile となっています。とてもゆっくりと、飾らずに歌うように、とでもなるでしょうか。そして、それは全編通して基本変わらない。それが、中間のところで、力づくに聞こえてしまうんですね。ちなみに、この部分には確かテンポを変えずにという指示があったと思います。つまり、変奏の形としてはリズムとしては激しく動く(つまり音価が細分化されている)のだけれど、全体としてはとてもゆっくりのペースは変わらないんですね。 まぁ、ねぇ。私如きが同行いう話ではないのかも知れないけれど...... ただ、正直言うと、小山実稚恵は、こういう古典派の延長線上にいる、構成感を強く求められる音楽は、苦手なのかも知れないなぁと改めて思ったのでした。 アンコールに2曲。でも、率直に言うと、アンコールは要らないよ、と思うんですけれどね。そのアンコールは、まぁ、悪くなりようがない2曲と言えば言えるので、いいも悪いもあったもんじゃないのですが、勿論悪くはなかったですよ。 確かに、前シリーズの場合、ソナタの大曲2曲、というようなプログラムはむしろ少なかったので、その辺が面白みでもあったと思うのですけれど、今回のようなプログラムだとちょっと難しいのかな。 お客さんがね。やっぱり集中力が薄いんですよね。シューベルトの緩徐楽章でカバンガサガサとか。全体的にも、なんというか、別に音楽そのものどうでもいいだろ、オーチャードホールにコンサート聞きに来ることに意味があるだけだろ、みたいな感じ、というと言い過ぎなのかも知れませんが、でも、前シリーズの頃から、そういう感じの人は少なくなかった気がするんですよね。だからなんだと言われるとアレなんだけれども......でも、お客さんが育てるというのはあると思うんですよね。ダメなものはダメだなという反応は大事だと思うんですけれどもね.......
2021年11月21日
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東京オペラシティコンサートホール 14:00〜 3階左手 ヴェルディ:「運命の力」序曲 ヴォルフ=フェラーリ:「マドンナの宝石」間奏曲 プッチーニ:「マノン・レスコー」間奏曲 ポンキエッリ:「ラ・ジョコンダ」〜 時の踊り ベートーヴェン:交響曲第5番 ハ短調 op.67 「運命」 <アンコール> リスト(バッティストーニ編):『巡礼の年』第2年「イタリア」 〜 サルヴァトール・ローザのカンツォネッタ 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:アンドレア・バッティストーニ 世間的には、今はウィーン・フィルが来ているので、まぁ、一般的にはそっちなんでしょうねぇ.... お金のこともあるけれど、今回は結局買わずじまいでした。今時分まで収まってるのだったら、無理してでも買っといても良かったかも知れないけれど、まぁ、なぁ.....ムーティだしなぁ.......ゲルギエフよりはもちろんいいんだけれど...........まぁ、いいや。 東フィルの午後のコンサート。いわゆる「初心者のためのお楽しみ音楽会」的なものですが、まぁ、気がつけばもう何年も買い続けてます........バッティストーニが出たりするしね!でも、今日プログラムを見たら、来年はバッティストーニ出ないんですって......えー......どーしよーかなー......... いや、それよりも。この東フィルの「午後コン」シリーズは、渋谷の平日、初台の平日と休日の3シリーズあるのですが、なんとまぁ来年の8月に初台の平日シリーズで、ダン・エッティンガーが来るらしいのですよ。え。定演もない時期だけど、あいつ一体何しに来るの?!というか何やるの?これはちょっと気にしておきたい...... それはさておき。 この10日ほども、東京の新型コロナ感染者数は30人を切り続けております......と言うことで、殆ど平時に近い状態になりつつあります。マスクは皆してますけれどね。実際、ゼロじゃないですしね。一方で、ドイツとかUKでは、1日の感染者数が2万人だの3万人だのってやってますからね。まだまだ世界は日常には戻ってはいない.....というか、マスクを着用するのが日常でもういいんじゃないかな?5年もしたら、衆人環視の中でマスクなしでいるなんて破廉恥極まりない!とかいって、公然猥褻罪で捕まるように......流石にそこまではいかないか......... そんなわけで、オペラシティはいつもの休日にも増しての人出。新国立劇場何やってたっけ?と思ったけれど、小劇場の公演だけ。なんだろう、と思ったら、どうやらギャラリーで和田誠展をやっていて、それがお目当てだったらしい。そうは言っても、こちらの午後コンもほぼ満員。定演よりも人気ありますからね。人出はほぼ通常運行ということなのでしょう。 今日気付いて改めてチェックしたのですが、バッティストーニと東フィルは、実は相当密なスケジュールで、10/30に軽井沢、11/1にサントリーホール定期(これは聞いた)、2日に渋谷の午後コン、3日にオーチャード定期(これも聞いた)、4日にオペラシティ定期、で、今日のこの公演、というスケジュールらしいです。この合間を縫って富山で社会貢献活動してたとかなんとか、いやはや物凄い過密..... 前半はオペラ序曲・間奏曲集で、最初は「運命の力」序曲。もうね。懐かしいというかね.... 30年くらい前、毎月のように東フィルがこういうのをやるのを聞いてた時期がありました。そのころは、いろんな歌手が来日してオケ伴奏のリサイタルをやっていたものでして。今もそう言われているのかどうかは知らないけれど、往時は「オペラの東フィル」と言われていたくらいで、藤原の公演には必ず東フィルが付けていたし、二期会も起用していた筈。東フィル自身も通常の定期演奏会とは別に「オペラ・コンチェルタンテ」と銘打った演奏会形式のオペラシリーズをやっていたくらい。そしてなによりも、各種リサイタルに起用されていたのが東フィルでした。NBS時代のグルベローヴァの来日公演は、首都圏でのオケ伴奏は大抵東フィルだったし、その他の歌手でも、ここぞという公演では必ず東フィルでした。 で、オケ伴奏の場合、大抵は1曲歌ったら歌手は引っ込んで、オケがなんかやるわけですね。序曲だの間奏曲だの。定番は、「椿姫」第一幕への前奏曲、「カルメン」前奏曲、そして「運命の力」序曲。毎月のように名だたる歌手が来日してリサイタルやっていたような頃は、毎月のように「運命の力」とか聞いてましたっけ。 今は、そもそも来日して歌う人が本当に少なくなってしまったし、たまに来てもバカっ高いか、ピアノ伴奏か。お金がなくなって呼べなくなったから?それもあるとは思います。ただ、呼んで欲しいような人、呼んでくれたら行こうかなと思うような人がすっかり減ってしまったというのもあるような気はします。一方で、ピンで呼ぶより引越し公演にしちゃえ、という傾向もコロナ前まではあったようにも思いますし。いろんな要因はあると思うので、一概には言えないとは思うんですけれどね。 まぁ、そんなわけである意味懐かしい「東フィルの運命の力序曲」ですが、こういうのやらせるとうまいんだよねぇ、やっぱり。理屈じゃないんですよ。安直にDNAなんて言う気は無いけれど、やっぱり長年こういうものをやってる記憶というものが残っているのではないのかな、と思う程度には、ピシッとハマった演奏。そう、「運命の力序曲」っていうのはこういうものだよね、というような。そしてバッティストーニがまたいい。今日は2日の公演と同じプログラムなので、こなれているというのもあるでしょうけれど、過不足無くここはこう来て欲しいというところに来る演奏。バッティストーニは日本に来る前にちょうどバイエルンで「運命の力」を振ってきたそうで、それもあるのかも知れませんが、やはりオペラ指揮者としてのバッティストーニというのは楽しみです。 あとの曲も良かったですよ。「マノン・レスコー」なんかもね。 後半は「運命」。うん、N響と違って、東フィルは「運命」って言うんだな。先週の土曜日に続いての「運命」です。 このシリーズは指揮者の語りが入るのですが、バッティストーニは基本的にはこの曲はオーソドックスに「苦悩から歓喜へ」的な物語を読んでいるようです。まぁ、普通? で、実際の演奏はどうだったかというと、まぁ、「普通にいい」演奏でした。過剰に檄する事なく、必要以上に抑制することもなく。編成は、恐らくは弦五部が12-10-8-6-4という、まぁまぁ普通の編成ですが、低弦をよく効かせていました。いや、むしろ、ブロムシュテットに近かったのか。丁寧さがとりわけ目立つ、ということではなかったけれど、必要以上に身振り手振りを大仰にするというようなのとは違って、急ぎ過ぎもせず、しっかりとした演奏。特に第3楽章から第4楽章にかけては、よくコントロールされた演奏だったと思います。特に第4楽章はあくまで曲のフォルムを蔑ろにせず、必要以上のテンポの揺らぎも多用せず。つい先日のチャイコフスキーを思い起こせば、そりゃぁベートーヴェンならこうなるよね、という演奏とでも言おうかと。 そういえば、バッティストーニは前半の「おはなし」の中で、バイエルンで「運命の力」を振った時の話で、序曲の慣用的にはアッチェレランドするところを「しない!」ってやったそうで、その話もまぁ面白かったのだけれど、そういう意味ではバッティストーニはああ見えて「学究の徒」ではあるのですね。まぁ、今時、そうした研究無しになかなか実力を発揮する機会は与えられるものではないのではあるのですけれども。 人によっては物足りないと言うのかな。でも、本当は、この曲はどんちゃん騒ぎをするような曲ではない筈で、あくまでこれは「古典派の交響曲」なのだから、むしろこういう整々としたところをきちんと持っている演奏の方がいいのではないのかな。 アンコールは今回もリストの編曲。まぁ、宜しいんではないでしょうか...... 終わってから、予約も不要だったので、和田誠展に寄ってきました。文春の表紙やらいろいろな作品が大量に展示されていて、その中にコンサートのポスター類も。近衛秀麿が東フィルを指揮したフィガロとか、岩城宏之が指揮した「火刑台上のジャンヌダルク」の初演とか。フィガロが1964年、ジャンヌダルクは1959年の話ですね。勿論そんなもの私だって生まれる前の話だけれど、それにしても、もう感覚的には歴史の範疇になってしまうのでしょう。とはいうものの、自分に地続きだったように思われていた事物が歴史に繰り込まれていく、というのは、こういう感覚なのか、と思ったりもしたのではありました。まぁねぇ、半世紀上前の話ではあるけれど、和田誠が亡くなったのは一昨年、岩城宏之だって15年前、とっくに昔の人というイメージの近衛秀麿だって、没年は1973年ですからね。50年近く前といえばそうだけれど、1970年代なんてついこの間のような気もするし。 なんてことを書いていたら、丁度TVCMで西武園ゆうえんちが「昭和の熱気」とかなんとかを売りにしておりました。そうねぇ......歴史の前にまず売り物になるのかな.................うーん..................
2021年11月08日
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今週はバッテイストーニ=東フィルウィークになってるわけですが、気が付いたら来シーズンの定期演奏会の案内が来ていました。 それで、まず、バッティストーニが1度しか出ない!どういうこっちゃ!....まぁ、全体を見ると、わからなくもないと思わなくもないという気がしないでもないという........どっちだ........ 来シーズンは全8回、その内チョン・ミュンフンが3回、ミハイル・プレトニョフが2回、その他に井上道義と、今年ハチャトゥリアン国際コンクールで一位を取ったという出口大地という人が出るそうです......................まぁ、ねぇ...................プレトニョフは結局今年は来ていない訳だし、チョン・ミュンフンも結局ブラームスで2回来たけれど、その前一昨年は来てなかった気もするし。そんな中バッティストーニは来られる限り来てくれていた訳だから、個人的には、もうチョン・ミュンフンとか、別にいいよ、そんなにしなくても、という気はするんですけれどね。エッティンガーの時も思ったけれど、もうちょっと覚悟決めて思い切って賭けるのも悪くないと思うんだけれどなぁ。まして、バッティストーニは一番苦しい時に、付き合ってくれてた訳なんだしね。 プレトニョフは3月公演が「我が祖国より」。最初はいつやる予定だったのかな。3年越しになるのかな? チョン・ミュンフンは、定期公演の最初、1月にマーラーの3番、最後の10月に「ファルスタッフ」をやります。まぁ、悪くないけど.......正直、チョン・ミュンフンよりは、バッティストーニで聞きたいよなぁ..... チョン・ミュンフンが振っても悪くはないとは思うんですよ。でも、なんというか、意味がないとは言わないけれど、チョン・ミュンフンはオペラ指揮者としては、過去帳に入ってしまう類の人ではある。意地悪い言い方すると、東フィルの定演に出てくれる「巨匠」、ですよね。それでファルスタッフを聞くのも悪くないけれど、それなら、私は、これからの人であるバッティストーニが聞きたいなぁ。 東フィルとしてどちらがいいのか、という考え方でいくと、難しいですねぇ。私の知る限り、少なくとも今世紀に入って、いわゆる音楽監督だの常任指揮者だので、本当の意味で成功したのは、やっぱり新日のアルミンクくらいじゃなかったかなぁ。震災でミソがついて追い出してしまったけれど、その後の新日の凋落は目を覆わんばかり。アルミンクの元ではかなりきっちりしたコントロールが効いていたのは、年8回の内4回くらいやって来て、古典を中心にきっちりやっていたからだと思うんですけれどね。追い出して好き勝手やり出したら、1年でグダリましたね。ハーディングでなんとかやってる体だったけれど、そんなにトレーニングしてくれるほどではなく、コントロールされるのも嫌った結果、グダグダに.....でも、その程度が、日本のオケの標準といえば標準位なってしまってますからね.....東響も、スダーンが来てすごい、とか言ってましたが、プログラミングには見るべきものはあったのかも知れないけれど、トレーニングが効いてた感じではなかったですし。都響は、その少し前にデプリーストが頑張っていたけれど、あれもちょっとの間ですぐ終わってしまったし。山形響とかはどうなんだろう......よく知らないけれど。 愚痴はともかく、話を東フィルに戻すと、まぁ、継続はするんですけれど、うーむ。微妙といえば微妙な内容ではあるなぁ..... メイン級の曲の作曲家軸で列挙すると、マーラー2回、クセナキス、ショスタコーヴィチ、スメタナ、ラヴェル、ドビュッシー、シチェドリン、チャイコフスキー、ハチャトゥリアン、ヴェルディ。 ヴェルディはね。いいですよ。ただ、見事なまでに、古典が無い。古典の系譜を継ぐようなのも、ない。そりゃ今シーズンブラームスツィクルスやってますよ?でも、なぁ.....いっそここまでいくと清々しいとも言えるけれど、諸事情あるからってことだとは思うけれど、ちょっとねぇ........ あと、協奏曲がすごく少ない。マーラーの3番とファルスタッフを除くと、独奏が入るのは2回だけ。まぁ、協奏曲を入れるのが当たり前とは言わないし、それに拘ってマンネリ化するのもおかしな話だからこれ自体が悪いというわけではないとは思うんですが...... 時代的に言うと、19世紀下半期以降100年くらいでほぼ入っちゃうんですよね。一番古そうな人はヴェルディだけど、なにしろファルスタッフですからね。最晩年に近い。スメタナとチャイコフスキーも19世紀の人ではあるけれども。一番新しいのはクセナキスですかね。殆ど一定の範囲に入ってしまっている。その割には有名曲が多いし....偏ってる割に、とんがってないというのかな。 バランスばっかり考えるのもどうなの、とは思うけれど、来期というか来来期はもうちょっと考えて欲しいと思います。もうちょっとね、バルトークとか、ベルクとか、ウェーベルンとか、ある意味もっとやな顔されそうなところもやってもいいんじゃない?と思ったりするのでした。
2021年11月05日
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オーチャードホール 15:00〜 3階正面 曲目(アンコール含む)と出演は11/1に同じ というわけで東フィル/バッティストーニをもう一度聞いてきました。ホームポジションのオーチャードホール。 まぁ、なんですね、やっぱりサントリーの舞台脇の席と、オーチャードの3階じゃ全然違いますしね。すみませんねぇ、いつもいつもやっすい席でばっかり聞いてて...... フルート協奏曲は、ちゃんと前で聞くと(?)結構協奏曲してました。ただ、あれかなぁ。ちょっとベタな言い方すると、映画音楽みたいな感じではありますね。そういえば、バッティストーニは伊福部昭の曲も取り上げてましたっけ。それと、おどろおどろしさというのはやっぱり薄い。物足りない、までは言わないですけれどね。でも、個人的には、やっぱり、ボスの絵はもっと奇怪なイメージではあるので..........その点ではむしろバッティストーニはボスの絵のよりヒューマニスティックな側面を見た、ということなのかも知れません。そういう目線で言うと、結構写実的な音楽であったとも言えるのかな。 チャイコフスキーの方は、金管が一昨日にも増して大暴れ。それでまぁ破綻はしていない。木管もより張り切っていて、まぁ、弦は....悪くないですけれどね。やっぱり、この曲は、管に食われちゃうんですかね。それと、特に第4楽章は、弦は結構金切声にならざるを得ない音域に書かれ方なので、そういう意味では不利といえば不利ですかね。 まぁ、今日聞いてて、改めて、「これはブラスバンドの曲って言っても通るよなぁ」と思ったくらいではあるので、弦がどうこうというよりは、ともあれ金管が大爆発!ってことでいいんじゃないでしょうか。こういう面では、やはりオーチャードホールは遠慮無く鳴らせるという利点はあるんじゃないでしょうかね。全般的にも、今日は第1楽章からこなれた演奏で、集中が途切れることもなく、という感じでしたし。全体のバランスとしても、今日の方が良かったんじゃないかな。 そういえば、今日のオケの編成は、12-10-8-8-6と、若干低弦厚めの態でしたが、これはどうなんだろうなぁ。個人的には、もう1プルト増やして、14-12-10-8-6くらいで、むしろヴァイオリンを若干楽にしてあげても良かったんじゃないかなという気もしないでもないなと。低弦が厚いのがいけないのではなく、全体とのバランス上ちょっと苦しかったんじゃないかという。 アンコールのリストの編曲もの。今日はバッティストーニの説明が一応聞き取れた気がするのだけれど、隔離期間が10日くらいあって、その間時間が勿体無いので(曰く "busyにしておきたかった"出そうな)この編曲をやってみた、みたいなことを言ってました。実は来年の定期にはバッティストーニは1度しか登壇しない予定らしいのですが(なぁにぃぃぃ!という話はまた別途)、そこでのプログラムもマーラーの5番の前に、同じ巡礼の年報第2年の「ダンテを読んで」の編曲をやるそうで。あれは確かに大曲ではありますしねぇ。 でも、来年1月にまた定期演奏会以外で振るらしいんですよね.....どういう予定になってるんだろ........
2021年11月04日
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サントリーホール 19:00〜 2階左脇 バッティストーニ:フルート協奏曲「快楽の園」〜ボスの絵画作品に寄せて <独奏アンコール> バッハ:無伴奏フルートのためのパルティータ BWV1013 〜 サラバンド チャイコフスキー:交響曲第5番 ホ短調 op.64 <アンコール> リスト(バッティストーニ編):『巡礼の年』第2年「イタリア」 〜 サルヴァトール・ローザのカンツォネッタ フルート:トンマーゾ・ベンチョリーニ 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:アンドレア・バッティストーニ 東フィルは1月始まり12月終わりのシーズン制になっています。今月は11月、今シーズン最後の公演は、我らがバッティストーニが登壇。相変わらずよくぞお越し下さいました。というわけで、平日だけどバッティストーニ聞きたさに平日を押して行ってきました。サントリーホールは、客筋も含めて、あんまり好きじゃないんですけれどね..... 今回はバッティストーニ自作自演シリーズ。いやぁ、ヤリ過ぎじゃないの?という気もしなくもないですが、やるからには聞かせてもらいましょうということで。 ヒエロニムス・ボスの祭壇画「快楽の園」にインスパイアされた作品ということで、2019年の作。全4楽章のフルート協奏曲で、独奏は委嘱者のトンマーゾ・ベンチョリーニ。 まぁ、よかったと思います。当然ながら現代の音楽なのですが、調性感があって、聞きやすい音楽。むしろ、ボスの絵画にインスパイアされて、と聞いていたので、どんなおどろおどろしいのが出てくるのかと思っていただけに、ちょっと肩透かしに感じたくらいではあります。そもそもフルートがあまり聞こえない、むしろバッティストーニがよく見える席だったので、あんまり楽曲のことは云々出来ないような気もするので.... バッティストーニは、流石に自作ということもあって、丁寧な分かりやすい指揮。まぁ、この人割にいつも分かりやすいのかなとは思いますが、よかったです。 独奏アンコールにバッハ。これもよございました。 後半はチャイコフスキー。 あのですね。正直言うと、こっちの印象が強烈なんですよ。 とは言いつつ、第一楽章は「あれ?」という感じ。悪くはないんだとは思いますが、どう言えばいいのか、音楽と演奏が噛み合ってない感じとでもいうか。変な言い方ですけれどね。空回り、といえば空回りしてる感じだったのかも知れませんが。まぁ、そんなような。 これが、第二楽章で綺麗に噛み合ってきたような。なんだか、この間のブロムシュテット指揮N響の「運命」みたいな話ですが、全体としていうと、ある意味あれよりもいい出来だったと言えないこともなくもないかも知れません。まぁ、比べるのもおかしな話ではあるんだけれども。こちらも緩徐楽章の第二楽章ですが。ここでの主題の歌わせ方が繊細に上手く出来ていて、とてもいい効果を出せていたと思います。 そして、第四楽章。ああ、そういえば、これも「第5交響曲」で、最後はどんちゃん騒ぎにはなるんですよね。あのぉ、正直に言うと、私、それもあって、あんまり好きではないんですよ、この曲。聞けば面白いし、ハマればいいんだけれども、ずっこけるともうしらけ切っちゃうというか。そして大抵は上手く行ってない。熱狂してるんだけどぐっちゃぐちゃだったり、空中分解寸前だったり、全体に整ってるんだけど、ぼやけてたり、みたいなね。 バッティストーニはこういうのやらせると上手いんですね。バッティストーニは、そういっちゃなんですが、大童の指揮姿が面白いのだけれども、あれがわかりやすいのかなんなのか、結構ハマって綺麗に行くんですよね。このへんが意外に面白い。そのバッティストーニ節全開でもう見てるだけでも面白いのだけれども、それがまた見事に嵌っていく。この日は特に金管が木管を凌駕するくらいにいい出来なのもあって、勢い任せのどんちゃん騒ぎ、ではなく、ちゃんと揃っていました。弦は、どうだったんだろう?聞いてる場所があまり良くないのもあって、よくわかりませんでしたが。オーチャードでは是非頑張って頂きたい。 アンコールに、バッティストーニが編曲したという、リストの「巡礼の年報」からの一曲。まぁ、これは、止めないけど、無くても構わなかった様な気はしないでもないような。あのチャイコフスキーの出来だと、むしろ要らなかったかも知れないなぁと。 全体としては、良かったと思います。オーチャードでもう一度聞けるのが楽しみ。
2021年11月03日
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