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『不言不語』尾崎紅葉(岩波文庫) いつの間にか、岩波文庫の緑帯を集めるのが趣味のようになっています。 緑帯というのは、『岩波文庫解説総目録』によるところの、「日本文学(近代・現代)」の分野の本でありますね。 ただ厳密に言えば、私は集めるのが趣味なのではなくて、文庫本を主として「日本近代文学史の作品」(いわゆる「純文学作品」であります)を読もうとすれば、特に明治・大正期あたりのものはこの文庫に頼らざるを得ず、それで一冊一冊と買っていくうちにある程度の冊数になり、本棚もクリーム色と緑色のツートンカラーの背表紙が一定の陣地を占めるようになり、そうなってくると、こちらもその陣地をさらに広げてやりたくなってきたという、そういう次第であります。 だから、コレクションというのとは、少し違うかも知れませんね。 ただ、そんなことをあれこれぼんやり思いながら、本棚の岩波文庫の背表紙を眺めていますと、なかなか楽しいいろんな事に気が付いたりします。 それは、例えば漱石の岩波文庫についてであります。 そもそも岩波書店の創業者・岩波茂雄氏は漱石の弟子筋であり、岩波書店の第一番目に発行された本は、言わずと知れた漱石の『こころ』であります。(しかも、出版のための代金は漱石自身が出したとか。) だから、現在に至るも、漱石の作品は岩波文庫にたくさん含まれているんですね。 ちょっと、本筋から離れる話ですが(まー、「本筋」があるとして、ですが)、以前本ブログにて、岩波文庫の「チョイス・ポリシー」がよく分からないと言う趣旨のことを書いたことがありました。 それは今でもそのような気もするし、しかし、だいぶ分かってきたかなと言う気もするのですが、でも、岩波文庫には「愛されている」作家と、あまり「愛されていない」作家があるのはたぶん間違いないところではないかと、そんな風に感じたりもします。 愛されている作家というのは、漱石を別格とすれば、その次は泉鏡花ではないでしょうか。鏡花作品はとてもたくさん入っています。 また、やはり漱石山脈の人は全般に「愛され」気味であるようですが(鈴木三重吉とか森田草平なんかが典型な気がします)、鏡花の次は、芥川ではないかと私は感じます。 それは、面白くて売れる作家だからじゃないかとお考えのお方もございましょうが、私は、じゃあ、あれだけ芥川があってなぜ谷崎潤一郎が少ない、と思ってしまいます。 それにやはり、森鴎外は、漱石と比較すると相対的にかつ圧倒的に少ないとも思います。(漱石26冊、鴎外12冊です。) で、さて、そこで今回の読書報告作品の筆者、尾崎紅葉であります。 日本文学史の教科書にある記述で、紅葉と並び称される作家はたぶん幸田露伴でありますが、この二者につきまして岩波文庫に収録されている冊数を、それぞれ上記の『岩波文庫解説総目録』で調べるとこうなります。 尾崎紅葉7冊 幸田露伴17冊 うーん、これまた露伴の圧勝でありますなー。 私自身、冊数を勘定してちょっと驚いてしまいました。 これで考えると、紅葉は岩波文庫に「愛されていない」作家なんでしょうか。 ただ、この二人は作家としての実働年数が全く違いますから(没年は紅葉38歳、露伴は80歳であります)、当然といえば当然ではありましょうが。 そんな紅葉ですが、さすがに岩波文庫は彼の代表作は網羅しています。文庫に所収の7作をちょっと書いてみますね。 『二人比丘尼色懺悔』『伽羅枕』『二人女房』『三人妻』 『不言不語』『多情多恨』『金色夜叉』 この中でおそらく最も知名度の低いのは、今回取り上げた『不言不語』ではないかと思います。そして、事実今日に至ってなお一般的な読書に耐えられるかと考えると、やはりやや疑問符が付くのではないかと思うのですが、でも作品の趣向そのものは、現在でも大いに生きていると思います。 その趣向とは、いわゆる「謎」の設定であります。 小説に謎を仕掛け、それを動力部にしながら読ませていく。つまり推理小説仕立てでありますが、この手法のとても巧みであったのは漱石でありますね。(『こころ』などは、まさにそんな作品です。) 本作もそれに劣らず、というより『こころ』の展開以上に、推理小説仕立てに進んでいきますが、ただ、結局それだけに終わっているとも思われ、そこが『こころ』と評価の袂を分かつ部分だと思います。 それは、例えば『こころ』には「ネタばれ」がなくて、本作には「ネタばれ」があると、そんな風に言うことができるかも知れません。 そもそも純文学作品には「ネタばれ」なんかはないと、私は考えます。ストーリーが分かってしまったら面白くない作品は、純文学ではありえません。 そんな意味でいいますと、本作は決して面白くない作品ではないのですが、やはり時代的限界が感じられるのは、如何ともし難いところでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.10.29
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『震える舌』三木卓(新潮文庫) 近代日本文学において、病気というテーマは、結構たくさん書かれているものでありますね。(世界文学においてもそうなのかどうかは、わたくし寡聞にして、って寡聞なことが多すぎるんですけどー、存じ上げません。ごめんなさい。) 描かれる形は、まー、常識的に整理して、二種類ですかね。 (1)自己の病気 (2)他者の病気 また、別の部立てもできそうな気もします。 (a)肉体の病気 (b)精神の病気 さらにこの四つは、順列組み合わせができそうですね。ついでに、この組み合わせに沿って、私が思いついた小説作品をひとつずつあてはめてみますね。 (1-a)『いのちの初夜』北條民雄 (1-b)『狂人日記』色川武大 (2-a)『風立ちぬ』堀辰雄 (2-b)『死の棘』島尾敏雄 うーん、名作が並びましたねー。それに、まだまだこのほかにも一杯作品を挙げることができそうですしね。例えば志賀直哉の『和解』とか、他の病妻ものの小説もいっぱいありそうですし。 と、そんな日本文学と病気の蜜月関係でありますが、さすがに近年になりますと、そんな、何といいますか、ちょっと余裕をかましたような作品ばかりではありません。(って、そんな見方は、かなりバイアス掛かっていますかねー。) 本作もそんな作品です。 一方で、小説と病気の関係は、ホラーとかサスペンスとかのジャンルでもひょっとしたらたくさんの作品がありそうであります。ただ、その分野については、わたくし全く疎いもので、ほとんど存じ上げません。(また「存じ上げません」で、まったく、困ったものですなー。) しかし、今回冒頭の小説を読み始めて、しばらく読み進んだ時の感覚は、ちょうど瀬名秀明氏の『パラサイト・イヴ』を読んでいた時のものととてもよく似ていました。病気がテーマのホラー小説ですね。 特に前半の、平凡な日常生活が一変して、幼い娘が犯されてしまう病気の病名が分かるまでの部分は、極めて巧みなサスペンス仕立てになっており、大いにハラハラと読ませるものであります。 また文体が、無機質的な、カリカリとした硬質な感じのもので、スリリングな展開を大いに盛り上げています。 ちょっと、顰蹙を買いかねない「はしたない」ようなことを書きますが、確か筒井康隆が、カミュの『ペスト』を取り上げて、あれは循環器系の病気だから雰囲気がある。もしも消化器系の病気がテーマだったらああはいかない、ということを書いていたのを思い出します。もちろん私は、筆者の意図通りぎゃははと大笑いしながら、その文を読んだのですが。 今回の病気が、破傷風なんですね。 ……うーん、雰囲気のある病気ですねー。(もちろん、これはギャグであります。すみません。) それにまたこれが、幼い子供が、いたいけな女の子が、罹ってしまうんですね。 これが、つらい。 わたくし、いたずらに馬齢を重ねて参りまして、本当に無駄に年ばかり取ってきましたが、近年、子供がひどい目に遭うような作品(例えば『火垂るの墓』なんか)を見たり読んだりしますと、もうドーーッと涙が出てきてどうしようもない状態になります。 本作も、何度となく泣きました。 実は、だからなんですね、今回の読書報告が、読んだ作品内容とあまりそぐわないような、少し「低回的」な書き方をしているのは。 もうちょっと真正面から書き始めますと、これまたわたくしと致しましては、大変な状態になりかねないのであります。 というわけで、文体的にはストイックな書きぶりと、内容的には、前半のドラマティックでサスペンスな展開と、後半のヒロイックな治療描写が(能勢という女性の主治医がとてもいいです)、それこそカミュの『ペスト』を彷彿とさせるようで、大いに読ませる作品となっていました。 名品であります。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.10.26
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『父と暮せば』井上ひさし(新潮文庫) 先日、本当に久しぶりにお芝居を見てきました。いえ、実は知人よりチケットをいただいたからでありまして、自腹ではないのが恐縮であります。 かつては結構こまめに演劇鑑賞をしていた時期があったんですが(わずかの期間、二、三年くらいですかね。その後私は熱心な演劇鑑賞者からトンずらしました)、最近は戯曲は時々読みますが、舞台鑑賞からはとんとご無沙汰していました。 で、先日鑑賞したお芝居ですが、関西地方をフランチャイズに頑張っている劇団のようでありました。いつでもどこでも、演劇とは若い力だと思いますが、その劇団も多くの若い役者が(特に女性ですよねー)はつらつと大いに頑張っている感じでした。 幽霊、が出てきました。 演劇と幽霊は、しかし、古今東西、梅に鶯、月に群雲(あ、これは違いますか)、ベストカップルになっているように思うのですが、なぜなんでしょうね。 西洋ものでは『ハムレット』の幽霊を筆頭にして多々ありましょうし、もし幽霊だけじゃなく「異界のもの」までその中に加えますと、日本ではやはり泉鏡花ですかねー。 その辺のことに少し関係しそうなことを、本書の「あとがき」に筆者が書いています。 ……ここまでなら、小説にも詩にもなりえますが、戯曲にするには、ここで劇場の機知に登場してもらわなくてはなりません。そこで、じつによく知られた「一人二役」という手法に助けてもらうことにしました。美津江を「いましめる娘」と「願う娘」にまず分ける。そして対立させてドラマをつくる。しかし一人の女優さんが演じ分けるのはたいへんですから、亡くなった者たちの代表として、彼女の父親に「願う娘」を演じてもらおうと思いつきました。べつに云えば、「娘のしあわせを願う父」は、美津江のこころの中の幻なのです。ついでに云えば、「見えない自分が他人の形となって見える」という幻術も、劇場の機知の代表的なものの一つです。 なるほど、言われてみれば当たり前ではありました。 文学作品とは人間の情念を描くものであり、生を語り死を語るものでありましょう。 生と死を、個人の情念を強く含んで語るに最も相応しい存在とは、まさに幽霊なのかも知れません。 そしてもう一点。筆者が「劇場の機知」という言葉で表しているものについて……。 さて実は、わたくし、この本は再読であります。数年前に一度読み、とにかく泣いたという記憶だけが残っていました。今回読みまして、やはり泣きました。 この「原因」は、なんなのでしょうね。なぜ私は泣いちゃうんでしょうか。(そんなモン、人に聞くなよ。) で、わたくし、思うんですが、一つは、本作においては広島弁という形で現れているのですが、科白の音韻が作るリズム感。例えばこんな所。竹 造 木下さんに上げるお土産、明日はじゃこ味噌だけで我慢してちょんだいや。美津江 いろいろ気を使うてくれんさってありがとありました。(ト見るがいない) ……おとったん? おとったん……。 ゆっくりと暗くなる。 「ありがとありました」「おとったん」というフレーズは、この舞台には再三出てくるのですが、この表現の醸し出すまろやかさはどうでしょうか。実に琴線に触れてくる魅力的なものがあるように思います。 そしてもうひとつ、筆者の「あとがき」で見た「演劇の機知」でありますが。美津江 そのうちに煙たい臭いがしてきよった。気がつくと、うちらの髪 の毛が眉毛がチリチリいうて燃えとる……。竹 造 わしをからだで庇うて、おまいは何度となくわしに取りついた火 を消してくれたよのう。……ありがとありました。じゃが、そが あことをしとっちゃ共倒れじゃ。そいじゃけえ、わしは「おまい 逃げい!」いうた。おまいは「いやじゃ」いうて動かん。しばら くは「逃げい」「いやじゃ」の押し問答よのう。美津江 とうとうおとったんは「ちゃんぽんげで決めよう」いいだした。 「わしはグーを出すけえ、かならずおまいに勝てるぞ」いうてな。竹 造 「いっぷく、でっぷく、ちゃんちゃんちゃぶろく、ぬっぱりきり りん、ちゃんぽんげ」(グーを出す)美津江 (グーで応じながら)いつもの手じゃ。竹 造 ちゃんぽんげ(グー)美津江 (グー)見えすいた手じゃ。竹 造 ちゃんぽんげ(グー)美津江 (グー)小さいころからいつもこうじゃ。竹 造 ちゃんぽんげ(グー)美津江 (グー)この手でうちを勝たせてくれんさった。竹 造 ちゃんぽんげ(グー)美津江 (グー)やさしかったおとったん……。 今、書き写していても私は目頭が熱くなってくるのですが、この不条理な、アンチ・リアリズムな、そして心の中に土足でぐいぐいと入り込んでくるような演劇的空間はどうでしょうか。 こんな場面を読んでいるとつくづく、ああ芝居って素晴らしいなと思ってしまいます。 小説は理性に訴えるところが多いので、静かに深いところから感動が訪れるように思います。一方、戯曲の、演劇の魅力は、肉体の疼きのような、生きていることの切なさのような、そして肉体の快楽のような魅力です。 私は情けなくもその魅力に完全に浸ることからトンずらしたのですが、この魅力に取りつかれれば、たとえその結果人生を棒に振ったとしても、決して悔いることはないと思うような、そんなかけがえのない大きな力です。 そんな戯曲の魅力の一端を、今回久しぶりに、私は思い出しました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.10.22
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『戦争で死ねなかったお父さんのために』つかこうへい(新潮文庫) テレビに、『ひらけポンキッキ』という幼児番組がありましたが、今でもあるのかな。なかなか楽しい番組で、私も小さかった息子と娘と一緒によく見ていました。 番組内で歌われていた曲もなかなかおしゃれで、それをまとめたカセットテープを買って(そのころはまだCDじゃなかったのかな)、車で流して子供達と一緒に歌っていました。 楽しい、かつ出来の良いたくさんの曲がありましたが、その中の『かまっておんど』という大竹しのぶさんの歌っていた曲が、私はとても好きでした。 だいたいこんなサビの部分を持つ曲だったように思います。 ♪かまってかまっていっぱいかまって かまってかまってかまってくれなきゃ、 グレちゃうぞ♪ 大竹しのぶさんの、あの少し甘えたような声と歌いぶりが、何ともチャーミングでありました。いやー、なつかしい。 なぜこんな話から始まっているかと言いますと、この曲の作詞者がつかこうへいなんですね。それを知った時私は、なるほどこの歌詞の、大人と子供が混ざり合ったような不思議な魅力は、つかこうへい独特の感性ならではのものだなとすぐに納得できました。 さて『かまっておんど』から、さらに15年くらい(かな?)過去に遡った京都の学生街の喫茶店の話です。 友人と連んで、とにかく毎日のように入った喫茶店の中に貼られてありました、あの和田誠の描く「くわえ煙草の伝兵衛」のポスター。 「衝撃的」と冠される『熱海殺人事件』のポスターですよねー。 演劇青年なるものが、世間にはいらっしゃるようで。 しかし私は文学好きではありましたが、10代後半から20代にかけても、一度も演劇青年であったことはなく(土曜日午後の『吉本新喜劇劇場』も、新喜劇よりは漫才・落語が好きで)、ただ安部公房を読み始めてから、なるほど戯曲というものも面白い物だと考えるようになりました。 そして高校時代、何となくその頃はやりの「アン・グラ芝居」の書き手、寺山修司とか唐十郎とかの戯曲を手に取ってみましたが、そもそもこの手の芝居は、戯曲を手に取っているようじゃダメだったんですよね、直接劇場に行かなければ。 彼らの芝居の魅力は、本来戯曲にはなかったんですね。 そんなにたくさん読んだわけではありませんが、そのころの私にはほぼ何が書かれてあるのか判りませんでした。 そんなわけで私は、現代小劇場のお芝居は、戯曲を読むだけではちっとも面白くないものだという「刷り込み」を、青春時代前期にされてしまいました。 だから、つかこうへいの戯曲を読んだ時は、やはり「衝撃的」でしたね。 とにかく、おもしろかったですから。 私は、何度も読み返し、他の作品も読んで、遅まきながらつかこうへいの舞台も見て、そしてさらに、つかこうへいが影響を受けたと告白している別役実にも移っていって読みました。 この劇作家もまたとっても面白かったです。特に別役実の「づくし」シリーズの文体と発想法には、強烈な影響を受けました。(確か、この独創的文章の正体は何かと、分析し文章にした記憶があります。) ……さてあれから、30年近くが経っていますか。 今回本棚の奥にあった冒頭の文庫本を出してきて、久し振りにまとめて読んでみました。 やはり、というのか、しかし、というのか、青春期に読んでいた時の高揚感はほぼありませんでした。高揚感の記憶があるだけでした。 ただ改めて、少々第三者的に読んでみますと、この一連の芝居台本が全編にわたって、日本語の音韻の巧みさを強く押し出した、実に豊穣な語彙を含んでいることに気づきます。そして突然語られる九州弁の醸し出す豊かな詩情も。部長 (略) 警視総監殿、日本は今大きく病んでおります。この街々の喧噪は一体 何でありましょう。この悲劇の如何ともしがたい健康すぎる生き延び ようは、一体何なのでありましょう。姑息な市民の生き延びように、 不必要な要素を取り去るために、法律を作動させ犯人を仕立て上げる 私は自らの責務を憂えております。時代は薄く夕暮れをひいて、闇の 絶えた街頭に、しのぶ術なくたたずんでおります。明日を味わうよう にして祈っております。はっ、私ですか、ご安心あれ総監殿。私はい ま煙草に火をつけようとしたところであります。 暗転、電話の発信音。 つまり―― 声、はてしなく。 『熱海殺人事件』幕切れのこの長台詞は、本来この4倍ほどの長さを持ち、かつ再演以降は切り取られた部分であるようですが、そんな個所にも、つか氏の言葉の装飾を主眼とした言語感覚の確かさを感じることができそうに思いました。 しかし、若い頃に強烈な影響を受けた(それも流行病のように急激に受けた)作家なり作品なりというものは、その後一定の年月が経っても、なかなか相対化のしにくいものでありますね。 今回の報告で私は、そんなこともよく分かりました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.10.19
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『愛慾・人間萬歳』武者小路実篤(角川文庫) 三つの戯曲の入っている作品集です。 総題の二作と、もう一つは『愛慾』の続編となる『ある画室の主』という戯曲です。というより、この『愛慾』という話は、続編がなければ何とも中途半端な作品に終わっている気がします。どう見ても二作はワンセットです。 なぜ、続編という形で分けたのでしょうね。内容的には完全にひとつの話なんですが、つなげると長すぎると筆者は考えたのかも知れませんね。 昔の作家って、というより、これは武者小路一流の、まー、やはり「わがまま」っぽい部分かも知れませんが、わりと「その時俺はこう思ったんだ」だけで、何でもぐいぐい押し切っていくような気が、しません? タイトルの付け方なんかにしても、武者小路氏は今回のものなんかが典型という気がするのですが、『人間萬歳』なんて、凄すぎません? 『365歩のマーチ』みたいな感じ、しません? ここまでいっちゃうと、「素朴」というより、何かやはり「わがまま」っぽいものを感じるのは私の偏見でしょうか。(そうかも知れません。) さて、冒頭『愛慾』から読んでいきましたが、えー、まー、これはいろんなところでいろんな人が同様のことをおっしゃっていますから、別に私のとんでもない読み違いではないと思いますが、なんともまー、「タルい」科白のやりとりです。 こんな会話って存在するんだろうか、この時代にはこんなしゃべり方があったのだろうか、と思わせるような、およそリアリズムを感じさせない硬直した感じのやりとりです。 そのうちこなれてくるのかな、あるいはこちらが慣れてくるのかな、と思いながら読んでいても、最後までこの会話のリアリティについては、違和感が残ったままに終わります。 で、読み終えて気が付くんですね。 この筆者は、そんな科白のリアリティなんかこの作品では追求していないのだ、と。 確かに、以前武者小路の『その妹』を読んだ時は、筆者に似合わない(と勝手に私が思っているだけですが)切れ味のいいドラマツルギーと迫力を感じて、「この作家はこんなお話も作るんだー」と、少し感心しました。 でも、「迫力」というなら、今回の作品にもそれは大いにあります。 しかし、それは最後に述べたいと思います。その前に、なんとも評価のしづらい部分に触れておきたいと思います。 今述べましたように、今回の作品にはほとんどドラマティックな仕掛けがありません。その代わりあるのは「説教」と「苦悩の表白」であります。 レーゼ・ドラマというものがありますが、ほぼそれに近いような感じがします。 この作品で筆者は、自らの美意識に基づく人間の行動倫理についてひたすら説いています。そしてその中に「美」が宿っていると理解しているように見えます。 しかしわたくし思うのですが、それは結局小説とか戯曲とかいったものの「美」ではないのではないでしょうか、と。 いえ、特に小説というのは、何をどう表現してもいいジャンルのものですからそういった作品の存在ももちろん考えられましょうが、ただそこには、主張の素晴らしさはあっても、表現されたものそのものからは「美」は表出してこないのではないでしょうか。 だから、申し訳ないながら、私は本作は、作品としては「痩せている」と感じました。 にもかかわらず、武者小路作品には、読み終えてむしろしばらくしてからふと、「安心感」の様なものを感じさせるものがある気がします。 今回も特に『人間萬歳』なんかは、読み終えてすぐは、なんか馬鹿馬鹿しいような印象を持ってしまうのですが、しかし、内容をぼんやりと振り返っていくと、まるで古い大木の根っこの所に寄りかかって微睡んでいるような、ほっとする思いがあります。 なるほど、かつてこんな風に考える作家がいたのだな、という軽い驚き。 現在では、こんな「雑ぱく」な論理ではあれこれ凌ぎきれないだろうけれど、しかしこの底の抜けたような理想主義は、やはりどこか人を和ませる、という思い。 確かに、間違いなくここには存在感があります。ちょうど、眼の前の様々な自然が、間違いなく存在しているように。 武者小路実篤作品は、一種青春期の文学のようにいわれることがありますが(この理想主義がそう思わせるんでしょうね。「理想主義的な青春」。でも若い頃には、こんな理想主義はちょっと鼻について、馬鹿にしてしまうような気がするんですけれども)、むしろ年を取ってくるほどに、懐かしさと共に肌に蘇ってくるような気が、特に最近、私はいたします。 いえ、優れた文学とは、本来そういったものであるのでしょうが。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.10.15
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『夏の終わり』瀬戸内晴美(新潮文庫) 筆者が実際に体験したことを作品として描くというのが、一応「私小説」の定義なんですかね。 「私小説」というのは、ほとんど近代日本文学史と重なり合うように発生し成長し、そして時代によって毀誉褒貶を受けてきた「文学流派」(こういうのも「流派」っていうのでしょうか。流派とはちょっと違う気もしますが)であります。 少し前までは、かなり「私小説」の旗色が悪かったような気がします。(その前はまた大量リードみたいな展開だったんですけれどね。) あの頃はいろんな人が私小説の「悪口」を言っていましたから。例えば、小林秀雄とか、中村光夫とか、えーっと、他にもまだいっぱいいたように思います。 でも、最近はちょっと、巻き返しの時期に入っているんですかね。(こういうのって、振り子のように大きく右へ左へと振れていくんですよね。) どう巻き返しているかというと、それは、私小説のどこが悪いのだという「居直り」っぽい主張であります。 そもそも近代日本文学史上の作品なんて、私小説と銘打っていなくても私小説だらけじゃないか、漱石の『道草』をみよ、谷崎潤一郎の『痴人の愛』をみよ、ということですね。 さらに、本当は日本文学だけではない、外国文学でも私小説は探せばすぐに出てくるじゃないかという「居直り」であります。 なるほど、そんな風に言われれば、全くその通りな気がします。 作家個人の体験を描くことを全くの禁じ手にしてしまって、ことごとく想像力だけで書くなんて事は、かなり困難なことでありましょうから。 さて、私がなぜ「私小説」に冒頭からこだわったかと言いますと、今回報告する作品が、瀬戸内寂聴氏が「晴美」だった頃の、めちゃめちゃな体験を描いた「私小説」といわれている作品だからであります。 どんな体験かというと、こんな男女関係の体験であります。 すでに八年もつづいてきた知子と、慎吾と、慎吾の妻との関係は、放っておけばこのまま永遠につづきそうにみえた。最初から、妻と知子がお互いの存在を黙認しあっての妥協の上になりたった関係が、最初は誰の我慢や犠牲で成立したものやら、もはや探し出しようもないほど歳月の埃にまみれていた。正常な感じやすい神経や感情は、鈍磨されて、救いようがない膠着状態に陥っていた。 その上、知子の側に、凉太という、昔の恋人の出現があり、いっそう複雑によれからんだ異様な関係は、知子の心身を惑乱させ、疲労させつくした。 今回取り上げた文庫本は、5つの短編小説が入っているのですが、そのうちの4つは主人公「知子」をはじめ登場人物名や設定も同じ連作になっています。だから時々上記のような「前回のあらすじ」っぽい部分があったりするんですね。 しかし、本文にも書かれているように、全く「異様な関係」でありますよねー。 さらに知子の男性関係をもう少し遡ると、そもそも知子は夫と幼い娘のいる状況で、まず凉太の元に走るわけですね。しかしその後凉太とも別れ、今度は妻子ある慎吾と関係を持ち始めるという第一ラウンドがこの前にあったりします。 えー、これって、やはりかなりな「強者」ですよね。 たぶん女性作家の私生活の中では、おそらく上位に(なんの「上位」?)位置するんじゃないでしょうか。というより、こんな生き方をしていた女性作家って、私は他に知らないんですが。(岡本かの子という人が、ひょっとしたら近いのかなと少し思います。後、宇野千代とか林芙美子なんかは、だいぶ違うのかな。) でそれを踏まえ、さて作品報告というところで、私ははたと立ち止まってしまい、そしてそもそも「私小説」とは、という冒頭の問いかけになったわけであります。 私も今まで徳田秋声とか志賀直哉とか、少しは私小説に親しんできたつもりでいたのですが、私小説について考える時に、「えーと、でもこれは本当にあったことだろうからぁ」とはあまり思わなかったんですね。 ところが本作の時は、なぜかそんな事がちらちらと頭の中に出てきたりします。これって、何なんでしょうか。 そもそもここに描かれている男女関係の異様さというものは、ちょっと冷静に考えてみると、だらしがないといえば、とんでもなくだらしがないものであります。(文学とは、そもそも、まー、こんな「だらしない」ものの味方ではありますけれど。) ただ、そんなだらしのなさを、筆者は主人公の恋人である慎吾にはずっと書き込んでいないんですね。 ところが、知子が別れる本当の決意をした時、いきなり慎吾はだらしなく、底の浅い男になってしまいます。作品で言いますと『みれん』の終盤です。 ここから、この男女関係の異様さと、そしてやはりそこに存在していた魅力のようなものは急速に薄らいでいき、そしてそのかわり男と女の別れの哀愁が漂い始めると、今回私は読んだのですが、どうでしょうか。 前述しましたように、文学は、だらしなさに対しても充分それを認め、すくい取ってくれるものだと私は考えます。 私はこの作品世界の男女関係を「異様」で「だらしない」と見ますが、そのことだけなら特に気になるものではありません。 つまり、そのだらしなさが一種「文学的誠実さ」に抵触するんじゃないかと感じたことが、そもそも私小説とはという冒頭になり、「えーと、でもこれは本当にあったことだろうからぁ」という私の迷いになったんだと思います。 なるほど、「私小説」を書くというのは、事実であればそれでよいというものではなく、やはりけっこう難しいものでありますね。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.10.12
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『不意の声』河野多恵子(講談社文芸文庫) 冒頭早々ですが、えー、何といいますか、世の中には不思議な感心の仕方をしてしまう小説というものが、やはりあるものですねー。 もちろん、今回報告する小説がそうだと言っているわけですがー。 「感動」といってしまうのとは少し違う気がしますが、いえ、読み終えて「ふーむ」と考えこんでしまうというか、そんなふうにしばらくじっと考えていると、やはり私は感動しているのかなと、ヘンな考え込み方をしてしまうような小説です。 更に私が考え込んでしまったのは、こんな小説が、今を去ること40年近くも前にひっそりと書かれていたと言うことで、いえ、「ひっそり」というのは私が世間のことをほとんど知らないゆえの極めて主観色の強い感想でありまして、正確な表現ではありません。 正確に申しますと、この作品は発表された時、文壇で一定の(大いに?)話題となり、そして読売文学賞を受賞しています。 ですよねー。さもありなんと思いますよねー。 こんなハイ・レベルの小説が発表されて、それが話題にもならなかったとしたら、それはどれほど高いレベルの文壇なのか(つまりこの程度の小説なら普段たくさん目にしているから話題にするまでもないという状況でしょうから)、と思いますものねー。 (でも、もしもそんな文芸界の状況なら、それは想像するだにわくわくするような凄い「文芸復興」ですよね。) ともあれ、とても不思議な感覚で、そして心の深いところからざわざわと迫ってくるような小説であります。 私は、河野多恵子の小説については、むかーし、『幼児狩り・蟹』という芥川賞受賞作を含んだ新潮文庫の短編集を読んだ記憶があるのですが、いかんせん大昔でありまして、内容はほぼ忘れております。 その後、大学で谷崎潤一郎を調べていた時に(これも後になって、結構話題となった評論だと知ったのですが)、『谷崎文学と肯定の欲望』という筆者の長編評論を読みました。 しかし、これも内容はほぼ完璧に忘れています。(全く何の役にも立たない頭ですねー、わたくしの頭って。) そして今回本書を読んで、戸惑うような「感動・感心」状況にいるわけですが、この「感動・感心」状況をもたらした一番の根本といえば、それはすぐに思い至ります。 「文体」であります。 実際、読んでいてこれだけまろやかな、心地よさを感じさせる文章が書ける作家は、不遜な言い方ですが、現役の現代作家にはいないんじゃないでしょうか。(いえ、河野氏自身がご高齢とはいえ、現役の作家でいらっしゃいますが。) かつて私が読んでいて近い印象を持った作家を思い出すならば、野上弥生子あたりはどうでしょうか。『秀吉と利休』なんてそんな感じのまろやかな心地よい文体ではなかったかと記憶するんですが。 短い部分だけを抜き出しての紹介はかなり難しいのですが、例えばこんな感じの書き込み方です。 吁希子は、押し入れの襖を明けた。膝を突いて、仏壇の扉を左右に開く。母が台所のほうへ立ち去った。彼女は灯明は点もさなくても済むなと思う。下の戸を引き、線香を二本摘まんでマッチを擦った。焔が振り消されて煙に変った線香を立てると、彼女は坐り直して、威勢よく鉦を鳴らした。が、一瞬掌を合わせて瞑目しただけだった。今日は碌に位牌の戒名さえ読まず、彼女は掌をおろした。日当りのいい庭を眺め、母の戻ってきた気配に、もう一度鉦を鳴らすと、部屋の隅の座蒲団を二枚引き出して、卓子の前の二方へ置く。「久しぶりで、お父さんも喜んでいらっしゃるでしょうよ」 入ってきて、母は言った。「喜んでいらっしゃると思うわ」 どうですか。掌の上にあるものを観察しているような緻密な書きぶりでいて、かつとても自然なそして滑らかな進み具合ですよね。なんか、お茶の作法のような文体であります。 この文体の力が圧倒的に大きいですよね。 そして、この文体が紡ぎ出している物語なのですが、これが、まー、何とも言い難い傑出した独創性を、驚きと共に我々に与えつつ、展開していきます。 ひとつひとつの場面を取り上げていくときりがないんですが、ただ後半のなんとも「シュール」な展開になっても、上述した「文体」が、全くぶれることなく屹立しているのが見事であります。 我々はともすれば、実験小説には実験小説の文体が、シュール・レアリスムにはシュール・レアリスムの文体があるかのごとくに思いますが、本当に「堅牢」なリアリズムの文体というものは、いかなる物語の展開をも十分に支えきるのだと言うことを、私は、今回の読書で大いに学んだ次第であります。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.10.08
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『ぽろぽろ』田中小実昌(中公文庫) 7つのお話が入っている短編集なんですが、冒頭に総題にもなっている『ぽろぽろ』という短編が入っています。 この短編だけが、主人公が旧制中学校4年生なんですね。 後の短編はことごとく、主人公は二十歳か二十一歳あたりで、昭和二十年から二十一年くらいの中国大陸を、軍隊の初年兵として過ごした過酷な話になっています。 トータルで見ますと、この構成は実によく作られたもので、特に一作だけ作品内容が異なっておりながら、そのテーマとなるものがこの短編集の芯になっていることは、感心するばかりであります。 とにかく、開巻一番に読み始める『ぽろぽろ』という小説の密度が異常なまでに高いです。異様な感じがします。 文章はむしろ稚拙。いえ、稚拙感を漂わせながら実はかなり計算的かとも思うのですが、何といいますか不思議というのか、はっきり言うと、少し気味が悪いです。 この不思議な感覚の文章は全編にわたっていまして、私が思い出す近い感覚の文体といえば、深沢七郎の文章かな、と。でも深沢七郎の方が、もう少し上手な感じにされてあったかな、と。 例えばこんな感じなんですね。 南京から上海へは列車できたのだろう。だが、この列車のことは、ぜんぜんおぼえていない。たぶん南京のどこかで列車にのったときのこと、列車のなかでのこと、たぶん上海のどこかで列車をおりたときのことなど、まるっきりおぼえていない。 これはきみょうなことだが、とくべつなことではなく、よくあることだ。よくあることなので、じつは、きみょうだともおもえる。 どうですか。なんか少しヘンでしょ。私が少しヘンだと思うのは、二つの点なんですがね。 一つはまず、書かれている内容がよく読めば少しヘンじゃないですか。書かれてあることに論理性が全くありません。 いえ、論理性のないところがこの文の、さらに強いて言えば、論理性を突き抜けたところにこそこの小説の美点が宿っているのだ、と言えないわけではないでしょうが、でもそう言った好意的なスタンスに立たなければ、ただの「与太話」と感じても仕方がないんじゃないか、と。 (もっとも、日本文学には、そう言った「好意的なスタンス」に立って読むのが前提となっている小説は、溢れかえっているのですが。) もう一つ、私がなんか「気味の悪い感じ」を持つのは、上記引用個所の漢字とひらがなのバランスなんですね。 この個所は、二つの形式段落(行替えが中に一つと言うことですね)から成り立っていますが、二つ目の形式段落には漢字が一文字もありません。まさか、たまたまって事はないですよね。 さて、上記にも書きましたように、この短編集には7つの小説が含まれているのですが、後半の小説になっていくほどに、実は「メタ」っぽい個所が出てきまして、描いている小説についてのエクスキューズがどんどん増えていきます。こんな感じです。 それとおなじように、ぼくは、大尾を物語にした。また、くりかえすが、大尾は大尾だ。その大尾を物語にすると、大尾は消えてしまう。あるいは、似て非なるものになる。 ほんとの大尾が消える、などとも言うまい。ほんと、なんて言葉もまぎらわしい。戦争の悲劇とか、戦争の被害者だとか、そんな言葉は、ぼくはつかったことはないが、そういう言葉をつかうのとおなじことを、ぼくはしゃべってきた。 引用したのは『大尾のこと』という7篇中の最後の小説ですが、この小説などは、ほぼ半分ほどがこういった小説の方法論についての記述になっています。 どうなんでしょうか。 「筋のない小説」については、近代日本文学は一種「お家芸」みたいなところがあって、有名な谷崎と芥川の論争をはじめ、「私小説」系列作家の中には、「物語」は文学的価値の一段低い物だという考え方は連綿としてあり、志賀直哉なんかははっきり「嘘は書けない」なんて書いていますね。 その一つの究極の方法論が、今回の小説の筆者の方法論であるのでしょうか。 このこだわりは、保坂和志などにも受け継がれているように思え、私としては、だから面白くないなんて気持ちは決して持ってはいないのですが。 ただ私が少し気になるのは、なぜそう言うことを作品内に書くのかと言うことで、いや、それこそが新しい形なのだという気も一方ではしつつ、例えば、徳田秋声などの作品には徹底的な客観描写が描かれながら、それについてのエクスキューズなどまったくなかったぞ、と。 無かったからこそ、我々はその描かれた世界の構築性に、一種の感動を覚えたのではなかったか、と。 うーん、この辺になると、「好み」みたいな感じになってくるのでしょうか。 『ぽろぽろ』の持つ異常に高い緊張感については、私は大いに圧倒されたのではありますが、後の作品になっていくに従って、少し、好みの違いが出てきた感じがしたのは、少し、残念でありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.10.05
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『枯れ葉の中の青い炎』辻原登(新潮文庫) ネウリ部落のシャクに憑きものがしたといふ評判である。色々なものが此の男にのり移るのださうだ。鷹だの狼だのの霊が哀れなシャクにのり移つて、不思議な言葉を吐かせるといふことである。 こんな文章で始まる短編小説を書いたのは中島敦で、タイトルは『狐憑』といいます。「狐つき」のことですね。 原始時代の話、憑きもののしたシャクは次々と譫言のように物語を語り続け、それを彼の部落の若者たちが聞きたがるようになっていきます。ところが老人達、つまり村の中心人物達はその事がどうも気にくわない……、と話は進んでいきます。そして、作品の結語は、 ホメロスと呼ばれた盲人のマエオニデェスが、あの美しい歌どもを唱え出すよりずつと以前に、斯うして一人の詩人が喰はれて了つたことを、誰も知らない。と結ばれています。これは、物語の魔に取り憑かれた男の話であります。 さて、今回報告する小説ですが、辻原登という作家の作品で、私、この度初めて読みました。 いやー、まだまだ私の知らない、凄いお話を紡ぎ出す方がいらっしゃるものですねー。びっくりしました。 新潮文庫の裏表紙に内容紹介の文章が載っていますが、そこに「小説の愉しみを存分に味わえる」と書かれてあるのですが、本文を読む前に私はこれを読んで、失礼ながらあまり信用しなかったんですね。今までよく似た文言をいろんな紹介文なんかで読み、そして期待して本文を読んでがっかりした経験がとても多かったからです。 そもそも短編集の総題の『枯れ葉の中の青い炎』というタイトルからして、何も知らなければ、なんか心境小説を延々と書き続けてきたこの道50年の老作家の、今回もまた老境の日々を淡々と描いた作品、みたいな感じ、しませんか? ところが、これがぜんっぜんっ! 全然違うんですねー。びっくりするんですねー。 何気なさそうな新聞記事の紹介から始まって、プロ野球の今は無き球団トンボ・ユニオンズの話に進み、そこから往年の名投手スタルヒンの話と若い同僚選手相沢進の話に移動したかと思えば、ゴーゴリが出てくるわチェーホフが出てくるわ、そしてさらには南洋諸島にいる中島敦の話しに飛んでいく、そしてそしてその上……と、驚くべき連想力とそれを支える筆力とで、読者をぐいぐいと引っ張り回し振り回し仰け反らせはらはらとさせ、徹底的に凝りに凝ったストーリーで、まさに「小説の愉しみを存分に味わえる」作品となっています。 この短編集には6つの話が収録されているんですが、そのうちの4つまでがこのタイプ、つまり「ジェットコースター小説」(今私が命名しました)であります。 しかし6作品のどれもとってもおもしろいので、じゃ私のランキングを作ってみようと思って順に挙げていくと、 『ザーサイの甕』→『水いらず』→…… と、おやっ? 私が「ジェットコースター小説」じゃないだろうと判断した残りの2作品が、我がランキングの上位に入ってしまいました。 上記に、抜群におもしろい「ジェットコースター小説」と自分で書いておきながらこうなってしまったのは、うーん、何故だろうかと考えたのですが、こんなのは微妙な好みの問題にすぎないとも思いつつ、あえてその理由を挙げてみますと、それはたぶん作品の終え方のせいかなと考え至りました。 つまり、結局の所短編小説の難しさとは、作品の幕の降ろし方の難しさではないかと私は考えるわけですね。 それが「奇談」になるのか、「人生の断面」になるのか、書き込みすぎてもいけないし書き足りないのもいけないという、まさに微妙な作品の着陸地点をどこに設定するかで、いわば作品の「高み」というものが決定されると考えるわけです。 だから結局、私のランキングの不思議は、「ジェットコースター小説」であるか否かとはあまり関係がないようにも思いますし、ただひょっとすれば、「ジェットコースター小説」は、往々にして書き込みすぎるきらいがありはしないかと、少々、そんな感じが致します。 しかしともあれ、この万華鏡のようにカラフルな小説を生み出していく作者の姿に、わたくしは、まさに冒頭にあげた中島敦の作品のように、 「ああここにも一人、物語を紡ぎ出す魔に取り憑かれた男がいる。」と、ゾクゾクしながら感じたのでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.10.01
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