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所沢市民文化センター ミューズ アークホール 14:00〜 1階最後方 ステンハンマル:セレナード ヘ長調 op.31 ベートーヴェン:交響曲第5番 ハ短調 op.67 NHK交響楽団 指揮:ヘルベルト・ブロムシュテット ブロムシュテットは今月A・B・Cの定期演奏会全てを振りました。AとCは土日公演があるので聞きに行けるけれど、サントリーホールのB定期は平日だからなぁ.....と思っていたら、その週の土曜日に所沢での公演があるのを発見。久し振りに所沢まで行ってきました。これで一応全3プログラム聞いたことになります。物好きっちゃぁ物好きだよねぇ、我ながら..... 所沢ミューズのアークホールは久し振り。1階の後ろの方に座ったのは珍しいのですが、この辺から改めて見ると、多分、ウィーンのムジークフェラインを意識したのかなぁと。舞台後方のオルガンの両脇に謎の彫刻があったり、1階席の両脇はバルコニー席だったり、そういえばちょっと配置が似ているなぁと。開館は1993年なのですが、時期的なものもあってか、サントリーホール以後の風呂場ホールの系譜からはちょっと外れている感じで、割といいホールだと思ってます。 客席はほぼ満席状態。2000席くらいあるのですが、これだけ入ると壮観ですね。埼玉県西部では企画も含めて中心的なホールですし、私みたいなのも来ますから、ねぇ。 最初はスウェーデンの作曲家、ステンハンマルのセレナーデ。 えー、よくわかりませんでした。面白く聞かせて頂きましたが、えーと、なんとなく面白く聞いてるだけで、あんまり考えないままに「あれ?終わっちゃった」って感じでしたかね。そんなにあっさりした曲ではないし、短い曲でもなかったのだけれど、そんな感じでした。曲も、演奏も、綺麗だった瞬間があって、決して悪くはないんだけれども.......敢えて申さば、引っ掛かるところがなかった、ということなのかも知れませんが、まぁ、あまり論評できる立場ではないと思います。別に寝てたわけでもないんですけれどもね。 後半。運命。最近はそう言わないのよね。 ともあれ、第2楽章が丁寧でいい演奏でした。この曲で第2楽章が、というのは、あまりない気がするのですが、今回は第2楽章が普通にとてもいい演奏でした。どう言えばいいんだろう..... 大体、まずはツカミで押さえちゃう感じの演奏が多いような気がするんですよね、この曲は。多かれ少なかれ、思いっきりインパクトを狙ってきたりあるいは逆にわざわざ極度に素っ気なくやってみせたり。あまりにも人口に膾炙しているが故か、そこで力入れてしまう感じの演奏が多いような。この日の演奏は、普通の入り。ツカミでどうにかしてやろう、というのは、まぁ、ある意味外連ですよね。元々ベートーヴェン自身がそういう曲を書いているのだから、それはそういうものだと思うのだけれど、ブロムシュテットは力まずに普通に入る。その流れでの第2楽章は、だから、身振りの激しい演奏だと、第1主題と第2主題の対比にこれまた力を入れ過ぎて、やたらと劇的な音楽になるのだろうと思うのですが、ここがとても丁寧な演奏だった。なるほど、第5交響曲というのはこういう曲だったのか、と改めて思わされるような。 そうなんですよね。我々は、「運命というタイトルは後から捏造されたようなもので」みたいなことを言って、殊更に表題を外して見せるくせに、「苦悩から歓喜へ」というストーリーそれ自体は全然外す気がないんですよね。で、少なからずそのストーリーに当て嵌めて聞いてしまう。まさに標題音楽。 ブロムシュテットのアプローチは、恐らくは、「苦悩から換気へ」いや違う「苦悩から歓喜へ」(本当に誤変換がこう出たので面白くて。時勢だよなぁ。)という定型に嵌めることへの抵抗があるのじゃないのかな、と思います。ただ、それを、殊更に「苦悩から歓喜へとは聞こえないようにする」のではなくて、この曲を愚直にやったらこうなるのでは?というアプローチであったのではないのかなと。 それは、基本第3楽章でも変わらない筈、なのですが、しかし、どうなんだろう..... 第3楽章から、ちょっと浮き足立ってしまう感じなのですね。そして、第4楽章は、例によってのどんちゃん騒ぎ。いや、そうなるのは間違ってないとは思うのですよ。ただ、第2楽章での丁寧な演奏、各声部がきちんと歌っているような演奏 - 分離がいい、みたいなのとは根本的に違います - というのが、第3楽章の後半あたりから浮き足立ったような感じになってしまった気がするのですね。 第4楽章でも、どんちゃん騒ぎと言いながら、丁寧にやろうとしているのは変わらなかったとは思うのです。でも、第2楽章から見ると、第4楽章あたりは、本当にそうなのかな?それをやりたかったのかな?ブロムシュテットの求める演奏はそれだったのかな?という気はちょっとしました。勿論私なんかには分からないですけれどね。でも、ちょっと、不釣り合いというか、調和してないな、という気がしたのは確かです。 言い換えると、第2楽章が異質だったのかも知れない。そういう視点で言うと、全く別の言い方になるんだとは思うのですけれども。ただ、私は、やはりあの第2楽章が素晴らしかったと思うし、だから、そちらからの視点で見ると、違和感を感じたのですけれどもね。 N響は、今回はどうだったのか。ここ最近の3回の演奏に比べると、多分響きとしては良かったのだと思います。聞いてるのは一階最後方だから、どっかぶりしてるので、なんとも言えないですけれどね。ホールは比較的素性のいいところだと思っているので、その点でも、まぁ、なんとも。 ただ、ちょっと気になったのだけれど、今回のコンサートマスターは篠崎史紀で(AとCは白井圭だった由)、それがどうなのかはよくわからないのだけれど、なんとなくこうブロムシュテットとの間に微妙な雰囲気があったような気はしなくもないのですね。よく知らんけど。ただ、この人、元々どの指揮者にも時折「あれ?それはちょっと失礼なんじゃ?」と思う挙措があったりするのではあるけれど、先の2回と比べて何だか「あれ?」と言う感じがあった気はしました。それが演奏に影響するのかどうかはなんともだけれど、ちょっと書いておこうと思うくらいには思ったかな。 3回聞いてみて、何か言えるかというと、まぁ、何も言えません。ただ、今回の第5交響曲の第2楽章は、多少は記憶に残るかも知れないなぁ、という演奏だったかも知れません。それは、勿論丁寧でいい演奏ではあったのだけれども、同時に、「苦悩から歓喜へ」的な標題音楽としての「第5交響曲」、それはつまり「運命」と言う表題を否定したところで変わらず現存している呪縛、から本当の意味で解かれた演奏だったのかな、と思うからです。そういう演奏が聞ける人ではあるのですね、ブロムシュテットという人は。くらいのことは言ってみてもいいのかな。
2021年10月31日
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週末の東響の話を書いた後で、つらつらネットに載ってる意見を眺めてみたのですが、ちょっと気付いたことがあって。言えば私もそうなのですが..... 10/24のミューザ川崎でのコンサート、その数日前にオペラシティでも同じプログラムをやってたのですね。で、この両日の諸々の評を読んでいると、殆どが「モーツァルト推し」か「デュティユー&リゲティ推し」なんですよね。で、前者の大半、後者も少なからず、指揮者のジョナサン・ノットに否定的なんですよね。まぁ、そこまではともかく。拝見していて、しかし、一つ共通する事があるのです。つまり、このプログラム全体としてどうなの、という評価にならないんですね。 川崎での公演は「名曲全集」、初台のは「東京オペラシティシリーズ」という名目ですが、まぁ、定期演奏会に近い部分はあると思います。川崎の場合、川崎定期というのがまたあるので、位置付け的にはやはり人気曲をやるという事だとは思うのですが、ただ、オーケストラとしての定期的な活動ではあると思うんですね。 東響とノットに限らずそうですが、オーケストラの定期演奏会というのは一つの作品だと思います。レストランでのコースメニューに当たると思います。レコードやCDどころか、配信で好きなものを選んで聞く、うっかりするとAIが選んだ「これが好きなんでしょ」というものを聞くのは、いわばアラカルトで好きなものを注文している様なもので、それはそれでありなのだけれど(もっとも自分としてはAIに選んでもらうなんてちゃんちゃらおかしいやと思うのだけれども)、コンサートに於いては、プログラミングには送り手の意思が出ると思うのですね。 そう考えた時、やはりなんでこうなったのかというのは考えないといけないのかなと。勿論後半ですね。 ただ、まぁ、率直に言うと、ジョナサン・ノットが何故こういう演奏形態にしたのか、わかりかねるところである、というのが私の本音です。 この間書かなかったことを少し書くと、実は、この公演では、3, 4回、曲の合間に鐘のようなものを鳴らしていました。音色で言うと、日本で仏具として使うような感じのものでしたが、実際にどういう素性のものなのかはよくわかりません。それを、確かラクリモサの後と、リゲティのルクス・エテルナの前後で鳴らしていました。ただ、これも、何が言いたいのかよくわからなかった。 そう、正直言うと、私はジョナサン・ノットが何をしたかったのか、本当のところよく分かりませんでした。ただ、おそらく、ジェスマイヤー版のモーツァルトのレクイエムを演奏するだけでは何か足りない、あるいは何かその先にあるものを目指した、ということなのだろうとは思います。でも、それが成功していたのか、と言われると、なんとも。ラクリモサは確かにジェスマイヤー版とは違って、随分賑やかしではあったけれども、じゃぁ、しめやかなラクリモサこそが「正しい」ラクリモサなのか、「正しい」モーツァルトのレクイエムなのか、と言われると、それはなんとも言いようがない気はします。正しいか正しくないかの問題ではないし、第一演奏そのものの問題はあったしね。しかし、それ以上に、リゲティをわざわざ挟みに行ったということ、しかも、その一方で、モーツァルトのレクイエムそれ自体は削りはしなかったということは、ポジティヴに捉えるなら、そこにリゲティが必要であった、と、ノットは考えた、ということになると思います。それを、モーツァルトのレクイエムだけではダメなんだ、と考えた、ということとも言えるかも知れません。私個人は、それを挟むという行為そのものに違和感はなくもないけれど、音楽それ自体はそこに入ることにそこまでの唐突な感じはなかったとは思います。無論、そうは言っても異質の音楽ではあるし、本来の最終曲が色褪せて見えたという面もあったとは思いますし、そう考えれば、確かに否定的な意見が出るのも宜なるかな、というところではありましょう。 とはいうものの、もし賛同致しかねるとしても、意図的にこういうプログラム、こういう構成の演奏をしたことは何某か - 否定するにしても - 受け止めるべきなのだとは思います。それは、モーツァルトのレクイエムの間にリゲティを挟むとかいうことだけでなくて、そもそもこういった、というのはつまりレクイエムのような、本来であれば特殊な機会むけの宗教音楽を敢えてコンサートで選ぶことなども含めて考えられるべきだと思いますし。別にそういう意図は格別プログラムには書いていないし、ひょっとして東響のサイトとか探せばノットが何か語っているのかも知れないけれど、正直一所懸命調べる気までは起きません。ただ、聞いてる方にとってはただの「泰西の名曲」でしかないのかも知れないけれど、演奏する側は当然意図があってのことである筈だし、そうでなければいけないとは思います。少なくともこういう曲は、なんとなく綺麗だからやってみる、では済まない。しかも、わざわざ「何をやってもいい」定期演奏会的なところに持ち出すのですから。 でも、やっぱり、意図はよくわからなかったんですけれどね。だから、私も、デュティユーとリゲティを聞いた気になったけれど、モーツァルトのレクイエムはちょっとね、みたいな書き方をしてしまってはいるのですけれども。多分本来はそのこと自体が問題なんだろうなと。 ただ、この間もちょっと触れましたが、そもそも日本のオーケストラにとって定期演奏会ってなんなんだ、というのはあるとは思います。別に常に進化していなければいけない、なんて本気で言い出すつもりはないのだけれども、ただ、漫然と人気曲をそこそこのレベルで演奏していればいいんです、というものだろうか?というのはあるのだと思います。デュティユーとモーツァルトとリゲティ、というプログラムそれ自体を評価するのか、モーツァルトのレクイエム以外は付け足しで、そんなとこどうでもいいんだ、と考えるのか。それは、東京交響楽団というオーケストラが何の為に存在するのか、という問題でもあると思います。無論、そこにはオーケストラ自体の問題と、ジョナサン・ノット自身の問題 - ここには、ノットという音楽家としての、このコンサートの指揮者としての、そして東響の音楽監督としての、という3つの立場があると思うのですが - とがあって、しかし、それは演奏する側が考えておけばいい、ということでもあるけれど、同時に、受け手の側の問題でもある筈です。 いや、ただのお客さん、という意味では、好きなものを選べばいいし、実際そういうふうに聞いてると思うんです。でも、音楽というのは受け手があって初めて成立するものだから、たとえば、東京交響楽団というオーケストラは何を目指しているのか、という視点で見た時にどう見えるのか、このコンサート全体がどうしてこういう構成になっているのか、それはこのオーケストラの目指すところの中でどういう位置付けにあるのか、ということは、考えてみていいんだろうなと思うのですね。
2021年10月27日
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ミューザ川崎シンフォニーホール 14:00〜 4階左手 デュティユー:交響曲第1番 モーツァルト:レクイエム ニ短調 K.626 リゲティ:ルクス・エテルナ (レクイエム Communioの前に) ソプラノ:三宅理恵 メゾソプラノ:小泉詠子 テノール:櫻田亮 バス・バリトン:ニール・デイヴィス 新国立劇場合唱団 東京交響楽団 指揮:ジョナサン・ノット グルベローヴァが亡くなったので喪中ではあるのですが、今日の予定が無くなって、まぁ、家に居てグルベローヴァでも聞こうか....と思っていたのだけれど、昨日の夜チェックしたら、ラファウ・ブレハッチのサントリーホールの公演、この東響のミューザ川崎の公演、どちらもホールのWEBチケットだと前夜まで買えるのですね。空きがあって、フラフラと買ってしまいました。ラファウ・ブレハッチも、休日公演が無いと思っていたからそっちにもかなり揺れたのだけれど、都心よりこっちがいいかなという理由と、プログラム的にブレハッチの方はなんとなく踏ん切りが付かなかったので。悪くないプログラムではあったんだけれども...... 東響は、フェスタサマーミューザ以来です。結構聞いてるな......... 名曲全集は、東響の川崎定期とは別に、比較的人口に膾炙した曲を中心にプログラムを組むシリーズなのですが、デュティユー.............どうなってんの............いや、悪かないけれど、いいのか...........いいけどさ......... 昨日のN響も満席に近かったですが、こちらもそこまでは行かないものの普段のコンサートの入りとほぼ同じレベル。ピット席がガラガラだったのは、多分、元は売ってなかったんじゃないかなと。合唱が入りますからね。結局合唱は舞台に乗ったので、後から売りに出したのかな。 前半はデュティユーの交響曲第1番。多分初めて聞く曲です。少なくとも生演奏では聞いたことはない。最近はこういうこともあまりないのですが、例によって予習はしない主義..... このところのN響を続けて聞いているのもあって、響きは当然気になるのですが、率直に言ってかなり響いてはいました。ただ、それは、すり鉢どころかビアジョッキみたいなホールであるミューザ川崎だからであってのことだろうなとは思うのですね。無論、ここをレジデンスにしている東響だからというのもあるにせよ、だからN響はダメで東響はいい、というわけではないと思います。 加えてどういう曲かというのは大きいと思います。デュティユーの交響曲第1番。既に述べた通り、初めて聞く曲ではありますが、時期的には戦後に書かれた無調の曲ではあるけれど、むしろ先祖返りしたような曲。ドラマもロマンもあるけれど、響きでいえばシェーンベルクの「浄夜」あたりのイメージかなぁと。ロマン派の延長線上だと、この時期なら、もう最も「保守的」であってもR.シュトラウスまで行ってしまいますし、ベルクやウェーベルンだって後期ロマン派の延長線上ですからね。そう、R.シュトラウスなら、「メタモルフォーゼン」あたりの感じなのかな。まぁ、そういう定義の仕方もいい加減過ぎて申し訳ないのではありますが、その程度には違和感なく、面白く聞けた、と言っていいのでしょうか。 オーケストラに関して言えば、このデュティユーの方が良かったかなと。 後半はモーツァルトのレクイエム。まぁ、これがほぼ目当てなのではありますが、これが色々仕込みが。 まず、基本ジェスマイヤー補筆版、つまり概ね一般に演奏されるもの、と言いながら、ラクリモサだけはイギリスの作曲家マイケル・フィニッシーなる人の版を使うと。更に、終曲コンムニオの前に、リゲティが同じテキストで作曲した合唱曲のルクス・エテルナを挿入すると。で、どうなったか? 率直に言うと、合唱はリゲティをメインに据えてただろ?と言う感じ。リゲティは見事でした。調性ももはやなく、声部も恐らくはもう4声でないような、和声という概念ではなくて各人の声を響き合わせて響きを作り上げていく。もう何歌ってるかなんて定かではない。風呂場どころか風呂桶に蓋した中に潜り込んで聞いてるような響き過ぎのミューザ(....悪口ですよ?)には確かに向いている曲です。なるほどまぁ面白い。このリゲティは成功だったと思います。 では、レクイエムは?ちょっとね。 最大の問題は合唱かなと。合唱は明らかにリゲティに力入れていたと思います。まぁ、気持ちはわかる。だけれども、それかあらぬか、レクイエムの方は、どうも。いつもの悪い癖の「歌い切らない」のが出てるんですよね。なんでこうなってしまうのか。誰も指摘しないんでしょうか。 一つ問題としてあるだろうなと思うのは、古楽器演奏スタイルの悪い癖とその間違った理解のされ方が蔓延ってるというのがあると思うのですね。未だに。やたらとレガートにしない。音をはっきり切る。こういうスタイルが古楽器演奏として蔓延して、未だにそれをそういうものだと思っている人も多いのかも知れません。そして、声楽も同じ様にすればいいのだ、というような。でも、「レガートでない」というのは「音符を音価通り全部演奏せずに終わらせる」ではないのです。で、そうすることで、はっきりさせているように音的には聞こえるから、なんとなくそんな感じでやってるんじゃないかと思うのです。そう言うと、いやそんな風には思ってない、と言われるかも知れませんが、やはり、音価通り歌い切ってないと思うのですよ。はっきり切れてしまう。こういうの凄く気持ち悪いんですけれどね。この辺はオーケストラでも同じなんですけれども。ただ、オケの場合は、ミューザのようなホールだと誤魔化しが効く。否、むしろ、よく鳴らすことが出来るのであれば、若干抑え気味にすることで、響き過ぎて濁るのを回避する、という言い訳は出来ます。でも、そもそも音価通りやり切らない方がおかしいんですよ。そして、今日の総勢2〜30人くらいの合唱なら、そんな心配しなくてもいい。ちゃんと歌え。まぁ、リゲティに注力し過ぎちゃったのかなとは思いますが、でも、これ、基本的なことなのでね。なんでこんな当たり前のことちゃんと言わないんだろうね、みんな.........というか聞き取れてないのかな。 もう一つは、ラクリモサ。前述の通り、これはジェスマイヤー版ではないそうなのですが、気のせいか、聞いていて、微妙にテンポが揺れるというか、「なんか変」なのですね。普通にジェスマイヤー版をきちんとやってる場合、このラクリモサはテンポを揺らすことはなく、粛々と演奏されると思います。それでなくても、作曲の経緯も含めて劇的な曲ですから、余計なことをしない方がいい。のに、なんというか、ルバートしてるような感じなのですね。流石に演奏が変というより、そういう風に編まれてるんじゃないかと思うのですが、どうなんだろう。 独唱は4人中3人までが代役ということで、とはいえ割と早くから準備している - 少なくともプログラムに書ける程度には - ので、あまり点を甘くする必要もないとは思いますが、まぁ、こんなものでしょう。あまりいいなと思った部分はないですが、正直、合唱が気持ち悪くて、それどころではなかったのでね。 オケも同じく。なんか気持ち悪いなぁというのが先に立って、細かいことは、でも、言えば、デュティユーの方が良かったかな、やっぱり。編成もそちらに比べれば縮小しているし、それほど違和感はなかったけれど、ね。 なんというか、メインの筈の音楽がむしろ後景に退いてしまって、デュティユーとリゲティを聞いてきたような気分です。そうじゃねえよなぁ、とは思うんだけれども、まぁ、こういうことも、あるよね。
2021年10月25日
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グルベローヴァの追悼記事がワシントンポストとニューヨークタイムズで出ていました.....https://www.washingtonpost.com/local/obituaries/edita-gruberova-dead/2021/10/19/ed962daa-30d5-11ec-93e2-dba2c2c11851_story.htmlhttps://www.nytimes.com/2021/10/22/arts/music/edita-gruberova-dead.html The Timesとか、The Guardianとか、UKの新聞のは出て来ないんですよね.....なんでだろう........これから出すのか?でも、つい先日亡くなったハイティンクのはもう出てるしなぁ....... 今更だけれど、どちらの記事も、ウィーン、ミュンヘン、チューリッヒなどで活躍したことを書いています。コヴェントガーデンやMETでも。そして、いつもの通り、日本でのことは触れられず仕舞い。 まぁ、そういうものですからね。そういうことになってるし。日本は辺境だし、クラシック音楽の本流の地ではないし、云々カンヌン。 ただ、やっぱり、ちょっと考えてみてもいいのではないかなとは思うのですよ。改めて。 こないだまでやってた、1年遅れのショパンコンクールで、日本人が2位と4位に入賞したそうで、まぁおめでたい話なのでしょうが、そもそもショパンコンクールでもチャイコフスキーコンクールでも、入賞者はこれまでもいた訳です。で、その人達のその後を見た時に、世界的な演奏者となった人がいたのかというと、微妙な気がするのですね。というか、日本人ピアニストで、相応に世界的に活躍したのは、内田光子くらいじゃないでしょうか。舘野泉は北欧ものの第一人者的な立ち位置で(敢えて左手のピアニストとは言わない)、小川典子はやはりニッチな立ち位置で活躍しているけれど、でも、まぁ、ね。 問題は、むしろ、例えばコンクールで入賞しても、日本国内のドメスティックな存在になってしまう傾向ではないかと思うのです。ヴァン・クライバーンで勝った辻井伸行だって、ハンディキャップがあるから、ということはあるにせよ、どちらかというとドメスティックですよね。それがいけないかというとそれは各人の選択の問題ではあるのだけれども。ただ、それで済むのか、という気がするのです。 先に挙げた内田光子は日本に来てリサイタルをやってるそうで、それは重畳なのだけれども、オーケストラとの協奏曲は無いですよね。いわば緊急来日的な話だとは思うから、仕方ない部分はあるけれど、ただ、内田光子に限らず、来日して演奏していくピアニスト達が、日本のオーケストラの定期演奏会に客演するというのは、ごく限られてる気がするのです。今に始まったことでなく、少なくとも今世紀に入ってからはそういうケースが多いんじゃないでしょうか。勿論客演する人も少なからずいるのだけれど、ピアニストで言えば、例えばオピッツとかゲルバーとか、結局来日出来なかったけれどルプーとかで、本当の第一線級の人達、例えばシフとかポリーニとかは殆ど客演していない気がします。アルゲリッチとか、新日とやっていたけれど、そういうケースは概ね「特別演奏会」みたいな感じになってしまうんですよね。 「お金がない」?まぁ、確かにそうだとは思うんですが、本当にそれだけなのか。 グルベローヴァは、日本では恐らく引越し公演でしかオペラに出ていないと思います。それはそれで仕方ないとは思うけれど、何故新国立劇場の舞台に立たなかったのか。いや、グルベローヴァに限らず、新国立劇場に立った一線級の歌手は、あまり思い浮かびません。ファン・ディエゴ・フローレスとか、アントニン・シラグーザとか、いるにはいるんですけれどね。でも、たとえば、カウフマンとか、バルトリとか、どうでしたっけ。 「お金が無い」?それだけですかね。いや、それこそ、「今回はカウフマンが出るのでチケットの額が上がります」ってやれないのか?平均5千円/人上がれば、1公演で軽く数百万円は出ますよ。 グルベローヴァも、他の演奏家達も、日本には結構来てくれています。歌手と違って、リサイタルがむしろ本流の仕事である独奏者の場合、日本での演奏もキャリアに書かれることはあると思います。でも、単に履歴書に書かれるだけでなくて、それが芸術的に重要な仕事であると看做されるということがあるのか、というのはちょっとどうなんだろうと。 それは確かに「日本は本流じゃないから」なんでしょう。でも、それだけなんだろうか、という気はしないでもないです。むしろ、今でもこれだけ海外から演奏家が来てくれて、日本人でそれなりに演奏が出来る人も出ているのに、未だに成果にカウントされないのは、それだけでは済まない気がするんですよね。
2021年10月24日
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東京芸術劇場 14:00〜 3階左手 グリーグ:ペール・ギュント組曲第1番 op.46 ドヴォルザーク:交響曲第8番 ト長調 op.88 NHK交響楽団 指揮:ヘルベルト・ブロムシュテット 先週に続いてのブロムシュテット。今回は、ほぼほぼ1時間一本勝負の休憩無しの「国民楽派」プログラム。 先週もですが、今週はほぼ満席ですね。空いてる席が見つからないくらい。まぁ、こちらもですが、このところ東京は新規感染者数が少ない方の二桁が続いてますので、ようよう人も出てくるようになったというところでしょう。実際、今日も池袋駅前の居酒屋が「24時まで営業!」とかやってましたし。.......完全解除は25日からだったと思うんですけれどね....... 今日のN響は、ここ最近に比べると幾分良くなったように思います。CDっぽさが控えめというか、かなり響きが真っ当になっていました。聞いてる場所は、前回とそれほど違わないので、多分多少は響き方、響かせ方が変わってるんじゃないかとは思うんですけれどね。まぁ、なにしろ、芸術劇場は響きが不思議なところでもあるのでなんともですが.....ただ、前回とかは、弦が平版であったのが、今日は、低めの音域ではかなり鳴っていたと思います。確かに、元々このくらいは鳴ってたよねぇ、N響も。 そういえば、先週末、付き合いでアマチュアオケを聞きに行ったのですが、プログラム自体はまぁそのオケとしては普通の内容だったのだけれど、率直に言ってちょっと力不足な感じだったんですよね。恐らくは、練習不足というのはあったんだと思うんですよね。それと、勘が鈍ってるというか。N響はプロオケだし、演奏会もあったのだし、一緒にしてはいけないのかも知れないけれど、やはりそういうところはあるんじゃないかなとちょっと思います。まぁ、失礼な話といえば失礼なのではあるけれど、もしそうであれば、ブロムシュテットの客演を機に復活してきたということなのかどうなのか..... 最初はペール・ギュントの第一組曲。この曲をオケで聞くのはいつ以来だろう......結構聞いてない気はします。 先に書いた通り、弦の響きが結構よくなっています。「オーセの死」なんかはかなりいい響きをさせていたと思います。ブロムシュテットは北欧の音楽が十八番...なんてプログラムに書いてはありますが、ペール・ギュントもそうなのかねぇ。そういうものなのかな。この間のニールセンなんかと一緒くたにしていいものなのかどうかという気はしますけれども、まぁ、それはそれとしていい演奏ではありました。 弦五部は、見たところ7-6-6-4-3プルトの対向配置。そう、恐らくはヴィオラを厚くした編成。これでいて、決して低弦が足りないという感じではなく、いいバランスでした。 休憩無しと言いつつ、3分ほど一旦オケ全員退場しての、ドヴォルザークの8番。これはなかなかよかった。 この曲、昔は「イギリス」なんて表題が付いてたりしましたが、確かあれはこの曲の楽譜がイギリスで出版されたからとかなんとかだったような。まぁ、実際にはむしろチェコ色の強い曲、みたいな感じかとは思うのですが、この日の演奏は、確かにそういう曲ではあるのだけれど、むしろメカニカルというか硬質というか、そうした演奏だったような。硬質といっても、決して演奏が硬い、という意味ではないのですけれども。硬い、といって悪ければ鋭い、といったところでしょうか。特に第2楽章など、よくある演奏は、旋律を柔らかく歌わせると思うのですが、決して柔らかくはない。金属質、と言ってもいいでしょうか。連想したのは、「新世界より」の第4楽章。「新世界より」がアメリカの世界ならば、あの第4楽章はさながら大都市の機械文明のアメリカ、といったアプローチもあると思うのですが、この第8番もそんな感じの演奏。 決して否定しているのではないのです。むしろ感心したといっていいのだけれど、表現としては、どうしてもクラシック音楽としては否定的なニュアンスになりそうな、「硬い」「金属質」「機械」「メカニカル」みたいな表現になってしまうのがもどかしい。アプローチとしても、演奏としても、こういう言葉で表したくなって、かつ、面白い、いい演奏なんですけれどもね。 ブロムシュテットがこういうアプローチをするというのは意外ではあったのですが、でも、考えてみると、響きとしては硬質ではあるけれど、歌ってない訳ではないし、あるいは今のN響とやる音楽がこうなったのかな、とも思ったり。
2021年10月24日
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エディタ・グルベローヴァが亡くなったそうです.......https://www.spiegel.de/kultur/musik/sopranistin-edita-gruberova-ist-tot-a-1b06dad6-603d-4a14-8069-b2ef18902a3chttps://www.jiji.com/jc/article?k=2021101901242 もうオペラ観に行くのやめてもいいかな.........というくらいの気分であります......... Opernhaus Zuerichの追悼記事。初めて聞いたのは、ここで、アーノンクール指揮の後宮でした.... その後も何度かここで聞きましたっけ。https://www.opernhaus.ch/edita-gruberova/ ウィーン国立歌劇場。ウィーンでは観たことないんですよね。来日公演では観てるけれども。https://www.wiener-staatsoper.at/die-staatsoper/medien/detail/news/die-wiener-staatsoper-trauert-um-ks-edita-gruberova/ バイエルンは特に追悼は出していませんでした..... アライサを相手にルチアを歌ったのを聞きましたっけ。https://www.staatsoper.de/en/biographies/gruberova-edita グルベローヴァは凄かったのは間違いないのだけれども、本当に凄かったのは、齢を重ねて尚進んでいったことなんじゃないかと思います。私が初めて聞いた時点でもう40代半ばでしたが、そこからでもグルベローヴァは進んでいました。その後10年くらいは進化といっても良かったくらいなんじゃないかと。2000年あたりを過ぎてからは、進化、というには難しい面もあったと思うけれども、それでも尚グルベローヴァは変わり続け、歌い続けてました。その時、その時で、ベストパフォーマンスを目指し、しかもそれが決してただ落ちていくだけのものではなく。70にして未だ世界最高のソプラノ、ではありました。勿論もう若い頃の声ではなく、その意味で姥桜ではあったけれども、それと引き換えというのとは違うけれど、それでもなお贔屓目でなく聞くに値する歌唱が聞けるソプラノでした。 このブログでは、もう、晩年の頃からしか書いてはいないんですよね.... 2007年4月。この年は、大阪で歌曲中心のプログラムを歌っていたのでした。グルベローヴァでまとまって歌曲を聞いたのは、これが最初で最後だったかも知れないなぁ....(3つ目) 普通、オペラ歌ってた人でも、齢を重ねる毎に声が衰え始めると、リサイタルでは歌曲なんかを歌うようになったりするもので、しかも、グルベローヴァの場合はやはり幹がしっかりしているから、もっと歌曲を歌って欲しかったな、とは思うんですけれどもね。それももう叶わなくなってしまいました。https://plaza.rakuten.co.jp/verdi/diary/200704010000/https://plaza.rakuten.co.jp/verdi/diary/200704060000/https://plaza.rakuten.co.jp/verdi/diary/200704150000/ 2008年秋は出張とどっかぶりしてロベルト・デヴリューは行けず..... リサイタルの点が辛いですね。でも、この頃が、ある意味一番苦しかったんじゃないかな。https://plaza.rakuten.co.jp/verdi/diary/200811010000/https://plaza.rakuten.co.jp/verdi/diary/200811280000/ 2011年秋。東日本大震災の後、来日公演がキャンセルされたりしなかったりした中で、バイエルンの引越し公演にロベルト・デヴリューで来てくれました。そしてサントリーホールでのリサイタル。1階の隅、後ろの方で聞いてたんですけれども、ルチアが圧倒的だったのを今更ながら「そうか、この時だったか」と思い出しました。https://plaza.rakuten.co.jp/verdi/diary/201109230000/https://plaza.rakuten.co.jp/verdi/diary/201110020000/https://plaza.rakuten.co.jp/verdi/diary/201110100000/ 2012年秋。ウィーン国立歌劇場引越し公演でのアンナ・ボレーナ。これが最後の来日公演という触れ込みでした。(by NBS) この年、ああ、もう神様ではないのだなぁ、としみじみ思ったのでしたっけ。https://plaza.rakuten.co.jp/verdi/diary/201210270000/https://plaza.rakuten.co.jp/verdi/diary/201211010000/ 2016年秋。確かこの間は来日はなかったんじゃないかと思います。その間、こちらはこれが最後かもと思いながらミュンヘンまで弾丸で聞きに行ったこともあったっけ。この年、NBSのくびきを脱して、プラハ国立歌劇場の引越し公演に出演でやってきたのでした。この年は本当に最後だろうと思いながら、結局6公演行っていたのでした。この年の最後の川口でのリサイタルが、晩年に聞いた中では最高だったかも知れないなと思います。この年、サイン貰いに行ったのだよな。もう、神様ではないからな、と思って。https://plaza.rakuten.co.jp/verdi/diary/201610310000/https://plaza.rakuten.co.jp/verdi/diary/201611140000/ 2017年秋。ハンガリー国立歌劇場の引越し公演に帯同して、なんとまぁルチアと、あとはリサイタル。やはり前年の川口ほどではなかったかなと。https://plaza.rakuten.co.jp/verdi/diary/201710280000/https://plaza.rakuten.co.jp/verdi/diary/201710280000/https://plaza.rakuten.co.jp/verdi/diary/201711100000/https://plaza.rakuten.co.jp/verdi/diary/201711180000/ そして、2018年秋。結局この年が最後になりました。ブログで書いたのは1公演だけ、大宮で。その後、10/24にミューザ川崎、10/28にサントリーで聞いたのが最後になりました。覚えているのは、大宮とミューザだなぁ。だから、個人的には、サントリーでも聞いているのだけれども、ミューザが最後のイメージです。サントリーは大宮と同じプロで、大宮の時より良かったとか思ったらしいのだけれど、あまり覚えていないです。記録では、川崎はピアノ伴奏で、ヘンデルの「ジュリオ・チェザーレ」から、R.シュトラウスの歌曲5曲、J.シュトラウスの「春の声」、Una voce poco fa, "La Straniera"、「ハムレット」から、アンコールに蝶々夫人、カディスの娘たち、アデーレのアリア。https://plaza.rakuten.co.jp/verdi/diary/201810210000/ 一番、歌唱として強く印象が残っているのは、やっぱり、2016年の川口だったかなぁ。 改めてブログを見返しながら、色々と思うことは尽きません。自分の場合、オペラを聴き始めたのもグルベローヴァの「狂乱の場」を録音で聞いてからですから、オペラを聞くのとグルベローヴァを聞くのはほぼ同義語だったわけですし。 これからどうしようかな、とか思いながら、書いています。 録音もいろいろあって、「狂乱の場」と題したアリア州は、今は入手出来なくなっていますけれども、名盤中の名盤だったと思います。1980年頃の録音。恐らくはグルベローヴァが油が乗り切る前の頃だったのではないかと。1980年代末頃がベストだったのでは、と言う人は少なくないのですが、確かにそうだったのかも知れません。ただ、録音としては、個人的には、そのもう少し後、1990年代だったと思うのですが、その頃に録音されたR.シュトラウスの歌曲集が一番好きです。グルベローヴァといえば超絶技巧のコロラトューラで、高音のアクートを決めるイメージがあるけれど、それは確かにその通りで、コンスタンツェもルチアもノルマもそういう路線ではあり、一方でアデーレみたいなものもやる、華やかなイメージが先行するように思うけれど、でも、その根幹にはやはり歌のうまさというのがあって、それはやはり他に比しても圧倒的なものだったのだと思います。そのしっかりした歌のうまさがあったから、後々まで、声が衰えても、歌い続けられたのだと思います。それが一番シンプルに直接的に出ているのが、思いの外少ないこのR.シュトラウスの歌曲集だと思います。本当は、もっともっと歌曲の録音を残して欲しかったな、と思わずにはいられません。けれども、それはもう詮ないこと。今に残る録音をこれからも聴き続けていくことでしょう。 ありがとう。安らかに。
2021年10月20日
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https://www.spiegel.de/kultur/musik/sopranistin-edita-gruberova-ist-tot-a-1b06dad6-603d-4a14-8069-b2ef18902a3c独・Spiegel報
2021年10月19日
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東京芸術劇場 18:00〜 3階左手 ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.77 <独奏アンコール> バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番 〜 ルール ニールセン:交響曲第5番 op.50 ヴァイオリン:レオニダス・カヴァコス NHK交響楽団 指揮:ヘルベルト・ブロムシュテット N響は、いや、N響に限らず、日本のオケはきちんとした常任と心中するスタイルを嫌っていて、特に在京オケで年の半分くらい振るような人はいません。昔の新日のアルミンクがそれに近かったけど、ねぇ.......アルミンク追い出してからガタガタになったしね。 まぁ、そんな訳で、N響も常任を置いていると言いながら、基本客演ばかりです。で、口の悪いことを言わせて貰うと、N響で10年5回くらい客演をやると鬼籍に入ってるんじゃないかしらという.....サヴァリッシュとかはいいんですけどね、ホルスト・シュタインとか、ネッロ・サンティとか、アンドレ・プレヴィンとか........つまり、N響って、あの、デスノートなんじゃ............ まぁ、真面目な話、N響は年寄り指揮者が好きなのよね、ってことだと思うんですけれどね。 そんなわけで、ちょっと縁起でもないですが、今N響のお気に入り年寄りはブロムシュテットってことなんでしょう。まぁ、こちらもそれ目当てで聞きに行ってるんだから偉そうな事は言えませんが。それにブロムシュテットはもう何年N響に来てるんだというのもあるし。 いや全くこの環境下でよく来たものです。なんでも感染対策ということで、来日組の指揮者と独奏者は最初に入場。で、演奏後に最後に退場。なるほど.......まぁ、理に適っていると言えば適ってるのか。 最初はブラームスのヴァイオリン協奏曲なのですが......やはり、私、この曲苦手というか、得てではないのですよね。まぁ、それはこちらの問題でしょうがないんだけれど.... この間オーチャード定期でも感じたのですが、やはり、N響がいまいちなんですよね。CDで聞いてるみたいというか、響きが平面的なんですよ。冒頭、オケが結構な強奏でガツンと出て来た時は「おおっ」と思ったんだけれど、曲が苦手というのもあるにせよ、なんだかのっぺりとした感じで。非常に感覚的な話ですが、なんというか、電子レンジで温めたピザを食べてるような感じで。オーブンレンジで焼いたんじゃなくて、レンチン。焼けばオーブンレンジでもピザ生地の周りはそれなりにカリッと焼けるし、チーズにも焦げ目が付くし、要はそれなりに味や食感にメリハリは付く。本格石窯焼きの専門店のピザとお家でオーブンレンジで焼くのとではそりゃ違うにしても、違うなりに出せるものがあると思うんですよね。それにあの冷蔵ピザをオーブンレンジで焼くのってお手軽でそれなりに美味しくて私実は好きだったり........いやそうじゃなくて。まぁ、要は、生地にもチーズにも焼け目の付かない、電子レンジ機能で温めただけのメリハリのない感じだなぁと。 確かにこの曲は、オケとしてはある意味難しい面のある曲かも知れません。交響曲みたいな響きを備えながら、一番美味しいところはあくまで独奏に持って行かれるといったような。でも、だからってこうなるというものでもないと思うんですけれどね。 独奏ヴァイオリンに罪は無いと思います。なにしろ苦手な曲なのでアレですが、アンコールのバッハはとてもよかったし、ヴァイオリンは良かったんだと思いますよ。 後半はニールセン。私はこの曲聞いたことなかったと思うのですが、思いの外モダンな曲。標題音楽ではないし、直接何かを描写しているわけでは無いけれど、第一次大戦後に書かれた曲ということを思うと、小太鼓のマーチのようなリズムは、やはり戦争を想起させるものがありますし、そういう面も含めてショスタコーヴィチを思わせるところもあり。でも、ショスタコーヴィチのようなある種の不健全さというものはあまり感じない。これが全体主義を知るものと知らぬものの差なのか、と思わなくもない。 音楽的には、各声部の対比がはっきりしていて、決して単純明快では無いけれど見通しのいい音楽です。オーケストラとしてはこちらの方が良かったんじゃないかと思います。特に、後半では管楽器がかなり頑張るのだけれど、この管が今日は結構よろしくて、いい出来に仕上がっていたと思います。弦楽器はというと、各声部の対比という面ではそれなりに立ってはいました。これはそこそこ出来ていた。けれど、それでも、やっぱり響きが、ちょっとね。平面的なんですよね。 オーチャードの時も思ったのだけれど、立体的に響いてこないんですよね。ホールを鳴らせてないというか。勿論ブラームスの冒頭のように、音は出るんですよ。でも、各声部がきちんと対比しているのを聞かせながら、同時にきちんとホールに音が満ちるかというと、全然音が上がってこない感じなんですよね。 オケが対向配置だったり、ブラームスは1,2ヴァイオリンが6プルトで同数だったり、とか、比較的色々「普段と違う」部分はあったと思うけれど、これはまぁそういう問題じゃないんだと思います。 ブロムシュテットの問題なのではないと思いますよ。上述の通り、ニールセンはかなり面白い演奏には仕上がっていたし。でも、弦は、どうもねぇ。元々のN響の問題だと思います。NHKホールで一昨年までとか聞いてた時は、ホールが広すぎて響き切らない、という事はあっても、そんなに「平面的」といった印象は持ったことなかったと思います。なんだろう。音は大きくなってるかも知れないけれど、響いてこないというような。 それとも、今はこういうのがいいのかしら?
2021年10月17日
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新国立劇場 14:00〜 4階右手 ロッシーニ:チェネレントラ ドン・ラミーロ:ルネ・バルベラ ダンディーニ:上江隼人 ドン・マニフィコ:アレッサンドロ・コルベッリ アンジェリーナ:脇園彩 アリドーロ:ガブリエーレ・サゴーナ クロリンダ:高橋董子 ティースベ:齋藤純子 新国立劇場合唱団 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:城谷正博 演出:粟國淳 今シーズンの開幕公演が新演出で「チェネレントラ」とは、なかなかに気合の入ったことで、といったところで期待して参りました。思えば、今年4月に夜啼きうぐいすとイオランタのダブルビルを観てから、色々あって結局来れてませんでしたから。藤原の清教徒もすっ飛ばしてしまったので、オペラは半年振りくらいですかね。 チェネレントラは結構観ているつもりで、実はあまり観てないのに改めて気付きました。それでも観ている印象が強いのは、12年前のカサロヴァとシラグーザの出た、ポネル演出の舞台の印象が強いからだろうと。 https://plaza.rakuten.co.jp/verdi/diary/200906070000/ https://plaza.rakuten.co.jp/verdi/diary/200906120000/ 加えて、その前には、藤原歌劇団で結構スタイリッシュな舞台のチェネレントラを観た覚えがあります。確認したら、2005年だったらしいです。このブログ始める前ですね。 加えて、チェネレントラは録音や映像で見聞きしているので、というのもあります。他のオペラもそうだけれども、この曲の場合はベルガンサのやバルトリのや、印象深いいい録音に映像が揃ってますので、実演を観ている回数に比して印象は深い、というのはあります。 緊急事態宣言も明けてるということで、ほぼ満員のお客さん。まぁ、いい悪いはあるけれど、賑やかしいのはそれなりにいいことではあるのかな。 で、公演はというと.......ちょっとねぇ。 結論から言うと、ドン・ラミーロ役のルネ・バルベラ、この人アメリカ生まれらしいですが、彼の一人勝ちと言ったところでしょうか。あとはちょっと。と言うより、はっきり言って彼に救われたというのが実情かなと。他は、まぁ、全滅とまでは言わないけれど。 バルベラは2幕のアリアもこなして、アンコールまでやらかして、これはまぁ良かった。全体に概ね安定してましたし。最初から、ああ、こいつだけちょっと違うな、という感じの声でしたからね。まぁ、それはいいんだ。 問題はそれ以外。 アンジェリーナ即ち外題役の脇園彩は、まぁ、悪い歌手ではないのでしょう。悪い歌唱ではなかったとは思います。ただ.......ピンで歌ってる時はいいんですけれどね。或いは静かに二重唱くらいで歌ってる時は。でも、重唱に入ってオケが鳴り出すと、馬群に沈むんですよね。いい声だと思いますよ。でも、少なくとも今日聞いている限りでは、埋もれないだけのものがない。「華」とでもいうのでしょうか。いや、この人に「華」がないと言ってるのではありません。ただ、舞台上でなるほどと思わせるだけの存在感を持つ、という意味で、歌に欲しい「華」が、ね..... 言うまでもなくグルベローヴァみたいな人はもとより、そこまで言わずとも、そういう華を持った歌を歌える人は居たし、今だって居ると思います。日本人だって、今回クロリンダを歌った高橋董子なんかはそういう歌手だったし、そこが好きだったのですよ。今でもファンですけれども。まぁ、しかし、なにしろクロリンダだからねぇ....それでも、クロリンダなんかと重唱になって馬群に沈むのでは...... アレッサンドロ・コルベッリは、名高くはあるけれど、でも、正直、いいとは思いませんでした。他も、「ああ、この人はいいな」と思った人は、正直言って...... 必要以上に点を辛くしているつもりはないんですけれどね。でもねぇ。これはいいなぁ、と思った瞬間が本当になかったのですよ。 演出。ある意味、こちらの方が問題かも知れません。 一言で言うと、何をしたいのか、本当に分からなかった。舞台として成立してない、と言っていいのかも。よくないタイプの現代的演出、と言っていいと思います。何がよくないかというと、必然性が感じられない。そして、その必然性がないにも関わらず現代化した理由が、多分、作品への信頼の欠如に依る気がするのです。 舞台を映画業界にして、王子即ち映画スター、ということになってるようです。まぁ、その辺はまだいい。ただ、後でプログラムを読んでも、「映画界」に行く必然性が分からない。昔の、ポネルの演出にせよ藤原の演出にせよ、貧乏貴族の家と王子の宮殿という設定は変えていません。それを敢えて変えながら、どうも、その理由は、「魔力」という言い方をしているものの、要はそのまんまでは飲み込めなかったから、という気がするのですね。はっきり書いてないけれど。 飲み込めないから書き換える。演出家としてはそれもありなのかも知れません。しかしそれならそれで、ストーリーが飲み込めないのか、というと、どうもそうではない。で、舞台設定だけ変えた。この時点で私はもうかなりアレなんですけれども。 でも、本当に問題なのは、その演出の結果がとっ散らかってることなんですね。一番の問題は、舞台が映画スタジオのようになっているのだけれど、今舞台上で演じられている場面を、撮影したりしてなかったりするんですね。この、「舞台で演じられていることを映画/芝居にする」というのは、要はその舞台そのものをメタ化する効果が出てしまうので、劇薬である訳です。はっきり言って迂闊に使うと危険。で、実に見事に迂闊に使ってしまうんですよ。その結果、我々は舞台上で行われていることが「芝居」なのか「現実」なのか分からなくなる。しかも、どうみても、「分からなくなる」ことを目的にしているようには見えないんですよ。個人的には、この時点で、演出として破綻していると思います。 もう一つ、初めの方で気になって以後もうどうしようもなく演出に入れなくなった原因があります。一幕で、ひとしきり騒ぎの後で、使用人の身をやつした王子がアンジェリーナと出会う場面。アンジェリーナは驚いて持っていた器を落として割ってしまう。問題はその後の動き。ちょっとくどいけれど説明します。 舞台は撮影スタジオの見立てなのか、ともあれ、割と物のない状態で、ただ、如何にも「移動式のセットの書割」みたいな感じで、大きな扉が置かれています。但し、書割みたいなものなので、その両脇は素通しの「扉だけの扉」なんですね。で、舞台奥からこちらに向かってこの扉を通ってアンジェリーナが出て来て、王子と出っくわしてびっくりして器を取り落とす。器は割れる。アンジェリーナはやり取りしながら器を片付けて、扉の向こうに持って行く。多分それを扉の陰にでも置く。その後、アンジェリーナは、扉をもう一度こちらに入って来るべきです。舞台の常識として、その書割の「扉だけの扉」を通るという行為を通して、それを扉と見立てるなら、扉を通ってこちらに来るべき。ところが、アンジェリーナはそうせずに、この「扉」の脇を通ってこちらに来てしまう。 これは、「扉」の見立てを否定している訳です。先述した通り、舞台上で撮影したり(しなかったり)しているので、既に、この舞台はメタ化仕掛かっていて、不安定なんですね。そこで、わざわざ芝居の約束事を見せながら、それを壊してみせる。そのつもりがなくても、見立てを壊した時点で、かなり危うい訳です。ところがそこに何も必然性がない。折角見立てを作って壊して見せたのに、意味がない。後にも続かない。はっきり言って、見る側にとっては、特にある程度舞台を見慣れている人間なら尚の事、物凄く引っ掛かるんですね。 もうね、ツッコミどころ満載でキリがないのでこれ以上列挙しませんが、かなり不用意な演出です。だけれど、一番引っ掛かるのは、それで何か言いたいことがあるのかというと、全然感じられないんですよね。思いつきでただ中途半端に映画界に置いてみました、というだけ。それに格別の意味があるでなし、それによって何かが付加された訳でも整理された訳でもなんでもない。 ポネルの演出の方が断然優れてます。演出の良い悪いではなく、舞台としてちゃんと出来ているかどうかのレベルで、舞台が成立してないんだもの。比べるのが失礼というもの。 オケは、まぁいいんですけれど、問題は、チェンバロ。あれはフォルテピアノではなくてチェンバロだったと思うのですが。ええと、ロッシーニあたりのオペラですと、まだレチタティーヴォの間や、ソロなり重唱なりの歌の後は、鍵盤楽器で伴奏して進めますね。そのチェンバロ演奏なのだけれども、いや、ひどいとかいうのではないのですけれども、要所要所で細かく「誰もが知ってる曲」を入れるんですね。「セヴィリヤの理髪師」だったり、ゴールドベルク変奏曲のアリアだったり、二幕の嵐の後のところではベートーヴェンの「田園」の第5楽章のフレーズだったり。なんで不用意にそういうもの入れちゃうかな。 「知ってる曲」がそういうところにヒョイっと入ってくると、まぁ、喜ぶんでしょうね、お客は。モーツァルトがドン・ジョヴァンニの地獄落ち直前の食事の音楽でフィガロの「もう飛ぶまいぞこの蝶々」を入れたような。でも、あれは、その当時作曲者自身が入れたからある意味洒落ている訳で。なんかねぇ、安っぽいんですよ。こういうの。外国人が日本に来て「コニーチワァ!」みたいな感じで日本語喋ってみせる的な安っぽさ。 そう。今日の公演、全般に言って、「安っぽい」「雑」なんですよ。決してそういうつもりではないのかも知れません。ただ、申し訳ないけれど、あと一歩の詰めがどうしても甘い。埋没しないもう一歩前に出る歌唱、お客にどう見えるか考えて、どうしてこうするのか考え抜いた舞台、不用意に知ってるフレーズを並べない即興演奏、そういうところをきちんと詰めることをしないと。やり切ってないんですよね。こちら側から見ると。出来ないのは仕方ないんだけれど、やろうとしてない感じ。それが安っぽく見えてしまう。 申し訳ないけれど、劣化しているな、と感じました。なんでこうなっちゃったんだろう?という。 12年前に観たチェネレントラが恐ろしく卓越したものであったとは言わないのだけれども、少なくともそこには、アラはあってもそういう意味での「安っぽさ」は感じたことはあまりなかったと思います。今でも頑張ってるところはあるとは思うのだけれど、そういう雑さ、安っぽさをそのままにして安住してる感があるのかな。いいじゃん、これで。こんなもんだろう?考えたり、煮詰めたりするの、面倒だし。そんな感じ。 この10年くらいで、特に震災以降、考えルことをやめて、安住することで済ませてきたものって色々あると思うんですよね。それはもう社会の問題みたいなことになってしまう気はするんだけれど、「雑さ」「安っぽさ」の依って来たるところ、それをそのままスルーしてしまう、というのが、劣化を招いて来たのだとは思うし、いい加減「それはダメなんだ」って言わないとダメなんじゃないかな。やっぱりそうでないと、そこに未来は無いですよ。
2021年10月10日
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オーチャードホール 3階正面 15:30〜 ショスタコーヴィチ:ロシアとキルギス民謡の主題による序曲 op.115 グリエール:ホルン協奏曲変ロ長調 op.91 リムスキー=コルサコフ:交響組曲「シェヘラザード」 <アンコール> チャイコフスキー:「くるみ割り人形」〜 ロシアの踊り (トレパック) ホルン:福川伸陽 NHK交響楽団 指揮:井上道義 新型コロナ感染者数は足元では都内で200人程度になったということで、緊急事態宣言は9/30で解除、蔓延防止等重点措置もせず、というのは優れて政治的な賭けなんでしょうねぇ。減ってるとはいえまだまだその前の波の最初の頃とそう違わないのだし。それでも、繁華街には人の波、道路は渋滞。そこそこおっかなびっくりという感じではあるけれど、皆出始めてはいるのでしょう。人のことは言えないし。でも、すぐ増えるよなぁ、このパターンは..... N響の定期公演は、一応ずっとやってた態ではありますが、去年のシーズンは一旦全面払い戻しの上個別に再発売、ということで、めんどくさいし付き合いませんでした。それでも今年は買ってあったので、予定通り公演はあるぞということで。但し、元々ホルンに予定されていたラデク・バボラークは、入国制限の都合上来日出来ず、代役となりました。N響の人だそうです。まぁ、しょうがないよね。 しかし、これから日本はどうするんでしょうね。今月のブロムシュテットは来日する予定らしいし、今後もいろいろ来る予定になっているらしいけれど、本当に来られるのか。一方で、欧州あたりでは予防接種記録を条件に隔離不要とする動きが増えてますが、日本は相変わらず入国時隔離。それも、14日間隔離が10日に短縮されたのがニュースになるくらい。 確かに新型コロナは海外から来たものではあるけれど、相変わらず鎖国すれば大丈夫、って発想なのはちょっとねぇ。あまりにもドメスティックというか内弁慶な発想に呆れてしまうのではあります。だって、長期隔離を要求しておきながら、罰則も強制措置も何もないんだからねぇ....来年の夏頃にはどうなってるんだろう...... なにより、このくらいの感染状況で、でも確かに減ったのに、皆挙って「理由はよく分からない」と言ってる訳です。でも解除はする。でも海外からは閉ざしておく。じゃぁ、何を基準に判断しているのか?これが全く分からない。いや、判断基準が明確に出来ません、というなら、それでも、まぁよくないはよくないにせよいいんだけれど、どう判断してるのか説明出来ないってのがダメなんだと思うんですよね。賭けなら賭けで「賭けです」って言えよ、って話なんだけれども。そんなこと言えない?じゃぁ、やるなよと。どう考えて、どう判断して、どういうのがいいんだ、という考えを明確にして提示しろ、ってことだと思うんですけれどね。 外国行かないからいい、じゃないですからね。こういうものは当事国の相互対等というのが基本だから、少なくとも落ち着いたつもりになってるEU圏、特に西側中心国との関係では、こっちが制限課すなら向こうも課したままにするというものだし。 閑話休題。 そんな訳で自分としては2年振りくらいなんじゃないかというN響オーチャード定期です。 で......そうねぇ.............まぁ、曲目と指揮者から大して期待はしてないんだけれども.........悪くはなかったんだけれどもねぇ........ だったら行くなとは言われるだろうし、それで自分も行ってるんだから何言ってんだという話ではあるけれど、やっぱり、N響って客筋がいまいちなんですよね。なんか、悪い意味でスレてるんですよね。それと、やっぱり、変な客が多い。 満席に近い状態だったので、それはいいんですが、なんか全体に落ち着きがない。それも、なんというか、「一見さんのお客が多くて慣れてないから」というよりは、集中力がない感じなんですよね。コンサート慣れし過ぎて雑に向き合ってるというか。始まってから上着脱いだりとか、物音立てたりとか、当たり前のつもりでやってる感じ。一方で、例えば一曲目のショスタコーヴィチが終わっての拍手は極めて冷淡で、指揮者を呼び戻すことなく終わり。これ、確かに、N響の定期公演ではよくある光景です。でも、率直に言うと、この演奏がこの日多分一番良かったんじゃないかと思う程度にはいい演奏だったんですけれどね。なんか、「一曲目は前座だからそんなに盛り上がらない」という教条主義的行動原理に従って動いてる感じで、正直言って気持ち悪い。 基本N響の公演は定期に一回券で聞きに行くビジターなので、NHKホールあたりでは我慢してますけれど、今日はそれなりにいい演奏だっただけに気持ち悪かった。 演奏の方は、そういう意味では、悪くなかったと思います。特に最初のショスタコーヴィチは、10分ほどの小曲だけれども、井上道義十八番のショスタコーヴィチであるだけに、緊張感のあるいい演奏でした。勝手な感想だけれど、ショスタコーヴィチというのはやはり異形のものを無理やり押し込んで音楽を作ってた人のような気がします。この場合の異形というのは、政治的にどうとかこうとかいうことではなく(そういうものがあるのは事実だろうけれど)もっともっと内面的なもの。そういうのを結構ガンガン表に出してたのがムツェンスク郡のマクベス夫人だとすれば、押さえ込んでたものがたまらず噴き出してるのが交響曲14番とかなんですかね。この曲は、押し込んでるんだけれど、押し入れから異形のものが見え隠れしてるというか。吾妻ひでおの漫画みたいだな。 グリエールのホルン協奏曲は、1950年代の作曲なのにウルトラロマンティックという感じで、まぁ、なんでしょうね。ショスタコーヴィチから異形なものを抜いたらこんな感じなのかな。独奏は不可はなく、まぁ、正直、退屈といえば退屈でした。申し訳ないけれど。演奏者が悪いわけではないだろうとは思いますけれどね。これを緊張感を保って面白く聞かせるのは大変だろう。そういう意味では、別の意味での緊張感もなかったのは、まぁ、褒めていいんじゃないでしょうか。褒めてることにならんという話もあるけれど。 後半は、シェヘラザード。まぁ、ねぇ。率直に言って、定演で出てくるのでない限り、自分から積極的に聞きに行こうとは思わない曲ではあります。 これはヴァイオリン独奏を担う、コンサートマスターの白井圭が上手でした。これは良かったんじゃないかな。 ただ、全体的に言うと、どうだろうなぁ......「悪くない演奏」ではあったんだとは思うんですけれどね。 前半でもその傾向はあったんだけれど、後半で特に感じたのですが、「N響の演奏」として、どうも平版に感じてしまった面が少なくないのです。N響は流石に音圧は出せるんですね。ただ、表現力というか、生演奏なのに、CDで聞いてる感が強いのです。これ、新国立劇場なんかで聞いててそう思うことは少なくなくて、それは時にあることなのだけれど、要は、「音は立派に聞こえるけれど、表現が乏しくて、生演奏で聴いてるというよりスピーカーから聞いてる」感に近いのです。 無論PA入れてるということではないのだろうと思っていて、音が全然立体的に響いてこないんですね。これ、例えば同じオーチャードで東フィルを聞いている時だと、「音圧が足りてないなー」とか「もうちょっと表現のしようがあるだろう」みたいに思うことはあるけれど、「CDみたいだ」とはあまり思わないのですよね。特に、響きに関しては、この間のチョン・ミュンフンのブラームスの時にも書いたけれど、オーチャードで不満を持つことはなくて。ちゃんと、オーケストラの音が、響きと共に、空間で鳴ってるのがわかるんですよね。 なんだろうな、これは...... オーチャードみたいなところで、しかもこっちが3階にいるような場合、その上シェヘラザードみたいな色彩的にも華やかな曲であれば尚の事もっと立体的で複雑な響きになると思うし、弦だってもっと響くと思うんですよ。 こういう、CDみたいに平版に聞こえる方が、本当はいい演奏なんでしょうかね?こうなるのは、N響だからなのか?それとも井上道義だからなのか? よく分からないんだけれど、これがN響サウンドということなのでしょうか?うーむ。
2021年10月03日
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